2011年2月22日火曜日

岡崎藝術座 街などない

13/02/2011 マチネ

初日。
ぐほっ。見終わった直後は、本当に、「ううぅー、分からん」と思ったのだ。
しかも途中、余りの分からなさに、眠ってるんじゃなくて「視線が宙を泳いだ」りして。

昔読んだSFで、四次元の知的生物とコミュニケーションとる、っていうのがあった。コミュニケーションの相手は四次元の生き物なので、三次元に出てくる「彼」の切り口は何だか訳の分からない毛むくじゃらの固まりで、それをくるくる回すと「彼」のコミュニケーション器官が三次元に出現して会話成立、みたいな、まぁ、SFだからというのもあるが無茶苦茶な話だったのだが。

今回の岡崎藝術座はそういう印象。一つか二つか高い次元のものの切り口が三次元に現出した現場に居合わせてしまった、というような。

だから、色んなものが、三次元では脈絡無いように見えても、実は繋がっていて、それは「伏線」とか「裏設定」というような陳腐なものではなくて、もっと広い世界が向こう側にある。いや、あるかないかは全く分からないけれど、少なくとも「あるように思えてしまう」。そういう事柄の行き来に、少なからず置いていかれる局面があった。そして、そうした「色んなもの」は、最後まで加速度を持たずに、物語も持たずに、終わり、そして、どこかに行ってしまった。まさに、置いてけぼりである。

何日か経つにつれて、「言葉の発信機」としての役者とか、「素」と「役」を行ったり来たりする、その振れ幅や「接近と離反」や破れの瞬間が、これまた加速度や物語を伴わずに思い出されて、やはりうぅーんと唸ってしまう。

「ガールズトーク」に怖気づいたのかなぁ、引いたのかなぁ、とも思ったのだが、いやいや、僕の興味は、トークの内容の「出典」なんだ。稽古場で拾うのか、女性週刊誌で拾うのか、全部神里氏の個人的な知識の賜物か、本当はそういう興味に邪魔されて芝居に集中できなかったんだよ、という言い訳がしたいだけかもしれないが。

KUNIO 08 椅子

19/02/2011 ソワレ

イオネスコの「椅子」、小生勉強不足にて読んだことも観たこともなく、今回初見。
それが「椅子」を理解する上で役に立つか立たないかはぽいっと脇に置いといて、たっぷり杉原邦生の芝居を満喫した。

もちろん岩下徹さんは当代第一流のパフォーマーだし、山崎皓司クンはすっげー良い役者だし、何といっても、「役者をハードウェアとして扱ってみせる」のが得意の杉原演出で、この二人が「出たがり邦生」と合わさってどう活きるかが最大の楽しみではあったのだが。

<以下、ネタバレあり>



まさか観客まで「芝居のハードウェア」として取り扱ってしまうとは、なんという。
冒頭の岩下・細見コンビの演技の何ともいえぬ「表層っぽさ」が気にはなっていたのだ。二人してハードウェアとして取り扱われることをかなり全面的に受け入れているっぽい様子が、怪しかったのだ。そして、キターッ!出たがり邦生の登場とともにショーの始まり。

岩下・細見に与えられていたのは邦生ワールドに観客を取り込む装置としての役割で、観客がどう動こうとも「椅子」の構造を壊さないよう、そのフレームの部分をひたすら踏み固めていくという、ストイックにして報酬の定かでない、きっついお仕事なのである。その仕事を、チャーミングに、余計な意味をつけず、しかもきっちりと、悲劇にも喜劇にも持っていかずに最後まで持って行くお二人の力たるや恐るべし。

そして思ったのは、「プレミアムシート」に呼ばれた観客が「ハードウェア」としての機能を全うしていた様である。小生も実はかなり早い段階で「プレミアムシート」にお呼ばれしたのだが、途中、何度か、「ウケていた」ようなのだ。何がウケていたかは全く見えないし、それは自らは分からない。観客参加型の暖かさもなく、要は、「邦生にヤラれた!」という感覚のみ。それを観て舞台袖から声を挙げて笑っていた杉原邦生は、(みなさまご存知の通り、とっても)悪い人です。

要は、この「観客参加」は、観客参加型演劇でも、客いじりでもなく、要は「演出家杉原邦生をエンターテインする」目的に対して100%合理的な演出であるということで、その「邦生ワールド」に居あわせるという体験の刺激が、この作品の前半・中盤のキモだろう。

そして、ラストに出てくる山崎皓司には、やっぱり息を呑んでしまった。「椅子」を不条理劇・悲喜劇のフレームに収まらせず、「フィジカル万歳、100%ポジティブ全開、世界全肯定!!」のところまで強引に突破していこうという乱暴な(格好良く言うと暴力的な、だけど、まぁ、こりゃ、ただの乱暴だろう)加速度が全開で、そうだよ、そこに邦生芝居の魅力があるのだよ、と、もうこれは120%身びいきに近いのだが。

