2007年12月22日土曜日

青年団 火宅か修羅か

21/12/2007 ソワレ

初日。客入れ中の役者の動きからしっかり見たくて、開場と同時に入場。青年団を見るなら、ここから役者の立ち居振る舞いに注目したい。
案の定、古館寛治、客入れ中でしか出来ないベタなネタを披露。早めの入場がお勧めである。

が、客入れ中、役者よりも実は目を奪ったのが、舞台の美しさで、この舞台は帰国後見たアゴラの舞台の中で1,2を争う出来である。アゴラをこんな に広く見せながら、拡散させず、「空間を埋めに行った」気配をまったく感じさせないのと同時に空間をぴたっと閉じて、かつ客席に開いてみせる。それが、割 と青年団スタンダードの「上手と下手に伸びた通路、そこに挟まれたセミパブリックな空間」という教科書的要件をまさに教科書的にこなした上で達成されてい るのだから、余計に素晴らしい(後付けじみて聞こえるかもしれないけれど、このわがままな舞台をきっちり照らす照明の力も凄い)。この舞台を見るためだけ でもアゴラに足を運ぶ価値あり。

肝心の芝居のほうもしっかり出来ていて、特に、娘と別居で単身生活中の小生には、志賀廣太郎父と荻野友里娘の1対1の会話(まだ前半だというの に)の距離感に、いきなり泣けた。が、実は感心したのは、ボート部同窓会組の、さっぱりした、戯曲の意図をすっきりと伝える演技で、特に、古屋隆太は、 「あぁー、海神ポセイドンはこういう風に伝わるものなのだ」と、本当に感慨深く、かつ、良い役者の演技を見るよろこび、を感じた。

初演時に比べて役者の数を絞ったせいか、全体にもすっきりした味わいで、逆に、初演時のねっとり感を期待する向きには食い足りないかもしれないが、僕にとっては、青年団中堅・若手役者の魅力をとくと満喫する良い機会でした。

2007年の最後を飾り、2008年の幕開けとなるのにふさわしい良品でした。これで気分良く年を越せます。

2007年12月18日火曜日

ふるさとの訛りなつかし停車場の

今日の昼間、京浜東北線に乗っていたら、見た目欧州人の若い女性(20台前後かな?)が5人、品川から乗り込んできた。観光客な風情で車内でぺちゃくちゃ話していたのだが、これが、何と、英語のようで英語でないようで、聞き取りにくい。

で、じっと聞いていると(失礼!)なんと、きっついアイルランド訛りの英語でした。

若い女性がアイルランド訛りでおしゃべりしてるのを聞いたのはむちゃくちゃ久し振りだったが、思わず、
「な、なんてかわいい話し方なんだ!」
と感じてしまった。

むかし、ジム・ジャームシュのミステリー・トレインの中で、ジョー・ストラマーがアメリカ人の女性に「あんたのアクセントって、とってもスイートなのよ」といわれていたのを思い出す。イングリッシュですらスイート。いわんやアイリッシュをや。

でも、イギリスでアイリッシュ訛りの若い女性が集まってしゃべってても、かわいいとは感じないに違いない。100%確かだ。

2007年12月17日月曜日

死ぬまでの短い時間

16/12/2007 ソワレ

岩松さんの暗いミュージカルか、というので観に行ったが、これは面白かった。子供には見せたくない、大人の芝居だ。一人、役者に子供も混じっていたが。

(以下、ネタバレですのでご注意ください)

この芝居に出てくるもの。
・ 上手奥の電話ボックス
・ 下手には狭いアパートの部屋
・ 人を殺してきて身投げしようとして遂げられなかった女
・ 兄貴分を勝手に慕う少年
・ 電話ボックスでおぼれる女
・ 身体の刺されたところに咲く赤い花
・ 踊り子を追いかける男(この騒がしさを観よ!)と助けようとする少年
・ 最後、町を出て行こうとする男。トランクつき。

あ。これ、岩松芝居のモチーフじゃないよ。唐さんの書く芝居だよ。第七病棟だよ。
だから、音楽だって、ここぞというところで何となくくらぁくかかるのさ。唐組だって、台詞ごとに音楽かかるじゃあないか。
北村・秋山は、岩松さんにとって石橋・緑なんだ。古澤氏は、一人で三人組を演じていたのだ(彼は実際、そういっても良い位に良かった)。

そう考えると、(過去10年の間に岩松さんが別な試みを既にしていたら申し訳ないが)、実はこの芝居は、唐さんの芝居に対する岩松さんなりの答なのではないか、という気がしてきた。
昔、グローブ座で観た「それからのジョン・シルバー」は、観た瞬間に
「岩松さん、唐さんの芝居を演出したい、とかいっておいて、その愛情が屈折したものだったがために、結果的に唐さんに喧嘩売っとる」
と思ったものだが、
この芝居も実はかなり喧嘩を売っている(しかも屈折せずに)感じだ。しかも面白い。

役者5人、岩松戯曲でこのエンターテイメントぶり、かつアングラの匂いプンプン。かなりお得感のある、かつ、ポジティブな驚きのある舞台だった。

シベリア少女鉄道 俺たちに他意はない

16/12/2007 マチネ

前回と同様、最初の1時間で状況を作っておいて、残りの30分で大ネタを仕掛けてそのまま大団円へ加速しながら芝居を終える構造。
いや、凄いセンスを感じる、が。

最初の1時間がどうにも耐えられないのは、これは分かっていても「どうにかならんか」と思ってしまう。
しかも今回は、後半の大ネタも、「まったく日本のテレビ等々にエクスポージャーのない」僕には「分からない、知識レベルとしてついていけない!」
ために、不発。

きっとこれからも、エンターテイニングな舞台を作っていく劇団なんだろうけれど、正直、疎外されてしまいました。くやしい。でも、涙流して歯を食いしばって付いて行きたいとも思わない。先方も全然ついてこーい、なんて思ってないだろう。

2007年12月16日日曜日

壁の花団 悪霊

15/12/2007 ソワレ

芝居として成功しているとは必ずしも思わないけれども、でも、MONOでやっている人たちが、MONOでしていないことをやろうとしていることは何だかわかる。気がした。
役者は4人とも力のある人なのだろう。金替氏は昔から好きな役者だし。

冒頭のシーン、姉妹のやり取り、何かが起きそうな感じ。それが、きちんと引き継がれて盛り上がる、ということがなく、不発に終わった感あり。
ではどこで道を誤ったのかというと、そこがどうも分からない。

どうも、無理矢理にでも自分の妄想に引っ張ってきて、舞台の外へと考えをめぐらせることが出来なかったのは、自分が疲れていたからか?
どうも分からない。

こんな、何が言いたいのか分からない日記を書くのは心苦しいが、でも、何が気になって何が立ち上がらなかったのか、本当につかめないけれど、でも、立ち上がらなかったのだ。最後まで。ごめん。

2007年12月14日金曜日

チェルフィッチュ 三月の5日間

13/12/2007 ソワレ

やっと、三月の5日間、初見である。
六本木ヒルズのたかぁーい建物を見上げながら急ぐが、案の定道を間違える。やっとのことでたどりつくと、ぽっしゅな美術館のどぽっしゅな職員に迎 えられて、かなりな場違い感だ。美術館の会員以外の人間は、部外者として排除しようという気合が満ち溢れている。当日パンフに岡田氏が「ウィルスみたいな 存在」と書いていたが、言いえて妙で、まさに、都市のビルにおける視線の防犯=免疫機能たるや、大変なものだ。ま、わしも会社帰りのスーツ姿で外見からす りゃ「排除する側」なんだけどね。

と、横道にそれたが、公演会場は美術館の小ホール、パンチカーペット張り、舞台の上下にイントレを組んで、以上。岡田氏、開演前の挨拶で「コンテクスト」ということを言っていたが、まさに、小劇場の芝居を観るコンテクストからはかなり遠い。
開演前の挨拶といえば、開演前に学芸員と作・演出があわせて3~4分挨拶する芝居も珍しい、というか、初めてだ。学芸員の人がネタバレしないかと はらはらしたが、さすがにそれはなかった。とまぁ、全体の雰囲気が、何だか、「チェルフィッチュ」なる金魚を森美術館の金魚鉢に放り込んで、周りからぽっ しゅな観客があーだこーだ言いながら指差して眺める、そういう感じがしたのだ。...まぁ、8割がたは、田舎もんのわしが六本木ヒルズに気後れしているそ の代償を、森美術館に当り散らしている、という構図が正しいと思うが。

と、横道にそれまくりだが、三月の5日間、大変面白い。エンターテイニングである。方法論に驚くのはもう止めようと思っていたのだけれど、そうしても、なおかつ面白い。それは折り紙つきだ。

しかしまぁ、ラブホにいる2人⇔遠くで行われている戦争。あぁ、この間に戦争終わってないかなぁ。という気分は、実は、そんなに特殊な感じではなくて、

① 1週間インフルエンザで寝込む会社員⇔会社では相変わらずビジネスが続く。あぁ、オレが寝込んでる間に、懸案のあの案件、終わっていないかなぁ。(終わらん、つぅの)
② 戯曲が書けずに自宅で煮詰まる座付き戯曲家⇔稽古場では稽古が続く。あぁ、なんだかオレがいない間に、芝居が出来上がっていないかなぁ。(出来上がる訳ない、つぅの)
③ 夏休み、ぼぉーっと高校野球観ている小学生⇔宿題全く手がついていない。あぁ、何だか小人がやってきて宿題終わってないかなぁ。(ちみ、あますぎよ)

という気分である。かなり普遍な感覚である。それでは何故、岡田氏は戦争とラブホを選び取ったのだろうか?

また、その身振りである。足をさすったり、手をいじったり、ひねったり、振ったり。この動きの意識したデフォルメは、これらも実は、鼻糞をほじっ たり、耳を引っ張ったり、お尻を掻いたり、という動きと、等価のはずで、そうすると、何故岡田氏は、鼻糞をほじらせたりしないのだろうか?

要は、長々と何が言いたいかというと、この芝居は、もしかすると、
「11月の5日間、と題されて、風邪を引いた会社員が自分が寝込んでいる間に案件が片付いていたらなあと夢想しながら無為に過ごす、その姿を、言葉に寄りかからず、鼻糞をほじったりお尻を掻いたりしながら当世のサラリーマン言葉で語る」
芝居だったかもしれない、ということだ。で、そんな芝居だったら、岸田戯曲賞を取っていなかっただろうし、森美術館にも呼ばれなかっただろう、ということだ。

いや、別に、岡田氏を貶しているわけではないよ。いいたいのは、この芝居は、過激なばかりでなく、ある程度観客がとっつき易いように意識をして書かれている、ということです。
なぜなら、岡田氏の意識している問題意識を人に伝える際に、「鼻糞をほじる会社員」よりも「ラブホにいる若者」の方が受け入れられ易いだろうから。

で、もっと言うと、何を言いたいかというと、この作品を、「イラク戦争」という狭くて時として安っぽくなりがちなコンテクストで捉えて傑作とか言 うのはやめよう、ということなのです。本当は、そういう個別を超えてスッごく面白く出来ていて、岡田氏をもってすれば鼻糞会社員でもやっぱりものすごく面 白く出来ていたはずなのだけれど、そこは敢えて「戦争とラブホ」で切り取った。そういうことなのじゃないかと思うのです。

だから、結論じみたことを言えば、この「ウィルス」が、もっと過激に、スマートに、観客の日常の襞にまで入り込んで、僕達の暮らしを脅かしてくれることを、僕は願うのです。
桜美林の「ゴーストユース」は、その意味で、「三月の5日間」ほどエンターテイニングではないのかもしれない。でも、彼らによって、僕は確かに脅かされた、気がした。そういうことなんです。

2007年12月10日月曜日

ナイロン100℃ わが闇

09/12/2007 ソワレ

いや、本当に、ケラさんは頭の良い人です。そして、サービス精神も旺盛です。お客さんのかゆいところにとことん手の届くお芝居を作ります。3時間15分掛かっても、それは決して自己満足の長尺芝居とはわけが違います。

でも、これほど殆どのことがきっちり回収されて説明されてしまうと、僕が想像力を働かす余地はなくなってしまうのです。コーヒーのダバダだって、 囲炉裏で何焼いているかだって、わざわざ説明しなくたっていいじゃないですか。分かってる人がイヒヒと声を出さずに笑ってればいいじゃないですか。要は、 「少しはほっといてくれ!」と言いたくなってしまうのだ。

と、それほどまでに懇切丁寧に説明のカタをつけていってくれる、心優しいケラさんの手管に、観客席からは笑いが絶えない。でも、それは何だか、「ほぅら、面白いだろ、笑えよ、楽しめよ、愚民ども」って言われてるような気に、僕をさせるのです。

もし、そういうじれったい説明が入るために3時間以上掛かるのだったら、余計な説明をしないで上演時間縮めて、2時間で終わってほしい、というのが正直なところ。
どういうところが縮められるかって、
たとえば、平田オリザの「ソウル市民」のラストシーンと思しきシーンの後にアナウンスが入って、
・ さて、この後、手品師は再び現れるのか、
・ 謙一と淑子の逃避行はどのような結果に終わるのか、
・ 叔父の満州行きはどのような顛末を迎えるのか、
・ 大篠崎商店の栄光の歴史、は果たして完成するのか、
・ 表の門は本当に直ったのか、大工の出番は本当に冒頭だけだったのか
は、一切説明がないまま、この芝居は終わる。
って説明したら、やっぱり芝居、長くなるはずだ。その積み重ねが3時間を超える上演時間に繋がっていて、でも、そういうくどい説明をすることで、 お客さんが「あぁ、そういえば、あのひとあれからどうなるんだろうね?」なーんて2人で話しながら帰ってたりして、本当にケラさんの芝居はエンターテイメ ントとしてお客さんの面倒見がよいのである。アフターシアターの話のネタまで提供してあげて。

でも、やっぱり僕はこの手の芝居で3時間は長いと思うし、たとえそれがケラさんの考えていたスマートな落ちとズレていても、「勝手に想像する」余地を残していてもらいたいと思う。

要は、折角スマートで恩着せがましくない説明を受けているのにそれをうざったく感じてしまう僕は、ナイロンにとってはお呼びでない、ということなんだろう。

二騎の会 五月の桜

09/12/2007 マチネ

「絶対に立ち位置から足を動かすんじゃねーぞ」
という、演出家の半ば脅迫めいた指示を受けて立った5人の役者、見事に要求に応えて見応えがある。もちろん、そんな中にあって
「君達は下半身ふらふらしてて全く構いませんから」
といわれた天明と東谷、その役割を存分に弁えて舞台上を移動する。それも見事である。

その場に「立ち尽くす」といってしまうには勿体無いくらいに、意志を感じさせる役者の立ちは、手塚治虫の火の鳥宇宙篇、動けない動物の惑星の動物達がお互いの意思を交わす有様を想起させる。

その動かない動物達が交わす台詞の距離の感覚が、役者の身振りや表情でなく、台詞の飛ばし方・受け方で感じられる。台詞を飛ばす、それをよける、撥ね返す、受ける、吸い込む、引き受ける、そういったアクションが、ごまかしようもなく伝わる。

すると後半になって、それら登場人物の間の関係を規定する出来事が、「戯曲の中で」物語られ始める。あ、この演出、戯曲を先取りする形で「人の間の壁」「感情の通わなさ」「そこで通ずるもの」等々について、メッセージを観客に送っていたのか?
どうもそう思えないこともない。
だけれども、それは危ない試みのようにも思えて、なぜなら、戯曲が何かしら言葉にしているものは、演出で念押しする必要はないはずだから。
演出は、「どんな形であれ、必ずしも戯曲の援護射撃をする必要はない」のだ。

今回の芝居は、演出が「敢えて」戯曲の援護射撃に入っていて、それがまた、恰も、西部劇かなんかで死ぬ運命の脇役が、主役を引き立てるべく大げさなポーズで敵をひきつける、そういう大仰さを感じさせたのである。

戯曲の出来はけして悪くないのだ。いや、むしろ、良い。その良い本を、さらに援護しようというのだ。戯曲家冥利に尽きるだろう。

で、別に演出家は舞台に立つわけじゃないので、全ての苦労をしょわされるのは役者達だ。それを見事に受けて立って芝居を成立させた役者に拍手を送る。

この芝居を観ていて、登場人物のうち誰に移入するかは、性別・年齢によってまちまちだと思うが、おそらく、若い女性は長野海に、40がらみの男性は永井秀樹に、移入しやすかったと思う。ご他聞に漏れず40男である僕は立派に永井秀樹に移入して、
従って、ラストシーン、

「にま~」

としてしまったことを、今、ここに白状する。
まぁでも、その先どうなるかについては、戯曲の中でも演出によっても、何にも保障されていないんだけれど。そこで勝手ににま~としてしまえるところが、芝居の観客の便利なところである。
開演前に「永井秀樹かっこいい」との話を聞いて一瞬色めき立った小生であるが、この芝居を観終わった後では、(やっぱり面白くはないが)幾分そのコメントを認めざるを得なかった。

2007年12月9日日曜日

虚構の劇団 監視カメラが忘れたアリア

08/12/2007 ソワレ

一言でかたづけるならば、面白くなかった。
方法論として新しいこと無し。また、折角若い役者が揃っているのに、そこから本来感じるはずの、「こいつらどうなってるんだ」という凄みが来ない。
こないだ観た桜美林の「ゴーストユース」や、静岡の「転校生」と対照的である。そこで観た、「脅かされる感じ」が来なかった。

この劇団の若い役者達は、余程割り切っているのか、それとも余程おとなしいのか?

「おはなし」のことを言うと、大体、「サークル広場」なんていう設定がどれくらい今の大学で生きているのか? 或いは、「監視カメラ」と「盗撮カ メラ」を絡めて、観る側と観られる側を用意して、プライバシーとの安易な遠近法を前面に出して、役者が面切って「監視カメラは気持ち悪いよな」って、それ はないでしょう...

何だか80年代から鴻上さんの芝居を追ってらっしゃるような方々も観に来ていたので、あんまり詰まんないとかいっちゃいけないのかもしれないが...
でも、考えてみたら、自分も80年代に第三舞台観に行ってたりしたが、面白いと思った記憶は実はないのだった。そんな自分であるにもかかわらず観に行った己を、まずは責めるべし。

青☆組 million blue

08/12/2007 マチネ

夏に観た「おやすみ、枇杷の木」はちょっとこれはいかがなものか、という感じだったのだが、このオムニバスは、予期に反して、良く出来ていた。

5つの短いスキットを繋ぎ合わせて1時間半。バランスも悪くない。ただし、ここでの「良く出来ている」は、直訳するとWell Madeで、つまり、ウェルメイドに近い出来映えとなっている気がした。そして、僕はウェルメイドという言葉は誉め言葉としては使わない。

一定時間の中で起承転結をつけて、何だかはっとする出来事があって、で、「それからどうなっちゃうの?」と思わせておいて、そこで終わり。なに も、物語の続きやオチを求めているわけではない。短い時間の中なので寄り道が出来ない、あるいは、寄り道を避けている、というところに不満が残るのだ。そ こで役者が窮屈に見えてしまう。

もちろん、流れ自体は悪くなくって、あくまでもウェルメイドに、役者の演技もお話を邪魔しないように、組み立てられているのだけれど。これではど うにも妄想への取っ掛かり、想像力の引きがね、現実世界に突如生じる裂け目が見つけられない。もちろん、そういうことを求める観客は少数派なんだろうな、 とは自覚しているんだけれど...

2007年12月8日土曜日

岡崎藝術座 雪いよいよ降り重ねる折からなればなり

07/12/2007 ソワレ

何とも乱暴だなぁ、と思ったのである。
異邦人という、民家を改造したような飲み屋さんがあって、そこを40年続けているりつこさん。
浜口寛子という、なんとも顔がよく動く、変な役者。
この2人を、「筆がひとりでに続いたり、異邦人のウィスキーで酔っ払ったりしていたら」できた台本で1つに繋げてキメラに仕立てて、異邦人のカウンターの中で演じて見せるとは、まさにこれ乱暴、酔っ払いの所業である。

15人の観客が詰め込まれたところで、それでも飽きずに浜口寛子の七変化を観ていると、階上に一時避難しているりつこさんの声が聞こえてきたりするのである。それが、実は、楽しい。

前回観たオセローは、「何を考えてるんだろう?」と思わせたが、今回は、「何も考えてないんじゃないか?」と思わせる。妙に知恵のついていないこの乱暴さが、40過ぎたおじさんにはちょっと懐かしかったりする。

とはいえ、乱暴さだけを何度も観に行くわけにはいかないし、今のところは、「次はもうちょっと知恵がついてるんじゃないか、作・演出も浜口寛子も」ということにして次回を楽しみに待つ。
少々知恵がついても大丈夫なくらい乱暴な劇団だと、今のところは信じているので

2007年12月3日月曜日

プリセタ モナコ

02/12/2007 ソワレ

前回に引き続き、戸田・谷川コンビがどうしようもなく救いようのない30男を演じて、そのどうしようもなさはポンと突き放されたまま芝居は終わってしまう。いいのか、2人とも。

2人ともほんとうに惚れ惚れするようなダメ男ぶりで、演技のことを言っても、
「どこまでも普通の顔を保った上で、自分の異常さ・変態ぶりで周囲を侵食していくことが、リアルなこととして許されるのか」
のラインをギリギリまで押し広げることを試みているように見える。そこがまた面白い。

芝居が終わって後ろを振り返ったら、客席が埋まってない。こんなに良く出来た芝居なのに、もったいないなぁ、と思う。
ひょっとすると、それは、この芝居が必ずしも「若い人向け」ではないからかもしれない。30代後半のちょっと疲れたサラリーマンが週末に観るのにはぴったりなんじゃないかと思うが。つまり、ちょっと大人の芝居だ、という感じです。
跳んだり跳ねたり暴力出てきたり、というような若者の芝居はちょっと。でも、モロ現代口語演劇やモロウェルメイドも避けたい、という層に、上手くはまるとおもうんだけどなぁ。

花組芝居 KANADEHON忠臣蔵

02/12/2007 マチネ

世田谷パブリックシアターの3階席で観た。前回のかぶき座の怪人では前方で観たのだけれど、大きな小屋でも充分大丈夫な芝居なら、それでは3階席でどうか、という極端な選択である。が、やっぱり遠かった。

忠臣蔵をその発端から討ち入りまで、そつなくまとめて2時間半、と、それは良いのだけれど、食い足りない気がしたのは、それは遠くから見たせいか、それともまとまりすぎていて破れが見えなかったせいか。

僕はむっかしの花組しか知らないので、原川さん・溝口さん・山下さん・水下さんが出てくるとそりゃ嬉しいさ。もちろん加納さんも。どこで小技を見 せてくるか予想もつかないから食い入るように観るんだけれど。そういうところまでも、何だか要領よく収まっていた気がしてしまった。

次回はあうるすぽっとか...結構のっぺりした小屋だからなぁー...
こんなこと言っちゃあいけないんだけど、アリスに100人以上詰め込まれて、体操座りで観ていたころの猥雑さがちと懐かしくなってしまった。例えば、スズナリでロングラン、なんてぇわけには行かないんでしょうか。トラムでもいいですよ。それが無理なら...あぁあ。

2007年12月2日日曜日

SPAC 転校生

01/12/2007 マチネ

飴屋法水おそるべし。2時間半かけて東静岡まで出かけた甲斐があった、と言わせる以上のものがあった。宮城聰さんが劇場のドアの前で「いらっしゃいませー」と笑顔で言っているのを見られただけでも、「甲斐があった」と言えなくもないが。

平田オリザの戯曲は、実は非常に厳しく出来ていて、タコな演出家が上演するとまるっきり芝居が壊れてしまう仕掛けになっている。その意図がわかっ ていて、かつ、演出家に力が無いと、今度はただの制約の大きい芝居になってしまう。そこを飴屋氏がどう捌くのか。舞台上にバトンが降りている幕前を見なが ら、僕は、
「外していたら、それはそれで大笑いして帰ろう」
と、秘かに非常に消極的なことを考えていた。

(ここから先、若干ネタバレ気味です。注意してください)

が、あにはからんや、素晴らしいできばえ。飴屋氏、平田戯曲を現代口語演劇として、まずは成立させてしまう。その割り切り。かつ、高校生18人をしっかりオーケストレートする眼の確かさ。花道の使い方も含めて、まずはきっちり押さえた。

そして、僕は、転校生、岡本さんの登場を見て、涙が止まらなくなってしまった。ヤラレタ。

その後も、女子高生への手綱を緩めず、おセンチに流れず、かつ飴屋カラーを見事に出していたと思う。

あ、あ、言い忘れたが、「転校生」の戯曲も、もちろん、すっごく素晴らしいんですよ!これも1つ「古典」と呼ぶにふさわしく、ホールの物販でこの本が売られていなかったのは主催者の重大な手落ちとして挙げられよう。

1994年の初演から13年。初演当時、僕はどちらかといえばおじさんよりは女子高生に近い年齢だった(のつもりだった)。今では舞台上に娘と同 い年の高校生が立っている。その間に、平田の戯曲が、こんな風に上演されるようになった。1987年に、「20年後、平田戯曲が飴屋法水によって演出され ている。場所は某県の公共劇場で、キャストは全員高校生である」といったら、誰も信じなかっただろうな。
本当に、感慨深い。そして、そういう舞台の初日を目の当たりにすることが出来たことは、本当に、わがことのように誇らしい。

(ここから先は、今回の「転校生」を観ることができないことが確実な方のためのモロネタバレなコメントです。)




岩井秀人は志賀廣太郎を大学生にした。NeverLoseは、「朝起きたら中学生が30男になっていた」。この転校生では、白髪の女性岡本さん が、朝起きたら女子高に転校することになっていた! 驚いた!その違和感。そもそも転校生が抱く「場」への違和感に加えて、年齢さ、高校生としてのリアル さ、将来や進学について語る時の「相手はどこまで自分が言っていることを共有できているのか?自分はどこまで相手に興味があるのか?」の間合いの気まず さ。
「本当の」女子高生を使っていたら、ひょっとしたら群像劇に埋もれていたかもしれない感情の動きが、「ニセ」女子高生を使うことで却って浮き出 していた。いや、ほんと、こういう乱暴なことを、平田戯曲のフレームを押さえた上で出来るとは。だって、飴屋氏が現代口語演劇の中で育った人ならともか く、東京グランギニョルですよ。そりゃ、びっくりしますよ。

冒頭の台詞のないシーンも美しいし、最後、みんなで「せーの」で跳ぶシーンも美しい。原作には確かなかった飛び降り自殺のシーンも、全体の構成を崩すことなく、機能していたと思う。

1つ難点を挙げるとすると、途中挿入される、アメリカ人の女の子の演説シーン。そこだけは間延びするし、変な意味がつく。耳につく英語だけ繰り返 して流していたけれど、トータルで見ても、あんまり大したこと言ってないし、ちょっとなぁ、という気はしました。が、それを除けば、本当に素晴らしい芝居 で、ホント、月並みだけど、感動しました。

2007年12月1日土曜日

パラドックス定数 東京裁判

30/11/2007 ソワレ

パラドックス定数、今度は東京裁判だ。
男5人、全員ダークスーツ、三つ釦上二つ留め。裁判の現場をなぞっていく。
後は推して知るべしの野木節炸裂。エンターテイニングな1時間30分。

小野ゆたかさん、好きなんだよねぇー。あの、立ちの緩急が。

今回の芝居は、特に、東京裁判だけに、「これは芝居ですよぉー。ごっこなんですよぉー。」感が強い。言い換えると、リアルだと思わせげな仕掛けを たくさん施してあるにも拘らず、これは、ただのお芝居なんですよぉー、と強調する仕掛けも同じくらい用意されていて、それが何ともいえず、観る側の妄想を 刺激する。

ひょっとすると、これは、「あの」東京裁判ではない。ここで語られる「ポツダム宣言」は「あの」ポツダム宣言ではない。でも、それでも構わない。 設定と小道具+演技が、観客をも巻き込んだ「ごっこ」の渦を形作ることが出来れば、芝居というのはそこで100点満点なのだから。

野木萌葱さんのやりたいこと、持ち味がそこらへんにあるのは納得しつつ、いつか、是非、両性が出演する現代劇、観てみたい。観客の欲には限りがない。

2007年11月29日木曜日

野鴨

28/11/2007 ソワレ

23日に風邪で動けなくて観られなかったのを、タニノクロウ演出ということでどうしても観たくて水曜日再チャレンジ。無理して行って、本当に良かった。

・ 劇場内にフラットに作った森。最初は、「この小屋のバトンが見えない!」位に鬱蒼としていた。
・ マメ山田さんの立ち!この人が舞台のへちを歩くだけで、その空間が持つ温度・湿度・密度が塗り替えられていく。
・ 石橋正次さん。僕は「夜明けの刑事」の刑事さんとしてしか認識してなかったのだけれど、そうすると、何と30年ぶりに見る彼の演技は、タニノクロウ演出の元でなんとも見応えのあるものでした。
・ 高汐巴さんのテーブルクロス!石田えりさんの「あ゛ー!」

休憩を挟んで2時間45分。まったく長く感じられなかった。舞台上のどこをとっても、「イプセンの戯曲」を説明しようとする演技を見出すことが出来なくて、そこが全く素晴らしい。緊張感が最後まで持続する。

で、その素晴らしいパフォーマンスを観終わって僕が得た結論は、「どうもイプセンの戯曲はどうも生真面目で、『芝居を通して主張したいこと』が先 に立っちゃって良くない。」ということ。僕は野鴨の戯曲を自分で読んでいないし、また、他のひどい演出で観たこともないからこう言えるのかも知れないが、 タニノクロウのすばらしい演出が、図らずもイプセン戯曲の限界を顕したのではないか。

だって、野鴨が何かの象徴だなんて、もう、ちょっと気恥ずかしくて言えないでしょう、今では。チェーホフのかもめが、「いや、覚えてないなぁ」 と、あたかも「まさかあなた、かもめを何かに喩えようなんてお考えじゃないですよねぇ」とでも言いたげな風情で一蹴されるのとは対照的だ。その意味で、イ プセンは現代劇になりえず、チェーホフはそれが出来る。と僕は思う。

タニノクロウ演出は、ストレートにイプセン戯曲を舞台に載せ、下手な思い込みを排除することで、
①まずは芝居としてキチンとしたものを提示し、その上で、
②野鴨に対して観客が期待するであろう変なお説教ネタやアナロジーを「そのまんま」価値観無しにあぶりだしてみせ、「今更こんな時代でもない」ということを自覚せざるをえないところに観客を追いやった
とでも言えるのではないか。
まぁ、演出の意図の邪推なんてしてもしょうがないのだけれど、存分に堪能しました。

2007年11月26日月曜日

三条会 若草物語

25/11/2007 ソワレ

そしてまた千葉へ、四姉妹を観に行きました。
今回は、素直に楽しんだ。風邪を引いていて余計なところに頭が回らなかったからかもしれない。かなり受身になってしまったが、そういうものとして、素直に受け入れて楽しんだ。

若草物語の各章を順繰りに、適当に、ピックアップして読んで/演じていく。
このプロセスは、若草物語を観客に伝えようとしているのではなくて、若草物語を読む中で構成・演出のこころがどのように動いたかを伝えようとしている、と見えた。それを辿ってみせてくれているのが楽しかった。

プロットを作る側と読む側の間に身を置いて、そこから何が見えてくるか、どんなスペクトルを付け加えられるか。そこが三条会の勝負どころなのだろうか?

