2016年5月25日水曜日

A View from Islington North

21/05/2016 14:30 @Arts Theatre

正面切って「現代政治を諷刺する」と宣言して、そのものズバリ政治諷刺芝居6本立て。当たりもあればハズレもあって玉石混淆。
始まって最初の週末、客席の埋まり具合が若干寂しいのもむべなるかな。

冒頭の”The Mother”は先ず諷刺どころかおセンチさが先に立ってアジ芝居じみ、ピンとこない。
3本目の”The Accidental Leader”と5本目の”How to Get Ahead in Politics”は、それぞれ「労働党のコービン下ろし」と「保守党の選対コメディ」を狙った正統派政治諷刺コントで、起承転結うまーくまとめてあったが、コントは所詮コントの枠を出るものではないし、テレビの諷刺もの(”Yes, Minister”や”The Thick of It”)の方がむしろより上手に作ってあり、かつハチャメチャで楽しめるんじゃないかとも思われる。

その点、2本目のCaryl Churchillによる”Tickets Are Now On Sale”と、4本目、David Hareの書き下ろし”Ayn Rand Takes a Stand”は、前掲の3本と比べて芝居として格段に面白く、しかも諷刺としてもバッチリ作用して、この二人、伊達に巨匠と呼ばれている訳ではないのだと思い知る。

Churchillの作品は5分足らずの掌編だが、他愛のない男女二人の日常の会話が、繰り返される中で微妙なズレを生じ、笑って良いのか悪いのか、そのズレがエスカレートしていく。それを、日常の背後に隠されている政治性を一枚一枚服を引きはがすように暴いていくと見るのか、事態がエスカレートしているのにも拘わらず、日常の報道の中でそれへの感覚が麻痺していく様を描いていると見るのか、それとも他にも色々と見立ては成立しそうにも思えるけれども、いずれにせよ、シンプルな仕掛けによって観客の想像/妄想のスイッチをカチッと入れて、毒と諷刺がバッチリ撒き散らされる、切れ味抜群の芝居だった。

一方、David Hareによる”Ayn Rand Takes a Stand”は堂々たる風格、現代諷刺劇というよりはむしろギリシャ古典劇にも似て、重厚な会話で綴っていく。ちなみに、Ayn Randという女性は、筆者も芝居を観るまで知らなかったのだが、20世紀米国を生きたロシア系の思想家/小説家、「客観主義」を唱え、「資本主義急進派」を自認した人物。このアインが対峙するのは、スーツをビシッとキメたインテリ男、ギデオンと、ブロンドのボブでキメた強面の女性、テレーザ。すなわち、現在の保守党政権の大蔵大臣ジョージ・オズボーン(彼は13歳の時に自分のファーストネームをギデオンからジョージに変えている)と、内務大臣テレーザ・メイである。ジョージ・オズボーンはUKのEU残留派筆頭、一方のメイはEU離脱は支持しないものの、移民・難民の受け入れに極めて否定的なスタンスを取っていることで知られている。そこで、自らもロシアからの移民であったアインが、資本と同様人間の移動も自由にすべきとの持論を展開、オズボーンを焚きつけながら、メイの説得を試みるという筋立て。いや、この3人のやりとりが、どうにも聞き応えがあって、面白かったのだ。オズボーンとメイのキャラ設定が、日頃メディアで触れている彼らのキャラと一致しているような(だから、舞台上で見たときに、あ、こりゃオズボーンだ、テレーザ・メイだって分かるぐらいには一致させている)、でも、微妙にずらしているような(そりゃそうだろう)、そのあたりの感覚が、諷刺の王道を感じさせる。実名を出しながら、実物でない感覚。

なんか、こういうの、他になかったっけ?ギリシャ劇だっけ?
あ、分かりました。中江兆民の、三酔人経綸問答ですね。

そんなものを舞台に載っけて面白いのか?話が難しすぎないか?って思われる向きもあろうが、いや、これは、政治諷刺劇ですから。そう断りましたよね?
って言われるとぐうの音も出なかろう。
その上、舞台上の人物が三人三様じゅうぶんにキャラ立ちして、全く見飽きないのだ。この一本だけでも、十分に観に行く価値がある。

この、休憩一度を挟んで90分の舞台、6本のオムニバス、音楽は、過去30年間政治にコミットする歌を作り続けてきたビリー・ブラッグが参加していると聞いていたのだが、劇中音楽が一切無く、あれれ、と思っていたら、最後に出ました。ブラッグ氏による歌を登場キャスト全員で、アカペラで。玉石混淆の5本の芝居を観た後はこういうオチで締めくくるのが吉。楽しんだ。

Boy

14/05/2016 19:30 @Almeida

これは、大変な芝居だ、と思う。表は静かに、ロードムービー風のタッチで見せておきながら、実は相当深く抉ってくる芝居である。

劇場に入ると、幅三尺のベルトコンベアが蛇行しながらゆっくりと周回している。客席はそれを取り囲むように、あるいは見下ろすように組まれている。コンベアの上には10人余りの役者が座って、回転寿司のように場内を巡っている。機械の作動音なのか重低音の音楽なのか判別し難い音がずうっと流れている。よく見ると、役者達は腰かけているけど、お尻の下には椅子が無い。空気椅子である。空気椅子を客入れ中10分も15分も続けていられるのは、きっと、大道芸人が良くやっている「メカ空気椅子」の仕掛けがズボンの中を通っているのだろうと察せられる。

このコンベアに乗っている一人の少年、おそらく16−17歳、が、この芝居の主役である。主役だけれども、彼にはほぼ何も劇的なことは起きないし、彼は周囲に対して何ら劇的なことを引き起こさない。色々な物事が、開演後70分の間、舞台上でコンベアに乗って起きるのだが、それらは全て、主役の少年の視野の中で、あるいは、視野の外れに近いところで、起きているにも拘わらず、彼の存在と関係なく起きているようにも見える。でもやはり、この少年はこの芝居の主人公である。この芝居は、少年の自宅近辺、おそらくロンドン市内の、イーストエンド周辺の町のバス通りから、ウェストエンドへ、そして再び彼の住む近所の町へと移動しながら、少年の足取りと視線に従って進行していく。

周り続けるコンベアの上に、バス停や、玄関のドアや、役所の受付や、PC机や、スーパーマーケットのセルフチェックアウトの機械が置かれて、色々な場所が立ち上がり、そこに20人の役者が一人で何役もこなしながら様々な出来事が立ち上がる。そうやって生まれたシーンは、コンベアの流れと共にぶつ切りとなって消えていく。芝居の時間は淡々と流れ、淡々と終わる。

