2008年2月28日木曜日

東京乾電池 受付

27/02/2008 ソワレ

月末の会社帰り、ちょっと一杯芝居を引っ掛けよう。
ということで、今月も来ましたゴールデン街劇場。

何だか今日は格段に観客も少なくて、開演間際に東京乾電池若手がわらわらと入ってきて客席が何だか埋まる。おカネを払って観させて頂く観客はちょっと気を遣われているのが分かる。
普通ならゴールデンが劇場では、「どうぞ奥に詰めておかけください」のはずが、今日は「どうぞ観やすい真ん中よりにおかけください」だもの。

去年の新春顔見せ公演以来、乾電池の演じる別役芝居は気に入っている。シンプルな舞台で役者2人が顔を突き合わせて、面白がってんだか詰まんな がってんだか、とにかく話す。とぼけてる風を見せるとか、困ってる風を見せるとか、謎めいて見せるとか、そういうのを排除して、とにかく話す。それが良 い。面白い。

僕は上手よりに座っているので女優さんの顔は左半分のプロファイルでしか見えないが、その顔から目が離せない。男優はじぃーっと話を聞いているが、その変な顔は、きっと、観客に見せるためではなく、女優を笑う寸前まで追い込んでいびることに、その主目的がある。

本当はもっとゆくぁいに笑っても良い舞台だと思ったのだけれど、下手最前列に柄本明さんが陣取って、冒頭からゲハゲハ笑っているのに先手を取ら れ、自分まで笑うと柄本さんの後追いで笑っているようなのがおもしろくないので、あんまり笑わなかった。きっとそういう方他にも多かったのだろう。柄本さ んの笑い声がやたらと響く客席だった。

でも、面白がってたのは柄本さんだけじゃないだろう。2人ともとっても面白かったもの。
しかし、素で笑ってしまったときに、それを正面に見える柄本さんに笑われたのでは、これは大変だったろう。ちょっと同情しました。

2008年2月25日月曜日

e.g.Milk ふと透明

24/02/2008 マチネ

若い!と感じた。
どっちかといえば、「こなれていない」「一本調子」という、ネガティブな意味に近いかな。

9つのシーンを繋いで見せる1時間弱の小品だったが、いかんせんペースが一定では飽きが来る。身体の動きだけに集中して、意味を考えないで見ようと思ったのだけれど、そうするにはちょっと意味がつきすぎていた。

「空白に落ちた男」を観た直後だった分、このパフォーマンスが割を食っているのかもしれないが。でも、どこに落差を感じたかというと、僕のようなダンス素人にとってみれば、
「身体が動く・動かない」というよりも、
圧倒的に、「舞台への乗せ方の違い」であった。

とはいっても、身体は動くし、仲間もいる。まだまだこれから、これから。
そういう風に思わせて、観ていて腹が立たないのも、それも、若い! って得ですね、ということか。

2008年2月24日日曜日

空白に落ちた男

23/02/2008 マチネ

藤田桃子、丸山和彰のお二方といえば、2006年の夏に見た「立つ女」という公演にでていて、そういえば、「立つ女」も含め、あのころポツポツ観 始めた日本の芝居に「あぁ、こりゃ面白いぞ」と思わるものがあったおかげで今の僕の芝居狂いの日々がある。だから、この人たちは今の僕の生活ぶりに多分に 責任を持つ人たちな訳である。今回のこの公演も、その繋がりで教えてもらわなければ気がついていなかった。

で、も1つ付け加えると、小野寺氏のお母様というのは、僕のロンドン時代の同僚の伯母様と親友ならしい。僕が「芝居をやってた」と言ったときに、 同僚が「あぁ、じゃ、こういう人、ご存知ですか?」と挙げたのが小野寺夫妻で、まぁ、何が言いたいかというと、世の中、色んな縁があるもんだ、ということ である。

で、そういう縁もあって、今回、ベニサンにお邪魔したのだが、これが、面白かった。首藤康之さんは「世界的ダンサー」との触れ込みだが、心配して いたワンマンショーの趣ではなくて、前面に出てくるのは5人のアンサンブル。力を見せ付けるというのではなくて、あくまでも愉快に、楽しく、ユーモアの効 いたパフォーマンスだった。

