2010年5月31日月曜日

マームとジプシー しゃぼんのころ

30/05/2010 マチネ

やはりマームとジプシーはとても上手なカンパニーだった。戯曲のディテールも、構成も、役者の所作も、アンサンブルも、小屋の使い方も、すべて上手だった。しかし「僕を」どこにも連れて行ってくれなかった。いや、人のせいにしてはいけない。「僕は」この芝居のどこにも、取り付くシマを見つけることが出来なかった。遠い世界で始まって、遠いまま終わってしまった。だから、これから先書くことは、自分の想像力に対する言い訳・アリバイです。

これだけ上手に、微に入り細に入り、繰り返して、微小なシーンを畳み掛けられると、年取った僕の想像力はただただ「自分が観たこともなく、娘が高校生になったからは微塵の興味も抱かなくなった女子中学生のこと」に対してスイッチが入るタイミングを見失い続ける。ひょっとすると創り手は「ハナから入ってこれない人」の想像力のスイッチを入れさせようという意図を持っていないのかもしれない。それくらいに、この芝居の絨毯は目が細かく、ぎゅうっと詰めて編んである。一つの世界がこれだけぎゅうっと提示されてしまうと、そこに入れる・入れないは「好悪」「ハマるかハマらないか」に左右されてしまいそうだ。

他にも「一つの世界をぎゅうっと提示する芝居」はある。青年団、ペニノ等々。ただし、それらの芝居は、ずるぅく「余地」を残して観客にぶつけられていると思う。青年団のソウル市民を観て「本当に善い人々のお話なんですねぇ」という感想を言った方がいると聞くが、そういうふうに「誤読」を許してしまう芝居。それなら大丈夫。一方で、自分の世界で突っ走る芝居もある。唐組、少年王者舘。実はそういう芝居も僕は好き。

なんで唐さんや天野さんの世界には付き合えるのに、藤田さんの世界とは折り合いがつけられないのか?

うーん。それは、マームとジプシーの芝居があたかも「共有できるもの」として提示されているから、もしくは、観客としてそれを期待してしまっているからではないか、と思う。もとから「あっち側の世界」「いっちゃった世界」であれば、そこに距離が生まれ、想像力の働くスペースが出来る。逆に、「共有できる、よね?」と迫られた瞬間、こちらの気持ちがスルリと逃げる。端正に作りこまれていればいるほど。そういうことがおきたんじゃないかという気がしてきた。

だから、マームとジプシーの世界を「共有できた」と思えた人はとても幸せです。きっと。ガチンコで話に入っても大丈夫なくらいスキがなく出来た芝居だから。そこで引いた僕はあからさまに不幸せです。これからこの劇団が、幸せな観客と不幸せな観客を創りながら前に進むのか、それとももちっとずるく立ち回って間口を広げていくのか、誰かそっと教えてください。

2010年5月29日土曜日

中野成樹+フランケンズ 寝台特急"君のいるところ"号 再見

28/05/2010 ソワレ

どうにも気がふさいでなんともしようが無いときには、いい芝居を観るに限る。"君のいるところ"号、再見。心が乾いていたのだろう。集中して観ることができた。気持ちのくしゃくしゃになった部分にスチームアイロンを当てて、気持ちよくピシッと伸びた気がした。

前回(21日)拝見してからつらつら考えて、どうにも思い出せなかった細部や、ちょっと腑に落ちなかった細部が、何となく分かった、気がする。それでも目や耳に入ってこないところはやっぱり入ってこないけれど。

微妙なタイムラインの操作とか、音の使い方とか、照明の切り替えとか、もちろん舞台の転換もそうだけれど、「芝居を進行させるための道具」として虐げられることなく、また、「観客の想像力やムードを創り手の意に沿うように狭めるための装置」として使われることもないように、気をつかって配置されている。そういうのが、嬉しい。

フランケンズの役者陣の立ち方も好きだ。自らが入り込んで粗くならないないように、観客が入り込んで想像力が甘やかされないように、一見ドライだけど、すごく丁寧で、視野の広い演技をしている。どこを観ていても飽きない。贔屓の引き倒しじゃないけれど。

斉藤淳子さんの後半の立ち位置は、(28日の)下手中程壁際よりも、(21日の)下手奥コーナーの方が好きだったかな。

2010年5月27日木曜日

柿喰う客 露出狂

23/05/2010 ソワレ

女性ばかり14人のてだれ揃えて100分間、強力なエンターテイメントの中に芝居ならではの問題意識、見所もしっかり盛り込んで、観終わった感想は「さすが中屋敷、上手だわ。やられた。脱帽します」。が、中屋敷芝居を観ていて毎度毎度思うことだけれど、「上手」と思ってしまうのは、おそらく、賞賛40%、やっかみ40%、「このままでいいのか?!もっとやれよ!」20%、ということだと思うのだ。

二重の螺旋階段で組んだ美術は見事だし、その黒い立体の周りをびっちりと固まって動きながらそれぞれにきちんと「見せ場」を作って飽きさせない。くるくる回りながら入学から卒業までのサイクルを繰り返す高校生活って、定点観測するとこんなもんなのかな、と思ったりもするが、まぁ、その程度の「意味の読み取り」なんぞ、芝居を楽しく観ることとは全く関係ない。

