2015年10月30日金曜日

Medea

24/10/2015 20:00 @Almeida

主演女優のバリバリ絶叫芝居で引っ張っといて、最後「今さらそれで終われるとでも思ってんのかー!コラー!」と言いたくなる幕引き。
何とも言い難い後味の芝居になってしまった。

王女メディアと言えば、別れた夫の妻、その父、果てには自分と別れた夫の間の2人の子供まで殺してしまうという、大変な人の大変な芝居なのだが、
このプロダクションでは舞台をまるごと現代に移し、メディアが王女ではなくて売れない物書き、別れた夫は若手新進女優に惹かれる俳優業の男、ということになる。
長髪かき乱して家族ほっぽらかしてマックに向かうメディアの姿が「いかにも」で、これまたクリシェに嵌まるのではないかと大いに不安になったが、
その不安を上回る絶叫ぶりでぐいぐい舞台を引っ張っていく。

このテンションで行くならば、最後は相当血で血を洗う大スペクタクルで締めくくるのだろう、と思いきや。

<以下、ネタバレ>

片方が男、片方が女のあしゅら男爵みたいな人が出てきて、その後の成り行きを全部解説してくれてしまったのだった。
え?
説明台詞でおしまい? と思いきや、
ラスト、相次ぐ悲劇に打ちひしがれた前夫がでてきて、どうしてくれるんだ、何をしでかしてくれたんだ、と言って、おしまい
(もちろんその間メディアは舞台上にいるのだけれど)。

<ネタバレ終了>

こういうラストを見せつけられてつくづく思うのは、平田オリザの巧さである。
そういう説明台詞にうんざりしていた観客に、現代口語演劇で、日常会話を使って、物語を「想像させてしまう」という、その、ずるさ!
その一端でも盗んできていれば、もうちょっと素敵な現代劇になっていた予感がする。

コロスの女性6人組のキャラが面白く、前半から中盤のペースを支えていた部分もあって、
メディアの絶叫ぶりにも目をつぶっていられたのだが、このラストのために1時間半我慢していたわけではないぞ、
こんなことなら最初から絶叫無し、静かな演劇で通してくれていっこうに差し支えないぞ!
と思いながらアルメイダを後にした。

Clarion

24/10/2015 15:00 @Arcola Theatre

諷刺を気取るのには余りにも甘い作り。

産経ばりの過激な右寄り見出しで部数を伸ばす新聞の編集室内幕ものなのだが、
スピンドクター系のテレビ番組を意識したのかことさら下品な言い回しや滑稽な身振り手振り、極端な言動。
登場人物の造形もまさにクリシェの塊で辟易。
Thick of Itだってここまでチープな作りにはしてなかったよ、と、怒りを禁じ得ず。
むしろ、ピーター・カパルディの偉大さを思い知る良い機会だった、と割り切るべきなのだろうか。

2015年10月29日木曜日

Barbarians

23/10/2015 19:45 @Old Central St Martins School of Art

ロンドンのルィシャム(イメージ的には蒲田とか小岩な感じ)に住む、職無しカネ無し彼女無し、の3人組が織りなす1977年青春ドラマ。
1977年だから、スキンヘッドはまんま危ないヤツだし、北アイルランドはほんとうにヤバい場所だし、ノッティングヒルカーニバルはヤバいお祭りだった頃だ。
そして、(今回この芝居が上演されている)Old Central St Martins School of Artで、セックス・ピストルズが最初のギグをやった頃だ。

行き場のない若者劇の古典芸能として上演すれば十分元が取れる芝居なのに、2015年に上演しても十分に説得力のある、力強い公演だった。
疎外と排除と希望のなさを、一切、「包摂と共有と希望」への道を思わせないようにストレートに書き切った戯曲を、
3人の男優が、ストレートに、ケレンなく、演じていた。
それができれば、あとは、「この」時代に響く芝居かどうかが勝負で、実は、本当によく響いていた。
だから、観客は、1977年の芝居を観た後に、2015年について考えざるを得ないのだ。
劇中、「未来はどうなんだろうなぁ?」なんて臭い台詞がなくても、観客はそれを考えざるを得ないのだ。

だから、この戯曲は名作なのだし、今後も名作であり続けるのだろう。

場所の雰囲気(使われていない校舎の2つの階を、それこそ使い倒していた)や、観客の期待感も手伝って、2度の休憩を挟んだ3時間が長く感じられなかった。

2015年10月23日金曜日

Fake It 'Til You Make It

17/10/2015 19:15 @Soho Theatre

日本では「ツレがうつになりまして。」ていう本が出てて、映画にもなっているが、この芝居は、おそらく(日本の「ツレが・・・」を読んでないので本当は何とも言えないのだが)、UK版の「ツレがうつになりまして。」だろう。

