2008年1月30日水曜日

東京乾電池 食卓秘法・溶ける魚

29/01/2008 ソワレ

2ヶ月ぶりの月末劇場、会社帰りにちょっと芝居を一本引っ掛けて帰った。
男優ばかりの三人芝居、それぞれに個性があって楽しめたのだが。

総じて、僕はきっと、竹内銃一郎さんの不条理劇は好みではないのではないか、という気がしてきた。「眠レ、巴里」もそうだったのだけれど、
「これは不条理ですよ」「不条理にはこうやって決着をつけるんですよ」
というのがちょっと見えすぎる気がして。もしかするとそれは演出の問題なのかもしれないけれど。

岸田戯曲にあっては、若手ならではの鉈で切ったような切り口のざらつきが、岸田戯曲ならではのはっとさせる細部と結びついて思わぬ拾い物をした気にさせてくれるし、別役戯曲にあっては、不条理戯曲の王道、落ちもへちまもあるものか、というところがさわやかな味わいである。

そういう意味で、竹内戯曲を、「うむ、これぞ、若手ならでは」というように見せるのは、チャレンジングではあるのだろう。でも、次回が別役戯曲だと思うとちょっと安心してしまうのも本当なのだ。

2008年1月28日月曜日

reset-N 繭

27/01/2008 マチネ

作・演出の挨拶にある「創作の現場として尋常でない状態」が何だったのかは知る由もないが、その結果として舞台に乗っかったものについては、それはそれで別物として扱う必要がある。

で、有体に言えばアリの巣に水が流れ込んでくるという話で、そういう遠い話を遠いまま、観客の視点、或いは役者の身体に引き寄せないまま見せても如何なものか、というのが率直な感想。

冒頭のテロのシーンで、実は9割方引いた。繭のイメージも、最後に向けて広がりを持たないだろうと感じさせて、正直、眠かった。
ベッタベタなモチーフをぶつけること自体をどうこう言いはしないが、「個」に執着したところから始めないと、個→普遍へのイメージの広がりがない、平板なものになってしまわないか?

2008年1月27日日曜日

去年のことを、いまさらのように

いまさらながら、去年のことを。すっかり忘れてしまわないうちに。

・最も印象に残った舞台
ベケットラジオ「カスカンド」
岡田演出と松井・増田変態コンビが生み出したまさに稀有な体験。

・最もキュンときた女優
「シェイクスピア・ソナタ」の伊藤蘭さん。
ラスト近く、不倫相手と二人で行った食べ物屋のことを語るシーンは、ほんと、切なかった。

他にも素晴らしい芝居を沢山観たし、がっかりすることもそれ以上にあった。所詮、一観客の好みでしかないのだけれど。何にせよ、「場を共有する」悦びは、何ものにもかえがたい。それが、クリエイティビティと想像力に溢れていればなおよし。

芝居小屋に年間210回くらい足を運んだ。これは、もう二度と僕には起こらないことだろうから、今のうちに自慢しときます。年間200本以上観ている人は、エラい。かなりムリして観ないと出来ません。
そういうことが分かりました。

だから、芝居を沢山観てる人には、敬意を払います。でも、だからといって、良い芝居をかぎ分ける嗅覚が発達するかといえば、必ずしもそうではない。僕は嗅覚発達しませんでした。むしろ自分に合わない芝居との出会いが増えた気がする。

「自分の好みがより明らかになった」とは言えるけれど。

今年も、すばらしい芝居との出会いを楽しみにしています。

隣にいても一人(盛岡・三重・熊本)

26/01/2008 終日

青年団「隣にいても一人」8バージョン連続公演、見事に完走(自分に拍手)。
今日も思いっきり涙と鼻水を流させていただきました。ハンカチを手から離してはいけません。

三重篇では、姉妹の距離の際立った近さと、兄弟側との距離の置き方に目を奪われる。
かつ、昇平(弟)があんなに困った状況に置かれているはずなのにもかかわらず、全く困った顔に見えない姿に感服。彼が声を荒げる場面も、普通に考 えたら荒げないようなところで、しかも「サタデーナイトフィーバー」のポーズ決めて、となると、もう、たまらん。ノックアウトされた。

盛岡篇は、芸達者が揃っている中で、高橋縁の演技があんまり面白くって、涙が流れっぱなしだった。ギャグで笑ったとか、そういうことではないんだ よなぁ。あの、独特の、間のとり方、というか、「間」で勝負する気がないのに、そこだけ高橋の時間が流れていて、それに身を任せる幸せ、というか。なん だったんだろう。実はアンサンブルの勝利だったのだろうか?