首藤氏は二枚目どころというよりもむしろクルーゾー警部の趣で、そこを囲んで、ことさらなナンセンスを主張しないナンセンスで全体を織り上げてい くのが気持ちよい。1対1や3人単位のシーンも面白いが、やっぱり一番面白いのは5人勢ぞろいの混舞(群舞というのにはちょっと人数も少ないし、というこ とで)。こういうのは、ダンスど素人で股関節も硬いボクが観ても充分楽しくて、ホント、満喫いたしました。

もっともっと客席がきちきちに埋まっていてもおかしくないくらいの公演なんだけれど、土曜日のマチネなのに空席があったのは残念でした。

2008年2月20日水曜日

日本ムーヴメント

19/02/2008 ソワレ

伊達暁の腰つきにノックアウト。
と書くと、一発で誤解されそうなのだが、面白かったものは仕方がない。

コントとダンスのオムニバスで1時間半くらい。飽きずに観られたのは、各パフォーマーの力もあるだろうが、それよりも構成のセンスを買いたい。

自分はダンスは良く分からないので、どうしても台詞のある部分の方が見やすくなってしまうけれど、それにしてもニッツメンは秀逸で、(おそらく) 2尺×5尺の平台を袖にはけるときに、裏に「アゴラ上手用」と書いてあったのが泣けた。その2尺×5尺ネタ、まさか小屋入りしてから思いついたんじゃない だろうな?

この力の抜き方と入れ方の呼吸は、パフォーマー達もさぞかし気持ちが良かったのではないか、と思われて、なんだか、お得感溢れる時間だった。

次にやるときは、鉄割アルバトロスケットに倣って、開場時からビールとおつまみ売り出しても良いかもしれない。小屋番が許してくれたら。

2008年2月18日月曜日

France_pan ジャン=アンリ・ファーブルの一生

17/02/2008 マチネ

虫眼鏡を通してミクロの世界を覗こうとするファーブルの、その虫眼鏡を構えた先には、実は観客席があって、観る立場と見られる立場とを逆転させていると考えられないこともない。

芝居のペースを落とし、ゆっくりと身体を動かし、台詞の間もたっぷりとって、観客にミクロなものを見つめさせようとしているのではないか、と、考えられないこともない。

でも、そういう芝居であればこそ、一瞬ごとの質感を流してしまっている感じがしたのは惜しい。
上手くいかない芝居でペースを落として間を空けて、加えて照明が暗いと、眠くなる。
申し訳ないが、何度か、落ちた。

虫の眼でミクロの世界を覗いて悦に入る人間に眼をつけているのだから、
虫の眼でミクロの変化を除こうとしている芝居の観客が、「どんな小さなことに目を奪われるか」に目をつけてみても良いかもしれない。少なくとも役者の演技は虫の眼を意識していないように思われた。

解釈を押し付けないで、観客の「見る」行為への動機付けを指向する意図があるのなら、それは買う。そうすれば、後は巧拙の問題である。

2008年2月17日日曜日

パパ・タラフマラ 新シンデレラ

16/02/2008 ソワレ

まず、当パンがまったく気に喰わない。
「(神話化の試みの)ポジションは外せない」、「人間と動物を超えた世界から見たユートピア、あるいは残酷物語に、本作品が見えてくると思う」、「何かを感じられたらそれは深いところでの理解が伴いだしているはずである」云々。

「もちろん、どのように見ようが自由だ。分かっても分からなくてもいいと思う」
というのであれば、冒頭に挙げたことは当パンに書かないほうが良い。
この2つの組み合わせで読み取れるのは、
「自分が観客に理解してほしいのは、A、ということです。もちろん、B、と理解しても構わないけれど、それは、あなたの深いところでの理解が伴っていないということです」
という、かなり傲慢な姿勢だ。

その上で、「今、最も必要なのは批判する心よりも、真剣に入り込むこと、没入する本気度だろう」
オレは、いつも、真剣に観てるよ。いわれなくたって。それともなにかい?何の批判もなく、チミタチの考え方のスレッドにはまってくれ、とお願いされているのかい?
もしこの舞台に没入できないとすれば、予め「A、という風に理解してください」といってしまう、パフォーマーサイドの傲慢さ故ではないのか?

