2015年11月25日水曜日

Measure for Measure

14/11/2015 19:30 @Young Vic Downstairs

シェークスピアの才能のレベルは本当にとんでもなくて、シェークスピア戯曲の取り扱いは難しい。
下手にいじると、いじらない方がまし、みたいになってしまう。
ストレートに上演しても、「戯曲の良さ」ばかりが目についたりして、演出・俳優が割を食う。

「尺には尺を」をモダンに演出していると聞いて、今回UKにやって来てから半年以上経って、初のシェークスピアをYoung Vicで。
結論から言うと、やはり、シェークスピアをねじ伏せるのは難しいのだった。

冒頭、幕が開くと舞台一杯にダッチワイフが積み上がっている
(男性を模したダッチハズバンドがこの世に存在するということを、わたしはその時初めて知った)。
役者はそのなかから這い出てきたり、それを蹴ちらしながら舞台上を移動する。
いや、それ、つまらないとは言わないけど、いかにもって感じで、面白くする要素も一つも無い。
仮に説明を求めれば、
「いやいや、この舞台におけるシェークスピアへの取り組み方のスタンスはあーでこーで、従って、ダッチワイフを積み上げてあることにはあーだこーだした意味があって、それは実はあーだかこーだか」
っていう説明を長々としてもらえることはほぼ間違いないと思うのだけれど、まあ、おかしくも何ともない。

アンジェロのステレオタイプな役作りと、イザベルのわざとらしい表情の作り方にうんざりする。ルーシオは達者な役者がやっていて、間の取り方、笑いの取り方が上手でほっとするけれども、そこまで。公爵は検討するも、演出の意匠に足を取られて突き抜けられず。
そんな中で、ギャングスタな紳士達、おとぼけプロボストが何とも言えず魅力的だった。シェークスピアは、あらすじに関係ないわきの人たちが楽しいと最後まで見ていられる。

総じて、そこそこに楽しめるシェークスピア。

それにしても、僕のすぐ後ろに座っていた親子連れ、両親と5−6歳の男の子。あのダッチワイフが「何か」について、お父さんはどんな説明をしてあげたのだろうか。ちょっと気になる。

2015年11月24日火曜日

Four Minutes Twelve Seconds

14/11/2015 15:00 @Trafalgar Studios 2

タイトルの「4分12秒」。自慢の息子がガールフレンドを半ばレイプして撮影し、その後ネットに流出したビデオの尺。
ガールフレンドの家族(こわーい兄貴とこわーい親父)が激怒して、さあ、どうする両親、という話を、
両親の会話を軸に、息子のガールフレンド(今や元カノ)、親友の男の子で描く4人芝居。

色んなことがネットで広まるって怖いよねー、っていう時事ネタはご愛敬、そこにフォーカスした「ネットって怖い」芝居ではない。
この芝居のコアのテーマは、「本当に取り返しのつかないことをしでかしてしまったときに、どうするのか」「どうしてあげられるのか」「どうすれば気が済むのか」ということである。
ネットの普及は、その取り返しのつかない範囲を飛躍的に広げてしまったのかもしれないけれど、世界が広かろうと狭かろうと、本人にとって取り返しがつかないことには変わりが無い。

そういえば、昔、吉田戦車のマンガに、
「よし、取り返しのつかないことをしよう!」って宣言してから、オーディオの蓋を開けて中に納豆をぶちまけて、「あー、本当に取り返しのつかないことをしてしまった」って言ってみせる、ってのがあったけれど、それ位取り返しのつかないことをしでかしてしまったとき。
捨ててしまえば済む問題ではない。

