2016年10月19日水曜日

東京デスロック

15/10/2016 14:00 @赤レンガ倉庫1号館

久しぶりに東京デスロックが観られた。チェーホフの三人姉妹を題材に、でも、「亡国の三人姉妹」というタイトルで、舞台の上も19世紀のロシアの田舎町ではない。
舞台上には大きなテント、周囲に乱雑に散らばった物、段ボール箱。テントから段ボール、果ては登場する役者の衣装にまで、ことごとく、大小の真円の穴が開いている。一見して、「どこかの」難民キャンプを表しているように思われる。テントは仮住まいかも知れない。破壊された住まいかも知れない。真円の穴は、銃弾の穴であり、砲弾の穴であり、人々が失った大小様々なものであるかも知れない。

筆者には、それは、シリアから難民が逃れてきた先に辿り着いたキャンプに見える。あるいは、テントに逃れる前に人々が住んでいた街、例えば、アレッポに見える(アレッポにテントが張ってあるわけではないことは分かっているけれども)。あるいはそれはイエメンかも知れないし、カレーのジャングルかも知れない。あるいは、原発事故のために移住を余儀なくされた人々の仮住まいかも知れない。それが劇中明示的に示されることはない。

その舞台に三人姉妹を重ねて、台詞の順番は、編集はあるものの、ほぼオリジナルに沿って進む。ただしここでも、台詞を話す相手が「不在」であったり、落ちていた人形に台詞を喋らせる仕立てであったりと、「本来そこにいるべき語り手・聞き手の不在」が常に仄めかされる。あるいは「キャンプの人々によって演じられる三人姉妹」を「東京デスロックが演じている」ようにも見える。その入れ子構造は、明示的に示されることはない(と、少なくとも筆者には思われた)。

極めてざっくりとこの芝居を図式化すると、この芝居は、(1)オリジナルの三人姉妹の舞台である19世紀ロシア (2)21世紀のどこかの難民キャンプあるいは戦火の街あるいは仮住まい (3)日本に本拠地を持つ東京デスロックの役者達が横浜で演じる舞台 の3つの世界を結ぶ三角形の中で、3つの異なる世界を重ね合わせたときにどんな像が結ばれるのかを試す舞台である。

この仕立ては、2014年に観たカルメギや、筆者未見だけれども2015年の颱風奇譚にも通じるものがある。すなわち、
カルメギ=(1)19世紀ロシア (2)日本の植民地であった時期の朝鮮半島 (3)日韓の役者による日韓の舞台
颱風奇譚=(1)17世紀の劇作家が想定した虚構の世界 (2)日本の植民地であった時期の南シナ海 (3)日韓の役者による日韓の舞台

そして筆者は、今年、同じような仕掛けの芝居をロンドンで観た。シリアから逃れてきた女性達によって「トロイの女達」が演じられるという仕立ての“Queens of Syria”である。
Queens of Syria=(1)2500年くらい前の劇作家が想定した、何千年か前にギリシャに滅ぼされた街 (2)21世紀、様々な物達に破壊された街・クニ (3)(2)の当事者の女性達(この場合は、厳密には三角形は成立しない。むしろ、2つの点を結ぶ線が引かれている)

こんな屁難しげなことを書いても、芝居が面白く観られるってわけでもなさそうなものだが、で、それは分かってはいるのだけれど。

それならなんでまたこんな図式・構造の話を長々と書いたのかと言えば、それは、舞台を観ていて、図式は見えるけれども、役者の演技を通じて、3つの世界がピタッと重なって何か得体の知れないモノが立ち上がってきた感じがしなかったからである。言い方を変えると、役者達は、一種途方に暮れているようにも見えた。右のかなたに「帝政ロシア」を、左のかなたに「シリア」を見、その2つをグイッと自分たちの方に引き寄せてこなきゃならないのだけれど、右も左もあまりにも遠いじゃないか!その「引き寄せる」「引き寄せようとする」プロセスを、120分間見続けていた感じがする。それ自体は観客にとっても不毛な時間ではなくて、筆者も役者が苦労する姿を(一種意地悪に)楽しんだのだけれど、「完成形」が立ち上がったら、それは、カルメギやQueens of Syriaのように、もっと飛距離が出たに違いないとも思われる。

