2010年3月30日火曜日

田上パル 師走やぶれかぶれ

27/03/2010 ソワレ

田上パルのふじみ「やぶれかぶれ」二本立て、二本目は、役者全員ふじみのオーディションで固めた「師走やぶれかぶれ女子高生バージョン」。

これもまた大いに楽しんだ。初演は初演で、多感な高校三年生男子の「将来って何だっけ」っていう無駄な悩みがとっても良かったのだけれど、今回は男子が女子に入れ替わって、カラッとした仕上がりになっていたと思う。「現役女子高生」たちが演じる「現役女子高生」達には、鯖読み女子高生にはないだろう元気と兇暴さが溢れて、うーん、やっぱりこういうのが観られるというのなら、「女子高生」と芝居創ってみたくもなるよなー。

でもね。がなる芝居・パワーを使う芝居は、粗が見えやすい。いや、粗があるように見えやすい。演出の要求に女子高生たちとても素直に、パワフルに応えていたとは思うけれど、せっかく女子高生なんだから、ハンドボール部のがさつな男子をそのままハンドボール部のがさつな女子に置き換えなくても良かったんじゃないのかなー、と思ったりもする。

「キミが高校時代に、思い描いていた(あるいは、あこがれていた)女子高校生って、実はもうちょっとがさつじゃなかったんじゃないの?そういう、ちょっと作・演出のドリームが入った女子高生が出てきても、それはそれで面白いんじゃないの?」
とも聞いてみたくなったりする。

まぁ、いいや。オレ、この戯曲好きだし。今後も、色んなバージョンで、色んなカラーの入った再演がされたらいいなー、と思う。がさつな女子でもがさつな男子でもがさつじゃない女子でも、はたまたがさつじゃない男子でも、色々な楽しみ方が出来る戯曲だと思う。そうなったらいいな。

田上パル 新春やぶれかぶれ

27/03/2010 マチネ

田上パルがふじみで創る「やぶれかぶれ」二本立て、一本目は「常連組」と「オーディション組」が出演する「新春やぶれかぶれ」。

まずは大いに笑い、楽しんだ。と同時に、ここのところ「高校ハンドボール部もの」からどうやって抜け出そうかと四苦八苦していた田上パルの今後の方向感が見えた気がして、「なんだかほっとした」のである。

芝居の基本的な組み立ては、「熊本弁口語演劇一幕物」+「老若男女問わぬあたりの激しいアクションと大騒ぎ」+「超常現象」+「泣いて笑って喧嘩して、手をつないでかーえろっと」で変わらず。ハンドボールものの「師走やぶれかぶれ(初演)」「アルカトラス合宿」や、先行きの苦労を予想させた「改造人間」「青春ボンバイエ」とそんなに変わらない。強いていえば人間関係の基本ユニットが「友人」から「家族」にすりかわったことか。

今回、同じ大騒ぎな芝居でも大きな心配なしで最後まで観ていられたのは、一言でいえば、バランスなのだろう。「熊本弁」や「大騒ぎ」にもたれすぎないバランスがあったから、アクションがつらくない。そういうバランスを長女、三男、三女の3人、特に長女が支えていたと思う。逆に次女は「イロモノ」演出がちょっと強すぎて「なにもここまで」という気もした(本人のせいというよりは、演出の要求だと思うが)。

なんにせよ。この芝居のバランスをさらにファインチューンしていく中で、果たして田上パルが今後も「熊本弁」にどこまで拘るのか、ちょっと面白い展開かなーとは思ったのである。本拠地は首都圏に置いているわけだし、役者陣も熊本出身者からさらに広がってるし、必ずしも熊本弁の芝居に拘らなくてよいのかもしれない。その時に、田上パルの芝居がどのように変わっていくものなのか、ちょっと興味深い。

2010年3月25日木曜日

元祖演劇の素いき座 虫たちの日

21/03/2010

千穐楽。
土井通肇/森下眞理のお二人の芝居は、本当にずうっと観ていられる。箸の上げ下ろし、鰯の身を分ける仕草、汁をすする音、指をしゃぶってみる音、朝刊の質感、炊飯器から立ち上る湯気、足袋の汚れ、めがねが鬢に引っかかる感じ、きっと歯に引っかかっているのであろう筍のスジ。五感を総動員し、妄想をかき立てながら、70分間観ていて飽きることがない。

「何かが起きる」舞台を期待する方々には「この舞台では何も起きませんよ」と説明してしまおう。老夫婦が自宅で過ごすのろのろとした時間。一見平穏な夫婦の時間は、最後の最後まで一見平穏だ。だけれども、「70分何もなく過ぎる時間」を、いかに退屈せずに観ていられることか。当パンに「最後迄、頑張って御観劇下さい」とあるが、本当に頑張らないとただの何もない時間になってしまう。事件は待っていてもやってこない。「頑張って御観劇」する人は、初春のハイキングのように、あるいは初夏の道草のように、なにがしかの事件を見いだして興奮し、大抵の人がいまや「アナウンサーの絶叫つきの」「オリンピック」でしか味わえなくなった感動とやらに触れることが出来るかもしれない。もちろん触れられないかもしれないけれど、それはそれで、寄り道・道草にはつきもののことだ。