が、この芝居には、しでかした当人である「息子」は出てこない。それは良かったと思う。本人の気持ちを長々と吐露されていたら、ぶちこわしだっただろう。

しでかしてしまったことが、どれくらいのマグニチュードを持つのかは、4人の登場人物それぞれに異なっていて、それも、状況に応じて移り変わる。その見せ方は面白い。
その中にあって、演技の達者な両親役が、演技が分かりやすすぎたり先が読めたり(要は説明が上手すぎるのだ)して、紋切り型に陥りがちだったのに対し、
若い役者2人の演技がとっても面白くて、特に息子の元カノの女の子が素晴らしかった。
「取り返しのつかないことをされたときに、どうすれば気が晴れるのか」
について、ドライに、泣きを入れず、答えを示さず、説得力をもって演じて五重丸。
ちょっとおとなしめの男の子を演じた若い役者も、余計なニュアンスをつけず、複雑な気持ちを単純化せずに舞台に載せて好感度大。

総じてこじんまりと纏まって、見やすく仕上がっていたのは両親役の上手な演技の功罪。

Inextinguishable Fire

08/11/2015 17:00 @Dorfman Theatre, National Theatre

開場して劇場に入ると、舞台上にパンツ一丁の男が立っている。
開演して照明が変わると、防炎服で頭から足先まで固めた男が2人登場する。2人がかりでパンツ一丁の男に服を着せていく。
まずは、多分防炎なのだろう、股引みたいな白い肌着を履かせる。もう一枚。その上から黒い股引(スパンコールのようにきらきら光っているのは、多分防炎のためのローション)。
次に上半身。黒地できらきらした長袖の肌着を3枚。
次に靴下。最初に白いの、次に黒いの。
手袋。白いのの上から黒いのを嵌める。
それから、茶色いモコモコのライナーがついた、黒いオーバーオール。その上から、白い宇宙服みたいなオーバーオール。
頭にローションを塗りつける。それから、黒い伸縮性のバラクラーバ。目のところが長方形に開いている。もう一枚、透明に近いマスク。その上からもう一枚のマスク。
その間、顔の露出しているところをカバーするように、何度も確かめながらローションを塗りたくる。耳無し芳一にお経を書く和尚さんのようだ。一方で、息が詰まらないようにも気を遣っている。
靴を履かせる。2人で片脚ずつ靴紐を結ぶ。
最も外に着ている白いオーバーオールのフードをかぶせる。

上手と下手から、ペンキ缶を持った男達が出てくる。男のオーバーオールの下半身、腕、背中に、黄土色のペイントをぺたぺた塗りたくる。

男が一人、上手で消化器を構える。下手はよく見えないが、おそらくもう一人構えているのだろう。

下手から男が出てきて、たいまつに火をともす。

ここまで、開演から20分。

たいまつの男が、防炎服を着て中央に立っている男の足下に着火する。
オーバーオールが、おそらくさっき塗っていたペイントに沿って、燃え上がる。十字架の形をして炎が立ち上がるように見える。
燃える男が両手を広げて、「グオーーーー」と声をあげ、客席に向かってうつぶせに倒れる。
両側から男2人が駆け寄り、消化剤を掛けて鎮火する。

着火から倒れるまでおよそ10秒前後。鎮火所要時間4秒前後。ショーの終わり。

客電がつく。客席の反応は一様に「これでおしまい?」。
三々五々席を立って出口に向かうと、劇場の外にいる案内人が「この後、野外でショートフィルムの上映があります」といって場所を告げる。
小雨に変わりそうな霧の中を、指定された場所に向かう。

歩きながら考える。あの10秒、あるいは、鎮火されずに30−40秒苦しむようなことが、東京大空襲の夜には何十万と起きたのだと。
「熱い!グオーーーーー」という叫びが、少なくとも、何十万か。

上映が始まる。最初は何が映っているか分からない。白い壁のようなもの。
やがてそれが、燃え上がる男の白いオーバーオールの大写しであることが分かる。カメラが引くにつれて、燃え上がる男の全身が映る。
男が炎に包まれるまでの10秒前後を、10分に引き延ばして見せる。