若い頃からウツを発症していたが、それを隠していた夫(結構バリバリ系のサラリーマン)。その妻、役者。
その2人の話を、何と、本人達が舞台に載せてしまうという、キツいような、笑ってしまうような、そういう60分。
2月からツアーを始めて、売り切れ御礼だったエディンバラの公演を含めて100回ぐらい公演してきて、その大千穐楽に観に行ったのだが、その間に、なんと、妻、役者は、妊娠してお腹が大きくなっている。
もともと役者ではない夫は、なかなか歌も上手いし動きもさまになっていて、正直、僕は、「役者が夫役を演じている」と、途中まで思っていた。
妻のお腹も、ひょっとしたら詰め物なのではないかと、途中までかなり疑っていた。

が、実は、というか、まさに、その2人そのものの話であって、この舞台がどの程度エンターテイメントとして面白いのかと言うことになると、いや、正直、人に勧めるほどにはエンターテイニングでは無いのではないか、とも思ってしまうのだけれど、
でも、僕は、結構楽しんで観た。かも。

2015年10月22日木曜日

Eventide

17/10/2015 15:30 @Arcola Theatre

この芝居を観た同じ日の夕方、別の芝居で隣の席に座ったご婦人から、昼に観たEventideがどんな芝居だったかの説明を求められた。
自分でも月並みな説明だなーと思いながら、
「人生で得るものと失うものの話でしたよ」と言ったのだが、おそらく、今考えてみても、その印象は変わらない。

イングランド南部、海に近いところにある田舎の村のパブ。その裏庭。閉店になるパブの、嫁に逃げられたマスター、近所に住む、高速道路の路肩整備をしている青年、徐々に仕事を失いつつある教会のオルガン奏者の独り身の女。この3人の物語。閉店当日と、その1年後。人生で得るもの、失うもの。

こう書いただけで「いかにも」な感じがするかもしれないが、話の展開もほぼ予想通り。だから書かない。

設定された日付が、「閉店当日」と「そのほぼ1年後の、おめでたい日」というのが、まず、ひっかかる。「何故そういう特異な日を選んで芝居させなきゃならんのか。閉店の前の日とか、閉店が決まる前の日とか、そういう、普通の日を選んでもいいじゃないか」と、どうしても思ってしまう。
「特異な日の特異な瞬間の心の動きを説明してもらいたい」とは思わなくて、「特異でない日の、特異かもしれない特異じゃないかもしれない心の動きを想像させてくれよ」と、どうしても要求してしまう。自分の悪い癖である。これは一生直らない。

しかしですね。ラストのシーン。この青年にとって、本当に「特異な日」というのは、実は、「閉店当日」でも、「そのほぼ1年後の、おめでたい日」でもないってことが分かるんですねー。そして、この、ほぼ最後の台詞が、なんとも美しかったのですよ。
だから、それまでの、いろんなブツクサなものが、さっと飛んで、なかなか得がたい余韻が残る。

心に刺さる芝居を観たなー、と思う。途中の語り口とか、話の構成とか、登場人物の造形とか、何とも粗いなー、っていうような不満はたーくさんあって、もっと上手く書けたはずだ、と思うけれど、もう、それは、どうでもいいや。良い芝居でした。

The Last Hotel

16/10/2015 19:45 @Linbury Studio Theatre, Royal Opera House

初めてロイヤル・オペラ・ハウスでオペラを観た。
が、オペラと言っても、上演時間は一幕90分。アイルランドの若手作家・作曲家による作品を、会場はメインホールではなくて、Linbury Studio Theatreという、まぁ、名前の通りの、キャパ250人くらいのスタジオで。オーケストラピットには、エレキギターやアコーディオンも入れた15人くらいの小ぶりの楽団が控えている。

The Last Hotelは、この夏のエディンバラで上演されていて、評判もそこそこ良かった公演。今回は期間限定、6日間のロンドン公演である。

現代音楽に乗せた現代オペラ。歌はいわゆるメロディを歌い上げるのではなくて大変難しそうだし、話もかなり現代劇っぽい(ぽい、というのは、現代劇ではなくて、これはやはりオペラだから)。正直、観終わって、感銘を受けることもなかったし、衝撃を受けることもなかったし、オペラって面白いなー、とも思わなかったし、これから積極的にオペラを観に行こうと思い始めたりもしなかった。