一方で、さらにもう一歩進んで、そこに観客としての自分がどのような妄想をくっつけて膨らませていけるのかは、小生の今後の課題として残されたままである。素直に受け入れる客ばかりで勘弁してくれる劇団ではないのではないかと思っている。

桃唄309 三つの頭と一本の腕

25/11/2007 マチネ

桃唄の芝居のどこが一体気に入っているんだろうって、考えてみたのだが、一言で乱暴に括ってしまうと、「舞台上の気温」ということになるのだろうか。

まず、語りの手法。舞台上の会話から過去を回想する、それを舞台袖で聞く聴き手達。さらにその回想される過去の中で過去が回想され、それを舞台袖 で聞く聴き手と、それをまた聞く聴き手達。かと思うとそういう構造をぶち壊して時間を強引に進めるシーンあり。そういう、ともするとスカした技術ともとら れかねないやり方が、なんだか、ゆるーく展開していくのが、先ず心地よい。

そして、これは、毎回そうなのかはまだ3作しか見ていないから断言できないけれど、フォークにしてパンクな身のこなし。

これらが役者達の個性/アクといっていいような悪いような、演出の意図があるようなないような、というところと絡んで、舞台上にぼおっと乗っかっ ている。その温度が、ほぼ、19度くらいなのではないか、初夏の、まだひんやり感の残る森に入った瞬間に感じるくらいの気温(と湿度)なのではないか、と いう気がするのだ。

そうやって自分で説明をつけないと、今回のような、
「殺人事件」「民間伝承」「素人探偵」「開発がらみのきなくささ」
なーんていう、見たとこ陳腐なモチーフを並べた結果が、こんなに面白く見れるわけがない。

いや、もしかすると、作・演出の意図は、役者の面白さではなくて、如何に昔話を語り継ぐか、というところにあるのだろうか? どうやって物語を伝えられるか、そこに必要なのは強さなのか、速さなのか、あざとさなのか、素直さなのか、その切り替えの試みの中で、
「いわきの物語はこうやって伝わる。それでは、オレの物語は?」
ということなのだろうか?

いずれにしても、何で気に入ってるか、いまだに説明つかず。

2007年11月25日日曜日

猫田家 ミーコのSFハチャメチャ大作戦 - ベルンガ星人をやっつけろ!

24/11/2007 ソワレ

「ハチャメチャ」な「最低傑作」を書こう!とのことだったらしいが、本当に、危なく「最低の駄作」になるところだったろう。出演する小熊氏が「台 本を読んだときにはううむと思」ったのも100%頷ける。「ハチャメチャなものを書こう」と自らにムチ打って頑張った佃氏も大変だっただろうが、これを渡 された「現代口語演劇の」演出家、岩井氏もかなり困ったのではないか?

が、この芝居に全体の見せ方のフレームを嵌めて、「出し物」としての芝居に仕立ててみせた岩井演出に感心。特に、「演劇の神様」、今日の一押しである。

また、役者2人も、
「好きこのんで『金星から来たベルンダ星人(金星から来たなら金星人だろ!)、(喉をチョップしながら)フォ、フォ、フォ』なんてやってるんじゃないんだよぉおぉ、今となっては『ハチャメチャでいこう』なんていったことを後悔してるんだよぉおぉ」
と全身で語ってみせつつ、その実結構楽しんでいたりするのが透けて見えて、良い。

かる~い気持ちで出かけて、ど~でもよい細かいネタでくすくす笑って、だ~れも観てない小技にムムンとうなって1時間30分。変に大上段に振りかぶった芝居よりもそういうのがよい、という人にお奨めです。
(追記)そうだ。一つ留保をつけるとすると、そういう芝居の見方って、ちょっと年寄りくさいんだ。それが引っかかってたのです。

桜美林大学OPAP ゴーストユース

24/11/2007 マチネ

風邪で体が立たなくなって、23日に行くはずだった「野鴨」含め2本をぶっちぎったその翌日。
さすがに1日寝倒したらちっとは調子も良くなったということで、いきなり淵野辺まで出かける。
遠い。が、Prunusホールはとっても感じの良い小屋で、出かけるのが苦にならない。タッパ、キャパシティ、雰囲気、好きな小屋の1つだ。

岡田利規さんの作・演出。彼の作品は、まだ、去年の「エンジョイ」と今年のベケットのリーディング「カスカンド」しか観ていなくって、ただ、カスカンドが余りにも凄い出来だったものだから、次も必ず観に行こうと決めていた(12月にはついに「三月の五日間」観る予定)。

始まってみると、まぁ、予想通りというか、現代口語と呼ぶのも失礼かと思われる話し言葉と、デフォルメされ意識化された身振り。これは、何度観ても面白い。
実は、観る前の観客としての色気としては、
「桜美林の学生があんなふうにやったら、どこが岡田氏の要求どおりに出来ていてどこが出来ていないかがわかるかもしれない。そこから、岡田氏が役者に何を要求しているかがより鮮明に見えてくるかもしれない」
と思っていたのだが、そこは素人の悲しさよ、やっぱり判らない。が、面白い。

似たような台詞の繰り返し。役者を変え細部を変えて、同じシチュエーションを執拗に繰り返す。1歩進むようでもあり、戻るようでもある。ふと気が つくと、舞台上にいる役者の数はどんどん増えていく。そして、思いのままのポーズで寝そべったり立ったり座ったりしている。そしてそれは、僕に「漂流教 室」と「メーテルリンクの青い鳥にでてくる生まれてくる前の赤ん坊達」を想起させる。

「35歳が20歳の頃の自分を思い出す時に自分の身体であると思い込むところの20歳前後の身体、でも本当は他者から見たら35歳でしかないんだけれど」を演じる20歳前後たち。

この、妙に大人びた、でも逆に子供じみたところが、「漂流教室」のラストで妙に大人じみたメッセージを現代の大人に送る子供達のイメージに重なる。
また、自分が35歳になったらこうやって20歳前後の頃を思い出すのかもしれない、という20歳前後のころ期待されていた・いなかった35歳を演じる20歳前後たちは、あたかも青い鳥の赤ん坊達が
「僕は疫病をもたらすのさ」「僕は早く死んで両親を困らせるのさ」
と口々に言うように、
「生まれてくる子供は男の子よ」「晩婚かと思っていた」「誕生日のプレゼントは」
と口にする。

理屈ではつかめないけれど、イメージとしては自分なりに凄くしっかりつかめた気がして、気持ちが良い。1000円出してこのイメージの広がり。とってもお得な気分です。

ただし、後半に出てくる「螺旋」の喩えとか、何度も繰り返す「20歳が35歳を演じることの違和感」「35歳が20歳を思い出す際に20歳になっ ていること」の説明は、ちとくどい。わかりやすいけど。本当は、もうちょっと「ほんとうにそうなのかなぁ、でも、ちがうのかなぁ」と思いながら劇場を出る くらいに不親切でも良いような気がした。

いずれにせよ、よい舞台だった。

2007年11月19日月曜日

が~まるちょば サイレントコメディー

18/11/2007 ソワレ

この二人組は、本物です。

すばらしいの一言に尽きる。が~まるSHOWでは文字通り涙と鼻水がだだ漏れになるくらいに笑い、中盤以降のマイムネタでは、青年団・五反田団の芝居でだって観客席こんなに息を呑まないぞ、くらいに静かになって舞台をじっと見つめる。

実は、家族抜きで一人で行っても楽しめるものかどうか、迷っていたのだ。で、迷っているうちに、チケットが売り切れちゃったかもしれないなーと 思っていたら、何と、こともあろうに、チケットは蒸発していなかった。どうなってるんだ、日本。なので、意を決して一人で行ったら、何と、結構お一人の方 も来てらっしゃいました。おお、同志達よ。共に楽しもう。

いや、本当に、ネタを事前に知っていても、なおかつ面白い。身体能力もすごいのだけれど、客席の空気を読む力、それを梃子に注意をひきつける力、 そのチャンスを絶対に逃さない勝負強さ、どれをとっても、さすが世界中で大道芸やって鍛えてきただけの事はある。エディンバラ・フェスティバルで賞をも らったのも、海外のテレビ局やフェスティバルで引く手あまたなのも、まったく不思議でない。
今日付けの日経新聞別冊でもインタビューされていたが、気付くのが遅いよ、日経。これじゃ皆さん笹塚まで観にこれないじゃない。ま、いいけど。お蔭でチケット取れたし。

これから日本ツアー回って、クリスマスイブ、横浜で締めるそうだ。横浜のチケットも(何とけしからんことに)まだ残っているらしいですから、本と、みなさん是非どうぞ。小学生から若いカップル、お友達同士、お年寄まで、みんながみんな楽しめます。

心の底から、楽しみました。

柿喰う客 傷は浅いぞ

18/11/2007 マチネ

紋切り型を有無を言わさず繰り出して、75分間退屈させずに持たせる力技。
僕が芝居を観に行く時に期待するものは観られなかったけれど、ここまでやれば立派である。嫌味でなく。

時々出てくる(おそらくは)テレビネタは、天気予報以外にテレビを観ない僕には全く通用しないし(ウケてるお客さんもいましたが)、最後のオチ も、「うーん、ここまで力で押しといたんだから、いまさらこんな風に落とさんでも」と、ちょっと思いはしたものの、重要なのは力と速さで紋切り型に突っ込 む余地を与えないことなんだから、それは枝葉末節だ。

こんな風にベタなストーリーに作・演出の妄想を貼り付けて、観客が引こうが引くまいがおかまいなく物語を役者に語らせていく芝居って、他にあったっけ?と考えて、
そうだ。唐だ。と思いつく。

もちろん、今日の芝居と唐芝居を較べちゃイカンとは思うが、でも、現在の演劇シーンの中で唐さんを超える(超えるためには、もちろん、同じコース を走ってなきゃならないわけで)可能性を万が一にも持っているのは、このテの芝居なのかもしれない。もっともっと、錯綜する複数のストーリーがあって、し かもそれらのストーリーラインがみんな細るくらいに作・演出の妄想が肥大化して、紋切り型がユニークな見立てで吹き飛ばされて、観客が冷静に判断するヒマ を与えないくらいのイメージの広がりが加わったら...などと考えてしまった。

次も絶対観に行こう、なんて言ってしまったらそれはウソだけど、何年か経ってみてスッごく面白くなっていたら、それは充分納得できる劇団である。

2007年11月18日日曜日

元祖演劇の素いき座 阿房列車

17/11/2007 ソワレ

1991年の初演以来、17年間上演を続けていると当パンにある。
え?そんなになりますか?実は小生、初演以来この芝居を観ていなかったのだ。不覚だ。
何だか、高校生の時分に買ったジャズの隠れ名盤が、引越しか何かの拍子に見つかったような感覚になる。

森下さんが出てきてみかんをむくだけで、涙でてくる。みかんの袋の白い繊維を丁寧に丁寧にとっていく指先と、微妙に浮き沈みする草履の踵。これを 演技と呼ばずして何を演技という。福士史麻の登場、微妙な内股の歩み、靴下の皺。土井さん、ジャケットの皺、立ち、目線。アゴラの空間を体温と緊張と弛緩 とで漲らせるのに頭数は必要条件でないことを如実に示す。

福士、土井さんとの会話の時に、頭に間(というか、一呼吸)が入る。「これは?」と思う微妙な線だが、初演の時も同じことが気になったなぁと思い 出す。してみるとこれは演出か。17年歳をとってみてみると、これはこれで、実は成立している。少なくとも、「おじさん」の目線から見ると。それが今はわ かる。僕も歳をとった。

平田オリザが1991年にここまでのものを書いていたということにも、今更ながら驚いた。あぁ、幸せな1時間半。満喫した。

世田谷パブリックシアター 審判

17/11/2007 マチネ

退屈と紋切り型に満ちた3時間15分。

芝居にとっての「寄り道」とは、役者の指の爪であり、はきつぶした靴底であり、内股であり、がにまたであり、ごく微妙にかき消せない茨城なまりで あり、本筋と全く関係のない目線(『あの人は日頃どのようなものを食べているのだろうか?』と、その視線を向けた役者が考えているのではないだろうか、と 観客に思わせてしまう目線)である。それを端折った芝居を、おそらく、「ストーリーに縛られた」とか、ひょっとすると「テーマ主義的」と呼ぶのではないだ ろうか?

だから、いくらカフカの原作にでてくる「サブストーリー」的なモチーフを舞台で見せてみたところで、それは、構成・演出が面白がっているだけで、 芝居の観客には面白くないだろう。折角切り口を変えてカフカを舞台に載せているのに、これではサラリーマンマンガの紋切り型大王、「被告人島耕作」となん ら変わらない。

冒頭からいきなり「それっぽい」音楽(そしてそのそれっぽさは芝居の間永遠に続くのだ!)、2人の官吏の身のこなし、監督の足の組み方、ヨーゼ フ・Kの怒り、グルーバッハ夫人の動揺、女達の喘ぎ、被告人のしょげ返り方、貧民の無教養さ、聴衆の興味の示し方、こういった紋切り型が、構成・演出者が 面白いと思う審判のテクストの読み方の説明への奉仕に終始していて、悲しくなってしまった。

だから、ヨーゼフ・Kは、「イヌのように」死ぬのではないのだ。この芝居で、ヨーゼフ・Kは、あたかも「役者が舞台上で『イヌのようだ』と台詞を言って死ぬ演技をするように」死ぬのである。
五反田団の「生きてるものはいないのか」では、役者が、まさにイヌ死にしていったのと対照的である。

ただし。2つ面白かったこと。
① 井出茂太のコリオグラフィは大変面白い。紋切り型を取り出してそれを構成しなおし、デフォルメして示してみせる。何だか、芝居に満ち満ちる紋切り型への強烈な皮肉のようにも見えた。
② ヨーゼフ・Kを訪れる、片足を引き摺った女性。あの長い台詞の台詞回しは、どうにも面白かった。どのように意識を持っていったらあんなふうに台詞がいえるのか?変だ。

2007年11月12日月曜日

三条会 いやむしろわすれて草

11/11/2007 ソワレ

三条会、初見。
千葉は、遠い。三条会アトリエは、千葉駅からも、遠い。人通りの殆どない道を通って現地へ向かう。
入ってみると、「狭くて天井の低い」アトリエである。壁も白かったりして、何だか学生時代の教室(あ、会議室か)舞台を思い出したりする。
冒頭、上演時間65分、というのに驚く。そんなに短くするのか?元の戯曲をぶった切るのか?

始まってみると、むくつけき男子4人が演じる4姉妹。うむむ。汗臭い。が、年齢のことは少なくとも不問に処すべし。五反田団のオリジナルだって、中学生の娘を中学生が演じていたわけではないのだから。芝居なんだから、歳の差だって、性差だって、ということなのだ。

ということで、戯曲に書かれたテクストに忠実に。が、スピード、間、アクセント、コンテクスト、そういったものを出来る限り誤読していく、そして逸脱していく。その遊び方が、この間アゴラで観た岡崎藝術座のオセローにも似ている。

岡崎藝術座と異なるのは、岡崎藝術座が、観客の意識を出来るだけ舞台上の一箇所に留めないこと、視線を拡散させることを旨としている印象だったの に対して、三条会の舞台は、飽くまでも1点に焦点が当たっているように思えたことだ。まぁ、狭い空間に男4人集めちまうのだから仕方がないのかもしれない が。
僕は個人的に「視線拡散型」の芝居をキョロキョロしながら観る方が好きなので、実は、ベッドの上に4人集まって演技されると、ちょっとテレたり疲れたりする。

演出の意図が先を走って、正直なところ、僕がとろとろと自分の想像力を働かせる時間が与えられなかった気もしている。65分、割とあっという間に 経ったけれども、観客の意識をどうもっていくかよりも、自分がどう遊んでいるかを見せるほうに興味があるようにも思えた。が、本当のところはどうか? 今 度観に行った時に確かめるべき課題である。

五反田団+演劇計画2007 生きてるものはいないのか 再見

11/11/2007 マチネ

前回観た時に、もっと役者の細部を観たいと思った。
ので、今回は敢えて細部に集中。特に死に際(あ、この日記もネタバレ前提です)。

すると、やはり面白い。微妙なステップ、誰も見てないようなところでの表情、等々、本当に細かいところまで作ってあって、見てて飽きない。
しかも、やっぱり、死んでる人たちも、当然だが、息をしているわけで、お腹が上下動していると、それが又面白い。
お腹をガンガン押してたら「ゲフッ」だって。死人はゲフとかいわねーよ。
あと、芝居が終わって役者がみな立ち上がるときに、何だか寝起きみたいな顔で立つのがまたおかしい。

が、そうやって、一生懸命観ているうちに感じるのは、うーん、何と言ったらよいのか、作者あるいは演出家の(この場合は両方兼ねているから前田氏の)、悪意、めいたものである。
「こーゆー死に方を、せいぜい今のうちに嗤っちゃったりしとこう。どうせ芝居だから」というのか、
「生きてるっつったって、所詮、死んでないくらいのことだし」というのか、
「気合入れて死んだって、芝居の結末には何の因果も及ぼさないよね」というのか。
どれも不正確な気もするが、しかし、何か、そういう、悪人気取りと正真正銘の悪人の境界例のような悪意を、感じた気がする。
この、何とも言い表しがたい悪意は、素敵だ。「後味の悪さをはいどーぞ」みたいな芝居よりも余程気持ち悪く、心地よい。もう一度観ると又印象が変わるのかもしれないが、残念ながらもはや芝居ははねた。次回作楽しみ。

2007年11月11日日曜日

タテヨコ企画 カタカタ企画3本立て

10/11/2007 3本

昔、イギリスの有名美人女優が「何故デブの男がすきなのか?」とインタビューされて
「だって、お腹の襞ひだの中に色んなものが隠れていそうでミステリアスじゃない?」
と応えていた。

実はこの受け答えは、男が痩せていたって成り立つはずだし男女が逆転してもやはり十分成り立つはずだ。秘密が隠されているミステリアスな場所は、 痩せたあばら骨の段々の陰であったり、肘を曲げると出来る皺皺の中であったり、つむじの中を掻き分けた中であったり、上腕の裏側下部(これはミカドのカ ティシャのチャームポイントである)だったりするわけである。
要は、2人の関係は、それらのヒミツの場所を興味をもって覗き込めるかにかかっていたりもするのだ。

で、この、カタカタ企画三本立て、「そのときどきによって」「夏が来ない」「うそつきと呼ばないで」だけれども、まさに、タテヨコ企画のヒミツの 場所を見出すのにふさわしいギャラリーカタカタという小さな小屋を得て、観客としては、さて、どこにどんな皺が見つかるだろうかと胸をときめかしたわけで ある。

横田戯曲は、その意味で、特に肥った三段腹の芝居ではない。どうかすると見逃してしまいそうなさざなみ、「良い人しかでてこないじゃない」と思わせるすっきりとした佇まいの中に、実は隠れたほくろがポツポツと仕掛けられている。それが良い。

ただ、勿論、小さな小屋で役者と観客の距離が非常に近いのだから、痩せてるくせにお腹に贅肉の付いた裸を「ほぅれ、ほぅれ、この皺、この皺を見 れ」とグイグイ押し付けてきては興醒めである。今回、横田氏を含めて3人の演出家が3作品を演出したのだけれど、そこら辺、それぞれに、
「ほぅれ、ほぅれ」路線で来るのか、そこはかとなくヒントをちらつかせてくれるのか、違いがでてきて、そこで良し悪しが分かれていたと思う。だから、良し悪しはひとえに演出によるのであって、役者の良し悪しとは違う。

でもそんな中でやはり、「うそつきと呼ばないで」での舘智子さんの笑った目尻は格段にミステリアスで美しかった。ともするとアッサリしがちな横田芝居に実は秘められている「色気」が感じられて気持ちよい。もう1つ、「抑えた好宮温太郎」も収穫だった。

小さな場所で、役者6-10人、1時間15分ずつ。これはこれで気持ちよい。でも、次の駅前にはもっともっと要求したい。1本勝負の中に、観客が見逃してしまいそうな皺をどれだけ織り込んでいけるか、楽しみにしています。

2007年11月8日木曜日

五反田団+演劇計画2007 生きてるものはいないのか

07/11/2007 ソワレ

書きたいことはあったが、書くとネタバレになってしまうのでちょっと躊躇してました。
一言で言えば、「前田司郎の骨太な構成力が際立つ作品」、ということでしょうか。

以下、100%ネタバレとなりますので、これからご覧になるという方は読まないほうが良いです。





要は、「生きているということは死んでいないということだ」という単純な理屈である。
「生き様」を描く足し算の芝居ではなくて、バタバタと人が死んでいく末に1人だけ生きている、その結果として「生きている」ことを背負わなければならなくなる、そんな、引き算の生を観客に提示するのに1時間50分かけて見せる前田司郎の手管。さすがである。

さらに、死んでいく人々17人が、それぞれ「太陽にほえろ!」の殉職シーンを持たされている。これは、何も考えないで観て、「おぉ、太陽にほえろ のオンパレードじゃん」と楽しむことも充分可能。が、さらにもう一歩うがって見れば、舞台上で表立って劇的なことが何も起こらない「静かな芝居」への強力 なアンチテーゼともなっている。だって、普通、芝居で人間が死ぬのって、2時間の芝居なら1時間半経過後くらいだよ。人間の生き死にという大事件を、しか も舞台上で殺しちゃって、これでは、舞台上で重大事件起こりまくりである。
この、重大事件を惜しげもなく舞台にバラまいて、その結果として観客に刺さってくるのが「いかにして死んだか」ではなくて、「残った人が生きていること」であるところが、この作品が持つ重大な筋立てであり、逆転であり、全てであった。少なくとも僕にとっては。

しかも、17の死を追っていく観客の視点は、出はけを繰り返す役者達の視点をくるくるとたらいまわしにされて、結局生き残ったマスターの眼に行き 着くのだけれど、でも、それまでのところでマスターの視点に移入している人は一人もいないはずだ。その、「必ずしも移入していない人」が残っているのに、 何故か、「独りで生きていること」を背負う感覚だけは観客もマスターと共有できてしまう。不思議だ。やられた感が否がおうにも増してしまう。

そういうわけで、骨太な方法論が前面に出た、力強い芝居だと思う。

ただ、その代償はやっぱりあって、「前田司郎独り勝ち」の印象はぬぐえない。役者陣、あんなに一生懸命死んでも、それ、ラストシーンに向けた捨て駒なんだもの。まぁ、それをもって前田氏を責めようとも思わないし、芝居がつまんなかった訳でもないから...
でも、普段なら目が行くはずのすっごく下らない細部に、今回は目が行かなかったのだ。それがちょっと不思議でもあり、ある意味残念でもあった。
5人くらい死んだところで、あと15人くらい死ぬなかなぁ、とか、不謹慎な勘定をしながらラストシーンへの残り時間を考えてしまったりしてたが、本当はもっと細部を楽しみたかったのだ。

2007年11月5日月曜日

青年団若手西村企画 ライン

04/11/2007 ソワレ

「楽しめるくだらない作品に仕上がった」とは演出のあいさつ文だが、まさにその通りで、特に「タイムマシーン」なんて特大にくだらなくて、心の中で「く、くっだらねぇえ!」と快哉を叫んだことである。

オムニバスは期待していなかったので、観る側としてのペース配分を間違ったのかもしれないけれど、前半目をまん丸にしてみていたのが後半になってちょっと失速・息切れ感あり。辛くなりかけたところで幕となったので、そこは救われたか。

現代口語演劇を捕らえたままで身体性と改めて向き合う、というのは、すごく真摯かつポイントを付いた試みだ。それを、色んな形のスキットで試して いくという点で、非常にポジティブな芽に溢れていたと思う。ただ、それを、冒頭の"Shut in"の完成度くらいまで練っていく時間がかけられていたらなぁ、とは思う。
それだけ、冒頭番外編の"Shut in"は練れていた。ひょっとすると、その空間を引き摺って(比較的粗削りな)本編に入ったのが後半の息切れ感に繋がったのかもしれない。

