2007年11月29日木曜日

野鴨

28/11/2007 ソワレ

23日に風邪で動けなくて観られなかったのを、タニノクロウ演出ということでどうしても観たくて水曜日再チャレンジ。無理して行って、本当に良かった。

・ 劇場内にフラットに作った森。最初は、「この小屋のバトンが見えない!」位に鬱蒼としていた。
・ マメ山田さんの立ち!この人が舞台のへちを歩くだけで、その空間が持つ温度・湿度・密度が塗り替えられていく。
・ 石橋正次さん。僕は「夜明けの刑事」の刑事さんとしてしか認識してなかったのだけれど、そうすると、何と30年ぶりに見る彼の演技は、タニノクロウ演出の元でなんとも見応えのあるものでした。
・ 高汐巴さんのテーブルクロス!石田えりさんの「あ゛ー!」

休憩を挟んで2時間45分。まったく長く感じられなかった。舞台上のどこをとっても、「イプセンの戯曲」を説明しようとする演技を見出すことが出来なくて、そこが全く素晴らしい。緊張感が最後まで持続する。

で、その素晴らしいパフォーマンスを観終わって僕が得た結論は、「どうもイプセンの戯曲はどうも生真面目で、『芝居を通して主張したいこと』が先 に立っちゃって良くない。」ということ。僕は野鴨の戯曲を自分で読んでいないし、また、他のひどい演出で観たこともないからこう言えるのかも知れないが、 タニノクロウのすばらしい演出が、図らずもイプセン戯曲の限界を顕したのではないか。

だって、野鴨が何かの象徴だなんて、もう、ちょっと気恥ずかしくて言えないでしょう、今では。チェーホフのかもめが、「いや、覚えてないなぁ」 と、あたかも「まさかあなた、かもめを何かに喩えようなんてお考えじゃないですよねぇ」とでも言いたげな風情で一蹴されるのとは対照的だ。その意味で、イ プセンは現代劇になりえず、チェーホフはそれが出来る。と僕は思う。

タニノクロウ演出は、ストレートにイプセン戯曲を舞台に載せ、下手な思い込みを排除することで、
①まずは芝居としてキチンとしたものを提示し、その上で、
②野鴨に対して観客が期待するであろう変なお説教ネタやアナロジーを「そのまんま」価値観無しにあぶりだしてみせ、「今更こんな時代でもない」ということを自覚せざるをえないところに観客を追いやった
とでも言えるのではないか。
まぁ、演出の意図の邪推なんてしてもしょうがないのだけれど、存分に堪能しました。

2007年11月26日月曜日

三条会 若草物語

25/11/2007 ソワレ

そしてまた千葉へ、四姉妹を観に行きました。
今回は、素直に楽しんだ。風邪を引いていて余計なところに頭が回らなかったからかもしれない。かなり受身になってしまったが、そういうものとして、素直に受け入れて楽しんだ。

若草物語の各章を順繰りに、適当に、ピックアップして読んで/演じていく。
このプロセスは、若草物語を観客に伝えようとしているのではなくて、若草物語を読む中で構成・演出のこころがどのように動いたかを伝えようとしている、と見えた。それを辿ってみせてくれているのが楽しかった。

プロットを作る側と読む側の間に身を置いて、そこから何が見えてくるか、どんなスペクトルを付け加えられるか。そこが三条会の勝負どころなのだろうか?

一方で、さらにもう一歩進んで、そこに観客としての自分がどのような妄想をくっつけて膨らませていけるのかは、小生の今後の課題として残されたままである。素直に受け入れる客ばかりで勘弁してくれる劇団ではないのではないかと思っている。

桃唄309 三つの頭と一本の腕

25/11/2007 マチネ

桃唄の芝居のどこが一体気に入っているんだろうって、考えてみたのだが、一言で乱暴に括ってしまうと、「舞台上の気温」ということになるのだろうか。

まず、語りの手法。舞台上の会話から過去を回想する、それを舞台袖で聞く聴き手達。さらにその回想される過去の中で過去が回想され、それを舞台袖 で聞く聴き手と、それをまた聞く聴き手達。かと思うとそういう構造をぶち壊して時間を強引に進めるシーンあり。そういう、ともするとスカした技術ともとら れかねないやり方が、なんだか、ゆるーく展開していくのが、先ず心地よい。

そして、これは、毎回そうなのかはまだ3作しか見ていないから断言できないけれど、フォークにしてパンクな身のこなし。

これらが役者達の個性/アクといっていいような悪いような、演出の意図があるようなないような、というところと絡んで、舞台上にぼおっと乗っかっ ている。その温度が、ほぼ、19度くらいなのではないか、初夏の、まだひんやり感の残る森に入った瞬間に感じるくらいの気温(と湿度)なのではないか、と いう気がするのだ。

