2010年10月10日日曜日

旅とあいつとお姫様

09/10/2010 マチネ

千穐楽。甥っ子を連れて。甥っ子の小劇場初体験はアゴラで演った杉原邦生演出の「14歳の国」で、小生がナイフ振り回してしまったもんだから、実はかなりトラウマを埋め込んでしまったのではないかと反省していた。

「旅とあいつとお姫様」は、その点安心できるかなー、と思っていたら、あにはからんや、エンターテイニングでありながらも、スパンキングあり、噛み付きあり、サロメ張りの生首連発ありと、結構大人の世界だねー。母親つれてこなくて良かったー、とちょっと思う。

「鳥の劇場」の「白雪姫」もそうだったのだが、こどもに見せる芝居は、込み入った入れ子とか物語とかを使わない代わりに、動き・音・光・舞台美術の細部まで手を抜かないことが絶対条件で、この「旅をあいつとお姫様」はそこをとっても良く押さえてあって、さすがS賀先生推薦、素晴しい出来映えだった。

ロープを使った美術先ずよし。舞台上の透明の板もラスト役者がステップを踏むたびに金色の雪が舞って美しく、音の効果、光の変化、魔人のシーンのシンプルにして効果的な転換、物語における説教臭さの排除。こういう芝居を見れる今の子供は恵まれてらぁ、とつくづく思う。

しかし、である。あんなふしだらなお姫様ばかり見せられては、大人の男の子たる小生はちょっとなぁ。「本当は可愛くて綺麗なお姫様が出てくるんですよぉー」っていう引きはもうちょっと前半に欲しかったなー、あるいは、かわいいお姫様に戻ってからの事をもう少し見せてよー、とも思ったりしちゃったな。子供はどう思うか分からないけどさ。

サラダボール 柔らかなモザイクの街

02/10/2010 ソワレ

黒川さんの「ハルメリ」を西村和宏プロデュースで拝見した時も素晴しくバランスの良いプロダクションで、今回の西村演出もかなり期待できるんじゃないかなとは思っていた。その期待を全く裏切らないバランスの取れた、しかも伸び伸びとして力みやじっとり感のない舞台。堪能した。

有体に言えば「早織の一生」なんだけれど、でも、冒頭登場する車椅子の老いた早織の記憶が混濁しているのか、それとも人生のどこかで過去あるいは未来を妄想する早織がいて、その妄想が混線しているのか、いずれにせよ、島田曜蔵が歌う流行り歌でつながれる複数のシーンは、時制が狂い、記憶が混線して、首尾一貫した世界を形作っていない。それは戯曲の中で指定されているものなのか、演出の力によるものか、観客の妄想の強度に依るものなのか、そんなことはどうでもよい。要は、そうした混濁した焦点が絶えずずれていく世界が、セットの転換のない一つの舞台の中で、捩じれながら、揺れながら、「そういうもの」として一気に提示されることの快楽が重要なのだ。

惜しむらくは、後半の夫とのシーン、甥っ子とのシーンではそうした「記憶の混濁」が影を潜め、夫・甥っ子も平板なイメージに陥りがちだったこと。「混濁」しない場所では「リアルっぽい解像度」が求められてしんどくなってしまう。もう少し戯曲を書き込めばこの問題は解決されるように思われる。もっと完成度が上がれば、春風舎からもっと広い場所に出して、もっと多くの人々に楽しんでもらえて当然な作品に仕上がると思うんだけどな。どうだろう?

長短調(眺めまたは身近め) 再見

03/10/2010 マチネ

今日は身近めのライブを聴きに。

ぐおっ。やはり「眺め」のディスプレイだけで見聞きするよりも、身近めのぐっと近いところで聴いてる方がずっと気持ちよい。そして、「眺め」では気がつかなかったのだけれど、
・ テクストが「かもめ」の優れた誤意訳となっている
・ ライブの展開(そしてテクストの並び)が、もう一つの「かもめ」を形作っている
・ 従って、このライブはすぐれて「演劇」である
・ が、しかし、ライブとしても素晴しく心地よく聴ける(実際、「みずうみ」は小生の通勤時i-Podのお気に入りアルバムになってしまった)
ということなのだった。

当日のあうるすぽっとでは、2つの「かもめ」がすっごく近いところで上演されていて、それが捩じれの位置に位置しているようでいて実はぐいっと組み合わさって、1つのコンセプトにまとまっていたのだった。だから、一度に片方しか観られなくともそれは全く問題なくて、2つとも観たい人はそれはそれで2度+α楽しめるというだけの話だ。

どちらの(どちらの切り出し方をされた)「かもめ」の方が気に入るか、という違いはあるだろうけれど、少なくとも僕にとってはどちらの「かもめ」も充分にエンターテイニングで、刺激的だった。逆に、どちらか一方だったら成立していたか、となると(まるで中野氏の意図を裏付けるかのように)それは心もとない。おそらく、2つを同時に上演してこそ、この劇の時空が成り立っていたとも思われる。

創り手にとっては気の遠くなるような作業ではなかったかと思われるものの、「気の遠くなる作業を経た芝居だからよいに決まっている」というのはウソで、僕にとっては、「どちらも面白い『かもめ』だった」というのがとても重要。もしももっと労力をかけるのであれば、観客席を分離せず、むしろ、「眺め」と「身近め」を観客がゆるーく行き来しつつ、2つの舞台の時間の流れ方の違いにかるーく眩暈など起こしつつ、1時間強を過ごせるような場所が出現したらすげーだろーな、と思っちゃったりもするが、それは遥かな妄想の世界。

長短調(または眺め身近め)

02/10/2010 マチネ (眺め席)

とりあえずは、先ず、手放しで誉めてしまおうかな、と。
いや、誉める、じゃないな。それは不遜だな。気持ち良かったんだな。僕が。

眺め席から見える舞台の上の役者達を「ジャズコンボのフロントマン達」、裏でラップのライブしている人たちを「リズム隊」に例えると、この舞台はマイルスのネフェルティティのようで、つまり、フロントマン達は引っ張ったモチーフをたっぷりと、でも歌わないように演じ、その裏の空隙をラップ隊がテクストで埋めまくる。もちろん底にあるのは「かもめ」のテクストなのだけれど、次元をかえて捩じれたフロントラインとリズム隊を両方視野に入れることで、「インクのシミ」と「その解釈・上演」からさらに飛び出してくるものがある。

村上聡一と死んでいたかもめが踊りだす瞬間は、(僕には)神がかって見えて、ぞわぞわーっと、「これが『劇的』ということか」と。うん。確かにこれは「かもめ」だ。

「眺め」舞台が流す2年間と、「身近め」ライブの60分強と。この2つの時間が共存する並べ方は、toiの「華麗なる招待」の2つのバージョンの時間の流れ方の違いにも似ているなーと感じたり。

翌日には「身近め」ライブを聴きに行く予定。さて、どうなるか。

モモンガ・コンプレックス ずうずうしい、です。

26/09/2010

雲に覆われて今にも泣き出しそうな野毛山動物園。が、動物園はやはり嬉しい。今年は一人でないのもよい。

中野成樹+フランケンズの動物園物語は、どうしても「場」として動物園の大きさにしてやられた気がしたが、今年はなんといってもモモンガ・コンプレックスだけに、がっぷり四つに組むことはしてこないだろう。そうすれば、あの空間に上手く肩透かしを食わせながらエンターテイニングに展開することも可能なのではないか、と期待した。

確かに、モモコンは、空間をより自由に使って、時には不自由な空間(ワイさんち)も使って、すごくエンターテイニングだったのだけれど、でも、やっぱり何か欠けてたんだよなー。と割り切れない気持ちで一週間くらい考えていたのだけれど。

そうだ。通行人がいないんだ。動物園を形作るものは、動物と、園舎と、飼育員と、あと、大人達や子供達なんだ。そう思うと、おのずとこの企画の限界も見えた気がする。

例えば、冒頭の七人の侍も、ざわざわと人が動き回って邪魔でしょうがない真昼の動物園の中で、あたかもモーゼの紅海のように人の波がざわーっと割れてそこからあの7人のパフォーマー達が現われていたら、ものすごいインパクトだったと思うのだ。ワイさんちも、知らない子供が入っていって、お化粧中のおねーさんをいきなり見かけて泣き喚きながらでてくるとか、女の子が自分も入りたがるとか、そういう風になっていたらもっと愉快で開いていて、かつ、空間がさびしくないパフォーマンスになっていたんじゃないかと思う。

実際、動物園見学の時間帯に、檻の中のサルに向かってお話したり休憩所で集ったりしてるモモコンの面々を見つけたときには、かなりインパクトあったし。

だから、中野成樹+フランケンズの動物園物語も、昼間の、開演している動物園の中で、でもなぜかその周辺だけみんな静まり返って台詞聞いているみたいな、そこだけ時間の流れ方違うぞ、みたいな風に見れたらすっごくステキなんじゃないかなー、と思ったりするのだ(ま、不可能なんですが)。

青年団 砂と兵隊

25/09/2010 ソワレ

初演もかなり議論を呼んだ作品だとは聞いていたけれど、その評判どおり、本当に何ともいえない作品だった。

松井周作品を2つ観た後では、下手から上手へと砂の上を進む役者達はまるでジオラマの上をコンベアで運ばれる人形のようだ。この繰り返しの虚構のプラットフォームの中で、「現代口語演劇」が進行するのだが、正直なところ、その虚構のレベル感に、最後まで焦点を合わせ切れなかった。それは、青年団の芝居を見つけているはずの自分が感じる戸惑いに「不安」を植えつける一方で、「いつもの」セミ・パブリックな「ありそうな空間を」「覗き見する」感じに平田オリザと青年団が安住する集団ではないのだという点で僕を「安心」させるものでもあった。

月の砂漠でギターを弾くと、ロマンチックなどころか、音が吸われてまったく響かないばかりか、目や口や、身体のあらゆる湿った部分に蝿がたかって散々な思いをする、ということをどこかで読んだことがある。「砂と兵隊」の圧倒的な砂の上で展開される「現代口語の会話」も、いつもの「何か意図を持った空間(ロビー・客間兼食堂等)」や「具象的な小道具」の中で豊かに響きあうハーモニーの妙によりかかることを得ず、ともすれば砂に吸われる音を、懸命の「あと一押し」をもってどこかへぶつけようとしているように思われた。虚構のプラットフォームをいっそ全て取り去ってしまえば、「素舞台での芝居」と割り切ることも出来ようが、この一面の砂の上に立つ役者の負担はいかばかりであろうかと想像される。

その苦行の中から立ち上がる虚構の世界には、さすがは砂漠の話だけあって豊かな彩が纏わりつくことなく、極めてドライな時間しか進行しない。兵はいつか斃れ、人はいつか死ぬ。そのジオラマの外にはただ機械室の歯車がギシギシと回るばかりである。そんな不毛の世界を匍匐前進でにじり続ける青年団役者陣の筋力ときたら。

その砂漠のモノクロの世界の中に一滴の血が鮮やかに滴る瞬間が僕に掴めていたなら、と思う。そういう裂け目は、福士史麻とひらたよーこのシーンでは「予兆」として、堀夏子が叫ぶシーンでは「アフターマス」として示されるが、でも、けして舞台上に見つけることはできなかったのだ。それは、残念なことだろうか?それとも、「真っ当な」ことなのだろうか?

2010年10月3日日曜日

さいたまゴールドシアター 聖地

23/09/2010 マチネ

蜷川演出の芝居を観るのは1987年のテンペスト(確か日生劇場)以来で、まぁ、それ以来「蜷川さんの芝居は観てもしょうがない」とずーっと思っていたのだけれど、今回の「聖地」を観て、そこまでムキになって観ないと決めることもなかったかもしれない、と思ったのである。

松井周の戯曲が、確かなカタチをとって舞台の上に載り、しかも、戯曲の行間にあったふくよかさ、豊かさが、たっぷりと劇場の中を漂っていた。素晴しい戯曲だし、素晴しい演出だし、しかも、役者陣も素晴しかった。プロとして芸暦を重ねてきたわけではない役者達にここまで素晴しい芝居をさせるのだから、蜷川演出、素晴しいと言わざるを得ない。

「聖地」が「擬似集団もしくは擬似家族・擬似パラダイス」「リビドーのうごめき」「倒錯したフェティシズム」「漸近し、でも交わることなくすれ違う物語たち」を描く様は、それほど従来の松井戯曲からかけ離れたものではない。語り手をかます構造もそうだし、登場人物たちが(従って観客たちも)物語に「ノる・ノラない」に賭ける中で時間軸が進む構造もそうだろう。

しかし、松井演出の諸作品と比べて、この「聖地」は、「突きつける」よりも「膨らませ、魅せる」ことに重心を置いた点で異なっていたのではないかと思う。松井演出作品では、「戯曲を書く松井周」にスタッフ・役者が加わったうねりの中で、「演出家松井周」は「サンプルの中の一つの要素」という(ある程度控えめな)位置取りをしているように思われる一方で、「演出家蜷川幸雄」の主張は際立って表に露出する。それが邪魔だといっているのではない。その違いによって、劇の入れ子構造の中に、
サンプル: 劇中人物 ⇒ (語り手)⇒「松井周+サンプル」 ⇒ 観客を含む劇場 ⇒ 外の世界
聖地: 劇中人物 ⇒ 語り手 ⇒ 蜷川幸雄 ⇒ 「さいたまゴールドシアター」 ⇒ 観客を含む劇場 ⇒ 外の世界
と、一つ階層が加わって、ことこの作品ではその構造の変化が「豊かさ・雄弁さ」に繋がっているように感じられた。そして、そうした構造を要求する蜷川幸雄のスーパーエゴに、しっかりと松井周の戯曲が耐えられることにも、ポジティブな意味で驚いた。

前半の遠山陽一さんと木下小春の「フリのシンクロ」のシーンは途方も無く美しく、既に涙止まらず。後半になってそのモンスターぶりが羽場睦子さんをも凌駕しかねないとさえ思われた重本恵津子さん(84歳!)、小宮山・藤川(宅嶋・吉久のお二方)のからみの後のきまずさ。そして絵描きの益田ひろ子さんとヘルパー手打隆盛の二人の心の交歓も、これでもかとばかりに美しい。これだけのものが3時間半に詰め込まれて、しかもそれを余さず取り出し、加えて演出家のスーパーエゴが噴出しながらラストへと突き進む中での新聞紙の堆積、ヘリコプターの出現による遠近の錯乱、これにどうやって整理をつければよいのか。目の当たりにした世界の余りの豊かさに、未だ茫然としている、というのが正直なところなのだ。

2010年10月2日土曜日

サンプル 自慢の息子 再見

20/09/2010 マチネ 英語字幕付き

今回の公演、英語字幕の作成を担当させていただいたので(オペレーションには入っていない)、その出来栄えを本番確認。僕自身が初日以降小屋に入れず、本番を映したビデオと照合しながらの調整ができていないので、不安。

で、開演すると、何と、字が小さくて読めない!あるいは、目が悪くなっていて字幕の字に焦点が合わせられない!なんたること。いきなり蹟いた。
続いて羽場さんの語り。これも、間の取り方ときっちり合わせていないので、読みづらい。追いづらい。きっとオペしづらい。三好さん、ゴメンね!と叫んだ(もちろん心の中でだけど)。

会話のテンポで進むところはまあ大丈夫だったと思うのだが、日本語ノンネイティブの観客にはどうだったんだろう?とっても気にかかる。

そうやって観ていると、やっぱり、芝居そのものの方にはなかなか注意が向かなかった。ただ、客席のあったまり方という点て言うと、おそらく、前作までと比べて、「受け付けない」人の数が減ったのではないかという印象はある。「シフト」以来たどってきた(ように思われる)「似非物語のパッチワーク」の危うさのバランスが、今回の「自慢の息子」に至って、磨かれ、熟し、―且の完成形として示された印象はある。ここまでやってもらえると、「次はどこに行くんですか?」と聞いてもいいのかな?いけないのかな?いずれにせよ、大いに楽しみ。

2010年9月28日火曜日

ジル・ジョバン ブラック・スワン

19/09/2010 17:00

身体が良く動く(あるいは身体把握ができている)のはパフォーマーとしての大前提だとしても、それをどう見せるか、言い換えれば、観客の視線がどこをどう動くのだろうか、というところにきちんと気を配って、そこに焦点を当ててみようという意図がきちんとエンターテイニングに提示されているのが嬉しかった。

アフタートークの場で、日本の伝統舞台芸術の「黒子」に大変興味を持ったと言っていたけれども、まさにそこでジル・ジョバンが感じたのであろうと推測される「面白さ」が、鮮度を保ったまま舞台に載っていたと思う。

人形を操作する人形遣いと、操作される人形。文楽であれば人形の動きに注目するのかもしれないけれども(そして実際僕も人形の動きばかり見ているのだけれども)、それを操作する者たちの動きを追いかけ始める(人形遺いの腕や身体の動きをみつめたり、視線を追ったりする)時、パフォーマンスアートとして別の次元が舞台上に見えてくる。

ブラック・スワンでは、ソロのパフォーマンスから始まって、そのうち「1対1、もたれる人と支える人」が提示される。その2人の関係はやがて、「人と長い棒」「人と長い棒とその先のぬいぐるみのウマ」に置き換わっていき、舞台上の前景と後景が混在して終わる。どちらが前景でどちらが後景かについてはもちろん説明がないから、その移り変わりは観客の「見方」に委ねられていて、そのあたりの揺らぎを味わうのが楽しい。

それらの動きの中に「繰り返しが一切ない」というのも好感度アップで、道理で、ほぼ素舞台、照明暗め、音楽も抽象めの、「寝ろ!」といわんばかりの作りであるにもかかわらず飽きが来ない、退屈せずに観ていられる舞台に仕上がっていた。雄弁に走らずにきちんと最後まで見せ切る技量、堪能した。

マドモアゼル・シネマ 赤い花白い花

18/09/2010 17:25

久し振りにこういう「正統派女の子ダンス」観たなー。

一列に並んで電車ごっこしたり、面切ってにこやかな顔見せたり、レビューもどきになったり着替えたり。これにもうちょっと「女の子」物語のテーストが加わったら一発不合格なはずなのだけれど、そうなる手前でこらえる。あるいは、一つのモチーフがあってそれで繰り返し遊んだりする中で、過剰にならずにその手前で抑える。そういうところに、構成のバランス感覚を感じた。

終演後当パン読んだら、案の定出演していない方が振付してらしたので、道理で、と納得。

が、ただし、だ。「一歩手前で抑える」ということは、過剰感やはみ出すものが出てきにくくなるということで、実際、1時間通して観ていて、眠たくはならなかったけれど、突き抜けた感じはなかった。バランスの中でかわゆく収まった感じ。それはそれで文句のつけようはないけれど、せっかく、この人たちが1時間身体を動かしてくれるのを拝見できるのなら、もっと違うものも観られたはず、と思ったりもする。具体的に何を期待しているのかは分からないけれど。でも、もっと、思いもよらなかったようなもの。

2010年9月27日月曜日

shelf 班女

18/09/2010 16:35

A.C.O.A.の人間椅子が長引いたため、20分押しでの開演。客入れ中から役者舞台にのっているので、20分不動の姿勢はつらかったろう。

それはさておき、shelfの班女ということで、かなり生真面目な舞台を予想していたのだけれど、予想通り。テクストの読み手と、その読まれる世界の登場人物達、その二層構造を観る観客という、生真面目でかっつりした構造も、shelfの芝居ならそうだろう、という感じ。テクストもストレートに押し出されて、時として起きる「読み手」の混入がきっかり決められた世界に裂け目をもたらす可能性を感じさせはするものの、結局最後まで(僕から観て)裂け目は生じなかった。

もっと破綻に近いところで演じられても、僕の趣味としてはまったく構わないのになー、と思ったことである。僕は第七劇場の「破綻気味に」進む舞台の方が好き。ツレはshelfのストレートに来る押し出しのほうが好みなんだそうだ。で、夕方N氏と話してたら、N氏は「花子が吉雄を拒絶するくだりの戯曲の読み込みが、どちらの劇団も足りないんじゃないか」というような感想で、そういわれれば、確かにどちらの舞台もかなり「実子目線」にバイアスがかかって、「花子の自我」への目配りに欠けていた気もする。

いずれにせよ、班女、強度があってカラーに溢れた戯曲だなぁと感じた。戯曲の可能性を堪能できたという意味でも、第七劇場・shelf、それぞれに主張のある演出に感謝。

A.C.O.A. 人間椅子

18/09/2010 15:00

如何に怪人鈴木シローさんであったとしても、独り舞台でデストロイヤーの覆面かぶって、かつ身体の動きを抑えて「人間椅子」の手紙部分を読み続けるのは、さすがに観ていて苦しかったのだ。

パフォーマンスの始まり方はさすが鈴木氏、議場劇場の観客全員が視野に入っていて、それを自分の「パフォーマンス・オーラ圏内」にしっかり取り込む手管が、客入れのときから作用し始めていた。導入の語りから、客席を通り抜けて着替えを済ませるまでの段取り、うなる。

が、やっぱりデストロイヤーの覆面は厳しかったなぁ。表情も半分も読み取れなくなってしまったし、しかもそのシーンは椅子に座りっぱなしだし。鈴木氏には申し訳ないし、自分的にももったいないのだけれど、そのシーンは眠たかった。ラス前、椅子を離れて舞台上を舞うシーンになって、ほっとしたのか、それともそのシーンが素晴しかったからか(実際、素晴しかったと思う)集中力大復活。最後はさすが鈴木さん、で締まったのだけれど、「どんぐりと山猫」の、あの、A.C.O.A.でしか出せない色の洪水を見てしまうと、どうしても不満が残ってしまう。

「霧笛」「どんぐり」「人間椅子」と、レパートリーにもすっごく幅があって、なので、今度鈴木さんのパフォーマンスを観る時には、一体その振れ幅の中でどんな作品が飛び出してくるのだろうか、それとも、どんな風に熟成して趣を変えてくるのだろうか、というのが楽しみではあるのだが。

2010年9月26日日曜日

くらっぷ ゴドーを待ちながら

18/09/2010 12:00

魅力的な役者達がいた。各人魅せどころをしっかりわきまえ、ケレンもあるが押さえる所を押さえる。特に冒頭、「チョコチップクッキーさん」の登場の仕方、靴紐への意識の集中と舞台下手で起きていることへの意識の向け方、ちょっかいの出し方、素晴しい。これが1時間続いたらどんなトンでもない芝居になってしまうのだろうか、と、ポジティブに心配になる。

が、1時間は長かった。30分経ったところで、観ている側として、だれてしまった。35分でコンパクトにまとめて提示されていたら、文句なしにノックアウトされていたかもしれないのに、もったいない。同じモチーフの繰り返しは、特に場慣れした役者でないと危険。せいぜい2回まで。繰り返しを持ち出さずに「ゴドー待ち」をどう提示するかが難しいなら、タイトル・モチーフともに「ゴドー待ち」にこだわる必要なかったと思う。本当にもったいない。

第七劇場 班女

18/09/2010 11:00

鳥の演劇祭ショーケース第2弾は東京からきた第七劇場の班女。小生第七劇場は初見。この後、shelfによる同演目も予定されていて、見比べるのが楽しみ。

「しかの心」は本当にいい匂いのする、間口が広いのにも関わらず観づらさを感じさせない暖かい空間。舞台上、横に真っ直ぐ敷いた白いシートの上に、禅寺の庭のような、盆栽のような、そんな感じで三箇所石が並べられて、なんだかやっぱり垢抜けた感じがする。

実子の声が大変魅力的。花子の動きや「台詞のやりとりに移る前の」吉雄の動きも面白かったはずなのだけれどよく思い出せない。申し訳ないが実子の声の第一印象の方が残っているせいか。

最後まで見通すと「三島戯曲、面白い」と思わせる。空間の作り・役者の動き、結構ケレンがあるようでいて、実はテクストが素直に伝わってくる上演だった。それは僕にとっては2つの意味があって、ヘンな見せ方に走らなくて安心するという意味と、生真面目さが物足らないという(もっと膨らみがあっても良いのではないかという)意味と。

双身機関 ファシズム!

18/09/2010 10:00

鳥の演劇祭、鳥のショーケースの2日目、トップバッターは議場劇場で愛知のカンパニー双身機関。客入れ中から、顔の白塗り黒スーツ男がホールに出てきて、アングラの臭いプンプン。舞台上のパフォーマーも、黒装束黒マスクの2人含め、アングラっぽい。

いざ始まってみると、テーマといいパフォーマンスといい大変生真面目で、正直なところ「思い先行」な感じがした。動きにしても、「刺す仕草」とか「倒れる仕草」の繰り返しは余計で退屈な感じがして、というのもそういう動作は「刺す」「倒れる」以外の見方(見立てや誤読)を許さないからで、身体の動きの面白さ・豊かさ、その裏付けとしてのいろいろなものが、「思い」によって細らされている気もしたのだ。

後で他の場所での舞台写真を見てみたら、生バンドも入っていたりして、結構格好良さうだったのだが、実際のところどうだったのだろうか?ひょっとしたら、開いて間もない「議場劇場」のあまりの議場っぽさにやられてしまったのだろうか、とも考えたのだが。

2010年9月24日金曜日

鳥の演劇祭に行ってきた

鳥取は鳥の劇場「鳥の演劇祭」を訪れるのは、2008年秋、2009年秋ときて、今年で三度目。今回はツレも-緒なので、やっと「温泉に入りたい!」とか「砂丘に行きたい!」とかいう欲も出てきた。三連休を使って2泊3日。今後も鳥取に来ることを年中行事化すべく、鹿野と鳥の劇場の素晴らしさをツレにアピールしまくらなければならないので、実は、そちらの方が結構なプレッシャーである。

1日目 朝、鳥取着。ショーケースで6本観劇。
2日目 観光(砂丘・浦富海岸)。5時からジル・ジョバンのダンス。
3日目 帰京。十サンプル字幕バージョン。

ショーケースは11団体が参加していて、頑張れば8本見られるのだが、ちょっと余裕見て6本に。このショーケース、何が良いって、参加団体がお互いのパフォーマンスを観られるっていうのが一番の売りで、そういう意味では、ただ「見せる」だけではなくて、参加することにすっごく意義のある企画だと思う。観客の方も2日間滞在すれば、どんな団体がやってきていて、出来不出来、評判がどうで、その後歓迎会、交流会に出てみたら「こんなこと考えてるんだー」ていうことも分かって、それも面白いだろう。ちょっとエディンバラの感覚に似ていた(個別のプロダクションについては別途)。「しかの心」は引き続き雰囲気抜群の小屋、「交流館」のたっぱの高さも魅力。「議場劇場」はまだまだ「町議会の議場」の匂いがしみついていて、ここも、使い込んで「劇場」になるまでの何年かのプロセスが楽しみになる。鹿野の町の中を移動しながら水が流れる音を間く。気持ちよい。ツレは川のほとりのベンチでちょっと昼寝。議場劇場で、いつのまにか北九州に勤めていた三橋さんに出会った。

山紫苑の露天風呂、展望(され)風呂、ともに素直な泉質で長くつかっていられる。初めて訪れた砂丘も、本当に砂丘で美しく、ビジターセンターの手作り解説がまた分かりやすくて素晴らしい。惜しむらくは砂丘に走って行く前に先にビジターセンターに行っていればと。浦富海岸の、絶景を望みながら崖っぷちを進む遊歩道もまた美しく、上り下り激しく、ふいに磯に出ると、だ一れも来ないようなところで小学校に上がる前のような子供が3人遊んでいる。浦富の漁港のシロイカ、賀露の市場の平政、ハマチ、ブリ、太いアジに垂涎、ちくわに目がくらむ(お土産は結局二十世紀梨)。

なんだい。鳥取、すげ-じやね-か!