アイディアを練って練り上げて、観やすく美味しく仕上げたら、きっとヨーロッパ企画のようなものが出来るのだろう。出来上がったそいつを見直し て、役者の身体性と「説明しない普通の台詞」をもってぶち壊して、それを組みなおして舞台に載せると、それはスッごく面白いものになる、はずだ。その 「芽」は確かにあった。「タイムマシーン」を観よ。充分にくだらなく、充分に等身大で、存分に想像力を刺激された。

欲を、言えば。西村企画を観るの、これが3回目だったけれど、前2作には、良くも悪くも、西村氏の世界に対するみょーな生真面目さ、があったと思 う。それは、巧拙・切り口とは別の、「味」のようなものだ。それが、今回、「くだらない」をキーワードにしたことで、ちと薄れたかもという気がしてきてい る。「ラインを踏み越えること」という、何だかおぼろげなコンセプトは今回もあったのかもしれないけれど、できれば、次回以降、この「くだらなさ」は引き 続き舞台に載せながら、1本縦糸を通して芝居を組むことを期待してしまう。まっこと、観客の欲には限りがない。

風琴工房 砂漠の音階

04/11/2007 マチネ

先週の日経新聞の広告で、渡辺正行さんが小学生の時の思い出話をしていて、
「ホリに当たる照明が変わると朝になったり夕方になったり夜になったり。すげえ。こんなにリアルに出来るんだ」
と感動した、というような話をしてた。
僕は、小学1年の時に、北区役所のホールに「首なしほていどん」の子供劇を観に行って、「なんだぁ、子供劇だと思って手を抜くんじゃねえ!こんな のありかよ!」と思ったことを克明に覚えている。また、小学校の体育館で「杜子春」の説明台詞攻撃(当時の僕は説明台詞という単語を知る良しもなかったの だが)に、やはりかなり怒ったことも覚えている。

そういう、頑是無い子供の頃からそういう偏った芝居の見方しか出来なかった僕なので、僕の芝居の好みはやはりかなり偏ってしまっても仕方がない。つくづくそう思う。

で、風琴工房。前回、「紅の舞う丘」を観に行った時には、ここの日記にも
「スズナリまで出かけて朝の連続テレビ小説を観てしまった。
しかも、2時間連続である。15分で逃げて帰るわけには行かない。」
と書いた。要は、「ほていどん」を観た時のように怒ったわけである。
でも、山内さんが出演するとなれば観ずばなるまい。加えて小高仁氏が出演するとなれば、ますます観ずばなるまい。

山内さん、スーパー。すごい。登場して2分くらいで全て合点がいく。これはすごい。喜怒哀楽が全部科学語りになって顕れる人間を舞台で観られるとは。それを演じることの出来る役者を目の当たりに出来るとは。
小高さん、声でかい。良し。山内さんのカウンターバランスとしてすごく良く機能している。
笹野鈴々音、良し。山内・小高・笹野の3人のシーンは、観ていて気持ちよい。

で、これほど良いものが書けるのに、そして演出できるのに、何故、他の全てがこれほどまでに薄っぺらいのか?
何故、こんなにも「私達が持つことが難しい熱情を持った」「多くの希望が許されていた」人たちを、恰も熱情と希望とだけで生きていたように、(言い換えれば、桃太郎の鬼達が恰も悪意とお姫様だけで生きていたかのように)、描くことが平気なのか?
主人公以外の人物に対して愛がないのか?それとも、熱情があって希望のある人々には、不安もなければ悪意もなければ自分の心情を説明する以外の台詞や身振りは不要なのか?
そこら辺の薄っぺらさは、やはり、朝の連続テレビ小説だった。

この芝居、同じキャストで再演したら、人に薦めるか? 薦めます。山内=中谷宇吉郎は必見。
この劇団、違うキャストで又観るか? おそらくもう観ない。たとえ、篠塚さんが出演していても、だ。こういう気持ちになるのは、つらいが。観たらもっと辛い思いをしそうな気がする。

2007年11月4日日曜日

マチネ・ポエティカ 一つの可能性

03/11/2007 ソワレ

非常に間抜けなことに、観終わって家に帰る途中で気がついたのだが、これって、芝居では勿論無いし、戯曲のリーディングでもないし、(当たり前だと言うなかれ)小説のテクストのリーディングなのであった。

「本を声に出して読んでもらう」というのは、すごく気持ちのいい状況だ。いや、そうに違いない。「本を声に出して読んでもらう」というのは、一部 の人にとって「耳掃除をしてもらう」くらい、又一部の人にとって「美容室で極太の指でシャンプーしてもらう」くらい、気持ちの良いことであるはずだと思っ ている。

僕自身は両親に本を読んでもらった記憶が全くなく、3歳くらいからの記憶が全部気に入った絵本を「黙読」している自分の姿で、今となって考えてみ ると不幸な子供である。土曜日のお昼前、幼稚園の先生が毎週本を朗読してくれる時間が、ひどく楽しみで仕様が無かったのはとても良く覚えているけれど。

読んであげるほうなら、小学生になるかならないかくらいの子供を呼んで、本を読んであげたら、結構僕は上手だ。小学生の頃から、親戚の子達を集め て本を読んであげるのは得意技だった。でも、本を読んでもらった記憶はない。肩凝り症の人が、やたら人の肩を揉んであげてそっちは上達するのに、自分は揉 んでもらえない、そういう感じである。

前置きが長くなったが、今回のリーディング、気持ちよかった!とても、気持ちが良かった。
導入こそとっつきにくい気がしたけれど、始まって1分経つとすっかり中に入り込んで、じっと耳を澄ます。物語を追うのはとても大変なテクストだと 思っていたので、そこを半分投げ出して、今、そこで読まれている、言葉、に注意を集中する。と、そこから見えてくるイメージがある。落第生がいて、叔父が いて、甥がいて、見えない愛人がいて、そばにいる愛人がいて、妻がいて、あぁ、でも、このテクストは抜粋なんだよな?この裏側にはどんな世界があるのだろ うか?言葉に音階がつき、まるでエルメート・パスコアールのようだ。一体どんな読み方をしているのだろう?

と、すーっと引き込まれていって、つい眠くなりそうなもんだが、それがならない。リーディングから発せられる刺激が、パフォーマーの静かな揺れで あったり、バンドネオンであったり、ペースの緩急であったり、投影された文字であったり、本当に、言葉を追っていくよろこびに浸っているうちに、終わる。

「パフォーマンスを振付ける読み手=語り手としての武藤真弓」「リーディングパフォーマンスの語り手たち」「物語の語り手」「動作の主」「リー ディングを聞く複数の聴き手=読者(候補)」の隙間の中にそれぞれ間があって、そこがそれぞれの妄想・想像で満たされている。その、それぞれに微妙にずれ たものたちの集合の豊かさが感じられて、とても気持ちが良い。できることならば、妻子も一緒に連れて来たかった。そのズレについて語り合うのもまた、すご く幸せな時間なのだろうと思ったことである。

あうるすぽっと杮落とし 海と日傘

03/11/2007 マチネ

あうるすぽっと初訪問。どうも客席が平たい小屋で、これじゃ後ろの人は舞台が遠く見えるのではないかと心配されるが、実は客層にお年寄が多くて、あぁ、これからは劇場もバリアフリーなのか、なんてことを考えたりしていたわけである。

で、松田正隆さんの岸田賞受賞戯曲だから、スタイルや構成、台詞に文句のつけようがあろうとははなっから考えていなかったが...
あっまあまでダッサい演出のお蔭で芝居は台無し。

そもそもが、左右の壁がぎゅっと両袖に開いた舞台セット。貧乏暮らしなのに優に12畳はあるぜ、この居間。
加えて、なんだか「淡淡とした二人の愛を描きます」みたいな音楽の使い方とか(暗転中は別として)、「けなげさ」大前面に押し出した竹下景子の絶叫寸止め台詞とか、こんな持って行き方では、後半の「多田登場」のシーンの厳しさも、ラストの平田さんの台詞も活きるまい。

それとも。これくらい甘くて「お客さんへの説明過多な」演出にしないと、いまどきの観劇ファンは許してくれない、ちゅうことですか?だとすると、事態はかなり深刻だろう。
日経に「劇場も大競争時代」なんて書いていたが、あうるすぽっとがこのていたらくでは、先々本当に思いやられる。これは、状況として、危ないぞ。

2007年10月29日月曜日

岡崎藝術座 オセロー

28/10/2007 ソワレ

激しく面白い芝居だったのだが、引っ掛かるところもあり、また、ちょっと忙しくもあったので、千秋楽を迎える前に日記書けなかった。残念。

70分、舞台から目が離せなかった。目が離せないのには明確な理由があって、
「フロントで人が台詞を話している時、あるいは、暴れている時には、必ず目に付きにくいところで変なことをしている奴がいる」
というのがルールで決まっているかのように、絶えずいろんなことが起きているからである。

オセローという、話の筋道が広く知られている芝居を舞台にのせるのだから、ストーリーの説明はおざなりで構うまい、という割り切り。
キャシオーの棒読みたどたどしい台詞から入っていく手管。白オセローの白目と黒目の対比。イアゴーの演技はまさに「裏で面白いことをしている時に フロントで台詞を吼えまくる」献身的かつ利他的と呼んでいいものであったし、唯一、物語の進行を担いながら色物であることも許されたヘレン・スミスからも 目が離せない(英語のアクセントで、オーストラリア人かなぁ?とぼんやり思っていたら、当たっていた。ちょっと得意だ。)。黒オセローの暴れっぷり、JB =エミリアの動き。ラストの電気ポットから出る水蒸気。
BGMの乱暴な使い方。ラストの威風堂々に爆笑をこらえる。
そしてセンター男。最初の舞台中央での振り付け、何をキューにしているか結局最後まで見破れず。でも絶対何かをキューにしている反応だった。

と、70分、「あぁ、面白かった」。でも、何でオセローなの?
こいつら、実はどんなテクストを持ってきても一緒なのではないか、との疑念がふと沸き上がる。おそらく、そこが、この芝居のミソの1つで、ストーリーを伝えることには100%興味が無いのだろう。ただ、舞台に乗っているものを楽しめ。
その快楽を、スッゴく高いテンションをもって駆け抜ける態度を、僕は、初見ということもあって思いっきり楽しんだのだけれど、さて、次は?その次は?

ものすごいことになりそうな気もするし、袋小路に入りそうな気も無くはない。いずれにせよ、個人的には今後見逃せない気がしている。

山の手事情社 傾城半魂香

28/10/2007 マチネ

誠に申し訳ない話なのですが、やっぱり今回も、冒頭から、「山の手事情社の文法って何だろう」と考えながら観ざるをえなくって、じぃっと考えなが ら観てたら、何とマイルスのクィンテットがかかって、あれ、文法が違うものを観ているのにいきなり慣れ親しんだ音楽が、と思ってたら、落ちた。従って、前 半一部見逃しがあります。

が、その後一歩引いて考えてみるに、
・ 語り
・ 体の動き
・ 台詞
・ お洒落ダンス(と呼ばせてもらいます)
をそれぞれ「ありのままに(自分の文法を一旦忘れて)とらえて見てみる」所に立ち返って意識してみると、実は面白いことが起きているようにも見え てきた。で、語りと台詞のバランスは、芝居の進み具合=スピードの変化に貢献しているのだな、なんて思ってみていたら、話が盛り上がって終わってしまっ た。

どういう問題意識を持ってこのようなみせ方になるのか、興味はあるけれど、「古典劇を現代衣装で、お洒落ダンス付き」というと、コンプリシテの尺 には尺を 大外れ芝居に似たところがあって、ちょっと個人的には受け付けない。「青い鳥」の時にも思ったのだが(そして今回も同じことを繰り返し考えてしまったのだ が)、既存のプロットを持ってくるんでなくて、現代を舞台にしたらどんな芝居になるのか?それが観たい気が大いにしている。

2007年10月28日日曜日

かもねぎショット 白か黒

27/10/2007 ソワレ

テルプシコール。久し振りだ。ツベルクリンを観に行って目覚まし時計が沢山鳴るのを聞いて以来だと思う。とすると、17-18年ぶり、ということ になるのだろう。でも、いまや家が近所になってしまったので、迷わずにいけた。というか、前を通るだけならこの1年で何十回も通っているので。

うーーむ。この、2人芝居30分×3本立ての90分、どう言ったらいいのやら。どうしても、2人芝居=エチュードから創って=なので引き伸ばして も30分が限度=じゃあ3本やるか=でもどうしても世界が軽い感じが否めないよね。となりがちで、この「白か黒」はそれにはまって苦戦してるなぁという印 象である。

やはり、2人芝居は、ムリをして演じるものだろう。「幸せな日々」しかり。「走りながら眠れ」しかり。ガチガチに作って役者に押し付けないと、 どーも、「最後までいくぞ!」って気が、観ててしてこないというか。大リーグで「先発投手は5回まで」って決まってるが、やっぱり先発完投じゃなきゃ、と か。あ、そういえば、「あなざ事情団」は観客参加型というナックルボールを勝負球にして、1時間半完投してたっけ。

11月にも後編があるが、オムニバスだとちょっときついかな。でも、テルプシコールの、あの、こじんまりとした暖かさは変わっていなくて、それは大きな収穫だった。

乞局 陰漏

27/10/2007 マチネ

アトリエ・ヘリコプター、とってもいい小屋だ。ここでやってる芝居というだけで、行ってみたくなってしまう。正直言って、今回の乞局もとっても迷っていて、きっと、王子でだったら行かなかったんじゃないかと思う。ヘリコプターだから、行った。

で、台風の中を五反田駅から15分。行って良かった、と思ったことですよ。乞局三回目にして、もっとも良かった。いや、良い悪いでなく、「きちんと見ていられた」ということかもしれない。

弟の自殺を巡る話だけれど、実は、描かれているのは「弟の周囲の人間」である。兄・兄嫁・元の交際相手・元の同棲相手、労協義塾、それぞれが、自 分の生活のジグソーパズルの1つのピース(=弟)がかけたことに対してどのように対処するかを下西風味で描き出していくのだが、登場人物に2人例外があっ て、弟と(書きこむ気が無いかのように何もしない風に描かれる)、バンバなる男。
この2人の関係については、何か最後のほうにあるんだろーなー、と思っていると、案の定、ほぼ伏線どおりに落ちる。でも、種明かしに時間をかけないし、最後までimplicitである。
そういった、テーマとか物語とか何とかはimplicitに、遠まわしに、小出しに、という、何だか現代口語演劇の金科玉条のような雰囲気が、実は現代口語演劇教条主義者の僕にはまったのかもしれない。

で、テーマは?といわれると、確かに、(ネタバレっぽくなっちゃうので言わないが)ちょっと青臭いし、三橋・竹岡ペアはもしかするとフラストたまる役回りかな、とも思ったりしたが、まあいいや。
前に観た二作と異なっているのは、「気持ちの悪いものをみせる」ということに焦点を当てるのでなくて、パーツとしては気持ち悪くないのに「こうい うのが気持ち悪いんだよ!」と本人に言わせるようにもって行く周囲に焦点を複数当てて行く点で、それが、あからさまに気持ち悪くないのに全体としての気持 ち悪さあぶり出しに繋がっていた。
根津茂尚=兄のポジション取りと、木引優子=元交際相手の裂け目の見せ方に感心。
こういうことがあると、「滅多なことで、もうここの芝居は観ないなんていっちゃいけないなぁ」、と思う。

2007年10月23日火曜日

東京乾電池 留守・ここに弟あり

22/10/2007 ソワレ

そして今月もまたゴールデン街劇場に足を運んでしまった。
ほんっと、中年サラリーマンが月一でゴールデン街に足を運んで、2000円はらって帰っていく構図もこれで4度目。終演後めでたく半券三枚と手ぬぐい交換して、何が楽しいんだか。
でも、毎回、楽しい。

今日は二本立て、先月別キャストで観た「ここに弟あり」と「留守」。
「ここに弟あり」は、①台詞の前に余計な間が空く ②テンポを取り返そうとして台詞がすべる ③それを取り返そうとして声が無駄に張ってしまう  のでちょっと苦しい芝居展開。が、他に余計な仕掛けが無いから、そういうのがストレートに顕れてくるのもまた良し。やはり難しい戯曲なのだろうか。

「留守」では、好きな女優二人が登場してお得な気分になる。お八重の、「おしまさんったらほんとうにおしゃべりなんだから」というときの、怒って るような笑ってるような困ったような、何ともいえない顔を見ただけで、今日はもとが取れた。女優2人の掛け合い、ほんと、見てて飽きない。八百屋の困った 顔も良し。素直に真っ直ぐケレン無く演じてとても良い。

こんだけ楽しんで2000円ポッキリ。これじゃおじさん毎月通っちゃうよ。

2007年10月22日月曜日

ペンギンプルペイルパイルズ ゆらめき

21/10/2007 ソワレ

これがまた、面白かったのである。
この芝居、ワンフレーズで言い表せば、「愛と虚構のプレートテクトニクス」。

出だしから、「え、ここまでやるとちょっと過剰で、『こんな奴いねーよ』って誰もが思わないかい?」
と思うような要素を、これでもかと積み重ねていく。
その一つ一つのパーツは1cmくらい、リアルさからズレていて、強引なんだけれど強引過ぎず、でも、それが、間断なく積み上げられていく結果、「芝居として」の虚構がエラい方向に膨らんでいく。
例えば、玉置孝匡の怒鳴り過ぎ。リアルよりも5cmくらい怒鳴りすぎ。
ぼくもとさきこのしつこさ。リアルよりも約10cmしつこすぎ。
「これくらいまでなら勘弁できるでしょ?」と言っているようでいながら、実は、そのペースに観客を嵌めているのである。

その、虚構のプレートテクトニクスと平行して、夫婦の間、登場人物の間の感情のズレもちょっとずつ積み重なっていく。太平洋プレートがユーラシア プレートに向かって少しずつ沈み込むように愛と虚構のズレがエネルギーを蓄えて、居心地の悪さが耐えられない水準に達した時に、揺れ戻しが生じる。そして 余震。

このプロセスが、なんとも上手に描かれていて、目が離せなかった。芝居を虚構として組み立てるプロセスと、登場人物が虚構を組み立てるプロセスがシンクロで進行し、最後にガラガラっとひっくり返してみせる手管に目を瞠った。

前回トラムで観た「ワンマン・ショー」は、芝居の「構造」ばかりが浮き立っていまひとつの印象だったけれど、今回の芝居はよい。「リアルからのずれ方」がこれくらいの幅に抑えて積み上がっていく方が、僕としては見ていて気持ちよい。

でも、芝居前半は、実は、
「戸田昌宏はなんてトム・ヨークに似ているんだ」
ということしか考えていなかった気もする。似ている。似てるよね?特に、古着屋の店主なんていう格好で出てきて、あーいう無精ひげを生やしていると。
Radioheadの新譜、In Rainbows、なかなかいいっすよ。

あれ?話がずれたが、えー、気持ちよく最後まで観ました。こういう、現代口語演劇から5cmくらい距離を置いて、でも、きちんとしていて、という芝居も良いな、と思った次第です。

天然スパイラル トワイライト王女

21/10/2007 マチネ

今年の”Mitaka Next Selection”の4枚のチラシを見て、うちの娘が「一番面白そうだ」と言ったのが、この芝居である。それがこの芝居を観た理由。

終演後、三鷹駅に向かって黙々と歩いていたら、脇を歩いている(おそらく娘は高校生の)父娘が話をしていて、「これまで観た中で、一番面白かった。時々わからなくなったけれど、(他のに比べて)分かり易かった」
とのことであった。

娘よ。おそらく、この芝居の内容は、君が思っていたようなものとは全然違っていたぞ。ジャケ買いには今後ともくれぐれも気をつけろ。
そして娘よ。父の芝居の趣味は、世の中的にえらく偏っているであろうことについても心しておいてくれ。自分がつまらないと思った芝居についても、(人が聞いている場では)滅多なことを言うでないぞ。

この芝居についていえることはそれくらいかな。あ、そうそう、何だか、20年以上前のネバランとか思い出しちゃったかな。

2007年10月21日日曜日

燐光群 ワールト・トレード・センター

20/10/2007 ソワレ

初日。
2001年9月11日、世界貿易センターが窓から見えるところにある、とある情報誌の編集室の一日を描く。

この題材を採り上げるに当たっては、「何が起きたか」という、いわば芝居のメイン・イベントは周知で、かつ、そのインパクトは余りにも大きい。そ うすると勝負どころは、「舞台上で何が起きるか」であり、その舞台上のイベントが、僕らがその過去の一点に向けて、自分の記憶と聞きづてを超えて、どのよ うに想像力を膨らませる作用を触媒するかにあると考える。

その意味で、
・ その場に居た人間の、(ちょっと古いが)等身大の振舞いを描こう、という趣向は、ある意味正しい。
・ しかし、結果として、何も起こらなかった。残念だ。

① 海外の日系企業のオフィスで英語が使われる局面に対するリアリティが足りない。これはある意味、「オレは経験者だ」と言い張ってしまえば議論にならない、詮無い文句ではあるけれど、最低限、「余計に英語を使わない」配慮が無いと、臭う。
② 僕の狭い知識の範囲をもって語るにしても、そこに居合わせた人たち、あるいは、少なくとも階段を黙々と何十階も降りた人たちは、この舞台で示されたような雄弁さを持ち合わせては居ない。雄弁に言葉で語れないからこそ、芝居で出来ることがあるはずだったのに。
坂手さんの「プロパガンダ台詞」「坂手流体言止め」が、これほどまでに耳障りに聞こえたことも珍しい。特に若い役者達。声を張るなよ。叫ぶなよ。舞台上の叫びは、本来真剣に膨らんでいったはずのものに、針で穴を開ける効果しか、少なくとも、この芝居ではなかった。

Ed Vassallo、良し。ニューヨークの人間が、実は最も声を張り上げることなく最も説得力を持って舞台に立っていた。
川中健次郎さん、良し。この、何にも構わない感、何でもあり感が、実は、毎回観たいです。

というわけで、この日、「ソウルの雨」「ワールド・トレード・センター」と、日本語+外国語混成芝居を二本立てで観たわけだが、やぱり、これ、難 しいよ。特に、日本人が外国語の台詞を話すのは。「日本語に対する距離感」を日頃の演技で作者・演出者とすり合わせられていても、「外国語に対する距離 感」をすり合わせる機会は滅多にないし、かつ、言葉との距離が遠い分、役者ごとに、あるいは台詞ごとに、誤差が大きすぎる。
おそらく、現代口語演劇の出現を通して日本の芝居が日本語との距離を再確認したのと同じくらいの気合を入れて、「舞台上で外国語を話す日本人 の、その言語への距離感」を再確認する作業が、個々に必要だという気がする。感覚論だけれど。そういえば、「別れの唄」は、そこら辺の感覚のズレが1つの 見所だった部分もあって、きちんと作っている印象があった。あと、Lost in Translation かな。タイトル通りで。

青森県日韓演劇交流事業 ソウルの雨

20/10/2007 マチネ

弘前劇場の長谷川氏の作・演出、役者陣日本勢はやはり弘劇からと、一部オーディション合格者で構成。きちんとやればしっかり観れる芝居になるはずだ。
と、どこを取っても力のある集団なはずだから敢えて言えば、出来の悪い芝居だった。

全体を通じて、「場」が作りきれていない印象。新築の美術館だからまだ場所に匂いがついていないんだ、ということかもしれないが、それにしても、様々な人間関係が交錯する場であるにもかかわらず、そういう空気にならないのは何故か?
弘劇の役者陣も元気なし。なんだか紋切り型。寺山リヤカー劇場の2人組、いつも楽しみにしているんだが、今回は設定がまずいのか、いつまでたっても試合に参加できずに終わってしまった感じである。

日本語・英語・韓国語を使い分けた戯曲なんだけれど、日本人役者の英語は、あれなら止めたほうが良い、というくらい棒読みで、
「英語が完全ではない日本人が、言葉を選びながら非母国語としての英語を話す」
リアリティからは極北にあった。それも興ざめ。

どうしても、そういうバラバラ感が先に立って、どうにも辛い芝居だった。

韓国組(コルモッキル)は対照的に面白かった。観られた。場を作る力と、特に、「母国語で無い言葉で場が組み立てられて何かが話されている時にど んな態度をとるか」への想像力。なんだか見てしまった。考えてみると、そもそも弘劇って、津軽弁と標準語、秋田弁等々が触れる場で違和感を自覚しつつ場が 成り立つ芝居をしてたと思うんだけれど、何故今回に限って日本人の役者の反応が紋切り型に見えてしまったのか?

と、そんな風で場が組み立てられない中でのラストの長ゼリは、つらかった。いや、ホント、何でこんな出来になっちゃったのだろうか?不思議だ。

2007年10月15日月曜日

東京乾電池 恐怖・ハト男

14/10/2007 ソワレ

開演前のアナウンスで、上演時間2時間20分、と聞いて、客席からいきなり恐怖の声が上がる。これで詰まんない芝居だったら最悪だ。頼む、面白くあってくれ。

結論。大変面白い芝居だった。ところどころ、効果があるのか無いのか分からない効果音を入れてみたり、数分間を飛ばすために暗転して幕を下ろして又上げて、なんていう意味のないことをやってみたり、ただ、それがアクセントにもなったりして、飽きずに最後まで観れた。

そして、エレベーター。あの閉まり方へのこだわりは、エラい!!舞台美術、そこだけ取り出してロボコン100点差し上げたい。

トータルで見て、破天荒な物語が好きなのに「物語」は排除したいという作・演出の意図は充分に満たされていたように思う。誰にどう落とし前をつけて、因果関係が云々、というのに拘らず、最後まで「場の空気」と「どこにも行かない・行けない感」を流し続けた力に敬意、敬意。
他の劇団も、同じどうしようもない生活を描くにしても、こうやって、押し付けがましくなくやったらいいのに、と思ったことである。

ただ、どうしても長くなる原因というのは見出されて、それは、「同時多発型会話」の不在である。会話が始まる前に、参加しない人たちを追い出す段 取りが必要になる。戻ってくると会話が止まる。書きたいと思った会話を全て入れると芝居が長くなる。そこはなんとか、「技術的に、処理」出来なかったのか なぁとも思われた。そういう技術的なところで、「単線な感じ」から、より、平田オリザチックな「時空を編みこむ感じ」へと脱皮していける余地があるような 気がした。今後も楽しみだ。

エイブルアート 飛び石プロジェクト公演

14/10/2007 マチネ

全席自由席ということもあったが、シアタートラムの前にあんなに行列が出来ているのは初めて見た。そして、久し振りに、芝居小屋に入る前の客の気 合というものを感じた。あの、静かな期待感は、最近ではなかなかお目にかかれない。かつ、障害者が出演しているということもあり、障害を持った観客も多 い。
いかん、この雰囲気に気圧されてはいけない。芝居は芝居としてきっちり観ねば。
「障害者でもこんなに出来るんだ」という感想になりませんように。前置きなしで「この芝居は素晴らしい」と言えますように。そう思いながら客席に入る。

第一部。Stepping Stones。この雰囲気は、キルバーン・ハイストリートのTricycle Theatreで夏休み企画で演じてる子供劇の感じだ。要は、真面目で、人柄の良い芝居で、悪くないはずなのに、やっぱりぬるい。演出のジョン・パルマー 氏の人柄によるものも大きいと思う。このイギリス人男性によく見られる妙にぬるい優しさは、往々にしてマイナスに働く。役者のレベルをさっと見た限りで は、もっと厳しい芝居が出来るように感じたのだが。と思って、はっとチラシを見返すと、「原作はイギリスの子供向けに書かれたファンタジックな作品」とあ る。そうか、子供劇か。うーむ。イギリスの子供劇の妙なぬるさが、そのまま来日しとる。もっと厳しい芝居が観たい。子供劇ならそういうものとして、真剣に 子供だけに見せたほうがよかったのではないか?