簡単に括れば、16−17になって、学校を卒業して、進学もせず、職にも就かず、友達も彼女もカネも無い、口べたで、さりとて、頭の中に渦巻くものを一定の考えに纏めていく気力もきっかけもないまま、居場所のなさを抱えて街をぶらつく少年の話。行き場の無い、外界との交流も無い日常を淡々と描ききることで、現代社会が見落としているものを浮き彫りにする作品だ、と言っておけばよい。

でも、そんな芝居では僕に突き刺さってくる訳がない。筆者をドーーンとさせてしまったのは、「寂しい少年」とか「自分もそうだった/自分にもそういう部分がある」っていう感情ではない。

劇場にいる観客は、少年の視線を辿りながらも、少年の側にはいない。どちらかと言えば、少年の周りにいる「大勢の人々」の側にいる。わたしたちは、バスを待つ人々であり、友人であり、役所の職員であり、医師であり、スーパーマーケットの店員であり、客であり、身なりの良いビジネスマンであり、酔っ払いであり、路上生活者である。そうしたわたしたちが、ある一人の、プラプラしている少年に突き当たる時間は、一日の中でせいぜい何十秒か、長くて何分かがいいところだろう。舞台を通り過ぎていく人々は、少年から観れば通り過ぎているのではあるけれども、実は、それはわたしたちであって、舞台上の少年の姿は、それは、通行人からちらっと見える、見たところ何もしていないしこちらにとって何の実りも無いどこかの、とある少年の姿だ。

わたしたちは、そういった、街で見かける人に対して、ぼんやりと、「あぁ、この人にも、彼/彼女なりの、それぞれの物語や人生や起伏や、そういったものがあるんだろう。いや、あるはずだ」と勝手に思い込んで生きているのだけれど、この芝居を観て、
「あぁ、世の中には、この少年のように、語るべき物語もなく、起伏もなく、行き場のない、それを外に示すことも出来ない、そういう人がいるんだなあ」
って思う人もいるだろう。一方で、
「いやいや、それは断片断片だけ見ていても物語は読みとれないさ。本当は、この少年にも、語るべきものはあるんだよ。それを読み取ろうとしない周囲の無関心を抉り出したのがこの作品だよ」
っていう人もいるだろう。そしてまた、
「そんなのはあんたの勝手な思い込みだ。アルメイダまで芝居を観に来る余裕があるあんた達だけが抱くことの出来る思い込みだ。こいつにはそんな、語るべき、感動させるべき、考えを引き起こさせるべき、そんな物語はそもそも無いんだ!」
っていう人もいるかもしれない、そう思ったときに、筆者はドーーンとやられてしまったのだ。筆者には、答がないんだ。何故なら、そういう少年に何分か以上きちんと目を向けて向き合うことがないからなんだ。

この芝居が映しているのは、少年の姿でも、少年の目から見た街でもなく、少年を見る「大勢の人々」である。主演は少年だけれど、彼はわたしたちの視線や感情を移す鏡である。それに気がついたとき、筆者は、落ち着いて安全な客席に身を置いてこの芝居を見つづけている自分に対して、ゾワゾワとする感覚を抱いた。そしてそれは、芝居を観てから1週間経っても、折に触れて戻ってくる感覚である。当面、この不安な感覚から逃れられない気がしている。

2016年5月24日火曜日

Down & Out in Paris and London

14/05/2016 14:30 @New Diorama Theatre

ジョージ・オーウェルの「パリ・ロンドン放浪記」からタイトルを借りたこの作品。ジョージ・オーウェルのパリでの体験と、現代UKのジャーナリストPolly Toynbeeによるルポルタージュ”Hard Work”を組み合わせて、90分の芝居に仕立てている。
オーウェルがパリで経験した「底辺」。手持ちのカネは底をつき、何日も食事を抜く羽目に陥り、仕事が見つかったと思えば四六時中働きづめ、余ったカネは酒に消える日々。
トインビーがロンドンで経験した「底辺」。最低賃金ではその日その日の食費がせいぜい。クレジットレコードの無い身で分割払いが通用する家具屋に出かけると、トータルの値段が市価の何倍にも跳ね上がり、結局カネは貯まらず、その日暮らしの繰り返しが延々と続いていく。
これは、作・演出のDavid ByrneがHullやLondonで経験した貧困生活とも呼応しているのだそうだ。

こうした、いわゆる「社会の不正義告発芝居」は、説教臭くなったり、アジ演説みたいになっちゃったり、観るに堪えなくなってしまいがちだし、
この芝居でも、冒頭、役者が「こんにちは、わたしがジョージ・オーウェルです」って始めちゃうところとか、パリでの生活を語るシーンで大家の婆がテレビでもやらないような冗談みたいなフランス訛りの英語で話して見せたりするところとか、「酷い芝居になっちまうんじゃないだろうか」とドキドキさせてくれてくれたが、いやいやどうして、中盤からペースを掴んで、最後まで面白く観ることが出来た。

何で観続けられたかを思い返してみると、やはりそれは「個々のシーンの面白さ」「局面局面での丁寧な演技」に尽きる。
トインビーの、職場での何気ない会話。通り過ぎる同僚達と形作るリズム。オーウェルがレストランで働き始めてからのリズム感。
一つ一つの所作が丁寧であればあるほど、トータルでのリズム感にポジティブに働き、芝居がドライブしていく。
それが観ていて気持ちよい。
それは、仕事のリズムとも通じて、きっと、リアルにも、リズムの付いた仕事はさばきやすい。

そして、それは、危険だ。
リズムに乗って毎日を過ごして、週末になって一週間のリズムが出来て、一ヶ月のリズムが出来て、一年のリズムが出来て、
そうしてリズムに乗っている間は色々なことを忘れて、気がつくと色々なことを全部おいてけぼりにしたまま歳をとっている。
このリズムの気持ちよさに載っかると、銀河鉄道999の鉄郎になってしまう(歳がバレるが)。