な-んて思っていたら、3時に始まる「とりっとダンス」に間に合わず。すごく出来が良かったらしい。失敗した。

繰り返すとやはり、「なんだい、鳥取、すげ-じやね一か!」
鳥の劇場も、すごいです。み-んなに、鳥取に行ってほしい。鳥取で演ってほしい。

サンプル 自慢の息子

16/09/2010 ソワレ

今回のサンブルの公演についてもまた、上演台本の英訳と字幕製作にかかわらせていただき、稽古の過程やテクストの改変の過程も観た上で、本番公演に臨んだ。そうするとやっぱり「初めて観るように観る」ことはできなくて、公演を観た印象もそういうものにならざるを得ない。

と前置きした上で何を思ったかというと、やはり小屋入りしてからぐわっと芝居が変わる様に驚いた、というのが第一印象。芝居そのものが、(松井周の言葉を借りると)「場」に「物語」を貼り付けていくプロセスなので、アトリエ・ヘリコプターの場の輪郭を得た途端に芝居が水を得たように立ちあがっていく感覚。

冒頭、役者がわらわらと出てきて(一部は「アトリエ・ヘリコプターのドアを開けて出てきて」)「位置につく」ところで、芝居そのもののフレームが「ヘリコプターで役者が演じるもの」というように嵌められる。チェルフィッチュのようでもあり、中野成樹+フランケンズのようでもある。「真似してる」というのではなくて、要は、「劇場という場が、観客の前に役者が出てきてうそんこの世界を演じるんですよ」と宣言することが重要だ、そしてできればそれを観客との共犯関係のとっかかりとしておくことが重要だ、ということである。

だから、松井周が「物語を貼り付ける」という時、それは2つの意味を持っていて、
a.役者がヘリコプターの舞台上に物語を貼り付けること
b.劇中の人物が「正の国」(あるいはアパートの一室)に物語を貼り付けること
のどちらか、あるいはどちらでもあり得る。芝居の展開を観ながら、その2つの次元を自由に行き来することが観客に許されているのが心地よい。

で、それら2つの世界の蝶番のように機能していたのが、兵藤公美だったと思うのだ。それは単に「隣人」という「国外の人」であるからというのではなくて、兵藤一人だけが、ヘリコプターの舞台上手観客側の「ヘリコプター備え付けのドア」から舞台に出てきて、舞台前面で寝そべってしまうという荒業を許されているからである。
「一体兵藤公美は(劇中の「隣人」は)どこにいるのか?」
この問いについてもっとも真剣に考えなければならない相手が、この芝居では兵藤公美であり、そこが彼女ならでは、と思わせる見どころだったと思う。
(テクストが編集されていく過程で、前半の彼女のセリフがどんどん削られていき、彼女が劇中の物語のコアから周縁部へ=観客=ヘリコプターの場の方へとポジションを変えていくのが何ともスリリングだったのだが、それが劇場に入ってこのような形で観客と舞台を繋ぐとは!)

物語を一冊に綴じずに、(ぺたぺたと舞台に貼り付けたまま)割とぶっきらぼうに観客に提示して見せる松井周十サンプルのやり方は、彼の創造意欲を駆り立てるものとしてリビドーが前面に出がちなこととも合わせ、時として「訳分かんない」という印象に繋がっていたと思う。それが、今年初めの「ハコブネ」で、観客を取り込んでいくフレームやプロセスの柔らかさを感じさせるや否や、今回の「自慢の息子」では、柔らかく処理する手法としてだけでなく、攻守兼ね備えた手法として芝居を立ち上げていて、松井芝居が「離陸した」印象を受けた。

たまたま口口の三浦・板橋両氏が観に来ていたからでは必ずしもないとは思うのだけれど、5月に観た「旅、旅旅」のことを思い出した。「旅」は、冒頭に一つに綴じられたサザエさんという「物語の束」から、貼り付けられた物語が次々に剥がれ落ちつつ名づけ直されていく過程についての芝居だったと思う。「息子」は、ともすれば剥がれ落ちそうになる物語をめいめい勝手に貼り付けていく、そして最後にグロテスクな「物語もどき」が、続<とも続かないともなく提示される、という、ちょうど「旅」逆コースをたどるような展開で、そこが「旅」の「抜け出して発散していく感じ」と、「息子」の「どうやっても危うい感じ」の違いに繋がっているのかな、とも思った次第。

芝居についてはこんな感じ。もう一度、英語字幕の回にもお邪魔するが、その時にはあんまり冷静に観ていられないだろう。

三条会 失われたときを求めて 第3のコース「ゲルマントの方へ」

12/09/2010 マチネ

失われた時を求めて、第三のコース。全部で七つのコースになっている、ということを意識すると、どうしても「完走しなきゃならないのではないか」とか、「一回見逃すと、続きを見ても仕方がないのではないか」とか思ってしまいそうだが、そういうことは全くない。連続するモチーフは、ひょっとすると創り手の側では共有されているのかもしれないが、少なくとも第三のコースまでを拝見して、どこかが抜けたらコンセプトについてロストしてしまうようなことは感じない。かくいう小生も、第四・第五のコースはスケジュール的にきついかも‥・と感じているけれど、そもそも芝居については「完走」を目的にしてもしようがないところはあって、むしろ、目の前にある舞台を目ん玉見開いて観ることが楽しいんだ。

今回は「芝居を観に行く」ことと「引っ越し」が劇中の出来事の軸となっていて、舞台上(アトリエ内)の出来事の組み立てにも、「視点」と「場」のコンセプトが反映されていると感じた。「わたし」が凝視する舞台上の出来事と「わたし」が投げ込まれる舞台(=「場」)で起きる出来事の間の行き来、それを凝視する関氏、それを見つめる(アトリエ内の)観客、そこに向かって発語する「わたし」。「わたし」の「引っ越し」、「居場所」、「居心地の悪い場所」、舞台の内と外。テクストの内と外。それをつなぐ「読む目線」と「観る視線」、「朗読者」と「演技者」。とまあ、こんなことをいちいち考えながら一時間を過ごしていたわけではないのだけれど、小さなアトリエの中で1時間過ごしながら、自分が色々な「場」と「視線」の中を行ったり来たりしていたという感覚だけは確かに残って、それは大変豊かな時間だったと思うのだ。

2010年9月22日水曜日

こふく劇場 水をめぐる

10/09/2010 ソワレ

なんと豊かな芝居。雨風に晒されながら素直に曲がりくねって育った樹のように、変に気取らず、突っ張らず、芝居の輪郭はがっちりと骨太に、無駄がない。時の歩みは速すぎず、遅すぎず、時空のチューブの中をぐいぐいとうねうねと、充実を保ちながら進み、かつ、変な抵抗はない。滑りもしない。この世界に裏はないが、深みはある。後味の悪さを声高に謳わずとも、正と邪、美と醜が世界の滋味として渾然一体と取り込まれ、アゴラのスペースがこんな形で充実しているのを観たことは、おそらく無いのではないかとも思わせる。

役者の立ちもまた「すっく」として美しい。テクストにもほぼ無駄が無く(時として物語の語りが入るのは、客の集中力をつなぎ止めるための最小限の必要悪とみた)、観ている自分の脳内に、舞台に集中できないときに湧き出る「邪念」ではなくて、舞台に観入った結果としての「妄想」が沸き上がるのを感じる。表面上の「エッジ」を立てることにこだわらずとも、ここまでできるのか、と。伸びやかな妄想の広がりに脱帽するほかはない。

あ、そうだ。この感覚は、ブランフォード・マルサリスのバンドを聞いているときに感じるのと一緒だ。ジャンルにこだわるでなく、素直な豊かさを感じること。素直に伸びることは「真っ直ぐ伸びる」こととイコールではないと思い知ること。無垢なまがまがしさに触れること。素晴らしかった。

青☆組 忘却曲線

07/09/2010 ソワレ

印象に残るシーンもあるけれど、観ている間、妙に「無駄なシーンが多いな」と感じることが多かったのだ。

当パンに作・演出が「私情を隠さすにぶつけた」と書いてあって、実際そうなのだろう。「思いを伝える」ことへの真摯さはあった。役者陣もその思いを舞台に載せるべく真摯に頑張っていた。ただし、僕は「一観客」なので、思いを伝えることに対して頑張るよりも、もっと面白いシーンをみせることに対して頑張っていただきたいと思ってしまう。だから、「思いを伝える」ための導線の役割を果たすためのシーンは全て無駄に感じてしまう。

でも、そういう「無駄」が気にかかるのは、それらのシーンと比べてみて、明らかに、
「何も語ろうとしていない、思いを伝えようとしていないのだけれども、決して語りえないもの、伝えようのないものが噴出するシーン」
があったからなのだ。

幹子が台拭きでテーブルを丁寧に拭くシーンは出色。こういうシーンがもっとあったらなぁ、と思わせた。あるいは、末弟とネコのシーン。会話が始まる前。何の伏線にもならないシーン。こういうの、いいなぁ。

1997年ごろにロンドンで観た「水の記憶」っていう芝居があって、すっごくよく出来た戯曲なので未だに忘れられないのだけれど、それも、三姉妹と亡き母の物語だった。その物語では、亡くなったばかりの母が「若いころの姿で」時として姿を現して、そのタイミングとか、バラバラの記憶をふとぐいっと繋いでしまう効果とか、素晴しかったのだ。井上みなみの母親役はそれをちょっと思い出させた。化粧とか、つけ胸とか(だよね?)要らないよ。吉田・井上+達者な役者陣なら、もっと出来るはず。もっとエンターテイニングになって、とんがって、そして、私情はその後からひそやかについてくるはずなんだ。

2010年9月14日火曜日

KUNI0 07 文化祭

04/09/2010ソワレ

アゴラの演劇祭、杉原邦生ディレクターの2年間のラストを飾る公演は、杉原作・演出の「文化祭」。こちらも「その」積りで、ガッツリ楽しませていただきました。

カドヤと共同開発の「くにお肉パン」は、過去25年間カドヤにお世話になっているものとして敢えて言うならば、この25年間カドヤで売り出した新製品の中でも出色の出来栄え。さすがはジャンクを恐れず、ジャンクなまま美味しく舞台に乗せてしまう、くにおマジック。舞台の方も、誤解を恐れずに言えばジャンクフードの「ギルティ・ブレジャー」な味わい。31人の役者を惜しげもなくつぎ込んで、プロット・モチーフは二の次三の次、要は1時間45分面白く構成して見せ切った側の勝ち。その割り切りが相変わらず杉原演出の醍醐味だろう。

その中では、もちろん、「青春60デモ」でも感じた、「役者は、何のかんの言ってコマですから」みたいな、もっと丁寧な言い方をすると「ハードウェアとしての役者を最重要視する」態度がカッツリ見える。「役者としての技量」は、彼の文化祭の構成に際して何らの判断基準にもなっていないこと。贔屓の役者がいる人には、見せ場の長短、盛り上がりの大小、不満がある点もあると思う(実際僕も、松田裕一郎さんの「見せ場」が本当に最後のほうまで来なかったので、ハラハラしていた)。が、そこは全体のバランス優先。バランスがとれているからこそ、短い見せ場も印象に残ったりするのである。

敢えてどうしても一つだけ挙げるとすると、スクール水着・ゴーグルで踊りまくったシーン。文化祭一等賞。すげかった。

弘前中央高校演劇部 「あゆみ」

28/08/2010

それが、柴幸男作・演出でtoiがアゴラで上演した「あゆみ」であるならば、畑澤聖吾さんが全治全霊を傾けて脚色した「あゆみ」であるのなら、それは何としてでも観ねばなるまい。それは、優秀賞だろうが佳作だろうが落選であろうが、何が何でも観ねばなるまい。そういうことです。そして、その期待に違わぬ素晴らしい舞台だった。いや、期待を遥かに超えて、素晴らしい舞台だった。

開幕。幕が一切下りておらず、舞台奥まで全て見せる素舞台に役者2人が立っている時点で、もう、泣きそうになる。これを見せるか?いまから、「あゆみ」という「全ての人をぎゅっと一人の人に詰め込んじやったみたいなモノ」を見せようとするその直前に、なにもないもの、そして観客全てに開かれた空間を、まず、見せてしまうか?そこに、畑澤先生と生徒たちの思いっきり力強いマニフェストというか、もう、誰にも何も言わせないくらいのまっすぐな強さ、立ち入ることを許しているのに邪魔できない健やかな結界の存在を感じる。そして国立劇場ならではの花道からの登場。この呼吸の抜き方、はずし方。畑澤演出の醍醐味。

はじめの一歩からは、ほぼアゴラ初演に近い形で進行。「赤ん坊のよろけかた」「会社での会話」等々、そこにはもちろん(初代あゆみーずとの間で)役者としての技量の差は感じたのだけれど、驚いたのは、「実年齢を役の年齢が追い越した」後に舞台上で起きたこと。実は失礼ながら、実年齢を越えた役を演じるにあたってアップアップする高校生を(ちょっとだけ)予想していたのだけれど、あにはからんや、役者の年齢に関係なく、演じられる年齢にも関係なく「彼女たちだけに作ることができるあゆみ」がぐいぐいと立ちあがってしまった。一体これは何なんだ?シビれた。柴戯曲のマジックなのか、畑澤マジックなのか?それとも、彼女たちに備わっている何かなのか?

車いすのシーン(初演にはなかった)には、ヤラれていると分かっていても、泣く。客席中が泣いている。これは畑渾節だと断言してかまわないだろう。泣かせにきやがって、と頭で思っても、やっぱり泣く。そして、役者たちはあくまでもクールだった。

後日、NHKテレビで放送されたのも拝見したが、やっぱり泣いた。まあ、泣く・泣かないはどうでもいいや。一度見始めたら、どうにも途中で止められなかった。ゲストの江本純子さんが、心の底から悔しそう、というか、なんとかしてガチンコでそれより面白い芝居が作りたいという顔丸出しでいたのが印象的。図らずも江本株が上がる結果となった。でも「どっかでこける」のが解法でないことは、江本さんならずとも知っている。どうする、みんな?(他人事みたいに言うなって?)

前橋南高校 黒塚Sept.

28/08/2010

高校生の演技は何度か拝見したことはあるけれど、「高校演劇」を観るのは初めて。花道付きの国立劇場の舞台、なんだか「エラい先生方」が沢山いらっしやる感じの客席も含め、まずは「全国高校総合文化祭」の雰囲気が、素直に面白い。まあ、良いことも悪いこともあるけれど、こんな感じの客層の芝居には、それほど積極的に来ようとは思わないかな。

ま、それはともかく、前橋南高校のSeptember。「なぜ大人の上から目線を気取るのか?」という至極もっともな批判を浴びることを承知で言うと、「高校生ですでにこの技量か」という驚きが真っ先に来た。本当に、自分が高校生のころを考えると、また、自分がイメージしていた「高校演劇」と比べると、今更ながら雲泥の差があって、思わず「失礼しました」と心の中で自己批判。

引きこもりの高校生の現実と妄想が、とある夏のうだうだした夕方の中で交錯する。この「うだうだ感」が、「ああ、これ、妄想シーンだね」とか「ああ、夢オチ芝居ね」といった「あるある」な予定調和から観客を引き離す効果を持つことを、作・演出、演者ともに理解して、上演に臨んでいる。そこが良い。

弟役もとっても美味しい役なのだが、そこをぐっと抑えて演技するのもよい(実は僕は「弟の話を振りながらも実はお父さんが部屋に入ってくるのがシュールでいいな」なんて思ってたのだけれど)。ヨメは「なぜジャックスをかける?誰の趣味だ?」という突っ込みを入れていたが、そこらへんも、実は顧問の先生とのうま-いバランスなのかな、と、好意的にとる。

残念だったこと2つ。1つ目は、ラスト、暗転⇒明転⇒ごあいさつでなくて「緞帳が下がって幕」となるのは、この芝居ならあり得ない。思わず噴き出しそうになった。悪い意味で。2つ目はそれともからんで「もっと小さい小屋で見たかったな」ということ。この芝居を見るのに国立劇場の客席では遠すぎる。せめてキラリふじみ、吉祥寺シアターぐらいの近さなら、もっと楽しめたのに。そして、もっと厳しい芝居を期待できたのに。

2010年9月1日水曜日

森の奥

21/08/2010 ソワレ

実際色々とすごい芝居だったし、平田の言うとおり「歴史に残る」画期的な好演なのかもしれない。が、僕は「歴史を見通す」とかそういうことには関係なく芝居を楽しもうとする一観客としてこの公演を目にするわけなので、そんな風にして劇場の中で、目の前で展開した出来事について、観たように書くしかない。

「森の奥」は、一連の「ネアンデルタール作戦の研究室」ものの最新作として、平田らしい、完成度の高い戯曲であった(もともとはベルギーでの公演を前提に書いたもの)し、今回のロボット版もクオリティは高い。そして、ロボット2体はといえば、役者としてはまだまだというのが第一印象。そしてそして、それらの「まだまだ」な役者と同じ舞台に立つ青年団の役者達に凄みを感じた。

ぐっと自分の個人的なところに引き寄せて言うと、自分が役者としてダメだったところが、ロボット役者でもダメだという風にデフォルメされて見えるような気がしてしまって、ちょっとへこむとともに、「良い役者」が、自分の台詞・段取りだけでなく、自分のおかれた状況に対してどれほどビビッドに反応しているかがくっきりと浮かび上がった、ということだと思う。

アフタートークで平田自身が語っていたように、ロボット役者が人間の役者と少なくとも対等に伍して演技できるためにインプットするべき細かな演出は、あまりに大量である。時間と金さえつけば(そして、起きるべくして起きる技術的ブレークスルーを経たならば)そうした大量の演出をつけることは可能だろうけれど、だとしてもそれが「ロボットが人間を超えた」と言い切る理由となるかどうかは分からない(新たな不足が明らかになるだけかもしれない)。よしんば、「周囲の役者が完全にタイミングを捉えて演技し、ロボットにそれを踏まえて演技をさせれば、『周囲への反応』も同期できるはずだ」ということも考えられなくはないけれども、やはり人間の役者の「反応」ははるかに微妙で豊かなのではないかという気はしている。

後半、wakamaruが客席に向かって真っ直ぐに移動してくる場面、つい、wakamaruと「眼」が合った気がして、そこから視線を離すことが出来なくなってしまったのだけれど、そのときの「ぞぞぞ」とくる感じは忘れられない。そして、そんなロボットと会話を交わす演技をしている時の、青年団の役者達の(特に大竹直の)演技のきめの細かさ、解像度の高さ、柔らかさと豊かさとに、打たれた。

あの「ぞぞぞ」感は、今後のロボット製作技術の、あるいは僕らの認識の仕方の、変化につれて、どのように変わっていくのだろうか?wakamaruの演技は、「不気味の谷」にどれくらい近いのだろうか?

今回wakamaruにインプットされた情報、wakamaruがアウトプットした演技は有限だ。でも、そこから広がる観客の妄想と想像は無限である。少なくとも人間がロボットに取って代わられるまでに、まだまだできることはあるという極めて楽観的な前提を下敷きにしてこそではあるけれども、「未来」を感じた気は確かにしたのだ。

2010年8月26日木曜日

ロロ ボーイ・ミーツ・ガール

18/08/2010 ソワレ

初日。
おそらく既にたくさんの人から誉められていることは間違いなく、今更僕が誉めてどうということもないし、そもそも僕が誉めたりけなしたりしたからといってどうということもないのだろう。華のある役者に気の効いた演出、2時間飽きさせない趣向は非常に上手で、でも、何かしら留保をつけたくなってしまうのだ。

観ている間「死が二人を分かつまで」というフレーズが何度も頭の中に繰り返し浮かんだ。田中佑弥が演じる「連続殺人鬼」は、だれかれ構わず不条理に僕ら全てを襲う「死」そのものである。死は不条理だからこそのオールマイティーさを授けられている一方で、「愛してる」に溢れるこの芝居の中にあっては、常に「不条理に不特定の二人を分かつ」という極めて重い役割も課せられる。

一方、「死の不条理」に対峙するカウンターウェイトは「理不尽な愛」こと板橋駿谷の好演。後半の「死の不条理」vs「理不尽な愛」対決はこの芝居の大きな見せ場だったと思う。

けれども、一方でこの芝居を「べったべたの惚れたハレたを気の効いた趣向でコーティングしただけの2時間」と読んでしまうこともまた無理筋ではない。

この芝居は百太の100回目の別れで始まり、101番目の恋に(そしてその波及効果として過去の100の恋についても)百太がスーパーポジティブになって終わるのだけれど、(そしてあの死の不条理すらも「好き好き大好き」パワーによって乗り越えられてしまうのだけれど)、僕の目には(そしてこの点については娘も同意見です!)この後のシーンは百太の101回目の別れへとループするのは100%確実のように映ったのだ。百太がやっぱり101人目の恋人も「理由を上手く説明できないまま、100番目の恋人と同様に」ふってしまうのならば、そして、100回目の別れと101回目の別れとの間に挟まるものが気の利いた趣向と「他人の不条理な死」と「他人の理不尽な愛」であるならば、この芝居が提示する軽やかな2時間の末に、結局何の滓も残されないのではないか、という気がしてしまったのだ。それは、あんまりなことだ。

じゃあ何が欲しいんだよ?と問われると答えに窮するけれど、でも、実際、「そりゃあんまりだよ」に近い感じはしてしまうのだ。そういう感じは、しかし、「この芝居、一体何が言いたかったんだろうね?難しかったわね」みたいな、30年前のおばさんチックな感想に繋がりかねなくて、ちょっと自分的にはかっこ悪いな、と思ってはいるのだが、どうか。

2010年8月18日水曜日

カナデコトビート おかえりんご

15/08/2010 ソワレ

初見。千穐楽。
こういう、素直な芝居を観たのはすごく久し振りだったと思う。変にあざとくて観ていられないシーンも無かったし(それは裏を返すと、あっさり味過ぎるということではあるけれど)、妙に押し付けがましくないし。なんだか、オレたち何が嫌いで叫ばない踊らない笑わせない芝居を始めたんだったっけ、ってことを思い返した。

ラジオ体操で始まる冒頭は大好きなシーン。こんな風に、「今後の展開思わせぶり」でもなく「冒頭ガツンとインパクトで」でもなく、でも「あぁ、いわゆる静かな芝居ね」でもなく芝居を始められたらいいな、と思わせた。で、そのトーンは良くも悪くも芝居が終わるまで継続していたし。母の役を男優が演じるのも、ギャグにせずにすごくきちんと出来ていて好感もった。

なので、もっとできるはずだ、行け!という感じが大いにしたのです。
前半出てきた、割と重要な役割をになう「かこ」が後半さっぱり出てこなくなっちゃって、「永遠の家族」だから祖母⇒母⇒娘、の話のはずが祖母二人に集約されてしまう印象だったのは残念。祖母二人+美容師のシーンは、正直「後半、あともう一盛り上がり」へのつなぎだと思い込んでしまって、眠くなってしまった。
美容師の彼も、イロモノはイロモノと割り切って、もう少しあざとさだしても大丈夫だったろうし、前半何度か使った「繰り返しとズレ」は、折角面白いんだから後半にもう何度か使ってもよかったのに、と思ったりもした。リンゴジュースも、小道具としてもっと使いでがあったはずだし、外から来た嫁ももっといじれるキャラクターだし。等々。

こう書いていると、なんとなく、「センスにしつこさがついてきていない」という風に括れそうな気もしてきた。そういう、観客の欲望をくすぐりながら寸止めの60分でお帰りいただくのは、ちょっと勿体無い。次は、もうちょっと、しつこいのを観たい。

2010年8月17日火曜日

文月堂 夜も昼も

15/08/2010 マチネ

少なくとも、僕が芝居を観ることで得たいと思っている悦び、快楽の類は、一切そこには見出せなかった。

冒頭、高校生とその祖父が蛙の池を見下ろすシーン、当パン読むと「劇団」という設定があるのでてっきりその劇団による劇中劇のシーンかな、と思ってみていたら、その劇中劇が終わることなく2時間続いた。

もちろん、この芝居をとっても楽しむ人がいたり、泣いたり笑ったり、人生について考えちゃったりする人もいたりして、僕としては全く構わないし、むしろそれに水を差すようなことを言っちゃいけないなとも思うのだけれど、ただし、もし、この芝居が全く楽しくなかった方には、自信を持って「いや、あなたを楽しませる芝居も必ず紹介できますよ」と言える。

2010年8月16日月曜日

快快+B Floor Spicy, Sour and Sweet

14/08/2010 ソワレ

B Floor単独のパフォーマンス "Flu O Less Sense" と快快北川作篠田演出の "どこでもDoor" の2本立て。

企画として上出来だったとはけっして思わない。この「コラボ」を通して日タイの「国・原語(ママ)の違いだけでなく、文化の違い・方法論・カンパニーのキャラクターの違いを乗り越」えられたなんていう見当違いの楽観論にも与さない。でも、そういう「越えられないもの」にぶちあたった快快が持ち出したのが「どこでもドア」という「あったらいいな、でもありえないな」な道具であったこと、また、どこでもドアを鏡面としてあっち側とこっち側で平行して物事を進めたり、時として混じったりしながら、でも、最後まで越えられないものと格闘する姿をしっかり見せてくれたことが、快快の連中には申し訳ないかもしれないけど、僕にとっては大きな収穫で、そして、変に日タイ友好だぁ、みたいなものを押し付けられるよりもよっぽどか真摯で、ぐっとくるものがあったんだ。なんか、快快って、実は、明るく開いている人のためだけの芝居なんじゃなくって、さびしい人のための芝居でもあるんだな、とも(今さら気づいたのかい?なんて言わないで下さいね)。

言い方を変えると、あんなに「他者に対して開いている」と感じていた快快が、そして快快のスタイルが、一方で、開いているんではないかと思われたB Floorのフィジカルなスタイルと「コラボ」したときの「開かなさ」への対峙。快快をみつけている観客としては、創り手には申し訳ないけれど、面白かった。こういうの、「やり方が不味かったんでしょ」では済まされないことだと思うのだ。

この企画について「全てとても上手くいった」と誉める人には気をつけたほうがよい。そういう人は、野田さんの赤鬼(ロンドン公演)も上手くいった、あとは観客のパーセプションのせい、と平気で言ってしまえる人だろう。

そういえば、B Floorのパフォーマンスは、前半戦を観た時点で、快快よりもむしろ遊眠社との親和性を感じさせた。よく動く身体、キャッチーなプレゼンテーション。でも、「物語る」動きは快快よりも遊眠社だろうと思われた。

2010年8月15日日曜日

青年団リンク・RoMT ここからは山がみえる

14/07/2010 マチネ

初日。
一日経ってみて、自分が、かなり深く感動していることを思い知る。
3時間の1人芝居、全く長く感じなかった。出演している太田宏の力はもちろん、田野邦彦の演出、舞台美術、客席の配置、客あしらい、照明・音響が醸し出す全体の雰囲気、色々なものが本当に上手く調合されて、「1人芝居を押し付けられている」苦痛の時間になりかねない3時間を、ときに柔らかく、ときにハードに、速く、遅く、「北西イングランドの灰色の景色をバックグラウンドにしているにも拘らず」色彩に満ちた時空に変えて、観客を包み込んでいた。プロダクションとして最上級のおもてなしに仕上がっていたと思う。

話としてはマンチェスター郊外のとあるティーンエイジャーの日常と成長を描くビルディングスロマンと括ってしまって構わない。それを男優が語るのだから、まぁ、推して知るべしである。だから、勝負どころは、語り口であり、時間の伸縮であり、おもてなしの精神である。

そもそも西洋翻訳モノ演劇にありがちな「観客への語り芝居」で面白いのにはこれまで当たった経験があんまりなくて、そのテの芸で上質のものとなると落語になってしまう。あるいは、三条会なら大丈夫かな、とか、あるいは、チェルフィッチュの語り口であとは糊代を丁寧に、きれいに固めてしまうとか。だから、如何に太田宏といえども3時間語りっぱなしではかなりの苦戦が予想されたのだが、蓋を開ければこは如何に、力の入り過ぎない語り口、客席への目配り、観客に根を詰めさせすぎない劇場のつくりが全てプラスに働いて、するっと3時間聴けてしまったのだ。そのこと自体が、「スゲエ」ことである。

まぁ、マンチェスターご当地ものの戯曲に、「Oldhamの街の雰囲気はこんな感じかなー」という予見を持って臨んでいたアドバンテージは僕にはあるかもしれない(だから、前半、Streetsがかかった瞬間に涙出そうになってしまったのだ)。でも、それを差し引いたって、この強度はすごい、と、僕は言い張るね。そして、3時間をすごせたことだけがすごいのではなくて、本当に良い3時間を過ごしたなぁ、っていう実感が、一夜明けて、一日過ごして、それでもなおじわじわと身体にしみわたる経験については、プロダクションの皆様に深くお礼するしかない。