で、第二部は、まさに厳しい芝居となった。ロルカの血の婚礼はべたべたのどろどろな話なのは周知の通り。それを題材に、手話・言葉・身振り・日本語・英語を使って、気の抜けない濃密なコミュニケーションを力技で編み込んでいく。この迫力は芝居の醍醐味だ。
コミュニケーションの編みこみの説得力という点で、ジェニー・シーレイの意図が明確に伝わり、かつ、その意図を超えてゴツゴツと力のある空間が生じていた、と感じた。
隣人を演じる福角幸子、気合みなぎる。自分の背中を自分で観ることができた時にユーモアが生じる、と誰かがいっていたと思うが、そうだとすると、 障害のある自分を見つめ、演じる自分を見つめ、自分の視点と合わせて3つの視点を上空から鳥瞰して舞台に立つこの女優にはとんでもない高次元のユーモアが 溢れているとでも言おうか。こないだ観た唐さんと同じくらい目の離せない役者だった。これは、色物ではない。
この面子ならもっといろいろなものが観れそうな気もする。今後も、特に、Jenny Sealeyが引き続きこういう厳しい芝居を日本でも見せてくれますように。

2007年10月14日日曜日

満塁鳥王一座 Blind

13/10/2007 ソワレ

最近のオヤジのマナーの悪さ、特に団塊に年齢の近いスーツ通勤組のマナーが目に余るのは衆目の一致するところで、「最近の若い者は」という割には自分が見えてねぇじゃねぇかぐぉらぁっ、と思うことも毎日なのだが。
アゴラでそういうことがあるとさすがにへこむ。初っ端暗転、しーんとした中で、オヤジの欠伸「くぁーーーっ」だと。何様だよ。前の方では「決まっ て静かなシーンで」独り言いうやつ、靴を脱いだり履いたり。で、ラスト近く、静かなところで又もや「くぁーーっ」だよ。お前、通の歌舞伎通いかよ。だまっ とれこら。
傍若無人なオヤジが「おしゃべりおばさん」より性質が悪いのは、きっと、おばさん連が単に「分かってない」のと比べて、オヤジどもは、「自分は 他よりも分かっているし、何も言われない権利がある」と思っていることだ。始末に終えないよ。あ、いや、こないだのどっかの文藝誌でも、性別問わず、全く 始末に終えない奴が一人なんかいっとったなぁ。他の観客の迷惑になることも自分がやるのは当然の権利、みたいな。そういう、他の観客の気持ちに想像力の働 かない「自分ファシズム」な奴が芝居観て、どこに想像力を働かせ、何を楽しむのかね。一体。

と、長くなったが、この、満塁鳥王一座、「対観客の語り」と「舞台上の登場人物間の会話」をできるだけシームレスに組み合わせることで、新しい時間の流し方を模索している、と観た。
「模索」というのはまだ必ずしも上手くいっていないからである。「舞台上の会話」では、リアルタイムでコミュニケーションとるので、1秒は1秒 だ。基本的に。一方で、対観客語りモードでは、5秒使って「10年経ちました」と言えば、10年経ってしまうのである。恐るべき技だ。

この技を最近一番過激に使ったのは、ハイバイの岩井秀人氏で、開演前のアナウンスで、「志賀君は60歳の外見ですが実は18歳で、一年に3年ずつ歳をとっていますからよろしく」
と、説明台詞を使うと5分、使わないと20分要する設定を、1分で説明しきり、一部オヤジ客の不興を買っていたわけである。

満塁鳥王一座は岩井氏ほど不埒ではなく、あくまでも芝居中でのモード切替に拘っていたが、じゃあ、「語りモード」ですっ飛ばすシーンと、「会話 モード」でリアルタイム進行するシーンを比べてみた時に、まだまだ、「会話シーン」の中で、「折角モードを使い分けるなら、こんなところもとばしてくださ いよー」とお願いしたくなるシーンがいくつもあった。これが、戯曲の「拙い」部分である。クサくて観てられない絶叫シーンとかは、「語り」を使ってバンバ ン飛ばしてよい。その代り、もっとたわいが無いといわれそうな、でも、是非除いてみたい部分をぎゅぎゅっと意地悪にピックアップしてほしいのだ。

あと、下山事件とか、そういう戦後史のことが分かっていてほしいのか、そうでないのか。オイディプスとのリンクはそれはそれでよいけれど、何とな く測りかねるところもあったかな。作・演出がもうちょっと物語や役者・観客に対して意地悪になって、語りと演技の並存で出来る空間を、もう1つうえの階層 にいる作・演出がコントロールしている感じになると、観る楽しさもひとしおなんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか?

毛皮族 おこめ

13/10/2007 マチネ

初見、初日。
前篇。この紙芝居風は、きっと狙ってやっているんだと思うけれど、だからなんだ、という気もする。この、飽くまでペラペラの紙芝居によって、物語 もとことんペラペラに綴られていくんだが、ラストシーンで落とそうとしてんだかしてないんだか、泣かそうとしてんだかしてないんだか、とことんペラペラな どこかのテレビドラマのパロディなのか、わかんない。僕には分かんない事だらけだ。かといってもっと分かりたいとも思わなかったし。

後篇。スチュワーデス物語(多分)+007映画の折衷パロディもの。こっちの方がペラペラ感が余程楽しめるけれど、このテの刺激がほしいならジョージ朝倉のカラオケバカ一代3回読んだ方が面白いかな。

全体としては、苦しい。女ドリフを目指すならもっとテンション上げないと届かないだろうし、宝塚を喰う積もりならエンターテイメントとして隙を無 くさなきゃならないし、大学祭りの学内人気者パフォーマンスだとするとチケット代高すぎる。「今まで何をしてきたか」は分からないけれども、何がしたいの かも今ひとつ見えないし、これでは平日の本多で動員苦労するのもむべなるかな。

2007年10月11日木曜日

犯さん哉

10/10/2007 ソワレ

お洒落で軽くて隙が無い。最初から最後まできっちり作ってツボのはずしどころ、くすぐりどころも油断なく弁えて、観客は何の苦労も無く2時間10分観続けていられる。

古田新太さん、初見だったが、あぁ、センスの良いソツのない、己を知った役者なんだなという印象。

エンターテイメントとしては非常に芸のレベルが高いが、そこまで見せ付けられて、当方の妄想及び想像がジャンプする引っ掛かりどころ一切なし。これをもって、僕が楽しんだといえるのかどうか。

2007年10月9日火曜日

恥御殿

08/10/2007 ソワレ

スカッとした。何がスカッとするかって、先ず、東京駱駝の「現代口語演劇」もろパロディの台詞回しで駱駝隊組んで去っていくセンス。これにやられ る。続くレビューで、いきなり一曲目、「私は風」である。俺、カルメン・マキ聞くのなんて中3の春以来。しかも人前でカルメン・マキを歌う奴も初めて観 た。中里順子に男気を感じる。さらにちょっとピコピコした曲の振り付けが、何だかMighty Boosh の Electroを思い出させてちと泣ける。と思ったら「他人の関係」に岩崎宏美。おじさんは大興奮の渦だ。

最後のジャイケルは、「この技であれば、わしの元上司の大○田さんの方が実は芸達者かも」とちょっとだけ思いつつ、でも、I'm Bad 最後まで踊りきる体力には大拍手で、いやー、最後まで楽しませていただきました。

欲を言えば連れと一緒に、あるいは娘も連れて来たかったが、それはまた今度ということで、気持ちよくうちに帰りました。

The Shampoo Hat その夜の侍

08/10/2007 マチネ

ストレートに泥臭く伝えようとしていて、まさにストレートに伝わってきて、かつ、細部にも手を抜かずに、細部の一つ一つが芝居の全体に奉仕する。
この気合について斜に構えるつもりはないし、そこにあざとさが無い限りにおいて、それはプラスに働いていると感じた。

でも、そんな芝居を観ながら、僕は次の2つの不謹慎なことをしていたのだ。
① 1時間ちょっと経過したところで、「じゃあ、あと、1シーン10分でシーン6つね。暴力シーンが1つ、対決シーンがラス前に1つ、ラストシーンが1つ、出かける前が1つ、あと何だろう?」と計算を始めたこと。
② カーテンコール、役者が並んだところで、「あ、配役をこう入れ替えて観てみたい」と考えたこと。ちなみにMy 配役は 黒田=木島、野中=小林、児玉=中村、赤堀=青木、多門=久保、日比=星 です。

①は、芝居がだれたからではない。「芝居が明確にどこかに向かっている」のが余りにも最初から目に見えているために、却って、そこまでの道行きを 計算してしまうということです。言い換えると、推理小説とタイトルが付いていたら、犯人が最後に見つかるはずだと結論を先取りして、それにあわせたペース 配分で本を読んでしまうようなものだ。

②は、配役の個性までもが①の「どこかに向かっていくこと」に奉仕するのは、特にこの劇団ではもったいないような気がしたから。もっともストレー トに伝わる配役は、それはそれで効率的かもしれないけれど、僕が芝居小屋に行く理由は、「もっと他愛のないものが観たい」からなのだ。効率的に、強烈に伝 えるメディアは、それは、実は、芝居ではないところにあると思う。

その意味で、全体への奉仕が明確でなかったのは「警備員」だった。無論、良い意味である。この役に関しては、「誰がやっても大丈夫な、つまり置き 換えが自由な」役であるにも拘らず、「滝沢がやっているからこうなっている」という感覚が何ともむず痒くて(このむず痒さも誉め言葉である)、また、劇中 最後まで名を呼ばれないこの女性は、何も叫ばない癖して、その「名前も要らないくらいの立ちで」芝居の臍にいたのだ。そこら辺が、実は女優氏には悪いが 「戯曲の勝利」みたいなところもあって、そこは何だか勉強になった。

と思って、役名も「警備員」とだけあったよな、と当パンを開くと、ちゃんと「関由美子」なる名前が与えてあって、自分の記憶や解釈なんて、ほんと大したことないなぁ、と思ったことである。

2007年10月8日月曜日

唐組 眠りオルゴール

07/10/2007 ソワレ

開場前並んでいたら、くつ袋の使い道を説明していた。そうか、最近の客はくつ袋なるものに慣れていないのか...そういえば、唐ゼミを観たときに 唐さんが来てたので、それとなく「唐さんが来てますね」と隣で並んでる人に言ってみたら、「唐さんってどんな人か知らないんですが」。そういう時代だ。

それにしても不思議なのは、これだけ巷に芝居が溢れている中にあって、赤テントよりも面白い芝居が滅多に無いということだ。去年帰ってきた当初は、自分の中のノスタルジアが「赤テント面白い!」と言わせているのかもしれないと思っていたけれど、どうやらそうではない。

赤テントの芝居には、特に観客の妄想力を掻き立てる仕掛けなど施されていない。それでもなおかつ掻き立てられてしまうミソは、作・演出の妄想力そ のものである。本当に、唐さんの傍若無人で巨大な妄想力に対峙するのは大変なことで、勿論そこに巻き込まれぬよう半歩引いて観ても充分エンターテイニング だし、半歩踏み込めば、大嵐の中で脳味噌を直接剣山でチクチクつつかれているかのような、頭の中がかゆくて仕方が無いことになってしまう。

それが毎回楽しみなのだ。
そして、「どうやっても唐さんを超えることは出来ないな」と、超えることを試みすらしていないくせに、生意気にも思ってしまったりするのである。

円 天使都市

07/10/2007 マチネ

芝居、立ち上がらず。
三谷・平木夫婦の「いかにも老人」な演技が気になって気になって、ひょっとすると壁の向こう側では芝居らしきものが進行していたのかもしれないけれども、僕にはその壁の向こうが見えない。一体どう観ればよいのか?

作者はプログラムの中で、「俳優はある人物を演じる以前に、報告者としての立場を守らねばならない」と書き、「母語を外国語のように聞きたい」と書く。
そこに当てはめて舞台の上で発せられる言葉に耳を傾けると、どうやら、次のように思えてくる。

俳優達は、一つ一つの言葉に対して浮かぶイメージを慈しみ、それが充分に一言一言にこもるように台詞を発することを求められている、のではないか?
そのことで、言葉の持つ「歴史」を示そうとしているのではないか?
従って、作者の要求その一、「報告者の立場」は、当初から逸脱されている。どちらかといえばワイドショーのレポーターである。下世話だとか下品と か言っているのではない。報告者としての立場を忘れ、「自分の歴史・ものの見方」を露骨にある事象に嵌めこんで、そこに疑問を加えぬまま発信する態度のこ とである。

そして第二に、「母語を外国語のように」発信するには2つの通り道があるはずで、一つは、母語としてのコンテクストとなりかねないものを徹底的に 剥ぎ取るパス。もう一つは、個人としてのコンテクストに徹底的に拘ることで、聞き手が母語として認識するものとの差異を浮き立たせるパス。
この演出では、後者を選択し、しかもそこで、「差異」について自覚的でない、つまり、徹底的に個人に拘ったものが「聞き手にも共有しうる」と、かなり楽観的に信じている気配がした。

そういうことばかり考えて観ていた。

一つだけ。実は、「老夫婦」は記憶を辿る存在としての、「若い2人」は現在に目を向けるレンズとしての役割を、アプリオリに期待してしまうのだけ れど、芝居の中ほどで、どうも、老夫婦こそが現在を生き、過去を忘れ、その一方で若い2人が過去に囚われ、前に進まない、というねじれが起きているような 感覚に襲われた。それが、やはり松田氏の書く「都市であると同時に廃墟であることの二重写し」であるならば、その効果は少なくともそこはかとなく、発揮さ れていた、ということは言えるのだろう。他の演出でも見てみたい。もっと剥ぎ取っていく演出で。

2007年10月7日日曜日

文学座+青年団 その行間まで、100km

06/10/2007 ソワレ

つらかった。
餓死した母子の母の手記と、そこに書かれた日付・時刻での自らの高校時代を照らし合わせて、そこに生じる「自分の」感慨が舞台に載せてある。
その感慨を舞台を使って観客に説明してくれても、少なくとも僕の何かを刺激するものにはなり得なかった。

テクストを「読む人」たち。彼らの声はどこへ向かうのか?僕にはそれが、行き場も無く中空をさまよっているだけに聞こえた。中途半端な抑揚やおどけがその辛さを目一杯誇張する。
「そもそも、手記のテクストだってどこへ向かうというわけでもなかったのですから」
という向きもあろうが、それを口に出したとたんに、作者にテクストの何が響いたかを探る糸口は完全に閉じてしまうだろう。

同じ、活字になったテクストを舞台に載せる試みでも、燐光群の「放埓の人」は格段に上出来だった。読み手(黙読)としての坂手洋二と、読み手(音 読)としての役者達と、身体と、役のキャッチボールと。そういうごった煮を舞台にぶつける中に生まれる隙間に、観客はスルリと割り込んでいくスペースを見 つけることが出来た、気がした。
今回の公演にはどうにも入り込む余地が無い。

また、「演技」もつらかった。なぜテクストを読み上げる母の声はあんなにも辛そうなのか。なぜ腰を曲げるのか。そこに作・演出の想像力はどう働いているのか。観客はどこに想像力を働かすのか。どうにも厳しい。

唯一何かが起こる予感がしたのは、寝たきりの息子の足の裏だけだ。そこには何かが生まれる気配があった。気配だけだったけど。

jorro mirror

06/10/2007 マチネ

5月のトライアウトに続き、2度目。

先に、終演後の客出し曲のことを書く。おいおい、赤羽の団地の話をしといてエレカシで〆めますか!! それじゃまんまじゃねーか。
いっておくが、小生も北区生まれの不惑過ぎである。北といえば「赤羽」を指し、南といえば「池袋」を指す、そんな町で幼少期を過ごした。
ビバ、北区! 北区万歳! 東急線ナンセーンス。
が、みやじの曲は、「愛と夢」より新しい曲は一切聞かん。だから今日かかった曲も知らん。

横道にそれたが、そこらへんの、赤羽台団地と家賃85,000円1Kのギャップをどことなく匂わせる、というのが、意図か? 赤羽人情話としてみ るなら、上手くいっていた様な気もする。「気もする」というのは、再開発後の赤羽にはトンと寄り付いていないから、その分の留保だ。

でも、芝居自体の出来は、前作の方が良かった、かな。
①前回は「飲み屋さん」という設定だったため、「一体どこを見ていればよいのか」感がより強く、狙っているであろう「リアル感」、作っていない感がより強かったこと。
②対して今回は、アパートの一室で時間を流さなきゃならないので、観客は目のやり場に困らない。すると、何が起こるかというと、
 a. プロットが決まっているだけに、一本調子になり勝ち(特に同棲相手との喧嘩シーン)
 b. 同時進行型の会話の中で、「片方が意識して会話のボリュームを下げることで、もう片方の”メインの”会話を聞かせてしまう」という、新劇な展開が時として生じる。

トライアウトの時も思ったけれども、役者がプロットにあわせて「安全策をとらざるを得ない」のではないかというところが、設定が変わるとこう出ますか、という印象。

でも、逆に言えばそれが今回も「安心してみてられる」結果にある程度繋がっているので、従って、観想を一言で言うなら、前回同様、「悪くない」。

ってことは、だ。この技量で、台詞書く段階でもっとギリギリ詰めれば、もっとスゴイこと出来ると思うんだけれど。前回の感想と似てきて恐縮だが、今回も、これが正直な気持ちです。

2007年10月1日月曜日

東京デスロック 演劇LOVE 3本立て

30/09/2007

「社会」「3人いる」「LOVE」の3本立て、初日一挙上演、全解説付き。
雨の原宿に集まった人々はさすがに猛者揃いで、終日原宿リトルモア地下に詰めてた観客が少なく見積もって20人はいたな。

3作を通して観ながら考えたのは、芝居を通してどう虚構(=ウソんこ)を創り上げるか、ということ。演劇の場は、作者・演出・役者・裏方・観客・ 小屋までを含めたところで成立するので、その中で、いかにして、「一観客」の地位を選び取った「僕」が自分なりの虚構を仕立てて遊べるか、それに向けて、 「作り手」がどんな仕掛けをこしらえてくれるか。そういうことです。

舞台の上に載っている役者の身体は、ウソをつけない。役者が「僕は手が5本ある」と言っても、それは、無い。でも、役者が、「僕には、見えないし 触れない手が5本付いている」と言い張ったら、それは本当かもしれない。それか、役者がウソをついている。大事なのは、ウソをついているのは役者の台詞で あって、目に見えたり匂ったりする身体がウソをついていないということです。

作り手の「仕掛け」は虚構を紡ぎだす(ウソんこの世界を作り出す)起点/支点を定めていて、例えば、役者が「なんて晴れた空だ」といってみたり、 みんなでスーツを着て会社っぽくしたり、お皿を落として驚いたり、下ネタや裸を乱発して下賎な雰囲気を醸し出したり。観客はそういう仕掛けを支点にして、 エイヤッと自分の想像力・妄想力にレバレッジをかける。

前置きが長くなったが、要は、今回のデスロック3本立ては、舞台の上からミエミエの虚構構築装置を剥ぎ取っていった時に、演劇の場がどう虚構・妄想を紡ぎだせるのかを生物進化の絵本のように見せてくれる体験だった、ということだ。

<以下、モロ、ネタバレです。結論が待てない人にはこう言おう。まぁまず、観ろ。絶対に、観ろ。どうしても観れない人にはこう言おう。ご愁傷様でした。>






1本目「社会」は、作・演出本人も「スタンダードな現代口語演劇」と言っているし、まぁ、台詞の端々や携帯電話での会話(のふり)が、虚構世界を支える機能を果たしていて、あとは作・演出の話のまとめ方と役者個人個人の面白さを観る芝居、ということになる。
勿論そこでは、新劇等々の「驚いたお皿ガチャン」とか、小劇場の「逼迫雄たけびドン!」という仕掛けは先ずもって剥ぎ取られている。観客の想像力 といっても、所詮は片桐の人格とかカラオケ屋の事件とか、高山がどのパートを担当してたのかとか、まさかステージでは金髪のカツラかぶってたんじゃ、と か、その程度のもんだ。ま、それが楽しいんだけど。

2本目「3人いる!」になると、今度は、舞台の外の社会も剥ぎ取られている。この芝居でも携帯電話は使われるが、その相手「ヤマちゃん」は、実は 舞台の上に居て、話す相手になってしまったりして、要は、世界が3人の中に閉じる。「外の世界で展開する物語」を支点に想像力を発揮する機会は観客から剥 ぎ取られ、観客は、舞台の上の3人について、
・ ロジカルに考えれば誰が本物で誰が偽者か、を、考えながらみないといけない、
・ さらにふと、もっと怖い考えが頭に浮かび、あ、でもそんなことを考えてしまったなんて人に話したらただの異常な四十オヤジといわれること請け合いだ、トホホ、と独り苦しんだり、
てな具合に頭を回転させ続けることを強いられる。役がくるくる入れ替わって付いていけなくなる手前のところで寸止めを掛け、そこに観客の想像力を働かせる余地を残す多田氏の手管に脱帽する。

で、3本目、「LOVE」では、その3人の「世界」「背景」すらも取り去った状態から芝居が始まる。背景の無い剥き出しの身体を舞台に載せたとこ ろで、どうやって虚構を紡ぐことができるのか。虚構の構築に失敗したら暗黒舞踏に行って「わからんなぁ」と呟くオヤジと一緒になってしまう。
上でも書いたが、ウソをつくのには身体だけでは足りない。何か仕掛けが必要だ。役者同士が目と目でコミュニケーションして、立ったり座ったり。 3対2とか4対1で人間の関係性・政治の本質を思い浮かべるほど僕の妄想は陳腐でないし、かといってもっとすごいものが紡げるほど強力でもない。実は、途 中まで、すごく心配したのだ。
が、そこまで引っ張っておいた甲斐があったと確信した、その虚構の梃子の支点は、次の2つ:
①音楽。「これ、誰がかけたんだ?」と考える、つまり、何らかの意図を感じた途端に、世界が広がる。
②夏目登場。この男の、まるっきりコンテクストに囚われない立ちは何なんだ?強烈に色んなことを考えてしまう。

ん、と。言いたいことは。"LOVE"においては、観客は、すごく少ない小さなチャンスに自分の想像力を賭けることを強いられているのではないかと。少なくとも僕はそう感じた訳です。そういうきっかけを探しに行かないと入り込めないように出来ているのではないかと。

ちなみに、僕の感じた世界は、次の通りです:
女性達が"I Love You"と言えるのは、歌詞もそう言っているからです。
女性達は、その意味で、何か(=音楽のスイッチをOn/Offする誰か)に、その在り方を規定されている。音楽のOn/Offはその躾のプロセス。
夏目は登場当初、だれにも規定されていない。
でも、女性達から矢継ぎ早に発せられる質問に答えることで、夏目は規定されていく。一定のコンテクストに絡めとられていく。それを確かめる作業が、「あー、いーですねー」だ。
同時に質問の投げ手たる女性達も益々縛られていく。彼女達は夏目よりも一歩半だけ、余計に縛られた存在になっている。
そう考えると、「どんな○○が好きですか?」という問いかけは、夏目のLoveを規定していく過程である。Loveもまた、一定の枠組の中にて意義付けられ、規定されるべきものとしてある。

あ、これは、そのまんま、オレ自身のLoveに対する自信の無さが生み出した怖い妄想なんだ。あるいは、自分が社会に縛られていることを反映して、自分の想像力がこっちの方向に進んだんだ。

で、最後、女性達は社会に出て行く。めいめい社会に受け入れられるLoveをかかえて。しばし夏目考える。でも、やっぱり社会に出て行く。そして3本立ての1本目に戻る。

以上が、僕が"Love"から紡いだ虚構です。

アフタートークで多田氏の話したイメージと、全然違った。でも、僕にとっては僕の妄想の方が面白い(って当たり前だが)。多田氏は、そうやって勝 手な想像力が膨らむことを観客に許す。いや、勝手に膨らませることを強要する。そのための仕掛けだけはちょっとだけ残しといてくれている。その「ちょっと だけ」が、どんどんデスロックの芝居から剥ぎ取られていく。
非常に厳しい芝居だ。途中で「すごく心配になった」時点で、僕は、この芝居からふるい落とされそうになっていたのだ。

こんなに必死になって観ないといけない芝居なんて、ほんと、Loveがなきゃ観れませんぜ。大満喫。家族にも自慢できる。
芝居の作りのことを延々と書いたが、勿論、役者陣みんな良し。夏目・佐山はもとより、客演岩井氏、その他男優・女優、堪能しました。小屋番の女性 のたたずまいも、夏目の立ちと同じくらい美しかった。お疲れ様でした。そして何より、気持ちの良い客席・客層でした。秋のデスロック祭り。豊作である。

2007年9月30日日曜日

パレスチナ・キャラバン アザリアのピノッキオ

29/09/2007 ソワレ

人間の想像力なんてものは、実は生来備わっている人類共通のものではなくて、置かれた状況に左右されるものなのだろう。

だから、自分が、バブル期の後半から、何がリアルに見えてそこからどう想像力を働かせうるかについて考え詰めるようになったこと(=現代口語演劇 への傾斜)は、実は、「想像力を働かせうる場」を貪欲に求められるだけの余地が与えられた(つまり、他の色々な面で恵まれている、及び、テレビ等々の普及 で実は想像力を働かせる余地を失っている)上での贅沢だったのではないか、と考えながら観ていた。

すごく失礼な言い方をすると、パレスチナにいたら、そういう贅沢な想像力の働く余地があるのだろうか、むしろ、ちまちましていない想像力がガツン と効く世界なのじゃないか、と考えてしまったのだ。これは、日本で真面目に芝居をしている人にも、パレスチナで真面目に芝居を観る人にも、失礼な言い方な のだけれど。

でも、例えていうなら、「銃声」「砲弾の音」が日本の芝居で与えられるリアルさと、パレスチナ人が作る芝居で与えられるリアルさは、違う。そこに 働く想像力の度合いも違う、ということだ。日本の芝居でコーヒーカップに何も入ってないのに飲む演技をすると、「何だよ」と思うくらいに、銃声の無いパレ スチナは「何だよ」なのかもしれない。

つくづく、文化とは贅沢品である。

で、そういう文化の差、想像力の働き方の差、芝居の文法の差異を乗り越えて、きっと大久保鷹さんは素晴らしい役者だ。他の出演者を貶める積もりは 無いけれど、でも、大久保鷹、必需品であり、贅沢である。こういう役者の立ちを観ている間は、「想像力は云々」なんてぇ屁理屈は吹っ飛んでしまった。

ひょっとこ乱舞 トラビシャ

29/09/2007

やっぱり、今回も最後まで入れなかった。
芝居の入れ子の説明も(役の立て方を含め)くどい気がしたし、携帯メールを使ってみるのも、新奇な試みというよりは興味本位の帳尻あわせのようで。

でも、お客さんは喜んでいたようだ。

そうすると、時々頭をもたげる考えなのだが、「芝居の文法」ということについて考えざるを得ない。要は、文法が違う芝居にははなから入り込めない。文法が一致する芝居には、巧拙の判断、好悪の自覚がし易い、という意味である。

こないだ見た「ワワフラミンゴ」は全く文法の違う芝居で、結果観ている途中で「落ちた」わけだが、今日のこの芝居は、時々僕の文法に擦り寄ってくる感じがして、それが居心地悪かった。

その「擦り寄り」が、例えば携帯メールであり、入れ子の説明である。そういうことが無かったなら、舞踏を見るようにもっと素直に見れたのかもしれ ない(或いは、本当に「落ちて」いたかもしらない)が。しかし、「何だかわからん」芝居が続くと、却って自分の脳味噌の硬さのほうが気になってくる。ほん と、気になる。