まぁ、この芝居が扱うテーマが「老い」であることは間違いなくて、それを演じるお二人の平均年齢が少なくとも観客席の平均年齢よりは「老い」に近いことも間違いなくて、どうしても、芝居を観ながら何度も「耄碌」という単語を思い出してしまった。耄碌するとはどういう状態か。過去形で物事を語るとはどういうことか。「幸せでした」と語る人は、幸せなのか不幸せなのか。

いき座が今後も公演を続ける中で、いや、どんな劇団のどんな芝居でもいいや、芝居が公演される中で、観客としての僕が耄碌に近づいていくことは間違いないし、演じる役者も、演出家も、耄碌に近づいているだろうことも、これもほぼ間違いない。矍鑠としている、しゃんとしている、ということは、すなわち「一般に予想されているよりも耄碌の度合いが少ない」ということであって、若い者の方がより耄碌していたりはしないのである。耄碌すれば視野も狭くなり、身体も動かなくなり、五感も鈍るに違いない。鈍らないと言い切るのはウソだ。でも、耄碌に近づいたために世界が豊かさを失うとは思えない。どのように、のろのろと、豊かさを吐き出しながら、耄碌に近づいていくのか。若干自分を意地悪だと自覚しつつも、いき座の舞台はいつまでも追っていたい。土井さんと私がどう耄碌していくのか、確かめたい。その、耄碌に(立ち)向かう極北にいき座の舞台は聳える。

中野成樹+フランケンズ スピードの中身

20/03/2010

素晴らしいの一言。技量、熱意、着意、どれをとっても一級品。声高でなく、でも自信に満ちて、押しつけではなく、でも熱量がこちらに伝わってくる。国宝級の職人技をばっちり鑑賞させていただいた様な、本当に贅沢な時間を堪能。

芝居が始まって、この、どこと特定し難い時空と「不条理劇」と呼んでも良いようなシチュエーション、ちょっと懐かしい気がした。1989年3月、青年団の「海神」。7人の登場人物 - やり投げの選手やアテネや風神やその他神々ともそうでないとも取れる者たち ー が、コーヒーメーカーややり投げや海流や戦争について語る芝居。本当に分からない芝居だったけれど、そういえば当時の平田オリザは「難しいことは悪いことではないと信じている」という、一種開き直りともとれる文章を当日パンフに書いたのを覚えている。今回、終演後中野氏の当パン挨拶読んだら、「わかりづらくてもいいじゃないか」。この気合い、素晴らしい。

こういう気合いに満ちた芝居が、屁難しさの中で自閉するのではなく、きっちりエンターテイニングに完成度高く観客に示されることを、素直に観客の一人として慶びたい。

まず、テクストの強度。小生不勉強でブレヒトの原作読んだことないから、どこまでがオリジナルでどこからが石神氏・中野氏・現場の役者による追加・変更なのか知る由もないが、この上演台本がかなり「すごい」ことは間違いない。なんだか社会主義チックな会議の場、絶えず抽象的な屁理屈が散りばめられながら、行き先は「生死の境界」という極めて具体的かつ白黒はっきりさせなければならない話題。その場その場の個別の具体性が抽象を裏切りながら場面が進行し、ぐいぐいとどこへでもない場所へと引き込まれた。

勿論それを体現する役者も良し。フランケンズの役者がみんな達者であることは疑うべくもないけれど、「公衆に対して絶えず開かれた、なんだかテレビの討論会のような場所」に適度な筋力で立って、がっちり世界を支えていた。

場所。航空発祥記念館と芝居本体のバランス良し。「Zoo Zoo Scene」では動物園の面白さが勝って、芝居は淡泊な味わいがどうしても拭えなかったのだけれど、今回は場所が芝居をじゃませず、かつ、なんだかわからないスパイスを与えて、面白い。前半、村上聡一氏の「飛んでました」「落ちました」の台詞にあわせて、窓の外、村上氏のはるか向こうを、まだ日が落ちていない空と草木をバックに紙飛行機が飛んで、落ちた。フィクションと現実が僕(観客)の脳内で小さくスパークした瞬間。

一つ一つの要素がいちいち気が利いていて、でも、それが、「一点豪華」でも「なんだか気の利いたことを思いついたつもり?」でもなく、それぞれがまるで「必然」のごとくにガッチリ組合わさっていた。こういう芝居がみられるのは、本当、幸せな経験だ。中フラの皆様に多謝、多謝。