そんなことを思う芝居だった。

2016年5月15日日曜日

The Iphigenia Quartet

07/05/2016 @The Gate

エウリピデスによる「アウリスのイビゲネイア」を4つの異なる視点から描く、40分の短編芝居の4本立て。マチネは2本80分、ソワレも2本80分。1本につき4人の役者が出演。けだし、クォーテットである。「イピゲネイア」と「クリュタイムネストラ」を演じる4人組と「コロス」「アガメムノン」を演じる4人組とで、役者は合計8人。それぞれにキャラがきちんと立って、プロダクションそのものは地味な趣向であるけれども、見応えのある160分間だった。
ギリシャ軍がトロイ戦争へと出陣する際、父アガメムノンにより生贄として殺される王女イピゲネイア。その母クリュタイムネストラ(後年、トロイを滅ぼして帰還した夫アガメムノンを殺害して娘の仇を討つ)。アガメムノンの弟、寝取られ男メネラウス。イビゲネイアの偽りの婚約相手に仕立て上げられ、一旦はイピゲネイアを連れて逃げようとするアキレス。その一部始終を外側から見ているコロス達。さて、このドラマ、誰の視点でどう料理するか。

4つの短編に筆者なりにタイトルをつけるとすると、「イピゲネイア、生贄少女と呼ばれて」、「コロス四人組のトロイ戦争観光」「サラリーマン社長アガメムノン」と、「クリュタイムネストラの不在」。

特に4つの芝居の間で齟齬や繰り返しを避ける工夫が為されている風でもなくて、芝居のスタイルもそれぞれ全く異なるから、この話を良—く知っている向きにはかったるい向きもあるのかも知れないが、筆者にとっては新鮮かつ飽きが来ない願ってもない構成。「生贄少女」で物語の骨格が示され、「コロス観光」で古代のお話が現代の観客(家族の外)の視点から再構成され、「社長アガメムノン」でサラリーマンの悲哀が古代ギリシャに投影され、「不在」では、ドラマの中心に出てこなかった母親は、ドラマの外で何をしていたのかに突っ込んでいく。

「生贄少女と呼ばれて」は、細身の少女イピゲネイアの「やったろうじゃないの」と、ストラットフォード辺りからやって来たマッチョアキレスの「え?オレ、彼女連れて十分逃げれるし。何?どうすんの?」的な掛け合いが見事。

「社長アガメムノン」では、アガメムノンが一国の王を名乗っているのにも拘わらず、実は王と兵隊の権力関係が転倒していることが示され、アガメムノンの意思決定は彼個人ではなく、家庭人としての彼ではなく、組織のコマ(一機関)としてのものに過ぎなかったことがあぶり出される。あれ?じゃあ、これ、家族関係の悲劇じゃないよね?自分の意思で家族の日程も決められない哀しきサラリーマン社長の話だよね、って思ってしまう。ブランドものバッグ抱えたクリュタイムネストラの出オチが衝撃的。

「不在」は、現代口語演劇でよく使う手である「戯曲の外で進行する物語のほのめかし」(この場合は、イピゲネイアが生贄として屠られる間、神殿の外で待っていたとされるクリュタイムネストラ)を、そのまま外に放置するのではなくて、メタな芝居を使って一体全体そこで何が起きていたのかに果敢に切り込み、やっぱり何も出てきようがないのだけれど(だって元の戯曲に書かれていないのだから)、少なくとも観客の意識を引っ張り回し、引っかき回し、終わったときにはこの古典悲劇を観る視点がちょっくら変わっているという趣向。やはりUKの芝居では、「ほのめかす」なんてえ柔な手法じゃ観客に刺さらないのか、相当直截なやり方だけれども、日本流の婉曲に慣れた筆者にはとても新鮮だった。

「コロス観光」では、コロスの視点(物語の核となる家族から距離を置いて事の顛末を眺める視点)と、物語全体を振り返ることが出来る現代の観客の視点(つまりわたしたちの視点)を、誰に向けられるともない台詞を繰り出し、交差・混濁させて、イピゲネイアに関する一連の事件が周囲に巻き起こす感情すらも混濁させていく。そのピークが、生贄の姿が公衆に晒される瞬間:
「え?」「鹿?」「え、鹿なの?」「ここまで引っ張って、鹿?」「そう落としますか。鹿ですか?」

まるでわたしたちが舞台をニコニコ動画で観ているかのように、舞台と観客席を横切っていく台詞の束が、イピゲネイアの悲劇の「他人事」としての性質を鮮やかに浮かび上がらせて秀逸。
もちろん、この秀逸なパートを書いたのは、観客の意識に切り込むキレッキレの戯曲を次々に書いている、筆者が勝手に敬愛するクリス・ソープ氏である。

2016年5月13日金曜日

The Truth

06/05/2016 20:00 @Menier Chocolate Factory

昨年来、The FatherとThe Mother、2本の認知症を描いた芝居が大きく評判をとったフランスの劇作家、Florian Zellerによる最新戯曲は、ウソがウソ呼ぶフランス艶笑噺。いやいや、笑った笑った。最後の最後まで、いや、芝居がはねた後になっても、誰が本当の大ウソつきなのか、真相は分からないのだけれど、それはそれでとても素敵なことで。

二組の夫婦、夫同士は20年来の親友。一方の夫ともう一方の妻が浮気中、でも、どうやらお互いのパートナーが薄々勘づいているらしいと思い当たり始めたところから話が展開して、あとはもう、細かいところには思いっきり目をつぶって、その場その場の登場人物の追い込まれ方と丁々発止のやりとりを、理屈抜きで楽しんだ。

でもね、ウソをついているのか、本気なのか、ウソをついている振りをして誤魔化そうとしているのか、相手に鎌をかけているだけなのか、その種明かしの演技を絶対しないように押さえ込みながら、答が分からないようにきちんと演技が出来るっていうのは相当の技量がある証左で、そこにこの芝居の見応えがある。4人の達者な役者の中にあっても、その巧拙がさになってでていたのは、幾分残酷な気もした。

芝居のにおいとしては、城山羊の会の芝居から死の香りを取り去った感じ。ただし、商業演劇に近いところでかるーくエンターテイニングに演じられてもちっとも面白くないだろう。やはり、城山羊の会とか、そういう、力のある役者がきちんと虚実取り混ぜて、チープな観客サービスを排除して演じたときにぐぐっと立ち上がる芝居なんじゃないかと思っている。ん?そう思うと、山内ケンジさんの芝居は、そんじょそこらのUKの芝居と比べても全然面白いって事なんだよ。そうなんだ。納得。

筆者が勝手にお薦めする日本語版のキャスティングは、石橋けい、岡部たかし、岩谷健司、永井若葉の4人で盤石。あるいは裏番組として、佐野周二、佐分利信、岸惠子、淡島千景。