「露出狂」と銘打つだけあって28本の立派な大腿、高校の制服からにょきにょきと生えて出て、しかもエロさを感じさせず。いや、実はこの「エロさを感じさせない」ところがポイントだと思うのだ。女優陣にあれだけ下ネタ台詞を喋らせておいてエロの微塵も無く、Hカップ女優が何度と無くムネをゆすっても(少なくとも僕には)詰め物いじってるとしか見えなかったりする(すみませんでした・・・)。それは、
・ただの、シェーファーのアマデウスに出てくるモーツァルトの下ネタ趣味に近い、子供っぽい悪ふざけ(だって面白いんだもん)
・「エロ」の記号だけに反応するヒトたち(肯定派も否定派も)へのあてつけ
のどっちか、あるいは、どっちもだったりするんだろう。いずれにせよ、表面を下ネタオブラートで包んで一見「お行儀悪い」ように見えながら実はかっちり仕上げて、エンターテイニングに出来上がってるものだから、文句のつけようは無い。観ていて安心していられる間は、上記のような問いへの答は創り手だけが知っていればよいのだ。観客は真相当てクイズをしているわけじゃないのだから・・・と、そういう目線を感じて、何だか「今回はここら辺で勘弁してやるか」はいい加減やめてくれよぅ、とそっと心の中で呟く。

2010年5月25日火曜日

ハイバイ ヒッキー・カンクーントルネード 経験者組

22/05/2010 ソワレ

経験者組、ヘリコプター最終日。
普段は客席で携帯電話いじっている客を見ると(客入れ中であっても)割とぶっ飛ばしたくなるのだが、今日は特別。客入れ中かかっている音楽を聴いていて、どうしても「ボンバイエ」の意味を調べたくなったのだ。携帯でググるツレ。「分かった!スワヒリ語で「やっちまえ」!アリ対フォアマンの時に観客からかかった掛け声。異種格闘技戦を経た上でアリが猪木に譲り渡した、そうです。」「ボンバイエ」を譲り渡すというのも良く分からないが、いや、いいや。ボンバイエで。あ、いや、もう一つあったんだよ。初めて組の時も、僕は客入れの最中一生懸命耳を済ませて、ラッシャー木村の「ばばぁー!おれはぁ、おまえがぁ、好きだー!!!」が流れてこないかなー、とも思っていたりもしたのだ(ちなみに、新聞記事で訃報を拝見したからではありません。木村さんのご冥福を心からお祈りいたします。)

何が言いたいかというと、「僕は、ヒッキーの客入れ時間が、毎回、好きです」ということなんですが。

芝居の方は散々あちこちで誉められているだろうから、今更誉めても、ということだし。でも、まぁ、感じたのは、「泣き・泣かせ」のプロセスが見えてくると、そこではガツンと来にくくなる、むしろ、役者が変わると微妙なスイッチの切り替えのタイミングも変化して、そうすると、「分かっててもやっぱりやられる」ということが起きる。「いつもの」役者陣で観ていて、そういうことを思いました。

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第4回

22/05/2010

劇評セミナー第4回は青年団「革命日記」の合評を水牛健太郎氏の進行で。

・「革命と日常」「集団と個」のような二元論の対比でこの「革命日記」を語ることは、二元論を選びとった時点で平田の術中に落ちている。それでは平田の掌の上を抜け出した視点は提示できない。
・「革命日記」が何についてリアルなのか、すなわち、「2000年代に三里塚のオオカミはありか?」「こんな杜撰な運営はありえないのではないか」という「時代考証」「設定」のリアルさに対する疑問がどの程度「芝居を語る上で」有効なのか?
・演劇は「内容」と「パフォーマンス」の両方を捉えて語るべきなのだけれど、「革命日記」については内容の方へ流れがち。なぜか?
・なぜ青年団の役者の名前は覚えにくいのか?
・平田オリザの「戯曲」の作風が変わってきているという印象について。

うむうむ。日頃考えていることとかぶる部分もあり、新しいこともあり、刺激いっぱい。何より、(1)アルコール抜きで、(2)各人一通りの論点をさらった上で(つまり、イヤイヤながら宿題をやっているのとは訳が違うということ)、(3)正解のないことについて大人の議論ができる、というのは素晴らしい。少なくとも今回はそうだった。脳味噌に心地よい汗をかいた。

2010年5月24日月曜日

中野成樹+フランケンズ 寝台特急"君のいるところ"号

21/05/2010 ソワレ

観終わった後、駅まで、ツレと無言で歩いた。「いい芝居だったねー」では済まされないと思う。打ちのめされたとまでは言いたくないけれど。

台本、役者、舞台美術、音、照明、そういうものが一つのプロダクションとなって80分間の「時空」を創っているんだという、ごくごく当たり前のこと。その当たり前のことが100%なされた現場に居合わせたことの充実感。

芝居小屋に観客として入って、正面に舞台があって、後部上方には調光卓や音響卓があって、舞台上を見入るとそこに役者が出てきて「ないもの」を「あるもの」のように扱う人々がいて、でもそのことは舞台上の人も客席の人もしっかり共有できていて、で、そういうところからお互いの想像力をしっかり尊重しながら、飛べるところまで一緒に飛んでいこう、そのようにもてなされているという感覚がとてつもなく嬉しい。

こんなにもおしゃれで、すっきりしていて、かっこよくて、「誤意訳」だなんてすかした言葉遣いしちゃって、それなのに暖かい。熱源を目に見えないように、直接肌に触ってやけどさせないように、でもトータルの熱量はしっかり感じられる。