2010年8月12日木曜日

尼崎ロマンポルノ 富嶽三十六系

11/08/2010 ソワレ

「尼崎」を名乗る劇団がアゴラで東京語で芝居をしているのを観ると、途端にアウェー感が漂い、他所行き感が醸し出される。もちろん、東京の劇団が東京で芝居したって、(そしていくら「現代口語演劇」だなんて肩肘張ってみせたって)役者が話す言葉はいつも話している言葉とは違っていて、そもそも「戯曲家」が書いた言葉という制約の中で芝居してるんであって、たまたま東京の劇団にあっては「(おそらく)東京語圏の作家が」書いて、「(おそらく)日常東京語圏で東京語で暮していると思われる役者が」演じていることをアプリオリに前提しても平気になっちゃってる、ってことでしかないんだけど。でも、やっぱり妙な他所行き感を感じてしまったことには変わりない。

だから、という訳ではないけれど、ひょっとしたら、「関西圏の人が小劇場演劇を観る時には、おそらく、東京圏の人が小劇場演劇を観る時とは違う辞書を持ち込んで芝居を観ているのではないか」と思ったのだ。
・東京に住んでる人は、(東京が現代口語演劇圏であることもあってか)、芝居を観る時の辞書として、かなり日常会話で使っている辞書を持ち込んでるんじゃないか。
・関西圏の人は、芝居を観に行く時、見出し語が東京語で出来ている、普段使わない辞書を持ち込んでるんじゃないか。だから、吉本を見るときの辞書とは違うもの。そう、もしかしたら、吉本新喜劇を観る時の辞書は、日常会話の辞書なんじゃないか。
それは、過去ずーっと関西圏の芝居を観てきて、何となく腑に落ちないまま放置してきたことについてちょっとだけ余計に考えてみた、ということなのだが。まぁ、結構乱暴に外れている気もするが、どうか。

芝居のつくり、巧拙を問われれば、「拙」と言う。要らないシーン、足りないシーン、物語進行アイテムの働きの多寡、虚実の糊代の処理の粗さ、あげつらえば沢山あるけれど、やっぱり一番感じたのは、「なんで東京語かな?」ってことだった。そういえば、木ノ下歌舞伎とかKUNIOって、歌舞伎とか翻訳劇やってるから、京都を拠点にしてるのにそれが気になってこなかったな。

2010年8月9日月曜日

庭劇団ペニノ 苛々する大人の絵本

08/07/2010 17時の回

幼い頃から芝居小屋連れ回した結果、成長してから妙に趣味がうるさくなって、滅多なことでは芝居を面白いと言わず「まぁまぁだった」とか「こういうところは面白いんだけど」みたいなことしか言わなくなった、そういう小難しい娘に、乾坤一擲「これならどうだ!」みたいな感じで突きつけたのがこの「苛々する大人の絵本」。案の定「すっげえ変だった!面白かった!」と言わせてやったぜ。

あらかじめ「Radiohead の"There There" と "Knives Out" のPVの世界をあわせたような芝居だよ」とは言っておいてはいたが、やはり地下の階が出てきたときのインパクト、マメ山田さんが出てきた時のインパクトはすごくて、しかも、「ここまで変態つきつめますか!」の度合にも際限がなくて、素晴らしい。一昨年に拝見したときと比べても、分かりやすく、しかも十分に変態チックで、それが「変態をありがとう」でも「むむむ、これは何のメタファーかな(腕組み)」でも「意味深をありがとう」でもない絶妙のバランスに収まっていて、素敵な仕上がりだった。

あ、そういえば、2008年版を観た時も、
「好き物系」の外見を取りながら、色物にありがちなバランスの破れからは遠く、実はすっごくバランスに気を遣いながら組みあがっているんだな、と気付く。
と書いていて、初めて見た時の印象って変わらないもんなんだなー、と思ったりもした。

ニットキャップシアター ノクターンだった猫

08/07/2010 マチネ

ごまのはえさんの書いた芝居を拝見するのは、2007年の「お彼岸の魚」、2008年流山児事務所の「双葉のレッスン」以来、三度目。

冒頭、ごまのはえ氏の呪文(と僕は呼ぼう)が役者たちを引き寄せ、彼の劇世界を立ち上げていくシーンは秀逸で、彼のつぶやきと指の動きに引き寄せられる。そこから、時には一連の物語にずるずると引っ張られるかのように、時には彼の妄想とともにジャンプしながら、2010年ネコといっしょに劇世界の旅、心地よい緊張感を持って観ていられた。

それが「愛してます!」に戻ってきた瞬間の驚きは僕にとってはこの芝居のクライマックスで、「あぁ、ここで芝居がブチッと切れて終わってしまったらなんと幸せなことだろう」と、創り手の皆様には大変失礼ながら、真剣にそう思ってしまったのである。

その後の「愛してる!」ダッシュと、それに連なる一種「広げた風呂敷を畳みなおす」感のあるラストではちょっとダレてしまったけれど、あぁ、もっと、弾けて広がりきって回収できないところまで飛んでいっていたらなぁ、というのはとても個人的な願望なので、聞き捨ててください。

東京デスロック 2001年-2010年宇宙の旅

07/08/2010 ソワレ

最近、東京デスロックの公演に出かけるとどうもくつろいで観られるようになってしまって、実はこの変化を僕は非常に歓迎している。前のめりになって眉間に皺を寄せなくてよくて、しかも観るに堪える芝居は、「東京死錠」とか「小劇場」からは予想しにくいかもしれないけれど、ふじみ市に拠点を移して以降のデスロックは、明らかに「おもてなし」「芝居のフレームとしてのホスピタリティ」をすごく意識するようになって、それは、多田淳之介が芝居のあり方について考えを巡らしてきた中で、非常にポジティブな変化だと思うのだ(とはいえ「リア王」の公演で演歌を流したのもそのホスピタリティへの意識の表れだったし、それに対して眉間に皺を寄せた僕は激しく拒否反応を示したのだけれども。それを誤魔化す積もりもないのだけれど)。

今回の「宇宙の旅」は、ふじみ市民会館の中庭の池を使って、「ふじみのデスロック」=「ふじロック」。野外、ワンドリンク付き、オールスタンディング(もちろんペタッと座って観てもOK)、携帯つけっぱなしでOK、写メOKのゆるーい感じ。場内には中年男子「腕組み隊」もいれば浴衣のご婦人もちらほら、おばあちゃんと孫の小学生がまったりと腰を下ろして、まさにこういう芝居は客席後ろから全体が見晴らせるところで観ていたい。

そして、この緩さは(そこまで織り込んで芝居を構成し、創り込む過程が創り手にとっては苦労を伴うものだろうけれど)、とても強い。そして、柔らかな強さの中に、(いわゆる「展示物」としての芝居よりも)想像力へのスイッチを数多く埋め込むことができると実感する。開演後、ステージを据えた池の向こうに見えた只見客の子供たち、イヌを連れたおじさん、近所から聞こえる太鼓、東京音頭、炭坑節、マイクのアナウンス、ステージ近くの瀕死のセミの声、そういうものが、「硬いステージへのスパイス」としてではなく、「柔らかいステージ」に欠かせない構成物として、アクチュアルな瞬間瞬間を輪郭づける、そのことに、今更のように驚く。

過去・現在・未来を意識しながら、舞台に提示されているのは常に「現在の」姿でしかあり得ず、佐藤誠のツイートは「現在の」つぶやきでしかありえない、という「現前性」を大前提としながらも、ラストにかけては未来への想像力に向けて観客をジャンプさせる滑走路が周到に仕掛けられている。その仕掛けはもちろんドラマツルギーとして素晴らしいのだけれど、僕にはそれよりもずっと強く、「想像力へのチャンスとなるべきスイッチ」が、この柔らかなフレームの中に無数に埋め込まれているさまに、深く打たれた。そして、その構造の中で、観客の意識が、舞台上の出来事と客席内の出来事、劇場外の出来事の間を自由気ままに行き来する、その行き来(すなわち、ときとして舞台上から意識が逸れてしまうこと)を許容しながら、緩いフレームの中で観客の集中力を暖かく包み込んでしまうこと。そういう中に、何十人もの人々と一緒に包まれていること、それが何ともいえず、気持ちよかったのだ。

本当に、こういう芝居に触れられる子供たちは幸せだ。媚びない、でも、生真面目に客人をもてなす態度。劇場は、その喜びをシェアする場所なのだ。

劇評掲載(手塚夏子「私的解剖実験5-関わりの捏造」、ワンダーランド劇評セミナー)

手塚夏子さんの「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」についての劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
相変わらず拙いものですが、240cm×270cmという数字にだけはちょっと自信があります。読んでみてください。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1361

2010年8月4日水曜日

toi 華麗なる招待 ツリーバージョン

31/07/2010 ソワレ

今日の「華麗なる招待」は「ツリー」バージョン。配役が入れ替わるだけでもかなり印象が変わるかなと期待してSTスポットに足を踏み入れると、なんとなんと配役どころか舞台の趣、構成に演出も大きく変わって、見応えいっぱいの舞台だった。

横浜公演は千穐楽終えたからある程度ネタバレ混ぜながら言えば、僕はツリーバージョンの方がより楽しめた。役者と同じテーブルに腰掛けて90年間を「体感(もちろんうそんこで)」する感覚に、何ともいえずビリビリきた。フランケンズで感じた(だからこの言い方はちょっと使い回し感があるけれど)「大人ままごと」な引き込み方。うそんこだと分かっていてもなおその場に居合わせることが楽しくなること。自分は「カネを払ってエンターテインしてもらう観客」ではなくて「大人ままごとに参加して、快楽をつかみとる観客」であることの確認。

何よりも、部屋の「中にいる」ツリーバージョンと「外から眺める」スターバージョンとではいろいろな距離感が違って、中からみたときの「死に向かう」距離感は、息が詰まりそうに長く感じた。そうやって考えると、スターバージョンのあの距離感も実はなかなか捨てたもんではなくて、一つのパッケージとしての90年間をぎゅっと括ってみせるやり方も、もっともっと楽しんで観れたのではないかとも思われてきた。

召田さんのルシアは目が離せなかったし、坂口辰平には娘大喜び、黒川さんのアーマンガードおばさんで締めくくってほしいというのは、toiが"The Long Christmas Dinner"を演ると聞いてからずっと心待ちにしていたことだし、もちろん他の役者陣も力が溢れ、満喫。

そうそう、一ついい忘れていた。スターバージョンの武谷氏。老いたウェインライトのおじさんの顔は、あれは、どうみても吉本隆明の顔真似だ。そうとしかみえなかった。

2010年7月30日金曜日

再び、覇王歌行のこと

水曜日に春風舎に行った帰り、わが敬愛する(そして勝手に人生の師と仰がせていただいている方々の内の1人であるところの)D井さんとたまたま電車ご一緒した。
BeSeTo演劇祭の「覇王歌行」で、俳優が如何にスキもなく訓練されているか、ということに、大変感動した、今回のBeSeToの中で一番よかった、さすが中国4000年、との由。
僕は「なんだか、俳優にねじ伏せられている気がして、特にアゴラのような小さな空間では逃げ場がなくて、なんだか複雑な気持ちです」と答えたのだが、改めて「訓練」について考えた。
それにしてもD井さんが何の留保もなく、掛け値なしにこんなに芝居を誉めているのをお聞きしたのは、(もちろん短いお付き合いだけれども)初めてかもしれない。そして、そういったものに向き合った上で、自分の演技をさらに磨いていくんだっていう気合がみなぎってて、
「負けてられない」
と思ったのだ。「人生の師」に「負けてられない」ってどういうことかって、自分で突っ込みたくもなったけど。

2010年7月29日木曜日

青年団スミイ企画 日常茶飯事

28/07/2010 ソワレ

初日。初見。
なんだ、この、全ての台詞が役者の身体から半径50cmまでしか届いてないっていう感覚は?
現代口語演劇を称して「半径数メートルの世界」なんてぇ言い方があるらしいけれど、ことこの公演にいたっては半径数十センチだよ。これをどう受け止めたらよいのか、いろいろ、困った。

最初は、テクスト弱いなぁと思ったのだ。実際、音は聞こえてきても何を言ってるかが分からなくて、本当に、役者を離れて50cmくらいのところでポトンと春風舎の床に落ちて消えてなくなる感じ。床に積もることさえなくて、言ってみれば度の高い焼酎のアルコール分のようなものか。

が、だんだんどうもそういうところを狙った演出なんじゃないかとも思えてきて、というのは、木引・宇田川の視線の交わし方は、テクストの強弱とは関係なく「視線を強く結びすぎない」ことに注力しているようにも見えたのだ。途中、うっかり二人が気を抜くと普通の会話が成り立ちかけて「いけないいけない」みたいなところが見えるのも、いつもの芝居とは違うところに集中している感じがして面白かった。

ワイヤー・紐を垂らした舞台に映像もよく映えて、春風舎の舞台奥の階段の手前に何層かに分けてアクリルが嵌ってるような、そういう奥行きが感じられたのも面白い。

しかし、本当に全てのテクストがへろへろと床に落ちていくのに60分付き合っていて、「これ、面白いよ!」とはならなかったなぁ。残念だけど。やはり、見慣れないものをみる時にあからさまに拒絶するのは良くないと分かっていても「これで良いのだろうか?」というのは先に立つ。
「届かない」のと「届けない」のは性質が違うし。身体でグイグイ押す感じでもないし。演出の狙いに観客として的を絞れないのは観客としての資質によるとしても、だ。でも、そこから先にぐぐっと突っ込みたくなれなかったのは、それは、うん、もうちょっと、ズルくても良いと思ったんだ。もし、速球を頭にぶつけるくらいの気の引き方を方法として取らないのであれば。そういう考え方って、どうだろう?

2010年7月28日水曜日

パルコ劇場 空白に落ちた男

25/07/2010 マチネ

2006年に拝見した時の驚きはいまだに忘れていないし、ベニサンピットからパルコ劇場に場所を移してもなお、期待が裏切られることはなかった。

5人のパフォーマーはパルコ劇場の舞台を広いと感じさせず、たくさん動いているはずなのに「空間を埋めに行っている」感じが一切しない。物語を語りに行かず、おそらく多少話の辻褄が合わない(かもしれない)のには目をつぶって、動きのスムーズさが観客の視線を釘付けにする。ふと上方に目をやると、じつは舞台の天井にもベッドがしつらえてあったりして、そういうところのサービスがまた嬉しい。

会場には親子連れもチラホラ目に付いたが、これほどの名人芸なら子供達も飽きずに見入っていたに違いない。と書きたいところなのだけれど、恥ずかしながら、途中一箇所だけ瞼が重くなってしまった。安藤洋子さんのソロが始まる直前。どこを取っても面白いはずのこの公演でなぜ?と思ったのだけれど、多分、自分なりの答えは「音楽」。アコーディオン主体の音楽で、割と「音圧」「音の厚み」が始終一定だったと思う。音楽にしろ照明にしろ電車の揺れにしろ、一定の刺激を絶えず受け続けると、人間眠くなってしまうものだ、と、ちょっと自分に言い訳した。

2010年7月25日日曜日

toi 華麗なる招待

24/07/2010 ソワレ

ここまで、「なにげにすげーこと」をされると、なんともいいがたいものがある。

受けたショックの大きさから言うと、1月に神奈川県民ホールで観たリーディングの方が実は大きかったのだけれど、しかしながら、それはおそらく、そのときに初めてワイルダーの戯曲に触れ、また、そのモダンさに驚いたことが大きく作用していて、このとき以来ワイルダーの戯曲いくつか読んだ今となってはその驚きを同じくらい味わうことは出来ないということでしかない。

1月にもこんなことを書いていて、

**********
役者の身体は実時間に正直に動かざるを得ないから、そこはきっかり40分。観客にも、実時間を過ごしてもらいながら、虚構の時間90年も観てもらえる(かもしれないし、ダメかもしれない)。そのギャップに茫然とするのではなく、物語に身を投げてもらうでもなく、それを味わってもらうこと・・・

身体は実時間に正直で、テクストは虚構の時間を流すことに向けてウソをついてくれる、あるいは、ウソの裏打ちをしてくれる、となると、やっぱり役者がどれくらい自分の身体とテクストとの間に距離をとれるか、ということか・・・な?
**********

その考えは今でも変わらない(今回は70分だけれど)。この、実時間とテクストの時間のギャップを、どうやってメソディカルに埋めていくのかというところに、演出・役者の技量の大きさ(上手い・下手というよりも、視野の広さ、キャパシティの大きさ)を感じる。

その技量が、STスポットという、ぎゅっと小さな空間で凝縮して示されるから、神奈川県民ホールでは割と未処理のまま残した「のりしろ」はよりきちんと処理され、結果として「よりさりげなく、すごいことを」という運びになった。

武谷氏の"ウェインライト氏"の存在感は、構成のいじり方ともあいまってかなり「意味のついた」感じに演出されている。一族の歴史からはみ出して、ハードウェアとしての「家」が「誰に」憑くのか、という過程がより前面にせり出してくる。こういう見え方はワイルダーも想定はしていなかったでしょう、と思ったりもして面白い。

これだけ素晴しい上演なのだから、2つくらい不満を言っても良いだろう。これら不満が、上演の価値をいささかも貶めることはないだろうから:
① 出はけ。県民ホールと比べたときに、あまりにも出はけまでの距離が近いこと。これは、メタフォリカルには、「死との距離が近い」というふうに解釈することも出来るけれど、でも、やっぱり死に向かっての滞空時間があまりにも短いのは、芝居として「見せ場」あるいは、もっと丁寧に味わいたい部分を切り捨ててしまっている気がしてもったいない。
② 冒頭の「タクシード・ジャンクション」は第二次世界大戦直前の曲。ヒットしたのは1939年グレン・ミラーオーケストラなので、冒頭のこの曲は、観客の時間軸を混乱させる。まぁ、誤意訳だし、登場人物もいじってあるので、こんな些細なことで混乱してはいけないのかもしれないが。じゃあ、何を歌うのか?やっぱり賛美歌なんだろうな。当時の流行の、とか。

鉄割アルバトロスケット 鉄割ベガズバンケット

24/07/2010 マチネ

相変わらず面白い、という他ない。
「鉄割がそのナンセンスパフォーマンスに磨きをかけ、洗練の度を増した」と評されるのは、鉄割りの面々にとっては不本意なことだろう。「洗練の度を増す」ために日々精進しているわけではないだろう。
逆に「相変わらずまったく洗練される気配を見せない」というのは、一瞬「鮮度が落ちないってことか?」と褒め言葉のようにも思われる一方で、「え、旧態依然ってこと?」ととられる可能性もある。
だから、色々工夫して褒めたりしない。いつも通り面白かった、としか言いようがない。

もちろん「園まなぶ」や「ドント・ピス・アラウンド」、「馬鹿舞伎」など、プログラムもらった瞬間に「よし、楽しみ!」と思うようなのもあるんだけれど、それらは、観客の側の手抜きというか「演ってくれたらいつでもウケる用意できてるからね!」ということではあって、創り手の側にとってみれば「いつものように面白がってくれる」だけで喜んでいてもしようがない。新しいネタをどしどしやるのか、同じネタでも新味を加えていけるのか、新しければ面白いというわけでもないだろう、というわけでいずれにしても茨の道である。

そんな茨の道を進み続ける鉄割ビバ!とまとめてしまっても良いのだろうけれど、でも、どうにもこうにも腕組みして客席にどーんと腰掛けてしまいがちな40代サラリーマンとしては、鉄割のパフォーマンスをゲージツと呼ぶのかゲーノー転じて・煎じてゲージツとなすかなんてことをつい考えてしまってとても良くないのである。まぁ、そのどちらであろうとも、鉄割が、ゲーノーに落ちず、かといってゲージツに堕ちないところですっごいnarrow pathを進み続けることに対して命を削っていることは間違いなく、そういう態度に対しては、一観客としてはとにかく観るしかない。つまんなければつまんないというしかない。幸いにしてつまんなかったことがない。だから観る。幸せである。いや、マジで、幸せだ。

ちなみに。今日の僕のお気に入りはJAZZJAZZJAM、嫁は閻魔さんの弁天さん哀れむ、娘はあん珍と姫嬢 / 隊長さん。僕のオールタイムベストは五輪さん。

2010年7月21日水曜日

BeSeTo演劇祭 劇団コルモッキル

19/07/2010 ソワレ

千穐楽。
劇中人物の視線が妙な感じでシフトして、そこから生まれるうねりに呑み込まれて行く感じ。気持ちの悪いような、納得のいくような、妙な味わいの、そして観客を力強く巻き込んでいく見事な芝居。

<以下、ネタバレあり>

父・兄・弟・兄嫁・間男(消防士)の話。
最初は「引きこもり」で部屋から一歩も出ない弟の視点で芝居が組み立てられるかのような印象。往々にして、こういう半分世の中の動きに取り残されたセミ傍観者視点の語り手が物語を進行させるものだ。
と思ってみていると、開始10分で父が便所で正面向いて首を吊って死んでいる。そしてはけない。あ、傍観者になるのは父だったか、となる。
が、続いて兄嫁。この女性がカラオケ屋で働きながら家計を支えているのだけれど、父子と血のつながっていない存在として、やはり傍観者目線でこの家を語る。
映画監督の長男の帰宅で物語が動くかと思いきや、実はこの長男も家で起きていることは自分の生活にとって足枷でしかなく、彼も思いっきり重心を家の外に置いている。
もちろん間男は外部の人間だから、いくら家の核心に向かって行動していこうとも、所詮は外部からの目線でこの家を理解し、語るほかない。

この、家族のすべてのメンバー、芝居のすべての登場人物が、自分のいる場を自分の居場所として認めたがらない状況って、どうよ?
という感覚と、登場人物たちが「ほら、この舞台は私の本来の居場所ではないのですよ。観客のあなた方にはお分かり頂けますよね」と言わんばかりに面を切って客席に向けて台詞を言う様が、妙に符合していて、語られる立場の観客としては、どうにも居心地が悪くなってしまうのだ。

あぁ、オレにとって、家とは何なのか?
「オレんちってさあ」といって、半分面を切りながら、重心を半分外の世界にかけながら、やれやれといったそぶりで語るべき場所なのか?

芝居が進むにつれて、傍観者面を気取る登場人物たちが、実は、揃いも揃ってこの家の雰囲気・輪郭を形作る過去のエピソードの「当事者」であることが明らかになっていく。

そうやって巻き込まれてしまうと、もう、観客として傍観者面決め込んでいくことに対する罪悪感というか、一歩劇場を出たらこの傍観者面が逆転するんだなという不快感というか、そこから逃れられなくて、たまらない気持ちになる。そして、その立場を宙吊りにしたまま、父の死体も便所に吊るしたまま、芝居が終わる。

こうやって書いているとなんだか観ていて不快な芝居だったみたいな印象を受けるかもしれないが、さにあらず。便所に首から吊り下がったまま息子を呼び続ける父、突撃特攻で家の核心に迫る消防士には声を挙げて笑うほかなく、兄嫁の女優のキレイさと年増ならではの疲労感・饐えた色気、兄弟のえもいわれぬ緊張は、どれも役者力みせつけて素晴らしい芝居。堪能した。そして、大変印象に残る芝居でもあった。

2010年7月20日火曜日

OPAP 夏の夜の夢

18/07/2010 マチネ

千穐楽。楽しかった。とてもよく笑った。素直に。
役者・スタッフみんな学生で、それはそれで「学生演劇」なのだけれど、演出田上豊の意図がよく見えて、しかもそれは嫌味とか妙にプロっぽいというのではなく「面白いことをやろう。そして(出来る限り)楽しくみせよう」ということで、そういうのが嬉しい。そして、大体そういうときには結果として面白いものが出来てしまう。

役者達が(おそらく、大抵の場合)無我夢中で演出に言われたことを追いかけて、追いついてないような気もするけれどとにかく追いかけて、誉められれば嬉しく、ダメ出しされればへこみ、でもやっぱり個人としては全体の芝居の出来がどうとかというところまで大きな視点でみられる訳もなく、とにかく演出を信じて走り切ろうとしている、という感じがとてもした。

とにかく全力疾走で追いかける態度は役者にとって「幸せな」ことだ。特に演出がヘボでない場合には。だから、今回の「夏の夜の夢」は、幸せなステージだった。ほんっとに年寄り臭いことを言うと、自分の若いころのことを思い出して、ちょっとせつなくなる。

もちろん、ふと立ち止まったら自分がどこにいるのかに自信が持てなくなっちゃったような人も、あるいは、自分の行きたい方向が演出と違った方を向いていることに気がついちゃったような人も居るだろう。それはそれで良し。

岡田利規演出のゴーストユースを観てすげーと思ったときもそうだけれど「学生だから面白い」とか「学生だけど面白い」というのではけしてない。一方で、「学生だからこそ面白くなった」要素も、どこかにあるわけで、そういう要素を排除するでもなく、割り切るでもなく、素直に芝居としてもっと観られたら、観客としてももう少し幸せになれたかもしれないが。まぁ、いい。楽しいステージだったし。今度コレ観る時は野外がいいかな。

2010年7月18日日曜日

吾妻橋ダンスクロッシング

17/07/2010 ソワレ

昨年9月にも
「いや、何を差しおいても観に行け、というものでもなかったよ」
なんてぇことを思っていたりしたのだけれど、やはり観に出かけてしまう。特に、今まで聞いたことのないような名前が出ていると。

ごく一部、おそらく趣味の問題として僕が受け付けないことは最初から分かりきっていた出し物一つは別として、どれも水準以上の(というのはとってもおこがましいのだが、つまり、がっかりしない)面白さで、そこで、「ウォオォー」と盛り上がらずに、何となくホッとしてしまったりするのが、我ながら弱い。ここのところ、何だか、感度が弱っている気がする。「鈍っている」というのではなくて。

篠田、なんだかまた面白そうなことを考えているなー、もっともっとこなれたカタチで載せてこないかなー、とか、飴屋さんの出し物の圧倒的なベタザラ感を真正面から受け止めきれない自分はなんなのかとか、Line京急が加速度的に突き抜けていく感じとか、やっぱりKentaro!!を水上バスで見られなかったのはとっても後悔されるけれども、でもアゴラが楽しみだとか、色々ある。が、どうやっても心に残るのは遠藤一郎。この突き抜け方は、どうにも突き刺さる。何の悪意も差し挟まずに観られるか?観せられるか?たまらん。

吾妻橋だったから受け入れられたのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。でも、逆に、遠藤一郎がいたから2010年の吾妻橋が一生記憶に残るだろうということはかなり確かだ。

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第8回

03/07/2010

劇評セミナー第8回。全8回のコースの最終回は手塚夏子「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」についての劇評合評。講師に武藤大祐さんを迎えて。

武藤氏、率直・正直かつ整理されている。整理されているから、整理しきれない部分もとってもよく見えていて(「とっても」という言葉遣いには照れがあるのだそうだが、敢えて使うが)、話を聞いていて引き込まれる。そして、「観る」力だけでなく「読む」事に関しての注意深さもただ者ではないと。

ノート代わりにここに書くと(引用される場合はコピーライト武藤氏です!)
A. 劇評の成分の洗い出し
 (1) 描写
 (2) 問い掛け/問題意識 ⇒作品をどう観るかの視点の設定
 (3) 分析・考察
 (4) 文脈化
 (5) 評価/価値判断
B. 劇評の書き手の立ち位置・スタンスの3類型
 (1) 作者の意図・やろうとしていることは何なのかを書く/読み解く
 (2) 自分視点(に徹する態度)
 (3) パフォーマティビティに関する分析(起きた出来事全体を俯瞰)
C. 劇評が向かう、2つの正反対のベクトル
 (1) 評価する
 (2) 筆者の思想を語る

書き手としてこういう類型に予め嵌まっていこうと考えることはしないけれど、少なくとも「整理されているから、整理されえないものへの視点が開ける」のはここでもよく当て嵌まると思う。

そして手塚氏の作品についての語り。自己言及性が強すぎて、そもそも「語ること」自体が要請されるような、あるいは語るに及ぶような、作品であるかというのが一つの勝負どころ。そういった作品について「書く」ときに、思わず(何歩か)引いた視点で書かないと書けなくなってしまう者、一歩も引かずにドロドロになって書く者、何故かバランスが取れてすっきりと書けてしまう者、それぞれあって、その違いそのものも、「何故そういうスタンスに陥ったか」に関する筆者の説明もすごく面白い。これだけ方法論に拘った作品=「推論」や「妄想力」の餌食になるおかずを取り払った作品であっても、こんなに観方・書き方が多岐にわたるのだ、ということに対し、改めてポジティブに驚く。またしても充実した時間だった。

次の予定があって途中退出を余儀なくされたのだけれど、どうやってセッションが締まったのか、後ろ髪ひかれる思い多々。

2010年7月14日水曜日

劇評掲載(中野成樹+フランケンズ「寝台特急"君のいるところ"号」、ワンダーランド劇評セミナー)