そうやって自分で説明をつけないと、今回のような、
「殺人事件」「民間伝承」「素人探偵」「開発がらみのきなくささ」
なーんていう、見たとこ陳腐なモチーフを並べた結果が、こんなに面白く見れるわけがない。

いや、もしかすると、作・演出の意図は、役者の面白さではなくて、如何に昔話を語り継ぐか、というところにあるのだろうか? どうやって物語を伝えられるか、そこに必要なのは強さなのか、速さなのか、あざとさなのか、素直さなのか、その切り替えの試みの中で、
「いわきの物語はこうやって伝わる。それでは、オレの物語は?」
ということなのだろうか?

いずれにしても、何で気に入ってるか、いまだに説明つかず。

2007年11月25日日曜日

猫田家 ミーコのSFハチャメチャ大作戦 - ベルンガ星人をやっつけろ!

24/11/2007 ソワレ

「ハチャメチャ」な「最低傑作」を書こう!とのことだったらしいが、本当に、危なく「最低の駄作」になるところだったろう。出演する小熊氏が「台 本を読んだときにはううむと思」ったのも100%頷ける。「ハチャメチャなものを書こう」と自らにムチ打って頑張った佃氏も大変だっただろうが、これを渡 された「現代口語演劇の」演出家、岩井氏もかなり困ったのではないか?

が、この芝居に全体の見せ方のフレームを嵌めて、「出し物」としての芝居に仕立ててみせた岩井演出に感心。特に、「演劇の神様」、今日の一押しである。

また、役者2人も、
「好きこのんで『金星から来たベルンダ星人(金星から来たなら金星人だろ!)、(喉をチョップしながら)フォ、フォ、フォ』なんてやってるんじゃないんだよぉおぉ、今となっては『ハチャメチャでいこう』なんていったことを後悔してるんだよぉおぉ」
と全身で語ってみせつつ、その実結構楽しんでいたりするのが透けて見えて、良い。

かる~い気持ちで出かけて、ど~でもよい細かいネタでくすくす笑って、だ~れも観てない小技にムムンとうなって1時間30分。変に大上段に振りかぶった芝居よりもそういうのがよい、という人にお奨めです。
(追記)そうだ。一つ留保をつけるとすると、そういう芝居の見方って、ちょっと年寄りくさいんだ。それが引っかかってたのです。

桜美林大学OPAP ゴーストユース

24/11/2007 マチネ

風邪で体が立たなくなって、23日に行くはずだった「野鴨」含め2本をぶっちぎったその翌日。
さすがに1日寝倒したらちっとは調子も良くなったということで、いきなり淵野辺まで出かける。
遠い。が、Prunusホールはとっても感じの良い小屋で、出かけるのが苦にならない。タッパ、キャパシティ、雰囲気、好きな小屋の1つだ。

岡田利規さんの作・演出。彼の作品は、まだ、去年の「エンジョイ」と今年のベケットのリーディング「カスカンド」しか観ていなくって、ただ、カスカンドが余りにも凄い出来だったものだから、次も必ず観に行こうと決めていた(12月にはついに「三月の五日間」観る予定)。

始まってみると、まぁ、予想通りというか、現代口語と呼ぶのも失礼かと思われる話し言葉と、デフォルメされ意識化された身振り。これは、何度観ても面白い。
実は、観る前の観客としての色気としては、
「桜美林の学生があんなふうにやったら、どこが岡田氏の要求どおりに出来ていてどこが出来ていないかがわかるかもしれない。そこから、岡田氏が役者に何を要求しているかがより鮮明に見えてくるかもしれない」
と思っていたのだが、そこは素人の悲しさよ、やっぱり判らない。が、面白い。

似たような台詞の繰り返し。役者を変え細部を変えて、同じシチュエーションを執拗に繰り返す。1歩進むようでもあり、戻るようでもある。ふと気が つくと、舞台上にいる役者の数はどんどん増えていく。そして、思いのままのポーズで寝そべったり立ったり座ったりしている。そしてそれは、僕に「漂流教 室」と「メーテルリンクの青い鳥にでてくる生まれてくる前の赤ん坊達」を想起させる。

「35歳が20歳の頃の自分を思い出す時に自分の身体であると思い込むところの20歳前後の身体、でも本当は他者から見たら35歳でしかないんだけれど」を演じる20歳前後たち。