熊本篇、史上最情けない昇平(弟)との前評判だったが、それにたがわぬ情けなさに目を見張る。熊本弁には田上パルの芝居で慣れ親しんでいる部分もあり、何だか親近感あり。

ということで、今日もお腹一杯堪能した次第。幸せである。こういう企画が、もし、東京でなくて、例えば、広島や、静岡や、青森で開かれたなら、 (例えば、盛岡に熊本版が呼ばれたり、熊本に関西版を呼んだり)、東京の芝居ファンが喜んで飛んで行くんだろう、という夢を見てしまった、そういう企画で した。

2008年1月26日土曜日

投げられやす~い石

25/01/2008 ソワレ

岩井氏が大変なことになっていた。
もうそろそろ千秋楽開演だから、この日記を読んでから小屋に向かう人もいなかろう。話の筋も含めてネタバレします。

岩井芝居は、僕的に名づけるとすれば、「一人称自虐芝居」。昔彼自身が、「自分のことしか書けない」と言っていたけれど、まさにその通りである。自分の分身を舞台に載せて、終始その視点で芝居を動かしていく。
で、ハイバイの芝居はそこに乾いた笑いをまぶして舞台に載せてみせるのだけれど、その笑いを排除したらどうなるか。笑えない自分を抽出してしまったらどうなるか。

難病にかかって髪の毛ダンダラに禿げて、顔色悪くて格好は汚くて行方不明中の元天才アーティスト(岩井、本当にバリカンでダンダラに髪を刈っていた!)が、絵描き仲間で絵を描かなくなった親友と元彼女(今はその親友の妻)に、
お前らは一体何なんだ
と、ド詰めを食らわしてその場で死ぬ話。

ベッタベタのありきたりの話で、そのままやられたら本来観ていて怒っちゃうような話なんだが、岩井秀人から目が離せず。

こういう話は、「学生時代芝居やってました」みたいな人間には本来ストレートすぎるんだが、実は、話のひねりは、
・ このアーティスト岩井は、行方不明になった2年前に死んでいたのかもしれない(幽霊話)
・ 実は実は、この話は、その親友だった男(山中隆二郎)の、絵描きから足を洗った後ろめたさによる妄想なのかもしれない(妄想オチ)
・ 実は実は実は、この話は、その妻(内田慈)の、才能を二つ殺してしまったかもしれないという後ろめたさによる妄想なのかもしれない(カラオケで喝采を歌っていた時にふとよぎった妄想オチ)
とも観れるところにある。

岩井一人称の「分身」役は、実は、山中演じるところの山田なのだ。その山田(岩井の分身)の後ろめたさを、岩井自身はダンダラ禿げに扮して徹底的に詰めまくる、その自虐の構造に鬼気迫るものがあって、目が離せなかったのだ。

きっとこの芝居を観て、「ぐぇーっ、ク、クラかったー。ぜんぜん笑えねーし。」と思ってドーンと沈んで帰るお客さん多かったはず。でも岩井氏本人はそれで良いと思っているんだろう。僕としては、何でこんな芝居を書く気になったのか、その動機付けが気になるところだ。

2008年1月25日金曜日

隣にいても一人 関西篇

24/01/2008 ソワレ

全員を青年団現役でそろえた関西篇は、もともと関西での公演はなかったと思う。英語版と同じく、何故東京でやるのかについて、その理由に謎を残す舞台である。

まぁ、そんなことはどうでもよくて、芝居の方はさすがに達者な役者揃えて、二反田幸平の弟役も十分情けなく、楽しんだ。

一番感じたのは、平田戯曲が東京言葉の芝居に出来ている、ということ。
関西弁のリズムに乗ってぼけ・ツッコミが螺旋を描いて上り詰めていく、のかなぁ、と思うと、ひゅうぅぅとしぼむ。或いは、気まずい間があって、次の話題に進む。或いは性急に盛り上がる。

このギャップが、面白いといえば面白い。役者は苦しかったかもしれない(それでも作りきってしまうのが青年団の役者の力なのだろうけれど)。
関西のノリに身を任せて全篇作っていたら一体どんな現代口語関西弁演劇になっていたのだろうか? 実はただの吉本新喜劇なのかもしれない。一体、 僕が関西のノリとして感じているものは、本当にリアルに存在しているのか?そこにズレはあるのか?それをリアルに体現している芝居はあるのか?
疑問は尽きない。