Elegy

04/05/2016 19:30 @Donmar Warehouse

2人〜3人の少ない人数で、大袈裟な装置もなく、大仰なテーマを掲げるでもなく、丁寧に会話で紡いで1時間強見せる芝居、身の回り5メートルのことしか話していないのに、それ故に却って深みをもって迫ってくる芝居、そういう芝居に、UK演劇の強みというか、凄みを感じることがままある。

このElegyという芝居も、まさにそういう芝居の一つ。近未来を舞台とした半SF仕立て、という触れ込みではあったけれども、そして、そういう芝居ではあるのだけれども、老いを迎えつつある女性3人の会話だけで、テーマの押し売りを巧みに避けながら、飽くまでも淡々と時間を流していく。現代口語演劇にも通じる時間の流し方をしながら、しかも骨太なプロットは見失わない。そして、こういう芝居を観ると、改めて、UKの役者は本当にちからがあるんだなあ、と思い知る。

まあ、その骨太なテーマというのが「愛する人の生命を助けるためには、その愛する人の記憶から、自分に関する記憶を全て消去してしまう必要がある。愛する人の生命を救って愛を失うか、愛と共に愛する人を失うのか、貴女はどちらを選びますか?」っていう、日本のテレビドラマに出てきそうなテーマなのだけれど、でも、その設定に無理がなくて、荒唐無稽な感じがしない。舞台上で登場人物に突きつけられる選択肢の幅にも、突飛な「芝居がかった」ものは出てこない。舞台上の人物の思考・判断が、観客一人一人の経験から乖離していなくて、リアルに、しかもギリギリのものと感じられて、他人事でなくなる。

加えて、(これは、実は、テクストを買って帰ってから読んでみて初めて分かったことなのだけれど)、舞台上の時間の進行と物語の時間とは必ずしも順序が一致していないのは分かっていたのだけれど、「そういえば」とハッとさせられる仕掛けがあって、しかも、役者が3人ともとても達者なものだから、そうした時間の流し方の仕掛けを苦にせずにスムーズに演じて、現代口語演劇風の淡々とした時間の流れを邪魔しない。そうだ、青年団の「暗愚小傳」と似た時間の流れの心地よさと、リアルのようで実は突き詰めたところで虚実の狭間を巧みに縫っていく、いや、むしろ、正気と狂気の間を縫って生きおおせなければならない、そういう悲しみを漂わせるものが、この芝居にはあった。けだし、Elegy。良い芝居だった。

2016年5月12日木曜日

Another World

02/05/2016 19:45 @National Theatre, Temporary Theatre

ISに子供を奪われた3人の母親たちを軸に、Tower & Hamletのティーンエイジャー、中東問題の専門家、ボランティア、アメリカの軍人等々、様々な人々へのインタビューを元に編み上げた舞台作品。この、「インタビュー等を元にして、そこで語られた言葉を変えずに、構成や順序、話者の選択等を用いて舞台作品に仕上げた芝居形式」をVerbatimと呼んでいて、日本にいた頃にはさほど聞き慣れた言葉ではなかったけれど、UKでは相当の数のVerbatimが上演されている。実は、昨年のエディンバラで最も良かった舞台、The 56も、ヨークシャー、ブラッドフォードで起きたフットボールスタジアムの火事を元にしたVerbatimだった。
UKで芝居を上演しようとすると、どうしても「物語」を「伝えよう」とする意識が高くなって、観客側も「どういう物語をぶつけてきてくれるだろうか」と構えている面も大きいので、ISの問題のように、あまり、物語でもっていきたくないイシューを取り扱いたいときには、Verbatimは非常に有効な手段なのかも知れない。いや、非常に有効である。

このAnother Worldも、非常に巧みに編集されていたと思う。全体の物語を見失わないように、でも、あまりにも母親たちに移入してしまって、その視点での物語でしかISを捉えられなくなってしまうことには、創り手側に、相当の抵抗感があったのだろうということがくみ取れる。一方で、事実だけをお説教して、「ISに関する知識」を広めたり植え付けたりする「教養プログラム」に徹するのであれば、舞台に乗せる必要はなく、本を読んだり、テレビのドキュメンタリー番組を見たりすれば良いのだ。そのバランスは、(若干教養プログラムに偏っている感じもしたけれど)まずまずだったと思う。

実は、筆者が「もっとも自分に近い」と感じた登場人物は、大学でradicalisationについて研究しているムスリムの40代の研究者で、彼はこう語る。
「911の時に、radicalな連中と寝泊まりしていたことがあって、結局そこは出ていったのだが、その頃に今回のシリアのようなことがあったなら、自分もどうなっていたか分からない」
それは、僕の視点ではこう変換される。
「オウム華やかなりし頃(1980年代後半)に、インターネットがもっと普及していたら、そして、自分が、未来や自分のアイデンティティについて確信や希望を持てない状況におかれていたなら、自分もどうなっていたか分からない」。
そういう感覚を共有できる人が、この日、この場所にどれほどいたかは分からないけれども(殆どいなかったんだろうな、とは思うけれども)、少なくとも、色んな人が、色んな受け取り方をしてるんだろうということは想像できて、それが出来ること、それを、Verbatimという形式を持って実現しているところに、この芝居の強さがあると思う。教養プログラムだと思ってくれても良いし、母達のお涙ちょうだいな物語に取ってくれても良い。そこを受け手側に任せてしまっても十分に通用するプロダクションは、強い。

Tower & Hamletに住むティーンエイジャー達の演技が秀逸。通り一遍の希望や絶望はなくて、ただ、ロンドンのムスリムとして日々をどう過ごすのか、どう感じているのかを、誇張なく、演技も抑えて、結果として強力に説得力を持って迫ってきた。
(あ、この芝居観たのは、市長選の前です。念のため)

Miles Ahead

01/05/2016 16:15 @Leicester Square Empire

マイルズ・デイヴィスが出てくる映画と聞いては、何を差し置いても見に行かざるを得まい。そんなん観ねえよバーカっていう顔した師匠を置いて、一人、ロンドン映画のメッカ、レスタースクエアのエンパイアへと向かった。三連休の中日の日曜日のレスタースクエア、人の溢れる中をかき分けてやって来ましたLeicester Square Empire Screen 6、定員21名。21人入ると一杯の映画館。スクリーンの大きさは、深田道場で走り穂に張った白布とほぼ同サイズ。つまり、レスター・スクエアとは名ばかり、ビッグスクリーンと呼ぶには多少しょぼかった、ということである。