この、妙に大人びた、でも逆に子供じみたところが、「漂流教室」のラストで妙に大人じみたメッセージを現代の大人に送る子供達のイメージに重なる。
また、自分が35歳になったらこうやって20歳前後の頃を思い出すのかもしれない、という20歳前後のころ期待されていた・いなかった35歳を演じる20歳前後たちは、あたかも青い鳥の赤ん坊達が
「僕は疫病をもたらすのさ」「僕は早く死んで両親を困らせるのさ」
と口々に言うように、
「生まれてくる子供は男の子よ」「晩婚かと思っていた」「誕生日のプレゼントは」
と口にする。

理屈ではつかめないけれど、イメージとしては自分なりに凄くしっかりつかめた気がして、気持ちが良い。1000円出してこのイメージの広がり。とってもお得な気分です。

ただし、後半に出てくる「螺旋」の喩えとか、何度も繰り返す「20歳が35歳を演じることの違和感」「35歳が20歳を思い出す際に20歳になっ ていること」の説明は、ちとくどい。わかりやすいけど。本当は、もうちょっと「ほんとうにそうなのかなぁ、でも、ちがうのかなぁ」と思いながら劇場を出る くらいに不親切でも良いような気がした。

いずれにせよ、よい舞台だった。

2007年11月19日月曜日

が~まるちょば サイレントコメディー

18/11/2007 ソワレ

この二人組は、本物です。

すばらしいの一言に尽きる。が~まるSHOWでは文字通り涙と鼻水がだだ漏れになるくらいに笑い、中盤以降のマイムネタでは、青年団・五反田団の芝居でだって観客席こんなに息を呑まないぞ、くらいに静かになって舞台をじっと見つめる。

実は、家族抜きで一人で行っても楽しめるものかどうか、迷っていたのだ。で、迷っているうちに、チケットが売り切れちゃったかもしれないなーと 思っていたら、何と、こともあろうに、チケットは蒸発していなかった。どうなってるんだ、日本。なので、意を決して一人で行ったら、何と、結構お一人の方 も来てらっしゃいました。おお、同志達よ。共に楽しもう。

いや、本当に、ネタを事前に知っていても、なおかつ面白い。身体能力もすごいのだけれど、客席の空気を読む力、それを梃子に注意をひきつける力、 そのチャンスを絶対に逃さない勝負強さ、どれをとっても、さすが世界中で大道芸やって鍛えてきただけの事はある。エディンバラ・フェスティバルで賞をも らったのも、海外のテレビ局やフェスティバルで引く手あまたなのも、まったく不思議でない。
今日付けの日経新聞別冊でもインタビューされていたが、気付くのが遅いよ、日経。これじゃ皆さん笹塚まで観にこれないじゃない。ま、いいけど。お蔭でチケット取れたし。

これから日本ツアー回って、クリスマスイブ、横浜で締めるそうだ。横浜のチケットも(何とけしからんことに)まだ残っているらしいですから、本と、みなさん是非どうぞ。小学生から若いカップル、お友達同士、お年寄まで、みんながみんな楽しめます。

心の底から、楽しみました。

柿喰う客 傷は浅いぞ

18/11/2007 マチネ

紋切り型を有無を言わさず繰り出して、75分間退屈させずに持たせる力技。
僕が芝居を観に行く時に期待するものは観られなかったけれど、ここまでやれば立派である。嫌味でなく。

時々出てくる(おそらくは)テレビネタは、天気予報以外にテレビを観ない僕には全く通用しないし(ウケてるお客さんもいましたが)、最後のオチ も、「うーん、ここまで力で押しといたんだから、いまさらこんな風に落とさんでも」と、ちょっと思いはしたものの、重要なのは力と速さで紋切り型に突っ込 む余地を与えないことなんだから、それは枝葉末節だ。

こんな風にベタなストーリーに作・演出の妄想を貼り付けて、観客が引こうが引くまいがおかまいなく物語を役者に語らせていく芝居って、他にあったっけ?と考えて、
そうだ。唐だ。と思いつく。

もちろん、今日の芝居と唐芝居を較べちゃイカンとは思うが、でも、現在の演劇シーンの中で唐さんを超える(超えるためには、もちろん、同じコース を走ってなきゃならないわけで)可能性を万が一にも持っているのは、このテの芝居なのかもしれない。もっともっと、錯綜する複数のストーリーがあって、し かもそれらのストーリーラインがみんな細るくらいに作・演出の妄想が肥大化して、紋切り型がユニークな見立てで吹き飛ばされて、観客が冷静に判断するヒマ を与えないくらいのイメージの広がりが加わったら...などと考えてしまった。