でも、僕はパパ・タラフマラを信じてますよ。グローブ座のマクベスでドーーーーンとやられたのを覚えていますよ。能書きも理解も要らないところで、あんな面白いマクベスをみせてくれたではないですか。

だから、幕前、頭に血が上っていたものの、一旦冷静になって観た。

が、やはり、仕草や笑顔、奇声、変な日本語、時折混ぜる英語、すべてが、
「僕達はこういうふうにシンデレラを解釈し、その結果を提示します。その道筋を追いかけてください」
というメッセージにしか受け取れない。僕が舞台に求めるのは「解釈と表現及び観客によるその理解」ではない。僕がほしいのは「想像力へのきっかけ」だ。きっかけを孕まないイメージの提示は、全体としての舞台の豊穣さをやせ細らせるものでしかない。

1時間半、マシュー・ボーンのプロダクションが何故面白いのかについてずっと考えていた。結論はでなかったけど。

恋する妊婦

16/02/2008 マチネ

去年パルコ劇場で観た「シェイクスピア・ソナタ」で、岩松ワールドが大きな小屋・オールスターキャストでもやっぱり面白いことに味をしめて行ってみたが、うーむ、これは、正直、良くなかった。

芝居の構造は旅公演一座の色恋沙汰を扱っていて、「シェイクスピア」「妊婦」と似通っているし、個別にどこがどうおかしい、ということはなかった のだけれど。強いて言えば、今回の方が演技が大振りだったような。なんだか、小さい何気ない技なのにぞわぞわするような、そういう演技が見られなかったよ うな。

わからない。小さな小屋でやれば良くなる、という問題でも無いと思うし。うーむ。難しい。

2008年2月12日火曜日

青年団 革命日記

11/02/2008 ソワレ

再見。一度観て腑に落ちなかったところに、ある程度解答が見つけられた気がした。

やっぱり、役者一人ひとりにソロをとらせる、といった風情の組み立てをしている印象はそんなに外れていなくって、役者もある程度のノイズを許してもらっている感じか。
その分、アンサンブルの緻密さには若干目をつぶっているところもあるんだろう。
で、そうしてもよいと平田が感じているのだとすると、それはやはり、今の「若手」の役者がどこをスタート地点としているか、で、そこからこの先どこまで行けるのかについて、何かしら考えているのだろう。残念ながら、今の僕にはそれがどれくらい先なのかは分からないけれど。

いずれにせよ、今回は、「腑に落ちないな」というところから始まったので、むしろ力を抜いて楽しんで観れた。本当に、青年団「若手」は芸達者揃いで、これからアンサンブルにも磨きをかければとんでもないことになりそうな気がする。

キラリ☆ふじみ劇場 大恋愛

11/02/2008 マチネ

3人の演出家によるロミオとジュリエット通し舞台。1つのものが出来上がったというよりは、オムニバスの芝居が3本。たまたまロミジュリの違うパートが丁度繋がる順番に演じられた、というくらいに見たほうが良いだろう。

色々考えたことはあるし、個別の箇所も色々あったのだけれど。

1幕・2幕を観ながら考えたキーワードは、「解釈と表現」。異分野から演出家を引っ張ってきているにも拘らず、彼らが、従来の演劇と同じ枠組み「戯曲の解釈」と「それをいかにして表現するか」に囚われているのに、どう反応してよいのやら、という感じである。