2010年3月21日日曜日

ままごと スイングバイ

19/03/2010 ソワレ

とても面白かった。チケット完売になって全くおかしくない出来で、誰にでも薦められる。大胆な発想・構成と、細部までの細やかな視点が共存して、ケチのつけよう無し。
存じ上げている役者、好きな役者、沢山出演していたけれど、やっぱり一番うれしかったのは、板倉チヒロさんがとても良かったことかな。常日頃すっごくいい役者だとは思っていたものの、「よし、これだ!」と思える作品で拝見したことなかったので。

それにしても、この、全編を通して漂う「ポジティブな感じ」はいったい何なんだろうと考えた。「あゆみ」も「わが星」も今回の「スイングバイ」も。人間生まれて死ぬ。ただ単にそれにポジティブだと「人生って美しい!命のカガヤキ!」みたいな「美しい人間賛歌」になってしまうのだけれど、必ずしもそういう意味ではなくて。

どちらかというと、死んだ者たちが必ずしもカタチにならないにせよ何かしら現世に残していく痕跡に対する、アプリオリな、ほぼナイーブといって良いほどの「信頼」の様なものを感じている。「あゆみ」では、一人が倒れようともその後に続くあゆみーずが歩みを続けていくことへの信頼感、「わが星」では、星が生まれて死んで、でもそれは必ず誰かによって見守られているという信頼感、また、死んだ星の塵からまた新たな星が生まれることへの根拠のない確信。「スイングバイ」はまさにタイトルの通りで、次々に「文字通り」引き継がれるカバン、書類、仕事。それらを引き渡した後は、「スイングバイ」により新たな方向へ加速度をもって進んでいく。途上で倒れても、カバン・書類・仕事は引き継がれてきたし、今後もきっと誰かに引き継がれていくという信頼感。自分のしていることはきっと誰かが見守っている、そして、それはどこへも消え去らずに、(たとえそれが未整理の倉庫であっても)積み重なる歴史の高層建築の中で一枚の薄い化石のように残るのだという根拠なき確信。

悪意のある言い方をすれば、そういった信頼や確信は、美しいかもしれないけれど、現実には起こり難いのではないかと言うことも可能だ。もちろん、こういう美しいものは、特に柴幸男のような力のある作・演出の手に掛かると、細部まできっちりと糊代が処理されて、「ノレる」芝居にできあがる。だから、泣ける。一方でそれを「危ない」と感じる人もいるだろう。「ウソかもしれないけど、少なくとも美しいじゃん?」という釣り言葉は、70年前の日本のことを考えると確かに危ない。

が、2006年の「美しい国」のスローガンには少なくとも日本は「ノラ」なかったわけだし(もちろん、押し出しの巧拙は較べるべくもないけれど)、柴氏はきっとそんなこと考えて芝居作っているわけではないので、ひょっとするとそれは「作劇術」の一環でしかないのかもしれない。

作劇術のコンテクストで語るとすれば、「スイングバイ」のように、時間と空間に明確なベクトルを与えて「フレームに破綻はない」という安心感を与える方法は、最近の松井周の作劇と対照することができると思う。

「スイングバイ」は、「柴のフレームに破綻はない」ことへの安心感があるから、どんなに時間・シチュエーションが小刻みに飛んでも、観客は不安にならない。観客は、いずれはすべてが300万年前から未来永劫へと延びるエレベーターの流れに回収されるのだという前提で観ていることができるから。

一方で、松井の、たとえば「あの人の世界」は、時空をとばすようなことがないにも関わらず、そして、演技はいわゆる「現代口語演劇」であるにもかかわらず、空間がどこに続いていくのか、時間がどこへ向かって流れるのか、観客は決め手を欠くままその場に放置される。その不安さ、居心地の悪さ、気持ち悪さ。劇中人物に「ボールが地面に落ちたらその時点でこの世界はお終い」と言わせてしまう、未来への悪意といっても良いような振る舞い。

もちろん良し悪しではない。僕は、正直言ってどちらも好きです。個人的に「スイングバイ」で示された世界観は共有していないけれど。が、まずもって、芝居に示された世界観と柴氏の、あるいはプロダクションのメンバーの世界観が一致する必要はないし、そもそもそれは「数ある世界観のうちの一つ」でしかない。

それを前提とした上で、今回の「スイングバイ」で「あえて」曖昧なものとなった「退出時、なぜ小梁はエレベーターを上に昇るのか」「秀三郎はなぜそこにい続けられるのか」、のその先を柴氏が今後描いていくのかに興味がある。それは、「あゆみ」のレーンの外、暗い部分では何が起きているのか、「わが星」の舞台の周りの暗闇や床下では何が起きているのか、ということでもある。そういう部分に今後光が当たるのか当たらないのか。それは今後繰り広げられるままごとの中で、切り捨てられるものなのか掬い上げられるものなのか。