僕がこの日アゴラで体験した80分間をもう一度咀嚼して、吸収して、言葉として吐き出すのにはもう少し時間が掛かる気がする。それくらいいろんな素材や味が混じりあっていたと思う。が、少なくともすばらしい舞台だったということは間違いない。

2010年5月23日日曜日

燐光群 パワー・オブ・イエス

18/05/2010 ソワレ

以下、観劇前に某氏に送ったメールから一部変更、抜粋:

あちらこちらで評判が良いようで、気にはなっていたのですが、私自身、2006年までロンドンの金融市場に身を置いて、ビジネススクールでブラックショールズモデルを勉強したり、思いっきりレバレッジの効いたMBO案件に関わったり、それをCDOに換えて投資家に売るプロジェクトに関わったり、ロンドンのシンジケーションに関わる連中のカラオケ大会で酔っ払ったり、オランダやスペインのRMBSを買い増そうかどうかなどという議論に加わったりしておりましたので、この芝居、とても冷静に観てはいられないのじゃないのかという懸念や、芝居の途中で「それは違う!」と叫んでしまうのではないかという心配もあり、二の足を踏んでおりました。
ご案内を頂いたとあっては、これは頑張ってスズナリに行かねばと改めて思っています。

以下、観劇後に某氏に送ったメールから一部変更、抜粋:

大変しっかりした戯曲で、しかも、燐光群で観られたのが良かったと思える芝居を観ることが出来ました。よい芝居でした。
藤井びんさんがステキでした。また、鴨川さんがブラック・ショールズモデルの説明の台詞をかまずに言い切った時点で、観に来て本当に良かったと思いました(半分冗談ですが!)。

内容については、自慢じゃありませんが、小生はほぼ全て理解できました。
たとえ事前の解説付きであったとしても、(金融用語、イギリスに特有のコンテクストが多くて)日本の多くの観客にはチンプンカンプンなところが数多くあったと思います。が、そういうところは端折っても、前回の金融危機(今回の金融危機はギリシャ発ですので)の問題が、「大体どこら辺にありそうなのか」を感じて劇場を出られるような仕組みになっていたと思います。

観る前には、もっと日本の朝日新聞的な「庶民の視点では(どこの庶民だよ、お前ら記者はよ!)」みたいなノリを予想していたので、バランスの取れた構成に、大変ほっとした次第です。

一つだけ大変不満なのが、翻訳です。余程力がないか、余程手を抜いたかのどちらかとしか思えませんでした。

金融の専門知識がない方であることは、それは仕方がありません。ただし、出来上がった訳文について、金融を知っている者に「一度でも」目を通してもらっていれば防げた誤訳がしょっぱなから出てきて、がっかりでした。それが「手抜いている」と申し上げる理由です。以下、例を挙げます。
・"Bank of Scotland"と"Royal Bank of Scotland"の区別がついていないと思われる。ハリファクスを買収した"Bank of Scotland"は「スコットランド銀行」、公的資金の注入を受けた"Royal Bank of Scotland"は辞書訳では「王立スコットランド銀行」です。"Royal Bank of Scotland"は、普通に日本のテレビCMで自分たちを"RBS"と呼んでいます。
・"Long Term Capital Management"を「長期資本マネジメント」と呼んでいたかと思います。日経でも「ロング・ターム・キャピタル・マネジメント」"LTCM"と普通に呼んでいます。
・"New Labour"を辞書どおりに「新労働党」と呼ぶと、あたかも労働党を解党して新労働党を結成したように聞こえます。そうではなくて、「新生労働党」であり「新しい労働党」のはずです。
⇒ これらに代表される「手抜き」のために、日経新聞の熱心の読者ですらも芝居の内容がチンプンカンプンになってしまうという事態が起きているはずです。残念です。

専門用語、固有名詞については眼をつぶるとしても、
・"fight back""hit back"を「たたかい返す」と訳すのは、力がないか手抜きかのどちらかです。「たたかい返す」という日本語はないでしょう。少なくとも「やり返す」「反撃する」のはずです。
⇒ これに限らず、訳文の簡単な校正すらも出来ていない印象です。非常に残念です。
原文を知っているから言うのではありません。原文を読んでいなくて、日本語だけ聞いても容易に原文が予想できる違和感だから申し上げています。
小生、「現代口語演劇みたいに訳せ」とか「誤意訳で訳せ」と言っているのでもありません。これは翻訳劇ですから。でも、それにしても押さえるべき最低レベルがあるはずだと思っています。

また、翻訳の問題ではありませんが、労働党議員の一派が舞台に現われる時に胸に「青い」造花をつけて出てきますが、「青」は保守党の色です。労働党の色は「赤」ですので、ご参考まで。

すいません。くどくど申し上げましたが、芝居としてはとてもエンターテイニングで楽しませていただきました。ありがとうございました。

ハイバイ ヒッキー・カンクーントルネード 初めて組

16/05/2010 ソワレ

初めて組、初日。
ヒッキーは本当に大好きな戯曲。2007年3月に初めて拝見したときに「これからハイバイを観続ける」と思ったくらいに好きな作品で、今回も是非「初めて組」「経験者組」とも観なくては、と決めている。