特にQueens of Syriaとの比較で言うと、Queens of Syriaは、まさに「当事者」によって語られていたわけで、そりゃ演者と語られるシリアの距離は近いに決まっていて、グワッと迫ってくるのは一種当たり前だ。だから、この「亡国の三人姉妹」の中で役者がシリアを引き寄せようとすることが無意味だとか、絶対にQueens of Syriaにかなわないとか、そういうことを言っているのではない。その距離にこそ、また、距離から来る誤解や逸脱にこそ、演劇の想像力が働く余地があって、その距離に、筆者はシビれる。
Queens of Syriaで筆者がシビれたのも、「当事者が語る悲惨な出来事」への同情でシビれたのではなくて、演者達がそこで敢えて「距離を空けて」語る態度、演技にヤラれたわけで。

そういう意味では、今回のデスロックは、(いつものことながら)観客の想像力までも試していると言えるのかも知れない。筆者の妄想力をもってしては、残念ながら、後半、子供服が干してあるシーンぐらいから「シリア」「ロシア」「日本」の3枚のシートの凹凸が随所で噛み合い始めたと感じるにとどまったが。

今回の横浜公演はツアーの出発点。これから公演を重ねる中で、きっともっと飛距離の出る芝居に仕上がるはず。それが見届けられないのは残念なのだけれど。

A Gamblers' Guide to Dying

09/10/2016 19:30 @Southwark Playhouse

去年のエディンバラで初演を観た、Gary McNairによる独り語り芝居を、今度はロンドンで。
本作については、筆者の日本語訳、RoMTによる日本ツアーがつい先週終わったところ。これから本家Gamblerの座組はNYツアーと言うことで、誠におめでたいタイミング。日本でのドラマターグを務めた松尾氏とともにSouthwark Playhouseへ向かう。ちなみに松尾氏は、昨年のエディンバラでこの公演を観ていないから、本家の公演を観るのは今回が初めて。

終演後の松尾氏の第一声「日本語版とぜんぜん違う!!」が、多くのことを物語っていたと思う。RoMTの田野氏が「英国本家版と同じように仕上がった!」と豪語していたことを考えると、いやはや、感無量である。その違いについては、後日たっぷり松尾氏に語ってもらうとする。

筆者の感想としては「記憶していたよりも、案外観客に向かって語ってないな」というのが一番大きい。もしも昨年来演出に大きな変化がないのであれば、それは、筆者が「テクスト」を読んでいるうちに、段々と、「演じられていた」バージョンよりも「このテクストを自分がどう読むか」バージョンに解釈が寄っていって、その解釈が観劇の記憶を歪めてしまった、ということなのだろう。おそろしいことである。そしてまた、大いに愉快である。

あるいはまた、客層の違いもあるとも思われた。言ってみれば、エディンバラはこの座組にとってはホームであって、客層も、スコットランドに住む人々が多数派(それも、わりかし高齢のカップルも多かった印象)。言い換えれば、「語るに足る」相手だったわけである。今回はロンドン公演。イングランドの、しかもロンドンの連中に向けてグラスゴーの話をするんだから、そこは若干よそ行きになっても仕方がないかも知れない。実際、筆者が一番違和感を覚えたのは、冒頭の始まり方で、エディンバラではもっと客席を見回して間をたっぷり取って、そこから語り始めた印象が強かったのだが、今回は、舞台奥からさっと入ってきて、さくっと芝居を始めた印象。そう。「語り」ではなくて「芝居」が開演した感じだったのだ。

そう言えば、Hogmanayの恒例番組も、スコットランドローカルのJackie Birdじゃなくて、BBC2のJools Hollandの番組になってたし、Countdownも今風にDo you want to be a millionaireに変わってたし。ラストの台詞にも若干手が加えられていて、語り初めの言葉を用いて芝居の風呂敷を畳みに行くという、一種芝居っぽさ満載の台詞回しで、それも筆者としてはややがっかりではあった。

と、色々ケチをつけたりもするけれど、しかし、それにしても、上質の語りものであることには間違いがないと考えていて、そこは満喫。加えて、日本語版が一度出来上がっちゃったことには変わりなくて、それはそれでまた独自の道で進化していくのだろう。それもまた愉快である。

2016年10月18日火曜日

No Man's Land

01/10/2016 14:30 @Wyndham's Theatre

ピンターの芝居を最後まで気持ちが離れずに観ていられたのは、多分、初めてだと思う。
そりゃ、イアン・マッケランとパトリック・ステュアートの共演となれば、クソ味噌の出来にはならないだろうという読みはあったし、
正直言って、そこら辺は役者の名前で観に行っているという部分はあったのだけれど。役者4人はそうした下世話な期待を遙かに上回って素晴らしかった。

No Man’s Landという割には、冒頭の年寄り二人のやり取り、若者二人が入ってくるところ、地名がはっきり出てきて、北ロンドンご当地芝居の様相である。Hampstead Heath、Chalk Farm。ああ、あの辺のお屋敷なのね、と思い当たるのだが、そうやって引っ張っておいて、一方で一切外とのコンタクトが示されないところにこの芝居の妙がある。