いずれにせよ、本当に目が離せない、ということは断言します。

2010年3月20日土曜日

輝く未来 ブチ込ミ、ヤミ鍋、舌ツヅミ

14/02/2010 マチネ

輝く未来、初見。
予想に反して、といっては失礼かもしれないが、とても生真面目なダンス、という印象だった。

縦軸を構成するモチーフがあるとすれば、僕的には「ロード・オブ・ザ・リング+2001年宇宙の旅÷2」。天から降ってくるリング二つと、原初のノイズから始まるパフォーマーたちの動き。それらが組合わさって、最初は脈絡のなかったノイズ+痙攣的な動きが、徐々にリズムをもって織り上げられていく。

そこまでは引き込まれたのだけれど、中盤以降の展開で、観ている側の集中力が続かなかった。せっかくお膳立てされたモチーフの上にカラーがうまく乗らないなー、と思って観ていたら、最後までそれが続いて、食い足りない。

妙なケレンで場を持たせようという態度がないのには好感持てるにしても、やっぱりなにがしかの「異物感」が、僕がダンスを観るときには「集中・好奇心を保たせるためのスパイス」として作用しないと素人の僕の集中は続かないのか、それとも、僕はモチーフへの色付け、変奏を期待していたのか。

まだまだ、ダンスの面白いところを見つけて入り込むところまで来ていないのだろうか、とつくづく思う。

2010年3月14日日曜日

みやざき◎まあるい劇場 青空

12/03/2010 ソワレ

2年ぶりのみやざき◎まあるい劇場。東京に来るのを本当に楽しみにしていたのだが、その期待を一つも裏切ることなく、素晴らしい舞台。

和田祥吾は2年前と同様、舞台上の空気をがっちり支配して隅々にまで睨みを利かせ、「生まれてきた人」たちが劇場の空間を切り裂く様はジミヘンのギターの様に暴力的で、感情の真皮を突く。

前回の「隣の町」が、生者の町と死者の町を併置して、お互いの町の住人たちが「出会う」場を描いていたのに対し、今回は「取り壊しを控えた廃棄されたプラネタリウム」という場を用意し、出会いの場に歴史の厚みが加わった。

兄ー弟、老いた夫ー妻、元夫ー元妻、傘売りー友人達、というように、1対1の対話を基本単位にして、それらを地層のように積み重ねながら、そこに描かれるのは「物語」ではなく、「世界」である。混沌とし、脈絡を欠き、残酷で、取り戻しようもなく、辛いからといって全否定もできないやっかいなもの。

これは誰の話なのか。誰の視点なのか?管理人の夢なのか?老いた夫の妄想が作った世界なのか。若い男女は老いた男女の過去の姿なのか?取り戻したい歴史なのか?弟は本当に兄を待っているのか?それは「実在する」兄なのか「実在した(そして今は実在しない)」兄なのか?本当に彼らは兄弟なのか?兄の妄想なのか?弟の妄想なのか?人々はどこからきたのか?

いや、実はこれらの人々の組み合わせに「物語上の必然」はそもそもないのだろう。そういう、どうにも把握できない「やっかいな」ものとしてこの世界は提示される。

そして、そのやっかいな世界の縦軸を担ってこの舞台の脊椎となるのが「生まれてきた人」たち。もがき、あがき、手足をバタバタさせ、やがて立ち、叫び、互いに触れ、去る。そこに進化はあるのか?進歩はあるのか?相互理解はあるのか?そんなことはパフォーマーも作・演も知りはしないだろう。あるのは「生まれてきて」「歩いて去っていった」ということだけだ。彼女たちが歩み去ったその徴は、もはや観客の記憶の中にしかなく、個人の歴史の地層の薄い層の中に閉じこめられる。でも「どこかに向かって行った」ことだけは、確かなこととして覚えていたくなる。

そうやって観ていたら、ふと、この対話と時間の混沌とした積み重ねは「昏睡」でも試みられていたのだと気がついた。迂闊だった。このやっかいさを、「昏睡」ではたった2人の役者によって担おうとしていたのか。なんたる蛮行、なんと遠い道のり。是非「昏睡」の再演、お願いします。

冨士山アネット 家族の証明

10/03/2010 ソワレ

大変よく身体の動くカンパニーで、勝負どころはやっぱりそこか。
アゴラ冬のサミットのラストを飾る冨士山アネットの「家族の証明」はシアターダンスを掲げて、僕なりの古い尺度に当てはめれば、「マイム、極めてダンス寄り」。

とある5人家族の組成から構成員に起きる事件、それへの対応を、「極めてダンス寄りなマイム」で綴る60分。5人のパフォーマーの間の距離、微妙な間合い、コンタクト、ぶつかり、ゴツゴツしたりベタッとしたりする接触面積の変化まで、いろんな距離感をいろんなスピード感で、かつ驚きのある動きで見せる手順には目を見張る。