次も絶対観に行こう、なんて言ってしまったらそれはウソだけど、何年か経ってみてスッごく面白くなっていたら、それは充分納得できる劇団である。

2007年11月18日日曜日

元祖演劇の素いき座 阿房列車

17/11/2007 ソワレ

1991年の初演以来、17年間上演を続けていると当パンにある。
え?そんなになりますか?実は小生、初演以来この芝居を観ていなかったのだ。不覚だ。
何だか、高校生の時分に買ったジャズの隠れ名盤が、引越しか何かの拍子に見つかったような感覚になる。

森下さんが出てきてみかんをむくだけで、涙でてくる。みかんの袋の白い繊維を丁寧に丁寧にとっていく指先と、微妙に浮き沈みする草履の踵。これを 演技と呼ばずして何を演技という。福士史麻の登場、微妙な内股の歩み、靴下の皺。土井さん、ジャケットの皺、立ち、目線。アゴラの空間を体温と緊張と弛緩 とで漲らせるのに頭数は必要条件でないことを如実に示す。

福士、土井さんとの会話の時に、頭に間(というか、一呼吸)が入る。「これは?」と思う微妙な線だが、初演の時も同じことが気になったなぁと思い 出す。してみるとこれは演出か。17年歳をとってみてみると、これはこれで、実は成立している。少なくとも、「おじさん」の目線から見ると。それが今はわ かる。僕も歳をとった。

平田オリザが1991年にここまでのものを書いていたということにも、今更ながら驚いた。あぁ、幸せな1時間半。満喫した。

世田谷パブリックシアター 審判

17/11/2007 マチネ

退屈と紋切り型に満ちた3時間15分。

芝居にとっての「寄り道」とは、役者の指の爪であり、はきつぶした靴底であり、内股であり、がにまたであり、ごく微妙にかき消せない茨城なまりで あり、本筋と全く関係のない目線(『あの人は日頃どのようなものを食べているのだろうか?』と、その視線を向けた役者が考えているのではないだろうか、と 観客に思わせてしまう目線)である。それを端折った芝居を、おそらく、「ストーリーに縛られた」とか、ひょっとすると「テーマ主義的」と呼ぶのではないだ ろうか?

だから、いくらカフカの原作にでてくる「サブストーリー」的なモチーフを舞台で見せてみたところで、それは、構成・演出が面白がっているだけで、 芝居の観客には面白くないだろう。折角切り口を変えてカフカを舞台に載せているのに、これではサラリーマンマンガの紋切り型大王、「被告人島耕作」となん ら変わらない。

冒頭からいきなり「それっぽい」音楽(そしてそのそれっぽさは芝居の間永遠に続くのだ!)、2人の官吏の身のこなし、監督の足の組み方、ヨーゼ フ・Kの怒り、グルーバッハ夫人の動揺、女達の喘ぎ、被告人のしょげ返り方、貧民の無教養さ、聴衆の興味の示し方、こういった紋切り型が、構成・演出者が 面白いと思う審判のテクストの読み方の説明への奉仕に終始していて、悲しくなってしまった。

だから、ヨーゼフ・Kは、「イヌのように」死ぬのではないのだ。この芝居で、ヨーゼフ・Kは、あたかも「役者が舞台上で『イヌのようだ』と台詞を言って死ぬ演技をするように」死ぬのである。
五反田団の「生きてるものはいないのか」では、役者が、まさにイヌ死にしていったのと対照的である。

ただし。2つ面白かったこと。
① 井出茂太のコリオグラフィは大変面白い。紋切り型を取り出してそれを構成しなおし、デフォルメして示してみせる。何だか、芝居に満ち満ちる紋切り型への強烈な皮肉のようにも見えた。
② ヨーゼフ・Kを訪れる、片足を引き摺った女性。あの長い台詞の台詞回しは、どうにも面白かった。どのように意識を持っていったらあんなふうに台詞がいえるのか?変だ。

2007年11月12日月曜日

三条会 いやむしろわすれて草

11/11/2007 ソワレ

三条会、初見。
千葉は、遠い。三条会アトリエは、千葉駅からも、遠い。人通りの殆どない道を通って現地へ向かう。
入ってみると、「狭くて天井の低い」アトリエである。壁も白かったりして、何だか学生時代の教室(あ、会議室か)舞台を思い出したりする。
冒頭、上演時間65分、というのに驚く。そんなに短くするのか?元の戯曲をぶった切るのか?