訪ねてくるべきFinancial Advisorはやって来ないし、外の景色は見えないし、誰も何所へなりと出かける気配もない。名前だけは出てくるけれどもリアルではない。パトリック・ステュアートの記憶も、語られるけれどもリアルに像を結ばない。いきなりそれに反応できてしまうイアン・マッケランが、ただ話を合わせてるだけなのか、本当に記憶を共有しているのか、それも定かではない。建物の中を舞台にした、いい大人の男4人組のお屋敷ごっこのように見えてくる。

筆者はベケットのEndgameを思った。でも、Endgameでも、Clovは窓から外を観ていたはずだ。外の景色はあったはずだ。
Endgameの外が荒涼としていそうで、でも何かがあるのかもしらないという感じと、この芝居の、外には何もかもあるのだと語られているにも拘わらず「本当は何もないのではないか」と思ってしまう感じ。同じコインの表と裏のような気もする。

そういう、どこにも行かない芝居を最後まで見せきってしまう役者陣の力量を堪能した、というのが今回の一番の収穫か。

2016年10月9日日曜日

Our Ladies of Perpetual Succour

24/10/2016 21:00 @National Theatre, Dorfman

昨年エディンバラで観た「嗚呼! 花の聖マリア学園合唱部!」あるいは「魁! 聖マリア学園合唱部!」。今回も素晴らしかった。
1年の間に辞書引きながら上演台本読んでおいたのも功を奏し、内容でロストする部分も大幅に減って、大変楽しんだ。

去年観たときには、女子高生役6人の歌の上手さもさることながら、彼女たちの破天荒な行動や台詞のお下劣さもあって、
最後までテンポとパワーでもって行かれた感が強かったけれど、
今回は、展開も全て心得た上で臨んだが、いやはやどうして、テンポや破天荒さだけではない、この芝居、正統派直球の等身大青春ミュージカルじゃないか。

恋に悩み、バンドに悩み、進路に悩み、生と死について考え、酒もタバコもセックスもマジックマッシュルームもトイレお着替えも救急車も、おんなじフォームでビシッと投げ込んでくる。
そこら辺が、青春ミュージカルなのに筆者が面白く観られた大きな勝因じゃないかと思うんだ。
「愛」について語るお上品なミュージカルではないし、「悪意とゴミ溜めをありがとう」なミュージカルでもない。
汚いも綺麗も、ゲロも涙も、全てを同じ力強さで掬い取って、濃淡つけずに舞台に載せて、
それは実は、6人のティーンエイジャーの視線から見える世界との距離感で、つまり、舞台に載っている事柄は、すべて、彼女たちにとってはどれもおんなじぐらいに大切なことで、
だからこそ「それをそのまま彼女たちが舞台に載せました」という設定が効果を発揮する。

ラストの長台詞では、見てる絵としてはそのまんま80年代日本の小劇場演劇(かつ、等身大ミュージカル)みたいなのに、
Lee Hallが用意した台詞じゃなくて、「彼女たちが自分で書き込んだ台詞」みたいにきこえて、ついついグッと来てしまった。

脚色のLee Hallの主観は、そこも含めて、あまり強く芝居に反映されていないようにも見えるけれど、
舞台奥に光るマリア様の視線があって、それは一種、彼女たちを見守る目であり、客席から彼女たちを見守る視線の代わりになっている。
あるいは、最後にちょろっと出てくる駅員のおじさんの目線。
そういうところがあるから、この舞台はティーンエイジャー達の独擅場、「若い人向けのミュージカル」にならず、大人の観客が入り込む余地を残した、心憎い仕上がりとなった。

これ、日本人キャストでは無理があろうから、このまま日本にもってっちゃったらどうかな?
鳥の劇場とか、キラリふじみとかで観たらぐっとくるだろうなぁ。十分楽しめると思うんだけどなぁ。どうかなぁ?