2007年9月25日火曜日

唐ゼミ 鐵假面

24/09/2007 ソワレ

唐ゼミ初見。何といっても椎野裕美子。口も大きいが声もでかい。映える。これだけで、観に来てよかったと思う。
男優陣、いい面構え。顔の崩れた人がいないのは、若いからか?
女優陣も良い。何が良いって、ひょっとすると、唐組の「中年男優陣+一回り年下の女優陣」という構図でなくて、男女年齢バランスが良いのがプラスに働いているのだろうか、とも考えた。

そう。総じて、若い。それが、この、むかぁしの唐戯曲を演じるのにプラスに働いていた。勿論マイナスもあって、緩急つける手管はまだまだ研究の余地あろうし、時として「がむばってる」のが前に出ると、青臭い。

なかなかどうして、力がある劇団で、単なる「唐組 3A」ではない。是非又観てみたい。その若さの中から「アングラ古典芸能」という陰口を打破する何かも出てこようというものなので。

ワワフラミンゴ この島の話

24/09/2007 マチネ

すまん。芝居途中で寝た。5分位。40分過ぎた辺りから50分位の間。
という風に始めるのは、つまらなかったとけなすための材料ではないです。つまらない芝居であってもめったに寝ないし、逆につまらないと怒りで脳味噌が煮えてきて絶対に眠れないので。
途中で落ちていた以上、この芝居について語る資格が全面的に与えられているわけではないのだが、以下、言い訳混じりに書く。

何で寝ちゃうのか。多分、この芝居の文法が、僕の想定する芝居の文法からかなり外れていて、要は、ラジオでスロベニア語の朗読を流しているような状態になってしまったのだと。
つまり、読み取れなかったと。
そういう言い訳です。

敢えておじさんの領域に強引に持ち込んで理屈言うと、物語のスナップショットをスライドで続けて観ていると、「がちゃ、がちゃ、がちゃ」と、スライド上映機が左右にスライドを動かしている音ばかり聴こえてきて、いつしかその音のリズムに合わせて寝ていた、そういう感じか。

この芝居もそういうスナップショットのようなシーンが繋がっていて、それを観る際に、①強引に一定のコンテクストに嵌める or ②強引に役者の身体性に焦点を当てていく、その2つの対応が考えられるはずなのだが、今日の僕はそのどちらも出来なかったわけです。 何故だろう。答は出ません。寝ちゃったから。さみっと氏よ。すまん。でも、貴兄の出ているシーンでは起きていたよ(学生芝居観に来た友人みたいな台詞 だ...ますます自己嫌悪)。

2007年9月24日月曜日

鉄割アルバトロスケット たこまわせ

23/09/2007 ソワレ

えっと、楽しかったです。あんまり何も考えないで、楽しみました。

「てんごくのとびら」では本当に笑いが止まらなくて、このままではバカ笑い爆発しちまうと思ってこらえるのが本当に苦しかった。また別のシーンでは笑いが噴出する直前で暗転されて寸止めで収まっちまったり、この、間の外し方もまた気持ち良い。

このパフォーマンスに理屈や説明をつけたくは無くて、もういいや、このままだらーと楽しんでいよう。と思わせる。そこらへん、これだけ訳分かんないことやればオレタチのこと消費できやしねぇだろ、ざまぁみろ、という自信が感じ取れて、それも気持ちよい。また観に行きます。

シアターナインス シェイクスピア・ソナタ

23/09/2007 マチネ

松本幸四郎さんの演技を真剣に見るのは、「黄金の日々」をテレビで見て以来なのだが、1幕1場、何だか訳分からん悪態をつきながら登場するのを一目見て、魅了された。あぁ、この人はとってもいい役者なんだ、と。

作・演出岩松氏だから、戯曲は例によって例の如く岩松神経症芝居を期待していれば良いのだが、幸四郎以下の役者陣がそれをどう受け止めるか、というのが僕の興味の焦点だった。

で、その欲望は本当によく満たされて、松本幸四郎さんに対して岩松さんの演出が付いて、その要求を満たしながら松本幸四郎が殺しきれないものとい えば、それは「色気」とでも呼ぶべきもので目が離せないし、伊藤蘭さんは本当に綺麗で演技も「芝居臭く振舞う女」に極めて自覚的で泣かせる(割箸の思い出 には本当に泣きかけた)。堪能しました。

導入から構成、幕切れにかけて、チェーホフがすっごく意識されているから(岩松氏ロシア文学科だから当然だけれど)、岩松神経症芝居のカラーは若 干薄まっている気もするが、だからこそ柔らかでかつ毒のある戯曲に出来上がっていて、こういう芝居はもっと小さな小屋で小さな劇団がやっても充分に楽しめ る、現代の古典となってよい芝居であった。で、そういう芝居をきっちりこなして色気まで見せる松本幸四郎はやっぱりエラいのでした。

2007年9月23日日曜日

ジャブジャブサーキット アインシュタイン・ショック

22/09/2007 ソワレ

アインシュタイン来日時の中で関係者誰もが首をひねる空白の1時間。高名な博士は一体どこで何をしていたのか...という切り口自体をどうこうは 言うまい。要はその空白の時間をどう料理するかが勝負であって、例えば野田秀樹は、アポロとヒューストンの交信が一旦途絶えるところに史上最弱のボクサー を放り込んで傑作をものしたわけである。

問題は、僕が観たいのはそこで生じる狭間で「何が起こるか」であって、「その時代背景がなんだったか」の説明ではない、ということだ。野獣降臨で 東西冷戦とかケネディの演説とかフルシチョフとか出してきて1時間半解説されても全く無価値だったろう。このアインシュタイン・ショックで、アインシュタ イン博士来日の際の巷の様子、科学者達の行状を事細かに解説されても、無価値だ。

ネタ本をそのまま台詞に乗っけることが100%ダメだと言っている訳でもない。燐光群の「放埓の人」は、沢野氏の著作の切り貼りを台詞にしているにも拘らず、役者の身体をフルに稼動させて力ずくで成立させてしまう素晴らしい舞台に仕上がっていた。

メッセージというか、動機というか、そういうものも否定しはしないし、それらが伝わるために、時代背景の説明やら本の台詞やらが必要なのならそれ はそれでよい。ただ、料理の仕方、舞台での見せ方にはもっと気を遣うべきで、そうでないと、2時間無駄だったとは言わないけれど、1時間半無駄だった、と 思わざるを得なくなってしまうのである。

遊園地再生事業団 ニュータウン入口

22/09/2007 マチネ

難しい芝居だ。何が難しいかといって、
①リーディングもプレビュー公演も観ていて、戯曲もカッコいいし方法論的な遊びに満ちていてそれがトンがっているし、宮沢氏の「ノイズ文化論」もとっても良い本だったし、とても楽しみな公演だった。かつ、「その」期待に十二分に応えていた、のに、
②じゃあ、この芝居をみんなに薦めるかといえば、うーん、と思ってしまうかもしれない。
というところが悩ましいのだ。

適当な言葉を見つけるのに苦労するが、強いて言えば、「危ない感じがしなかった」ということになるだろうか?ここでいう「危なさ」とは、端的に は、イオネスコの授業でマリー役の角替さんが登場する時、必要とされるシーンの2分前に上手から出てきてツーッと下手の窓枠の下まで行って、そこで1分以 上じっと佇んで声をかけられるのを待つ、そういう危なさである。

「ニュータウン入口」、みんな良い役者なんだけれど、作・演出の掌の枠から外れていない気がして。作・演出の意図する「排除されるものとしてのノ イズ」を説明するために、自分の身体性のノイズを殺してないか?あるいは、コンテクストの中でノイズととられるであろうノイズを選び取って舞台に載せてい ないか?

その意味で、ビデオカメラの多用は吉。生身の身体と画像の「ヒト」とのズレとリンクの気持ち悪さは、役者の立ちに関係なくノイズを発生させるからである。ハードウェアとして、観客がノイズを知覚する触媒として機能していたと思う。

いや、ひょっとすると、知覚器官としての僕自身が、宮沢さんのイメージする身体性を伴った劇言語と、そこから発せられているノイズの在り方についていっていないだけかもしれない。分からない。

知覚や意識等々を一つのコンテクストに絞り込ませず、むしろ拡散させながらイメージを押し広げて行こうとする。だから遊びを舞台の中に埋め込ん で、舞台のルールをも徐々に侵食しようとする、それら全ての試みが非常に魅力的かつ刺激的なのだけれど、それらのスキゾな(ちょっと恥ずかしい言葉だが) 振る舞いが、最後のガザの画像の問題意識のコアと上手くつなげられない。口の悪い言い方をすると、アリバイ作りに失敗した感じだ。

この芝居について書きたいこと、言いたいことはもっともっと沢山ある。そういう材料が本当にふんだんに惜しげもなく投げ込まれていて、豊かで、きっといくら付き合っても飽きない芝居なのだ。でも、手放しで「素晴らしい」とは言えないのだ。

次も、又次の公演も、きっと行く。そして、一つ一つの試みをめんたま飛び出るくらいに一生懸命見る価値がある。そうしているうちに、何か、本当に とんでもないものが出てくる可能性があるのだ。昨年・一昨年といいところの無かったアーセナルだって、今シーズンは6試合で勝ち点16、Adebayor も花開いたんだから。そういうことなんだ。きっと。

2007年9月21日金曜日

東京乾電池 ここに弟あり

20/09/2007 ソワレ

月末劇場3度目。前2回の半券を忘れて、手ぬぐいをもらい損ねた。次回忘れないようにしよう。

岸田戯曲。確か、青山円形でのナイロンの芝居の中にも入っていた。そうか、単品で観ると30分くらいの芝居なのか。

新人公演というのも楽しみで、それは、
①どんな人が乾電池で新人なのだろうか?
②乾電池の新人はどの程度新人なのだろうか?
という、ほとんどくだらない興味なのだけれど、まぁ、そんなものです。僕が芝居観る態度なんて。

男優2人が、何だか、もがいている感じがした。懸命にひっかかりを克服しようとしてそこが解決しない、苦しい感じ。言い方を変えると、力が入っていた、か。女優の方は、演技が太かった。堂々たるものであった。
ということで、乾電池の新人男優2人は新人であると呼ぶに足るくらい新人な匂いがして、それが面白かった。女優は新人らしからぬ、と言わせるような、そういう新人の匂いがして、それも面白かった。

1500円で30分、会社の帰り道。なんだか、南半球産の手ごろな値段のワインをあけてみて、予想外に美味しかったり、「あ、こんな味を目指して んな、でも、ちょっと届いてないな」とか思いながら飲んで、さっと家に帰る感じだ(すいません、こんなこと書きつつ、小生ワインは全く分かりません)。 あぁ、楽しかった。

2007年9月18日火曜日

26.25団 博愛

17/09/2007 ソワレ

これが何だか、面白かったのである。王子では往々にしてこういうことが起きる。

「割と閉じた特殊な集団」、「周囲のコミュニティとの軋轢」、まぁ、ありがちかな。ちょっと舌足らずな話し方、香港系を名乗る妙なアクセント、どういう積もりなのだろう。と、いうネガティブな印象から入って、ラスト、人間関係の色々な気持ち悪いバランスが崩れて終わる。

この、ありがちな話が最後まで見られたのは、専ら、①役者、特に高校生3人+女子大生2人 が面白かったこと、②作・演出の細部でのセンスが妙に面白かったこと、の2点による。
逆に大人役は、乱暴なところのある物語を進める役割をしょわされて、割を食った印象。

前半から中盤にかけては、だから、高校生や女子大生のシーンを面白がっていた部分があって、「あぁ、こんな感じで終わるのかな」と予想を立て始めたところに、

「ちょうさん+マザー 2人語りのシーン」である。香港人が、椅子を持って来ようというのか腰を上げ、でもやっぱり先の二人を追って出て行こうと いうのかドアまで行って、半開きのドアをきちんと閉めてから戻ってきて腰掛けるシーン。この、「半開きのドア」にちょっとドキッとした。あぁ、こういう演 出が出来るんだ、と。

つづいて、女子高生2人が飛び込んできて、一人の腰が立たなくなる。そこですかさず、「ファイトォ」である。それもメゾピアノで。やられた。

この2つの小技で、一気に続きが楽しみになっちゃうんだから観客と言うのは現金なものだ。

それがラストになってがなり合いかよ、と再び引きかけたところで、意外なオチで見せる。これが妙な後味の悪さにつながって、又一つ忘れられなくなる。

戯曲の構造はまだまだ改善の余地があって、お客女子大生2人は折角面白かったのに最後宿に戻ってこなくて、「一体どこに行っちまったんだよ」と思 わせるし、よくよく考えてみたら、舞台の民宿の商売を説明するだけで役割終わっちゃってるし、熱血先生は理由も無く船に遅れるし、なんちゅう乱暴な進め方 や、と思う部分もある。

また、当パンで「様々な考え方を持った人間を描く」といっている割には、ラストに持っていく時の視点が、どうも姉に偏っている(移入しすぎてる) 気もするし(あ、でも、そうやって偏った持っていき方をするからこそオーラスのオチが映えるのか?)、そこら辺、もっと突っ放して描いても良いかなぁ、と 思ったり。

結論。もっと上手に組み立てた次回作が観たい。

らくだ工務店 戦争には行きたくない

17/09/2007 マチネ

芝居を観ていて、実は一番気になったのは、「戯曲」なのだった。
① 「主語止め、体言止め、述語無し」台詞の多様。これは、話し手が話し続けようとして、「会話・対話の相手に流れを遮られる」時にしか成立しないのではないか。止めた後に間が空いては、ただの台詞を忘れた人と間違われても仕方が無い。
これ、間を空ける役者のせいではない。なぜなら、みんながみんな、やりにくそうにしていたから。きっと作・演出に罪を着せて差し支えなかろう。
② 最初の暗転までの40分間が、説明台詞ならぬ説明シーンになってしまって、これがつらい。
③ だから時間配分の算段が狂ったのかどうかは分からないが、後半残り20分での元ヤクザを巡るシーンが良く分からない。勿論、筋を追うだけが芝居じゃないんだけれど。
④ ②と③、まとめると、「あぁ、みんな、辛いこと抱えながらやってんだ」ということを説明するシーンはカットして構わない。辛い中で、誰が何を しているかにむしろ興味がある。もっと言うと、誰が何をするかは戯曲に書いてあるから、それはもういいや。何かをしている中で、余計な説明をそぎ落とす中 で、なおかつ役者から漏れ出してくるノイズ、舞台に突如生じる裂け目、そこのところが、僕は観たいです。

目の付け所は悪くないと思うんだけれど、消化不良な芝居だった...(なら、早く自分で書けよ、って声が天から聞こえてきそうだが...)

2007年9月17日月曜日

イデビアン・クルー 政治的

16/09/2007 ソワレ

いや、まいりました。お洒落でかっこよくて面白くて。
タイトル「政治的」というだけあって、仲間割れありひそひそ話ありいじめあり、と、政治的な仕草がパーツとして取り込まれて入るけれど、勿論ダンスなんだから物語を追う必要は無くて、ただただ目に付いた面白い動きを追っていくうちにあっという間に時間が過ぎる。

しかも舞台上手は舞台奥にかけて下り斜面、下手側は舞台奥に向けて競りあがっている斜面、オフィスの異なる部屋になっていて、右チャンネル・左 チャンネル同時並行、どちらもご覧になれます、ということで一粒で二度美味しい。動きがシンクロしても微妙に違うし、ちょっと焦点をずらして両方一遍に見 ようとして両方とも追えなくなっちまうのもまた一興である。

(あざといという意味で)エンターテイニングに過ぎる、という人が出てくるだろうな、とは思うけれど、僕としては全く構わなくて、この楽しい動きは、子供と一緒に来て、真似しながら帰り道を歩いていきたくなる。こういうダンスなら、もっと観たい。出来れば家族と一緒に。

サンプル カロリーの消費

16/09/2007 マチネ

何だかとんでもない芝居だった。2000年代後半のゴドー待ちはこんな形をとったのか、という気もした。理由は後で書く。

ほしのホールは、「小劇場」演劇にかなり力を入れている小屋なのだが、何分にも妙に間口の広い舞台で、観ていて収まりが悪い。ここで芝居を何本か 観てきたけれど、どうも、しっくりこなかった。サンプルがここで演ると聞いた時には、一体、春風舎全体が舞台上に2つは入りそうなこの小屋で何をするつも りだろう、と思ったのを覚えている。

舞台上、カーブした壁1枚。高さ2m、その上は何も無い空間。なんとも人を食った作りだ、というのが第一印象。人が出てくるといかにも人が小さい。遠い。でも、そこを自覚した芝居の作りになっている。

乱暴に括ってしまうと、「通行人の芝居」である。主役やワキ役はなくて、通行人しかいない芝居である。

渡辺香奈が引いたチョークの輪に沿って、上手から下手へ、下手から上手へ、通り過ぎる、あるいは、しばらく舞台上にいたりする。部屋の中のシーン 等々あるにも拘らず、役者がそこに『属している』感じはしない。それは、アフタートークで松井氏が「観客の視点をある特定の視点に移入させない」と言った ことときっとリンクしていて、個々の演技がいわゆる「現代口語演劇」なのに、全体として、薄い透明パネルを2枚立てて、その狭間で演技しているような薄っ ぺらさがある。それが、「通行人」くさい。そこに、昨日見た「イキウメ」の芝居風に言えば、「自と他を絶対に乗り越えない仕掛け」が設定されている。

加えて、役者個々の力は充分あるにも拘らず、松井演出は役者達が「通行人1」「通行人2」以上の個を発揮することを巧妙に禁じているように見え る。役者を見ていても、手先とか足先とか、そういう細部よりも、「佇まい」を意識させる。それは、ほしのホールで演じるという制約からなのか、とも思えた けれど。

通行人しかいない芝居なのだから、筋がどこかに行く、ということはない。それで、役者達はチョークの輪を回り続ける。どこかにたどり着く、という ことはない。歌は、手に入れたと確信した瞬間に歌でなくなる。役者達は決して待ちはしない。移動する。でも、それは、「進もうか」「あぁ、進もう」2人、 進み続ける、位の意味でしかない。

呆けた母と介護人のカタチはそのまま、PozzoとLuckyであり、HamとClovである。いつの間にかベッドの馬車は2頭立てになって、後ろから馬子も付いてくる。そうだ、きっと、オリジナルゴドー待ちのあの2人も、くるくる回っているだけだったのだ。

そうか。この芝居は、ゴゴーとディディが出てこないゴドー待ちだ。PozzoとLuckyと子供しか出てこないゴドー待ちだ。でも、Pozzoと Luckyはそれぞれ複数いる。そして、一つのPozzo&Luckyを目で追うことを許さず、複数のペアが出会う場所を、シチュエーションを変 化させながら舞台に載せているのだ。

なぁーんて、屁難しいことを考えてしまうような芝居ではあった。「通行人芝居」といったって、大枠の筋はあるし、キャラもたてているし、観ていて 緊張感を解かせない作りは素晴らしい。冒頭の渡辺香奈の立ち、米村・古館・古屋のそれぞれ種類の違う凶暴さ、等々、見所も多い。いや、ただの変態芝居じゃ ない、ってことが言いたかった訳なんです。今までほしのホールで観た芝居の中で、群を抜いて素晴らしかった。

2007年9月16日日曜日

動物電気 先輩へのあこがれ

15/09/2007 ソワレ

昔、会社の会議で、「あれ、こいつ、いっつもこの会議出てたっけ?」てぇ奴が、(想像するに)誰かの代理で出てきてて、案の定、15分くらい一言も喋らないなぁと思ってたら、いきなり
「わりぃ。部屋を間違えてた。」
と言って出て行った話には無茶苦茶笑った。

僕は開演して15分立たない間に、部屋を間違えてたことに気が付いたのだけれど。まぁ、こういうときには、間違えた奴が悪いのだ。誰がミスリードしたわけでもなく、自分が間違ったのだから。後は、楽しめるだけ楽しむしかない。

面白度ゼロ%のシーンでは、舞台の上、全員、素になってましたね。これは、無茶苦茶面白かった。それをやってのける役者とそれを楽しむ客と。また一つ、愛されている劇団を目の当たりにしたというわけです。

イキウメ 散歩する侵略者

15/09/2007 マチネ

宇宙人が侵略してくる話である。1つだけ抽象的な概念を抜かれちまうんである。怖いんである。
ただし、邂逅→謎解き→アクション→大団円
という筋道を辿るのが作・演出の意図ではないんだろう、ということは当パンからも何となく読み取れるし、観た後の感想もそうだ。

瀧川・浜田のテンションのコントラストが妙にしっくり来るのか来ないのか、何だか面白い関係を保ったまま、ラスト近くで
「君の足りないところを僕が埋めるからさ」
には怒涛の愛を感じた。良し。

だが、実はもっと気に入ったのは、「自と他の境」を抜かれた後の医師の演技。あんなに何だか分かんないところで苦労する演技を、何だか分からない ままに舞台に載せるセンスが良い。実際、自分から抽象概念が一つ抜けたら、あんなふうに対処するんじゃないだろうか(瀧川・浜田コンビのように怒涛の愛で 乗り切るなら別だが)、と思わせる。そこで引き立つのが、「自と他の境」を抜き取られて、感情移入が激しくなっちまう、というプロットを考え付いた作・演 出のセンスだろう。

が、そのセンスは実はその後の「物語」に対して妙な伏線を張ることになる。瀧川・浜田の愛のシーンにしてやられた後、ふっと考えてみると、自分が 「自と他の境」を抜かれて感情移入してたんじゃないか、と思い立つ。そうなると、オーラス、主人公たる夫婦の愛のシーンを見ていても、「自と他の境」に自 覚的な観客の眼からは「なんだかなぁ」となってしまうのである。まさに両刃の剣だ。両刃のヤイバではない。念のため。

そもそも抽象的な概念を30人くらいから一人一個ずつ抜き取ってもせいぜい30の概念だから、なかなか愛まで行き着くのには無理がある、というアラ探しは別にしても、ラストはちいと苦しかったな。

以下、結論を箇条書きで:
① このプロットを舞台に載せた作・演出のセンスと役者の技量、良し。
② 抽象概念を1つだけ抜かれた人を舞台に載せることはできるし、面白くなる。抽象概念を積み上げる人は、難易度が余りに高い。
③ 導入とエンディングをいじれば、もっと大人で面白くなる可能性あり。また、抜かれた時に目がクラッとくるのは、反則。もっと訳が分からない、普通の感じのほうが良い。宇宙人も、魂の無い感じを殊更に出すのは変。
④ メインの物語よりも、サブの瀧川・浜田に見入ってしまったのは作・演出に申し訳ないが、ま、しょうがない。役者のせいでは必ずしも無い。

2007年9月15日土曜日

鵺の会 怪談小幡小平次

14/09/2007 ソワレ

初見。ちなみに、小幡だが、おばたとは読みません。こはだ、みたいに呼んでました。

変な芝居だった。最初から最後まで変な芝居だった。戯曲が大正時代のものだというので、おじさん劇団かと思って行ったらさにあらず、演出も役者もみな若かった。

妙に突き出た花道。妙に縛られて見える役者の動き。抑揚を殺したいいお声の台詞。「SCOTみたいでしょ」という方もいたが、僕はSCOT観た事 ないので分からない。どちらかというと、縛って縛って、とことん縛ってそこから漏れてくるノイズを浮き立たせるという意味では、何だか転位21みたいだ なぁと思って見ていた。でも、見た目は明らかに転位ではない。台詞の飛ばし方も違う。

物語は当パンに全部洗いざらい書いてあるのだから、物語を追う必要も無く、あとは役者をずっと観ていれば良い。暗い色の和服が、顔と手と足袋以外 をすっぽり覆ってしまって、否が応でも顔と手と足袋に目が行く。役者、表情を動かさないので、手と足に目が行く。指が長いぞ。あるいは、和服の背を通して 背中の筋肉がプルプルしているのが分かる。役者が派手に動かずとも、飽きずに観ていることができるのだ。
女形の動きも変だ。物語をなぞれば女の怖さとか何とかなってしまうところを、そういう説明を物語りに任せてしまって、どこか他のところに居る。それが却って怖い。

書家の手になる、「能舞台の変形」の舞台も、この何だか分かんない芝居に趣を加える。物語は物語に任せて、舞台は削りたいだけ削る、そうして残さ れたのが花道、という趣向に見える。だから、花道は「客席に突き出て」はいない。両側に広がる舞台を削っていったら偶々こんな形になったのだ。

削りきったところから観客の想像力を喚起する、というのは、現代口語演劇黎明期によく使われた紋切り型だけれど、実はこういう削り方もあると思い知った。自分ではこういう芝居はしないだろうけれど、次の一歩も是非観てみたい、そういう芝居でした。

2007年9月10日月曜日

新宿梁山泊 唐版風の又三郎

09/09/2007 ソワレ

あぁ、テント芝居は、ほんとぉにえぇなぁ、これだよこれ、靴袋、等と考えつつ入場すると、そこに何とテントにはおよそ似つかわしくないベンチ席が。迷わず座った自分に「ほとんどこりゃ背信だ」と自虐の責めが入りつつ開幕。

海外に持って行ったプロダクションだというだけあって、国内版では入らないだろうような何だかお洒落な群舞も付いて、こなれた仕上がりに感じられた。ただ、こなれるというのは誉め言葉半分、そうでないもの半分なところがあって、というのも、妙に観客に優しい作りが、逆に、
「何が何だかわかんないけれどすごかった」
という、昔の梁山泊が持っていた(hopefully今も持っている)、あるいは、今でも唐組が明らかに保っている、あの感覚を殺しているような気もしたのだ。

おそらく、オーストラリア人にこの芝居を見せるときにはそれなりの「配慮」も必要だったのだろうけれど。

この芝居だけで、「ぬるい」とか言ってしまうのは乱暴に過ぎるとは思うけれど、どうなのかなぁ、と思ってしまった。ベンチ席に座っといてこういうのも何なんだが。

でも、テント芝居は、やっぱり良い。客席のどこで見ても役者が近くて、「肉声」を感じる。照明にてらされて蛾が舞うのも風情があって、その風情は、最近増えた幾分冷たい感じのする劇場では味わえない。これから始まる井の頭公園野外劇フェスタ、楽しみです。

smartball The Perfect Drug

09/09/2007 マチネ

うーん、もったいない。
去年、王子小劇場で前作を観たときに、最近の若い役者達があまりにも当たり前のように「クサい台詞を排除した」「現代口語演劇」を何の苦も無くこなして、プラスアルファで何をしようかと考えているのを目の当たりにして、とっても驚いたことを覚えている。

もったいない、と言う理由は、そのプラスアルファが、「ストーリー」だった、ということだ。

いくらクサくなくしても、説明台詞は説明台詞でしかないし、ストーリーの展開に縛られた演技はそれ以上のものにしかならない、と僕は考える。役者から発せられているはずのノイズが、ストーリーにかき消されていた。

僕らが生きている世界のノイズを拾ってきて、それをどう提示するかという問題意識には異議なし。でも、ドロドロの、おそらく現実の世界に近いのだ ろうものを持ってきて、はい、これがリアルなノイズだよ、って言われてもなぁ。ノイズは前景に阻まれてこそノイズである。前景にバーンと出しても、それ、 「ノイズを有難う」の世界ではないのか?
それは、「感動を有難う」と同じ打ち出し方なのではないか?