炎というものは、なんと、色々な形をとりながら、燃やす対象物の表面を「舐める」ように広がっていくものだ。

鎮火まで見せると、そこから、今度は速度を若干速めながらフィルムを逆回ししていく。
最後にオーバーオールの部分が大写しになって、終わる。約20分。

解説を読まなければ、プロパガンダの臭いはしない(実際にどうなのかは、読んでないので分からない)。理屈っぽく捉えないつもりで帰れば、見世物としても悪くない。

このパフォーマンスが見世物以上の意味を持つとすれば、それは、
「燃え上がる炎は本当に熱い」「防炎服を着込んでも10秒前後で耐えられなくなる」ということを目の当たりにするということだろう。
この「熱さ」に対して、どこまで他人事でいられるか。

いや、他人事である。お金払って見てたんだから。

それを観ていた自分に意識が行ったときに、ぎくっとする。そういう作品である。

2015年11月17日火曜日

Medea

07/11/2015 19:30 @The Gate Theatre

オーストラリアで初演された現代版メデイアをUKの役者で。
母親に殺される息子2人に焦点を絞って、60分の芝居の9割方を子供2人でカバー。

この子供の演技がとてつもなく素晴らしい。

全く退屈せずに観ていられる。むしろ、息をのんでずっと観ていられる。
小道具の配置やそれとない話題の振り方も気が利いていて、それもすばらしい(それはもともとの戯曲の力)。
2階の子供部屋に閉じ込められた2人が、母親(それとも父親)が迎えに来てくれるのを待ちながら時間をつぶすのだけれど、
ケンカあり、お漏らしあり、駆け引きあり、兄弟愛あり、
どういう演出をつけたのか知らないけれど、とにかく、演技の中に思わせぶりが一切入ってこなくて、本当に素晴らしかった。

そのまま芝居が終わっていたら、ひょっとしたら今年観た芝居ベスト3に入るくらいのできあがりだった。

が。しかし。

母親(メデイア)が登場して、泣きの入りまくった「あなたたちを愛してるのよー!」な演技をご披露されたことで、芝居が壊れた。
全てが台無しである。

だいたい、子供を殺す局面ではみんながみんな追い詰められた表情をしなきゃならないと考えた時点で、演出と役者の想像力の貧困丸出し。
南伸坊なら満面に笑みをたたえながら、安部聡子なら笑ってるんだか泣いてるんだか何だか分からない薄笑いで、原節子ならいつまでも優しいお母さんの顔のままで、2人の子供をサクサク殺してしまうはずである(原節子はきっとその後、国外脱出してから3年ぐらいたって、「私、本当はずるいんです」と言うに違いない)。

そもそも子供を殺すと決断するまでの心の移り変わりが勝負所なのであって、実際にそれを実行する場面になって
ハーヒーハーヒーな顔をして見せてくれたところでまったく説得力ないし、クサいだけ。

この間みたAlmeidaのメデイアは、前半の絶叫芝居はキツかったにせよ、少なくとも最後の泣きまくりだけは回避していたよ。

わたくしは、声を大にして言いたい。

メディアの主演女優は、泣きの演技禁止!!

2015年11月16日月曜日

Mr Foote's Other Leg

07/11/2015 14:30 @Theatre Royal Haymarket

18世紀ロンドンの人気劇作家・俳優だったSamuel Footeの半生、栄枯盛衰を描く物語。栄もあれば枯もあって、エピソード盛りだくさんなんだけど、前半の栄の部分はいささか饒舌に過ぎて眠くなった。後半、Footeが片脚を失ってからの展開が俄然面白くなる。

名声がもたらす「躁」と、足の欠損・栄誉の失墜がもたらす「鬱」の絶え間のない切り替えを演じるSimon Russel Bealeの演技が素晴らしい。特に台詞のないときの表情が素晴らしい。前半の、状況を説明し組み立てていくための饒舌から解放されて、台詞に頼らない演技をしてもよい局面になってからの一挙手一投足は、本当に見逃せない。
この上演中も、一カ所「本当に、どんな気持ちでいるのか、分からないじゃないか!知りたい!もっと知りたい!」と食いついてしまいそうな、神様の降りたような瞬間があって、その立ちが観られただけで、この公演に足を運んだ甲斐があったとつくづく感じたことである。