2008年1月23日水曜日

青年団 隣にいても一人(英語リーディング)

22/01/2008 ソワレ

日本人による翻訳、日本人による演出、日本人によるリーディング、舞台は日本、言葉は英語。何たる暴挙、と書いたが、いざ初日となると、どうなることか、どんどん心配になる。
客席もかなり埋まり、しかもネイティブスピーカーが少なくとも4割はいたと思う。
正直、びびりました。久し振りに、自分の自尊心があからさまに脅かされるのを感じた。

幕が開いて、客席も自分も、何となく落ち着かないものを感じる。セトルインするのに時間がかかっている感じだ。
シーンが進むに従って、しかし、自分がどんどん引き込まれるのがわかる。客席の集中も増していった(と思う)。
この「英語リーディング」に対する自信・信頼が増していくのも自覚できる。これは成功している(手前味噌だが)。平田がなぜこの試みをこの「隣祭り」の中に組み込んだのか、どこに勝機を見出したのかは今もって分からないが、彼の読みが当たっていたことは確かだ。

終演後、今回の試みの狙いの「焦点」がどこにあるのかを訊かれたのだが、正直言って、僕は正解を持ち合わせていなかった(誰かオリザに聞いてください)。言えることは、アフタートークでも言ったのだけれど、
もし日本が沈没して、自分たちがどこかの大陸にexileのステータスで移民するとしたら、きっと、こんな芝居をもって、英語で公演しながら旅を していくのではないか。だから、ここで話されている英語は、祖国を失った、あるいは移民した日本人が、「日本人らしさ」を保ちながら話す英語なのではない か。
逆に言うと、「隣にいても一人」は、元々がそうやって持っていける芝居だった、ということである。

つたない翻訳をすばらしい舞台に仕上げた演出・出演者に感謝。彼らと仕事が出来たことが誇らしい。また、もちろん、娘・妻にも大感謝。

明日(24日)のお昼、3時半からもやってます。みなさま、お見逃しなきよう。

2008年1月21日月曜日

Oh, Paxo!

Paxo、やってくれました。

http://lifeandhealth.guardian.co.uk/fashion/story/0,,2244273,00.html

相手に事欠いてM&Sのパンツと靴下にド詰めを食らわせるとは、さすが大物。
しかし、それに応えて、パンツ持参でランチにやってくるM&Sの社長もなかなかどうして大したもんである。

しかし、あっしも在英中はM&Sの下着・靴下に非常にお世話になったもんですが、Paxoが気にかけている「サポート不足」っちゃ一体なんやろね?
気になる。

こうなったら、NewsnightにM&Sの社長呼んで、ライブでパンツ談義食らわしてほしいものである。もちろん、スーツ姿だけどデスクの下はズボンなし、愛用のM&Sパンツ姿で対談してほしい。
パンツのゴムは緩んでも、Paxoは追求の手を緩めませんでしたとさ、みたいな感じで。

青年団 隣にいても一人(帯広・青森・広島)

20/01/2008

青年団の「隣にいても一人」全国七都市バージョン+英語リーディングのうち、帯広・青森・広島の3バージョン。

帯広版ののっけから、あぁ、こんな台詞を英語にしようとしていたんだな、こういうことだったんだな、と、一言一言がかみしめられて、かつ、それが俳優の力で舞台を成立させていることに、うるうるしてしまう。今更ながらなんだけれども。
帯広版の兄役は僕の尊敬する龍昇さんで、それだけでも一見に値するのだけれど、帯広演研の役者陣もしっとりと、低域の倍音を響かせて素敵だった。

青森版は、予想通りというか何と言おうか、畑澤聖吾大暴れ。本当にサービス精神旺盛な演技だったのだけれど、でも、本当にのびのび演技していたの は工藤倫子で、彼女の表情を追うだけでも充分面白い。もちろん森内・小寺もしっかと畑澤が繰り出す大技を受け止めて、重量感のある「ヘヴィ・メタル」な1 時間だった。

広島版は若い役者で揃えて、湿度の低い、カラッとした演技で見せた。どう見ても兄31歳、弟27歳、姉28歳、妹21歳、って感じだよ。これじゃ 岡崎由紀の奥様は18歳だよ。あるいは、石立鉄男だよ。自分でバンバンしちゃうよ。って感じで、実は、僕が考えていた「隣にいても一人」の舞台の温度・湿 度は、これくらいだったような気がする。英訳も、少なくとも当初はそんな具合になっていたと思う。