舞台セットは、シンプルで格好良く仕立ててある。劇場の壁を上手・下手ともにむき出しにして、中央に若干舞台手前にかけて傾斜をかけた10m四方の平たい舞台。上袖、下袖にはテーブルや衣紋掛け、その他諸々のものが雑然と置かれ、舞台奥には2m位せり上がった土手がある。舞台の前面、蹴込みはちょっと奥に貼ってあって、客席から見える位置にはプラスチックのパイントグラスが雑然と。片方だけのピンクのハイヒールもひっくり返って放置されている。いかにも「何かをやりかけたまま」の「死の予感」をお客さんに「連想して下さい」とお願いしている。

4階建て、地下1階の、本島からは船でしか来れないところにある打ち捨てられたホテル。従業員は中年の男1人。使う部屋は地下のバー・レストランと4階の一室のみ。やってくるのは夫婦一組と身なりの良い婦人一人。この婦人は、自分がこのホテルで自殺する、その手助けを夫婦に頼んでいる。で、まぁ、最後にはこのご婦人、死んじゃうんだけど。っていう話。

ただ思ったのは、「このプロットで歌なしの芝居だったら確実に寝てたな。この歌でプロットがついてきてなかったら、やっぱり確実に寝てたな」ということである。つまり、歌と芝居が組み合わさっていたが故に、寝ることなく、最後まで観ていられた、ということで、それはもしかすると面白く観られた、ということなのかもしれない。
実際のところ、「台詞が歌ってる芝居」ってのもあるし、「台詞がラップの芝居」ってのもあるし、そもそも現代口語演劇だって、「歌ってないように台詞を言う」っていう振り付けが台詞についているだけの話なのだから、「台詞が歌の芝居=オペラ」も、あっていいんだよな。そうすると、オペラが面白いとか面白くないとかではなくて、やはりこのオペラが(ひょっとしたら面白いから最後まで眠らず観られたのだとしても)ガツンとはこなかった、と、そういうことなんだろう。

2015年10月18日日曜日

きゃりーぱみゅぱみゅ in London

11/10/2015 19:00 @Roundhouse

もっと、ギレルモ・デル・トロ監督のPan's Labyrinthみたいな世界が繰り広げられるもんだと、勝手に勘違いしておりました。

意外に、と言っては大変失礼なのだが、ちゃんとしたライブだった。
衣装替えはアンコールも含めて2回。衣装ではなくて、歌と、6人のダンサーと、舞台中央上部のプロジェクションを使った勝負。

会場前からRoundhouse前は長蛇の列で、その中にコスプレしてる女の子が少なくとも40-50人は居る。きゃりーみたいなコスプレしてる男の子も少なくとも3人は目視確認済み。
いや、こりゃ楽しそうだ。

きっと、こんな人たちを相手にするんだから、きゃりーぱみゅぱみゅ本人もすごーいコスチュームつけて、舞台と一体化してて、
3分に1回は派手に舞台が割れて、中からおどろおどろしいデル・トロ仕込みの着ぐるみがスモークと共に出てきて、それが妙に左右対称になっていて、
そこできゃりーぱみゅぱみゅがせり上がってきて、
っていう、そういうめくるめくコスプレ・着ぐるみ絵巻が見られるものだと、勝手に勘違いしておりました。

すみません。

声も出ていたし、ファンの方々は、シーティングエリアで僕らの前で踊りまくってた6−7歳の女の子3人組もとても嬉しそうで、
シーティング最前列のスキンヘッドのおじさんもとっても楽しそうに身体を揺らしていて、
幸せな会場だった。
ファンでもないのに物見遊山で来てしまった自分が、本当に申し訳ないです。

2015年10月16日金曜日

Hangmen

10/10/2015 19:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

僕は、栗山民也さん演出の「海をゆく者」が大嫌いだ。評判がとても良くて再演もされたけれど、僕は日本語初演を観たときの嫌悪感を忘れない。オリジナルとの余りの落差に怒り狂ったのを覚えている。何が気に触ったのかというと、「達者な俳優達」が、いかにも上手に「アイルランド」の人たちっぽく、「愛すべきダメ男達」を演じていたからである。
コナー・マクファーソン本人の演出による初演は、誰にも愛されない、観ていても愛しようのない男達の話である。アイルランド人っぽい人たちの話じゃなくて、アイルランド人の芝居である。アイルランド人の主人公はアイルランド人っぽい茶色の革靴は履かない。アシックスのジョグシュー(ニンバス)を履く。誰にも愛されない人の魂が救われるのか救われないのか、っていう、極めてカトリック的な話だと思っていたのに、日本語になった途端に見事に換骨奪胎されて、クリスマスのちょっといい話に収まってしまった。
そういう換骨奪胎、「これがアイルランドっぽいクリスマスの愛すべきダメ男の話ですよー」というチープなイメージの押しつけが、なまじ演出・俳優陣が達者なだけに、思いっきり見るに堪えないものに仕上がってしまっていたのだ。
それ以来栗山民也氏演出の芝居は観ていない。