だから、青年団の「smartballと比べればはるかにお上品な」芝居の中に、ふと立ち顕れる裂け目が、実はsmartballの暴力シーンよりもはるかにゾゾゾゾっとなる気持ち悪さだったりするのだ。
逆に、The Perfect Drug のラストシーンは、ドリフの前半の舞台の終わりの「ちゃちゃちゃ ちゃんちゃかちゃっちゃ ちゃんちゃかちゃっちゃ ちゃちゃーん、ぱ、ぱらっぱ、ぱっぱー」という、あのエンディングに近くて、実は、極めて陽気な終わり 方だったと思う。

そのエンディングが、「セックスと暴力のえげつない世界を有難う」な観客への皮肉なメッセージであったのなら、次は、「素敵な行き場の無いストー リーを有難う」といって期待してくる観客をぎゃふんといわせて欲しいのだ。その力はある劇団だと思う。だから、今回はもったいなかった。そういう意味で す。

2007年9月9日日曜日

田上パル アルカトラズ合宿

08/09/2007 ソワレ

春風舎に行く途中で志賀さんと鉢合わせ、「菅原くんがいぃんだよぉ」といいお声でおっしゃっていたが、実際、良い。
この筋肉芝居にあって、一番筋肉の無い男が舞台をさらってしまうんだから、世の中分からないもんだ。

ただし、筋肉があろうとなかろうと、男子高校生なんてのはバカでキッチャナくて考えてることはみな一緒、なのだ。大体は。そして、卒業してから は、そういうやましい過去には目をつぶりがちなのである。そこに敢えて目を向け、かつ、花や恋や女子高生といった、実は男子高校生の隣に気付かれずに存在 していたのかもしれない(すいません。ここ、地方の男子校出身者のドリーム入ってます)、そして、テレビドラマや映画ではそれが必ずあるという風に描かれ ている物事を排除してしまうことで、田上パルは成功した。

現代熊本弁演劇でありながら、田上パルの芝居は上記に思いっきりレバレッジをかけて劇的である。

田上氏が今後どれくらい熊本弁高校生ものに拘っていくかは分からないが、ここまで書けるのであれば、昔オリザが田上氏に「熊本弁なんかダメだよ。 これからは世界だよ」みたいな絡みを入れていたのも、今となっては極めてポジティブなコメントだと認識されて、つまり、どこに目をつけ、どこを芝居の始点 にするかを見定めれば、熊本だろうが東京だろうが巴里だろうが、グイッとバールに体重かけてレバレッジのきいた芝居を作る力がある、それをやれ、というわ けなのだろう。

ほんと、これからもすっごく楽しみです。

RoMT the real thing

08/09/2007 マチネ

台風9号で被害を受けた方々には非常に申し訳ないのだけれど、台風の通過、というイベントは、あたかも骨太のストーリーを持った芝居に似る。
骨太、というのは、実は、陳腐、ということにも通じる。つまり、「発生→接近→上陸→通過→台風一過」という筋書きは毎度繰り返され、それに疑いがもたれることも無いし、持つ必要も無い。芝居の筋書きの「ほれた→はれた→切れた→云々」の繰り返しと同様である。

ところが、その大きな筋書きの中で、当事者達は「自分の視点で自分が好むところの細部だけを切り取って情報を取り込む」のである。台風であれば、 自宅近くの天気、勤務先の天気、電車運行状況、道路状況云々。あるいは、雨雲レーダーの小さな雨雲のきれっぱしが自宅にかかっているか、知人の家にはどう か。真っ赤で表示されている雲はどこなのか。例えていうならそういう細部である。
芝居であれば、役者の身のこなし、ちょっとした台詞、小さな予期せぬ裂け目、そういうものである。

何が言いたいかといえば、細部がある限り、ストーリーは芝居を妨げない、という意味である。一方で、細部の集積で台風を説明することが到底不可能なのと同様に、細部でストーリーを説明しようとする芝居は破綻する、ということである。

で、何でそんなことを考えたかというと、どっかの芝居のアフタートークで、田野氏が「ストーリーをやりたい」と言っていたのを思い出したからだ。

大抵の場合、ストーリーな芝居は細部が全体の奴隷となって観るに堪えなくなってしまう、そこをどう解決するのかが興味の中心だった。

田野氏の答は、「全速力で走り抜ける」ことだったように見受けた。もともとの二幕もの芝居を2時間一本勝負で。時間をかけて遊ぶ余裕を役者に与え ず、筋力で走りきる力技に出たと見る。若い役者陣と合わせ、恰も「小型だが強い勢力を保ったまま時速30KMで北上中」の趣。そしてそれは、この芝居につ いて正解だったように思える。2時間、時計を見ずに終わった。見終わった後は、Bloc Party のアルバムを2枚続けて聴き終えた、という感じ。

全体にストイックな中でバビィの良く動く眉毛が暴れたがっていて、それを上手く不発させて良いアクセントにしていた。仲俣氏の広い背中が印象的だ。その他役者陣もよし。OASISやBadly Drawn Boyという選曲はまんまイギリスで、冷静さを失ってしまったよ。

一つ気になったのは、戯曲から伝わってくる、あるいは、イギリスにいれば極々普通に体験するところの、イギリス女性の「肉欲アブラギッシュ」感の、舞台上での欠落か。
女優が「いやらしくなければならない」とか「色気が足りない」とか言っているのではなくて、むしろ、
50になって12歳年下のボーイフレンド、とか、金曜日は香水増量、リフトが臭うぞ、といった、イギリスのオフィスでごく普通に起き、語られていることを、日本で舞台に載せたときにどう料理するか。だって、日本で「肉欲万歳!」とか、あけっぴろげにいってもなぁ。

逆に、ふにゃふにゃ、うじうじした男は日本の役者の風土によくはまるんだよな。それを評して、「だから翻訳劇はゲイものが良くなっちゃうんじゃない?」というヒトもいたが。

でも、そういうところも踏まえ、また、言葉の選び方の繊細さにも支えられ、「翻訳劇」も楽しいじゃないか、と思ったことです。楽しかった。

2007年9月6日木曜日

こまつ座+シスカンパニー ロマンス

05/09/2007 ソワレ

休憩を挟んで3時間の芝居が最後まで途中退場なしに観れたのは経験豊かな役者によるところ8割(あとは意地)。ただし、観ながらずっと感じていたのは、
「この芝居を観ている人たちは一体どんなことを考えているのか?」
である。皮肉でなくて。

①スタニフラフスキに、「ペテルブルクの芝居は大げさすぎる。クサい」と言わせながら、当のスタニフラフスキがチェーホフにキツイこといわれてコーヒーカップかたかた鳴らす演出について

②オルガとマリヤが「リアルな芝居」について話していたところに入ってきたチェーホフが、入ってくるなり驚いて鞄の中身を放り出して尻餅をついてしまうことについて

③トルストイに、「芝居というものは物語を始まりから始めて終わりに向かわせていくものだ。チェーホフの芝居は逆立ちしている!」と言わせ、 チェーホフにそれに反論させながら、実は「ロマンス」はチェーホフの作家としての人生を始まりから始めて終わりまで追っていることについて。

真剣に。観客のみなさん、どうお考えなのですか?
よってたかってオレをかつごうとしているのですか?

これは、そういう演劇的とされるものについてのアイロニーを描いた芝居なのですか?それとも僕はもっと素直に感動すべきなのですか?

誰か、教えて。

2007年9月3日月曜日

燐光群 白髪の房・三人姉妹

02/09/2007 ソワレ

久し振りに坂手さんの芝居を観てがっかりした。三人姉妹の方。

白髪の房は、フィリピンの戯曲家による原作の英訳をさらに和訳、という戯曲を燐光群ベテラン役者陣が演じる。芝居そのものよりもむしろ先ず、チラシに描いてある役者陣に目を奪われる。鴨川さん、天使の羽根が生えちゃって...

このテの、重たいテーマにナタで立ち向かうような、言い方を変えて訳知り顔に言えば、ちょっと古拙の香りがする芝居では、おそらく、燐光群のよう な、まさに坂手戯曲をナタで調理してきた役者が合うのだろう。そういってしまう僕は、ひょっとすると燐光群に対する点が甘くなっているのかもしれないが、 ともあれ、最後まで観れた。

嫁を見送った当日だったこともあり、自分の30年後を考えたりして、妙な気分だった。但し、涙はない。涙を誘う演出はおそらく無かったし、そうなっていたらもっとつまらない仕上がりになっていたはずだから。
2つケチをつけるとすれば、何箇所か翻訳がこなれていなかったのと、音楽の使い方、くらいか。

これに対し、「現代能楽集 三人姉妹」はがっかりもいいところで、内藤演出は不発。役者がワーワーがなるばかりで戦場の緊迫感は無く、三人姉妹も 劇中劇だからわざとダサい演技なのか本当にダサい演技なのか見分けつかず。もともとの緊迫感も無いから弔いの儀式に癒し無く、これではとても成仏できま い。残念。

狐狸狐狸ばなし

02/09/2007 マチネ

初演は3年前とのことだが、小生初見。
今年観たナイロン100℃で岸田戯曲を見事に料理する手管に見惚れ、今回はさて如何かと本多に足を運べば、ここでもさすがケラ演出、最後までこのテの芝居を観てなお飽きず、またもやられてしまった。

ナイロンの時と違うのはやはり篠井さんがいることで、篠井さんは本当に花がある。その花を引き立てるのがわれらが務めと割り切ってか、ラサール石 井・板尾創路、ともに身の程知った大人の演技を感じさせ、六角氏もこういうアンサンブルの中で観ると活きるといって差し支えない。こないだのコクーンとは 大違いだ。

ケラ氏曰く、これは軽演劇であると。まさに。この軽さで最後まで走りきる手管はまさに名人芸で、実は全くテキトーとは対極にあるこまかぁい演出が入っているのだろうと思いつつ、それを忘れて見入るのもまた、小屋の大小に関わらず、芝居の楽しみの一つである。

2007年8月31日金曜日

東京乾電池 小さな家と五人の紳士

30/08/2007 ソワレ

実は、この、月末劇場、非常に気に入っている。8時始まり、1時間少々の短い芝居を2000円で。
気分としては、ちょっと一杯芝居を引っ掛けて帰る風情だ。
場所も良い。花園神社の裏、ゴールデン街のほとり。僕はゴールデン街で飲んだことは大学1年の秋以降無いのだけれど、まあ、気分としては、ちょっと一杯芝居を、という気分なのだ。

若い役者が、余計な色をつけずに演じるのも良い。
妙に趣向を凝らしたモダンなコンベア居酒屋から遠く離れて、手を加えない昔ながらの居酒屋メニューを味わう趣がある。

別役さんの戯曲、というのも趣味が良い。あぁ、不条理劇というのは、こうやって観てたら楽しめるんだ、と、素直に感じられる。僕は別役さんの戯曲をそんなに数を観ていないのだけれど、こういう演出で観させていただけるのなら、何度でも観たいと思う。

すっごく刺激を受ける、という結果は期待できないのだけれど、でも、僕が芝居を観る楽しみというのは、実はこういうところにあります。ちょっと年寄りかもしれないけれど。

2007年8月28日火曜日

田上パル、お勧めです!

26日、田上パル「アルカトラズ合宿」の通し稽古を観に行ってきた。本当は9月の本番を家族に見せたかったのだが、その前に日本を離れてしまうので、せめて通し稽古だけでも、と、劇団の方に無理を頼んでみせてもらったのである。

いや、またもや堪能してしまった。通し稽古の段階で、すでにして堪能してしまった。
妻は「役者が怪我しないか」と心配だそうだ。
娘は、間近でカツアゲや肉弾戦が展開されるのを目の当たりにして、「けっこーこわかった」といっていた。佐藤誠さんの眼も、別の意味で「いつも」怖いそうだ。

えっと、無理を聞き届けてくだすったお礼に、この場を借りて皆さんに、田上パルをお勧めします。田上パルは、本当に、面白い劇団です。みんな、観に行こう!

3行で言えば:熊本弁体育会系高校生の汗と男気と肉弾戦の青春群像劇。若い男優のピチピチした肢体がスパークする。今回は、不思議もやしくんも登場だ!

が、帰りしな嫁さんに
「これ、高校生にやらせたら面白がってやると思うんだけどな」と言ったら、
「いや、それは無理」とのこと。何故かときけば、
「高校で芝居やるような子達が、これほどまでにリアルな(=アホでほんっと何も考えてない)高校生を演じられるわけが無い」。
真理だ。だからこそ、田上パルの20歳超の連中が高校生を演じることの面白さがあるのだ。彼らは、女形が女性以上に女性らしいのと同じ意味で、高校生以上に高校生らしくなってしまっているのです。

もちろん、乱暴でスピード感溢れる役者陣をきっちり芝居にまとめる田上氏の手管と目配りも、毎回楽しみ。

この、僕にとってまさに「旬」の劇団、本番は9月5日から11日まで、アトリエ春風舎で。たったの9回しかやってません。
詳しくはこちらまで。
http://tanouepal.com/

(少しは宣伝になってましたでしょうか?)

2007年8月27日月曜日

リベールテアトル La Collection

26/08/2007 マチネ

この芝居、観終わって、うーん、とうなってしまうのは、

・やっぱり日本語とフランス語では、「会話」って成り立たないんじゃないか、と思ってしまったから
(ツレによれば、異言語でもコミュニケーションは成り立つのであって、問題は、どの言語を使うかじゃなくて、単に台詞の頭に"わざと"間をとって、しかもそれが成功していないことにあるらしいのだが)
僕は、日本人とフランス人が英語(原語)で演じても良かったのでは、と思いましたが。

・この話を「男3人に女1人が絡む」を見せてしまった時点で、「説明的なリアリズム劇」に陥ってるんじゃないか、ということ。
・この、両刀遣い3人とヘテロの女性1人という組み合わせ(要は、4人の間でどんな関係も想定しうる)がそもそもあるのなら、そういう風に、もっと何が何だかわかんなくても全く構わないんではないか、ということ。

・そもそも最後に種明かしじみた台詞が入って興ざめなのは、戯曲そのものが1961年に書かれた古いものだからか?いやいや、そうじゃなくて、もっと説明的でない終わり方もあったんじゃないのかい?演出の部分で。

うーむ。いずれにせよ、「不条理劇」ってなんなのだろうか?別役・ベケット・イヨネスコは不条理だけど。でも、これは、なぁぁ。ちょっと、退屈だったかな。1時間ちょいの芝居にしては。

2007年8月22日水曜日

サマーソニック2007

実は、年甲斐も無く行ってきちまったっす。
娘の誕生日祝いにかこつけて。

お目当ては: Modest Mouse, Bloc Party
家族の目当てはこれに加えて: Fratellis, Kasabian, OK Go, Twang, Offspring, Arctic Monkeys

自分は明らかに会場の平均年齢を引き上げていた。
Cyndi Lauper や Stranglers や Pet Shop Boys ならともかく、Bloc Partyともなるとなおさらである。

娘は「モッシング禁止」に驚いていた。
娘にとってはモッシングあってのライブなんだそうだ。
...知らなかった。こいつ、ブリクストン・アカデミーでさんざん暴れてやがったのか...
(もちろん、イギリスの野郎どもは、モッシングのさなかにレディーがこけたりつらそうだったりつぶされそうになったりすると、すかさず助けてくれて、最前列の係のおいちゃんに引き渡してくれるそうだ。いいやつ。)

2日目のアリーナ。娘はFratellis→Bloc Party、Manic Street Preachersでちょっと休んで、Kasabian→Arctic Monkeys、と、午後2時以降アリーナ(ほぼ)フル出場。すごい体力だ。妻と自分は順番で休む。
Bloc Partyは(これまた年甲斐も無く)楽しんだ。ほんと、いいバンドだ。

1日目のModest Mouseも良かった。聴いているうちに「入っていく」のを感じて、それは自分的には珍しい。

他のバンドもなかなかそれで大したもんで、Arctic Monkeysも落ち着いた大物らしい演奏でした。

そういうわけで、それこそ本当に年甲斐も無く、楽しかったっす。
「焼けましたね」とのコメントには「特に山や海に出かけたわけじゃないんですよ」と答えることにしている。正解は実は「スタジアム焼け」なんである。

2007年8月20日月曜日

あなざ事情団 ゴド侍

19/08/2007 ソワレ

先ず、シンプルに言えば、
食わず嫌い気味だった「観客参加型」芝居を、素直に楽しみました。それが驚きだった。

観客参加型の芝居は難しいとずっと思っていた。
古くは1980年代、黄色舞伎団が客をいじり倒す芝居をしているという噂を聞いて、ビビッた小生は黄色舞伎団の舞台を観ないまま今日に至っている し、最近ではPotaliveなるものも駒場近辺でやっているらしいけれども、小生、観客参加型の演劇にビビッているせいで、いまだ「ポ」の札をつけて駒 場を散歩したことがないんである。

卑近なところだと、吉本新喜劇ロンドン公演で職場の同僚が舞台に引っ張り上げられたらしいし、ドリフを観てるガキどもが「うしろー!」とか「ひだ りー!」とか絶叫するのもある意味観客参加型。あるいは、客に向かってウィンクとかあからさまな問いかけとか、そういうのは後を絶たなくて、いや、ほん と、そういうのは、(極端なポジションを取るならば、舞台上の面切りも含めて)あられもないというか、ま、つまらないことが多い。少なくとも芝居として は。

某ツレも言っていたが、「観客参加型」の芝居って、ただの「客いじり」との境界線が難しい、ということなのだろう。

で、何故僕がこの芝居を楽しめたかというのは、実は説明できなくて、つらつら考えるに、
①作・演出あるいは役者への信頼感(要は、知っている人がやっているから)なのか、
②単なる客いじりに終わらないように、本当に考え抜かれているからなのか。例えば、客が客として舞台を見つめている瞬間と、客が参加者として緊張しつついる瞬間との糊代の処理とか。
③倉品女史の満面に珠となって噴出す汗を眺めるにつけ、それを50cm離れたところで一滴も汗を流さず見ている俺は一体何なんだ、何でそんなオレ がこの舞台に参加してよいのだ?という、そこはかとない罪の意識と、とはいいつつもテレビさんに指名されてすっかり舞い上がりながら感じた照れと緊張感 と、そういう自分は何なんだと考えながら過ごす時間が楽しかったのか。
④総勢30人くらい、という観客の規模が丁度よかったのか(しかも地味な情宣なので、知人・関係者率は高かったと思われる)。

いずれにせよ、僕には面白かった。
が、本当に予備知識ない人が飛び込みで観に来ても楽しかっただろうか?それはなさそうだ。だからこそ、春風舎のような、「ある程度芝居を見ている人」が来るような小屋で上演したのだろうし、そのアプローチは非常に正しい。

あとで、ゴドー待ちの「時間をつぶす」ということをやってみたかったということを聞いてしまうと、若干芝居の意図が紋切型に落ちた気もするし、それでは朝日のような夕日を連れてに陥る危険大である。危険は大きいけれども、少なくとも僕の見た回は落ちていませんでした。

むしろ、娘の批判は僕に向けられていて、
「チャンネルを変えるときの切り替えのキレが悪かった」
そうだ。返す言葉も無い。

ともあれ、観客参加型、のパフォーマンスの意味を、もちっと真面目に考えてみよう、と思ったことです。

2007年8月19日日曜日

木ノ下歌舞伎 yotsuya-kaidan

18/08/2007 マチネ

まず、森山さんや松田さんがチラシの裏に書いているこの芝居の紹介が、難しくてよく分からないのである。
なんだかとっても誉めているようなのだが、でも、どこを良いと言っているのかがよく分からないのである。
これは、森山さんや松田さんが訳のわかんない人たちだ、ということでは、決して無い。
むしろ、このテの、なんだかよく分からないけれど誉められている劇団というのは、観てみてもやっぱりよく分からないけれども、面白かったりする、ということが往々にしてある、ということを言いたいのである。

娘と劇場に入って当日パンフを読むと、そこにある八角氏の文章も、これまたよく分からないのである。そして、客層も、森山氏をはじめ、何だか錚々たる観客な感じなのである。

客入れ時から幕の後ろでガヤガヤ無駄話していて、僕の後ろの観客が「あのイカレタ連中は何とかしなきゃなんないんじゃないの。早くやめさせなきゃ。」と言っている。その連れが、「いや、これも芝居の一部ですから」と言っている。

この趣向、この客層、一体どんな芝居になるのだろうか、と思ううちに開演。

芝居後、娘は「面白かった」そうだ。よかった。
僕も「つまらない芝居」とは思わなかった。勘違いした前衛でもないぞ。うむ。

が、何が面白かったかといわれると、これが難しい。
強いて言えば、「ずっと観ていると面白くなるんではないだろうか」という期待感が持てるという意味で、「つまらなくない」ということだったのかもしれない。

歌舞伎・現代風とくれば花組と比べてしまうけれど、ケレンとか、役者のずるさとか、そういうことを考えると、たとえフォーマットが紋切り型であろうとなんであろうと、文句なしに花組のほうが「面白い」だろう。

そうすると、この、役者も20代前半の若い方が多数を占めるこの劇団で出来ることは、きっと、古典の演目の「安心感」を揺らがそうとする試みであ るに違いない。この四谷怪談で紋切り型の古典の安心感がひっくり返ったとはとても思えないけれど(失礼!)、でも、その揺らぎは確かに感じた気がするし、 それは、芝居を観る楽しみの一つでもある。

と、こうやって書くと、イギリスの演出家がシェークスピアに現代性(同時代性?)を与えようと腐心しつつ敗れさっていく種々の事例が思い出される。
そう。シェークスピアであろうが、南北であろうが、「現代性」「同時代性」を備えるべきは観客の側であって、演出がいかに突飛なことをしてみせてもそれは100%上手くいってせいぜい「触媒」「きっかけ」にすぎない。
いかにして観客の視線の揺らぎを喚起し、同時代性を自覚させ、そこから見える古典の姿がどう揺らぎ、どう自らに関わってくるかを試すこと。それがこの四谷怪談の狙いだったのならば、それは、僕と娘には少なくとも伝わっているはずだ。

何だか難しくなってしまった。自分でも何言ってんだか、というかんじだが、でも、要は、そういう芝居だったんです。

2007年8月11日土曜日

東京デスロック ソラリス

10/08/2007 ソワレ

東京デスロック、僕にとっては今年の夏休みのメインメニューの一つである。妻と娘にとってはサマーソニックの前哨戦である。

この劇団、演出、この役者陣ではずれるわけが無い、と予め家族には断言していたものの、いざ幕前となるとさすがに緊張する。もしこれで万万が一面白くなかったら、父権の凋落間違いない。

ということだったのだが、結論から言うと、一瞬でも「もし面白くなかったら」と考えたオレが悪かった。デスロックの皆様、すまなかった。東京デスロックは疑う余地無く、今、東京で一番面白い劇団の一つだ。

こういう芝居を観ると、まずは、やはり、「クリアすべき一定のレベル」というものが芝居にはあるのではないか、と考えてしまう。この芝居はいろいろな面でこの「一定のレベル」を超えていて、凡百の劇団と一線を画す。

が、その上で、さらに、どんな面白いことが出来るのか、を考えて実践してしまうのが多田氏のエラいところで、また、デスロックを観に行く楽しみでもあり、そこに全く頭が下がる思いである。

で、そんな風に色々あったうえで、さらにさらに、舞台がはじまると役者(+舞台)を見ているのが面白くて面白くて、上手奥から下手手前まで、髪の 毛の先の育毛スプレーから土踏まずまで、何一つ見逃すまいと思って一生懸命観るのだけれど当然全てを観つくすことはできなくて、そこが芝居の醍醐味だとそ れすらも喜ばしく、また、多田淳之介のスカした手管に自分が乗せられているかと思うと心憎く、そうやって役者(+舞台)を食い入るように観ている間に90 分過ぎた。

この芝居、アゴラで火曜日までというのは本当に勿体無い。無理してでも観に行く価値あり。
娘も「かっこよかった」を連発。父権は悠々と守られた一幕であった。空腹につきアフタートークをきけなかったのが残念。

以下、内容について二、三言うと(これから観に行かれる方は、特にネタバレじゃないですが、読まないほうがよいと思います)


・誰が現実で誰が海に作られたのかが、最後まで分からないし、考えれば考えるほどいろいろな解釈ができる仕掛けになっている。それが良い。
・役者陣は事前の予想通り全員、よし。
・アゴラにプールとは恐れ入った。アイスホッケーのリンクのようなプラスチック板も良し。舞台で水掛け合ってしかもアングラにならないとは、さすがである。
・声を大きくしたり、わざと変な声を出してみせるところは、実は夫婦意見分かれたところで、「奇をてらっているわけではなくて、一定のロジック立 てをして見せ方も考えた結果なのだから可」とするのか、「だからこそ、その声の調子に頼って中盤若干だれた」というのか。しかし、一致したのは、そんな箇 所ぐらいでしか議論にならないくらいにきちんとした芝居だった、ということ。

でも、春風舎でやるときと比べて、今回はちょっとよそゆきだったかな?