しかし、大いに愉しんだ。Don Cheadle扮するマイルズと、Ewan McGregor扮するヤクザなジャーナリストとが繰り広げる冒険活劇。昔の音源に合わせて演技するライブやレコーディングのシーンも楽しいし、マイルズとマクレガーのコンビが盗まれた未公開リハーサルテープを巡って繰り広げるカーチェイス、ヤクザとの駆け引き、銃撃戦等々も楽しい。事件に巻き込まれる若手トランペッター”Junior”もいい味を出しまくって、これぞマイルズ主演のアクション娯楽映画、存分に楽しむぞ、と。

Don Cheadleによるマイルズの物まねも気合いが入ってて、好感度大。ジョージ・バトラーやギル・エバンズ、マイルズの妻フランシス、50年代セクステットから60年代クインテットまで、物真似さんをざっと揃えてこれも楽しい。ラスト近く、ブランクで唇がなまったマイルズとJuniorのやりとりがちょっとホロッとさせて、しかも、その後のマイルズの復活した姿を生で聴いている世代としては「ここで終わんないんだよ!」って心の中で叫んじゃったりして、大いに満喫いたしました。


2016年5月11日水曜日

H.M.S. Pinafore

30/04/2016 19:30 @Hackney Empire

Hackney Empireを初めて訪れた。ギルバート&サリバンのオペラを全員男性キャストで。伴奏はフルオケじゃなくて、電子ピアノ一台。

軍艦ピナフォア(前掛け)っていう名前も、まぁ、日本語でいうなら軍艦おむつ、って感じのふざけたネーミングなのだけれど、
その船を舞台に、艦長と、その娘と水夫の身分を超えた恋と、その娘の許嫁である海軍大臣(文官のひょろひょろ坊ちゃん)、ずっと昔の赤ん坊取り違え事件、というプロットを並べて、
身分制度とか軍隊の上下関係とかそういう諷刺のなんやかやをぶち込んでおバカなラブコメに仕立てた軽いタッチのオペラである。

このプロダクションでは、女性のパートも男性が歌う。キャスト16人ぐらいと限られているので、男性パートを歌った直後に、みんなで声を切り替えて女性パートを歌ったりもする。
ヒロインのソプラノは、常に4分の1音ぐらい低い感じで、「がんばってるなー」感があるが、それもご愛敬である。
エンターテイメントとしては相当面白かった。

もちろん、現代のコンテクストに当てはめるとLGBTの話は避けて通れないのだけれど、そこに正面から当たりに行っているのか、所詮小咄と割り切っているのかは、正直筆者には分かりかねた。
だって、出演者はみんな、マッチョな男たちが水兵演じて隆々たる筋肉を惜しげもなくさらして、さっき水兵だと思っていた男がひらひらのドレス着てソプラノで歌っちゃったりするのである。
同性愛は、仄めかされているのではなくて、ビジュアルとしては目の前にある。するとポイントは、ギルバートとサリバンの時代に、そういう変換が為されていたか、ってことだけどなー、いやー、それは考えすぎかなー、等と考えていたら、

休憩に入って、隣にいた我が師が「このプロダクションはジェンダーフリーが云々」と言い出して、「うーん、低予算受け狙いオール男性キャストプロダクションだよねー、それにしては技もあるし身体も動くし、エンターテイニングで楽しいよねー」位の結論で収めようと日和っていた筆者は大変面食らったわけであるが、
第二幕、ラストに入って、演出の狙いが「あー、そういうことか」と理解できるシーンが入って、筆者は納得。ところがふと隣を見ると、我が師はたいそう不満げな顔をしており、聞けば「そういうところで収めてしまったことで限界が見えた」のだそうだ。そうかもしれない。実はもっと考えてないのかも知れない。そこは謎だ。

H.M.S. Pinaforaは、他のギルバート&サリバンの主要オペラと同様、ヴィクトリア時代の社会を諷刺しながら、上下左右を転倒させて(Topsy Turvy)、かるーいお色気を混ぜながら、ここぞとばかりに美しいメロディを投入して大いに泣かせにかかる、という構造を取っているけれども、正直、音楽の美しさにおいては他の作品、たとえばMikadoと比べると一段落ちる印象。
それじゃあMikadoをオール男性キャストで観たいかというと、うーん、それはどうかな、と思いつつ、花組芝居がMikado上演してくれるって話になったら是非とも馳せ参じたい、とも思う。

The Complete Walk

23/04/2016 @テムズ川右岸

シェークスピア没後400年記念企画、Shakespeare’s Globeが送るシェークスピア全戯曲37カ所走破スタンプラリー!

テムズ川右岸、サウスバンク一帯をお散歩しながら、37カ所に設けられたビッグスクリーンで、処女戯曲「ヴェローナの2人の紳士」から最後の作品「テンペスト」まで、順を追って、それぞれの戯曲の過去のGlobeでの上演の舞台映像と、今回新たに撮影したショートフィルム(イメージフィルムだったりクライマックスだったり)を観ることが出来る。37のスクリーンを制覇すれば、これであなたもシェークスピア通!という趣向である。

土曜日の朝に思い立って「よし、行こう!37本制覇を目指せ!」と勇んで出かけたまでは良かったが、
1. 当日は4月とはとても思えない寒さ。冷たい霧雨混じりの中、川沿いを巡ってじっとスクリーンを見つめ続けるのには限界がある。
2. 時間が足りない。戯曲一つに10分強。37本で370分。つまり6時間。移動時間を合わせると、とても一日で回りきることは不可能だ(まあ、だからこそ土曜・日曜の2日間にわたっての催しにしているわけだけれど)
3. スクリーンの故障が頻発。ケーブルがおかしくなったり、オバマ大統領来訪のあおりで一時ストップしていたり。極めてUKらしい緩さが完全完歩を阻む。

最初の6,7本は真面目に見ていたのだけれど、その後作戦変更、よほど面白そうなもの以外は「存在だけ確認」して流すことに。夕方までかかってとりあえずは完歩。周囲のお年寄りたちが、寒さに負けずじっとスクリーンに見入り、ケーブル修理中となれば我慢強く修復を待つ、そうやって37本制覇に向けて着実に穂を重ねる姿には、感服する他ない。

が、流しただけでも相当の教育効果はあるみたいで、おかげさまで、完歩後には、シェークスピアの戯曲全37本、そらでタイトルを言えるようになった!素晴らしい成果。ジョン王がなんと可哀想な王様だとか、ヘンリー8世がなんとおべっかな芝居になっているかとか、じゃじゃ馬ならしは本当にひでえ話だなぁ、とか。そういう余計な知識はバッチリ身についた。