中野成樹+フランケンズ「寝台特急"君のいるところ"号」についての劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
この間の青年団「革命日記」についての劇評と同様、ほんとに拙いものですが、僕がどういう風にフランケンズのお芝居を愛しているかについては、多分ちょっとくらいは書いてあるんじゃないかと思ってます。読んでみてください。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1330

2010年7月13日火曜日

青年団 東京ノート 日中韓バージョン

10/07/2010 ソワレ

東京ノート、新国立劇場中ホールロビー公演の2回目は、日中韓バージョンで。

中国・韓国からそれぞれ2人ずつの俳優を迎えて、全体のアンサンブルの水準は保ちつつ、色彩を加えることに成功していた。

しかしなんと言っても今回の勝因は客席の座席位置。前方、最も下手の席から舞台を見ると、遙かに続く階段の向こうまできれいに見渡せて、俳優の出はけの滞空時間が信じられないほど長く、これは他のどんな劇場であっても(木漏れ日はらっぱの唐組のテントの向こうに広がる景色であろうとも)実現できないくらいの奥行きをもって、しかも見上げるアングルで、うつくしい。俳優達が、降ってくる感じ。ゆらゆらと舞い上がっていく感じ。階段を俳優たちが行き来する光景を見ただけで、泣きそうになった。

そしてそのてっぺん、ガラスの向こうで客席を向いて仁王立ちする山内健司よ。いっぺんで涙引いたよ。あの姿は一生忘れることはあるまい。

2010年7月12日月曜日

BeSeTo演劇祭 劇団美醜 リア王

11/07/2010 マチネ

素晴しい上演。空間をダイナミックに揺り動かし、色彩を抑えが舞台美術であるにも拘らず様々なカラーが空間に溢れて、休憩無しの140分間、全く飽きることがない。

演出ノートに「結局は(・・・)世代間の争い」と書いてあって、そんなありきたりのものを見せられてもなー、と心配していたのだけれど、まったくの杞憂に終わった。舞台に載せてあるものは、もっと様々なニュアンスに溢れ、熱量が満ち、「とどのつまり」のお説教に還元しえないものだったと思う。

リア王の老人ならではの驕慢・怒り・恨みつらみ・諦念等々が、ドロッドロの情念が溢れ出すかのように描かれるのではなく、まさに大樹の中が空洞化し、かさかさになって、やがて折れるかのように描かれているのが印象に残る。それが、「若い世代」のドロッドロの打算や野望に満ちたウェットな演技と対照的。

グロスター伯とエドガーの再会シーンは、広いはずの舞台の上で二人の間に何の夾雑物もなく、なんとも二人の熱量が舞台中を埋めて、これから先グロスターとエドガーの道行きは涙なしでは語れないはずなのに既に涙が出てきて、これからどうなっちまうんだと本当に困ってしまった。グロスター伯・エドガーのシーンはずっと良かったのだけれど、リア王も負けじとみせる。本当に退屈する間もなく、しかも、「あっというまのローラーコースター」ではけしてなく、しっかりと濃密な時間を流して見せて、本当に、最大級の尊敬に値する舞台だった。

2010年7月11日日曜日

Beseto演劇祭 覇王歌行

10/07/2010 マチネ

何よりも驚いたのは、舞台上で提示される情報の発信者たる創り手と、情報の受けてであるところの観客の間で共有されていると想定される「辞書」が、日本・中国の間でこんなにも違うのか、ということ。もちろん日本の中にいても、新劇と宝塚と現代口語演劇とではかなり違っているから、国をまたげばもっと違うというのはさほど不思議ではないのかもしれないが。

まず、項羽の役の俳優よりも、ワキで色んな役を演じ分けてみせた長氏の手足の動きが、そうした「辞書」から拾ってきたボキャブラリーのオンパレードの趣があって、いつまでも飽きなかった。これは、微妙な使い分けまで含めて、どれだけ見ていても面白い。

音楽。最初は中国の音楽風に古琴の音を響かせながら、また、虞の歌も「あぁー、これが、虞と項羽の時代の中国の美人の節回しということなのねー」と思いながら聞けたりするのだが、戦いのシーンになってあからさまにブラスセクションが入ったりすると、うーん、なんでしょね、これ、中国ではそこら辺の統一感は問われないんでしょうか、それとも海外巡業だからこれくらいのボキャブラリーの中で回さないと厳しいんでしょうか、みたいなことを考えてしまう。シーンが進むにつれて喜太郎っぽいシンセの音も聞こえてくるし、この捩れ感は、必ずしも「滑稽」ではなくて、本当に色々考えてしまったのだ。

舞台上に乗っているプラスティックの陳列ケースは、中に兜や刀剣が入っていて博物館っぽい。あたかも、それら陳列品の中から項羽が抜け出してきて自分の生涯の真相を物語る、という趣向なのだけれど、その趣向があるからこそ、逆に、上記音楽の趣味とも合わせて、なんだか、「中国四千年展」の兵馬俑(レプリカ)展示の特別ショー、みたいな趣向に見えてきて、対処に困る。

正直なところ、役者本当に良く訓練されていて、達者で、でも、なんだか、観客のレベルを値踏みしたりしてないかな、といぶかってしまったのだ。それは、創り手と異なる「辞書」を持っている人たちを前にして上演する時に、妙な手心を加えるというか、「こういう語彙を使えばある程度最大公約数で乗ってくるだろう」とか、そういうことだ。それは、本当のところ、どれくらい必要なのだろうか? 必要ないと言い切るのはとても乱暴だと自覚しつつも、やっぱりこの疑問は生じざるを得ない。

2010年7月10日土曜日

柿喰う客 Wannabe

09/07/2010 ソワレ

今は亡い、とある友人が、チェルフィッチュの山崎ルキノさんがテレビに映っているのを見て「どうしてこの人はこんなにも自信にあふれていられるんだろう?」と、本当にポジティブに感心していたのを思い出した。それくらい、柿喰う客の連中は、アフタートークの場で中国や韓国の大先生(っぽい人)たちを前にして、自信に満ちた面構えで、どーだ、とばかりに客席を睨めていたのだ。

中屋敷法仁がトークでも言っていた「国際交流企画の中で、殊更に文化の間の違いを強調するのではなくて、むしろ『僕達、同じじゃないか』と感じながら、あるいは信じて、進めてきた」という言葉は、現在の、文化間の違いへのセンシティビティがソフィスティケーションのしるしと見做されている状況、かつ、柿喰う客の芝居の中では「みんな同じ」ではなくて「役者一人ひとりが愛しいものとして扱われている」状況を踏まえて発せられる時、実は、とても重い。ネガティブな見方やスカした目線がインテリの印、インテリジェンスなしじゃあ国際交流ムリ、みたいな甘っちょろい考え方に、完全ポジティブ路線で、しかも明るく楽しく対峙してみせる柿喰う客の連中は、本当にかっこいい。

芝居の方は、プロットはシンプルに、でも一つ一つの反応は極めて大切に。ヨーロッパの一軒貸し学生宿舎の風情で、ちょっとだけ平田オリザの冒険王を思わせる。ネタバレになるのでここでは書かないけれど、アフタートークで中屋敷氏の言っていた「だって、みんな地に足が着いていないでしょ?」というコメントは、この芝居の全体のトーンを見事に表して、これも冒険王を思わせるし、それが柿の芝居からつかめちゃうというのがまた、素晴しい。

アフタートークの、日中韓英4ヶ国語が飛び交って、舞台上・客席内、色んなところでスポンテイニアスな通訳が始まって、一つものをいうと全員に伝わるのに5,6分かかってしまうような、でもそれが許容されてしまうような状況も面白かったし、韓国から来た大先生が、「稽古期間は短かったのか?」「君らはプロか?」「もっと日中韓の違いを出さないと」みたいな、あからさまにこの芝居を「素人が短期間で仕上げた芝居」扱いしていたのも、これだけ力があって魅力的な芝居を観た後だと笑い飛ばしてしまえるし、と、他にもいろんなポイントはあったのだけれど、やっぱりこの芝居の一番の見所は、役者達の押し付けがましくない自信に満ちた佇まいですよ。

2010年7月7日水曜日

青年団 東京ノート

04/07/2010 ソワレ

東京ノート、やはりとんでもない名作だ。なんといっても俳優のアンサンブルの完成度の高さは素晴らしく、せりふだけでない、抑揚、ニュアンス、ちょっとした仕草、「この芝居のスコアを読んでみたい!」と思わせる。そして、月並みな言い方だけれども、何度観ても新たな発見がある。本当にとんでもない芝居なのだ。

まず、新国立劇場中ホールロビー特設会場の空間がすごい。劇中「狭くてスペースが足りない」という台詞を残しながら、この威容はどうよ!中身は二の次、国威高揚にぴったりな立派なスペースに、ヨーロッパから逃げてきたフェルメールや他のコレクションがやってきて所狭しと展示され、そのホールには、80年経っても全く変わらない日本人がやってくる。奥泉先生、これがイロニー、なんでしょうか?違うでしょうか?と聞きたくなってしまう。

そして役者。今回は、キャストがかなり入れ替わったバージョンで、まぁ、青年団の役者だから誰をとっても素晴しいのだけれど、その中で実は、恥ずかしながら今更のように「あ!」と思ったのは長野海で、今まで何でこの素晴らしさが分からなかったのだろうと自分を呪うほど、視界への入り方、フェードアウトの仕方、ふと出てくる押し出し、どこをとっても文句なし。「名無しカップル」の女性役は、安部聡子・天明瑠璃子・能島瑞穂・高橋智子等々、誰をとっても毎回「この役を演じると美しさ5倍増し」な超お得な役どころで、本当に僕は「だまされましたね」の台詞が大好きで大好きで仕方がないのだが、今回の村田牧子の「だまされましたね」にも泣きそうになった。今回も美しさ5倍増しの例に違わなかった。こうやって挙げて行くと本当にきりがないのが青年団の役者の層の厚さなのだが、本当に切りがないのでここらで一旦切る。

で、もう一つの発見は、東京ノートは、「物語を語れない人たちの話である」ということ。こんなにもいろいろな人がいろいろなことを語っているのに、どの話も、一つとして物語として完結せず、断片としてしか存在しない。平田オリザの作劇法として、「外の世界の物語を想像させる」というのはあるけれど、殊この東京ノートについては「語り得ないまま終わってしまった物語を、観客が勝手に補わないとしようがない」あるいは「物語を語りきることのできない登場人物をじっと観るほかない」ということになる。語らないこと・語ることができないことの雄弁さと豊かさは、同日の昼に観たNODA MAPのザ・キャラクターで露わになった「雄弁に語ることの貧しさ」と極めて対照的だった。

そしてまた、東京ノートは、芝居についての芝居でもある。光を当てているところだけ見て、ほかは真っ暗、だなんて、あからさまに芝居のことを述べている台詞なのに、初演から16年、今日の今日まで、芝居についてこんなに語っていたなんて気がつかなかった。うかつなり。

本当に、本当に、何度観ても素晴しい。中学生が観ても、大学生が観ても、サラリーマンが観ても、年金生活者が観ても素晴しいはずだ。初めて観ても、十回観ても、何度観ても素晴しいはずだ。そして、芸能に堕ちない。特定の芝居を必見だとはあまり言いたくないけれど、真剣に、必見。

2010年7月6日火曜日

NODA MAP ザ・キャラクター

04/07/2010 マチネ

ロンドンにいる時分「赤鬼」を観て大いに落胆して以来、「赤鬼は失敗だったと自己批判するまで野田さんの芝居は二度と観ない」と思っていたのだけれど、今回、魔が差したというか、いや、最近芸劇にいろいろと若いカンパニーも呼んでいて、新しいインプットもあって何かしら変わっているかもしれない、という期待感をこめて池袋へ。またしても大いに落胆。

しょっぱな、漢字の字面が浮きだして浮遊する感覚は、多和田葉子の「飛魂」を読んだ今となってはエジプトの後にローマを見るが如し。野田さんをもってしても多和田さんには及ぶべくもないことの再確認でしかない。台詞を一生懸命がなる人が多数派なのも、2時間もたせるには苦しい。

が、もっとも気になったのは、物語・メッセージを一生懸命に伝えにいく姿勢。オウム真理教の事件が、僕たちや野田さんの世代(1960年代生まれ)に激しいインパクトを持ったことは否定しないし、むしろそれには同情する。同情はするが、共感はしない。野田さんのキモチやイノリを素直に謳いあげてもらっても、ただただ困ってしまう。

一つのモチーフに基づいて舞台を組み立てることを否定はしないけれど、そこから妄想が沸き上がり、力強く羽ばたいて、手がつけられなくなるくらいに広がって行くところにこそ演劇の可能性があるはずだ。漢字遊びも言葉遊びも身体の動きもギリシャ神話も、すべてメッセージを伝えるための「道具」として芝居の中にちりばめられ、最後にはオウムの物語に回収されてしまうのは余りにも口惜しくはないか。

あるいは、「共通の言語・体験=おおよそのコードの発信と解読の体系」がまるっきり共有されている(僕は「同一の辞書を使ってコミュニケートしている」と言いたいが)中で、自分の提示するものが観客に受け取ってもらえるという誤解があるのではないか?

そういう場ではもちろん観客の妄想がジャンプする余地はついぞ与えられず、野田氏の想像力もオウムの偽りの太陽に焼き焦がされて地に墜ちたように感じられた。

芝居がハネて娘と食事しながら、「昔の野田さんの芝居はこんなじゃなかったんだ。もっとワケわかんなくて、そして想像力が膨らんで、世界が広がるような、そんな素晴らしい芝居だったんだ」と思わず力が入る自分に、涙でそうになった。

鳥の劇場 白雪姫

03/07/2010 ソワレ

アゴラでこういうバランスの、しかもきちんとした芝居を観ることができるのは大変幸せなことだ。作・演出の中島氏が言うように、子供に見せるちゃんとした芝居、かつ大人の鑑賞にも充分堪えるもの、35年出会うのが遅すぎたよ。

素材が白雪姫だから、作り手の側も「何とかして物語を説明しなくては」というプレッシャーから自由になって舞台を組み立てることが出来る。その結果、演技、照明、舞台美術、小道具、音響といったところの細部まで手をかけることが出来るという好循環。

役者陣いずれも好演していたけれど、僕の一番のお気に入りは家来役の葛岡さん。「家来」というよりもむしろ僕達観客の先導者、視線の代理人として舞台の上のいたるところに顔を出してくれるのが頼もしい。森の小人のシーンでは(お城の家来の役だからしょうがないのは分かっていても)葛岡さんが出てこなくなってしまって、少しさびしかったな。

鳥取の観客の視線でかなり鍛えられ、磨かれているんだろう、こういう磨かれ方って、東京の消費者の中で揉まれても絶対に起きないことだと思う。素晴しい。

2010年7月5日月曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第7回

03/07/2010

劇評セミナー第7回は手塚夏子さんを迎え、自作「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」について語っていただいた、あるいは、分からないこと、感じたこと、自由に語った。「私的人体実験」が抽象度の高い作品だっただけに、受け手としては「イメージ・妄想の膨らみ」を伝えるとともに「種明かし」が欲しい的な興味ももちろんあったわけで、いや、もちろん、種明かし的なコメントも頂いたのだけれど、タネがわかったところで腑に落ちて「あ、そういうことね」とお勉強して終わったりは決してしなくて、それがまた色々な概念・考え・妄想・連想を生み出して、すばらしく豊かな時間となった。

・自分の身体を細かく観察するということ
・「実験」から舞台上に出てくるものを「泳がせておく」ということ
・「観察する自分の眼」と「観察される自分の身体」の表裏不一体、薄膜一枚分引き剥がされる感覚、その薄膜一枚を行き来する情報フィードバックのループの波長の長短と、結果舞台に現れるもののレゾルーションのきめ細かさについて
・現代口語演劇が持つ問題意識との親和性。平田オリザ、多田淳之介、松井周と手塚夏子。演出家・コリオグラファーの手綱の長さとパフォーマーのモチベーション。
・可能性を狭めることと広げること。数多くの可能性を意識しながら、今ここには自分のこの身体、動きしかないということ。
・インターフェースということ。
・舞台上のスピーカーから流れるパフォーマーの声と肉声の音との微妙なずれ、ゆらぎ。それを差配した牛川紀政氏がいかにこのパフォーマンスの肝を掴んでいたかということ。

すげえ。手塚さん、僕が外れたことをいうときちんと「それは違う」と言ってくれるし。こんな会話が午前1時の居酒屋とかじゃなくて、午後3時のアゴラ劇場稽古場、午後5時半のイーグルで交わされているということが奇跡のようにすら思われる。

重力/Note 二人/狂う

02/07/2010 ソワレ

「最近の若い人は」と人括りにして言うのは本当に良くないと分かってはいるのだけれど、やはり第一印象として「本当に最近の若い人は真面目だし、しかもきれいにまとめる能力があるなー」と感じてしまった。

幕が開いてのっけから「ってこれは地点の安部さまコピーじゃあないか」と思わせてしかもその点に何の照らいもなく、で、実際役者陣にも力があって、「あまりにも地点コピーですね」というポイント以外殊更に貶める根拠もない。舞台美術もテアトロ・ド・ソーニョの雰囲気とマッチしてきれいだし、星野大輔の音響はそれはもういつも通りキレているし、つまりはトータルのプロダクションとして色々なことをきれいにまとめて、しかもスカしてない。

でもね、そういう舞台を一時間観ていても、グイグイと空気を客席に向かって押し込んでくる力を感じなかったのだ(・・・あぁ、おじさん臭い)。あまりにも生真面目にまとめてあるからだろうか、敢えて例えるとすると、イヨネスコの戯曲が表通りの商店のショーケースの中に、あらゆる意味で過不足なく・大過なく・ケチのつけようがなく、すっきりと陳列されているのを観てきた、という感じがしたのだ。

きれいにまとまっていなくても良いから、ショーケースのガラス窓がビリビリ震えて割れてしまうような、いや、割れなくても構わない、思わずガラスに鼻面押しつけて見入ってしまうような、そういう圧力が感じたかった。

その圧力は、スタイルから生じるものではないだろう。むしろ、圧力がスタイルを生じさせるはずなのだ。それがどういう圧力なのか、客の立場で創り手にエラそうに説教垂れることはできないけれど、少なくとも、それは、戯曲を手に取った時点で演出家のどこかにビリビリきてたはずなんだ。スタイルが観たいわけではないんだ。そのスタイルを採用してしまう創り手のことに、もっと興味が持てたら・・・

そういうのがもっと観たい!(・・・あぁっ、またもや年寄り臭くなってしまった・・・)でも、それが正直な気持ち。

2010年6月30日水曜日

パラドックス定数 元気で行こう絶望するな、では失敬

27/06/2010 マチネ

野木萌葱氏、三鷹で大技に挑んだな、という印象。
その心意気は、買う。かつ、そんなに上手くいっていないこともなかったと思う。が、本来の持ち味であるところのディテールの処理の仕方に不満が残って、正直もったいない。


<以下、ネタバレです>

高校時代の記憶と大人になってからの現在とを並べてみせる話は世の中に沢山あるだろう。が、記憶を並べておいて、それを現在を軸にしてひっくり返して未来にぽいっと投げ出してやろうという試み、しかもその軸の真ん中の切り口に「芝居」を持ってきてやろうというのは、なかなかの大技だなぁと感じた。このところ「記憶」を過去で完結させたままにしてしまってそこから先がない、みたいな芝居をいくつか観てフラストを感じていただけに、なおさらである。また、パラドックス定数で過去に拝見した公演も「過去の事件」の閉じた世界をきっちり仕上げることが多かったので、そこからまた一味違う芝居をやろう、という意気を感じたわけである。

でも、まぁ、細かいところであれっと思うところは結構あって、例えば男子高校生20人のもてあまし加減を観ると、うーん、こういう汗臭さを力でねじ伏せる勘所は、(ほんとはこういうところで比べちゃいけないんだけど)田上豊に一歩譲るなと思う。男子高校生を扱う時には、どうしても、汗とか涙とか小便とか、そういう臭いものをさらけ出してこそ、と思うし、「頭をしばく」アクションも、もっと激しくないとなんだか解放されるものがない。たまに出てくるネコパンチではフラスト溜まる。

これは、野木氏をこき下ろしているんではなくて、「スタイルとして」野木氏の芝居の迫力は「押し殺す」方向でこそボルテージ上がるんではないかと思うってことなんだ。三億円事件、怪人21面相、東京裁判。そりゃあもう、今回だって、何かを押し殺してる男子高校生20人、あの面子揃えたら、ちびっちゃうくらいすごい芝居ができたに違いないと思うのだ。しかも野木氏の得意のゾーンで。

というわけで、野木氏の得意ゾーンと、狙った大技のギャップが色んなところでムリを生じさせていた気もする。もちろん力のある作・演出にてだれ20人揃えてそれは贅沢なことなのだけれど、色んなムリ巾を最後の大柿氏の長台詞に託すのはいかにも苦しい。もう一度、自分の世界に引きなおして挑戦してはどうか。「押し殺し」バージョンで観たい。あぁ、じじ臭く説教臭くなっちゃうのは嫌だけど、ほんと、なんとも勿体無かったんだ。

2010年6月27日日曜日

手塚夏子 私的解剖実験-5 関わりの捏造

26/06/2010 ソワレ

手塚夏子氏、初見。
観ていて何とも気持ち悪いパフォーマンス。だが、観ていて飽きることは決してない。リニアに時間を刻んでいくし、「身体」と「心」の動きもそれぞれリニアな軸の上を行ったりきたりして、途中でなんとなく結末も見えてくる感じなのにもかかわらず、そこで理に落ちて興ざめということもない。

「私的解剖実験」という名にふさわしく、人間の身体に人為的な刺激(あるいは制約)を加えたら、それが人体という不完全な機械のもう片方の重要な部分を占めるパーツであるところの「心」「感情」にどのような作用を及ぼすのか、そして感情は身体にどうフィードバックするのか、そのループの具合には正解の糸口も試行錯誤の出口もなくて、劇場を出るときにはなんともいえない不快感が残る。

これから一体何が起きるのだろうということにとても関心を持ちながら観続けた。けれど、どこまで段取りを決めてどこから計算が効かなくなっているのかは見破れなくて、いや、「ひょっとしたら計算できないハプニングに頼る部分が大きかったらどうしよう?」という不安も実はかなりあった。

劇場を出てからかなり時間がたってから思えば、その不安には"ほぼ"根拠がなかったし、何となくロジックで説明できそうな部分もあるのだけど、どちらかといえば、終演直後のあの何ともいえない微妙な不快感の方が大事なのかもしれない。

三条会 失われたときを求めて 第2のコース「花咲く乙女たちのかげに」

26/06/2010 マチネ

三条会による「失われた時を求めて」全7回中、今回は第2回。

<以下、ネタバレあります>


今回は前回よりもぐっと分かりやすくて、立ち上がりのフェードルから中盤、少女が分厚い文庫本のページを繰るところ、ラストの少女たちの戯れまで、ドライブ感もたっぷり。

面白かったのは、小生が「あ、ドライブかかってきた」と感じた中盤の「見出し飛ばし読みコーナー」で、娘は昏睡状態に陥ったらしい。確かに、そのコーナーでは「眠るなら眠ってしまえ」みたいなものも感じたのだ。海辺に波が寄せては引く映像流しっぱなし、役者が動きを止めて文庫本読みっぱなし。これでは眠りに落ちる観客を責めることはできまい。と思ってみていたら存外自分は眠らないでいられたのだが。

そのドライブ感を起点にして、テクストの肌触りが舞台上に浮き出してくる。あたかも文庫本のページに印刷された黒いシミが、ブツブツと音にならない音を立ててページから盛り上がってくるような、そして、「発音される、理解される、そういう抽象なもの」ではなく、「テクストとして実体を持ち、ブツブツと音にならない音を立ててそこにある」ものに成り上がろうとする「テクストの」意志を感じて、ちょっとだけ震える。近藤祐子のテクスト流し読みは、子供の頃・思春期の頃に長い本を飛ばしながら読んでいったときの、そのブツブツが切れ切れに盛り上がりながら後方に流れていくドライブ感を思い出させて、僕の記憶は田舎の夏休みへと飛ぶ。マイクで連呼される「わたし」は、両親の実家にいて少女たちとの出会いも一切無く夏休みを過ごすわたしであり、ページを繰りながらうたた寝をするわたしである。

そのわたしの記憶の上に、ニセモノの膜を薄く一枚敷いて、偽りの記憶を埋め込んでやろうというテクストの悪巧み。それは私自身からすれば、ウソだと分かっていても、その肌触りがあまりに気持ちよいために手放したくないような、そういう悪巧みに、三条会はあからさまに加担している。

第3のコース、楽しみになってきた。

2010年6月21日月曜日

FUKAIPRODUCE羽衣 愛死に

20/06/2010 マチネ

最初の曲、金子岳憲が舞台の一番前に立って面を切って、まるで二枚目のように真面目くさって「クレイジィーラァーブ」と音程微妙にはずして歌うのを聴いたとたん、あまりのことに涙がでてしまった。なんだよ、これ!最初っからやられちまったよ!