もとは同じ戯曲を、異なるアレンジ、異なる方言で楽しむのは、まるで今流行りのトリビュートものコンピアルバムを聴いているようで、贅沢な気分で ある。しかも、殆どの台詞に自分のニュアンスを植えつけて理解しているので、色んなおもいがぞろぞろと入りこんでくる。恥ずかしい話だが、笑いと涙と鼻水 でハンカチがぐしょぐしょになってしまった。

が、実は贅沢とか言っていられなくて、明日は英語版リーディングの初日だ。緊張してきた。自分が出演するわけでもないのに。

2008年1月20日日曜日

三条会 メディアモノガタリ

19/01/2008 マチネ

芝居を観る時には、特に、初見でない劇団の芝居を観る時には、予め、何かしら身構える。観るときの自分のモードを予め決めてしまうのは、つまりは、らくーにして白紙の状態で観られないので、どっか損してるのかもしれないが、まぁ、しょうがない。

で、三条会を観る時には、1時間強、かなり強引めのノリで引っ張っていかれる覚悟を決めておくようにしている。Achilles Last Standが1時間続くとか、そういう感じである。丁度良い喩えがないのだけれど、ヘヴィ・メタルなんである。泣きのギターは入らないし、思わぬところで 変化球投げてくるので、ジャンルとしてのヘビメタとは違う。70年代のマイルスのほうが近い。

僕は「メディア」のもとの物語を知らないので、そこについては予見なし。

クレオンを刺すメディアの顔は、ブルースリーのように切なく照れ臭い笑みを浮かべる。
あぁ、このB級感漂う表情は、大それたことをしてしまうものと、その大それたことをアタシがやっちゃっていいの?というちょっと恥じらいのある醒めた視線が交錯した結果か?
舞台奥には、岩井秀人「ベルンガ星人をやっつけろ」で発見された「演劇の神様」がいる。こんなところにも神様はいるんだ、と思って、ちょっと嬉しい(後で当日パンフを読んだら、三条会では"TIMER"と呼ばれていた。神様と呼べばいいのに。ギリシャ悲劇なんだから)。

舞台の上では、メディアという、かなり大それたことをしちゃう人と、その自分を見ている感じと、それを演じる感じ、演じさせるフレームワーク、その4つがミルフィーユのように層を成している。

(以下、ネタバレだが、公演終わっているので、書いちゃいます)

と思っていたら、3分間の休憩。休憩中に聞こえるこのMCは、ひょっとして、「山口百恵」では?(これも事前に当パンで種明かしされていたのだけれど)
休憩が終わると、メディアによる虐殺のくだりが、山口百恵ヒットソングメドレーの圧倒的なグルーブにのって迫ってくるのだった。

そういえば、山口百恵も、その結婚・引退はかなり大それた話で、その大それたことも自分だから出来ちゃうのよ、みたいな自覚に乗っかって、ベタベ タなMCも自分だから許されるのよ、と大見得切っておいて、これでもかとヒット曲を歌ってみせているではないか。それに僕らは参っちゃうじゃないか。

わが身を省みず、省みてもその鏡に映る自分の姿を脳内変換してしまって、自分には大それたことをしても許されるスーパーオールマイティーパワーが与えられているのだ!!と勘違いしてしまう瞬間があるものだ。

それが山口百恵であれば伝説・名声となり、
メディアであれば悲劇となり、
大内内蔵助であれば忠臣蔵となる。
僕がやったらただの恥ずかしい勘違い男である。
主演の大川潤子さんも、スズナリの外であれをやったらただの変な人でしかない。
(中でやってもかなり変だったけれど)

そういう、ちょっと恥ずかしいエンターテイメントを、心の中でチラッと「あ、はずかし!」と思いながらそこに引っ掛からないようなスピード感で 引っ張っていってくれる三条会の舞台は心地よい。難しいことを考えるのはずーっと後のことで、劇場にいる間はひたすらエンターテイニングである。近代能楽 集も、三条会にかかると面白くなってしまうかもしれない、と