この企画、楽しいよ。そして、シェークスピアの世界がどれだけ広いか、っていうのがスタンプラリー形式で観られたのも収穫。大いに愉しんだ。

2016年5月10日火曜日

Cleansed

23/04/2016 19:30 @National Theatre, Lyttleton

1998年に亡くなったサラ・ケインの戯曲をNTで。プレビュー時には「途中退場続出」とか「上演中に失神する観客も」とか、拷問やレイプのシーンの過激な描写が取り上げられて、うーん、それじゃあ三流興行主の思うつぼだろう、ただし本作はNTでの上演だし、サラ・ケインの自意識過剰も多少はトリムされて観るに堪えるものになって、加えて良しにつか悪しきにつけスパイスの利いた舞台になっているんじゃないかと期待して観に行ったのだが、結果としては取り立てて騒ぐほどのインパクトはない。

ぶっちゃけて言えば、Institutionalな暴力を並べてみました、というだけのできの悪い戯曲を、よくぞここまで観るに堪えるプロダクションに仕上げたものだと思った一方で、じゃあそもそもそんな戯曲を今、ここで選んで上演する意味って何でしたっけ、とも思ってしまった。いや、しかしである。筆者はもとの戯曲を読んだことがないので、本当に戯曲のできが悪かったのかは、確かめるべくもない(読む気もしないし)。

上演中は、「豪快に失敗しているなあ」と思いながら見た。レストランにたとえれば、エビフライメンチハワイアンハンバーグ載せカツカレー、ってのが出てきて、これでもかってくらい色々なモノが載っているのだけれど、どれをとっても食材が壮絶にスーパーで買ってレンジでチンしたお惣菜の味で、思わず吹き出しちゃったよ、っていう感じだろうか。

ケインが舞台に載せたいと思っていただろうと思われるもの — 暴力、権力、その濫用 — その他諸々、筆者としては、Institutionaliseされた暴力、として括って理解したけれども、その構成・並びが、およそ、芝居として人前に出せるモノとして形や順番をなしていた有様を想像することはできず、それを一つの観るに堪える芝居に編み上げるのには大量の工夫と追加マテリアルが必要だったのだろう(舞台を観ていて、そういう苦労が表に見えてくるような、学生の頃の筆者の渋ーーい記憶が蘇ってくるような、そういう舞台に仕上がっていたのだ)。
それは、筆者には、ケインの甘えとしか思えない。で、その要素を、1時間40分のパッケージとして成立するまでに仕立てた腕前には感服するのだが、やはり、NTに芝居を観に行くからには、それをクリアした上でさらに何が出てくるかを、筆者は期待している。それなりに仕上がったことをもって、この芝居を面白いと言うわけにはいかない。

あと、議論になったのは、「前を向いたまま後ずさってはける」ことの面白さ。筆者としては「生きてるものか」の枡野さんを観てしまったこともあり、それ以上に面白く後ずさってはけていただかないとどうにも不満が残る。ただし、再現不可能なものとしての(訓練を受けていない役者による)演技と、はじめてのようなことを何回も初めてのように再現することができる(訓練された役者による)演技の比較はとても難しくて、従って、後ずさりでの出はけについて、この演出に注文をつけることはやはりできないなあ、とも思う。でも、それだったら、後ずさらなくてもいいじゃん、って思ったり。

色々言ったが、一旦の結論としては、筆者にとってケインの戯曲は何度読んでもつまらないのだろうし、筆者の思う戯曲とは別物だと割り切った方が良さそうだ。でも、5月のフェードルは観に行っちゃうんだけど(ただ、ケインの戯曲だけを下敷きにしているわけではないと聞いているけれど)。

17/04/2016 14:00 @BFI Southbank

シェークスピア没後400年と言うことで、British Film Instituteでも、シェークスピア映画特集が組まれている。今回は黒澤明監督、リア王を下敷きにした「乱」。こういうのがビッグスクリーンで観られる機会を逃してはいけない、ということで、出かけてきた。

やはり、ビッグスクリーンは良い。大画面の迫力は勿論、スクリーンの端っこに映り込んでる小さなものまでくっきり見えて、大いに堪能。
仲代達矢の目がでかい!そのでかい目を存分に駆使して「戦国時代にリア王を持ち込む」なんていう無茶ぶりを受けて立った役者魂!
そして、戦闘シーンが痛い。犬死にしていく雑兵を執拗に繰り返し映す。痛い。
寺尾聰の死亡フラグ、根津甚八のだめっぷり、隆大介の真っ直ぐぶり、原田美枝子の格好良さ、どれをとっても、役者やスタッフのキャパシティが真っ直ぐすくすくと伸びて画面上に広がって、大作に仕上がっている。スケールの大きい巨匠の仕事とはこういうことか。

2016年5月9日月曜日

Right Now

15/04/2016 19:30 @Bush Theatre

ケベックの作家Catherine-Anne Toupinによる戯曲をUKプロダクションで。アパートに引っ越してきたカップルを図々しく訪ねてくるちょっと変わった隣人夫婦とその息子、っていう、ありがちな設定ではあるものの、大変に評判の良い芝居で連日売り切れ、当日券が一枚だけ手に入るとなればこれはまさに天啓、観に行かねばなるまいと勇躍出かけたのだが、うーん、人気が出るのは良—く分かるけれど、そこまでかな、というのが正直な感想。

1時間30分の舞台をどう進行して、どう落とそうかというところには作家の着意があって、それはそれで良いのだけれど、演出・演技がどうも、「進行をスムーズに進めること」に奉仕している嫌いがある。現代口語演劇を経験してきた筆者は、「変な隣人がいかにも『わたしたちは変ですよー』という顔・表情・台詞回しで登場する芝居」をどうしても受け付けない。

ラスト「実は白昼夢オチでした。ですから、その中での人間の振るまいが若干変でも、誇張されていても、それはそういう整理ですから呑み込んでください」という言い訳じみた終わり方をしようとも、観客はラストからではなくて冒頭から芝居を観る訳なので、開始5分でドン引いてしまう演出はやはり避けて欲しい。

そう思う観客がいる一方で、ウェルメイドな芝居としては良く出来ていたのはそれは確か。筆者の隣にはひっきりなしに貧乏揺すりをしながら、薄っぺらいギャグで大笑いし続ける男性観客がいたりして、いや、それは、芝居はエンターテイメントなので、それを全否定するわけにも行かず、大変苦しい1時間半の戦いだった。