で、まずは初めて組。良し。篠崎大悟の登美男、ちょっと線の細げな感じが岩井登美男と違ったカラーの味わい。吉田亮の母、平原母と優劣付けがたいが、いつものハイバイお母さんカツラなはずなのにおでこが広く見えるのは、吉田氏は「頭が大きい」からなのだろうか?近藤フクのお兄さんは、外見「え?」から始めて、ぐぐぐぐ押してくる感じ。

チャン・リーメイの出張お姉さんはこれまで観たバージョンのお姉さんに比べて(ダンガリーのシャツにジーンズという衣装もあって)サブカル臭さが前に出る、ちょっと変な味わい。浅野綾は前半「声出てないかな?」と思ったものの、関係性の糸が最後まで切れずこれも良し。

この芝居、何度観ても絶対に飽きない。役者が変わるから飽きないのではない。何度観ても、いくらでも発見があり、自分の観ている状態によって(微妙な)振れ幅がある。そういう見方を許してくれる。変な言い方だけど「軽井沢、良いところらしいのよ」のシーン、何度観ても、泣く。悲しくなったり、笑ったり、自分のことに照らしてみたり、森田家のことを思ったり、とにかく泣く。ラストにかけても、登美男の中にとびこもって、最後までうじうじして、みちのくプロレス観に行くかどうか、自分が本当に迷ってしまう。

泣きたいからじゃないけど、何度も観たい。いろんな役者で、いろんな場所で、いろんな振れ幅で観てみたい。そういう芝居。

チェルフィッチュ ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶 再見

16/05/2010 マチネ

大変素直に、喜んで、楽しんだ。やはり繊細で愉快で力強い作品だった。

一定の動きが「わたし、これからしゃべります」のキューみたいな仕草に見えたり、キメポーズが出てきたり、話の筋がどうもループしているなーと思われる感じが、どうも、ブルースセッションの「もう一周!」のように感じられたり、そういうところで、やはり「演劇よりもダンスに近いですね」といわれると頷いてしまう。

「お別れの挨拶」のフリージャズは、小生浅学なりに「なんだか60年代フリージャズ風に、音場まで合わせて作りこんでるなー。ひょっとしてリズムセクションだけは過去のトラックから引っ張ってきてるのかなー。台詞に合わせてここまで頼める相手って、日本じゃかなり限られていると思うけど。」などと思っていた。当パンのインタビュー読んどけばよかった。コルトレーンですか。すいませんでした。音楽に合わせてたんですね。

そしてなんといってもこの「何にも言っていない」感じが素晴しい。じゃあ、全体の雰囲気やシチュエーション、かすかに匂わされる物語が何かを語っているかといえば、それも、無い。それも素晴しい。たまたま非正規社員が解雇されるシチュエーションを選んでいるけれど、そこには「非正規何とかしろ」とか「正規が下らないことばかり話して」という葛藤も一切無い。それも素晴しい。この、本当に、何も語っていないことが、素晴しい。
もし作・演出・パフォーマーが「台詞・振付・音楽」等々で何かを語っている「つもり」であったら申し訳ないけれど、それは「少なくとも僕には」一切伝わっていない。そこが素晴しい。

舞台に何かが載ること。そこで起きることに、100人なり200人なりの人間が飽きずに集中して1時間強見入ること。そのことの力強い政治性。これまで観た岡田利規作品の中で、これほど力強く政治的であった作品は無いと思う。チェルフィッチュ、斜に構えて観なくても良いんだと納得した。

2010年5月22日土曜日

三条会 失われたときを求めて 第一のコース「スワン家の方へ」

15/05/2010 マチネ

小生浅学にして未だプルーストを一頁も読むに及ばず、「失われた時を求めて」と聞けどもただマドレーヌと紅茶のびちゃびちゃを思い浮かべるのみ。そんなおいらが千葉三条会アトリエまで足を運んでどうよ、という思いはあるが、エイっととりあえず行ってみる。だって三条会だもの。行ってみてどうだったか。

やっぱりプルーストのことは分かりません。でしたし。分かったつもり。にも、なりませんでした。が、面白かった。

ドクター、看護師や占い師と患者。「ヒッキー思い出療法」というべきか、いや、プルーストってそういう人だったんだよね、多分。思い出に浸るヒッキー、ていうか。

という勝手な思い込みのようなものを創り手と観客で共有できるような出来ないような。
「コンブレー」という縁もゆかりもない土地の、おそらくプルースト自身もかなり妄想で作っていてそれをまた三条会の妄想でインフレートした物語が舞台に載って、それは全く観客にはコンテクストの取り掛かりもない話で、あしたのジョーっていったってそれは全共闘の愛読書だからやっぱり僕ら同時代じゃないよね、そういう、
「全く関係のないお話に、これからお付き合いいただくんです。しかも長いです。」
そういうご案内を頂いた、そういう感じ。

おそらく続きも観に伺うと思うが、じゃあこれ一回きりのつもりで来た人は?といわれると少しきついかも。第2のコース以降が、どれくらい「独立に立っていられるもの」になるかが楽しみ、あるいは、気にかかる。

木ノ下歌舞伎 勧進帳

14/05/2010 ソワレ

演劇ってこんなにポジティブに楽しいんだぜ、っていう気合と自信と快感に満ちた公演。

歌舞伎の定番「勧進帳」を現代の身体で演じるという、ちょっと聞くと小難しいインテリ芝居になるか「いぇいいぇいカブいたれ」なアイディア先行のお祭りエンターテイメントになるかしそうな試みを、どちらにも落ちずに軽々と跳び超えてみせた。