2008年1月15日火曜日

こゆび侍 ドン・キホーテの恋人

14/01/2008 ソワレ

女子校の制服を着た女性が、「10年間ずっとあなたを想い続けていた」というので、てっきり、
「中学か高校の頃に好きになった人を10年間想い続けて、20台半ばになってもまだその頃の格好でいるんです」
な話かと思っってしまった。全然違った。幼稚園・小学校低学年の頃から想い続けて10年、だった。
後半、残り10分くらいになるまでそこに気がつかず、話の展開を読み違えていた。何とも、思い込みというか先入観というものは怖いもんである。

廣瀬友美さんは去年見た「風花水月」で割と台詞+(導入部進行役としての)負担が多い若干損な役回りで奮闘していたのを覚えていたが、今回もまた 物語を引っ張る引っ張る、引っ張っておいて最後のオチはここかい、というそのオチは、ベタといえばベタ、しかし、厭味なく、「ああ、これを見せたいが為の 1時間15分だったのか」と思うと妙に合点がいく芝居だった。

すると、あとは①巧拙と、②「とことん個に拘って、つまり、個人の、すっごく個別の一瞬に拘って、その上で、それを見せるためだけに、残りの全て の時間はある、残りの全ての役者はいる」とまでやってみせた「個」の瞬間が、どこまで「普遍」へとジャンプし得るか、あるいは、ジャンプしたかのように観 客に思わせるか、という2点にかかってくると思う。

その意味で、初恋ネタは、一見普遍に近いようでいて、妙に合点がいってしまう分、逆にジャンプする引っ掛かりが見つけにくい。そんな訳で、合点が いって共感もできるけど、100点とは言えないという、いうなれば、Chasetown 1 - Cardiff 3 のChasetown、Chelsea 1 - QPR 0 のQPRを誉めるような誉め方しかできない、ということになる。ちょっと変な喩えだけど。

2008年1月14日月曜日

KAKUTA 目を見て嘘をつけ

13/01/2007 マチネ

初見。劇場に入ると、何だか「妙に見慣れた感じの」舞台が組んであって、当パン見たら案の定舞台美術横田修とある。横田氏、本当に何をやっても人柄が出るというか、なんというか、それだけでこのKAKUTAという劇団への親近感が芝居観る前から増してしまう。

客入れ時から役者が舞台にいて、普通の声で色々やっている。「現代口語演劇風」である。

開演すると、小屋が大きいからなのか、セットが大きいからなのか、そういう設定なのか、みんなもともと声がでかいからなのか、出だしから、役者の声が妙にみんな大きいのが気にかかる。客入れ時とで超えのボリュームにギャップがあるのだろうか、とも気になる。

僕の脳内には、「現代口語型ウェルメイド演劇」というかなり曖昧ですっごく幅の広い芝居のカテゴリーがある。そういう芝居を観ていると、
・ 「あぁ~、こんなことをやると、現代口語演劇の連中にダサいといわれるだろうなー。自分でもちょっとと思うし」というポイントを自分なりに理解し、
・ が、一方で、「現代口語演劇」の「リアルじゃなさ」「気持ち悪さ」を自覚した上で「リアルに仕上げる」、というところは避けているかそこに届いていないか、のどちらか。
という気がしてくる(この説明のしかたじゃ僕自身も理解できないか...)。

これは、「良し悪し」のメルクマールではない。「現代口語型ウェルメイド演劇」の中でもピンきりで、例えばグリングやポツドールを観ても同じことを考えたので、要は、そういう大所を含むすっごく広いカテゴリーである。

ちょっと長くなったけれど、KAKUTAもその範疇に入っていて、それは、例えば、声の大きさ+みんなでそばをすする時に客に背を向けない吉本流+事件が起こった時の役者の一斉フリーズ
というところで感じることである。
本当は、フリーズするしない、客に背を向けてそばをすするすすらない、の、すっごく小さくて細かいところで観たいのに、ウェルメイドな物語の構造の中に細部が絡めとられて、つるっとしてしまう。それが残念だ。
スッごく細かいところに突っ込むと、逆に、場面の数を絞らないと2時間や3時間で収まらなくなるので、畢竟1幕になりがちで、気がつくとただの青 年団になっちまうじゃないか、という危惧も分からなくはないけれど、でも、底に物語があれば、で、それを舞台に載せる力があれば、大丈夫なはずなのに なぁ、と思う。見た目は「ただの青年団」であっても、その背後のプロセスによって劇団・作者・役者の個性は十二分に保証されるとも思う。
(この芝居を観ていて、そういうことが起きるキャパシティのある集団なのだろうと思った、ということでもあります)