が、それだけに、時として仕草・動きのテンションがゆるんで、60分の縦軸となる家族の「物語」に奉仕しているのがあからさまに見える時間が訪れると、途端に退屈してしまったのだ。

たとえば前半の「鏡を見る」シーン、長男が髪の毛を整えるところ。なぜ、テレビコマーシャルのような仕草なのか?もっと無表情でいい。こういう、中途半端に朝の情景を説明しにいく距離感(リアルと記号の間の)が、観る側の想像力を細らせるのではないか。リアルでなくてもよい。リアルでもよい。ただし「説明」に行くのはまずい。物語の辻褄合わせは、もっと観客に任せてしまえばよいのに、と思う。

それ以降も目を見張る「動き」を説明的な「仕草」と「表情」が邪魔をする展開が続き、後半「物語」が展開して時間の進みを支配すると、眠くなってしまった。

よくよく考えてみると「シアターダンス」の難しさは、まさに「シアター」と「ダンス」の微妙なバランスをどうやってヒットするかにあるのだろう。だから、このカンパニーに「もっと芝居しろ」とか「もっとダンスでよいのに」という批判をするのは見当違いなのかもしれない。が、その「敢えて選んだイバラの道」が現段階で花開いているとは思えない。逆に言うと、じゃあこのやり方がうまーく実を結んだら、今まで観たことのないモノが観られるのかもしれない。それはそれで楽しみではある。

2010年3月8日月曜日

東京デスロック Love 2010 Yokohama Ver.

07/03/2010 ソワレ

2007年初演の名作、2009-2010ツアーを締めくくる横浜バージョン。

作品としての熟成は「桜美林バージョン」を拝見したときにも感じたことだけれど、今日もそう。一種「懐かしさ」のようなものがある。それは、「昔をしのぶ」のではなくて、むしろ、芝居を観るときの基本の態度に立ち返る為の基礎稽古に臨む感覚。本当に安心して、役者の一挙手一投足、表情、台詞、声、舞台上の空気に集中していられる。そして、思う存分に妄想を膨らますこともできる。余計な意味や意図を詮索する苦労からは100%自由であって良いのだ、という安心感。

初演時のリトルモア地下では、前半、客席内で喉が鳴る音やおなかの鳴る音が遠くから聞こえるほどの「水を打ったような」静かさと緊張感の中で芝居が進んだのだけれど、桜美林・横浜では、客席がより(良い意味で)リラックスしているのを感じる。確かに客席の緊張感は維持されていて、静かなシーンの中でかすかな音が聞こえてくるのは変わらないけれど、異様な緊張感を余儀なくされている感じはしない。爆音の導入も含めて、そこら辺の見せ方、引き込み方も熟成したのか。

アフタートークで「東京デスロックの今後の活動方針は?」という質問が出て、僕もあっと思ったのだが、そう言われてみれば、今後のデスロックについて考えたことなかった。Loveのような(少なくとも僕にとっては)立ち返る場所を持っていながらも、そこに拘って立ち止まることを良しとしない態度、良し。是非、今後とも、「もうついていけない」「でも、芝居を見つけない人にも面白いと言わせてしまう」そういうラインを追い求めていただきたい、と希望します。

2010年3月7日日曜日

青春60デモ

06/03/2010 ソワレ

激しく揺さぶられた60分。なんという感動。
決して「素人のおじいさん・おばあさんががんばっているから感動した」みたいなチープな感動ではない。むしろ、そういうやり口には一定以上の警戒感をもって臨むべきだし、僕もそうしていたつもり。

そういう意地悪な客まで巻き込んで最後まで持っていったのは、もちろん役者が「がんばった」こともあるけれども、実は、杉原邦生の、ほぼあざといじゃねーかと言われても仕方がないくらいの、素晴らしい演出・構成があったからである。

それがあるから、
「市民演劇、みんなで頑張りました。下手だけどね。かんどー」とか、
「作・演出から役者まで、みんな素人だけど頑張りました。頑張ったことを評価してね」
みたいな出来の舞台とははっきりと一線を画して、しかも、不覚にも僕は感動してしまったのである。

昔、Weather Report の "Where the Moon Goes" のボーカルを Manhattan Transfer が担当したときに「人間の肉声さえも楽器のパートのように扱ってアレンジしてしまうジョー・ザビヌルの冷徹なエゴがすごい」と書いた人がいたが、今回はそれに似たものを感じた。

素材選び・コンセプトから具体的に舞台に乗せるところまで、徹底的にコミットした力のある演出家がいれば、美形でなくても若くなくても身体動かなくても経験なくても、本当に素晴らしい作品に仕上がるのだと言うことが、極端な形で示されていた。

「がんばったねー」と出演者に身内から声がかかることよりも「良い作品だった」と第三者に言わせたことの方が、実は、この作品について重要なのではないかと思う。やっぱり邦生はすげー。

が「これまでやれなかったことをやった」の中身が「舞台上でExileの振り付け」だったのは大笑い。14歳の国でできなかったのがそんなに悔しかったのかい!