というのは本当の話なのだが、今回のFukaiProduce羽衣は、一つのシーンをかなり長回しにしてねっとり見せた。「経験者組」と「初体験組」をうまく組み合わせ、どのシーンを見ても羽衣色がしっかり出て、しかも新鮮。藤一平さんのいない羽衣がどうなってしまうのかとても心配だったのだが、うん、なんだか、補強がうまく行ったシーズンのフットボールクラブのようで、よい感じ。

中でも内田慈さんは出色。
「うちだちか、あぁうちだちか、うちだちか」
手足の動き、キメ、背中の反り、歌、フリーズしている時の横顔、どうしても目が行ってしまう。しかも「あたし女優よ!あたしだけを見るのよ!」なところが一切なく、全体の中できちんとワークしているところがすごい。こういう芝居だからこそ改めてきちんと認識できる内田慈のすごさよ。

西田夏奈子さんも一声発した時点で痺れてしまうし、伊藤昌子さんも・・・いや、伊藤さんを見に行っているようなものですから、私は、毎回...。「経験者組」の女優の皆様もかわゆく、男優陣もいつものごとくかわゆく、満喫。

モモンガ・コンプレックス×aujourd'hui il fait beau 研Q

19/06/2010 ソワレ

研Qを観にキラリふじみまで。往復の交通費の方がチケット代1,000円より高い。いや、だからこそ1,000円というお値段がとても嬉しい。嬉しい上に、モモコンと今井次郎さんが競演するんだから、これは嬉しすぎる。

が、それにしても今井次郎さんの存在感はすごかった。なんだよこれ、ってくらいすごかった。それを背負って平然と演奏し続けるaujourd'hui il fait beau の人たちもすごかった。

残念だったのは、モモコンが、aujourd'hui il fait beau のぐだぐださの前では持ち味のユルさを出し切れずにいたことか。もしかすると年長者を立てていたのかもしれないけれど、モモコン側からもう少し突っ込んでも、もっと場が壊れてしまいそうなくらいにユルくしても、ぜんぜん大丈夫な気はした。

是非もう一度、欲を言えば開放感のある野外で、大道芸っぽく見てみたい。です。

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第6回

19/06/2010

劇評セミナー第6回は中野成樹+フランケンズの「寝台特急"君のいるところ"号」合評。講師に小澤英実さんを、サプライズゲストにフランケンズから中野成樹さんと小泉真希さんを迎えて。

小澤さん、とっても魅力的な方で、書いた人から色んなことを引き出すのが実に上手。きっかけ作り、あるいは、きっかけを掴んだところからさらに色々なことを聞き出す手管。本当はご自分で考えていることも色々とおありであろうのに、そういうところに流れていかない態度も実に大人で、感服した。

中野氏も、自分が演出した作品の劇評合評会にいらして、そういうアウェー感たっぷりな場にまずいらしていただけることに感服。そして、終わりごろに仰った(と記憶するが)「ワイルダーの原作と誤意訳との関係」「創り手が舞台に提示した作品と劇評との関係」を対比してみるような態度には、寛容と厳しさが同居していて、それもまた真摯で素晴しかった。

中野成樹+フランケンズの芝居は、一見して「よく考えて創られている」ことが分かるので、どうしてもそれについての劇評も「考えて書かなきゃ」というところに入り込みだとは思う。あるいは、「私はこう思うけれど、じつは創り手はもっともっと考えているんだろう。そこまでは見通せない」みたいないいわけじみたところに落ち込む可能性もある。実際出てきた劇評も割と「考えた、頭のいい」ものが多かったのだけれど、それでもその中にも思いもかけない視点や示唆や、妄想のかけらのようなものが存分に散りばめられて、もっともっと色々と芝居について話がしたくなる。真面目に芝居を語ってみることの効用がまたここにも。

2010年6月17日木曜日

庭劇団ペニノ アンダーグラウンド

13/06/2010 マチネ

これは「手術ショーが暴走し破綻する過程」を芝居に仕立てたものではない。
「模擬手術ショーの体を借りたエンターテイメントショーが暴走し破綻するように見える過程」を芝居に仕立てたものだ。
それは僕がここに書かずともみーんな知っていることだ。マメ山田さんが冒頭出てくるなり「これはショーです」と語りかけるし、「これらの機器は見かけだけ。ニセモノです」というし、患者役は顔と腕だけ出してあとの身体はベッドの下に隠してしまう。大体、最初から、生身の人体解体ショーなんか上演できるわけ無いし。

この芝居を観て、「何だか生々しさが足りないなぁ」とか「この薄っぺらいニセモノ感がどうも」とか、逆に「段取りが妙にリアルだ」とか「臓器の模型は、そうと分かっていてもニガテ」とか、そういう感想が出るのは何となく想像つくが、で、僕もそんなことを色々思いながら観てたのだが、最も驚いたのが「自分はなんと悪趣味で意地悪な想像力の持ち主であるか」ということだ。

悪趣味でもなければ、マメ山田さんがピア・スズキさんの前で「肝臓をコツコツと指し棒でたたいてみせる」ときに、「あぁ、もっとこれがグニョグニョとした感覚であったなら!」とか、思うわけが無い。坂倉奈津子さんが腸を引っこ抜いてしまう時に「あぁ、もっと制御不能に腸がグニョグニョと登場人物たちにからまってしまったなら!」とか、思うわけが無い。

タニノ氏がトラムのステージに載せているものは、それ自体が「悪趣味なもの」として完結しているものというよりも、むしろ「もっと悪趣味を!」という観客の望みを増幅する装置なのではないか、と思われたのだ。それにうまいこと乗っかって自分の悪趣味をはらわたのようにずるずると引き出されてしまった自分に、苦笑といっていいのか嫌悪といっていいのか、どうもフクザツな心境である。またタニノ氏にまんまとやられたということだ。

2010年6月15日火曜日

SPAC 彼方へ 海の讃歌

12/06/2010 ソワレ

SPAC「テクストもの」三本立ての最後を飾ったのはヘビー級のテクストの洪水、溢れ出るイメージ。クロード・レジの自信と知性と情熱に満ちたアフタートークの発言とも併せ、他の2作品のアーティスト達には若干気の毒ではあるけれど、まさに大トリの貫禄。

フェルナンド・ペソアの詩は、有体にいえば一人の男が波止場に立っていたら海についての妄想がとめどもなく抑えようもなく溢れ出してきて、ってことなんだけど、レジ氏、テクストにテクストが本来考えていたかもしれない「意味を伝えてOK」みたいなことで済まして仕事をサボるようなことを決して許さない。思いっきり時間をとって一音一音発語し、ぎりぎり「意味が伝わるところ」まで追い詰めて、文法的には繋がっているんだけど、子音の破裂や摩擦や母音の響きや、そういうところまでこれでもかとすっかり解体してしまう直前の寸止めのところで空間に解き放って、それが楕円堂の中を渦巻いていく様といったら。

言葉は意味の奴隷ではなくて、イメージであり、音であり、空気の震えであり、喚起するものであり、それ自体が快楽となる音楽であり、それら全てに触れたときに観客に生じるもの。そして演劇はテクストの奴隷ではなくて、舞台であり劇場であり照明であり身体であり音であり観客の固唾を呑む音である。すごい熱量で納得させられる。

オーネットコールマンがソロでアルトを吹きまくってるのを聞いたときに、彼の脳味噌の中身が音に形を変えてアルトサックスの朝顔の先からだだ漏れに、トグロを巻きながらホールの中に溢れ出ていくのを目撃したのだが、今回はテクストが役者の全身からトグロを巻いてゆっくりとはばたいて空間を満たすのを目撃したのである。稀有なり。快楽なり。SPAC、すげえ。レジ、すげえ。年をとっても大丈夫である可能性はある。と、少し思った。

SPAC セキュリティー・オブ・ロンドン

12/06/2010 マチネ

非常にエンターテイニングでおもしろいパフォーマンスだった。問題は、作者・パフォーマーのジーナ・エドワーズが、自分のパフォーマンスのどこがおもしろいかを理解していないことだろう。おそらく、二匹目の泥鰌はない。だからこそ逆に、今回の上演をみれたことはすごく幸運だったといえるかもしれない。

北ロンドンに住む47歳のパレスチナ人の男、カリブ系の双子のティーンエイジャー、80歳を超えたカリブ系の退役軍人。その組み合わせのバランスが絶妙。また、役から役へとシフトするときのうねっと変わるところが、落語の(あるいは岩井秀人の落語の)動きにも似て楽しめる。さらに個人的なことを言えば、73番のバスに乗ってイズリントンからシャフツベリーアヴェニュー、ピカデリー、トラファルガースクエァからサウスバンクまで。ロンドンの景色が見えてその中に犬をつれた47歳の中東の男が見えて、それだけで涙がでた。テクストが描く情景に、泣かされたのである。

ところが、そういうバランスや動きのおもしろさについてエドワーズが必ずしも自覚的でないことが、アフタートークを聞いていて見えてきてしまう。何故パレスチナ人なのか?何故退役軍人なのか?何故コソボ人ではなくてナイジェリア人ではなくてアイリッシュでもないのか?おそらく、かなり適当に、考えずにそれを選びとっているように思われた。また、役と役の間のブリッジのおもしろさについても、演出のシュラブサル氏にはわかっていても、彼女にはわかっていないように思われて、がっかりしたような、いや、逆に、巧まざるところでこんな素晴らしいパフォーマンスができあがってしまうところがさすが英国パフォーマンスアートの層の厚さ・力強さというべきなのか。

「社会批判ワン・ウーマン・ショー!」「監視カメラの王国」というSPACのキャッチコピーは、その意味ではかなり外れていた。良い意味で。
エドワーズの監視カメラに対する見方もまるっきり素直で(言ってみれば鴻上尚史の監視カメラものと同じくらいナイーブでつまらない動機なのではないかとも思われるけれど)、でも、そこに出てくる人たちの描写は、思いっきり考えていなくて思いっきりベタでしかも地に足が着いていて、力強い。自然にご近所のことを演じたら社会派になっちゃうのが、ロンドン芝居の強みってことかもしれない。いや、でもそんなこといったら、日本でだって、充分近所のこと演じてもポリティカルなことできるんだけど。

2010年6月14日月曜日

SPAC 若き俳優への手紙

12/06/2010 マチネ

SPACの週末三本立て、無料バス弾丸ツアー。この日は三本とも「テクスト」語りを中心にお題が組まれて、しかもそのテクストの扱い方がすべて違った。
第一弾はオリヴィエ・ピィが静岡で2008年に自演した「若き俳優への手紙」。日本語版台本を平田オリザ、演出を宮城聡のタッグで送る80分の二人芝居。

厳しいところを狙いに行った芝居だと思う。
80分饒舌に語り続けるにも関わらず、そしてそれが、舞台上を含む様々な場所で発せられる言葉について語る言葉であるにもかかわらず、その舞台上で詩人によって発せられる言葉自体が、(このように客席に対して語りかけられる芝居でよくあるように)この芝居の主題について伝えたいことを伝えているようにはとても思えないのだ。

ところが一方で「テクストの字面は何も語らない。テクストは状況や身体性を通して語られないことを語り得る」という、割と現在では通りの良い命題・落とし所に対しても、このテクストは「フットボールの試合と一緒にするな」と釘を刺してしまう。

そのくせ、再度裏を返してみると、どうも(語り手あるいは作者)自らがテクストに拘っていることの無謀さと滑稽さについても、自覚されている気配が濃厚である。どうにもやっかいなテクストである。

何重にもテクストに対する立ち位置をひっくり返しながら、この語りが演劇として成立するストライクゾーンは、たぶん恐ろしく狭い。そこを狙いに行ったのか。

その困難な企てに立ち向かって80分立ち続けるひらたよーこの男気や良し。が、前半やはり緊張していたのか、微妙なコントロールが狂って、ぐぐっとストライクゾーンに引き寄せられるところまでは、僕は行かなかった。が、まぁ、野球の楽しみは勝ち負けだけではなくて、微妙なストライクゾーンを巡る投手と打者と捕手の駆け引きを眺めたり推理したりするところにもある。気に病むことはない。心おきなく微妙なタマを投げ込めるプロダクション自体が気持ち良いのだ。

2010年6月13日日曜日

文学座 麦の穂の揺れる穂先に

06/06/2010 マチネ

邦生クンや木ノ下先生が歌舞伎の観客についてアツく語っていたことの意味がよーく分かったよ。前半、周囲に寝息とイビキの気配を感じて思わず見回せば、まあ、周囲16人いれば5人は熟睡していたね。上演中に甘ーいクリームやアップルジュースの臭いはぷんぷんするし、でも最後、江守徹さんが一人になって、何だかラストっぽくなると、みんなちゃっかり起きて舞台を見守っている。芝居がハネたら「やっぱり江守さんは良いわよね。おはなしは何だかわからなかったけれど」みたいなことをお友達と話しながらお家に帰るんだろう。

あ、誤解しないでほしいのは、ここで「文学座の客層はひどい」と言っているのではないという事。言いたいのは、「文学座の劇場では、小生が知っている小劇場の劇場と、創り手・観客にそれぞれ求められている『お約束』の体系が異なっている」ということである。

だから、平田オリザが文学座に戯曲を書き下ろす時、それは、なにがどうあろうとも「異種格闘技」にならざるを得ないのだ。これをもって、平田の演劇が新劇に近いという判断を下すのは、とっても間違っていると思う。実際、青年団ではこの戯曲上演しないと思うし。既成の青年団用の戯曲では文学座では使えないから新作を書き下ろすのだろうし。

まぁ、その異種格闘技感の中にあっても、前回平田が書き下ろした「風のつめたき櫻かな」は、初戦ということも手伝ってか、ガチンコ感漂っていたのだが、今回はどうやら文学座ルールに歩み寄った(擦り寄ったでは決してなく)感がある。同時に、旧作「この生は受け入れがたし」「隣にいても一人」の切り貼りも使って(だって自分の戯曲だし、小津への敬意は昔からだし、使って差し支えないものは何でも使いますよ、ということだろうけれど)、余裕のある構え。うーん、こういうのもありですか。あり、なんでしょう。どうやら。

文学座の「お約束」の中でのベテラン俳優陣の強さには目を見張るものがあった。特に、女優2人。文学座ルールの外ではどうだか知らないけれど、ホームでの戦いではルールを知り尽くした上で見事に空間を支配する。生意気を言う積もりは無いけれど、大したものだ。

そうやって思い返すと、今回の「異種格闘技」は、文学座ルールに近いところで、文学座に軍配が上がりやすい設定だったのだろう。もう少し、戯曲の構造が「文学座のルールを揺るがしているかもしれない」ように見えるとよいなー、とも期待していたのだけれど。まぁ、1回・2回で勝負がつくようなものでもないだろう。きっと。

劇評掲載(青年団「革命日記」、ワンダーランド劇評セミナー)

青年団「革命日記」について書いた劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
拙いものですが、ご興味ある方ご覧下さい。書きぶりは拙いが、日頃考えていることは反映されていると思います。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1300

2010年6月11日金曜日

快快 SHIBAHAMA

05/06/2010 ソワレ

快快が、古典落語「芝浜」を材料に「一年、いろいろやってみたり考えたりして」舞台に上げたのは、現代の僕らに芝浜シチュエーション当てはめたらどうなのか、どれくらい芝浜の物語って共有できるものなのだろうか、という課題に、ド真ん中直球で答えてみせようというバラエティ。はちゃめちゃやっているように見せかけて、実はほんとに生真面目でロジカルなプロセスを踏んでいることを思い、何だか、その場では気安く楽しんでいたことが、後から「わるかったかなー」と思えてきたりもしたのだ。

冒頭、ガジェット使ってテクストと身体を「ぶった切り/再構築」してみせる試みにはハッとする。が、これだけでは5分、長くて10分が限度。そこから始まるバラエティショー。ウェーブあり、ゲームあり、キャバクラあり、じゃんけん大会あり、格闘技がちんこ対決あり、と、パーツパーツをつまみ食いすれば「大暴れ」「ドンちゃん騒ぎ」と見え、芝居の枠をはみ出しているといっても差し支えないのかもしれないけれど、いや、待てよ。芝浜の物語のパーツを個々に取り出して、そこに現代のカウンターパートを当てはめて舞台に上げてみるというプロトコル自体は極めてロジカルで、構成ともども「すっごく考えた」結果である。少なくともそういう風に見えた。「ノリ」があってそこにロジックを後付けしたようにはとても見えなかった。

そのロジックの生真面目さに加えて、今度はそれを「突き詰めた」時の加速度についてもおんなじことを考える。特にコージ君のガチンコ格闘技。3日ハイ体験記。いや、それは、真剣に本当に心配ではあるんだけど、でも、それを差配する篠田千明の眼はとっても冷静で(いや、眼がすわってただけなのか?)、絶対に誤った方向に行かないという「ロジカルな」安心感が同時にあった。それをどう捉えればよいのか、自分でも困ってしまった。

とは言ったって、快快のおもてなしぶりは本当に、いや、それこそ真面目に「楽しませよう」という態度があって、仲間うちでない人たちにも間口がひろーく開いていて、それは毎回毎回涙出るほど嬉しいところ。

だから、上で書いたような理屈っぽいところでうじうじするのが、小生のような「もてなされ下手」のいけないところだなぁと思う。遠くの客席にいる青山社長は、本当に、大人に、かっこよく、自分のペースで、SHIBAHAMAを楽しんでいた。羨ましい。あんな大人になりたい、と思ったことである。

2010年6月6日日曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第5回

05/06/2010

劇評セミナー第5回は中野成樹氏が自作「寝台特急"君のいるところ"号」を語る回。本当にたくさん語って頂いた。一見ランダムに話題を散りばめているように見せながら、実はかなりのところをカバーする感じ。

・中野氏が自分のジャンルの拠り所として譲れないであろう部分=「ブレンドとミディアムテンポ」=「吹奏楽とカシオペア」=人を煽らないスリル。まがい物っぽさ。
「日本ではオケが難しいから吹奏楽で演るしかない」みたいなことを芝居でやること。
・微妙なタッチや息継ぎの合わせ方=芝居の中での細かいところの処理。音楽との合わせ方。カーテンコールの長さ。
・四季のミュージカルを観ながらブロードウェイのミュージカルを想像して泣けること。
プラトンのイデアの話。
・「"君のいるところ"号」は、「ハヤワサ号」ではないこと。でもワイルダーであること。

「カシオペア」という喩えは何だかすごーく納得的だった。それは、中フラが一種極められるであろう場所への期待と、そこに対して僕が(ある程度納得しながら)感じ続けるであろうフラストレーションを同時に表しているように思われた。

セミナー受講生の方に「大学でワイルダー研究してました」という方がいて、これも大変勉強になる。中フラや柴氏の動きを見ているとワイルダーってもっと上演されている・読まれている作家かと思っていたら、意外とそうじゃないんだな。「おはなし」というジャンルが無自覚に日本演劇の(もしかすると世界の演劇の)大きな部分を占めているとすると、まだまだワイルダーの作品は"underrated"なんだな、ということも考えた。

「"君のいるところ"号」のタイトルのつけ方について尋ねる受講生がいなかったのは、一種驚きというか、やっぱりというべきか。あまりにもベタな質問なので避けたのか。アフタートークやったら真っ先に出る質問だと思うんだけど。それも面白かったかな。

2010年5月31日月曜日

マームとジプシー しゃぼんのころ

30/05/2010 マチネ

やはりマームとジプシーはとても上手なカンパニーだった。戯曲のディテールも、構成も、役者の所作も、アンサンブルも、小屋の使い方も、すべて上手だった。しかし「僕を」どこにも連れて行ってくれなかった。いや、人のせいにしてはいけない。「僕は」この芝居のどこにも、取り付くシマを見つけることが出来なかった。遠い世界で始まって、遠いまま終わってしまった。だから、これから先書くことは、自分の想像力に対する言い訳・アリバイです。

これだけ上手に、微に入り細に入り、繰り返して、微小なシーンを畳み掛けられると、年取った僕の想像力はただただ「自分が観たこともなく、娘が高校生になったからは微塵の興味も抱かなくなった女子中学生のこと」に対してスイッチが入るタイミングを見失い続ける。ひょっとすると創り手は「ハナから入ってこれない人」の想像力のスイッチを入れさせようという意図を持っていないのかもしれない。それくらいに、この芝居の絨毯は目が細かく、ぎゅうっと詰めて編んである。一つの世界がこれだけぎゅうっと提示されてしまうと、そこに入れる・入れないは「好悪」「ハマるかハマらないか」に左右されてしまいそうだ。

他にも「一つの世界をぎゅうっと提示する芝居」はある。青年団、ペニノ等々。ただし、それらの芝居は、ずるぅく「余地」を残して観客にぶつけられていると思う。青年団のソウル市民を観て「本当に善い人々のお話なんですねぇ」という感想を言った方がいると聞くが、そういうふうに「誤読」を許してしまう芝居。それなら大丈夫。一方で、自分の世界で突っ走る芝居もある。唐組、少年王者舘。実はそういう芝居も僕は好き。

なんで唐さんや天野さんの世界には付き合えるのに、藤田さんの世界とは折り合いがつけられないのか?

うーん。それは、マームとジプシーの芝居があたかも「共有できるもの」として提示されているから、もしくは、観客としてそれを期待してしまっているからではないか、と思う。もとから「あっち側の世界」「いっちゃった世界」であれば、そこに距離が生まれ、想像力の働くスペースが出来る。逆に、「共有できる、よね?」と迫られた瞬間、こちらの気持ちがスルリと逃げる。端正に作りこまれていればいるほど。そういうことがおきたんじゃないかという気がしてきた。

だから、マームとジプシーの世界を「共有できた」と思えた人はとても幸せです。きっと。ガチンコで話に入っても大丈夫なくらいスキがなく出来た芝居だから。そこで引いた僕はあからさまに不幸せです。これからこの劇団が、幸せな観客と不幸せな観客を創りながら前に進むのか、それとももちっとずるく立ち回って間口を広げていくのか、誰かそっと教えてください。

2010年5月29日土曜日

中野成樹+フランケンズ 寝台特急"君のいるところ"号 再見

28/05/2010 ソワレ

どうにも気がふさいでなんともしようが無いときには、いい芝居を観るに限る。"君のいるところ"号、再見。心が乾いていたのだろう。集中して観ることができた。気持ちのくしゃくしゃになった部分にスチームアイロンを当てて、気持ちよくピシッと伸びた気がした。

前回(21日)拝見してからつらつら考えて、どうにも思い出せなかった細部や、ちょっと腑に落ちなかった細部が、何となく分かった、気がする。それでも目や耳に入ってこないところはやっぱり入ってこないけれど。

微妙なタイムラインの操作とか、音の使い方とか、照明の切り替えとか、もちろん舞台の転換もそうだけれど、「芝居を進行させるための道具」として虐げられることなく、また、「観客の想像力やムードを創り手の意に沿うように狭めるための装置」として使われることもないように、気をつかって配置されている。そういうのが、嬉しい。

フランケンズの役者陣の立ち方も好きだ。自らが入り込んで粗くならないないように、観客が入り込んで想像力が甘やかされないように、一見ドライだけど、すごく丁寧で、視野の広い演技をしている。どこを観ていても飽きない。贔屓の引き倒しじゃないけれど。

斉藤淳子さんの後半の立ち位置は、(28日の)下手中程壁際よりも、(21日の)下手奥コーナーの方が好きだったかな。

2010年5月27日木曜日

柿喰う客 露出狂

23/05/2010 ソワレ

女性ばかり14人のてだれ揃えて100分間、強力なエンターテイメントの中に芝居ならではの問題意識、見所もしっかり盛り込んで、観終わった感想は「さすが中屋敷、上手だわ。やられた。脱帽します」。が、中屋敷芝居を観ていて毎度毎度思うことだけれど、「上手」と思ってしまうのは、おそらく、賞賛40%、やっかみ40%、「このままでいいのか?!もっとやれよ!」20%、ということだと思うのだ。

二重の螺旋階段で組んだ美術は見事だし、その黒い立体の周りをびっちりと固まって動きながらそれぞれにきちんと「見せ場」を作って飽きさせない。くるくる回りながら入学から卒業までのサイクルを繰り返す高校生活って、定点観測するとこんなもんなのかな、と思ったりもするが、まぁ、その程度の「意味の読み取り」なんぞ、芝居を楽しく観ることとは全く関係ない。

「露出狂」と銘打つだけあって28本の立派な大腿、高校の制服からにょきにょきと生えて出て、しかもエロさを感じさせず。いや、実はこの「エロさを感じさせない」ところがポイントだと思うのだ。女優陣にあれだけ下ネタ台詞を喋らせておいてエロの微塵も無く、Hカップ女優が何度と無くムネをゆすっても(少なくとも僕には)詰め物いじってるとしか見えなかったりする(すみませんでした・・・)。それは、
・ただの、シェーファーのアマデウスに出てくるモーツァルトの下ネタ趣味に近い、子供っぽい悪ふざけ(だって面白いんだもん)
・「エロ」の記号だけに反応するヒトたち(肯定派も否定派も)へのあてつけ
のどっちか、あるいは、どっちもだったりするんだろう。いずれにせよ、表面を下ネタオブラートで包んで一見「お行儀悪い」ように見えながら実はかっちり仕上げて、エンターテイニングに出来上がってるものだから、文句のつけようは無い。観ていて安心していられる間は、上記のような問いへの答は創り手だけが知っていればよいのだ。観客は真相当てクイズをしているわけじゃないのだから・・・と、そういう目線を感じて、何だか「今回はここら辺で勘弁してやるか」はいい加減やめてくれよぅ、とそっと心の中で呟く。

2010年5月25日火曜日

ハイバイ ヒッキー・カンクーントルネード 経験者組

22/05/2010 ソワレ

経験者組、ヘリコプター最終日。
普段は客席で携帯電話いじっている客を見ると(客入れ中であっても)割とぶっ飛ばしたくなるのだが、今日は特別。客入れ中かかっている音楽を聴いていて、どうしても「ボンバイエ」の意味を調べたくなったのだ。携帯でググるツレ。「分かった!スワヒリ語で「やっちまえ」!アリ対フォアマンの時に観客からかかった掛け声。異種格闘技戦を経た上でアリが猪木に譲り渡した、そうです。」「ボンバイエ」を譲り渡すというのも良く分からないが、いや、いいや。ボンバイエで。あ、いや、もう一つあったんだよ。初めて組の時も、僕は客入れの最中一生懸命耳を済ませて、ラッシャー木村の「ばばぁー!おれはぁ、おまえがぁ、好きだー!!!」が流れてこないかなー、とも思っていたりもしたのだ(ちなみに、新聞記事で訃報を拝見したからではありません。木村さんのご冥福を心からお祈りいたします。)

何が言いたいかというと、「僕は、ヒッキーの客入れ時間が、毎回、好きです」ということなんですが。

芝居の方は散々あちこちで誉められているだろうから、今更誉めても、ということだし。でも、まぁ、感じたのは、「泣き・泣かせ」のプロセスが見えてくると、そこではガツンと来にくくなる、むしろ、役者が変わると微妙なスイッチの切り替えのタイミングも変化して、そうすると、「分かっててもやっぱりやられる」ということが起きる。「いつもの」役者陣で観ていて、そういうことを思いました。

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第4回

22/05/2010

劇評セミナー第4回は青年団「革命日記」の合評を水牛健太郎氏の進行で。

・「革命と日常」「集団と個」のような二元論の対比でこの「革命日記」を語ることは、二元論を選びとった時点で平田の術中に落ちている。それでは平田の掌の上を抜け出した視点は提示できない。
・「革命日記」が何についてリアルなのか、すなわち、「2000年代に三里塚のオオカミはありか?」「こんな杜撰な運営はありえないのではないか」という「時代考証」「設定」のリアルさに対する疑問がどの程度「芝居を語る上で」有効なのか?
・演劇は「内容」と「パフォーマンス」の両方を捉えて語るべきなのだけれど、「革命日記」については内容の方へ流れがち。なぜか?
・なぜ青年団の役者の名前は覚えにくいのか?
・平田オリザの「戯曲」の作風が変わってきているという印象について。

うむうむ。日頃考えていることとかぶる部分もあり、新しいこともあり、刺激いっぱい。何より、(1)アルコール抜きで、(2)各人一通りの論点をさらった上で(つまり、イヤイヤながら宿題をやっているのとは訳が違うということ)、(3)正解のないことについて大人の議論ができる、というのは素晴らしい。少なくとも今回はそうだった。脳味噌に心地よい汗をかいた。

2010年5月24日月曜日

中野成樹+フランケンズ 寝台特急"君のいるところ"号

21/05/2010 ソワレ

観終わった後、駅まで、ツレと無言で歩いた。「いい芝居だったねー」では済まされないと思う。打ちのめされたとまでは言いたくないけれど。

台本、役者、舞台美術、音、照明、そういうものが一つのプロダクションとなって80分間の「時空」を創っているんだという、ごくごく当たり前のこと。その当たり前のことが100%なされた現場に居合わせたことの充実感。

芝居小屋に観客として入って、正面に舞台があって、後部上方には調光卓や音響卓があって、舞台上を見入るとそこに役者が出てきて「ないもの」を「あるもの」のように扱う人々がいて、でもそのことは舞台上の人も客席の人もしっかり共有できていて、で、そういうところからお互いの想像力をしっかり尊重しながら、飛べるところまで一緒に飛んでいこう、そのようにもてなされているという感覚がとてつもなく嬉しい。

こんなにもおしゃれで、すっきりしていて、かっこよくて、「誤意訳」だなんてすかした言葉遣いしちゃって、それなのに暖かい。熱源を目に見えないように、直接肌に触ってやけどさせないように、でもトータルの熱量はしっかり感じられる。

僕がこの日アゴラで体験した80分間をもう一度咀嚼して、吸収して、言葉として吐き出すのにはもう少し時間が掛かる気がする。それくらいいろんな素材や味が混じりあっていたと思う。が、少なくともすばらしい舞台だったということは間違いない。

2010年5月23日日曜日

燐光群 パワー・オブ・イエス

18/05/2010 ソワレ

以下、観劇前に某氏に送ったメールから一部変更、抜粋:

あちらこちらで評判が良いようで、気にはなっていたのですが、私自身、2006年までロンドンの金融市場に身を置いて、ビジネススクールでブラックショールズモデルを勉強したり、思いっきりレバレッジの効いたMBO案件に関わったり、それをCDOに換えて投資家に売るプロジェクトに関わったり、ロンドンのシンジケーションに関わる連中のカラオケ大会で酔っ払ったり、オランダやスペインのRMBSを買い増そうかどうかなどという議論に加わったりしておりましたので、この芝居、とても冷静に観てはいられないのじゃないのかという懸念や、芝居の途中で「それは違う!」と叫んでしまうのではないかという心配もあり、二の足を踏んでおりました。
ご案内を頂いたとあっては、これは頑張ってスズナリに行かねばと改めて思っています。

以下、観劇後に某氏に送ったメールから一部変更、抜粋:

大変しっかりした戯曲で、しかも、燐光群で観られたのが良かったと思える芝居を観ることが出来ました。よい芝居でした。
藤井びんさんがステキでした。また、鴨川さんがブラック・ショールズモデルの説明の台詞をかまずに言い切った時点で、観に来て本当に良かったと思いました(半分冗談ですが!)。

内容については、自慢じゃありませんが、小生はほぼ全て理解できました。
たとえ事前の解説付きであったとしても、(金融用語、イギリスに特有のコンテクストが多くて)日本の多くの観客にはチンプンカンプンなところが数多くあったと思います。が、そういうところは端折っても、前回の金融危機(今回の金融危機はギリシャ発ですので)の問題が、「大体どこら辺にありそうなのか」を感じて劇場を出られるような仕組みになっていたと思います。