X

09/04/2016 19:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

前作Pomonaが好評だったAlistair McDowall の新作SF。今回も時間のシークエンスを崩してバラして、時空をドンドン針飛びさせて、付いて来れない方はそれでも良い、みたいな、まんま80年代日本の小劇場演劇、っていう仕立ては前回通り。但しもちろん、UKには野田さんはいないので、フィジカルな舞台に流れるんじゃなくて、「台詞劇」「物語劇」チックなUK芝居の伝統の延長にあることもまた、間違いないのだけれど。

前作Pomonaは、マンチェスターの中心部の地下深くに、巨大な赤ん坊工場が隠されている、という設定だった。

今回の芝居、Xの登場人物は、地球との連絡が途絶えた冥王星の基地に取り残されたイギリス人隊員たち(何故そこにいるのが全員イギリス人なのかはきっちり説明台詞が用意されていて)。75時間の昼と75時間の夜を繰り返す冥王星の日々、連絡の途絶えた地球は滅亡してしまったのか、火星はどうなのか、果たして助けは来るのか、来ないのか。

うーん、なんだかありがちだなー、しかも、そういうシチュエーションだけ取り出して芝居を組み立てようっていったって、そこで止まっちゃうんじゃ、畑澤さんのロボむつには問題意識と想像力の広がりにおいてとてもかなわないよなぁ、とは思うけれど、まぁ、30にもならない若手の作家なので、そこら辺りはお目こぼしして楽しもう。

物語の展開としては、萩尾望都とソラリスを足して3倍に薄めてって感じだろうか。とにかく、出だしのシーンが3流映画でがっかりするのだが、途中、「おお!これは良いシーンだな」と思わせるところもあって、「このシーンで始めててくれれば、もうっと面白く観れたはずなのに」と、あらぬ注文も出したくなる。そうしたアップダウンに一喜一憂しているうちに二幕2時間超、飽きずに観終わっていた。

隔絶された閉じられた場所を舞台にすると、そんなに行動のバリエーションが期待できるわけでもないので、あとは台詞・演出、そして役者の力量次第。必ずしも全てが上手くかみ合っていたとは思わないけれど、そしてむしろアラも目立つ作品だったけれど、2時間半、大いに堪能した。

この間トラファルガー・スクエアで観た「4分12秒」での突っ放した演技が光っていたRia Zmitrowiczが、この作品でも超いい味を出していて、筆者としては、こういう役者がきちんと評価されて大きな役でも演技が変わらないで成長していく、っていうのを期待したい。

2016年5月8日日曜日

Cyprus Avenue

09/04/2016 15:00 @Royal Court Theatre, Upstairs

東ベルファストのいいとこに住んでるユニオニスト(北アイルランドはブリテンとの連合王国に残留すべき。アイルランド共和国と一緒になるべきではないと主張している人)の男性が、ある日生後5ヶ月の孫娘を見たら、何とその顔がシンフェイン(北アイルランドはアイルランド共和国と一緒になるべきと主張している政党)の党首、ジェリー・アダムズ(この人を単なる政治家だと思っている人はいないです。テロリスト呼ばわりする人もいます。でも、和平交渉において重要な役割を果たした人でもある)の顔だった、さあどうする、という、一見、シュールな笑話風の物語。

これ、どういうコンテクストなのかは、北アイルランド問題に関心の薄い人や、ジェリー・アダムズと言ってピンとこない人に説明するのがややこしいのだけれど、いや、かくいう筆者自身も、どこまで「余
所者に開示できないコンテクスト」を理解しての芝居を観ていたかは計り知れない。

日本に翻案するとすれば、自称良識派の退役キャリア公安(ただしもちろん前提抜きの自民党支持で、自宅の本棚には嫌韓本がちらほらあったりする)が、ある日孫娘の顔を見ると、それが宮本顕治か不破哲三かなんかだった、っていう感じでしょうか。いや、そんなヌルい設定では済まないんだろうな。

筆者は「バカの壁」読んでいないが、多分、雑誌で養老氏の主張を読んでる限り、この芝居は、乱暴な言い方をすれば「バカの壁」を打破できない中高年の話として括ってしまえると思う。自らを規定する価値観や、その価値観を規定していると自らが考えている外部環境が、当初の設定からずれてきてしまったときに、当初の設定をどのように修正していくのか、していけないのか。それが自分の外へのアクションとしてはどのような形を取りうるのかについての考察である。

その考察を、北アイルランドという特定の状況に投げ込んでみたときに、それが、思っていた以上の劇的効果を生んでしまうことがあるのだ、ということだと考えている。

笑話風の出だしが、思わぬ展開を見せて悲劇に繋がっていくというのは、古今東西、芝居や小説でよくある話ではあるけれども、それを一種架空の話、作り物として笑い飛ばしてしまえるのか、それともリアルなものとして受け取られるのかは、上演される場所や観客のおかれたコンテクストによって異なってくる。少なくとも、この、ベルファストのユニオニストのアイデンティティ・クライシスは、UKで上演される限りにおいては、相当シリアスで、設定はともかくとしてリアクションとしてはリアルで、人の生き死にのシーンも、これまでアイルランドやイングランドで流されてきた血の量を確実に反映している。

そういう生々しさを日本の舞台で観ることは希だ。もっと言うと、欧州の舞台で観ることも希だ。この生々しさが、この笑話→悲劇が、芝居として、「今、ここで、上演されることの意義」を大いに支えている。

主演のStephen Raeは、アイルランドを代表する名優だそうです。すみません、知らなかった・・・ 娘を演じるAmy Molloyがなかなかの好演。去年のエディンバラで観たクソ芝居No. 1を一人で演じていたときとはエラい違いで、好感度大。こんなきちんとした芝居が出来る人だったのね。見直しました。

2016年5月5日木曜日

The Caretaker

02/04/2016 19:30 @Old Vic

引越当日の夜に3時間30分の芝居。しかもピンター。しかも退屈。大失敗。

ピンターの古典をTimothy Spall、Daniel Mays、George MacKayの3人でって言うんで相当期待値を上げて臨んだのだが、見事にコケた。この前、同じOld Vicで観たThe Master Builderが、いや、そんなに気が利いた舞台とは言えなかったけれども、それでも、レイフ・ファインズがとっても真面目に、真摯に芝居してて、メッセージが真っ直ぐに伝わってきてたのとではエラい違いである。