3・4・5幕は多田節炸裂。尾崎豊とSPEED、どちらも、小生人に確認するまではよう分からん、そういえばカラオケ屋で良く聞いた時期があっ た、くらいの音楽に乗せて人が死にまくるのだが、僕がSPEEDに乗れなかったのと同じく最前列のご婦人方はあっけにとられておったよ。
でも、まぁ、こういう演出だからこそ、役者が安心して立てる、というか、「意図を説明する役割分担」の頚木から解放されている感じがしたのが、 良かった。役者一人ひとりの身体の動きやなんやらが一番良く視界に飛び込んできたのは、実は、「だるまさんがころんだ」のところで、まさに小生向きの演出 だった。

というわけで、トータル三本観て、うん、OK、とはいうものの、今日の3人の演出家のうち1人が、来年「グランド・フィナーレ」を演出するのだそうだけど、自分のひいき以外の演出家が演出することになったら、みんな、もう一度観に来るのかな?ふじみまで。
そして来年以降、同様の企画がふじみで打たれたら、そして僕の知人が関わっていなかったら、観に行くのかな? うーむ、あんまり楽しみでもないんですよね、正直。

いい小屋だし、ボランティアの方の雰囲気、客層のバラバラ感もいー感じな劇場なんだけど。

それにしても、役者の方々、本当にお疲れ様でした。

2008年2月11日月曜日

里美のぞみ 私は誰?

10/02/2008 ソワレ

3つの小品を1時間ちょっとで。
いきなり出だしで、石をこすってメロディが奏でられるのを聞いて、ぶっとばされた。
これが聴けただけでも、来てよかった、と思えた。

と、それじゃあ、パフォーマーの里美さんに大変失礼なので、マイムについても書くが、失礼ついでに言うと、小生、2番目のスキットの途中まで、
「ずいぶん中性的な男の人だなぁ」
と思っていたのである(本当にスミマセン!!)。
チラシを後で見返してみても、いやぁ、やっぱり、女性だよな...すみませんん...

こんな人が路上で紙をかぶったり転がしたり紙袋に入ったり糸を操ったりしたら、そりゃ、メキシコやアルメニアの子供や大人も寄ってくるよ。国籍・ 年齢・性別不明の(あ、す、すみません!)謎の東洋人が、四肢のどれがどれだか、糸の内なんだか外なんだか、そんなことをやってくれた日にゃ、そりゃ楽し かろう。

路上パフォーマンスといえばが~まるじょばも良いけれど、この、「これは 一体何なんだ!」という興味の引き方も、また、よし。
も1つ失礼ついでに言っちゃうと、このパフォーマンス、チケット買って心の準備してみるよりも、突如道のむこーーの方に白い物体がうじゃうじゃし ているのを見つけて寄って行って思わず足が止まっちゃう、的な出会いをしたほうが、より楽しめるのじゃないかと思いました。ご本人もそのほうがお好きなん じゃないかと。

みやざき◎まあるい劇場 こふく劇場プロデュース 隣の町

10/02/2008 マチネ

エイブルアート・オンステージが開くコラボ・シアター・フェスティバル。昨年シアター・トラムで観た時も、ガチンコの芝居として凄いものができる可能性を感じていたが、今回は青年団山内健司も出演ということで、かなりの期待感を持って観に行った。

去年も同じことを考えたのだけれど、エイブルアートの芝居を観る時には、
「障がい者がこんなに頑張っているんだぁ」
というような、ぐぁんばりに対する陳腐な賞賛と半ば見下した拍手・涙は厳禁である。
あくまでもガチンコで観る。駄目だったら駄目と言う。良かったら何が良いのかを言えるように観る。
人間、弱いので、ともすると「障がい者でよくぞここまで」という安易な感想に走りがちなので、そこは心して。安易な涙はいかんぞ。と思って臨んだのだが。
終演後、山内氏から、「泣きすぎじゃない?」と言われるくらいに、目が赤くなっていたようだ。

まず、これは、とんでもない戯曲だ。シンプルで太い線で、がっ、がっと力強く時を刻む。その力強さは、物語で観客を引っ張ろうとする強引な力では なくて、力士の足が地面をがっと打つ、その力強さである。余計な台詞を散りばめず、真っ直ぐな台詞の彫刻刀で時空を削れば、たちまちそこに此の町とあの町 を繋ぐ線路と駅舎が生じて、役者の足許に大地が広がる。もちろん、太い線だからこそ繊細さを持ちあわせる。ここしかないという位置取り、組み合わせ。非常 に勉強になる。