2016年10月2日日曜日

Yerma

24/09/2016 14:30 @Young Vic

ガルシア・ロルカのイェルマを現代英国に翻案して、子供が産みたくてしょうがないアルファブロガーのジャーナリストを(Dr Whoで知られる)ビリー・パイパーが熱演!
いやー、こりゃ見応えありますねー、ということで新聞の劇評も4星・5星目白押し、さぞかしな芝居なんでしょうね、と観に行ったが、
あぁ、ビリー・パイパーって、演技できるんだなぁ、ということ以外に得られるものは何もなし。

前半はゆったり始めつつも、暗転が多くて目障りだなぁ、との印象。
暗転の度に掲示板に「2週間経過」とか「3ヶ月経過」とか表示されて、へぇ、そうなんだ、とは思うけれど、
役者の会話をじっくり味わう余裕がなく、むしろ、話を無理矢理進めるために巻きを入れている感じがして、落ち着いてみていられない。

そのうちに、ビリー・パイパーの子供欲しい病がエスカレートして、日常生活に支障を来すようになってくるのだけれど、
そうなったトリガーが見えない。
そう思う動機が見えない。
その背後にある社会的状況はそもそも見せようとしていない。

自らの妊娠・妹の妊娠に対する「周囲からの期待・思惑」「共同体からのプレッシャー」は一切関係なく、さすが現代英国、全部「個人の自由意思」である。
え? でもそれ、ロルカが元の戯曲で書いてたことからスライスしてませんか?
いや、ビリー・パイパーの個人の意思とそれに振り回される周囲の人間、という芝居で、いっこうに構わないのだけれど、
それじゃあ、本当に、ロルカの原作使う必要なくないかい?
あるいは、ビリー・パイパーのオブセッションの対象は、子供でなくても全然良くないかい?言ってしまえば、かっぱえびせんへの執着でも、服に対する執着でも、芝居に対する執着でも、何でもいいんじゃないの?で、イェルマ、っていうからには、「何故彼女は自分が子供を産むことに執着せざるをないのか」がないと。
説明はしなくて良いけど、そのバックグラウンドを観客が想像できるぐらいの種まきはしておかないと。

二方向の客席から長方形の舞台を挟んで、舞台と客席の間のアクリル板で「舞台を観察している」感を出したか。
マイクで音を拾ったり、舞台転換もおカネを掛けてそれなりにスマートにやっていたし、そりゃそれでいいんだけど、
そこまで。

ビリー・パイパーはそれなりに抑えた演技も出来る役者で、共演の男優陣もきちんとしていたから、もうこれは、プロダクションのコンセプト自体が当初から破綻していたのだと諦めるほかない。
熱演、ご苦労様。残念でした。

2016年10月1日土曜日

地獄谷温泉 無明ノ宿

17/09/2016 15:00 @パリ日本文化会館

地面を深く掘り進めていくと、その奥底にはマグマがグラグラ煮えさかっていて、
人に見えないところでグラグラと、ゆっくりと、ダイナミックに、暗黒の中を蠢いているのだろう。
そして、その蠢きが地表近くまで来ている場所が時々あって、そこには温泉が湧いて、
気立ての穏やかな温泉ではそれは適温となって人の肌に触れ、
気立ての荒い温泉では高温の熱湯となって吹き出すのだろう。

この、庭劇団ペニノの芝居は、そういう芝居だったのだろうと思う。

前景に立って物語を進める人形遣いの親子は、外見は人目を引くけれども、そしてまさに「怪演」というに相応しいけれども、
実は、その他の登場人物 - 村人たち - の人々の心の動きの触媒である。触媒、でしかない。

この芝居を観ながら筆者が追い掛けていたのは、実は、マメ山田さんや辻孝彦さんが次にどういうアクションを起こすか、ではなくて、
そこで、他の登場人物達の感情・心がどう動くのだろう、ということだったのではないか。

そうやって、異形の者たちを前面に出しながら、実は、よりダイナミックに蠢いているのは、他の湯治客の心であり、それをまた眺めている観客の心である。

辻さんの演じる「息子」が、情動に欠ける、いわば「触媒」に徹した真っ黒なモノ、であったのに対し、
マメさんの「父親」は、その構図(自らが他人の情動の触媒となっていること、息子にはその自覚すら与えていないこと、そして、この芝居の構図の中で観客の心が動いていること、そうした全て)
を全部見通す存在として舞台に立っていた。
「息子」は人形と人形遣いへの奉仕に徹する一方で、「父親」は人形と共犯の関係を結び、周囲の人間にその暗黒のグラグラに触れるよう誘っている。
そこに触れた瞬間、そこにある深ーい闇への恐れから思わず手を引っ込めてしまのだけれど、情動の奥底のグラグラが地表に噴き出して、そこにドラマが生まれる。

芝居の前景と後景が実は入れ替わっていることで、芝居としてのバランスが非常に良く取れていた。
舞台美術も素晴らしいし、役者もみんな素晴らしい。役者達の裸の身体は、マグマの熱が地表に触れたときの温度の感覚とそれへの反応を舞台上から伝えて、そこに彼らが裸でいることの必然を感じさせた。
この芝居、観ることができて本当に良かった。