始まってみると、むくつけき男子4人が演じる4姉妹。うむむ。汗臭い。が、年齢のことは少なくとも不問に処すべし。五反田団のオリジナルだって、中学生の娘を中学生が演じていたわけではないのだから。芝居なんだから、歳の差だって、性差だって、ということなのだ。

ということで、戯曲に書かれたテクストに忠実に。が、スピード、間、アクセント、コンテクスト、そういったものを出来る限り誤読していく、そして逸脱していく。その遊び方が、この間アゴラで観た岡崎藝術座のオセローにも似ている。

岡崎藝術座と異なるのは、岡崎藝術座が、観客の意識を出来るだけ舞台上の一箇所に留めないこと、視線を拡散させることを旨としている印象だったの に対して、三条会の舞台は、飽くまでも1点に焦点が当たっているように思えたことだ。まぁ、狭い空間に男4人集めちまうのだから仕方がないのかもしれない が。
僕は個人的に「視線拡散型」の芝居をキョロキョロしながら観る方が好きなので、実は、ベッドの上に4人集まって演技されると、ちょっとテレたり疲れたりする。

演出の意図が先を走って、正直なところ、僕がとろとろと自分の想像力を働かせる時間が与えられなかった気もしている。65分、割とあっという間に 経ったけれども、観客の意識をどうもっていくかよりも、自分がどう遊んでいるかを見せるほうに興味があるようにも思えた。が、本当のところはどうか? 今 度観に行った時に確かめるべき課題である。

五反田団+演劇計画2007 生きてるものはいないのか 再見

11/11/2007 マチネ

前回観た時に、もっと役者の細部を観たいと思った。
ので、今回は敢えて細部に集中。特に死に際(あ、この日記もネタバレ前提です)。

すると、やはり面白い。微妙なステップ、誰も見てないようなところでの表情、等々、本当に細かいところまで作ってあって、見てて飽きない。
しかも、やっぱり、死んでる人たちも、当然だが、息をしているわけで、お腹が上下動していると、それが又面白い。
お腹をガンガン押してたら「ゲフッ」だって。死人はゲフとかいわねーよ。
あと、芝居が終わって役者がみな立ち上がるときに、何だか寝起きみたいな顔で立つのがまたおかしい。

が、そうやって、一生懸命観ているうちに感じるのは、うーん、何と言ったらよいのか、作者あるいは演出家の(この場合は両方兼ねているから前田氏の)、悪意、めいたものである。
「こーゆー死に方を、せいぜい今のうちに嗤っちゃったりしとこう。どうせ芝居だから」というのか、
「生きてるっつったって、所詮、死んでないくらいのことだし」というのか、
「気合入れて死んだって、芝居の結末には何の因果も及ぼさないよね」というのか。
どれも不正確な気もするが、しかし、何か、そういう、悪人気取りと正真正銘の悪人の境界例のような悪意を、感じた気がする。
この、何とも言い表しがたい悪意は、素敵だ。「後味の悪さをはいどーぞ」みたいな芝居よりも余程気持ち悪く、心地よい。もう一度観ると又印象が変わるのかもしれないが、残念ながらもはや芝居ははねた。次回作楽しみ。

2007年11月11日日曜日

タテヨコ企画 カタカタ企画3本立て

10/11/2007 3本

昔、イギリスの有名美人女優が「何故デブの男がすきなのか?」とインタビューされて
「だって、お腹の襞ひだの中に色んなものが隠れていそうでミステリアスじゃない?」
と応えていた。

実はこの受け答えは、男が痩せていたって成り立つはずだし男女が逆転してもやはり十分成り立つはずだ。秘密が隠されているミステリアスな場所は、 痩せたあばら骨の段々の陰であったり、肘を曲げると出来る皺皺の中であったり、つむじの中を掻き分けた中であったり、上腕の裏側下部(これはミカドのカ ティシャのチャームポイントである)だったりするわけである。
要は、2人の関係は、それらのヒミツの場所を興味をもって覗き込めるかにかかっていたりもするのだ。

で、この、カタカタ企画三本立て、「そのときどきによって」「夏が来ない」「うそつきと呼ばないで」だけれども、まさに、タテヨコ企画のヒミツの 場所を見出すのにふさわしいギャラリーカタカタという小さな小屋を得て、観客としては、さて、どこにどんな皺が見つかるだろうかと胸をときめかしたわけで ある。

横田戯曲は、その意味で、特に肥った三段腹の芝居ではない。どうかすると見逃してしまいそうなさざなみ、「良い人しかでてこないじゃない」と思わせるすっきりとした佇まいの中に、実は隠れたほくろがポツポツと仕掛けられている。それが良い。