そもそも杉原邦生の演出する舞台にはストイシズムなどという言葉はまるっきり当てはまらなくて、つまりは、屁難しいこと考えてるヒマがあったら観てておもしろいことを思いつけよ、というスタンスが明確なのだけれど、それに加えて今回つくづく思い知った木ノ下裕一の超ポジティブ歌舞伎LOVE。この2人が力を合わせてえぇーいっ、とここまで行った。

稽古期間中、DVDを観て「勧進帳完コピ」の荒業をやってのけたのには、「あくまでも役者はハードウェア」という(演出家としての冷静な目線に立脚した)命題が背景にあると思われる。ハードウェアとして型をなぞる上においては、「伝統を背負って稽古を積んだ現代の歌舞伎役者」も「伝統を背負わずに自分の身体性だけを拠り所とする現代の役者」も、「過去に過去の役者によって上演されていたであろう演技」との間に何らかの距離を感じているに違いない点では(乱暴な言い方ではあるが)等価である。そこでもって「今ここにあるカラダ」と「ウン百年前に想定されていたと想像されるカラダ」との間をウロウロして楽しむことに対する勝算。その見立て。

そういう、観客がウロウロできる「遊び」をぽいっと目の前に提示してくれるのが杉原邦生の演出の一番楽しいところ。

「ハードウェア」としての役者陣、そこら辺の意識がよーく共有されているのか、誰をとっても出色の出来。上演中どこを観ていても飽きない仕掛けで、大いに楽しんだ。これ、横浜だけじゃもったいないよ。中学・高校の古典の授業でこれみせたら、きっとぐわーーっと世界と視界が広がること間違い無しだと思うんだけどな。

2010年5月18日火曜日

青年団 革命日記再見

12/05/2010 ソワレ

今回の青年団、評判もよければ動員もよいようだ。役者もますますこなれて良い感じ。なので、終演後知人の方と話した、「革命日記は何のパロディか」に絞って書きます。

(1)そもそも1970年代新左翼チックなことを、下手すると1980年代後半に生まれた役者が演じること。そのズレ。
「あのころのことを知らない若い作者・演出家・役者じゃ、このテーマの演劇は無理だね」

(2)もはや現代日本では成立しない「革命」について、2010年に語ること。そのズレ。
「何で今革命についての芝居を上演する必要があるの?時代の要請と乖離してるよね」

(3)リアルに革命やテロを考えている人が、今、まさに、2010年5月の東京に、いるかもしれない、ということ。その「現実の」革命家たちとのズレ。
「俺、ほんまもんの新左翼の奴に友達いるけどさー、こんなことしてないよ、実際。なんか、リアルじゃなくて、醒めちゃうんだよねー」

あ、もう一つ思い出した。少なくとも1980年代中盤には「革命」についてまじめに、でも、僕から見ると100%パロディとして、語っている連中がいた。本当にいました。実名挙げろといわれれば、挙げられますよ。挙げないけど。

だから、この芝居には、「リアルとフィクション」「1970年代と2010年代」「同時代を知っている人と知らない人」という3つの次元でのズレがあると同時に、「観客の経験と創り手の経験」という次元も加えて、4重のパロディとなっている。そのように僕には思われる。

それについて平田が自覚的に芝居を組み立てていて、役者が自覚的に演技している限り、この芝居は「フィクション」として有効に作用するだろう。「リアルにすぎる」という批判も「リアルでない」という批判も、どちらに対しても十分に対処しうる強度を備えているということになるだろう。多くの人がこの芝居を観て「滑稽だ」と感じるだろうけれど、その滑稽さは必ずしも一様ではないだろう。「リアルだ」とも「リアルでない」とも感じるだろう。少なくとも2の4乗、16通りのズレ、パロディ。でも実際はもっと沢山。その辺りがこの「革命日記」の豊穣さ。

チェルフィッチュ ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶

09/05/2010 ソワレ

ひょっとするとこれはとっても繊細かつ愉快なパフォーマンスなのではないだろうか。

が、それを上回る勢いで、僕は繊細で神経質で心の狭い観客である。
客席の隣の方が当パンを(ひどい場合にはチラシを)読み始めたり独り言を呟いたりヒソヒソ声でおしゃべりしたりメモを取ったり身体を揺らしてパイプ椅子が絶え間なくカタカタ鳴ったり、後ろの方の靴が僕の座っている椅子に当たったり僕の背中に当たったり、最前列の客が携帯電話の電源入れて煌々とライトが照ったり、
そういうことがあると、途端に舞台に集中できなくなってしまう。
まあ、いつぞや見かけた、最前列でタバコを吸って途中で立ち上がって通路で反吐戻していたオバちゃんについては、流石に舞台と客席の一体感が高まったかもしれないとは思ったけれど。

今回は、それが全部あるいは複数あったわけではないけれど、まぁ、終演後頭を抱えたら顔の表面温度が3、4度低くなっていて、自分が顔面蒼白になっているのが分かった。そればっかり考えてしまう自分の狭量さが、パフォーマーやパートナーに対して申し訳ない。本当に申し訳ないけれど、こればっかりは本当にどうしようもない。