そんなことを考えながら観てました。

2008年1月13日日曜日

Sehkraft Train Coming

12/01/2008 ソワレ

1行で物語を括ると、自己完結型「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」演劇版。
谷川俊太郎は趣味じゃないけれど、構成・物語としてみるに耐えるものになりそうだったのに
(だから、2時間を超える芝居だったにも拘らず最後まで楽しんで観れたのに)、
喰い足りないまま終わってしまった。

7年間で100人やってきたところに、(つまり1年で14人、1ヶ月1人だな)急に1日に3人もやってきて、そのことに少しは驚けよ、
とか、
1日で傷が治るんだったら、死んだ人も蘇ったりしないのか、
とか、
色々細かい突っ込みは入れたくなるけれども、そういう余裕を持って見れたということは、逆に言うと、僕が芝居の構造とか役者の演技に怒ってなかったということである。

が、しかし、中盤のパス回しは何とか回っているのに、ゴール前になると途端に足がすくむフットボールのチームを観ている感じで、もっと直接に言うと、
なぜ、ここまで、「要所要所で」ダサくなってしまうのか。

「節目」になると思われるシーンで必ず抑えが利かなくなって泣きや叫びが入るのはちょっとなー。音楽の使い方ももっと考えたほうが良い。 Helplessがベタなのはしょうがないとしても、過去を振り返るシーンでScientistのイントロもどきのピアノは減点50。あと、「SF通奏低 音」の使いようとか。

坂手洋二さんは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」はベルリンの話だと看破した、と言っていたけれど、このSehkraftのバー ジョンからはベルリンぽい閉塞感は漂ってこない。むしろその閉塞感・蟄居感は、たとえばカーテンの柄のような些細なことに関する自分と世間の折り合いとい うことで、そこで蟄居してしまうと実はただの引きこもりなのだが、その「個別」をつきつめたところに「普遍」への突破口がきっとあるはずだったのだ。なん だかそこに到達しそうでしなかったところが、実は大いに不満だったのです。折角、ベルリンの壁崩壊以降の世界の終わりを垣間見るチャンスになりえたのに、 と。

2008年1月10日木曜日

青年団 火宅か修羅か(再観)

09/01/2008 ソワレ

年を越してから再度拝見。やはり良い。

志賀・荻野の父娘の会話の距離感に初日はジーンと来たのだが、休暇中さんざ娘と話してきて、割と満ち足りていたせいか、初日ほどのインパクトは感 じず。むしろ、妻娘合わせ技で相手する志賀さんのシーンにまたぐっと来る。いずれにせよ志賀さんに感情移入していたことは間違いなく、小生もとしをとっ た。

芝居がはねてから飲んでいて、半分だだ漏れモードで話していたのだけれど、今回のポセイドンを語るシーンは絶品である。その理由として、ひょっと すると、「同窓会組」側の出演者が、誰も、初演・再演の海神ポセイドン、及び、青年団史上最低の観客動員を記録したはずの海神を、知らないことにあるのか もしれないと思い始めた。

僕とて初演・再演のポセイドンを観たわけではないのだけれど、ただ、遠くへ槍を投じようと構えるポセイドンのイメージと、「まだ若かった」青年団 の雰囲気がどうしても重なってしまっていたのが、今回、そうした呪縛を感じさせない古屋氏の演技で、ポセイドンのコンセプトが前回以上にクリアーに顕われ ていると感じた。

もしかすると12年越しで平田演出がよりクリアーになったということなのかもしれないけれど、それはそれで、としをとるのも捨てたもんじゃない、ということだろう。いずれにせよ、ほぉーっと溜息が出る良い舞台だった。

2008年1月3日木曜日

ミュージカル メアリー・ポピンズ

02/01/2008 ソワレ

今年の観劇第一号は、ミュージカル。しかもメアリー・ポピンズ。しかも家族連れで。
ストールの周りの席も家族連れ満載である。もしくは観光客。
映画館と勘違いしたのかポップコーン食ってる父親もいる。

話の筋はみんな知ってるので特に触れない。
いきなり父親役の歌が弱い。バートも、何だかアメリカ人顔で、歌はとびきりではない(後で見たら、アメリカ人だった。でも、歌手だった...)。
どうなってしまうのであろうか。このミュージカル。