ただ、勿論、小さな小屋で役者と観客の距離が非常に近いのだから、痩せてるくせにお腹に贅肉の付いた裸を「ほぅれ、ほぅれ、この皺、この皺を見 れ」とグイグイ押し付けてきては興醒めである。今回、横田氏を含めて3人の演出家が3作品を演出したのだけれど、そこら辺、それぞれに、
「ほぅれ、ほぅれ」路線で来るのか、そこはかとなくヒントをちらつかせてくれるのか、違いがでてきて、そこで良し悪しが分かれていたと思う。だから、良し悪しはひとえに演出によるのであって、役者の良し悪しとは違う。

でもそんな中でやはり、「うそつきと呼ばないで」での舘智子さんの笑った目尻は格段にミステリアスで美しかった。ともするとアッサリしがちな横田芝居に実は秘められている「色気」が感じられて気持ちよい。もう1つ、「抑えた好宮温太郎」も収穫だった。

小さな場所で、役者6-10人、1時間15分ずつ。これはこれで気持ちよい。でも、次の駅前にはもっともっと要求したい。1本勝負の中に、観客が見逃してしまいそうな皺をどれだけ織り込んでいけるか、楽しみにしています。

2007年11月8日木曜日

五反田団+演劇計画2007 生きてるものはいないのか

07/11/2007 ソワレ

書きたいことはあったが、書くとネタバレになってしまうのでちょっと躊躇してました。
一言で言えば、「前田司郎の骨太な構成力が際立つ作品」、ということでしょうか。

以下、100%ネタバレとなりますので、これからご覧になるという方は読まないほうが良いです。





要は、「生きているということは死んでいないということだ」という単純な理屈である。
「生き様」を描く足し算の芝居ではなくて、バタバタと人が死んでいく末に1人だけ生きている、その結果として「生きている」ことを背負わなければならなくなる、そんな、引き算の生を観客に提示するのに1時間50分かけて見せる前田司郎の手管。さすがである。

さらに、死んでいく人々17人が、それぞれ「太陽にほえろ!」の殉職シーンを持たされている。これは、何も考えないで観て、「おぉ、太陽にほえろ のオンパレードじゃん」と楽しむことも充分可能。が、さらにもう一歩うがって見れば、舞台上で表立って劇的なことが何も起こらない「静かな芝居」への強力 なアンチテーゼともなっている。だって、普通、芝居で人間が死ぬのって、2時間の芝居なら1時間半経過後くらいだよ。人間の生き死にという大事件を、しか も舞台上で殺しちゃって、これでは、舞台上で重大事件起こりまくりである。
この、重大事件を惜しげもなく舞台にバラまいて、その結果として観客に刺さってくるのが「いかにして死んだか」ではなくて、「残った人が生きていること」であるところが、この作品が持つ重大な筋立てであり、逆転であり、全てであった。少なくとも僕にとっては。

しかも、17の死を追っていく観客の視点は、出はけを繰り返す役者達の視点をくるくるとたらいまわしにされて、結局生き残ったマスターの眼に行き 着くのだけれど、でも、それまでのところでマスターの視点に移入している人は一人もいないはずだ。その、「必ずしも移入していない人」が残っているのに、 何故か、「独りで生きていること」を背負う感覚だけは観客もマスターと共有できてしまう。不思議だ。やられた感が否がおうにも増してしまう。

そういうわけで、骨太な方法論が前面に出た、力強い芝居だと思う。

ただ、その代償はやっぱりあって、「前田司郎独り勝ち」の印象はぬぐえない。役者陣、あんなに一生懸命死んでも、それ、ラストシーンに向けた捨て駒なんだもの。まぁ、それをもって前田氏を責めようとも思わないし、芝居がつまんなかった訳でもないから...
でも、普段なら目が行くはずのすっごく下らない細部に、今回は目が行かなかったのだ。それがちょっと不思議でもあり、ある意味残念でもあった。
5人くらい死んだところで、あと15人くらい死ぬなかなぁ、とか、不謹慎な勘定をしながらラストシーンへの残り時間を考えてしまったりしてたが、本当はもっと細部を楽しみたかったのだ。

2007年11月5日月曜日

青年団若手西村企画 ライン

04/11/2007 ソワレ

「楽しめるくだらない作品に仕上がった」とは演出のあいさつ文だが、まさにその通りで、特に「タイムマシーン」なんて特大にくだらなくて、心の中で「く、くっだらねぇえ!」と快哉を叫んだことである。

オムニバスは期待していなかったので、観る側としてのペース配分を間違ったのかもしれないけれど、前半目をまん丸にしてみていたのが後半になってちょっと失速・息切れ感あり。辛くなりかけたところで幕となったので、そこは救われたか。