作・演出が同一人物なので、ある程度当然なのかもしれないけれども、演出も、戯曲の意図と力強さを同時に伝えて過不足がない。演出は、役者に説明を一切求めていない。きちんと立つことを要求しているに違いない。明確である。

そして役者。何と見事に立っていることか。去年、東京乾電池の新年公演を見たときに、まるで、柄本さんが若い役者達に
「君達はね、余計なことをしなくても、充分面白いんだよ。だから、安心して舞台に立っていなさい」
と言ってるんじゃないかという気がしたけれど、今回の舞台でも、そういう、演出と役者の信頼関係が際立って、そこでもう、涙が出てしまう。

和田祥吾は前評判通り、舞台の全体に目配りを利かせた立ちで魅せてくれたけれど、でも、芝居はアンサンブルなので、決して和田氏だけではないの だった。三人組、麻里、みっちゃん、駅員兄弟、それぞれが、どんな我を張るでもなく、それでいてしっかりと舞台上の「この瞬間」に根を張っているのが、ど うにも凄い。これが、芝居の醍醐味なのだ。

永山智行おそるべし。こふく劇場おそるべし。みやざき◎まあるい劇場おそるべし。宮崎は東国原だけじゃなかった。そして、このプロダクションを東京につれてきたエイブルアートおそるべし。
自らのアンテナが低かったにも拘らずこの芝居を観る機会に恵まれた自分は非常に運が良かった。

2008年2月10日日曜日

五反田団 さようなら僕の小さな名声

09/02/2008 ソワレ

雪の渋谷、NHKふれあいホール。五反田団におよそ似つかわしくないひろ~いホールである。舞台上に前のめり傾斜舞台を組み、マイクで台詞を拾っての、「さようなら僕の小さな名声」再演。

僕は、前田氏は本来この戯曲で岸田賞を取るべきだったと思うくらいにこのハナシが好きで、今回も堪能した。

芝居がはねた後、7,8年ぶりくらいにあった友人とその連れと、僕の連れと、4人で飲んでて、その友人が、
「お話としては、くいしんぼうのあおむしくん、だよな」
と指摘。そうだ!くいしんぼうのあおむしくんだ!忘れていた、あの「こどものとも」の傑作を!

そして、なおも彼曰く、
「最後は、もうこれ以上かけません、っていって終わっちゃってるよな」
との指摘で、うーむ、それって、去年の岸田戯曲賞の選評でも、複数の委員が指摘していたぞ。チミ、鋭いよ。僕は、でも、そういう投げ出し方って好きですが。

NHKトップランナーのネタは正直微妙にスベっているのではないか、との評価が大勢であったが、全体として、そのウルサ方の友人もしっかり1時間50分観たんだから、全体としても面白かったんだろう。

僕としては、大蛇に呑まれるのが「彼女」だったのが、ちょっと残念だった(ずっと「アニマ」かと思っていたので)のと、マターン人三人家族を存分に堪能したこと、リスの小技にも注目できたこと、などが収穫でした。

このお芝居を見逃したという方は、せめて福音館の「くいしんぼうのあおむしくん」でも買って読んで、涙を流してください。僕はあおむしくんよりも立蔵葉子のほうに泣けるが。

文学座+青年団 パイドラの愛

09/02/2008 マチネ

まず、好き嫌いから言う。気に喰わなかった。
何が気に喰わないかというと、戯曲が全く気に喰わない。

義母とその連れ娘を愛人とし、さらに司祭まで手篭めにしてしまうセックスマニアの男の話。
最後は義母自殺、自分は連れ娘と一緒になぶり殺しに会う。そういう話。

チラシによれば、「私の責任はたった一つ。真実を書くことです。それがどんなに不愉快なことであろうと。私は私です。他人がそうであってほしいと 望む私ではありません」と、作者のサラ・ケインは言っているようだが、彼女は、自分の真実には興味があっても、他人の真実には興味がなかったのではないか と思われる。