Simon Russel Bealeが出演していなかったらきっと観に来なかっただろうと、開演前もそう思っていたけれど、終演後の感想もまさにそのままだった。

The Hairy Ape

04/11/2015 19:30 @The Old Vic

1920年代にユージン・オニールが書いた戯曲を2015年に上演。これが、まったく古くさくなく、力強く迫ってきた。
汽船の底で石炭を釜にくべる男達。そのリーダー格の男が、ある日視察にやって来た大資本家の娘に獣呼ばわりされてショックを受け、都会の連中に本当の地に足のついた暮らしってのがどんなものなのかを思い知らせてくれようとニューヨークまでやって来る。そういう話。
筋書きとしては、「都会のネズミと田舎のネズミ」にひねりをきかせた感じ。
こうやって書くと、いかにも古くさい。でも、舞台に載っているのを観ていて、ちっとも古くさいとは感じない。
いや、古いんだけれども、現代に、現代の役者の身体での上演に違和感がない。

前の週に観たUbu and the Truths Commissionsが、初演から20年で圧倒的に古びてしまったことを考える。
もっと言うと、この秋UKで大量に上演されたギリシャ悲劇も、何千年かたっても古びなかったり、現代に翻案しても古くさかったりする。
これは何故なのだろう?

テーマが古かったり、現代にも通じるものがあったりするからか?
それは一見ありそうに思われるけれど、いやいや、UBUの内容も、相当色々な時代・文化を超えて通じるテーマを扱っていたはず。

うーむ。仮説としては、
「違う場所で、違う人間によって、既にある戯曲を上演すること」に対して自覚的か、自覚的でないか、ということなのではないか、と考えている。
そこに自覚的でないか、あるいは、敢えて目をつぶって、あるいは「テーマが普遍的であるから、上演する時代・シチュエーション・観客に拘わらず同じことをしても良い」
と考えて、「自分たちの芝居」をしてしまうと、そこで古くさくなってしまうのかな、と。

日本でいうと、去年観た青年団の「暗愚小傳」が、初演から20年以上たっても古くなかったのは、
テーマもさりながら、現代口語演劇で演じる役者の身体が、時代に合わせて変わってきている、それを演出もしっかり踏まえていたからではないかと思う。

中野成樹+フランケンズが、古い戯曲を「敢えてあからさまに」現代日本人の身体で上演していたのも、とても面白かったな。そういえば。
このHariy Apeのラスト近くの演技を観ていて、フランケンズを思い出したんだ。フランケンズの役者はあんなにマッチョじゃないけど、
でも、外からの刺激に対する反応とか、現代人の身体を感じさせるという意味で、どっちも古くない。

UBUの芝居は、そういった点で、ちょっと自分たちのやり方に頑固で、ウブだったのではないかと思い至った。
(これをいうためにさんざん色々書いたわけではありません)

2015年11月8日日曜日

Ubu and the Truth Commission

31/10/2015 19:30 @The Print Room

1997年初演。南アフリカのアパルトヘイトから政権交代に至る時期の状況に対する、やるせない怒りに満ちた寓話。
ロングラン中の人気の芝居"War Horse"の人形を手がけているHandspring Puppet Companyによる上演で、
パペットの使い方、スクリーンへの投影等々、見所の多い芝居であるはずだが、
どういうわけか、新聞の評が悪くて、しかも「時代遅れになってしまった」とあって、一体どうしたことかと思っていたのだが、
実際観てみると、そういう評価は必ずしも、少なくともロンドンでは外れていないと感じた。