快快 Y時のはなし

06/03/2010 マチネ

素晴らしい舞台だった。快快の表現の力強さを、これほどまでに前提条件や一定の留保なしに、素直に、ポジティブに受け取ることができたことは、今までなかったと思う。

快快の役者だから身体が動くのは当たり前、花があるのも当たり前、快快の舞台だから美術がおしゃれで小道具も気が利いていて当たり前、そういう当たり前に加えて、さらに、人形と人間の間の危うくもバランスのとれた行き来、おセンチに陥る寸前でさっと引いてみせる「子供の視線」への郷愁、過剰なおふざけととらばとれ、すべては「観客へのメッセージ」ではなくて「観客が楽しむ舞台の完成度」に向けて奉仕するのだという、極めて真っ当な命題に向けた役者・スタッフの相互の了解度の高さ、そうしたもの全てが、よけいな講釈なしに舞台にのっかっている。

「学童保育を舞台にしたファンタジックメロドラマ」と銘打っているから、「メロドラマ」であり「学童の話」であり「ファンタジー」である。当たり前だけれども、学童がでてくるファンタジーにメロドラマが絡んで、面白くなった試しが今までにあったか?僕には思い出せない。Nick Hornby の "About a Boy" は学童のでてくるメロドラマだが、ファンタジーはない。「千と千尋」「トトロ」「チャーリーとチョコレート工場」「ジェームズとジャイアントピーチ」は傑作学童ファンタジーだけど、メロドラマはない。「紅の豚」は傑作メロドラマ、ファンタジー付きだが、学童はでてこない。どうにも思い出せない。

快快の連中、「是非子供も連れてきてほしい」と言ってたけど、本当に、娘や甥っ子たちに是非見せたかった。
どなたか「大人も子供も楽しめる、学童がでてきてファンタジーでメロドラマな芝居がないかしら」とお悩みの方がいたら、迷わず快快を呼んでいただきたい。彼らも相当これから忙しそうではあるけれど、これは是非、おしゃれな原宿の一角から飛び出して、日本中で(また世界中で)本当にたくさんの人々に観てもらいたい。舞台芸術の(数あまたあるだろうがそのうちの)一つの結晶点として末永く残ってほしい。そういう舞台だった。

北九州芸術劇場プロデュース ハコブネ

05/03/2010 ソワレ

東京初日。間違いなく、傑作。

これまでの松井作品と比べて、いろんな意味で広がりが感じられ、手触りが遥かに柔らかく、そして、作品世界が「突きつけられる」よりもむしろ「ソフトに観客を囲い込み、一人ひとりにしっとりと触手を伸ばしてくる」感じがした。
「なぁんだ。エッジを立てない松井芝居だって、十二分に面白いじゃないか。」という極めてポジティブな驚き。

もちろん、松井変態ワールドは明らかに持ち込まれており、かつ、「今ここで起きていることだけ」を頼りにして、人間の「謎」や「奥行き」から解放されること、という問題意識もまた、明らかに継続しているのだけれど、しかし、その中で、今回は特に個々の役者に付着した「澱」のようなものに対して、いつになく松井演出が寛大であると感じる。

それには、この作品が北九州芸術劇場のプロデュースで、松井氏以下サンプルの面々が現地に滞在して制作した作品であることも大きくはたらいたと思う。工場からテーマパークの展示場へ、はたまたその運命やいかに、という設定は、20年近く北九州市に実家があった小生には「スペースワールド」や「小倉玉屋」や「黒崎と小倉の両方に合ったそごう」や「東映会館」や「西日本総合展示場」を思い出させる。
そういう風に舞台に「のっかった」役者達を眺める僕たちは一体何者でしょうか?何様でしょうか?
舞台に居る「展示品」としての役者達は、生身でしょうか?演じる駒でしょうか?かれらはロボットで代替できるでしょうか?僕らの父祖はそこにいるでしょうか?小倉の人、姫路の人、室蘭の人、ウェールズの人、その人たちの父祖はそこにいるでしょうか?

特定の記憶をたぐらせるようで、実はそのように世界が閉じていかないのにも驚く。今回は「東京」という、極めて短期間の記憶しか持たない都市で上演されたのだけれど、「北九州の観客」「東京の観客」だけでなく、もっと色々な世界の地域でこの舞台が「展示」されたときに、観客の記憶・歴史といったものがどう喚起されるのか、興味が尽きない。
が、一方で、もしもキャスティングが変わったときに、この作品の強度が保たれるのだろうかという点には、良し悪しあろうが、疑問符もつく。そこは自分の中でも扱いに困る命題ではあります。