もう一度観なければ。帰宅後すぐに予約を入れた。

2010年5月17日月曜日

タカハ劇団 パラデソ

09/05/2010 マチネ

新興カルト教団の卒業生たちが友人の通夜に集まって昔話。そこで繰り広げられる会話の中から、「(能力を)持つ者」と「持たざる者」、「モテる者」と「モテない者」の葛藤があぶりだされる趣向。

カルトものでありながら「組織」や「教祖」を登場させず、あるいはその存在を背後に感じさせることもせず、「同世代お友達トーク」にスコープを押さえ込んだことで、ありきたりの「組織に圧せられる自我」みたいな構図に陥ることは避けられている。が、一方で、「そういうことなら何もカルト教団の話にしなくても良くないかい?」となってしまいそうなのが微妙なところ。

観客から見たとっつきやすさのハードルは務めて低く設定してあって、それと合わせて考えるとカルト教団ネタも所詮はネタか。でも、これだけ丁寧に戯曲が書けて、達者な役者も集まってくるんだから、もう少し高いところに芝居自体のターゲットを置いても全然大丈夫だったんじゃないかなー、と思ったりした。

日本語を読む その3 ポンコツ車と五人の紳士

08/05/2010 ソワレ

別役戯曲の面白さを、奇をてらわない柴幸男演出で。
普通にネルドリップできちんと淹れたコーヒーを頂いたような。あるいは、弦楽四重奏のきちんとした演奏を、じみーなホールでリラックスして聴いているような。

そうだよなー。こういう、変なニュアンスをつけない演出でこそ、別役芝居は面白いんだよなー。可笑しいなー。おもしろいなー。と思っていると、終わる。
途中、うつらうつらしていた方も居たみたいだけれど、心地よいアンサンブルはそれはそれで眠くなっても仕方がない(言い訳じゃないですよ!)。

欲を言えば、もっと小さな小屋で(ゴールデン街劇場みたいな小屋で)、近くで聴きたかったかな。別役さんの戯曲は、実は、東京乾電池とか青年団とか、そういう劇団が演じるのに向いていると感じている。

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第3回

08/05/2010

第3回は、松井周・岩井秀人・多田淳之介の3人の劇作家・演出家をゲストに招いたシンポジウム「好きな劇評、困った劇評」。場面場面でもちろん見せ場があって、司会進行の佐々木敦さんも含め大変エンターテイニングな午後だったのだけれど、総じて感じたのは、やはり創り手のお三方にとって「劇評」は「誉める・けなす(佐々木敦流に言えば「価値判断」)」の情報を伝える役割以上のインパクトを創り手に与えていないんだなぁ、ということ。多田氏も言っていたけれど、まだまだ「作品」と「批評」の間にインタラクションが生まれるような緊張感がないのだろう。劇評を書く側(創り手が劇評を書く場合は除く)から観てどうなのかは分からないけれど、少なくとも創り手からみるとまだまだ「相手にせず」みたいな余裕もあったような。

1980年代には「初日通信」があって、そこには「誉める」にせよ「けなす」にせよ、一定の緊張感があったのを覚えている。あの緊張感は、残念ながら、今の新聞劇評やコリッチには見当たらない気がする。

もちろん、劇評がもたらす緊張感と言うのは、「誉められると客が増えたりする」「けなされると客足が鈍ったりする」というのと、いくら目を背けたとしても一定量つながっているので、一種の権力関係を伴う。でも、この匿名でない権力関係が創り手と批評との間の緊張感を担保するのであれば、それは満更悪いことでもないのではないか。そんなことも考えた。

といったところで、一体誰がその権力関係を引き受けるのか?どこまでのリテラシーをアンケート<レビュー<批評のスペクトラムの中で、誰にどれだけ要求すべきなのか?何をもって「プロパー」な批評家と呼ぶのか?プロパーでなければ権力関係に入り込むべきではないのか?考えは尽きない。

2010年5月16日日曜日

ロロ 旅、旅旅

07/05/2010 ソワレ

シーンを絵として見せるセンスは高く買う。

が、正直、わからんなー、という感覚が先に立った。40歳を超えたおじさんが「分からんなー」といってしまう芝居なんだから、きっと面白いんだろう(誤解の無いように言うが「つまらんなー」と呟いたわけではない)。新しくて面白いモノはそういうところから出てくるのだろうから。

だから、自分が「わからんなー」と思ったからと言って、全面的に否定するわけではない。一方で、手放しでこの劇団の芝居を誉める向きには、注意深い目を向けながら、ちょっとだけ眉に唾してかかりたい気もする。

家族を満遍なく描いているようでありながら、芝居の骨格は若い2人による「名付け」のプロセスから出来ているように思われる。「名付け」は「見立て」を呼ぶし、名付けられたものの性質もその名前によって変わってくる。すなわち、名付け・名付けられの関係は明らかに権力のありかを規定する。

家族というのは個人にとって一つの「所与の集団」だから、「自分が(年長の)家族を名付ける」ことは通常は起きない。旅に出るというのはその名付けられた集団から抜け出して自分の眼で物事を名付け始める、権力奪取のプロセスである。「名付けの権力を奪取する」ことが目的なら、旅に出るのに外に出る必要はないわけで、まさにそれを若い2人が達成してくれる(もちろん一つ上のメタの階層では、作家の三浦氏が配役の割り振り=名付けにおいて規定の名付けのあり方を使わないことで同じことをしているのだけれど)。