現代口語演劇を捕らえたままで身体性と改めて向き合う、というのは、すごく真摯かつポイントを付いた試みだ。それを、色んな形のスキットで試して いくという点で、非常にポジティブな芽に溢れていたと思う。ただ、それを、冒頭の"Shut in"の完成度くらいまで練っていく時間がかけられていたらなぁ、とは思う。
それだけ、冒頭番外編の"Shut in"は練れていた。ひょっとすると、その空間を引き摺って(比較的粗削りな)本編に入ったのが後半の息切れ感に繋がったのかもしれない。

アイディアを練って練り上げて、観やすく美味しく仕上げたら、きっとヨーロッパ企画のようなものが出来るのだろう。出来上がったそいつを見直し て、役者の身体性と「説明しない普通の台詞」をもってぶち壊して、それを組みなおして舞台に載せると、それはスッごく面白いものになる、はずだ。その 「芽」は確かにあった。「タイムマシーン」を観よ。充分にくだらなく、充分に等身大で、存分に想像力を刺激された。

欲を、言えば。西村企画を観るの、これが3回目だったけれど、前2作には、良くも悪くも、西村氏の世界に対するみょーな生真面目さ、があったと思 う。それは、巧拙・切り口とは別の、「味」のようなものだ。それが、今回、「くだらない」をキーワードにしたことで、ちと薄れたかもという気がしてきてい る。「ラインを踏み越えること」という、何だかおぼろげなコンセプトは今回もあったのかもしれないけれど、できれば、次回以降、この「くだらなさ」は引き 続き舞台に載せながら、1本縦糸を通して芝居を組むことを期待してしまう。まっこと、観客の欲には限りがない。

風琴工房 砂漠の音階

04/11/2007 マチネ

先週の日経新聞の広告で、渡辺正行さんが小学生の時の思い出話をしていて、
「ホリに当たる照明が変わると朝になったり夕方になったり夜になったり。すげえ。こんなにリアルに出来るんだ」
と感動した、というような話をしてた。
僕は、小学1年の時に、北区役所のホールに「首なしほていどん」の子供劇を観に行って、「なんだぁ、子供劇だと思って手を抜くんじゃねえ!こんな のありかよ!」と思ったことを克明に覚えている。また、小学校の体育館で「杜子春」の説明台詞攻撃(当時の僕は説明台詞という単語を知る良しもなかったの だが)に、やはりかなり怒ったことも覚えている。

そういう、頑是無い子供の頃からそういう偏った芝居の見方しか出来なかった僕なので、僕の芝居の好みはやはりかなり偏ってしまっても仕方がない。つくづくそう思う。

で、風琴工房。前回、「紅の舞う丘」を観に行った時には、ここの日記にも
「スズナリまで出かけて朝の連続テレビ小説を観てしまった。
しかも、2時間連続である。15分で逃げて帰るわけには行かない。」
と書いた。要は、「ほていどん」を観た時のように怒ったわけである。
でも、山内さんが出演するとなれば観ずばなるまい。加えて小高仁氏が出演するとなれば、ますます観ずばなるまい。

山内さん、スーパー。すごい。登場して2分くらいで全て合点がいく。これはすごい。喜怒哀楽が全部科学語りになって顕れる人間を舞台で観られるとは。それを演じることの出来る役者を目の当たりに出来るとは。
小高さん、声でかい。良し。山内さんのカウンターバランスとしてすごく良く機能している。
笹野鈴々音、良し。山内・小高・笹野の3人のシーンは、観ていて気持ちよい。

で、これほど良いものが書けるのに、そして演出できるのに、何故、他の全てがこれほどまでに薄っぺらいのか?
何故、こんなにも「私達が持つことが難しい熱情を持った」「多くの希望が許されていた」人たちを、恰も熱情と希望とだけで生きていたように、(言い換えれば、桃太郎の鬼達が恰も悪意とお姫様だけで生きていたかのように)、描くことが平気なのか?
主人公以外の人物に対して愛がないのか?それとも、熱情があって希望のある人々には、不安もなければ悪意もなければ自分の心情を説明する以外の台詞や身振りは不要なのか?
そこら辺の薄っぺらさは、やはり、朝の連続テレビ小説だった。

この芝居、同じキャストで再演したら、人に薦めるか? 薦めます。山内=中谷宇吉郎は必見。
この劇団、違うキャストで又観るか? おそらくもう観ない。たとえ、篠塚さんが出演していても、だ。こういう気持ちになるのは、つらいが。観たらもっと辛い思いをしそうな気がする。