男肉 du Soleil 肉 the 光速華撃団

03/03/2010 ソワレ

とことん下らなく、おもしろかった。
タイトルを入力していて、「こんなくっだらねータイトルだったのか!」と改めて思い知る。ん?「男萌い汁」の方がこの場合正しいのか?って思ってしまうくらいに下らない2時間。

こいつら、絶対、「現代口語はさー」とか「舞台と観客の関係ってのはさー」とか考えてないに違いない。考えてないだろ?え?考えてたら困るよ。チミらは、そんな難しいこと考えちゃ。って、これは、「誉め言葉」です。

いろんな意味で「巧拙」の「拙」も眼についたけれど、それでも、「楽しむ / 楽しませるおもてなし」が「テーマを訴える / 物語を押売する」を押しのけている姿勢が明確だから、最後まで安心して観続けることが出来る。そこが、他の凡百の「拙い」芝居との違い。

ただし。今のやり方で万が一どんどん上手になってしまったら、却って「つまらなく」なってしまうのではないかとも懸念される。この、良くも悪くも「学生劇団」ノリを残した「がなり」「パロディ頼り」「でも身体は動く」「そしてとにかく面白くやろう!」の面白さのテンションが、例えば今後10年続くか。続かないんじゃないかなー。どうかなー?例えば「鉄割アルバトロスケット」のように、凄い技量で凄い下らないことを続けるような人たちに、なったらいいなー、と思ったりもする。

そうなるにはきっとどこかに一つの線、というか、明確な変わり目があるはずで、そこを越えないと、
「たまには男肉みたいなのも観てもいいなー」から、
「男肉だけは毎回見逃せない」にはならないんじゃないか。
じゃあ、その変わり目って、具体的に何なんだろう?考えてしまう。でも、越えて欲しいなー。そしてまたアゴラに来て欲しいなー。そういう感じです。

柿喰う客 The Heavy User

28/02/2010 16:00の回

フランスの国際学生演劇祭に持って行くとのこと。さすが中屋敷、さすが柿。とっても上手で、45分間飽きずに観る。これならフランス人の学生も字幕無しで楽しんでくれるだろう、というくらいに英語の処理も上手。

でも、観終わった後、実は「あぁ、これ、安心してつまんなかったって言えるなー」と思って、ニンマリしてしまったのだ(ちょっとここで悪意混じる)。柿喰う客の芝居は、いつも、「中屋敷、もっと追い詰められろよ!」と思いながらも、その才能のキャパシティの中で、意図・意匠てんこもり、観せ方もしっかり付いて来て、しかも「なんじゃこれ?」なひねりが埋め込まれて、トータルでは「またしてもやられてしまった!」という結果になる(そうして、中屋敷氏の『面白かった?ちょっとやられた?僕、かわいい?』ってな顔が思い浮かんでちょっと悔しい思いをする)のだが、こと今回に関しては、「なんじゃこれ?」感、無し。

何故このようなこじんまりとしたまとめ方をしてしまったのかは不明だけれど、まぁ、ブザンソンの学生には受けるだろうし、力があることは分かる。それだけ。「今回はここまで。これだけ」感は、できるだけ観客に見えないようにしてほしい。そうやって、もっともっと観客をきもちよーく騙し続けてほしい。

2010年3月4日木曜日

あなざーわーくす ~文学を詠む~すべらないひどい話

28/02/2010 マチネ

住宅街の一軒家の、グランドピアノが置かれた景色の良い一室。窓の外には野鳥が訪れ、部屋の中には「同好の士」十数名、素敵な「ひどいはなし」を聴きに集う。

なんちゅう贅沢な日曜日の午後。あなざーわーくすの「ひどいはなし」でなければ、なんとおハイソな昼下がりであったことか。贅沢だけれどおハイソでない。幸せだ。

「ひどいはなし」も聴けたし、ホーメイも聴けたし、お菓子もひまわりコーヒーも美味しかった。こういうときにつくづく思うのは、「芝居は一人で観に行かない方が良い時というのが絶対にある」ということ。

こういう時間の使い方を選びとったというのが、ちょっと得意で、人に自慢したくなる。でも、もうちょっとオレがせかせかしていなかったらなー、もう1時間くらいぼーっとしてたかったなー、という後悔は、ちょっとあります。

うーん、今度は、おんなじ場所で、怪談やってくれるかなー?やってほしいなー。でも、帰り道がとっても怖そうだなー。どうしよーかなー。

岡崎藝術座 リズム三兄妹

27/02/2010 ソワレ

一昨年僕の心を激しく揺さぶった作品の再演。一部キャスティングを入れ替えて。
あちこちですごく評判が良いようで、安心した。他人事なのに、なんだか安心した。すごく安心したから、安心して好きなことを書く。

まず、この「戯曲」が傑作であることは間違いない。と、言い切る。英訳させてもらったから言うのではない。もしこの戯曲が2010年の岸田賞の候補にショートリストされていたら「わが星」と並んで本当に審査員を悩ませてしかるべき作品だったに違いないと、僕は確信している。今回の上演でも、それは確信できた。