と、そんなことを考えていた。あ、論旨混乱したが、要は、この芝居は、家族を満遍なく描いているようでありながら、「神の目」で鳥瞰して書かれた芝居ではなくて、あくまでも若い2人の「一人称芝居」ということが言いたかったんだ。一人称芝居であれば、その主体にはもっと強いエゴを感じたい。そうでないと、そのエゴのドライブがよく分からないまま劇場を出てきてしまう気がするのだ(それは、一人称芝居の大家である岩井秀人氏との比較でこう言ってます)。

あ!もしかして、若い2人の一人称芝居って、典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール」ってこと?え?恋をして世の中の見え方が変わるってこと?
だとしたら、あまりにもベタだけど、芝居のみえ方としては極めて筋が通る!
え?ってことは、オレ、長い間、「恋に落ちて世界の見え方が変わる」体験をしていないってこと?ガーン。そりゃ結婚ウン十年を目前に控えているけれど、でも、そりゃヤバい。だからついつい「分かんないなー」って思っちゃったのか?ヤラレタ、かも!

青年団 革命日記

04/05/2010 マチネ

革命日記再演は「若手公演」から「本公演」への出世魚、役者たちは(もちろん2年前にも若手らしからぬ自信をみなぎらせて驚いたが)ますます自信を持ってこのプロダクションに臨み、演出ももはや「手探りでどこまでできるかを試す」そぶりをすっかり振り払って素晴らしい出来。特に後半に向かってボルテージが上がる場面では畳みかけられて、やられた。

能嶋瑞穂の大暴れも嬉しいし、小林亮子もぐっと大人の演技で大いに好み。
アゴラのコンクリ剥き出しの床は、初演の春風舎の木の床と比べてじゃっかん声がキンキン響く印象なのが、傷と言えば傷。でも、うん。いろんな意味でこれは評判良いだろう。

2010年5月15日土曜日

渡辺源四郎商店 ヤナギダアキラ最期の日

03/05/2010 ソワレ

うーん、凄い芝居だなー、と思う。畑澤版「S高原から」は、「死」をもって終わる人一人の生涯と「いつまでも残る」歴史の長さ・重さとを舞台上で一つの天秤に載せてみせる。こういうことができるなら演劇、大丈夫!と確信できる。

戦後65年の時の流れをギューッと3人の役者の身体(宮越・工藤・山田)に圧縮して詰め込んで、彼らの台詞・身体が90分間発するものが、受け手である観客の中で解凍され、65年間+未来へと続く想像力の豊かな広がりへとつながっていく。

宮越さんは、なべげんデビュー当時は「こりゃ驚いた!」の要素で拝見していたこともあったが、今やそれを大いに恥じざるを得ないほどの凄みのある演技。牧野慶一さんも「死すべき者たち」の時間の流れをしっかと見事に背負って出色。が、何より嬉しかったのは山田百次。弘前劇場・野の上・なべげんと拝見してきたが、達者で良い役者であるが故に背負わされる「芝居進行のダイナモ」役の制約を今回ついに乗り越えて、これまでで最高の演技とみた。そこにはもちろん、過剰な負担をかけることの無いように、という作・演出の愛情たっぷりの配慮があるのに違いなく、そういうバランスにも目が行き届いて大いに楽しんだ。

その代わり、といってはなんだが、チンピラ二人組のダブル工藤と医師・看護師コンビは割を食った印象がある。見え方のバランスはよいとしても、正直「もうちょっと抑えても大丈夫なんじゃないの?」という感じはした。いや、でも、見やすさのバランスからするとここに落ち着くのかなぁ。

2010年5月4日火曜日

ENBU★フェスタ!柴幸男クラス さよなら東京

01/05/2010 ソワレ

柴幸男作・演出のENBUゼミ劇場公演は少年王者舘リスペクト三昧、でも「テーマ」はあくまで柴流、ワイルダーテイストものぞかせながらの45分。

客席には「シバ・マニア」層はもちろん、出演者のお友達、若い演劇関係者、はては親類縁者なのか小学生も少なくとも4、5人はいて、満員御礼。役者陣、演出・客席からの期待にきっちり応えて見応えあり。

が、やはりここまで天野天街リスペクトできたのだから、天野芝居と比較してしまおう。

誤解を恐れず乱暴にくくると「柴幸男は、真っ当な人である」「天野天街は、真っ当でない人である(と疑われる)」。少なくとも天野演出の芝居を観る限り、そこから染み出すものには「このままではとてつもなく真っ当でないところに連れて行かれてしまうのではないか」という恐ろしさがある。それは、天野氏が(僕は天野氏とお友達でもないしお話したこともないから何ともいえないが)、「もとから真っ当でない」もしくは「真っ当な人なんだけれど、奥底にある真っ当でないものが芝居に染み出してきている」かのどちらか、ということである。

一方で、柴幸男の芝居には「この芝居は真っ当なところに着地するに違いない」という安心感があるのだ。

先に触れた小学生。芝居が終わっておじいちゃん曰く「どんな話だか分かったかい?」「分かったよ。お姉ちゃんが電車で東京にでてきて、演劇を何年かして、それからまた電車で田舎に帰るって話でしょ?」「いやいや、そうじゃねえ、それだけじゃねぇんだよ。もっとね、ふっかいはなしなんだよ」。柴氏の芝居は、そういう話ができる芝居である。これが天野氏の芝居だったら、小学生は途中で怖くて泣くわ、おじいちゃんは終演後腕組みして頭傾げるわ、大変なことになっていたと想像されるのだ。