と思っていると、大理石の石像たちが踊りだしたりして、ちと怖い。コスチュームが妙にぴったりしていて、それにおそらくゴムかなんかで石っぽく飾りをしていて、見方を変えれば薄汚いぞ。が、妙に踊りがバレエというかモダンダンスというか。ミュージカルっぽくない!!
と思っているうちに第一幕お終い。
プログラムを見ると、振り付けマシューボーンで、
・ なんだ。これはミュージカルではなくて、マシューボーンのダンスに歌がついたものだったのか。
・ だから嫁さんが僕を誘ったわけだ。
と、今更のように合点がいった。

マシューボーンと割り切ったせいか、それとも後半のほうが出来が良いせいか、後半はスムーズに流れる。父親にもなかなかチャーミングな見せ場があ るし、アメリカ人バートも蜘蛛男逆落とし天井タップの荒業をみせる。もちろんメアリー・ポピンズは登場・退場ともに宙に吊られて直立不動で傘を差している のだけれど、あれで身体を動かさないでいられるのも大したものだ。

芝居がはねてから妙に娘が興奮していると思っていたら、父親役の俳優はLittle Britainの総理大臣役の人であることが判明。道理で客席のSebastianから黄色い声が(なんてわきゃないが)。

何でEwan McGregorのOthelloとか、Ian McKellenのリア王に行かずにメアリーポピンズか、という向きもあろうが、冬休み呆電中の小生にはぴったりのミュージカルだったと思う。マシュー ボーンぽい毒も効いているし、全神経を張り詰めてみることも無いし。

ロンドンに行ったらレミゼだのウィーウィルロックユーだのファントムもいいけど、メアリーポピンズはそれと較べても断然お勧めできるレベルだったと思う。残念ながらメアリーポピンズは1月12日でお終い。

あとお勧めのミュージカルは、リトルダンサー(Billy Elliott)でしょう。演出が変わってなければ、実は硬派な所もあって、すっごく良く出来てる話だということが分かる。映画もなけるがミュージカルも 泣いた。四季には一度も足を運んだことの無い小生だが、ロンドンの当たり(ベタ+毒つき)のミュージカルには正直脱帽である。

2008年1月2日水曜日

ただいま呆電中

昨年末からロンドンの家族のところにいる。割と長い休暇です。

休暇といえば、新年からの仕事に備えて充電期間ということになるのだろうが、
・ 仕事せず
・ 芝居観ず
・ 本読まず
を10日も続けていたのでは、これは充電とは言えず、むしろ、放電だ。
ウォークマンとかiPodとかを3週間くらい放置して電池を使い切る感じの、放電である。
ただ放っておかれているというよりは、呆然と無為に過ごしているから、呆電。これが一番しっくりくる。

今後の社会復帰の難易度が上がることは間違いないにせよ、こうやって、一日中薄暮の続く冬のロンドンで、無為に茶を飲んで黒ツグミのおしゃべりを聞く時間は、おそらくとても貴重で、かつ、贅沢なのではないかと、自分を正当化している今日この頃です。

宣伝です: 青年団「隣にいても一人」英語版リーディング

一つ宣伝です。

今月17日から27日まで、こまばアゴラ劇場で、青年団プロジェクト公演 「隣にいても一人」が上演されます。
日本国内7都市バージョン(帯広から熊本まで)に加えて、英語版リーディングも上演されますが、不肖、わたくしめが、その英文翻訳を担当しています。

英語版リーディングであるにも拘らず、出演者はすべて日本人、演出も日本人、翻訳担当も日本人、翻訳監修も日本人(僕の娘です)、しかも日本で上演という「暴挙」。

ですが、日本語・英語との距離感を確かめる作業として、非常に刺激的な現場になっています。出演も、松田弘子さんはじめ青年団の現役役者陣ということで、当日の舞台はとっても面白いものになると思います。

英語リーディングは2回公演、22日(火)19時半、24日(木)15時半。
22日19時半の回には、終演後、ポストパフォーマンストークも予定されていますので、そちらもどうぞ(僕も出ます...)。
トークも含めて、みんなにとって刺激的な場になればよいなと考えています。

チケットは2000円、ペアチケット3000円。
他にも、8公演通しチケットとか、6公演・8公演観た方には景品進呈とか、色々あるようです。
詳細は、こちら、青年団のウェブサイトをご覧ください。
http://www.seinendan.org/jpn/blog/07tonari/tokyo.html

皆様、ぜひお誘いあわせの上、お越しください。お待ちしております。