役者の技量のレベルが低いわけでもないし、人形もよくできてるし、投影もシンプルながら力強いメッセージを映して、それ自体は悪くない。
ただし、全体に漂う雰囲気が、なんだか、古典芸能、っぽいのだ。
何をもって古典芸能と呼ぶのかについては、なかなか定義しにくいところはあるけれども、でも、古典芸能っぽい。
「はい、今日はこれをやりまーす」「お客さんはこれで納得して下さいね」感だろうか。なんだろう?
昨年観た「暗愚小傳」が、25年ぶりに観ても力強さを失っていなかったことと比べてしまう。

この芝居を今観て、同時代の力強い芝居として捉える観客もきっといるはずだ。そしてそれは、現在の南アフリカの人ではないという気もする。

だから、この芝居を「古くさい」と感じてしまうのは、ロンドンで芝居を観ていたり、東京で観ていたりするから、すなわち、「すれているから」かもしれなくて、
そう考えると、むやみに古くさいと決めつけてしまってはいけないのかもしれない。

いや、実は、1997年の時点で、もう既にこの芝居は「古くさく朽ちてしまう」ことを運命づけられていたのかもしれない。
テーマがたまたま時宜を得ていたために、ヒットし、人々の記憶に残っているのかもしれない。

これは、難しい。でも、確かに、古くさかったんだ。

2015年11月3日火曜日

Plaques and Tangles

31/10/2015 15:00 @Royal Court Theatre, Jerwood Theatre Upstairs

若年性の認知症が発症した女性とその家族を描いた芝居。テーマとしては、現在ウェストエンドで絶賛上演中のThe Fatherと同じく、認知症患者とそれを取り巻く人々の関係をシリアスに描いて、力の入った舞台であることは理解するけれども、残念ながらそこまで。The Fatherと比べると、芝居のフォーカスの強さ、構成の巧拙において、遙かに及ばない出来映えに終わっていた。

認知症という病気が「劇的」であるのは、患者の認識と周囲の客観的状況が食い違う、というところにあると思う。The Fatherは、舞台に載せる状況を患者の認識に合わせる「一人称」の構造を採用し、そうした状況の不整合、破れ、矛盾といったものを観客に示して、大きな効果を挙げていた。
このPlaques and Tanglesでは、その「視線の使い分け」が若干混濁していたように思われる。一人称の「本人の認識が整合性を持たず当惑する」シーン、他の家族の構成員が患者を見つめてそれぞれの見方を吐露するシーン、それらが一度に舞台に載って、観客から家族全体を俯瞰するシーン、過去の本人が登場する(それは、客観的な事実と示されているのか、本人の記憶の中身なのかは判然としないが)シーンが、それぞれ、相応の思い入れを持って提示されるのだけれど、それがうねりをもって繋がっていかない点を、敢えて「巧拙」の問題として語りたい。

様々な人々を均等に描こうとして、ちょっと出来の悪い群像劇のようになってしまったのも勿体なかった。

2015年11月1日日曜日

The Moderate Soprano

30/10/2015 19:30 @Hampstead Theatre

ロンドンから南に抜けた郊外の田園地帯に、グラインドボーンという場所がある。
そこには、夏の間だけオペラが上演される「個人の敷地に作ってしまった」オペラハウスが建っている。
立てた当初はキャパシティ300人という、型破りに小さなオペラハウスだったという(今は1200人)。
昼間から盛装して郊外のオペラに出かけるというのが、ロンドンに務める日本企業の駐在の間でも「一度はやってみたいことの一つ」のように言われていたことがあった。

この芝居は、その、自分の持つ地所にオペラハウスを建ててしまった男の話である。
Modest Sopranoというのは、彼の妻のオペラ歌手を称して、「柔らかな声質の」という意味で使っている。一方で、moderateというのは「まぁまぁの歌い手」という意味にもとれる、そして彼の妻は実際まぁまぁの歌い手でしかなかったのだ。
だから、この芝居は、John Christieというオペラ好きの男が、好きが昂じて声質がどんぴしゃ嵌まったソプラノ歌手に入れ込んでしまうこと、その歌手と結婚した後に、自宅にオペラハウスを建ててしまったこと、について描いた芝居、ということになる。