演出の松井氏は、一方で、「サラ・ケイン戯曲がオール・オア・ナッシング精神を発していたり、死の束縛を受けているかのような印象は、まやかし だ」という趣旨のことを言ってのけていて、それは凄く当たっている。あるいは、彼は、少なくとも、Aさんの真実とBさんの真実を較べてみて、その中で最も そりの合わなさそうなところを舞台に乗っけておいて、舞台袖でイヒヒと笑ってるくちの演出家である(AさんとBさんは、役者同志でも、役者と観客でも良 い)。今まで観た芝居は少なくともそうだった。

だから、この芝居の勝負どころは、自分の真実にしか興味のない作者によるベタベタベッタリな戯曲を、
舞台上で繰り広げられるコスプレの中では、外側に纏うコスチュームを引っ剥がしたところでそこに顕れる裸は実はストリッパーの裸と同じくらいコス チュームでしかないことを自覚しながら、そのコスチュームの際限のない取替えっこや脱がしっこに異常な興味を見せる変態演出家がどう料理するか、
という点にあったと思う。

で、その結果はというと、すっごく数の多い「見どころ」が散りばめられて、そんじょそこらでは見られないものを見させてもらったとは言うものの、
「どう?このショッキングでスキャンダラスなお話に驚いてね。」
というサラ・ケインのメッセージを打ち消すまでには至らなかった印象である。サラ・ケインの亡霊恐るべし。

2008年2月9日土曜日

小指値 霊感少女ヒドミ

08/02/2008 ソワレ

お洒落でビジュアルで身体も動く。一見、40のおじさんに立ち入る隙はない。
が、三浦俊輔の演技は、ご本人には失礼ながら、おじさんが一瞬で感情移入してうるうるするのに充分だった。

岩井秀人の台本は、彼がしゃべるために書かれていたのかぁ!とも思わせる。
岩井秀人の台本の自虐は、実は三浦いぢめだったのかぁ!とも思ってしまう。
それくらいに、三浦氏の演技にうなった。
「おかえりなさぁい」で手を振るところからおっと思う。体幹が定まらない立ちもまた良い。

全体に、センスだけじゃないぜ、という自負も溢れて、小癪な連中であった。

1つアゲアシ取るとすれば、オルガさんには是非ロシア語で話してほしかったな。パッと見、顔つきとか体の動かし方とかロシア人風だったし、おそらくネイティブ英語じゃないと思ったのだが、どうか。

2008年2月7日木曜日

城山羊の会 新しい橋

06/02/2008 ソワレ

面白かった。前回ほしのホールで観た時は、ムーン、次は観ないかな、と思っていたので、何だか拾いものをした気分だ。
変態役者古舘寛治(NOVAのタケちゃん)が深浦加奈子さんと夫婦の役、と聞けば、それは観に行けば何かあるに違いないと思っていたが、期待に違 わぬ変態ぶりである。深浦さんの「ふふふ」笑いも、ほしのホールのようなひろ~い小屋よりも駅前の方が良い。いや、深浦さんに限らず、役者、駅前で観た方 が観やすかった。そういう演技なのか。

1時間53分の芝居ということだったが、すっきりと観れた。いや、正確にいうと、1時間40分経ったところで一度時計を見た。最後の15分は、ち と、話をまとめにいった感じもして、もしかすると、深浦・古舘・石橋三者会談のシーンで終わっちゃってもよかったのかもしれない、とは思ったが。

そういえば、前回も妙に話を畳みにいっていたのが気になったこと、冒頭の入り方のあざとさに「やられた!」と思ったことなどを思い出す。

このテの変態噺では、(怪談とかそういうものでなければ)、妙に噺を落としたり畳んだりする必要は無いと思うのだが、どうか。巧くまとめないまま で観客を劇場の外にほっぽり出しても充分許される水準の役者と変態さとは備わっていたと思う。次、観るかどうか。小屋と客演の役者次第かも。