このバージョンに変えてから、(金曜日の時点で)まだ3日目、ということで、整理ついてない所もまだまだ合ったとは思うけれど、これから先、洗練が加速度を殺さないことを願う。14歳の国、青春60デモ、文化祭と、彼の「何をどう使って何を見せるか」にはさんざ付き合って来たつもりだったのだけれど、まだまだもっと彼のキャパシティは大きかった、ってことか。

青年団若手自主企画 不機嫌な子猫ちゃん

21/02/2011 ソワレ

千穐楽。田川啓介作・演出作品は初見。

観に行った理由は青年団女優陣です、というのが正直なところだったのだが、なかなかどうして、戯曲・演出に力あり。ラストシーンの手前の暗転になって、1時間半近く経っていたのかと驚くような出来映えで、すっかりやられた。

人と人とは結局は100%は分かり合えないし同じにもなれないわけで、「すっかり分かってる」なんてうっかり言うと、マイルス・デイヴィスから「俺の言ってることが全部分かるなんで、それじゃあお前は俺じゃないか」って言われてしまう。その最後まで埋められない距離感はお互いが近付けば近付くほど余計に感じざるを得ず、それを僕は「人間関係の漸近線」と呼んでいる。決して発散はしないけれど、交わることはない。

一般論として言えば、その「分からなさ」「違い」を前提に、そこからどうポジティブな関係を積み上げるかが勝負どころなんだと思う。ちょっと説教臭いが。一瞬2つの曲線が平行に見えることがあって、そこに一本直線を引くと交点に生じる「錯覚」は互いに等しく、そこに恋愛とか何とかが生まれる余地が生じるってのもちょっと劇的だけど(本文後半部分の出典は平田オリザ「ケーニヒスベルクの橋」)。

この作品では、その「一致しなさ」を母と娘のベタベタな関係で示していく。前半は、母・娘・叔父・ボーイフレンドを使って、4人の持つ曲線がお互いにどのような距離をもって近付き、遠ざかり、そして決して交わらないかを丁寧に描写していく。

その描写の仕方に、先ず驚く。「母と娘の関係」を持ち出したところで、この芝居のシチュエーションは充分に紋切り型である。舞台上のシンプルな舞台装置はテーブルと二脚の椅子。その中で次々に繰り出される紋切り型の台詞。一歩間違うと向田邦子ワナビーのふやけた芝居で終わりかねない。あるいは悪意だけが先走る擬似親子物語。ところが、紋切り型の台詞の順序や使い方が、この作品をどうにもねじくれた(つまり、どこに進むか先が見えない、観ていて飽きない)芝居へと運び上げる。

紋切り型といえば、開演前から舞台にいる男優が、どうにも現代口語演劇の紋切り型で(青年団のソウル市民の開演前に登場する大工が、「存在感」をもって舞台に「居る」のに対して、春風舎にいる善積元のなんともいえないペラペラさ!)気になったのだが、それも作・演出の手の内かと合点がいく。中盤、兵藤公美と井上三奈子、村井まどかが舞台から客席へとせり出してくる遠近法は、どうにもテレビドラマの遠近法の借り物で、そういう見せ方の紋切り型は、「互いに人間関係を結ぶこと」+「他者に対して人間関係を演じて見せること」を立体的に見せてくれる。

そうやって前半で丁寧に型どった曲線の関係を後半で一気に壊しにかかるのだが、ここでもすっかり不条理劇の紋切り型を活用しながら、実は、「紋切り型を活用している」「紋切り型の登場人物」の奥底を想像させて心地よし。

「人が何考えてるかなんて、表面からじゃわかんないでしょ?」っていって紋切り型を一切排そうとしたのが現代口語演劇の出発点だったとすると、田川啓介の芝居は、「だから、紋切り型をいくら使ったって、何考えてるかなんてわかんないのは同じだよね」というところに一捻りして、しかも紋切り型の罠に嵌らずに見せきった。たいした力技である。それにまた応えられるというのも青年団俳優人の力量、推して知るべし。

というところを踏まえて、敢えて注文つけるならラストかなぁ。無理矢理「一切の始まりの収束点」を用意しちゃったところがなぁ。本当は、二本の双曲線と漸近線の狭間のなんとも埋めようもない空間を引き受けて、そこでぐいっと踏み出すところから世界は始まるんじゃないかと思っていたりもするので。いや、しかし、それは個人的な注文ってことか。いずれにせよ、90分弱、たっぷり堪能した。大満足。