幕前にかかっている思わせぶりな音楽を聞いていやーな予感はしたのだが。ティモシー・スポールが期待を大きく裏切るイモ演技。寄ってらっしゃい見てらっしゃいなガナり芝居で、変な顔や考え込む顔、困った顔をするのにいちいち面を切らないと前に進まないという徹底ぶり。これじゃこの先どうなるんだろうと一幕の途中で心配していたら、案の定一幕ラストのGeorge MacKayの台詞”What’s the game?”が力の入った迷台詞となって客席に突き刺さる失笑もの。

救いだったのはDaniel Maysの抑制の効いた演技で、昨年観たThree Red Lionでの艶ッ気たっぷりのアグレッションはどこかに封印して、今回はそういうのを全て内に隠して想像力を刺激する演技を見せてくれたのが大きな収穫。

その他はあんまり見るべきものなし。大変残念な舞台。

2016年5月4日水曜日

The Father

26/03/2016 14:30 @The Duke of York's

昨年、Bathで初演され、その後ロンドンのTricycleでも大好評、ウェストエンドに移ってそこでも大成功し、小屋を変えて今年まで上演の続いた大ヒット作。残念ながらUKの作家ではなくフランス人による戯曲の翻訳だけれども、2度目の観劇にも十分に耐える質の高さ。主演のKenneth Crahamはこの役でオリビエの主演男優賞を獲得、それも当然と思わせる。

Tricycleの上演からは、主演と看護士役の女優を除いて、(キーとなる娘役も含めて)役者が殆ど入れ替わったこのプロダクションだが、これだけ戯曲が良くて、かつ演出のコンセプトがしっかりしていると、役者が変わったぐらいでは芝居の屋台骨がぐらつかない。むしろ、娘役の役者のトーンが、Tricycleで観たときの「一見お節介でウェットにも見える娘像」から、「ドライで時に突き放したようにも感じる」印象へと変化したのを、ポジティブに楽しめた。

それにしても、父親の主観と「神の視点」の客観を見事に組み合わせながら、本筋から逸脱せずに観客をぐっと引きつけて、正解を示さずともメッセージががっちり伝わる見事な戯曲。
大いに堪能した。

2016年5月3日火曜日

Uncle Vanya

19/03/2016 19:30 @Almeida Theatre

新進気鋭、このところ、1984やOresteiaと、続けざまにAlmeidaでヒットを飛ばしているRobert Ickeの演出によるチェーホフ。期待に違わず素晴らしかった。舞台を19世紀ロシアから現代UKに置き換えて、しかし、それが妙なへつらいや観客への媚びではなく、今、ここで、この戯曲を上演する理由って何だろうという問いへの真摯な回答になっていると感じられた。戯曲に忠実に、コンテクストに敏感に、そして力強い。

地方にとどまって、地道で無味な暮らしを続けながら、都市に暮らす「遊民」を養う姿は、19世紀ロシアや現代UKにもあったのかも知れないが、筆者自身にはどうしても、昭和30年代以降の日本に重なって映る。それは、高度成長期に「輝く未来」を手形に親のすねをかじった筆者の両親や、バブル絶頂期に大学生をしていた筆者自身の姿である。筆者自身も「田舎嫌い」を自認しているけれども、例えば、新聞記者になる夢を諦めて田舎の地主として暮らした母方の伯父(伯父の楽しみは、テレビでNHKのクラシック音楽を聴くことである)は、この芝居、どう映るのだろう。そもそも彼らは、やはり田舎の暮らしに倦んでいるのか、それとも、彼らは表面上は田舎暮らしに倦みながら、実は、その地道で無味で退屈な暮らしになにがしか歓びを認めていたりするのだろうか?戦後50−60年かけてコツコツ働いたカネ、深夜残業を繰り返して貯めたカネ、家族と離れて出稼ぎして貯めたカネが、滅び行く日本にばらまかれて消えていく過程を見つめている、おそらく団塊よりも少し上の世代の人々には、この芝居、どう映るんだろうか?

時に軋む音を立てながらゆっくりと回る舞台装置が印象深い。一幕でちょうど一回転。最終幕、回り始めたところで、隣の老婦人二人連れが、「ほらほら、今度はXXXで回ってるわよ!」といきなり本質に切り込む会話をかましてくれる(ネタバレにつき内容は秘す)のが、Almeidaならではの醍醐味だった。

Vanessa Kirby演じるエレーナが、都会育ちで消費のみによって生きてきた美しい女、消費ばかりで何も産み出さぬ退屈な自分を、そういう退屈な人間だと客観視できるまでには物事が見えているのに、自らの力では最早そこから抜け出す術を持たない、いや、もしかすると抜け出す術を知っているのにそこに向かって踏み出すことの出来ない姿を正確なニュアンスで映し出して出色。いや、出色なのではなくて、実は、筆者自身がそこに大いに移入してしまった、というだけのことなのかもしれないが。

The Solid Life of Sugar Water

19/03/2016 15:00 @National Theatre, Temporary Theatre

昨年のエディンバラ・フェスティバルで観てから、妙に心に残っていた芝居。今回、ツレと一緒にNational Theatreまで出かけたのだが、再見して、やはり素晴らしい芝居なんだと言うことを再確認。

カップルの2人芝居で、2人とも障害を持った役者なのだけれど、それは単に「そういう人だ」ということでしかなくて、主題は、「どこにでもあること」「誰にでも起こりうること」の王道である。
「誰にでも起こりうるが、個別の事象としては、その特定のカップルにしか起きていないこと」にどう対処するのか、というテーマが、
「右手が不自由であること」「耳が不自由であること」にどう対処するのか、ということとのアナロジーとして示されることで、観客にとってよりよく理解できる構造になっている。
そして、それはまた、(2人が)共有している状況と(お互いに)共有し得ない何か、の境界線ともリンクしていて、その境界は舞台上のカップルによってギリギリまで突き詰められる。
そして、多分とても大事なことは、「どこかで折り合いを付ける」ということで、それが、時として上手くいったり、上手くいかなかったり、それでも時間は前に進んで。

教訓じみたことではない。喜劇も悲劇も、それは「既に起きたこと」。そこから未来に向かって、希望と絶望が、同時に生まれ出る。それを、淡々と、同時に力強く、押しつけがましくなく、舞台に乗せていた。本当に素晴らしい芝居だと、改めて思った次第。