2008年2月3日日曜日

飛ぶ劇場 あーさんと動物達の話

02/02/2008 ソワレ

力強い舞台、というのはこういうものを指して言うのかなぁ、と思いながら観ていた。
38歳無職引きこもり、金には不自由せず、という人間を巡って、セロ引きのゴーシュと岡田利規いうところの歴史の一番の先端とさだまさしライブが渾然一体となって物語を形作る。

実は、この「物語」を飽きずに見れた一つの大きな要因は、この芝居が北九州弁で綴られていることで、それなら任せろ、なんせ小生の弟は主宰の泊氏と同じ高校、歳は二つ違い。かどつかさ高校にもおおさと高校にも僕の小学校の時の友達は山ほど行っている。

もう1つは、38歳という年齢設定かな。僕が入っていきやすい年齢。かつ、「あの時こういう展開になっていたら」という自分史のればたらが、かなり自分として移入しやすいものではあった。

更に挙げるとすると、おそらくアゴラで初めて見た回転舞台。こんな大掛かりな舞台の仕掛けは、代引真という舞台監督がいた昔の青年団ではよく観たけれど、最近はご無沙汰していたもの。

という、3つの要因があったとしても、だ。引き込まれたなぁ。

なぜか、「たまねぎ!」の台詞をきっかけに涙がでてきて止まらなくなった。
なぜ「たまねぎ」だったのか、それは、今思い返しても全く説明がつかず、ひょっとするとその「たまねぎ」という言葉が刺激臭となりかわって僕の眼に飛び込み、どうにも生理的現象としてしか説明の仕様が無い涙を引き起こしたのかもしれないが、
とにかく、「たまねぎ」だった。

地に足の着いた、嫌味のない、周りも全部見えている上でこういう芝居に立ち位置を見出すスタンスがすばらしい。
ひょっとしたら「ありきたり」な話なのかもしれない。でも、数あるこういうありきたりの話の中で、セロ引きのゴーシュの詩と「歴史の一突端」としての自分とさだまさしライブを一緒に押し出せる芝居って、そんなには無いとも思う。

青年団 革命日記

02/02/2008 マチネ

若手公演とはいいながら、役者の力量は「若手」で済ませることの出来ないほどで、昨年末から「火宅か修羅か」「隣にいても一人」「革命日記」と飛ばし続ける青年団の俳優の層の厚さに、今更のように驚く。

飛行場の管制塔と大使館の同時占拠。それが革命の口火となること。人々の間に革命への息吹を吹き込むこと。
そんなバカみたいなことを真剣に考えている人たちの話なのだが、でも、ついぞ20年前にはそういうことをリアルなものだと思っている人たちを実際 に目の当たりにしたことがあるし、つい10年ちょっと前には、そういうバカな人たち(路線は違うが)のために東京の地下鉄で命を落とした人がたくさんいた のだ。1970年代には、きっと、この「革命日記」で発せられる日本語も、もっとリアルなものとして体感され、共有されていたのではないか、という気もす る。

そういう日本語を、青年団「若手」の身体から受け取ることが出来るのは幸せな体験だった。

ただし、この芝居で前面に出てくる構造としての滑稽さは、観客からみると、ひょっとすると「遠い話」に見えちまわないか、と危惧した。「一般市 民」との接点や、「てめえの暮らしさえ変えられないやつが国の心配してどおするねん」というのは、一歩間違えるとティピカルな対比(と、それによるスパイ シーな味付け効果)だけとして捉えられる危険を冒している気がする。
だから、「海よりも長い夜」の方が、完成度の高い戯曲として位置づけられるのだろう。

青年団若手役者ショーケースという意味では、100点満点で150点。満喫した。青年団には珍しく、ジャズのビッグバンドで一人ひとりソロをとっ て魅せてくれた、という感じ。でも、その分、どうでもよいくらいにびみょーーーなアンサンブルを必ずしも要求しない戯曲になってた気がする。やろうと思え ばできる役者たちだったのに。なんでだろう?