このJohn Christieという男は、少なくとも舞台上では、著しくバランスを欠いた男として描かれている。半端なく金持ちで、いばりんぼうで、スピード狂で、ワグナー好きのモーツァルト嫌いで、一度言い出したら人の意見は聞かないくせに、奥さんにはぞっこん入れあげているからその言うことだけは聞き入れてしまう。
そういう著しくバランスを欠いた男の、バランスを欠いた執着・オブセッションを、David Hareは、105分一幕の芝居の中で、何ともバランス良く描ききっていた。その技量に感服した。

実は、ごくごく最近まで、勉強不足で、David Hareという名前は知らなかったのだ。東京でやってるナショナルシアター公演の映画館上映で、Skylightっていう芝居が妙に評判が良くて、「どんなもんなのかね」位に思っていたら、実はHampstead Theatreで新作を上演するんだと知って慌ててチケット予約しようとしたら既に売り切れ。
リターンを待ってギリギリのタイミングで再チャレンジしたら運良く席が取れた、という顛末。

Hampstead Theatreがこの大作家の新作を上演出来ることになったのは、David Hareがこの近所に住んでたからだとどこかに書いてあったが、このハムステッド界隈も、サセックスのグラインドボーンに負けず劣らずミドルクラス(直訳すれば中流だが、実際は、金持ちの上流の人たち)の牙城であって、案の定劇場に行っても金持ちの老夫婦、話す英語も綺麗で態度も大変鼻持ちならない、みたいな方々がたくさん来ていたのだ。うーむ、そういう層にアピールする芝居となると、相当甘ったるいんじゃないかと心配になったのだが、さにあらず。これは、鼻持ちならなさとか、そういう意味も含めてバランスを欠いた人と、それを取り囲む世界との折り合いの話であって、金持ちとかそうでないとかいうのは、「史実がそうだったから」ついてきたおまけでしかない。

だから、成功した作家が書いた金持ちのドリームの話だから、現代UKの観客にとってのレレヴァンスに欠けるとか、そういう批判は当たらないだろう。色んな地域や色んな人が観て、色々考える芝居だと思うのだ。

僕は、この芝居を観ながら、やっぱり自分の自宅を芝居小屋にして、借金抱えたまま丸ごと息子に芝居小屋を譲り渡して、その建物の5階に住んでいた日本人のことを考えていた。あの人も、バランスのとれてない人だったなぁ、と考えていた。Christieには、ある意味バランスのとれた小屋番や音楽監督やプロデューサー(後のNY Metropolitan Operaの支配人になった男)がついていたが、その日本人には、すごいキャパシティを持った妻とバランスのとれた息子がいて、その後、なんとかかんとか乗り切ってきた。ただその息子も、16歳で世界一周単独自転車旅行に出かけちゃったり、自宅の地下に稽古場作っちゃったり、他の意味でバランスとれていなかったりするんだけれど。

その、著しくバランスを失したオペラへの愛と妻への愛が、バランスを取らないまま頂点に達する「こけら落とし」に焦点を絞っていく展開が素晴らしい。
また、上演した演目を妻に語り聞かせる夫の台詞が、観客の笑いを誘いながらも、いや、だからこそ、とてつもなく悲しい。

そういったシーンも上手く盛り込みつつ、Christieのバランスを失した生き方をバランス良くまとめて、Hampstead Theatreというある意味こじんまり纏まった小屋で1時間45分の芝居にした、という時点で、この芝居はウェストエンドの派手目な芝居でありがちな「大きな物語」を、おそらく、あきらめている。その意味で、Moderateな芝居である。それでよいのだ。コンパクトに纏まった芝居は、かならずしも想像力のスケールの小ささを意味しないのだから。それは、僕の知ってる、日本に建った自宅兼芝居小屋でも同じことだ。小さな小屋、小さな芝居、そこから大きく想像力がジャンプできるということは、もう、みんな知っている。