観る前には、もっと日本の朝日新聞的な「庶民の視点では(どこの庶民だよ、お前ら記者はよ!)」みたいなノリを予想していたので、バランスの取れた構成に、大変ほっとした次第です。

一つだけ大変不満なのが、翻訳です。余程力がないか、余程手を抜いたかのどちらかとしか思えませんでした。

金融の専門知識がない方であることは、それは仕方がありません。ただし、出来上がった訳文について、金融を知っている者に「一度でも」目を通してもらっていれば防げた誤訳がしょっぱなから出てきて、がっかりでした。それが「手抜いている」と申し上げる理由です。以下、例を挙げます。
・"Bank of Scotland"と"Royal Bank of Scotland"の区別がついていないと思われる。ハリファクスを買収した"Bank of Scotland"は「スコットランド銀行」、公的資金の注入を受けた"Royal Bank of Scotland"は辞書訳では「王立スコットランド銀行」です。"Royal Bank of Scotland"は、普通に日本のテレビCMで自分たちを"RBS"と呼んでいます。
・"Long Term Capital Management"を「長期資本マネジメント」と呼んでいたかと思います。日経でも「ロング・ターム・キャピタル・マネジメント」"LTCM"と普通に呼んでいます。
・"New Labour"を辞書どおりに「新労働党」と呼ぶと、あたかも労働党を解党して新労働党を結成したように聞こえます。そうではなくて、「新生労働党」であり「新しい労働党」のはずです。
⇒ これらに代表される「手抜き」のために、日経新聞の熱心の読者ですらも芝居の内容がチンプンカンプンになってしまうという事態が起きているはずです。残念です。

専門用語、固有名詞については眼をつぶるとしても、
・"fight back""hit back"を「たたかい返す」と訳すのは、力がないか手抜きかのどちらかです。「たたかい返す」という日本語はないでしょう。少なくとも「やり返す」「反撃する」のはずです。
⇒ これに限らず、訳文の簡単な校正すらも出来ていない印象です。非常に残念です。
原文を知っているから言うのではありません。原文を読んでいなくて、日本語だけ聞いても容易に原文が予想できる違和感だから申し上げています。
小生、「現代口語演劇みたいに訳せ」とか「誤意訳で訳せ」と言っているのでもありません。これは翻訳劇ですから。でも、それにしても押さえるべき最低レベルがあるはずだと思っています。

また、翻訳の問題ではありませんが、労働党議員の一派が舞台に現われる時に胸に「青い」造花をつけて出てきますが、「青」は保守党の色です。労働党の色は「赤」ですので、ご参考まで。

すいません。くどくど申し上げましたが、芝居としてはとてもエンターテイニングで楽しませていただきました。ありがとうございました。

ハイバイ ヒッキー・カンクーントルネード 初めて組

16/05/2010 ソワレ

初めて組、初日。
ヒッキーは本当に大好きな戯曲。2007年3月に初めて拝見したときに「これからハイバイを観続ける」と思ったくらいに好きな作品で、今回も是非「初めて組」「経験者組」とも観なくては、と決めている。

で、まずは初めて組。良し。篠崎大悟の登美男、ちょっと線の細げな感じが岩井登美男と違ったカラーの味わい。吉田亮の母、平原母と優劣付けがたいが、いつものハイバイお母さんカツラなはずなのにおでこが広く見えるのは、吉田氏は「頭が大きい」からなのだろうか?近藤フクのお兄さんは、外見「え?」から始めて、ぐぐぐぐ押してくる感じ。

チャン・リーメイの出張お姉さんはこれまで観たバージョンのお姉さんに比べて(ダンガリーのシャツにジーンズという衣装もあって)サブカル臭さが前に出る、ちょっと変な味わい。浅野綾は前半「声出てないかな?」と思ったものの、関係性の糸が最後まで切れずこれも良し。

この芝居、何度観ても絶対に飽きない。役者が変わるから飽きないのではない。何度観ても、いくらでも発見があり、自分の観ている状態によって(微妙な)振れ幅がある。そういう見方を許してくれる。変な言い方だけど「軽井沢、良いところらしいのよ」のシーン、何度観ても、泣く。悲しくなったり、笑ったり、自分のことに照らしてみたり、森田家のことを思ったり、とにかく泣く。ラストにかけても、登美男の中にとびこもって、最後までうじうじして、みちのくプロレス観に行くかどうか、自分が本当に迷ってしまう。

泣きたいからじゃないけど、何度も観たい。いろんな役者で、いろんな場所で、いろんな振れ幅で観てみたい。そういう芝居。

チェルフィッチュ ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶 再見

16/05/2010 マチネ

大変素直に、喜んで、楽しんだ。やはり繊細で愉快で力強い作品だった。

一定の動きが「わたし、これからしゃべります」のキューみたいな仕草に見えたり、キメポーズが出てきたり、話の筋がどうもループしているなーと思われる感じが、どうも、ブルースセッションの「もう一周!」のように感じられたり、そういうところで、やはり「演劇よりもダンスに近いですね」といわれると頷いてしまう。

「お別れの挨拶」のフリージャズは、小生浅学なりに「なんだか60年代フリージャズ風に、音場まで合わせて作りこんでるなー。ひょっとしてリズムセクションだけは過去のトラックから引っ張ってきてるのかなー。台詞に合わせてここまで頼める相手って、日本じゃかなり限られていると思うけど。」などと思っていた。当パンのインタビュー読んどけばよかった。コルトレーンですか。すいませんでした。音楽に合わせてたんですね。

そしてなんといってもこの「何にも言っていない」感じが素晴しい。じゃあ、全体の雰囲気やシチュエーション、かすかに匂わされる物語が何かを語っているかといえば、それも、無い。それも素晴しい。たまたま非正規社員が解雇されるシチュエーションを選んでいるけれど、そこには「非正規何とかしろ」とか「正規が下らないことばかり話して」という葛藤も一切無い。それも素晴しい。この、本当に、何も語っていないことが、素晴しい。
もし作・演出・パフォーマーが「台詞・振付・音楽」等々で何かを語っている「つもり」であったら申し訳ないけれど、それは「少なくとも僕には」一切伝わっていない。そこが素晴しい。

舞台に何かが載ること。そこで起きることに、100人なり200人なりの人間が飽きずに集中して1時間強見入ること。そのことの力強い政治性。これまで観た岡田利規作品の中で、これほど力強く政治的であった作品は無いと思う。チェルフィッチュ、斜に構えて観なくても良いんだと納得した。

2010年5月22日土曜日

三条会 失われたときを求めて 第一のコース「スワン家の方へ」

15/05/2010 マチネ

小生浅学にして未だプルーストを一頁も読むに及ばず、「失われた時を求めて」と聞けどもただマドレーヌと紅茶のびちゃびちゃを思い浮かべるのみ。そんなおいらが千葉三条会アトリエまで足を運んでどうよ、という思いはあるが、エイっととりあえず行ってみる。だって三条会だもの。行ってみてどうだったか。

やっぱりプルーストのことは分かりません。でしたし。分かったつもり。にも、なりませんでした。が、面白かった。

ドクター、看護師や占い師と患者。「ヒッキー思い出療法」というべきか、いや、プルーストってそういう人だったんだよね、多分。思い出に浸るヒッキー、ていうか。

という勝手な思い込みのようなものを創り手と観客で共有できるような出来ないような。
「コンブレー」という縁もゆかりもない土地の、おそらくプルースト自身もかなり妄想で作っていてそれをまた三条会の妄想でインフレートした物語が舞台に載って、それは全く観客にはコンテクストの取り掛かりもない話で、あしたのジョーっていったってそれは全共闘の愛読書だからやっぱり僕ら同時代じゃないよね、そういう、
「全く関係のないお話に、これからお付き合いいただくんです。しかも長いです。」
そういうご案内を頂いた、そういう感じ。

おそらく続きも観に伺うと思うが、じゃあこれ一回きりのつもりで来た人は?といわれると少しきついかも。第2のコース以降が、どれくらい「独立に立っていられるもの」になるかが楽しみ、あるいは、気にかかる。

木ノ下歌舞伎 勧進帳

14/05/2010 ソワレ

演劇ってこんなにポジティブに楽しいんだぜ、っていう気合と自信と快感に満ちた公演。

歌舞伎の定番「勧進帳」を現代の身体で演じるという、ちょっと聞くと小難しいインテリ芝居になるか「いぇいいぇいカブいたれ」なアイディア先行のお祭りエンターテイメントになるかしそうな試みを、どちらにも落ちずに軽々と跳び超えてみせた。

そもそも杉原邦生の演出する舞台にはストイシズムなどという言葉はまるっきり当てはまらなくて、つまりは、屁難しいこと考えてるヒマがあったら観てておもしろいことを思いつけよ、というスタンスが明確なのだけれど、それに加えて今回つくづく思い知った木ノ下裕一の超ポジティブ歌舞伎LOVE。この2人が力を合わせてえぇーいっ、とここまで行った。

稽古期間中、DVDを観て「勧進帳完コピ」の荒業をやってのけたのには、「あくまでも役者はハードウェア」という(演出家としての冷静な目線に立脚した)命題が背景にあると思われる。ハードウェアとして型をなぞる上においては、「伝統を背負って稽古を積んだ現代の歌舞伎役者」も「伝統を背負わずに自分の身体性だけを拠り所とする現代の役者」も、「過去に過去の役者によって上演されていたであろう演技」との間に何らかの距離を感じているに違いない点では(乱暴な言い方ではあるが)等価である。そこでもって「今ここにあるカラダ」と「ウン百年前に想定されていたと想像されるカラダ」との間をウロウロして楽しむことに対する勝算。その見立て。

そういう、観客がウロウロできる「遊び」をぽいっと目の前に提示してくれるのが杉原邦生の演出の一番楽しいところ。

「ハードウェア」としての役者陣、そこら辺の意識がよーく共有されているのか、誰をとっても出色の出来。上演中どこを観ていても飽きない仕掛けで、大いに楽しんだ。これ、横浜だけじゃもったいないよ。中学・高校の古典の授業でこれみせたら、きっとぐわーーっと世界と視界が広がること間違い無しだと思うんだけどな。

2010年5月18日火曜日

青年団 革命日記再見

12/05/2010 ソワレ

今回の青年団、評判もよければ動員もよいようだ。役者もますますこなれて良い感じ。なので、終演後知人の方と話した、「革命日記は何のパロディか」に絞って書きます。

(1)そもそも1970年代新左翼チックなことを、下手すると1980年代後半に生まれた役者が演じること。そのズレ。
「あのころのことを知らない若い作者・演出家・役者じゃ、このテーマの演劇は無理だね」

(2)もはや現代日本では成立しない「革命」について、2010年に語ること。そのズレ。
「何で今革命についての芝居を上演する必要があるの?時代の要請と乖離してるよね」

(3)リアルに革命やテロを考えている人が、今、まさに、2010年5月の東京に、いるかもしれない、ということ。その「現実の」革命家たちとのズレ。
「俺、ほんまもんの新左翼の奴に友達いるけどさー、こんなことしてないよ、実際。なんか、リアルじゃなくて、醒めちゃうんだよねー」

あ、もう一つ思い出した。少なくとも1980年代中盤には「革命」についてまじめに、でも、僕から見ると100%パロディとして、語っている連中がいた。本当にいました。実名挙げろといわれれば、挙げられますよ。挙げないけど。

だから、この芝居には、「リアルとフィクション」「1970年代と2010年代」「同時代を知っている人と知らない人」という3つの次元でのズレがあると同時に、「観客の経験と創り手の経験」という次元も加えて、4重のパロディとなっている。そのように僕には思われる。

それについて平田が自覚的に芝居を組み立てていて、役者が自覚的に演技している限り、この芝居は「フィクション」として有効に作用するだろう。「リアルにすぎる」という批判も「リアルでない」という批判も、どちらに対しても十分に対処しうる強度を備えているということになるだろう。多くの人がこの芝居を観て「滑稽だ」と感じるだろうけれど、その滑稽さは必ずしも一様ではないだろう。「リアルだ」とも「リアルでない」とも感じるだろう。少なくとも2の4乗、16通りのズレ、パロディ。でも実際はもっと沢山。その辺りがこの「革命日記」の豊穣さ。

チェルフィッチュ ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶

09/05/2010 ソワレ

ひょっとするとこれはとっても繊細かつ愉快なパフォーマンスなのではないだろうか。

が、それを上回る勢いで、僕は繊細で神経質で心の狭い観客である。
客席の隣の方が当パンを(ひどい場合にはチラシを)読み始めたり独り言を呟いたりヒソヒソ声でおしゃべりしたりメモを取ったり身体を揺らしてパイプ椅子が絶え間なくカタカタ鳴ったり、後ろの方の靴が僕の座っている椅子に当たったり僕の背中に当たったり、最前列の客が携帯電話の電源入れて煌々とライトが照ったり、
そういうことがあると、途端に舞台に集中できなくなってしまう。
まあ、いつぞや見かけた、最前列でタバコを吸って途中で立ち上がって通路で反吐戻していたオバちゃんについては、流石に舞台と客席の一体感が高まったかもしれないとは思ったけれど。

今回は、それが全部あるいは複数あったわけではないけれど、まぁ、終演後頭を抱えたら顔の表面温度が3、4度低くなっていて、自分が顔面蒼白になっているのが分かった。そればっかり考えてしまう自分の狭量さが、パフォーマーやパートナーに対して申し訳ない。本当に申し訳ないけれど、こればっかりは本当にどうしようもない。

もう一度観なければ。帰宅後すぐに予約を入れた。

2010年5月17日月曜日

タカハ劇団 パラデソ

09/05/2010 マチネ

新興カルト教団の卒業生たちが友人の通夜に集まって昔話。そこで繰り広げられる会話の中から、「(能力を)持つ者」と「持たざる者」、「モテる者」と「モテない者」の葛藤があぶりだされる趣向。

カルトものでありながら「組織」や「教祖」を登場させず、あるいはその存在を背後に感じさせることもせず、「同世代お友達トーク」にスコープを押さえ込んだことで、ありきたりの「組織に圧せられる自我」みたいな構図に陥ることは避けられている。が、一方で、「そういうことなら何もカルト教団の話にしなくても良くないかい?」となってしまいそうなのが微妙なところ。

観客から見たとっつきやすさのハードルは務めて低く設定してあって、それと合わせて考えるとカルト教団ネタも所詮はネタか。でも、これだけ丁寧に戯曲が書けて、達者な役者も集まってくるんだから、もう少し高いところに芝居自体のターゲットを置いても全然大丈夫だったんじゃないかなー、と思ったりした。

日本語を読む その3 ポンコツ車と五人の紳士

08/05/2010 ソワレ

別役戯曲の面白さを、奇をてらわない柴幸男演出で。
普通にネルドリップできちんと淹れたコーヒーを頂いたような。あるいは、弦楽四重奏のきちんとした演奏を、じみーなホールでリラックスして聴いているような。

そうだよなー。こういう、変なニュアンスをつけない演出でこそ、別役芝居は面白いんだよなー。可笑しいなー。おもしろいなー。と思っていると、終わる。
途中、うつらうつらしていた方も居たみたいだけれど、心地よいアンサンブルはそれはそれで眠くなっても仕方がない(言い訳じゃないですよ!)。

欲を言えば、もっと小さな小屋で(ゴールデン街劇場みたいな小屋で)、近くで聴きたかったかな。別役さんの戯曲は、実は、東京乾電池とか青年団とか、そういう劇団が演じるのに向いていると感じている。

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第3回

08/05/2010

第3回は、松井周・岩井秀人・多田淳之介の3人の劇作家・演出家をゲストに招いたシンポジウム「好きな劇評、困った劇評」。場面場面でもちろん見せ場があって、司会進行の佐々木敦さんも含め大変エンターテイニングな午後だったのだけれど、総じて感じたのは、やはり創り手のお三方にとって「劇評」は「誉める・けなす(佐々木敦流に言えば「価値判断」)」の情報を伝える役割以上のインパクトを創り手に与えていないんだなぁ、ということ。多田氏も言っていたけれど、まだまだ「作品」と「批評」の間にインタラクションが生まれるような緊張感がないのだろう。劇評を書く側(創り手が劇評を書く場合は除く)から観てどうなのかは分からないけれど、少なくとも創り手からみるとまだまだ「相手にせず」みたいな余裕もあったような。

1980年代には「初日通信」があって、そこには「誉める」にせよ「けなす」にせよ、一定の緊張感があったのを覚えている。あの緊張感は、残念ながら、今の新聞劇評やコリッチには見当たらない気がする。

もちろん、劇評がもたらす緊張感と言うのは、「誉められると客が増えたりする」「けなされると客足が鈍ったりする」というのと、いくら目を背けたとしても一定量つながっているので、一種の権力関係を伴う。でも、この匿名でない権力関係が創り手と批評との間の緊張感を担保するのであれば、それは満更悪いことでもないのではないか。そんなことも考えた。

といったところで、一体誰がその権力関係を引き受けるのか?どこまでのリテラシーをアンケート<レビュー<批評のスペクトラムの中で、誰にどれだけ要求すべきなのか?何をもって「プロパー」な批評家と呼ぶのか?プロパーでなければ権力関係に入り込むべきではないのか?考えは尽きない。

2010年5月16日日曜日

ロロ 旅、旅旅

07/05/2010 ソワレ

シーンを絵として見せるセンスは高く買う。

が、正直、わからんなー、という感覚が先に立った。40歳を超えたおじさんが「分からんなー」といってしまう芝居なんだから、きっと面白いんだろう(誤解の無いように言うが「つまらんなー」と呟いたわけではない)。新しくて面白いモノはそういうところから出てくるのだろうから。

だから、自分が「わからんなー」と思ったからと言って、全面的に否定するわけではない。一方で、手放しでこの劇団の芝居を誉める向きには、注意深い目を向けながら、ちょっとだけ眉に唾してかかりたい気もする。

家族を満遍なく描いているようでありながら、芝居の骨格は若い2人による「名付け」のプロセスから出来ているように思われる。「名付け」は「見立て」を呼ぶし、名付けられたものの性質もその名前によって変わってくる。すなわち、名付け・名付けられの関係は明らかに権力のありかを規定する。

家族というのは個人にとって一つの「所与の集団」だから、「自分が(年長の)家族を名付ける」ことは通常は起きない。旅に出るというのはその名付けられた集団から抜け出して自分の眼で物事を名付け始める、権力奪取のプロセスである。「名付けの権力を奪取する」ことが目的なら、旅に出るのに外に出る必要はないわけで、まさにそれを若い2人が達成してくれる(もちろん一つ上のメタの階層では、作家の三浦氏が配役の割り振り=名付けにおいて規定の名付けのあり方を使わないことで同じことをしているのだけれど)。

と、そんなことを考えていた。あ、論旨混乱したが、要は、この芝居は、家族を満遍なく描いているようでありながら、「神の目」で鳥瞰して書かれた芝居ではなくて、あくまでも若い2人の「一人称芝居」ということが言いたかったんだ。一人称芝居であれば、その主体にはもっと強いエゴを感じたい。そうでないと、そのエゴのドライブがよく分からないまま劇場を出てきてしまう気がするのだ(それは、一人称芝居の大家である岩井秀人氏との比較でこう言ってます)。

あ!もしかして、若い2人の一人称芝居って、典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール」ってこと?え?恋をして世の中の見え方が変わるってこと?
だとしたら、あまりにもベタだけど、芝居のみえ方としては極めて筋が通る!
え?ってことは、オレ、長い間、「恋に落ちて世界の見え方が変わる」体験をしていないってこと?ガーン。そりゃ結婚ウン十年を目前に控えているけれど、でも、そりゃヤバい。だからついつい「分かんないなー」って思っちゃったのか?ヤラレタ、かも!

青年団 革命日記

04/05/2010 マチネ

革命日記再演は「若手公演」から「本公演」への出世魚、役者たちは(もちろん2年前にも若手らしからぬ自信をみなぎらせて驚いたが)ますます自信を持ってこのプロダクションに臨み、演出ももはや「手探りでどこまでできるかを試す」そぶりをすっかり振り払って素晴らしい出来。特に後半に向かってボルテージが上がる場面では畳みかけられて、やられた。

能嶋瑞穂の大暴れも嬉しいし、小林亮子もぐっと大人の演技で大いに好み。
アゴラのコンクリ剥き出しの床は、初演の春風舎の木の床と比べてじゃっかん声がキンキン響く印象なのが、傷と言えば傷。でも、うん。いろんな意味でこれは評判良いだろう。

2010年5月15日土曜日

渡辺源四郎商店 ヤナギダアキラ最期の日

03/05/2010 ソワレ

うーん、凄い芝居だなー、と思う。畑澤版「S高原から」は、「死」をもって終わる人一人の生涯と「いつまでも残る」歴史の長さ・重さとを舞台上で一つの天秤に載せてみせる。こういうことができるなら演劇、大丈夫!と確信できる。

戦後65年の時の流れをギューッと3人の役者の身体(宮越・工藤・山田)に圧縮して詰め込んで、彼らの台詞・身体が90分間発するものが、受け手である観客の中で解凍され、65年間+未来へと続く想像力の豊かな広がりへとつながっていく。

宮越さんは、なべげんデビュー当時は「こりゃ驚いた!」の要素で拝見していたこともあったが、今やそれを大いに恥じざるを得ないほどの凄みのある演技。牧野慶一さんも「死すべき者たち」の時間の流れをしっかと見事に背負って出色。が、何より嬉しかったのは山田百次。弘前劇場・野の上・なべげんと拝見してきたが、達者で良い役者であるが故に背負わされる「芝居進行のダイナモ」役の制約を今回ついに乗り越えて、これまでで最高の演技とみた。そこにはもちろん、過剰な負担をかけることの無いように、という作・演出の愛情たっぷりの配慮があるのに違いなく、そういうバランスにも目が行き届いて大いに楽しんだ。

その代わり、といってはなんだが、チンピラ二人組のダブル工藤と医師・看護師コンビは割を食った印象がある。見え方のバランスはよいとしても、正直「もうちょっと抑えても大丈夫なんじゃないの?」という感じはした。いや、でも、見やすさのバランスからするとここに落ち着くのかなぁ。

2010年5月4日火曜日

ENBU★フェスタ!柴幸男クラス さよなら東京

01/05/2010 ソワレ

柴幸男作・演出のENBUゼミ劇場公演は少年王者舘リスペクト三昧、でも「テーマ」はあくまで柴流、ワイルダーテイストものぞかせながらの45分。

客席には「シバ・マニア」層はもちろん、出演者のお友達、若い演劇関係者、はては親類縁者なのか小学生も少なくとも4、5人はいて、満員御礼。役者陣、演出・客席からの期待にきっちり応えて見応えあり。

が、やはりここまで天野天街リスペクトできたのだから、天野芝居と比較してしまおう。

誤解を恐れず乱暴にくくると「柴幸男は、真っ当な人である」「天野天街は、真っ当でない人である(と疑われる)」。少なくとも天野演出の芝居を観る限り、そこから染み出すものには「このままではとてつもなく真っ当でないところに連れて行かれてしまうのではないか」という恐ろしさがある。それは、天野氏が(僕は天野氏とお友達でもないしお話したこともないから何ともいえないが)、「もとから真っ当でない」もしくは「真っ当な人なんだけれど、奥底にある真っ当でないものが芝居に染み出してきている」かのどちらか、ということである。

一方で、柴幸男の芝居には「この芝居は真っ当なところに着地するに違いない」という安心感があるのだ。

先に触れた小学生。芝居が終わっておじいちゃん曰く「どんな話だか分かったかい?」「分かったよ。お姉ちゃんが電車で東京にでてきて、演劇を何年かして、それからまた電車で田舎に帰るって話でしょ?」「いやいや、そうじゃねえ、それだけじゃねぇんだよ。もっとね、ふっかいはなしなんだよ」。柴氏の芝居は、そういう話ができる芝居である。これが天野氏の芝居だったら、小学生は途中で怖くて泣くわ、おじいちゃんは終演後腕組みして頭傾げるわ、大変なことになっていたと想像されるのだ。

「真っ当なはなし」「きれいにおさまるはなし」が良くないというのでは、決してない。アクセントをつけようとしてこれみよがしに「毒」を盛りつけして「(感動をありがとう!ならぬ)汚いものをありがとう!」になってしまう芝居、たくさん知っている。

でも、やっぱり、芝居の「手法」(複数役者せりふユニゾン、言葉のずらし、シーンの巻き戻し繰り返し、舞台奥投影の使い方、登場人物=作者の自我の分身の術)がもっていく/もっていくのではないかと期待される/怖くなってしまう場所と、実際に柴氏が持っていこうとしている場所が微妙にずれている気もする。いろいろなイメージが観客を連れていく先について、もっと不安を与えてしまってもかまわないのではないかと思うのだ。だって、しっかり観客がついてこれるギリギリの線であれだけ引っ張り回せるのだから。

言い方を変えると、もっともっと、柴氏がなかなか表に出そうとしない「破れ」もしくは「闇」みたいなものを覗いてしまいかねないところ、あるいは、観客自身が自分ではなかなかのぞけない自分の「破れ」「闇」を映し出しているのではないかと疑われるようなもの、それを柴幸男の芝居で観せてもらえたらなぁ、と思ったりもするのだ。

ともあれ、すっごく力のある芝居だったことは間違いない。前述のおじいさんも、つくづく当パンみながら「・・・柴、俊夫かぁ・・・」。それじゃあシルバー仮面だって!

鰰 淡水魚

30/04/2010

面白い。面白いぞ。面白いじゃねーか!
と同時に、面白いアイディア・演技が定着化される中で、何かが加わることもあれば、鮮度が落ちていくこともある、その過程を「稽古場にいる人間」としてでなく「稽古に居合わせた観客」として目撃すると、正直言って痛ましさすら感じた。創り手にとっては激しく痛みを伴う出し物なのではないか。

16時半から19時半まで公開稽古。まず、これまで出来たものの通し稽古とダメ出し。稽古。新しいシーンづくり。20時前からそれらを受けた本番。

今日の新しいシーンは斉藤美穂、高須賀千江子の「サウナ力士」(このネーミングは小生の勝手ネーミングです)。どこへ行くとも知れないアイディアから、とんでもなく面白い、その瞬間「こいつら、天才なんじゃないか?」とか「面白くて気が狂いそうだ!」と思ってしまうようなモノが生まれてくる。
2回、いったことがあるっ!
ないもにいっなのぬぁ、にゅ~はにのとにぃでにゅ
えれくとか/えれくのりかう/えれくとろ/えれくのりかう/えれくとりかるぱれっどっ!
トモ!
なかまぁ~!
ぶぅあー。

しかし、かつて平田オリザが柄本明さんの天才を「何度演じても初めてのように演技できる」と評したのと逆の意味で、柄本さんではない役者は、何度か演じていると初めてのようには演技できなくなってしまう。「面白い」と演出が認めたエンドプロダクトの「カタチ」に意識がいって、その直前に何を意識していたのか、どこに向かおうとしていたのか、息を吸っていたのか吐いていたのか、そういうことは抜け落ちがちだ(あぁ、岡目八目、客席から見ていると、そのポイントは容易に分かるのに!)。「なぞらないで」と繰り返す神里。が、なぞらないことがそうそう簡単に出来るのならば、世の中に演出家など要らない。

「なぞった上での定着」を避けるために、「鮮度を落とさないために」何をするかに対して、世の演出家は心血を注いできた、いや、注いでいると僕は信じている(もちろん、それを一切せず、カタチの定着だけを要求する演出家も数あまた居るだろうが、そういう方々の芝居は、僕は観ない)。そこを引き出すために何をするかが勝負である。「観客は普通一回こっきりしか観ないんだから、鮮度は関係ないよね」という向きもあろうが、僕は「そういう態度で臨む演技は、観ていて見破れる」とも思っている。

が、定着を極度に嫌う「インプロ・即興」も、平田オリザのように箸の上げ下ろしまで細かく指定して「鮮度を演出する」ことも、全ての芝居・役者に当てはまる万能の処方箋ではない。鮮度を保つのは本当に難しいのだ。逆に、稽古を繰り返す中で新たなものが生まれる芽もあるし、実際に「事故」とは異なる新たな「試み」もサウナ力士2人から生まれたりもした。

生み出す役者、生み出す演出、鮮度を保てない役者、それを食い止められない演出、「本番」でどうしても新たに加わってしまう鮮度(「本番役者」とは本当によく言ったものだ!)、そのプロセスを最初から最後まで目撃してしまう観客。
これら全てをパッケージとして出し物にしてしまった「淡水魚」は、「動け!人間」で白神・神里が試してみたかったことのエッセンス・意図が最も明確に示された「ガチンコメタ演劇」の場だったのではないかとも思う。でも、そういう「(役名)リアル神里君」「(役名)リアル斉藤美穂」みたいな出し方は、本当に、実在神里氏や実在斉藤さんにとって、身を切って見せる痛みを伴ったに違いない。その痛みの要否、観客としての自分が痛まなきゃそれでいいやとは、ちょっと言い難い気もしたのだ。

2010年4月30日金曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第2回

24/04/2010

第2回は、ダンス・演劇批評家、武藤・佐々木・水牛のお三方を迎えてのシンポジウム「私の考える劇評」。

非常に率直な意見が聞けて小生ご満悦。さらに三人の一致した見解として「批評は必ずしもなくてはならないものではない」というのも率直かつ実は「批評」が依って立つポイントとして非常に重要な考え方だと思われ、それも収穫。

お三方それぞれに「劇評は誰に向けて書いているのか」について自覚的で、よって、「劇評とレビューと感想とはどう違うのか」についての「大体の」線引きができている。そうなると「レビューや感想じゃなくて批評を書け」みたいな注文に対する前捌きが可能だろう。「前捌き」というのは、三つのカテゴリーの間にあるのは明確な線引きではなくて、「大体の」線引きとそのバランスだから。

そういう意味で、佐々木氏の「プロパーの批評家」、武藤氏の「精緻に見ること」「批評とアカデミズムの両立」、といった言い方は非常に面白い。また、言説が「創り手」や「読者」に対してもつ権力性みたいなものへの注意深さも感じられて、大変示唆に富むシンポジウムだったと思う。

一つだけ宙吊りになっているのは、おそらく、野村氏が言っていた「創り手の意図をどう汲むのか」という質問への回答。僕自身は「作品は一旦創り手を離れてしまったら観客・聴衆・読者の妄想・想像力の手にゆだねられてしまうから、創り手の意図なんて、一種、どうでもよいのです」と言いたくなってしまう。でも、ドラマターグとして創り手の周辺に立って観客席も見る渡す仕事をしている野村氏からすれば「いやいやそうはいっても」ということではあるだろう。佐々木氏や水牛氏のスタンスは何となく予想できる気がする(た易いというのではなく、一貫しているという意味で)。武藤氏はどうか?「意図のない、ポイと投げ出しちまう創り手の作品について書く気はない」という彼は、どう回答するだろうか?