2007年11月4日日曜日

マチネ・ポエティカ 一つの可能性

03/11/2007 ソワレ

非常に間抜けなことに、観終わって家に帰る途中で気がついたのだが、これって、芝居では勿論無いし、戯曲のリーディングでもないし、(当たり前だと言うなかれ)小説のテクストのリーディングなのであった。

「本を声に出して読んでもらう」というのは、すごく気持ちのいい状況だ。いや、そうに違いない。「本を声に出して読んでもらう」というのは、一部 の人にとって「耳掃除をしてもらう」くらい、又一部の人にとって「美容室で極太の指でシャンプーしてもらう」くらい、気持ちの良いことであるはずだと思っ ている。

僕自身は両親に本を読んでもらった記憶が全くなく、3歳くらいからの記憶が全部気に入った絵本を「黙読」している自分の姿で、今となって考えてみ ると不幸な子供である。土曜日のお昼前、幼稚園の先生が毎週本を朗読してくれる時間が、ひどく楽しみで仕様が無かったのはとても良く覚えているけれど。

読んであげるほうなら、小学生になるかならないかくらいの子供を呼んで、本を読んであげたら、結構僕は上手だ。小学生の頃から、親戚の子達を集め て本を読んであげるのは得意技だった。でも、本を読んでもらった記憶はない。肩凝り症の人が、やたら人の肩を揉んであげてそっちは上達するのに、自分は揉 んでもらえない、そういう感じである。

前置きが長くなったが、今回のリーディング、気持ちよかった!とても、気持ちが良かった。
導入こそとっつきにくい気がしたけれど、始まって1分経つとすっかり中に入り込んで、じっと耳を澄ます。物語を追うのはとても大変なテクストだと 思っていたので、そこを半分投げ出して、今、そこで読まれている、言葉、に注意を集中する。と、そこから見えてくるイメージがある。落第生がいて、叔父が いて、甥がいて、見えない愛人がいて、そばにいる愛人がいて、妻がいて、あぁ、でも、このテクストは抜粋なんだよな?この裏側にはどんな世界があるのだろ うか?言葉に音階がつき、まるでエルメート・パスコアールのようだ。一体どんな読み方をしているのだろう?

と、すーっと引き込まれていって、つい眠くなりそうなもんだが、それがならない。リーディングから発せられる刺激が、パフォーマーの静かな揺れで あったり、バンドネオンであったり、ペースの緩急であったり、投影された文字であったり、本当に、言葉を追っていくよろこびに浸っているうちに、終わる。

「パフォーマンスを振付ける読み手=語り手としての武藤真弓」「リーディングパフォーマンスの語り手たち」「物語の語り手」「動作の主」「リー ディングを聞く複数の聴き手=読者(候補)」の隙間の中にそれぞれ間があって、そこがそれぞれの妄想・想像で満たされている。その、それぞれに微妙にずれ たものたちの集合の豊かさが感じられて、とても気持ちが良い。できることならば、妻子も一緒に連れて来たかった。そのズレについて語り合うのもまた、すご く幸せな時間なのだろうと思ったことである。

あうるすぽっと杮落とし 海と日傘

03/11/2007 マチネ

あうるすぽっと初訪問。どうも客席が平たい小屋で、これじゃ後ろの人は舞台が遠く見えるのではないかと心配されるが、実は客層にお年寄が多くて、あぁ、これからは劇場もバリアフリーなのか、なんてことを考えたりしていたわけである。

で、松田正隆さんの岸田賞受賞戯曲だから、スタイルや構成、台詞に文句のつけようがあろうとははなっから考えていなかったが...
あっまあまでダッサい演出のお蔭で芝居は台無し。

そもそもが、左右の壁がぎゅっと両袖に開いた舞台セット。貧乏暮らしなのに優に12畳はあるぜ、この居間。
加えて、なんだか「淡淡とした二人の愛を描きます」みたいな音楽の使い方とか(暗転中は別として)、「けなげさ」大前面に押し出した竹下景子の絶叫寸止め台詞とか、こんな持って行き方では、後半の「多田登場」のシーンの厳しさも、ラストの平田さんの台詞も活きるまい。

それとも。これくらい甘くて「お客さんへの説明過多な」演出にしないと、いまどきの観劇ファンは許してくれない、ちゅうことですか?だとすると、事態はかなり深刻だろう。
日経に「劇場も大競争時代」なんて書いていたが、あうるすぽっとがこのていたらくでは、先々本当に思いやられる。これは、状況として、危ないぞ。