2009年5月9日土曜日

蜻蛉玉 すこし、とまる

30/04/2009 ソワレ

むかーし読んだSF短編物語で、四次元の人が何か大事なものを三次元の世界から四次元の世界へと持ち去っちゃって、それを取り返すために悪戦苦闘する、という話があった。
相手は四次元の人なので三次元にいる僕らには見えないのだが、そういう四次元の人とどうやってコミュニケーションをとるかといえば、その四次元の人が三次元に現われる「切り口」を捕まえて、そこでコミュニケーションとる(なんだか分からない肉の塊をくるくる回して、先方の感覚器官を三次元空間に露出させた!)っていうプロットがあったのを覚えている。

何でそんな、「すこし、とまる」とはまるっきりモチーフを共有していないエピソードを冒頭に持ってくるかといえば、それは、四次元を三次元に写し取るのと同じくらいに、現実世界を舞台の上に落としこむことは難しく、また、はなから、「全部」だったり「正確」であったりはしない、ということを言いたかったのだ。だから、舞台に載っているものだけを観て、それが一見して作者の自意識を幾ばくか反映しているからといって、それが作者の自意識の総てではない、ということである。作者の自意識は、もっと高い次元に畳み込まれていて、僕らの目には見えないところにあるのです。

「蜻蛉玉」の芝居が面白いのは、いつ観ても、その、作者の、高い次元に畳み込まれた自意識が漏れ出す様が面白いからなのです。いかにも、「漏れ出している」からなのです。前にも書いたけれど、「私の自意識を受け止めて!受け止めて!見て、見て!」とあからさまに振舞ってはいない。けれど、より高い次元、僕らの見えないところに何かが隠れているのを感じる。それがじとじとと浸み出している。それが気持ち良い。

今回の「すこし、とまる」は、自殺未遂の兄とその妹と、二人が共有しているようで共有し切れない記憶の話。現代口語演劇のつくりを、全体を鳥瞰する「神の目・三人称」派(代表平田オリザ)、自分の視点で見えるものにこだわる「一人称」派(代表岩井秀人)に乱暴に分けるとすると、この芝居は兄の視線を共有しようともがく点で「二人称」なつくりになっている。そこらへんもまた、自意識の浸み出し方に関連しているのかもしれない。

兄の病床を基点にして記憶の幕をぐいっと開いて、そこからこぼれでるものに着色して舞台に載せる。兄の記憶そのものはモノクロだったに違いなく、その褪せた記憶に妹が自分の好きな色を塗って、そうなったところで、共有されるもののそもそもの出所は曖昧になっていく。

そういう話です。そういう芝居を観ていると、「島林愛とは何者なのだろう」という興味が湧いてくる。かといって、何度この芝居を繰り返し観たところで、答は出ない。畳み込まれた四次元の世界への想像(あるいは妄想)が広がるばかりなのだが、それが芝居を観る醍醐味の一つなのだと、僕は思う。

だから、芝居のネタを解説してくれるようなポスト・パフォーマンス・トーク、っていうのは元々あんまり好きじゃないのです。上演後、島林氏が絵本を朗読している間、僕は、「ひょっとしたら、島林氏の自意識は、この「見て見て」なパフォーマンスの表面には無いんじゃないか。むしろ、島林氏がいない空間に、ひょっこりと、畳み込まれたものがはみ出てくるのではないか」という妄想を払いきれず、じっと虚空を睨んでいたりしたのです。

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