これに限らず、チラシの裏に書き付けた断片的なメモを読み返すといろんなアイディアや回答が埋まってて、いやいや、大変豊かな2時間半でした。

2010年4月29日木曜日

鰰 出世魚

25/04/2010

日曜日の朝9時45分から夕方5時半のクロージングまで、なんと天気の良い一日を丸々春風舎で過ごしてしまった。昼休みの神里・白神トークの大部分を聞き逃した以外はフル参加。バカといわれても仕方ない。いや、自分としては「これに一日つきあうのはバカです」と言いたいのではなくて、それだけ白神・神里に期待するところ大なのです、ということですが。

大いに楽しんだ。が、「突き抜けること」についてちょっと考え込んでしまった。

端的だったのは白神ももこのダンス。アイディアがあったり気が利いてたり、そういうの、もう知ってるよ、最後にやった「しゃべってるみたいに踊る」のを、最初から、20分でよいから、やってくれよ、と思ってしまった。そこには「気合い入れて突き抜ける方向へと全速力で走る」ことへの拒絶や疑義や照れや臆病さがある気がした。こういうのを「食い足りない」とか「欲求不満」というのだろうか。

バー齋藤、真田真プレゼンテーション、デブ学講座、一人ものまね王座決定戦、ストレッチWS、ソロダンス、新川崎コーラスセンター、みんな面白かったのだ。そして、面白い中にも「春風舎を一つの色で染めてしまわないように」するような意図が感じられて、それも悪くないと思う。でも一方で、それらすべてを、たとえば2時間一本勝負の中に押し込めて核融合を起こして、
"Amazing Splash of Colours"
を引き起こすことも可能だったのではないかと、僕は夢想する。白神・神里がどう思っているかは別として、僕はそういう出し物がたくさん観てみたいと思っている。また、それが可能なパフォーマーが揃っていたよ、とも思っている。

2010年4月26日月曜日

キラリ☆ふじみプロデュース LOVE the world

24/04/2010 ソワレ

多田淳之介氏のキラリ☆ふじみ芸術監督就任第一作。東京デスロックで上演した"LOVE"を下敷きに再構成、韓国人俳優4人と日本人俳優4人の混成部隊で。

初演時の、ややもすると観客を振り落とすような、受け付けないような、目つきの鋭そうな空気が、あたたかく観客席に手を差し伸べてくるような包容力に姿を変えていた。同じモチーフに基づきながら、また、突きつけるもののインパクトをそのままに、洗練と成熟を感じた。

冒頭、役者がカラフルな衣装にメガネ、同じくカラフルなスーツケースにグッズを満載して登場したのに、まず驚く。
LOVEの一連のシリーズでは、冒頭出てくる役者に「出来るだけ記号を背負わないように」させて、とはいっても役者の個人史は役者の身体にきっちり予め刻まれているのだから、そこまで消し去って舞台に載せるわけはいかない、そのギャップにどう折り合いをつけていくか、どうやって「今、ここにある身体」に集中するか、がミソだったと思う。

それが、今回はいきなり冒頭から記号をまとった役者達が舞台に現われる。メガネ、スーツケース、枕、水、鍋、着替え、本などなど。お、やっぱり多国籍軍ともなると、あらかじめ共通の「裸の身体」で舞台に立ってくれとはおいそれと言えないわけですか?と思う。

その後、一旦は役者達はその記号を落としてしまうのだけれど、後半再度記号どもを身に纏い始める。冒頭着ていた記号と違うものを身に着けて。言葉はなく、せわしなく舞台上を歩き回る。ぶつかる、袖が触れ合う、すれ違う。でもそこにもやはり言葉のコミュニケーションは生じない。そこにはこれまでの「言葉のコミュニケーションでもどこにも連れて行ってもらえないこと」への苛立ち、言葉以前のコミュニケーションへの憧憬のようなものは無くなっていて、「記号を纏った者同士のコミュニケーション不在へのあきらめ」があるように思われる。それは、とてもさびしい現状肯定のようにも受け取れる。初演時、少なくとも夏目慎也はどこへとも知れずはしごを昇って進んでいった。今回、役者達はお互いに言葉を交わすことなく、各自の記号を纏って退場する。ラストの視線の交わりになにがしかの希望の芽はあるのか...

大きな舞台で演じられるLOVEは、空間が大きい分だけ包容力を増したように思われた。狭い場所で観るLOVEは、若干intimidatingな感じがして、息が詰まることもある。「大きな空間でも大丈夫じゃん」という自信と余裕は、この3年間のLOVEの公演の成果だと思う。「小劇場演劇」ではなくて、れっきとした「舞台表現」なんだと思い知った。

2010年4月25日日曜日

甘もの会 どどめジャム

23/04/2010 ソワレ

前作「炬燵電車」がとっても不思議な感じで、第2回公演も必ず観ようと思っていた。同じ肥田知浩氏の戯曲を使って、新川の小さなアトリエでの公演。正直なところ、期待通りに世界が広がりをみせなかったことにフラストレーションを感じた。戯曲のせいだと思う。

「炬燵」も「どどめ」も、「記憶」を軸に組みあがった戯曲である点は共通している。ただし「どどめ」の記憶は、主人公の男の一人称視点での過去の記憶と未来の記憶がある時点で交錯する「縦の編み方」であるのに対して、「炬燵」の記憶は、炬燵の周りの空間をハブにして、そこに出入りする登場人物たちの視点と複数の記憶が交錯する「横の広がり」を持っていた。いずれも小さい空間での上演を前提として、そこから世界をどう広げるかが勝負どころの芝居なのだけれど、「炬燵」の周りにぶわーっと世界が広がっていった感覚を思い出すと、やはり「炬燵」に軍配を上げてしまう。

加えて、一人称芝居で記憶を交錯させられると、どうしても早い段階で「オチの読める」展開になりがちで、そこも惜しかったと思う。石担ぎ、モンゴル相撲、飴拾いなど、魅力的なモチーフが散りばめられているだけに、それらの人物の「視線」が加わると、もっと立体的に芝居の時空が立ち上がったのじゃないかという気もした。

室内が屋外に化けられるか、というのも大きな命題で、やはり、こういう小さな小屋で、役者のすぐ後ろが白い壁という制約はなかなか乗り越えがたかったのだろうという印象。違う小屋で、視点の加わった「別バージョン」が出てきたら、それは観に行きたいと思うかもしれない。

山内健治 舌切り雀

22/04/2010 武蔵小金井四谷怪談のアフターなんとか

フランス語、観客参加型、日本語字幕付き。フランスの40を超える場所ー小学校、病院、友人宅、公民館ーで、子供を前に上演してきた山内健司氏の一人芝居の日本初演。

すげー。余裕の立合いで劇場をグリップしながら、一瞬でも目を離したら切るぞという気迫みなぎる。「現代口語演劇」の立ち上がりから洗練までを身をもって創り上げてきた役者が、フランスのガキどもの前に丸腰で立って「どーだ」とばかりに他流試合。そこで負ってきた無数の生傷が、笑顔の奥にうかがえる殺気の源か。

日本語の雀、フランス語の雀。視線の仕様も反応の仕様もまったく異なる中で「共通のなにかを見つけられるかられないかのきわめて狭いパス」をくぐっていく。ほんと、すげー。

青年団若手自主企画 武蔵小金井四谷怪談 再見

22/04/2010 ソワレ

再見。山内健司「舌切り雀」の日本初演を観に行ったというのが本当の理由なのだけれど、本編でもばっちりやられた。初日よりもさらに切れ味、完成度を増して、というより、この面子に「完成度」なんて言葉は失礼か。

「演劇は、そもそもが、ごっこ遊びなんです」という命題に立ち向かう時に、観客を安全な客席においておくのではなくて、また、観客参加型でも、さらに言うと客いじりでもなくて、でも「はい。じゃあなた、観てる人の役ね」と割り振って、その舞台を観る目(視線)をぐいぐいと舞台の時空に引っ張りこんでいく手管はすごい。

舞台上の演技を「リアル」と感じるためには、観客の中に「リアルに見えるための約束事」があるのが前提なのだけれど、岩井秀人の芝居はその「約束事」が観客によって違うことがよーくわかっていて、そのずれを巧みにこじあけにかかる。

芝居をみなれた観客であれば、ある程度「自分のリアルにとっての約束事ー約束A」と「芝居の約束事-約束B」を行き来しながら、舞台上で起きる出来事に一つ一つ辻褄をつけて、一貫した物語を作り上げるだろう。そのプロセスは、新劇であろうが夢の遊眠社であろうが青年団であろうが、変わることはない。約束Aと約束Bの前提の置き方次第で、芝居が楽しめなかったり楽しめたり、訳が分かったり分からなかったりするのだろう。岩井芝居の「視点の転換」「ズレ」は、約束Aと約束Bを絶えずゆさぶりながら、一つの固定した焦点を舞台上に結ぶ余地を観客に与えないのだ。

もちろん、約束Bを芝居の中で大胆に転換したりメタレベルに翔んだりして、そのことで約束Aをゆすぶってみるような芝居も数多くあるのだけれども、岩井芝居の「視点の転換」には、僕は、彼が「鳥瞰型・神様目線の現代口語演劇」ではなくて、「現代口語一人称芝居」を続けてきた後にしか提示し得ないものを感じる。

岩井秀人が世界の隅っこから世界を観るレンズ。その自分に他人のレンズが焦点を当てていると感じることについてのおそろしく肥大化した自意識。そこから、「その他人を観るさらに他の他人」「岩井と岩井を観る他人が同時に何かを観たときに何が起きるのか?」「岩井と岩井を観る他人が同時に何かを観たときに何かが起きていることについて、さらに他の他人は何かを感づいているのか?」「それらすべてを意識しながら舞台に乗せたら一体何が起きるのか?」
観る度にそういう凄みを感じて、何とも心地よく僕はおののく。

もちろんすべての役者素晴らしいのだけれど、この回は特に石橋亜希子にシビれた。役が切り替わる間の、むにゅうっとした時間の流れ方を完璧に支配。見えないストップウォッチを彼女がカチカチ押して、観客の意識の中の時間すらも止めたり進めたりしていた。

2010年4月20日火曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第1回

17/04/2010

平田オリザ、「劇場、劇団、劇評を語る」。
劇場と劇場法のことは沢山語ったけれど、劇評のことはあんまり語らなかったな。

昔「(文芸)評論家とは、馬の尻にたかるハエのようなもんだ」と言った人がいると聞いたことがある気がする。
(その辺の記憶が定かでなくて、馬にたかるアブだったか、牛にたかるハエだったか...)
どうやらそんな扱いな感じ。要は、平田オリザは劇評を「ないと困るもの」と発言したのだけれど、受けた印象としては逆で、平田にとって劇評は「なくてもあんまり困らないもの」なのではないかと感じられた。まぁ、そうだ。彼は世の中に劇評があろうがなかろうが、芸術活動を続けるに違いないのだから。

ただ、一方で、平田の海外(特にフランス)での活動を正当化するための裏付け材料として、平田自身が「誉めてるのかけなしてるのかよく分かんないんですよ」というようなフランスの劇評を使ってきたことは間違いなく、「なくても困らないもの」の効用を利用するのって、どーよ?という気もしないではない。まぁ、それも「いやいや、あるものは使ったらいいじゃない」と返されたらぐぅの音も出ないが。

そしてまた、平田の考える「アーツカウンシル」も、何かしらの言説に「権威」「権力」を持たせる試みなのだろうけれど、彼が一体そこに何を求めているのか(「どう利用したいのか」というのと「何を期待しているのか」の二つの意味で)も、今ひとつすっきりしなかったかな。

武藤・佐々木・水牛の三人の講師陣、こういうところについて一体何を思ったのか、聞いてみたい気はした。

百景社 しらみとり夫人/バーサよりよろしく

18/04/2010 マチネ

千穐楽。テネシー・ウィリアムズの戯曲を短めに2本立てで。

ベタな戯曲をメタに処理する発想、よし。「しらみとり夫人」ではト書きの指定の思わせぶりと"実は"な登場人物の状況と"実世界"上のほぼ素舞台なステージセットのズレがうまーく処理されて、一本背骨が通る。「バーサよりよろしく」も、身体への負荷と言葉遊びをうまく組み合わせて、単なるどんでん返しな芝居から脱皮させていた。

だからこそ。台詞やちょっとした表情の滞空時間が長すぎたのが惜しい。
おそらく、テネシー・ウィリアムズの台詞が(もしかすると和訳のせいもあって)恥ずかしい、という意識はあったと思うのだ。だから、演出の意匠がうまくハマってると思わせているうちに、ささっと、滞空時間を与えずに、テクストをこなした方がよい結果が出たのじゃないかと思ったりしたのだ。空気椅子も水バケツも、折角役者に苦行を与えているのだから、苦悶の表情を捨石にしてしまった方が、トータルではもっと観やすくなったんじゃないかなー、と思われた。トータル50分くらいにぎゅっと圧縮してもよかったんじゃないかな、と。

2010年4月19日月曜日

青年団若手自主企画 武蔵小金井四谷怪談

17/04/2010 ソワレ

初日。いきなり岩井マジックに酔った。
「役者の身体は役の容れ物である」というコンセプトを岩井氏は名作「3人いる!」を引き合いに出して「東京デスロックメソッド」と呼ぶ。いやいや、またまた、ご謙遜を。

現代口語演劇に特有の「リアルな」=「舞台の1秒=現実の約1秒」みたいな時空のつながり・流れを大胆にブチ切って、岩井異空間につなぎ直して舞台に提示する。これは、多田ワールドの「これ、結構リアルに身体酷使されてるよね?」のリアルとは趣を異にして、なんと呼べばよいのやら、
「岩井キュビズム」
とでも言うべき時空の再構成に凄みがある。

役者陣、岩井空間の空間の歪みを全身で受け止め、時間の切り貼り・ストップ&ゴーを「違和感のあるもの」として流していく力がさすがで、まさに名人芸。このゴツゴツ感、この鮮度。たまらん。

鰰 深海魚

16/04/2010 ソワレ

深海魚初日。
60分、あっという間に過ぎた。退屈せず。どちらかと言えば「もっと続けてくれ!」とさえも思う。

時間の流れ方が、一つのゴールに向かっていない感じ。無理矢理絵にたとえていうと、全体のサイズや構図を決めてから絵を描くのではなくて、一点を決めた後、平面の充実を保ちながらじりじりと絵を広げていった感じ。それがキャンバスの大きさに収まらなければ継ぎ足せばよし、予想外に小さくまとまってしまったのならそのまま提示しよう、ということか。

ダンスと演劇の両側から攻めるという「ジャンルを超えた試み」的な見方よりもむしろ、僕には「二人の演出家による共同作業」という感じの方が強く印象に残った。舞台芸術を、演出家のエゴ(あるいは主張)を核に置いて、それを起点として一本筋を通した上で理解しようとすると、おそらくこの出し物は単に捉えどころのない焦点のボケたものになってしまうだろう。

あっちに行ったりこっちを向いたりしつつ、時空を常に充実させながら時間を進めていく作業は、とっても骨が折れる。創り手も骨が折れるだろうが、観る側もきっと骨が折れる。だから60分が丁度良い。こういうことが「起きている」ことに対して、ホッとするような、不安になるような、不思議な感じがした。力を入れて観にかかるとはぐらかされる。入場料どぶに捨てたれー、というくらいの気持ちでパーになって観たら、思いもかけない大波に攫われるんじゃないかという期待感はあるのだけれど、何分貧乏性なのでそこまで身を任せられなかったのがちょっと無念。

2010年4月10日土曜日

Crackers Boat "Flat Plat Fesdesu"

09/04/2010 ソワレ Cプロ

KENTARO! といえば、吾妻橋で "Miles Runs The Voodoo Down" に乗って踊ってみせられて、それだけでブッ飛んだのを鮮明に覚えている。だから、今回の企画も、何がどうあろうとKENTARO! のダンスがアゴラで観られればそれだけですごいのは間違いなかったけれど、今回は岩崎愛さんの弾き語りとTokyo Electrock Stairs も加わって、たっぷり堪能した。

岩崎愛さん、まず、よく通る真っ直ぐな声が快い。曲も素直で、いい感じ。歌詞は40男が聞くと照れちゃう感じでちょっと引くけど、そういえば若い頃、道を歩いていて突如世の中の全てを受け入れてよいような、そういう「ぱぁああっと開けた瞬間」がたまーにやってきたのを思い出した。岩崎さんの歌にはそういう「極めてまれに訪れるポジティブな一瞬」の極めて狭い入り口をこじ開けるようなおおらかな力があった。

Tokyo Electrock Stairs 、身体が良く動くのを自分達で確かめながら、気持ちの良さを味わっている感じがまた良し。やっぱりKENTARO! 氏の動きは際立っていて、他のメンバーと同じ動きをしていても「残像」の残り方が違う。ストロボたいてるわけでも蛍光灯でもないのに「残像」ってなんだよとは思うが。KENTARO! ソロも「飽きる瞬間が決してやってこない」とはこのことか。ホント、彼が動いている様はいつまでも観ていられる。11月のソロ公演、すっげぇ楽しみだ。

CDのおまけとブラウニーも頂いて、すっかりご満悦。「こいのぼり」のブラウニーはパサパサしてなくて生チョコに近いしっとり感、うん、日本人好みだね。うちで美味しく頂きました。

タテヨコ企画 ウツセミウツラ

07/04/2010 ソワレ

初日。
大変面白く観て、気分よーくスズナリを出た。

まず、舞台美術。濱崎氏の舞台は、タテヨコ企画の芝居ととっても相性が良い。気が利いているのに突っ張ってなくて、暖かみがある。今回も「中庭」チックな空間がふわっとくるまれていて、スズナリの中で遠近が効いているのに役者が小さく見えない。天真と百合江の二人のシーンは、内なる宇宙と外に広がる世界を同時に映して美しかった。

おハナシの設定はタテヨコ企画おなじみの「お坊さんもの」。コンセプト自体に驚くようなことはない。乱暴に括ってしまうと若い修行僧の視点に立った教養小説チックな話なのだけれど、そこには一つ仕掛けがあって、
「禅寺だけに、本質をつかんだと思った瞬間それはスルリと逃げていく」
ようになっているのである。

例によって例のごとくいろんな人たちが出てきて、いろんな出来事が起きる。通常の教養小説ならそれを通して何かしら主人公が成長して、何かしら結論・教訓じみたものを得て、観客も何かしら「観る中で成長する」んだろうけれど、そうは問屋がおろさないのが禅寺の妙。

だから、「因果応報」と「風呂敷の畳み方」を気にせずに安心して観ていられた。その場の役者の表情、動き、ストーリーと関係ないところのちょっとした破れ、そういうものに集中して観ていられるという点で、「誤解を恐れずに言えば」東京デスロックを観るのと同じように楽しかったのである。東京デスロックをみんなに勧められるのと同じように、今回のタテヨコ企画、お勧めなのである。

小田豊さん、肝心要の芝居のへそを「ぎゅうっ」と締めて素晴らしい。西山竜一さんも、悪い人のようで実はいい人と言えないこともないけれど結局悪い人なんじゃないの?、みたいな、何ともおかしみのある役作りで出色。彼が退場する場面はちょっと涙出そうになった。ちゅうりさん、客入れ中にはけて、そのままカーテンコールにも出てこなかったが、一体どこへ行ってしまったのか。それが謎。

こんだけ誉めたんだから一点だけ難癖付けるとすると、セミの声。ミンミンゼミとつくつく法師を一緒に鳴かせてはいけないのではないか。昼下がりのミンミンゼミから夕方近くのつくつく法師、といった具合に鳴き声のブレンドを調整するくらいのことはしても良かったと思うが、どうか。

2010年4月5日月曜日

ハル大学 カガクするココロ

01/04/2010 ソワレ

初日。
大変面白かったのだ。白状すると「英語で現代口語演劇ができるだろうか」、「どうしても台詞をうたっちゃうんじゃないか」とみくびっていた部分も正直あったのだが、そういう偏見ははっきりとひっくり返されたと思う。

昔、内野儀さんが「なんだ、現代口語演劇っていったって、岸田今日子さんが演じたらとっても面白くなっちゃうんだから、(現代口語演劇が否定しようとしていた)新劇と何ら変わるところがないじゃないか、と思った」と話していたのを思い出したりもしたのだ。

と同時に、これは「翻訳劇」である。登場人物はもちろんみんな日本人だし、研究室ではお互い「名字呼び捨て」で呼び合ってるし、要は「こんな日本人いねーよ!」とつっこめるのだけれど、敢えてそういう「リアルでない」ところにつっこまずに「関係の取り方のリアルさ」に注目するのがミソ。

考えてみれば、シェークスピアを日本の劇団が日本で「日本語への翻訳で」ガチンコ演出で演じて、それをイギリスに持って行ったときに、イギリス人がどれくらい「面白い」と思ってくれるか心許ないところもある。
ところが、今回、平田オリザの芝居をイギリスの大学生が「英語翻訳で」演じて、それを日本に持ってきたものを「面白い」と思っちゃったのである。

なんだか、うれしいような、悔しいような(もちろん平田オリザは嬉しいんだろうけど)、複雑な気持ち。時々「翻訳劇ならでは」のちょっとした間の空いたところを発見しては、「あぁ、翻訳劇だなー」なんて意地悪なことを考えたりもする。

とまあ、色んなことは考えたけれど、何より「カガクするココロ」は若いキャスティングで演じるのが良い。ほんと「人生真っ盛り」な感じがして、しかも力があるって、素晴らしい。

2010年4月3日土曜日

誰も、何も、どんなに巧みな物語も

31/03/2010

その場に居合わせることの幸せ。月並みな言い方ではあるが、本当に充実した80分だった。

僕は「舞台の空間を埋める作業」がとってもダサいことのように思っていた時期が長くて、実は今でも割りとそう思っている。所詮時空を埋め尽くす、全てを語りつくすことなど不可能なのだから、余白をどう見せるか、いや、物事をどう見せないか、いかに物事は見えないものか、が勝負所ではないか。そういう理屈である。

ところが、安部聡子、山田せつ子、2人のパフォーマーが BankART Studio NYK のがらんとしたスペースに立つと、とたんに、その空間の隅から隅まで何かがぶわーっと充満するのを感じる。確かに感じた。
2人のパフォーマーが、動き、声を発し、時としてお互いに無関心であるかのように振舞い、時として過剰に干渉しあう。近付き、離れ、その遠近法がなんとも美しい。
(もちろん、色んなところをうろうろしているから空間が埋まっているって言ってるわけではないんですよ。念のため。)

その中で、ジャン・ジュネのテクストはそれだけでは時間を支えていないし、山田せつ子氏の動きだけでは空間を支えていないし、安部聡子の声だけでは空間は満ちていない。加えて、安部・山田の視線は、観客抜きでは成立しない。テクストと演出と演者と観客が、そのどれを抜きにしてもこの時空を成立させられない格好で支えあって、濃厚なスープのような霧のようなモノを生み出している。そう信じられることの幸せといったら!

boku-makuhari スリープ・インサイダー

29/03/2010 ソワレ

初見。2時間10分たっぷり重たい芝居。
観ていて途中でどうにも脈絡が追えなくなり、一体どうしてしまったのかと思っていたが、終演後当日パンフ読んだら、「提示される」物語の脈絡など最初から無かったと分かった。最初に当パンきちんと読んでおけばよかった...創り手が自分の物語を押し付けようとせず、「物語は観客の想像力/妄想が紡ぐもの」ことを前提としてくれる芝居は正直僕の好みだし、そうした余地のない押し付け芝居に腹を立てたりもするのだけれど、それでもしかしこの芝居の中で何かしらの筋・脈絡を読み取ろうとしてしまった自分の未熟さよ。

この芝居の一見した「脈絡のなさ」には、しかし、イメージに頼る(観客に丸投げする)なげやりさよりも、むしろ、丁寧な周到さを感じた。つまり、最初から引いて観なくとも、個別に脱線するためのスイッチ・引込み線が仕掛けてある感じ。戯曲の色々なところに「観客の皆さんはどこからどう脱線していただいても構わないのですよ。例えば、ここ」といった誘い水。誘い水ではあるのだけれど、それに乗って脱線する、あるいは脈絡のない迷路をうろうろすることは、決して観ている側にとっても楽なことではない。というのも(少なくとも当パンの挨拶をちゃんと読んでいない観客は)「いつ物語の本筋が立ち現れるかわからない」という考えからなかなか逃れられないからである。で、疲れてしまう。

そしてこの疲れは、観客だけでなく役者・作者・演出も共有しているに違いないと感じたのだ。その点が、同様に観客が脈絡をとらえにくい芝居をする松井周との違いだと思う。サンプルの芝居も「脈絡がつかみにくい」けれど、少なくとも松井周は「自分の中では辻褄が完璧に合っている」と言ってしまう。一方で岩崎裕司は、自らにとって整合性のとれる辻褄からも、あらゆる機会を捉えて逃れていこうとしているように思える。それは、きっと、しんどいことだろう。しんどいけれど、充分挑むに値する行為。

役者もしんどい演技を強いられているに違いないのだけれど、そこでほぼ出ずっぱりなのが、サンプルにも出演する、かつ青年団所属の、奥田洋平であることは注目に値すると思う。「物語をはぎ取ったしんどい演技をしても、それはやはり十分に観ていて面白いこと」という問題意識は、実は、現代口語演劇の原初の問題意識ではないかと、僕は考えている。現代口語演劇の演技は「日常を演じる、だらしなくて楽でつまらない演技」なのではなくて、実は一つ一つの動きが「物語に支えられていない」分、しんどくて過激な作業なんだということを、奥田の演技は示しているようにも思われたのだ。

2010年4月1日木曜日

ままごと スイングバイ再見

28/03/2010 マチネ

千穐楽。
この芝居の出来の良さについてはもういろんな人が書いているだろうから、色んなことを誉めるのはやめます。一つだけ言うなら、能嶋瑞穂さんは今回もほんっとにきれいだった。こはり氏との出会いのインタビューのシーン、分かっていてもみとれて、涙出た。