2007年8月8日水曜日

ブルドッキングヘッドロック 不確かな怪物

07/08/2007 ソワレ

2時間15分、これと言った苦痛もなく観れたが(それ自体は褒め言葉ですが)、この芝居を語るのにふさわしい言葉をずっと考えた結果、まことに失 礼ながら「そこそこの芝居」という言葉しか出てこないのだ。そこそこ、と言ってしまう、その8割方は、2時間以上の芝居でそこそこ観ていられたから、とい う、まさに、そこそこのところに収まっているのだ。

何故か。多分、役者が多かったので飽きなかったのだろう。
役者5/6人でやってたら飽きて苦しかっただろうし、逆に、こんなに長くなることも無かっただろう。

虚構と現実が入り乱れる妄想芝居においては、先日の坂手作「いとこ同志」のように、あるいは、唐の芝居のように、
「結局のところどっちでも構わないのさ」
的な突き放したところが無いと苦しい。

どこでどう虚構と現実が絡み合っているかという構造自体を芝居を通じて暴いていく or 読み取らせていく or 物語っていく芝居は、どうにも苦しいし、第一、役者がつまらなくなる。倉持裕氏の「ワンマンショー」、本谷有希子氏の「ファイナルファンタジックスーパー ノーフラット」なんかもそうだった。

世界の謎解きに興味はない。役者の立ち居振る舞いになら興味がもてる。

だから、20人近い役者が入れ替わり立ち代り出てくるこの芝居を最後まで見通して、最後の最後にやはり虚構と現実の関係を説明してくれちゃうと、何ともいえなくなってしまうのだ。だから、「そこそこの芝居だった」といわざるを得ないのです。

2007年8月5日日曜日

鹿殺し 魔人現る

04/08/2007 マチネ

嫁と娘が、チラシを見て、「観に行きたい」といったのだ。本当だ。当日、娘が都合が悪くなり観れなくなって、かなり機嫌が悪かったのも本当らしい。

・・・

色んな言い方はあるのだろうが、とりあえず、沢山芝居を観ることなのではないだろうか?どんな演技にしびれて、どんな演技をクサいと思うのか。芝居が1時間半あったら、どんなときにタルいと思うのか、どういうときにぐっと客を掴んでいるのか。
もちろんそこに主観は入り込むけれど、つまり、好みはあるだろうけれど、それにしても、この芝居では、思い込み先行と言われても仕方が無いのでは ないか。自分でやっていることで他人がやっていないことがあったら、そこで一歩下がって、「何故他人がそれをしないのか」考えてみる価値はあると思う。

...なんだかじじーの繰言みたいだが、この芝居のことを考えるとそういう考えしか浮かんでこないんだ。

2007年7月30日月曜日

いとこ同志

29/07/2007 マチネ

やられました。

坂手さんが舞台にのせた世界、当日パンフを読めばそのまんまで、
「・・・本物か。・・・偽物か。あるいは、想像上の小説の登場人物が、現実の世界に現れたのか……。現実と虚構、幾層もの世界が葛藤する」
ま、ひどいこと言えばどってことのないシンプルなプロットで、
「いま、作家である女は、『最終回』を書こうとしている」
というのも、まぁ、見えているといえば見えないことも無い。
となると、この芝居の素晴らしさは、この、少しでもやり方を誤ればただの紋切り型に落ちてしまいそうな(好意的な言い方をすればクラシックで骨太な)プロット・モチーフを、素晴らしい芝居に仕立てた作・演出+役者陣、ということになるのだろう。

小説家の妄想と現実、妄想の中の(もしかすると現実のかもしれない)登場人物達の妄想(かも知れない、現実かもしれないもの)と現実(かも知れない、妄想かもしれないもの)、そしてそれ全体をくるむ作者の妄想。
および、「とはいっても、現実としてそこに在る」舞台上の役者達。

それらの織り上げる時空を、唯一つの解釈に導こうとするのではなく、観客に任せてしまう手管は見事。
そして、妄想だろうが現実だろうが関係の無いことよ、と言わんばかりに「ただ舞台に在り」続ける渡辺美佐子さん、素晴らしい。

相変わらずの坂手風台詞回しも、この舞台の上では(クサい言い方だが)自然に捉えられて、2時間経過する頃には、舞台上の渡辺ワールドから下車したくなくなっている。

おセンチなエンディングだとちょっとだけ斜に構えてみせようとしても、芝居の力強さに引き寄せられてぐっと涙が出そうになるのをこらえて客席をで たら、坂手さんがロビーに出てきていて、会釈して二言三言交わそうとしているうちに思わずうわっとこみ上げてきて、それをごまかすようにそそくさと東京芸 術劇場を後にした。

2007年7月29日日曜日

ハイバイ ポンポン

28/07/2007 マチネ

岩井さんの芝居は、毎回、「一人称」チックな視線の動きが楽しみ。それは、ストーリーラインが、主人公ないしそれに準ずる人物の始点に沿って組み立てられていく、という印象で、今まで観たところでいえば、
無外流→お父さん
ヒッキーカンクーントルネード→お兄ちゃん
おねがい放課後→志賀ちゃん
の視点に沿って時間が組み立てられていくので、
・観ていて露骨に感情移入していける。
・でも、舞台を面で観ている感じがしない。
これ、安易な感情移入を許さず、全体のオーケストレーションで勝負する青年団とは対照的だ、と思っていた。

今回も、黒田氏演じる吾郎君の一人称ラインが見事に炸裂。ひょうきん族から死刑執行までの流れには思わず腰が浮いた。
が、実は、品川カンパニーの稽古シーンも、本来は「サービスシーン」かもしれないのにも拘らず、いや、だからこそ、吾郎くんの視線に入らない役者 達が好き放題に暴れまわって、何とも楽しかったのです。強いて言えば、そこは品川氏(orお母さん)の視点にスイッチしたのかもしれないけれど。

色々言ったけれど、楽しく観た。連れも思いっきり楽しんでいた。次回以降の展開も楽しみです。

2007年7月24日火曜日

妻子一時帰国中

私事で恐縮ながら、というか、日記なんだからもちろん私事なのだが、妻子一時帰国中です。
9月頭まで日本にいます。

単身でなくなるので、あんまり勝手気儘できません。
15日から今日まで、娘の友達母子が日本に遊びに来てました。休日ほぼフルアテンド。芝居どころじゃ、(ほぼ)ありません。
もちろん妻子は100%フルアテンドでした。

で、と。一体何が言いたいかといえば、だ。
芝居観たりするよりも面白いことってあるんだな、と、いまさらのように感じたりしてるわけです。

2007年7月22日日曜日

パルコ劇場 The Last Laugh

21/07/2007 ソワレ

妻・娘・娘の友人(イギリス人、10日間の日本観光中)・その母・僕、の、5人で観に行った。
The Office や、Hitchhikers Guide の Martin Freeman だし、イギリス人ティーンエイジャーにも楽しんでもらえるかな、と思って、土曜の夜にアレンジしたわけである。

それだから、ハッスルマニアもtsumazuki no ishi も Never Lose も国分寺大人倶楽部も観に行かなかったのである。

だから、もうちょっと真面目にやって欲しかったかな。

マーチン・フリーマンは登場からして「ほらほら、みてみて、おれって、おもしろいでしょ。」なアピールが興醒め。この男、舞台で見るとこんなにタコだったのかい。
ロジャー・ロイド・パックが第二幕ペースを上げて何とかサマになったかと思いきや、ラストにかけておセンチ光線炸裂(これは役者のせいではないが)。前半ダメだと思ったものはやっぱりダメで終わったか、という残念な結果である。

我らがゲストも、第一幕終了後は余りの加速の悪さに呆然としていたが、後半のロジャー・ロイド・パックは楽しめたそうだ。

「ウェスト・エンドで上手くいくかな?」と娘の友人の母に水を向けたら、
「あの2人のリハーサルを前半に持ってこないと、お客が持たないだろう」とのこと。
僕も同感です。

チラシの英語もひどい(絶対にネイティブチェック入れてないね)けれど、舞台も所詮その程度だった。マーチン・フリーマンがパルコ劇場の拍手に騙されて、「日本の客はこんなもんか」と誤解しないことを切に願う。

2007年7月18日水曜日

蜻蛉玉 たいくつな女の日

17/07/2007 ソワレ

前回の蜻蛉玉を見て、印象として残っていたのは、
「島林愛のエゴの出し方は、何ともかわいい」
という、何とも自分の中でも説明つけがたい感想で、今回も、タイトルからして「たいくつな女の日」てなもんだから、島林氏のエゴがどんな風に芝居に反映されるのかが楽しみで、観に行ってしまった。

で、やはり、この芝居に登場する島林の分身たちは、みな、わがままだったり、エゴが前に出てきたり、扱いづらかったり、説明がつかなかったり、そして、何ともかわいかったのである。
この際、「かわいい」という感想が、男性から発せられる場合、
①男から見て御しやすい、という、ある意味ナメた感情
②男から見て「理解しがたい」ものを「かわいい」でごまかそうとする感情
③何でもいいから愛しちゃう感情
等々、色々あるのだろうが、こと、この芝居に関して言うと、(僕なりには)おそらく、
④もっと見たい、しりたい、
ということで、これは即ち、「今度の芝居も観てみたい、そこで、島林のエゴに触れてみたい」ということである。

そこで、「あたしを観て観て、受け入れて」という本谷風のゴリ押しをしないで、1時間10分でプイッと芝居を終わらせてしまうところや、色々なス テージでの人間模様にはわき目も降らずただただ螺旋階段を登り続ける島林の露出、といったおくゆかしさ、が、(僕にとっては)絶妙の引きとなっている。

もちろん、「何が描かれているか」だけで芝居は終わらなくて、舞台への載せ方の巧拙を論じることも必要なのだけれど、で、その意味で、あの、ひた すら登り続ける島林、というコンセプトも面白いのだけれど、今日のところはそういったところを棚上げにしておいて、また次回観に行こうかな、なんて思った りしています。

2007年7月17日火曜日

龍昇企画 こころ

16/07/2007 ソワレ

漱石プロジェクト、去年の夏から観始めて、「行人」「夢十夜」ときて、今回の「こころ(小生初見)」と来たが、これは、正直、苦しかった。

「私」と「友人」が先生とその妻の墓参りに来る、そこでの会話が芝居全体のフレームになっているが、龍さんと吉田さんのその会話が、何とも上手く いかない。説明台詞というよりもむしろ、「ナレーター台詞」というべきか、「現代国語読解台詞」とでも言おうか、「こころ」を読み解くプロセスをそのまま 台詞にされても、聴く方は戸惑うばかりである。

直井氏演じる先生が、漱石の書いた台詞をそのまま使いつつも芝居ならではの色気と現代性を醸し出しているのといかにも対照的で、勿体無い。

女優2人と青年役2人が(おそらく狙いとして)紋切り型であるのをベテラン男優がしっかと受け止めて味付けし、観客に届けているとの印象。全体のフレームに、多少は破れがあっても遊びを持たせておけば、もっと幅のある舞台になったのではないかと考えた次第です。

ポツドール 人間<ハート>失格

16/07/2007 マチネ

前回の「激情」を観て「二度と観ない」と書いたにも拘らず再訪。

岩瀬亮とテレビ。これだけで前半40分観ていられて、
「もしかするとこれで最後までもたせたらすごいぞ。ひょっとしてありえるぞ。他の役者は全て「声の出演」だな」
と思ったのだが、

・ それくらいにテレビの使い方が効果的で、①観客の意識を分散させる ②舞台上の時間のペースメーカーとなって、時間を流す役割から役者の意識を引き離してあげられる ということを、他の役者の助けなしで達成していた、その一方で、

・ 実は、舞台に乗っている役者の数が増えても、必ずしもそれまで以上に面白くならなかった落胆、もあった。要は、役者がいなくても、場が成立しちゃってる、という、由々しき状態が生じかねない感じがしたのだ。

暗転10回、シーン数11。10個目のシーンで突如テレビの時間が逆行して、シーン6の番組オンエアー、もしダメ人間街道をまっしぐらに突っ走っていたらこうなっていた、「こうなるはずだった」シーンをみせて、一日が終わる、という仕掛け。
「のびたの夢オチ」
だ、と割り切って劇場を出たが、

ひょっとすると、これは、突っ走るのが現実で、中途半端な生活が続いていくというのは、実は、落ちて落ちて落ちまくったヤツが刹那かいま見る夢なのではないか、と。
そういう解釈も許されるなら、そうしたい。
(でも、そういう解釈を許さないような元カノの台詞が一つあったようななかったような...)

主人公の単線ストーリーで1時間50分は苦しいか。岩瀬+テレビで1時間20分くらい持たせると、もしかするととんでもないものになっていたかもしれない気はする(いや、テレビを使う手管なんて、もうどっかで使い古されているのかもしれないけれど...)。

あ、ちなみに、この芝居には娘は連れてってません。念のため。

2007年7月15日日曜日

南河内万歳一座 滅裂博士

14/07/2007 マチネ

前回「百物語」を観たときに南河内は80年代から良くも悪くも進化・進歩していないと感じたのが残っていて、その意味で、娘には、
「お父さんはね、このテの芝居を観て面白いと思ってしまったために、芝居の道に足を踏み込んでしまったのだよ。オリザだって、このテの芝居をしようとしてたこともあったんだよ。」
という教材としてみせたいと思っていた。勿論、観ていて面白い芝居、というのは最低条件だけれど。

池袋に行くと芸術劇場前に唐ゼミがテントを張っていて、うーむ、これで唐ゼミとはしごすると
なべげん(90年代風)→南河内(80年代風)→唐ゼミ(70年代風)
と、小劇場年代別逆行三段活用、となるのだったが、それは16の娘にはちとハードすぎる、ということで断念。

で、肝心の芝居だが、滅博士の生首トレー載せ後ろ足蹴り上げシーンに一家KO負け。やられた。この瞬間に、父、勝利を確信。案の定、小屋を出ると きに娘のたまわく「話が分からなかった...でも、植木鉢つかった棒倒しは面白かった。滅博士は自分でもやってみたい」。そうだろうともよ。話の筋に拘ら ないのが80年代芝居の醍醐味よ。でもよ、滅博士の真似は、良い子はしちゃいけねぇ。一発で腰に来る。

あれ?そうそう、肝心の芝居だが、相変わらず巧拙乱れ打ちスタイルに変化なし。自らの「巧」の部分を自覚しているのかしていないのか、敢えて磨か ないことで輝きを保ち、一方「拙」の方もこれはおそらく自覚せぬままほったらかしでいたら黒光りして、「これでいいんだよ」の開き直りに凄みが滲む。内藤 氏が「うまいことやろう」と考えない限りにおいてこの劇団は下北沢三福林のような存在感を示し続けるだろう。僕は、いつかそれにも終わりが来ることを予感 しつつ、せめてそれまでは折を見て遊びに行こう、という気になってしまうのだ。

2007年7月14日土曜日

渡部源四郎商店 小泊の長い夏

13/07/2007 ソワレ

娘の夏休み「芝居養成ギプスシリーズ」第一弾ということで、畑澤戯曲。昨年夏の「猫の恋」では、やはり新劇は新劇だ、というような結論になって、 涙流して観てた娘も、「女優は何とかならんのか」みたいなことをのたもうて、我が英才教育プランは何と順調なことかと秘かにほくそ笑んでいたのだが、はた してなべげん公演の成果は如何に。

と、前置き長くなったが、やはり、力のある戯曲、安心して観ていられた。フレームの嵌め方(親子ごっこ)、紋切り型に陥りそうなシーンを救うズルさ(親子ごっこ中を時折覗きに来る佐藤誠)、泣かせ寸止めの手管(親子のシーン、ラスト)、どこをとっても、上手い。

安心して観られなかったのは、宮越氏である。実年齢80歳が車椅子に乗って登場とは。それだけで全自動卓を舞台上に置くくらいのインパクトと引力を放つ。その、紋切り型に言えば「本番中に倒れないだろうな」みたいな男優が、
「オレは余計なこと何にもしないし余計な抑揚も何にもつけないよ。年寄り臭い演技なんて一つもないよ。でも、見てみ。よーく、見てみ。」
という演技をしてみせる。まさにその「身体性」に圧倒された。これは、やられた。

佐藤誠、相変わらず調子に乗っている。どうだ、聴き取れまい、理解できまい、という津軽弁が、舞台上の人物どころか観客まで恫喝する気合である。ささきまこと氏、好感度高い演技。あざとさまでも敢えて殺して臨んでいたように窺えた。

うん。納得。でも、なんだか、まとまっていたかな。風が吹かなかった。勝手なことを言わせてもらえば、畑澤さんの芝居では、その巨体から繰り出される風が「ぶんっ」と音を立てて客席を吹き抜ける瞬間を感じたい。僕は欲深な観客なのである。

2007年7月11日水曜日

青☆組 おやすみ、枇杷の木

10/07/2007 ソワレ

意図は見えるし、やりたいこともただの猿真似ではないと思うのだけれど、いかんせん、技量に修行の余地あり。
一本調子でタマが真ん中に集まって打ち込まれる新人投手の趣である。これでは「下手オリザ」といわれても仕方が無い。
(関係者の方、余り気を悪くされないように。小生も昔は下手転位、って言われてたものです)

・舞台がいっぱいに使えていない。舞台を見せるというのは、必ずしも台詞が発せられる口元や、その台詞を発する・発せられる人物の身振り周辺だけを見せるということではない。場をもっと見せる意図を持って欲しい。
・上記の裏返しで、観客の意識をそらそう、あるいはタイミングを外そうとするときの身振り、表情、イベント、その他諸々が、あざとすぎるという か、意図としてみえすぎるというか、要は、タイミングを外そうとするカーブが見え見えでしかもキレが悪くてホームラン浴びるような感じだった。工夫の余地 あり。
・台詞の「ことば」はかなり気を遣っているとみた。だからこそ、その点については99点を100点にする野望を持って欲しい。極くたま~にある変な言葉(テレビドラマっぽい紋切り型の修飾語)がひどく耳に付く。これは、かなり練れているからこそなのだけれど。
・全体の物語の紋切り型をものともしない「何か」が足りない。あれだけ強力な青年団役者陣を揃えていてかつ足りないのだから、それは、作・演出の責任だろう。

高橋智子が何かの拍子にお茶を載せたお盆を片手でひょいと持ち上げるシーンはとても気に入った。心に残る。
こういう、なんか意図があるのかないのか、多分無いんだろうな、くらいの演出が丁度よいのではないかな、と思ったことです。次回、そういうシーンがもう少し沢山観れるだろうか?

2007年7月7日土曜日

花組ヌーベル 恐怖時代

06/07/2007 ソワレ

なんと、初日だった。
都合の付く日が偶々この日だけだったので。
今日分かったこと: 花組の2時間15分は安心して観てられる。短く感じる。
だからこそ、アリスでぎゅうぎゅうづめで正座して2時間観ていられたのだろう。

でも、前口上で、「初日は出来が悪い」なんていっちゃいかんでしょ。柄本さんの口上をちびっと見習って頂きたい、とちょっと思う。

スズナリサイズの小屋での公演は久し振りということだったが、やはり花組はさすがだ。役者が近くても充分耐えられる。
谷崎"変態大王"潤一郎先生の作品を下敷きにしているが、プロット自体はなんということも無い、「紋切り型」といっても良いストーリー、そこで思う存分暴れて遊んでみせる役者がやはり花組の醍醐味で、乾電池とやってることは違うけれど、
「所詮芝居でござんす、何の役にも立ちません」
ということを身をもって示し続ける加納一座、尊敬に値する。

2007年7月5日木曜日

下北沢三福林閉店

2007年6月末をもって閉店、と、閉じられたシャッターに張り紙がしてあった。
今にして思えば、携帯電話で写真でも撮って、なっちゃんに送るんだったか、とも思うが、そんな気にもならず、引き返した。

三福林のテーブル席でビールを一杯...本当に見果てぬ夢で終わってしまった。
こうなったら不滅のフォーメーションをちょっとばかし変えても構わない。復活を切に望む。

2007年7月2日月曜日

東京タンバリン 鉄の纏足

01/07/2007 マチネ

趣向と紋切り型が織り重ねられた何ともいいがたい芝居。

ビデオ屋の人間関係と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を思い出させる図書館の光景とを組み合わせて、バスケットボールをその入り繰りの鍵に見立てる。

紋切り型のやり取りの中にもビデオ屋の客やなにかしらの、「あきさせない or 目先を変える」趣向が用意されていて、1時間55分最後まで見せる手管はさすが高井さん手馴れたものではあるが、ただし、

・図書館で穏やかになっちゃった人たちが、子供SFの宇宙人に乗っ取られて穏やかになっちゃった人みたいにしゃべるのは、いかがなものか。
・女の子の意地悪って、あんなに紋切り型なもんなのかい?あんまり積み重なると、くどくないかい?

全体的な感じとして、仕掛けと趣向に引きずり回されて、役者の足が地についていない気がしたかな。もっとガッチリ演出つければ、趣向に関係なく濃 い空間が出来上がってたはずなのに、どうも流れちゃってる気がして。それとも、趣向と「いま、ここにいること」と、そこのバランスにおいてギリギリのとこ ろを狙っているのかしら?狙っているのだとすると、次回以降は「趣向」をある程度犠牲にして欲しい気はした。役者のコマはそれなりに揃っているのだから。

阿佐ヶ谷スパイダース 少女とガソリン

01/07/2007 ソワレ

初見の「イヌの日」で感じた「ヤバさ」のかけらも無く、純朴に人民万歳、平等万歳を、何の毒も無く素直に舞台に乗っけられると、観ているおじさんは途方にくれた。

一つには、スズナリというある程度小さな、観客席の近い小屋で演じたときにどうなるかな、という興味もあったのだが、この阿佐ヶ谷スパイダースに はでかい小屋のほうが良い。と思った。スズナリをこんなに「大きく」使う劇団は余りみたことがない(物理的に、というのも若干はあるが、「演技が」という 意味です)。
大きな小屋が似合う舞台を無理やり小さいところに押し込めているみたいで、違和感あり。

で、小さな小屋の大きな演技。紋切り型に輪がかかる。
そもそも、物語自体が、
「なんでわざわざ娘っこアイドルを連れてきちゃったのか」
という、劇中で中村まことが思わず聞いてしまうような根本的な瑕疵をかかえたまんま走っている。
そして、平等なコミューンの賛歌やらその後のコミューンの成り行きやら意外な事実やら、そういう、

「おらおらおらぁ、紋切り型だけどパワーで押すぜ、役者の面白さで突っ切るぜぇ、」

というタイプの芝居なんだから、せめて役者が紋切り型の演技をしたり、余計な間をとったり、漫才な突っ込みを入れたり、というのは削ぎとって欲し かった。そうすれば、2時間半もかける芝居ではなくなると思う。イヌの日、って、そういう、エンターテイニングな部分を削いでもなおかつ2時間超で、かつ 充分面白かったんだが。

小劇場の皮をかぶっているように見せて、根っこは意外とコンサバなんだな、と得心した。

2007年7月1日日曜日

ユニットR 吸血鬼

30/06/2007 ソワレ

岸田理生さんの芝居を観たことは、1度あったかもしれない。なかったかも知らない。いや、あったような気もする。80年代後半、スタジオあくとれにお邪魔したような気もする。気がするだけかもしれない。
少なくとも、1987年に糸地獄の糸車を借りにお邪魔したことは、ある。

いずれにせよ、僕にとって岸田芝居というのは90年代に至らず、80年代のにおいのまま止まっていて、今回アゴラに行ってみたのも、その80年代のにおいを嗅ぎに(確かめに? 見物に? 体験しに?)行った、ということなのです。

で、アゴラの雰囲気は、すっかり懐かしくなっていた。全席ベンチ椅子だったり、3階ギャラリーに12,3人も入ってみたり、何だか、この手の芝居がアゴラで観れた、というのも久し振りで、
それでは、結局このユニットRの公演には「懐古」とか「昔のアングラぽさ」とか、そういうものしかないのかと思いきや、

若い客もいて、かつ、年取った客も若い客も、この、言い方によっては古臭いところから蘇ってきた「岸田理生古典芸能」を、嬉々としてみている。

それは、一体、岸田戯曲が現代性を失わずにいるからなのか、それとも、現代性の有無に関わらず、愛されていればトシの差なんて、ということなの か、どちらかといえば後者のような気はするのだけれど、でも、そこで気取りが無いということは最小限「愛される」理由としては成立する。

で、岸田戯曲が「愛されている」という前提に立つのなら、そしたら、もちょっとモダンな演出をかけて見るのも一興かもしれない。「ぽさ」を削ぎとったところに何が残るか、それでもなお岸田戯曲は愛されるのだろうか、それをそのうち見てみたい。

遊園地再生事業団 ニュータウン入口プレビュー

30/06/2007 マチネ

いや、毎回、「方法論」の問題意識に触れるのが楽しみな芝居です。

舞台上のコミュニケーション一つとってみても
・チェルフィッチュの権化山縣氏、出てくるなり自転車に話しかける。話しかけられるはずの夫婦は、その1分後に出てきて、同じ会話が繰り返される。
・スクリーンの中で役者演技する。そのスクリーンの方を向かずに面を切っている舞台上の別の役者、スクリーンの中と会話する。
・スクリーンの中の山縣氏以下何名か、いきなり青年団モードで舞台上の役者に語りかける。身振りの無い山縣氏が新鮮。
・アンティゴネーとイスメネ、舞台上で互いに面をきったままコミュニケーションする。でも、そのコミュニケーションは実は鳩男によって運ばれている。
・もちろん、スタンダードな舞台上の対面会話もあるよ。

こういう、いろいろなモードが切り替わり入り乱れる中から何が抽出できるのか、と頑張って考えてみても、その場では置いてきぼりをくらったまま、放っておくうちに「やられた」という感覚だけが残るのが常なのだけれど。

今回、台詞の中に初めて「神戸の事件」が言及されて、それでやっと、この芝居が神戸の事件のことであると理解できた(遅い!)のだが、小生神戸の 事件の頃は日本のマスコミから遠く離れたところにいたので、予備知識/観客として共有されているはずの知識が欠落していて、ちと苦しかったかも。
ただ、まあ、本公演まではまだ間があるし、「ノイズ文化論」も買って来たし。

本当に、本公演が楽しみです。

2007年6月28日木曜日

東京乾電池 眠レ、巴里

27/06/2007 ソワレ

ゴールデン街劇場。割と好きだ。平日の8時から、上演時間45分の小品を見て、サッと帰るもよし、いっぱい飲んで帰るもよし。
この小ささはなかなか良い。

で、東京乾電池のこの芝居は、登場人物3人で、また、ちんまりとしていて良い。
巴里に遊びに来た(と思われる)姉妹の、どことなく「ごっこ」の匂いがするやり取りは、そのうち、「あ、これ、しゃれじゃなくごっこなのね」ということを露骨に匂わせて、それで終わりかと思いきや、最後、谷川昭一朗が登場する。
そこで気付いたこと。

①僕は谷川昭一朗の演技が、好きだ。ということ。プリセタでもそうだったけれど、特にこの「眠レ、巴里」では、あれくらい突っ放さないけれど持たない。
②でも、戯曲としては、最後の谷川の台詞は、全て説明台詞なのである。全て。それは、イカン。姉妹の「ごっこ性」をそのまま宙吊りにしておいて幕を閉じても充分面白かったはずなのに、なぜ全てを説明したかったのか?自信が無かったのか?

イカン。これは、イカン。でも、余計な説明台詞入れて45分。最後の5分除いて40分だったとしても充分楽しめたから、いいや。最後の5分だって、谷川氏の演技拝見できたんだから、それも、イカンの7掛けくらいにしておこう。

いや、短くて、悪くない芝居って、年をとってくると貴重だ。また、月末ゴールデン街劇場、お邪魔すると思います。

2007年6月25日月曜日

新転位・21 ホタルの栖

24/06/2007 ソワレ

前回の「嗤う女」は予想外に気に入ったので、2匹目の泥鰌を狙って再度中野光座へ。
うーん。削ぎ落としすぎてなんだか痩せてしまって、本来辿りつくはずのものも辿り付かないというか。芯まで鉛筆削っちゃったらさすがにつらいよね、というか。

ちょっとがっかりでした。

でも、やっぱり、僕は、あれですよ、山崎さんの戯曲は、好きですよ。えぇ、好きですとも。
どういう理由か分からないけれど、芝居を観ながら、
「山崎さんは、唐さんのような戯曲を書いているつもりなのではないか。結果として似ても似つかないものになっていても」という気が、少しした。独白の飛ぶ方向と、どこに結実するでもない物語を語り続けることでその場限りを永らえようとする感覚が。

今回も1時間50分、変なお洒落な芝居もどき観てるよりよほど良かったし、都合と体力が付けば、次も、観にお邪魔するかもしれません。

なぜだか、20年ぶりくらいに、「まことむすびの事件」を観損ねたことの悔しさがぶり返してきました。

ポかリン記憶舎 息、秘そめて

24/06/2007 マチネ

まさに、1時間半弱の時間を「切り取って」舞台に載せて観客に提示する、その間の時間の流し方も苦しいくらいに丁寧で、切り取られたフレームの外にあるものをこれまた苦しいくらいに表に出すまいと封じ込めながら進行する、いわゆる「静かな芝居」の王道のような芝居。

役者もクサくない、受付は総和服で圧倒的に美しい、舞台美術も(エレベーターで入場なんてアゴラでは始めてだ)気が利いていると思ったら鴉屋だった、途中出場の福士史麻の美しさに文字通り息を呑む、ということで、表立って異を唱える要素はないのだけれど。

でも、この芝居の「透明さ」「洗練」「潔癖さ」が、もう一つ、僕には居心地が悪かったのだ。
言い方を変えると、「視線の逃げ場が無くて困った」のだ。
も一つ言い方を変えると、この透明感、SN比の高い、dbxでノイズリダクションされちゃったような舞台に、本当に、戸惑ってしまったのだ。

青年団だったら古館寛治の足を見るとか、松井周の独り言を聞きつけるとか、10分間台詞がなくて所在無い役者の身体の揺れを見つけるとか、そうい う「ノイズ」の発見の場が満載である。で、青年団はそうした状況にキーになる台詞を紛れ込ませたりして、SN比を意図的に下げている。
唐組の芝居は、装置から音楽から客席から役者の靴に付いた泥から顎を伝って滴り落ちる汗まで、そういう余計なものがやっぱりてんこ盛りである。40年前のカセットテープのようなSN比の低さである。
チェルフィッチュは、身振りや口調の「ノイズ」をデフォルメすることで、SN比を意図的に下げている。

もちろん、それらは計算されていたりされて無かったりするのだけれど、無論、究極のところは、人間の生身の身体がバックグラウンドとして放射せざるを得ないノイズからは逃れようが無い。

で、ポかリン記憶舎の芝居は、そうしたノイズに、ギリギリのところまで抗っているとの印象を与えて、それが居心地が悪かったのだ。
その、こズルさのない、もしかすると100%真っ当な、ギリギリまでの潔癖さに対して、僕はどう申し開きが出来るものなのか、そればかり考えてしまったのだ。

ひょっとすると、今回の芝居はモチーフがモチーフであるだけにこうなったのか?いずれにせよ、また観たい劇団です。

小難しいこと色々書いたが、一番嬉しかったのは桜井昭子さんが舞台で観れたことかな。二番目に嬉しかったのは青年団では決して見れない福士史麻、収穫。

2007年6月24日日曜日

青年団若手 スネークさん

23/06/2007 ソワレ

そうだ。きっと、これは、「女子」な芝居だったんだ。

この芝居のコンセプトというか、意図が、僕にもずっとつかめないまま丸2日経ってしまったのだけれど、今、そんな気がしだした。
ただし、よくありがちな、「女の子」を前面に出したパフォーマンスではなくて、むしろそういうものにひっついてくる「観たくないもの」を削いでいった結果を舞台に載せたのではないか?