「真っ当なはなし」「きれいにおさまるはなし」が良くないというのでは、決してない。アクセントをつけようとしてこれみよがしに「毒」を盛りつけして「(感動をありがとう!ならぬ)汚いものをありがとう!」になってしまう芝居、たくさん知っている。

でも、やっぱり、芝居の「手法」(複数役者せりふユニゾン、言葉のずらし、シーンの巻き戻し繰り返し、舞台奥投影の使い方、登場人物=作者の自我の分身の術)がもっていく/もっていくのではないかと期待される/怖くなってしまう場所と、実際に柴氏が持っていこうとしている場所が微妙にずれている気もする。いろいろなイメージが観客を連れていく先について、もっと不安を与えてしまってもかまわないのではないかと思うのだ。だって、しっかり観客がついてこれるギリギリの線であれだけ引っ張り回せるのだから。

言い方を変えると、もっともっと、柴氏がなかなか表に出そうとしない「破れ」もしくは「闇」みたいなものを覗いてしまいかねないところ、あるいは、観客自身が自分ではなかなかのぞけない自分の「破れ」「闇」を映し出しているのではないかと疑われるようなもの、それを柴幸男の芝居で観せてもらえたらなぁ、と思ったりもするのだ。

ともあれ、すっごく力のある芝居だったことは間違いない。前述のおじいさんも、つくづく当パンみながら「・・・柴、俊夫かぁ・・・」。それじゃあシルバー仮面だって!

鰰 淡水魚

30/04/2010

面白い。面白いぞ。面白いじゃねーか!
と同時に、面白いアイディア・演技が定着化される中で、何かが加わることもあれば、鮮度が落ちていくこともある、その過程を「稽古場にいる人間」としてでなく「稽古に居合わせた観客」として目撃すると、正直言って痛ましさすら感じた。創り手にとっては激しく痛みを伴う出し物なのではないか。

16時半から19時半まで公開稽古。まず、これまで出来たものの通し稽古とダメ出し。稽古。新しいシーンづくり。20時前からそれらを受けた本番。

今日の新しいシーンは斉藤美穂、高須賀千江子の「サウナ力士」(このネーミングは小生の勝手ネーミングです)。どこへ行くとも知れないアイディアから、とんでもなく面白い、その瞬間「こいつら、天才なんじゃないか?」とか「面白くて気が狂いそうだ!」と思ってしまうようなモノが生まれてくる。
2回、いったことがあるっ!
ないもにいっなのぬぁ、にゅ~はにのとにぃでにゅ
えれくとか/えれくのりかう/えれくとろ/えれくのりかう/えれくとりかるぱれっどっ!
トモ!
なかまぁ~!
ぶぅあー。

しかし、かつて平田オリザが柄本明さんの天才を「何度演じても初めてのように演技できる」と評したのと逆の意味で、柄本さんではない役者は、何度か演じていると初めてのようには演技できなくなってしまう。「面白い」と演出が認めたエンドプロダクトの「カタチ」に意識がいって、その直前に何を意識していたのか、どこに向かおうとしていたのか、息を吸っていたのか吐いていたのか、そういうことは抜け落ちがちだ(あぁ、岡目八目、客席から見ていると、そのポイントは容易に分かるのに!)。「なぞらないで」と繰り返す神里。が、なぞらないことがそうそう簡単に出来るのならば、世の中に演出家など要らない。

「なぞった上での定着」を避けるために、「鮮度を落とさないために」何をするかに対して、世の演出家は心血を注いできた、いや、注いでいると僕は信じている(もちろん、それを一切せず、カタチの定着だけを要求する演出家も数あまた居るだろうが、そういう方々の芝居は、僕は観ない)。そこを引き出すために何をするかが勝負である。「観客は普通一回こっきりしか観ないんだから、鮮度は関係ないよね」という向きもあろうが、僕は「そういう態度で臨む演技は、観ていて見破れる」とも思っている。

が、定着を極度に嫌う「インプロ・即興」も、平田オリザのように箸の上げ下ろしまで細かく指定して「鮮度を演出する」ことも、全ての芝居・役者に当てはまる万能の処方箋ではない。鮮度を保つのは本当に難しいのだ。逆に、稽古を繰り返す中で新たなものが生まれる芽もあるし、実際に「事故」とは異なる新たな「試み」もサウナ力士2人から生まれたりもした。

生み出す役者、生み出す演出、鮮度を保てない役者、それを食い止められない演出、「本番」でどうしても新たに加わってしまう鮮度(「本番役者」とは本当によく言ったものだ!)、そのプロセスを最初から最後まで目撃してしまう観客。
これら全てをパッケージとして出し物にしてしまった「淡水魚」は、「動け!人間」で白神・神里が試してみたかったことのエッセンス・意図が最も明確に示された「ガチンコメタ演劇」の場だったのではないかとも思う。でも、そういう「(役名)リアル神里君」「(役名)リアル斉藤美穂」みたいな出し方は、本当に、実在神里氏や実在斉藤さんにとって、身を切って見せる痛みを伴ったに違いない。その痛みの要否、観客としての自分が痛まなきゃそれでいいやとは、ちょっと言い難い気もしたのだ。