そして、再演と初演を、特に役者が入れ替わったときには、比べちゃいかん、いかんのだけれど、やっぱり比べてしまう。好きか、嫌いか。うーん、それもきっと言っちゃいかん。いかんのだけれど、やっぱり言ってしまう。初演の方が好きだ。宇田川千珠子が舞台に戻ってきて嬉しくとも、橋口氏のつぶらな瞳にヤラれようとも、巣恋歌さんのドレスがグレードアップしていようとも、である。

これだけいかんいかんと言っておいて「初演の方が好きだ」と言ってしまったので、わたくしなりの理由を書きます。
「初演の魅力は離陸しきらないことの魅力。再演の魅力は軽々と翔ぶことの魅力。僕はどうやら離陸しきれずに地を這う芝居に、より多く魅力を感じてしまうらしい」

岡崎藝術座の魅力の一つは「地を這うグルーブ感」だと思う。そこから離陸せずに演じきったのが「ヘアカットさん」、離陸するようなしないような、でも上半身は華々しく、というのが「リズム三兄妹」。初演の素晴らしいシーンの一つはラス前内田慈さんの長台詞で、両足はぴたっと床について固定しているのに上半身はくるくると動いて、(誉め言葉ですよ!)まるでゴキブリホイホイにかかったゴキブリがもがくような肢体が素晴らしかったのだ。

今回、中村真生にそのもがきはない。軽々と舞って、すっきりとした味わい。あるいは、「地を這うグルーブ」に追われ、あるいはけちらされそうになる、その逃げ足の魅力。戯曲の「ことば」がより素直に迫ってくるのは、今回のバージョンなんだろう、と思う。

が、それでも僕は「離陸しそうでしない」瞬間の方が好きなんだ。きっと。そういう観方は必ずしも創り手や観客やその他色んな人を幸せにするとは思わないが、でも、そうなんだから仕方がない。

最初に書いたとおり「リズム三兄妹」は傑作だ。今回の上演も、素晴らしい。もっとみんな誉めろYo!と思う。そしてそうやってみんなに誉められれば誉められるほど、僕は安心して好き勝手なこと言えるのだ。

2010年3月2日火曜日

突撃金魚 ビリビリHAPPY

23/02/2010 ソワレ

「アウェーでの上演」というのはきっとこのことを指すに違いない。上演後のトークで「突撃金魚」をこれまでに観たことのある人に挙手求めたら3人程度。上演中の観客の反応も、客席で観ていて十分分かるほど「暖かみに欠けていた」と言って良いと思う。じゃあお前はどうだったんだよ、と言われると、まぁ、僕もそんなに暖かい顔して観ていたわけではないけれど。

こんなことを言うのは本当は良くないのだが、おそらく東京の「アゴラに来る」観客の好みに合っているとは思えないし、それをカバーするには技術的にも拙ない部分が目立った。

そういうところで、アゴラのサミットディレクター杉原氏の作戦は、半分上手く行って半分失敗していた。「サミットなくしては」アゴラで観られることがなかっただろう作品を呼び込むことで、アゴラの匂いを少しでも変えること。それを「アゴラの常連たち」に見せつけること。そこは上手く行った。でも、もうちょっとアウェーでケレンをぶちかませるカンパニーであることを期待していた気もする。そこは失敗。

上で「巧拙」と言ったけれど、実は、こういう「アウェーの芝居」だからこそ、自分が巧拙を語れるのか?という問いにぶつかる。要は「好悪・趣味の合う合わないは別として、貪欲に愉しもう」という気概無しでは、はなから何も起きっこないのだ。
突撃金魚の芝居で頭抱えたり失笑するスカしたそぶりは、次の40年に向けた芝居の力強さにはつながらない気がする。突撃金魚に戸惑う自分は「じゃあどうしろっていうんだよ!」という問いに真っ向から答えられず立ちつくす自分でもある。

マレビトの会 血の婚礼

21/02/2010 ソワレ

素晴らしい「血の婚礼」。僕は「血の婚礼」はエイブルアートで観たきりで、それも面白かったけれど、今回もすごかった。ロルカの戯曲って素晴らしかったんだな、と思い知った。

戯曲の骨太なラインが、一見物語をなぞらないように見える演出からくっきりと浮きだしてくる様が、芝居のスタイルは違うのに、東京デスロックの「その人を知らず」を観たときとそっくりだ。

台詞の言い方とか実は関係なく「物語に奉仕しない立ち」が役者に可能だということも思う。まさに濃密な時空を体験した。

NHKホールはいつ行っても客席の作りが本当におざなりで、まぁ、NHKの人たちは心の底からテレビ・ラジオじゃないメディアを舐めきってるんだなーと思われ、それは残念だけれど、それを補ってあまりある素晴らしい公演だった。