その結果残ったものが、舞台の上に散在する形で提示されたのであれば、それは、僕が春風舎で感じたこと:
・舞台の上の「個」の細部に注目することは非常に面白い。
・でも、全体を通した横糸が見えない。あるいは、見えてしまいそうになると逆に引いてしまうかもしれない。
そういう感想と、整合性が取れる気がする。

そもそも、男子にとっては、女子に横串を通した理解は不可能で、そんなことにくよくよしていてもしょうがない。

なので、僕に言えることは、「観ていて面白かった」ということだけで、それ以上の深い洞察は女子に任せておきます。

印象に残ったのは申ソゲの蛇のとぐろが、二回目に登場したときには短くなったこと。後半の「脱ぎ脱ぎシーン」では、きっともう一段脱皮して、両生 類だか卵だかよく分からないものになるんではないかと期待してしまったが、皆さん普通に(?)脱いでいたので、期待はずれでした。
(おそらく、そういう5流のストーリー性も、芝居を作る過程で排除されたのだと思う)

記号としての「女子っぽいもの」で女子らしさを判断されることに我慢がならない女子達による女子の世界の提示、という意味で、この芝居は僕から遠く離れたところにあり、また、その手と理解の届かなさ加減が一種の憧れを生み出した。のかな?

少なくとも、「女優さんたち、みんな、素敵でした」という台詞は吐かせない、という気合は漲っていたぞ。

弘前劇場 冬の入口

23/06/2007 マチネ

帰日して3度目の弘劇だ。いつ観てもそうだが、長谷川戯曲を福士賢治以下、永井、山田、長谷川と続く錚々たる弘劇役者陣が演じる芝居なんだから、基本的につまらなくなるはずが無い。

今回も、弘劇の、弘劇による、弘劇らしい舞台で、それだけでもう合格点になる、そういう、良い芝居だ。土曜のマチネであの客の入り具合はありえない。もっと広く観られてしかるべきである。

ただし。観ていて、一番苦しい舞台ではあった。
一幕一場面ものの現代弘前演劇が、何だか袋小路に入り込みつつあるのではないか、そういう予感がする。
「マンネリ」という言葉は当たらない。
むしろ、長谷川氏は、一幕ものの制限や、固有名詞を並べてみたり難しいことをポッと喋らせてみたりといった長谷川節へのこだわりを保ちながらも、マンネリに陥らないことへの意志をかなり強く持って戯曲を書いている。ように思える。

だから、「父の葬儀に妾の子がやってくる」という、まさにクリシェの塊のようなプロットをあえて持ってきても、そんじょそこらのマンネリ芝居にはなりえない。

問題は、すなわち、僕が苦しいと思ったのは、その、マンネリに陥らないためのミューズを、長谷川氏がひたすら自分の中に求めていっているのではな いかという懸念である。そして、そうやって自分の中だけを突き詰めていく限りにおいて、いつか井戸が枯れるのではないか、という、イヤーな予感である。

マイルス・デイビスが常に自分の周りに若くていきの良い才能を置いておいて、それらの才能の美味しいところをつまみ食いして自分のサウンドに仕上げていったような狡さは、コルトレーンのようになってしまわないためには非常に重要なのではないか。

あるいは、もし、長谷川さんが息苦しさを万が一感じているのであれば、一回、「外してる」といわれてもよいから壊してみるのも手ではないか?

斎場から見える沼の景色が、役者達の目にどう映っていたかは僕は知らない。でも、僕の思い浮かべるその沼は、美しく、さびしく、そして、水量を減 らしながら寂しい時の移り変わりを水面に映していたのです。上流の水源からパイプを引いたっていいじゃないか。それでこの美しいものが様々な表情を見せ続 けてくれるのであれば。

2007年6月21日木曜日

本当に痛そうだ。

お下劣なニュースですみません。

http://news.bbc.co.uk/1/hi/4253849.stm

日本でもひょっとしたら既に報道されているかもしれないが。

・「強く引っ張ったら取れた」ことに対する驚き。
・それをまた飲み込もうとしたことに対する驚き。
・それがAmandaの口から吐き出された瞬間と言ったら!
・吐き出したそれを、「これ、お前のだろ」と言って元の持ち主に手渡した友人の心持はいかに。
・そして、これだけのことをしておいて、「私は人に暴力を振るうような女じゃないのよ」と言ってのけるAmanda Montiよ。君は一体。

BBCの人気ニュースから引用させていただきました。

2007年6月19日火曜日

グリング ヒトガタ

18/06/2007 マチネ

上手い。上手い。も一つついでに、上手い。
とても上手く書けていて、凡百の戯曲家志望が来ていたらもういやんなって戦意喪失しちゃうくらいに上手く書けている。

登場人物の設定、過去の経緯、深刻一直線にもっていかない外し方。キャラクターも直球、変化球、ナックルボール、頭を狙ってくるタマ、と使い分けて、観客に的を絞らせない。飽きさせない。本当に(良い意味で)隙の無い、ズルい書き手だ。

で、この非常に出来の良い芝居を、僕は、
「いつ、どこで、ウェルメイドに落ちるだろうか」
とハラハラしながら観ていたのである。ウェルメイドまであと1㎜。そこで僕はこの芝居に興味を失うだろう。
と、一方で、
「なぜ、僕は、そういうネガティブな期待を半分抱きながらこの芝居を観ているのか」
とも考えていた。

その理由は、敢えて挙げるとすれば、
「観客がキョロキョロと視線を泳がせる余裕が与えられていない」
ことかな?それには、多分、二つの要素があって、
・余りにも隙が無いので、役者が駒として動くのは当然としても、観客の視線までもが作・演出の意図に100%はまるように作られているから。
・芝居のペースが割合に速くて、余計なことを考える暇が観客に無いから。

僕としては、「ちょ、ちょっと、待ってください。もうちょっと、この芝居から思いもよらぬ破れが裂けて出てくる瞬間を探させてください」と言いたくなる。
それを許さない、という意味で、非常に厳しい芝居であるともいえる。
はなから「客に100%与える」だけの芝居に走っていたら、それは、ただのウェルメイドなのだろうけれど、どことなく、僕には、「観る側の力を試されている」ようにも感じられた訳です。

次も観てみたい。目の玉をひん剥いて観てみたい。ウェルメイドに落ち込まない裂け目を、今度こそ覗いてみたい。でも、もう半分は、「ちぇ、ウェルメイドだったぜ」になるかもしれないというネガティブな期待感。本当はどっちだ?

2007年6月18日月曜日

鋼鉄村松 P型柔道一門

17/06/2007 ソワレ

この劇団名、気合入っていそうだ。
プロレス技が連続で炸裂するマッチョな劇団を予想していったら、やはりプロレス技や柔道技(タイトル通りか)が出てきた。

展開の出鱈目さも、最後、みんなで仲良く暮しましたとさ、のところも、信長観光旅行も、良い。それは、作り方としてOK。

でも、巧拙を問われれば、拙。

間を空けないとか、がなりすぎないとか、聞いて飽きる台詞は速く言ってしまって逃げ切るとか、そういうことをしてみて、テンポまで考えないと、折角の大技が活きないだろう。

若い劇団と見受けた。他の芝居(面白いのもつまんないのも)もっと観て、何が観客にとってたるい瞬間か、を覚えると、もっと良くなるんじゃないかと。
とか考えながら観てて、われながらジジ臭い。あー、やんなった。芝居そのものより、自分のジジ臭さがたまらん。
でも、僕の思ったことを素直に書くと、上の通りです。

2007年6月17日日曜日

風花水月 ホタルカワ

16/07/2007 ソワレ

チラシに前田司郎氏が「面白いかどうかは何ともいえませんが、とりあえず観てみて判断しても良いじゃないかな、と思わせるくらいの何かはあるんじゃないかな、と思わせるくらいです。まあ普通じゃないでしょう」と書いていたので、観に行った。

確かに、芝居って、観てみないと判断できないのが醍醐味なので、それは当たっていた。でも、「普通じゃない」というのは、外れていました。

祖母の葬儀にやってきた四人きょうだい。そこで展開する微妙な人間関係のさざなみ。設定としてはスタンダードで悪くないでしょう。

ただし、だ。
・ここがどこかという舞台設定の状況説明に30分はかけすぎ。嫁の台詞が、おしゃべりに名を借りた説明台詞の連続技である点について自覚できているか?これでは役者がかわいそう。
・続く20分が4人きょうだいの現状説明のおしゃべり。これも時間かけすぎ。
→ この50分間、芝居は一切立ち上がる気配を見せない。90分の芝居でこれは致命的だ。

アンケートにも書いたけれど、1時間15分くらいのところで、夫婦が頭を下げるシーン。ここから芝居が立ち上がる気配を見せる。でも、すぐ終わりに差し掛かっちゃうんだよね。
例えば、岩松芝居だったら。
「暗転板付き。畳の上で頭を下げている夫婦。"まぁ、頭上げてくださいよ。フフフ"で夫婦はけて、そこからダラダラと会話続きつつ、冒頭の夫婦の投げかけたテーゼを巡ってきょうだいの今の神経症的関係性と過去の生い立ちが...」
例えば、平田芝居だったら。
「夫婦が頭下げているところに葬儀場の係りの人が来て、段取りのことで夫を呼び出す。そうこうしているうちに、夫婦がしたい話はなかなか出来ず、話が進まなくて観客いらいらする...」
例えば、前田芝居だったら。
「暗転板付き。三女がトランプぺしぺしめくりながら、"売る、売らない、売る、売らない"とひたすら花占をやっている...」

そういう展開の方が、面白かったんと違うかい?分かった口のきき方をして申し訳ないけれど。
結論は: 説明台詞を削るのには命を賭けろ。いくら姑息でも構わない。

ワンマン・ショー

16/06/2007 マチネ

終演後最初の感想は「オレ、疲れてるのかな?」。
観ながらずっと考えていたことは、「本当に上手に書けているな」。

こんなにも上手に書けている芝居であるにも拘らず、開演から終演まで、ついに「はいれずに」終わってしまったのだ。

冒頭のシーンは、つかみとして上々、その後大団円に向けて何か仕掛けがあることを予感させる。
その後展開するシーンは適度に人間関係を「説明」しながら一方で「その場のやり取り」を展開させ、同時に「伏線」もきちんと張っておいて、ラストに向けてきっちり風呂敷を閉じる。
本当に良く出来た構造で、非の打ち所が無い。

舞台も左右の傾斜がアクセントになっていて、傾斜舞台で真っ直ぐ立ったり座ったりという演技って実はきつくって、大変だろうな、何て思いながら観ていたのだけれど。

でも、この遠さはなんだろう?
何だか、プロセニアム劇場以上にプロセニアムがはまっている感じ。芝居のテーマからいって、「作り物感」を出したいということなのだろうか?うーむ、そうだとするとちょっと違うような気もするし。
でも、役者の演技自体が気に食わないわけでもなかったんだけどなぁ...

とにかく不思議だ。小屋で観ているにもかかわらず、教育テレビで芸術劇場観ているかのように芝居が展開していくのだ。
最近読んだ本のフレーズを借りると、「一枚の薄いヴェール」が僕の座る客席と舞台の間に終始かかっていたのだ。

わざと遠く創っているのであれば、「それは違うんじゃないか」と言おう。
僕に原因があるとすると、それは、
①芝居を観るときはいつも万全の体調で
という標語か、あるいは、
②残念ながら僕の趣味は若いお洒落な感性についていけてない
のか、そのどちらかだろう。何だか、スズナリで観てみたい。
(と思ったら、次は吉祥寺シアターか。微妙なプロセニアム感ですね。)

2007年6月11日月曜日

タテヨコ企画 ムラムラギッチョンチョン

10/06/2007 ソワレ

俺、本当に、横田くんの芝居、好きだなぁぁー。好きだよ。
この劇団の芝居は、本当に、もっとたくさんの人に観てもらって欲しい。

坊さん修行シリーズ第三弾(でも僕は初めて観る)。脱走した若い僧を取り戻しに、仲間の修行僧達が田舎の旧家までやってくる。という話。

いわゆる一幕ものの現代口語演劇のカテゴリーにしっかり嵌まり込み、臭い演技を排除しつつも、飽くまでエンターテイニングに、観客を飽きさせないようサービス精神旺盛な作りこみ。

かつ、この役者たちを観よ。他で客演しているのを見ても、いわゆる獣系、鎖でしっかり繋いどかないとどんな演技するかわかったもんじゃないような役者が勢ぞろいする中で、それを立派に飼いならす演出の力にも瞠目する。
他から客演する猛者どもについても同様。

が、それらを踏まえた上で、何といってもこの劇団の物凄いところは、

「芝居全体が横田修の<いい人>な人格で溢れている」

ところである。そしてそれを、役者たちが嬉々として演じていることである。こんなに幸せそうに芝居してる連中には滅多にお目にかかれない。
(もちろん、外から見るのと実際に中に入るのとは大違いで、実話として、僕が舞台に立っているのを見て「こんなに楽しそうに芝居ができるものなのか」と勘違いして舞台に復帰したらやっぱりつらかった、という人間を一人知っている)

でも、こんな芝居、ここまでの良い仕事ができるのなら、喜んでだまされてみたい、と思わせる。

コアとなる役者だけでなく、ワキにも実力のある役者を配して、いや、本当に良い芝居を見た。
あ、そういえば、修行僧たちって、実は、アングラ正統派の三人組の流れをきっちり踏襲していたぞ。そこんとこもおじさんにとっては堪えられないかも。

シリーズ前作では舘さんが坊主頭になっていたと聞いて、それがとてもとても楽しみだったのだけれど、受付に普通の髪型の舘さんがいて、ちょっとがっかりでした。
舘さんいつもながら面白いのだけれど、お尻を掻くところはちょっとあざとすぎでした。ま、そこは、ご愛嬌、といったところで。

一体、こういう良い芝居を、どうやってもっと沢山の人々に観てもらえるようにするのか。
動員を狙って芝居を変えるのは本末転倒だろう。
逆に言えば、このテの芝居は、マス消費がしにくい、売りにくいということなのだろう。
だから、飛びつくやつらが出てこない。
ファストフードを食べるのりで観にくる客もいない代わりに、動員がブレークすることもない。
横田修の<いい人>ぶりまで消費されちまったらそれは大変なことで、1ファンとしては、このままブレークしなくてもいいかな、と思ってしまうのだが、また、それも、良くないんだろうな、きっと。

Ronnie Rocket ともだちのともだち

10/06/2007 マチネ

Ronnie Rocketと言えば、僕にとってはイングランドのスヌーカーのスター、Ronnie "the Rocket" O'Sullivan
である。
それで、この劇団名もそこから取った、わきゃないよな、と思いながら下高井戸は青の奇蹟へ。
生まれて始めて下高井戸の駅で降りた。
(後で調べて見たら、David Lynchの未完のフィルムのタイトルみたいですな。失礼しました。)

なぜ、この芝居を見に行く気になったか?
① 僕は、小さな小屋に弱い。それも、男芝居の、かつ(おそらく極端に小さい小屋での)4-5人の芝居には弱い。
② 劇団名に引っかかるものがあったから(結局は誤解だったが)。
③ チラシの時点で、90分一本勝負にこだわっている様だったから。

で、ほぼ期待に違わぬエンターテイニングな90分。
男6人、狭いアパート・喫煙所を舞台に繰り広げるなんてことはない都市伝説ホラー、なんである。
これでもかこれでもかと都市伝説を繰り出し、出てくるそばからもぐら叩きのようにつぶして時間をドライブしていく。
だが、大事なのは狭い空間の中での暑苦しい男たちのどこにも出口の無いおしゃべりであって、物語自体ではない。
物語は、あくまでも、刺身のつま。そこに好感が持てた。

そもそも僕は小さな小屋で役者が極端に近いところで演技しているのが好きで、というのも、ちょっとしたこと
(例えば、靴下の脱ぎ方とか、足の指でグーチョキパーするとか、ダンボールとダンボールの間を指で揃えてみるとか、タバコの箱とライターをずっといじってるとか)
がよーく見えて、そういうものの積み重ねが、
「作り物としてのハイパーリアル」
ではなくて、
「今、ここに、役者がいることのリアルさ」とウソンコの台詞を喋っていることとのギャップの面白さ、
に繋がると考えているからなのだけれど、この、まさに極端に狭い小屋で、そこら辺を堪能したわけです。

青の奇蹟から表に出ると、何と雨が上がっていて、暑いくらいでした。

2007年6月10日日曜日

青年団国際演劇交流プロジェクト 愛のはじまり

09/06/2007 ソワレ

蛍光灯しか付かない真っ白な舞台。役者二人、常に前を向いて台詞を言うので、台詞が相手に向けられているのか虚空に飛んでいるのかははかりかねる。台詞も独白調とやり取りが交錯して、これも、実は、慣れるのが大変だった。

あと、Transatlanticな恋愛、というのは、いくら作・演出本人の体験といっても、余りにもありがちなパターンで、正直、どうなることかと思った。

が、1時間とはいえ、最後まで観れてしまったのは、独断と偏見で断じるとすれば、役者の力だろう。

ランベール氏のインタビューでは、「俳優それぞれの内面にあるものを上手く引き出して」とあるが、正直、僕はそんなものには関心が無い。だって、 上演中の俳優は「次の台詞は?」とか「なんで今日は相方の役者はこんなふうに台詞を言うんだ?」とか考えているので、そんな内面を引き出されてもしょうが ない。だから、僕の言う役者の力は、どちらかというと、

ハードウェアとしての役者の力。

永井・荻野ともハードウェアとしての立ち居振る舞いが非常に力強く、余計なものが無く、美しい。
もし、余計なものを削ぎとって、そこに滓のように残ったものを「内面」と呼ぶのであれば、確かに内面は引き出されていた。

並びの席に、小学校に上がるか上がらないかくらいの女の子が父親と来ていて、僕としてはかなり心配していたのだけれど、彼女は最後まで集中を切らすことなく役者を見つめ続けていた。
大人の観客の中には居眠りしてる人もいて、それは、芝居中に他の観客のことが気になった身としては、多分に同情できる
(でも、僕は寝てません)。
そういうことである。
役者の手の動き、視線の動き、アクセント、台詞、それら全て、食い入るようにして見るに値する。だから、他の観客が気になってしまう僕は、失格です。
(でも、その子供は、唄の繰り返しの4番目くらいにはちょっと飽きてたかな。)

言い訳として付け加えるなら、投射される英語字幕と日本語の台詞のズレは、かなり面白かった。なので、僕の視線は、
永井→荻野→字幕→永井→字幕→荻野→永井→字幕→荻野→(ときどき客席)
というさまよい方をしていたわけです。

全体としての評判がどうなるかは良く分からないけれど、僕の印象は、役者一人勝ち。

NEVER LOSE  タバコトーク

09/06/2007 マチネ

主宰谷本氏が10何年前に芝居人生を始めた場所が当時の中村組稽古場(現在アトリエ春風舎)であるならば、僕が芝居人生を始めたころ、1987年に中村座の稽古を目の当たりにしてショックを受けたのも同じ場所だ。こっちはもう20年前になる。

で、芝居の話。一言で言うと、好感度の高い芝居。

まず、冒頭出てくる役者の顔が良い。まっすぐ椅子に向かわずに、無対象廊下と無対象の教室のドアを開けて椅子にたどり着くために、下手のへちを客に向かって真っ直ぐ歩いてくるのだが、その時の顔が良い。
大体、隠れて煙草吸いに行ったりエロ本買いに行ったり便所に立ったりするときって、こういう顔をしていた、その記憶に訴える。

そして、冒頭の台詞の掴み。「5点。」説明無くとも何のことだかすーぐに分かってしまう。おじさんはやられた。

激するとすぐがなるのはどうかと思うけれど、説明台詞とか変な伏線なしの直球勝負が好感の持てる理由。

ある日眼が覚めるとオッサンになっていた、というのも、良い。とても良い。繰り返して言わなければならないのは、ハイバイの「1年に3歳年をとっ てしまう大学生志賀くん」のインパクトにはとても敵わないからで、でも、敵わないけれど、良い、といわないとネガティブに聞こえてしまうので、繰り返して 言う。良い。

この、シンプルな直球勝負の芝居は、やはり、1時間以上は持たないだろう。この劇団は初見だったが、変化球も取り混ぜて1時間半完投できるかどうか、興味深い。スケジュールのやりくりが付けば7月の芸術劇場も是非行きたいのだけれど...

2007年6月7日木曜日

本谷有希子 ファイナルファンタジックスーパーノーフラット

06/06/2007 ソワレ

本田透氏が目を剥くだろうところの、本谷版電車男。
(2001年の芝居のリメークということは、「本谷版電車男」という名づけは当たらないかもしれないし、そもそも、俺、電車男読んでないのだけれど)

何で本田氏が眼を剥くかといえば、主人公の男が、自らの「モテの危機」について余りにも無自覚なまま、三次元の女性を受け入れてしまっているからである。
そもそも「三次元の女に用はない」はずの男が、中途半端に生身の世界に未練を残したばっかりに起こる悲劇というか喜劇というか。その中途半端さは 本田氏をして「この男はまがいものだ!!負け犬の陰謀だ!」と叫ばせるに足るであろうし、一方で、この芝居の世界がラストに向かって走っていく駆動力とし て機能している。トシロー役の高橋一生が、そこら辺の中途半端さを冒頭から「吐き気を催さない程度に分かりやすく」演じていて中々良い。

トシローの周囲に集まってくる女性達は、揃いも揃って「生身の私、そのままの私を見て見て愛して、受け入れて」と叫び続けていて、それは思い切っ て単純化すれば、二次元の世界に行ってしまった彼を生身の愛で引き戻せるはずという図式。トシローからすれば、あぁ、二次元の世界から出てこれなくなっ ちゃった僕ちんを、誰かそのままで受け止めて、そして生身の人間として愛して頂戴、という、いつか王子様が、な図式。
その図式がかっこ良いかかっこ悪いか、気持ち悪いか気持ち良いか、という区分を超えて、「あぁ!いいから、あるがままを受け入れて、認めて!」というオーラが劇中に溢れているわけである。

ここにいたって、前回の「遭難、」になんで僕があれほど不快感を覚えたかの50%、そして、今回の芝居もやっぱり気に食わない理由がやっと理解できた。
この、「現実の汚い私を受け入れて」の図式が、昔モーニングに連載していた「宮本から君へ」にそっくりなんである。
当時僕があのマンガを眼にして覚えた不快感が、本谷芝居にはあるのだ。

で、僕は非常にすっきりした気分で劇場を出た。
「宮本から君へ」が当時広く受け入れられていたことに文句をつけ得なかったように、今、本谷芝居が受け入れられる理由も何となく理解できる気がするし、それにケチをつけてはいけない。本谷芝居は、広く、受け入れられるだろう。

この芝居の舞台となっている遊園地も、実は、絶えず、「ここは遊園地なんですよーーー!」と人々の五感に訴え続けなければ遊園地として成立しないという宿命を負っている。そういうフレームをこの芝居に嵌めたところに、どことないセンスも感じたのである。

勿論、大部分において(例えば音楽や照明の使い方、説明台詞や説明シーンの多様など)本谷芝居は、旧来の芝居の文法の上に成り立っていて、これを 「新しい感性」とか「新しい芝居」と呼ぶ人の眼は節穴だろう。そして、生身を見て見てのオーラからたち現れるものについて、表現者としてどうよ、という留 保はつけたい。
でも、「何で本谷芝居をみんなが観たがるのか」について疑問を差し挟むのは、もう、やめます。

1行でいえば:
「流行る理由は良く分かった。でも、僕の趣味じゃない」

(ちなみに、前回の遭難、が気に食わなかった理由の残りの50%は、松永令子さんの演技です。あしからず)

2007年6月4日月曜日

猫の会 しゃべる猫とだらしないひと

03/06/2007 ソワレ

「ゆるい芝居」と銘打ったときに気をつけなければならないのは、「ぬるい芝居」にならないことと、「紋切り型」に陥らないことではないかと考えている。

重たい飛行機が空に浮いていられるのは高速で進んでいるからで、速度が緩んでもなお浮いていることは非常に難しい。速度のゆるい飛行機とゆるい芝居は、なかなか成立が難しいのである。

で、この芝居は、「だらしないひと」という割合紋切り型の設定に対して、「しゃべる猫」という設定を持ち込むことでモメンタムを持たせようとしているように見受けたが。

やはり苦しいのは、「猫っぽさ」とか「だらしなさ」とか、そういうものは紋切り型への罠を多分に含んでいて、この芝居もそこから抜けきれていなかったことかな。

あと、基本的なことでいうと、本来説明不要な状況の説明に説明台詞が使われちゃっていたことか。もともと緩くつくっているだけに、そういうところで推進力が更に落ちると、芝居が失速しかねない。

とはいえ、「感動させてやろう」という余計な力が入らないところから始まっていることは好感度もてる芝居でもあり、色んなテクニカルなところをチューンアップ出来たらな、と、素直に思ったわけです。

結城座 ドールズタウン

03/06/2007 マチネ

カラフト伯父さんで大泣きに泣いた小生、またも鄭義信マジックにしてやられて涙止まらず。

でも、実は、冒頭、ひょっとこの唄に誘われて人形達が登場した時点で涙出ちゃいました。そのシーンの美しさよ。こういうものこそ、子供と一緒に来たかったよなぁ。うちの娘がもっと小さいときに。

なーんて思ってしまった。
しかし、本当に、芝居小屋で笑ったり泣いたりが殆ど無い(と思っている)自分が、こんなに簡単に涙のツボに入ってしまうとは。
ゾウリの伏線にも、それを予期した時点で涙が出そうになるし、おかめの「あんたぁ」にもウッとつまってしまう。
(まつお、吉祥寺で観た近藤優花さんの「あんたぁ!」も良かったけど、こっちの「あんたぁ」も別の意味できれいだぜ!)

第一、ひょっとこの引くリヤカーのタイヤ、12インチだよ。ありえないよ。歩道と車道の間の段差、越えられないよ。そんなありえないリヤカーが坂 道を登り、街を見下ろし、山を越えてどこにあるとも知れぬ「隣の街」へ進んでいく。そのイメージだけで涙がTシャツの首周りのところまで流れてくる。傍で 見ていたらとても気持ち悪いだろう(幸いなことに隣で観ていらしたご婦人は居眠りこいていた)。

後ろからしゃくりあげる音、鼻をかむ音が聞こえてくる。後ろの席の(おそらく朝鮮半島から来た)カップルの男も、男泣きに泣いていた。そうだよな。涙出ちゃうよな。俺だけじゃないよな。

てな具合の鄭マジックだけではなくて、さすが人形芝居、MATRIXもウルトラQもNever Ending Storyも特撮なしで可能になっちまうので、そういうエンターテイニングなところも含めてすっかりやられました。

いやはや、芝居って、本当に、面白い。大いに楽しんだ。