芝居の話はそれくらいにして、学生の頃ネパールに簡易水道を作りにいった友人のことを書く。ネパールから帰ってきて、彼曰く「ネパールの人は、淡々と人生を受け入れる。三食同じものを食べ、働き、食べ、寝、働き、食べ、寝る。娯楽は乏しい。ない。不平は言わない。淡々と生きる。」

蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまった僕たちは、最早そのようにして暮らすことができないという点で、不幸である。その不幸を背負って生きる以上、また、「文化」とか「宗教」といった「贅沢品」も身に纏って生きるほかないじゃないか、そんなことを考えたことを覚えている。今でもそう思う。

この、スイングバイという芝居は、ネパールで友人が見てきた「淡々とした暮らし」への、一種の応援歌である。それは良い。僕がついつい考えちゃったのは、「芝居」という贅沢に身を浸しながら淡々とした暮らしにアプローチせざるを得ないせつなさについて。

柴氏がなんかのアフタートークで「芝居をして、きちんと生活できるようになることが目標だ」みたいなことを言っていたのを覚えている。彼もまた、「芝居」という人類の文明の最高の贅沢の一つを仕事としながら、それが「淡々とした暮らし」にどう比肩しうるかを試している、あるいは、後ろめたさを引きずりつつ進んでいる、という気がする。

「私の仕事は、お芝居をすることです」
「私の仕事は、ままごとをすることです」
一連の台詞の中に、こういう言葉がなかったことに、若干驚きというか、がっかり感はあった。

かろうじて、「私の仕事は、人を笑わせることです」がそれか。

あるいは、わが社において、「社内広報」という、言い方によっては、「無くても構わないもの」の極地にあるような部署を採り上げたのもそういうことかもしれない。柴氏にすれば、演劇は「わが社」の社内広報のようなものであり、無くても構わないし、世直しの道具でもないけれど、でもやっぱり、おばちゃんのお掃除と同じくらい、一生懸命取り組むのに不足は無い仕事ということなのだろうか。

そう。だからこそ、だ。あの、一連の台詞の中で採り上げられる職業に、貴賎はないのじゃないか?と、どうしても思ってしまうんだ。
「私の仕事は、おカネを貸すことです」
「私の仕事は、パワーポイントの体裁を仕上げることです」
「私の仕事は、天下り先を確保することです」
価値観と関係なく、今日も様々な人が、様々な仕事をしている。メーテルリンクの青い鳥で未だ生まれぬ赤ん坊が「ぼくは疫病とともに生まれ、すぐに死ぬのだ」と言ってのける、そういうところまで呑み込んだ世界まで、僕は実は柴氏に期待しているのではないかとも思うのだ。

2010年3月30日火曜日

田上パル 師走やぶれかぶれ

27/03/2010 ソワレ

田上パルのふじみ「やぶれかぶれ」二本立て、二本目は、役者全員ふじみのオーディションで固めた「師走やぶれかぶれ女子高生バージョン」。

これもまた大いに楽しんだ。初演は初演で、多感な高校三年生男子の「将来って何だっけ」っていう無駄な悩みがとっても良かったのだけれど、今回は男子が女子に入れ替わって、カラッとした仕上がりになっていたと思う。「現役女子高生」たちが演じる「現役女子高生」達には、鯖読み女子高生にはないだろう元気と兇暴さが溢れて、うーん、やっぱりこういうのが観られるというのなら、「女子高生」と芝居創ってみたくもなるよなー。

でもね。がなる芝居・パワーを使う芝居は、粗が見えやすい。いや、粗があるように見えやすい。演出の要求に女子高生たちとても素直に、パワフルに応えていたとは思うけれど、せっかく女子高生なんだから、ハンドボール部のがさつな男子をそのままハンドボール部のがさつな女子に置き換えなくても良かったんじゃないのかなー、と思ったりもする。

「キミが高校時代に、思い描いていた(あるいは、あこがれていた)女子高校生って、実はもうちょっとがさつじゃなかったんじゃないの?そういう、ちょっと作・演出のドリームが入った女子高生が出てきても、それはそれで面白いんじゃないの?」
とも聞いてみたくなったりする。

まぁ、いいや。オレ、この戯曲好きだし。今後も、色んなバージョンで、色んなカラーの入った再演がされたらいいなー、と思う。がさつな女子でもがさつな男子でもがさつじゃない女子でも、はたまたがさつじゃない男子でも、色々な楽しみ方が出来る戯曲だと思う。そうなったらいいな。

田上パル 新春やぶれかぶれ

27/03/2010 マチネ

田上パルがふじみで創る「やぶれかぶれ」二本立て、一本目は「常連組」と「オーディション組」が出演する「新春やぶれかぶれ」。

まずは大いに笑い、楽しんだ。と同時に、ここのところ「高校ハンドボール部もの」からどうやって抜け出そうかと四苦八苦していた田上パルの今後の方向感が見えた気がして、「なんだかほっとした」のである。

芝居の基本的な組み立ては、「熊本弁口語演劇一幕物」+「老若男女問わぬあたりの激しいアクションと大騒ぎ」+「超常現象」+「泣いて笑って喧嘩して、手をつないでかーえろっと」で変わらず。ハンドボールものの「師走やぶれかぶれ(初演)」「アルカトラス合宿」や、先行きの苦労を予想させた「改造人間」「青春ボンバイエ」とそんなに変わらない。強いていえば人間関係の基本ユニットが「友人」から「家族」にすりかわったことか。

今回、同じ大騒ぎな芝居でも大きな心配なしで最後まで観ていられたのは、一言でいえば、バランスなのだろう。「熊本弁」や「大騒ぎ」にもたれすぎないバランスがあったから、アクションがつらくない。そういうバランスを長女、三男、三女の3人、特に長女が支えていたと思う。逆に次女は「イロモノ」演出がちょっと強すぎて「なにもここまで」という気もした(本人のせいというよりは、演出の要求だと思うが)。

なんにせよ。この芝居のバランスをさらにファインチューンしていく中で、果たして田上パルが今後も「熊本弁」にどこまで拘るのか、ちょっと面白い展開かなーとは思ったのである。本拠地は首都圏に置いているわけだし、役者陣も熊本出身者からさらに広がってるし、必ずしも熊本弁の芝居に拘らなくてよいのかもしれない。その時に、田上パルの芝居がどのように変わっていくものなのか、ちょっと興味深い。

2010年3月25日木曜日

元祖演劇の素いき座 虫たちの日

21/03/2010

千穐楽。
土井通肇/森下眞理のお二人の芝居は、本当にずうっと観ていられる。箸の上げ下ろし、鰯の身を分ける仕草、汁をすする音、指をしゃぶってみる音、朝刊の質感、炊飯器から立ち上る湯気、足袋の汚れ、めがねが鬢に引っかかる感じ、きっと歯に引っかかっているのであろう筍のスジ。五感を総動員し、妄想をかき立てながら、70分間観ていて飽きることがない。

「何かが起きる」舞台を期待する方々には「この舞台では何も起きませんよ」と説明してしまおう。老夫婦が自宅で過ごすのろのろとした時間。一見平穏な夫婦の時間は、最後の最後まで一見平穏だ。だけれども、「70分何もなく過ぎる時間」を、いかに退屈せずに観ていられることか。当パンに「最後迄、頑張って御観劇下さい」とあるが、本当に頑張らないとただの何もない時間になってしまう。事件は待っていてもやってこない。「頑張って御観劇」する人は、初春のハイキングのように、あるいは初夏の道草のように、なにがしかの事件を見いだして興奮し、大抵の人がいまや「アナウンサーの絶叫つきの」「オリンピック」でしか味わえなくなった感動とやらに触れることが出来るかもしれない。もちろん触れられないかもしれないけれど、それはそれで、寄り道・道草にはつきもののことだ。

まぁ、この芝居が扱うテーマが「老い」であることは間違いなくて、それを演じるお二人の平均年齢が少なくとも観客席の平均年齢よりは「老い」に近いことも間違いなくて、どうしても、芝居を観ながら何度も「耄碌」という単語を思い出してしまった。耄碌するとはどういう状態か。過去形で物事を語るとはどういうことか。「幸せでした」と語る人は、幸せなのか不幸せなのか。

いき座が今後も公演を続ける中で、いや、どんな劇団のどんな芝居でもいいや、芝居が公演される中で、観客としての僕が耄碌に近づいていくことは間違いないし、演じる役者も、演出家も、耄碌に近づいているだろうことも、これもほぼ間違いない。矍鑠としている、しゃんとしている、ということは、すなわち「一般に予想されているよりも耄碌の度合いが少ない」ということであって、若い者の方がより耄碌していたりはしないのである。耄碌すれば視野も狭くなり、身体も動かなくなり、五感も鈍るに違いない。鈍らないと言い切るのはウソだ。でも、耄碌に近づいたために世界が豊かさを失うとは思えない。どのように、のろのろと、豊かさを吐き出しながら、耄碌に近づいていくのか。若干自分を意地悪だと自覚しつつも、いき座の舞台はいつまでも追っていたい。土井さんと私がどう耄碌していくのか、確かめたい。その、耄碌に(立ち)向かう極北にいき座の舞台は聳える。

中野成樹+フランケンズ スピードの中身

20/03/2010

素晴らしいの一言。技量、熱意、着意、どれをとっても一級品。声高でなく、でも自信に満ちて、押しつけではなく、でも熱量がこちらに伝わってくる。国宝級の職人技をばっちり鑑賞させていただいた様な、本当に贅沢な時間を堪能。

芝居が始まって、この、どこと特定し難い時空と「不条理劇」と呼んでも良いようなシチュエーション、ちょっと懐かしい気がした。1989年3月、青年団の「海神」。7人の登場人物 - やり投げの選手やアテネや風神やその他神々ともそうでないとも取れる者たち ー が、コーヒーメーカーややり投げや海流や戦争について語る芝居。本当に分からない芝居だったけれど、そういえば当時の平田オリザは「難しいことは悪いことではないと信じている」という、一種開き直りともとれる文章を当日パンフに書いたのを覚えている。今回、終演後中野氏の当パン挨拶読んだら、「わかりづらくてもいいじゃないか」。この気合い、素晴らしい。

こういう気合いに満ちた芝居が、屁難しさの中で自閉するのではなく、きっちりエンターテイニングに完成度高く観客に示されることを、素直に観客の一人として慶びたい。

まず、テクストの強度。小生不勉強でブレヒトの原作読んだことないから、どこまでがオリジナルでどこからが石神氏・中野氏・現場の役者による追加・変更なのか知る由もないが、この上演台本がかなり「すごい」ことは間違いない。なんだか社会主義チックな会議の場、絶えず抽象的な屁理屈が散りばめられながら、行き先は「生死の境界」という極めて具体的かつ白黒はっきりさせなければならない話題。その場その場の個別の具体性が抽象を裏切りながら場面が進行し、ぐいぐいとどこへでもない場所へと引き込まれた。

勿論それを体現する役者も良し。フランケンズの役者がみんな達者であることは疑うべくもないけれど、「公衆に対して絶えず開かれた、なんだかテレビの討論会のような場所」に適度な筋力で立って、がっちり世界を支えていた。

場所。航空発祥記念館と芝居本体のバランス良し。「Zoo Zoo Scene」では動物園の面白さが勝って、芝居は淡泊な味わいがどうしても拭えなかったのだけれど、今回は場所が芝居をじゃませず、かつ、なんだかわからないスパイスを与えて、面白い。前半、村上聡一氏の「飛んでました」「落ちました」の台詞にあわせて、窓の外、村上氏のはるか向こうを、まだ日が落ちていない空と草木をバックに紙飛行機が飛んで、落ちた。フィクションと現実が僕(観客)の脳内で小さくスパークした瞬間。

一つ一つの要素がいちいち気が利いていて、でも、それが、「一点豪華」でも「なんだか気の利いたことを思いついたつもり?」でもなく、それぞれがまるで「必然」のごとくにガッチリ組合わさっていた。こういう芝居がみられるのは、本当、幸せな経験だ。中フラの皆様に多謝、多謝。

2010年3月21日日曜日

ままごと スイングバイ

19/03/2010 ソワレ

とても面白かった。チケット完売になって全くおかしくない出来で、誰にでも薦められる。大胆な発想・構成と、細部までの細やかな視点が共存して、ケチのつけよう無し。
存じ上げている役者、好きな役者、沢山出演していたけれど、やっぱり一番うれしかったのは、板倉チヒロさんがとても良かったことかな。常日頃すっごくいい役者だとは思っていたものの、「よし、これだ!」と思える作品で拝見したことなかったので。

それにしても、この、全編を通して漂う「ポジティブな感じ」はいったい何なんだろうと考えた。「あゆみ」も「わが星」も今回の「スイングバイ」も。人間生まれて死ぬ。ただ単にそれにポジティブだと「人生って美しい!命のカガヤキ!」みたいな「美しい人間賛歌」になってしまうのだけれど、必ずしもそういう意味ではなくて。

どちらかというと、死んだ者たちが必ずしもカタチにならないにせよ何かしら現世に残していく痕跡に対する、アプリオリな、ほぼナイーブといって良いほどの「信頼」の様なものを感じている。「あゆみ」では、一人が倒れようともその後に続くあゆみーずが歩みを続けていくことへの信頼感、「わが星」では、星が生まれて死んで、でもそれは必ず誰かによって見守られているという信頼感、また、死んだ星の塵からまた新たな星が生まれることへの根拠のない確信。「スイングバイ」はまさにタイトルの通りで、次々に「文字通り」引き継がれるカバン、書類、仕事。それらを引き渡した後は、「スイングバイ」により新たな方向へ加速度をもって進んでいく。途上で倒れても、カバン・書類・仕事は引き継がれてきたし、今後もきっと誰かに引き継がれていくという信頼感。自分のしていることはきっと誰かが見守っている、そして、それはどこへも消え去らずに、(たとえそれが未整理の倉庫であっても)積み重なる歴史の高層建築の中で一枚の薄い化石のように残るのだという根拠なき確信。

悪意のある言い方をすれば、そういった信頼や確信は、美しいかもしれないけれど、現実には起こり難いのではないかと言うことも可能だ。もちろん、こういう美しいものは、特に柴幸男のような力のある作・演出の手に掛かると、細部まできっちりと糊代が処理されて、「ノレる」芝居にできあがる。だから、泣ける。一方でそれを「危ない」と感じる人もいるだろう。「ウソかもしれないけど、少なくとも美しいじゃん?」という釣り言葉は、70年前の日本のことを考えると確かに危ない。

が、2006年の「美しい国」のスローガンには少なくとも日本は「ノラ」なかったわけだし(もちろん、押し出しの巧拙は較べるべくもないけれど)、柴氏はきっとそんなこと考えて芝居作っているわけではないので、ひょっとするとそれは「作劇術」の一環でしかないのかもしれない。

作劇術のコンテクストで語るとすれば、「スイングバイ」のように、時間と空間に明確なベクトルを与えて「フレームに破綻はない」という安心感を与える方法は、最近の松井周の作劇と対照することができると思う。

「スイングバイ」は、「柴のフレームに破綻はない」ことへの安心感があるから、どんなに時間・シチュエーションが小刻みに飛んでも、観客は不安にならない。観客は、いずれはすべてが300万年前から未来永劫へと延びるエレベーターの流れに回収されるのだという前提で観ていることができるから。

一方で、松井の、たとえば「あの人の世界」は、時空をとばすようなことがないにも関わらず、そして、演技はいわゆる「現代口語演劇」であるにもかかわらず、空間がどこに続いていくのか、時間がどこへ向かって流れるのか、観客は決め手を欠くままその場に放置される。その不安さ、居心地の悪さ、気持ち悪さ。劇中人物に「ボールが地面に落ちたらその時点でこの世界はお終い」と言わせてしまう、未来への悪意といっても良いような振る舞い。

もちろん良し悪しではない。僕は、正直言ってどちらも好きです。個人的に「スイングバイ」で示された世界観は共有していないけれど。が、まずもって、芝居に示された世界観と柴氏の、あるいはプロダクションのメンバーの世界観が一致する必要はないし、そもそもそれは「数ある世界観のうちの一つ」でしかない。

それを前提とした上で、今回の「スイングバイ」で「あえて」曖昧なものとなった「退出時、なぜ小梁はエレベーターを上に昇るのか」「秀三郎はなぜそこにい続けられるのか」、のその先を柴氏が今後描いていくのかに興味がある。それは、「あゆみ」のレーンの外、暗い部分では何が起きているのか、「わが星」の舞台の周りの暗闇や床下では何が起きているのか、ということでもある。そういう部分に今後光が当たるのか当たらないのか。それは今後繰り広げられるままごとの中で、切り捨てられるものなのか掬い上げられるものなのか。

いずれにせよ、本当に目が離せない、ということは断言します。

2010年3月20日土曜日

輝く未来 ブチ込ミ、ヤミ鍋、舌ツヅミ

14/02/2010 マチネ

輝く未来、初見。
予想に反して、といっては失礼かもしれないが、とても生真面目なダンス、という印象だった。

縦軸を構成するモチーフがあるとすれば、僕的には「ロード・オブ・ザ・リング+2001年宇宙の旅÷2」。天から降ってくるリング二つと、原初のノイズから始まるパフォーマーたちの動き。それらが組合わさって、最初は脈絡のなかったノイズ+痙攣的な動きが、徐々にリズムをもって織り上げられていく。

そこまでは引き込まれたのだけれど、中盤以降の展開で、観ている側の集中力が続かなかった。せっかくお膳立てされたモチーフの上にカラーがうまく乗らないなー、と思って観ていたら、最後までそれが続いて、食い足りない。

妙なケレンで場を持たせようという態度がないのには好感持てるにしても、やっぱりなにがしかの「異物感」が、僕がダンスを観るときには「集中・好奇心を保たせるためのスパイス」として作用しないと素人の僕の集中は続かないのか、それとも、僕はモチーフへの色付け、変奏を期待していたのか。

まだまだ、ダンスの面白いところを見つけて入り込むところまで来ていないのだろうか、とつくづく思う。

2010年3月14日日曜日

みやざき◎まあるい劇場 青空

12/03/2010 ソワレ

2年ぶりのみやざき◎まあるい劇場。東京に来るのを本当に楽しみにしていたのだが、その期待を一つも裏切ることなく、素晴らしい舞台。

和田祥吾は2年前と同様、舞台上の空気をがっちり支配して隅々にまで睨みを利かせ、「生まれてきた人」たちが劇場の空間を切り裂く様はジミヘンのギターの様に暴力的で、感情の真皮を突く。

前回の「隣の町」が、生者の町と死者の町を併置して、お互いの町の住人たちが「出会う」場を描いていたのに対し、今回は「取り壊しを控えた廃棄されたプラネタリウム」という場を用意し、出会いの場に歴史の厚みが加わった。

兄ー弟、老いた夫ー妻、元夫ー元妻、傘売りー友人達、というように、1対1の対話を基本単位にして、それらを地層のように積み重ねながら、そこに描かれるのは「物語」ではなく、「世界」である。混沌とし、脈絡を欠き、残酷で、取り戻しようもなく、辛いからといって全否定もできないやっかいなもの。

これは誰の話なのか。誰の視点なのか?管理人の夢なのか?老いた夫の妄想が作った世界なのか。若い男女は老いた男女の過去の姿なのか?取り戻したい歴史なのか?弟は本当に兄を待っているのか?それは「実在する」兄なのか「実在した(そして今は実在しない)」兄なのか?本当に彼らは兄弟なのか?兄の妄想なのか?弟の妄想なのか?人々はどこからきたのか?

いや、実はこれらの人々の組み合わせに「物語上の必然」はそもそもないのだろう。そういう、どうにも把握できない「やっかいな」ものとしてこの世界は提示される。

そして、そのやっかいな世界の縦軸を担ってこの舞台の脊椎となるのが「生まれてきた人」たち。もがき、あがき、手足をバタバタさせ、やがて立ち、叫び、互いに触れ、去る。そこに進化はあるのか?進歩はあるのか?相互理解はあるのか?そんなことはパフォーマーも作・演も知りはしないだろう。あるのは「生まれてきて」「歩いて去っていった」ということだけだ。彼女たちが歩み去ったその徴は、もはや観客の記憶の中にしかなく、個人の歴史の地層の薄い層の中に閉じこめられる。でも「どこかに向かって行った」ことだけは、確かなこととして覚えていたくなる。

そうやって観ていたら、ふと、この対話と時間の混沌とした積み重ねは「昏睡」でも試みられていたのだと気がついた。迂闊だった。このやっかいさを、「昏睡」ではたった2人の役者によって担おうとしていたのか。なんたる蛮行、なんと遠い道のり。是非「昏睡」の再演、お願いします。

冨士山アネット 家族の証明

10/03/2010 ソワレ

大変よく身体の動くカンパニーで、勝負どころはやっぱりそこか。
アゴラ冬のサミットのラストを飾る冨士山アネットの「家族の証明」はシアターダンスを掲げて、僕なりの古い尺度に当てはめれば、「マイム、極めてダンス寄り」。

とある5人家族の組成から構成員に起きる事件、それへの対応を、「極めてダンス寄りなマイム」で綴る60分。5人のパフォーマーの間の距離、微妙な間合い、コンタクト、ぶつかり、ゴツゴツしたりベタッとしたりする接触面積の変化まで、いろんな距離感をいろんなスピード感で、かつ驚きのある動きで見せる手順には目を見張る。

が、それだけに、時として仕草・動きのテンションがゆるんで、60分の縦軸となる家族の「物語」に奉仕しているのがあからさまに見える時間が訪れると、途端に退屈してしまったのだ。

たとえば前半の「鏡を見る」シーン、長男が髪の毛を整えるところ。なぜ、テレビコマーシャルのような仕草なのか?もっと無表情でいい。こういう、中途半端に朝の情景を説明しにいく距離感(リアルと記号の間の)が、観る側の想像力を細らせるのではないか。リアルでなくてもよい。リアルでもよい。ただし「説明」に行くのはまずい。物語の辻褄合わせは、もっと観客に任せてしまえばよいのに、と思う。

それ以降も目を見張る「動き」を説明的な「仕草」と「表情」が邪魔をする展開が続き、後半「物語」が展開して時間の進みを支配すると、眠くなってしまった。

よくよく考えてみると「シアターダンス」の難しさは、まさに「シアター」と「ダンス」の微妙なバランスをどうやってヒットするかにあるのだろう。だから、このカンパニーに「もっと芝居しろ」とか「もっとダンスでよいのに」という批判をするのは見当違いなのかもしれない。が、その「敢えて選んだイバラの道」が現段階で花開いているとは思えない。逆に言うと、じゃあこのやり方がうまーく実を結んだら、今まで観たことのないモノが観られるのかもしれない。それはそれで楽しみではある。

2010年3月8日月曜日

東京デスロック Love 2010 Yokohama Ver.

07/03/2010 ソワレ

2007年初演の名作、2009-2010ツアーを締めくくる横浜バージョン。

作品としての熟成は「桜美林バージョン」を拝見したときにも感じたことだけれど、今日もそう。一種「懐かしさ」のようなものがある。それは、「昔をしのぶ」のではなくて、むしろ、芝居を観るときの基本の態度に立ち返る為の基礎稽古に臨む感覚。本当に安心して、役者の一挙手一投足、表情、台詞、声、舞台上の空気に集中していられる。そして、思う存分に妄想を膨らますこともできる。余計な意味や意図を詮索する苦労からは100%自由であって良いのだ、という安心感。

初演時のリトルモア地下では、前半、客席内で喉が鳴る音やおなかの鳴る音が遠くから聞こえるほどの「水を打ったような」静かさと緊張感の中で芝居が進んだのだけれど、桜美林・横浜では、客席がより(良い意味で)リラックスしているのを感じる。確かに客席の緊張感は維持されていて、静かなシーンの中でかすかな音が聞こえてくるのは変わらないけれど、異様な緊張感を余儀なくされている感じはしない。爆音の導入も含めて、そこら辺の見せ方、引き込み方も熟成したのか。

アフタートークで「東京デスロックの今後の活動方針は?」という質問が出て、僕もあっと思ったのだが、そう言われてみれば、今後のデスロックについて考えたことなかった。Loveのような(少なくとも僕にとっては)立ち返る場所を持っていながらも、そこに拘って立ち止まることを良しとしない態度、良し。是非、今後とも、「もうついていけない」「でも、芝居を見つけない人にも面白いと言わせてしまう」そういうラインを追い求めていただきたい、と希望します。

2010年3月7日日曜日

青春60デモ

06/03/2010 ソワレ

激しく揺さぶられた60分。なんという感動。
決して「素人のおじいさん・おばあさんががんばっているから感動した」みたいなチープな感動ではない。むしろ、そういうやり口には一定以上の警戒感をもって臨むべきだし、僕もそうしていたつもり。

そういう意地悪な客まで巻き込んで最後まで持っていったのは、もちろん役者が「がんばった」こともあるけれども、実は、杉原邦生の、ほぼあざといじゃねーかと言われても仕方がないくらいの、素晴らしい演出・構成があったからである。

それがあるから、
「市民演劇、みんなで頑張りました。下手だけどね。かんどー」とか、
「作・演出から役者まで、みんな素人だけど頑張りました。頑張ったことを評価してね」
みたいな出来の舞台とははっきりと一線を画して、しかも、不覚にも僕は感動してしまったのである。

昔、Weather Report の "Where the Moon Goes" のボーカルを Manhattan Transfer が担当したときに「人間の肉声さえも楽器のパートのように扱ってアレンジしてしまうジョー・ザビヌルの冷徹なエゴがすごい」と書いた人がいたが、今回はそれに似たものを感じた。

素材選び・コンセプトから具体的に舞台に乗せるところまで、徹底的にコミットした力のある演出家がいれば、美形でなくても若くなくても身体動かなくても経験なくても、本当に素晴らしい作品に仕上がるのだと言うことが、極端な形で示されていた。

「がんばったねー」と出演者に身内から声がかかることよりも「良い作品だった」と第三者に言わせたことの方が、実は、この作品について重要なのではないかと思う。やっぱり邦生はすげー。

が「これまでやれなかったことをやった」の中身が「舞台上でExileの振り付け」だったのは大笑い。14歳の国でできなかったのがそんなに悔しかったのかい!

快快 Y時のはなし

06/03/2010 マチネ

素晴らしい舞台だった。快快の表現の力強さを、これほどまでに前提条件や一定の留保なしに、素直に、ポジティブに受け取ることができたことは、今までなかったと思う。

快快の役者だから身体が動くのは当たり前、花があるのも当たり前、快快の舞台だから美術がおしゃれで小道具も気が利いていて当たり前、そういう当たり前に加えて、さらに、人形と人間の間の危うくもバランスのとれた行き来、おセンチに陥る寸前でさっと引いてみせる「子供の視線」への郷愁、過剰なおふざけととらばとれ、すべては「観客へのメッセージ」ではなくて「観客が楽しむ舞台の完成度」に向けて奉仕するのだという、極めて真っ当な命題に向けた役者・スタッフの相互の了解度の高さ、そうしたもの全てが、よけいな講釈なしに舞台にのっかっている。

「学童保育を舞台にしたファンタジックメロドラマ」と銘打っているから、「メロドラマ」であり「学童の話」であり「ファンタジー」である。当たり前だけれども、学童がでてくるファンタジーにメロドラマが絡んで、面白くなった試しが今までにあったか?僕には思い出せない。Nick Hornby の "About a Boy" は学童のでてくるメロドラマだが、ファンタジーはない。「千と千尋」「トトロ」「チャーリーとチョコレート工場」「ジェームズとジャイアントピーチ」は傑作学童ファンタジーだけど、メロドラマはない。「紅の豚」は傑作メロドラマ、ファンタジー付きだが、学童はでてこない。どうにも思い出せない。

快快の連中、「是非子供も連れてきてほしい」と言ってたけど、本当に、娘や甥っ子たちに是非見せたかった。
どなたか「大人も子供も楽しめる、学童がでてきてファンタジーでメロドラマな芝居がないかしら」とお悩みの方がいたら、迷わず快快を呼んでいただきたい。彼らも相当これから忙しそうではあるけれど、これは是非、おしゃれな原宿の一角から飛び出して、日本中で(また世界中で)本当にたくさんの人々に観てもらいたい。舞台芸術の(数あまたあるだろうがそのうちの)一つの結晶点として末永く残ってほしい。そういう舞台だった。