何故、マーティン・マクドナーの新作"Hangmen"のことを語るのに、コナー・マクファーソンの芝居の、しかも日本語版を引き合いに出したかというと、
実は、まさにこのHangmenという芝居を、栗山民也氏演出でパルコ劇場で、主演吉田鋼太郎で上演したら大いに面白いだろう、と考えたからなのです。
それくらいに上手に書いてあって、完成度が高くて、随所に笑いを盛り込みながら、時々ほろっと、時々シリアスに、という、なんとも上出来な舞台だったからなのです。

1965年、死刑が廃止になったその日の、イングランド北部の街オールダムのパブ。元、英国第2の死刑執行人として知られたハリーとその家族がそこの経営者。元死刑執行人ナンバー2のコメントをとろうと、地元紙の新聞記者がやってくる。常連の地元客=おとぼけ三人組がやってくる。見るからに怪しい、ロンドン訛りの、お前はまんま若き日のマイケル・ケインかい、っていう風情の男がやってくる。昔の死刑執行人仲間もやってくる。
そういうシチュエーションの中で、一見ドタバタ喜劇のようにも見えながら、「職業自体が失われてしまうこと」とか「死刑執行の殺伐感」とか、まぁ、「親父の哀愁」とか、そういうのが時々顔を覗かせる。
2時間20分、全く退屈せずに見た。幕間に後ろの席のご婦人が、「だって訛りがきつくて・・・」と旦那に不平を言うくらいに訛りがきつくて、ついて行くのに四苦八苦しても、まったく集中を切らさずに観ることが出来た。

本当に上手い戯曲を書く人だなー、と思っていたら、案の定、In Brugeを書いた人だった。演出はWe can see the hills (ここから山が見える)のMatthew Dunsterだった。あー、道理でねー。なるほどなるほど。
文句なし5つ星レビューがついているし、ウェストエンドの大きな小屋でも上演されることが早々と決まって、大入りは間違いないだろう。

でもね。すごーく良く出来た芝居、以上のインパクトは、実は、無かった。この芝居を観て人生観が変わる人とか、ガツーンと食らって、ちょっとは物事を考えよう、なんていう人はいないだろう(いや、考えさせる芝居であれば良い、ってモンでもないんですが)。でも、2時間20分、とても面白かった。極めて上質のエンターテイメントであることは間違いない。

だから、栗山民也さんの演出でパルコ劇場で上演するのに相応しいと思う。1960年代イギリスの話だから、どれだけ「イギリスっぽく」作ったって構わない。是非達者な役者を揃えて、愛すべき死刑執行人とその仲間達を存分に演じて頂きたいと思う。吉田鋼太郎さんが演じる役も、浅野和之さんが演じる役も、僕の中ではもう決まっている。

2015年10月15日木曜日

Martyr

08/10/2015 19:00 @Unicorn Theatre

このところ一種流行りのようにもなっている、「不寛容に対する不寛容は許容されるのか」というテーマを、突如キリスト教原理主義者になってしまったティーンエイジャーと、
それを更生させようとする熱血理系女教師、それを取り巻く人々とで描いた意欲作。意欲的なのは良いけれど、あまりにもガチで深刻な問題を取り扱おうとしたらために、ラスト近くでストーリーと風呂敷を畳む作業に対して妥協せざるを得ず、なんとか(それなりに相応しい衝撃的な)結末は迎えられたものの、舞台としては失速してしまった残念な作品。

<以下ネタバレあり>

Martyrというのは「殉教者」という意味だが、この芝居では、
①原理主義に心身とも捧げてしまう人と
②文字通り手足を釘で打ち付けられてしまう人、の、
2つの意味を持たせられている。すなわち、主人公と、女教師のことである。当初、「教育に宗教の原理主義を持ち込むことは絶対に許さない」としていた女教師が、ラストで自らの足を釘打ちして「梃子でも動きません」=磔刑に遭うキリストと絵柄を重ねつつ、「宗教と教育の分離」の殉教者になってしまうことに、アイロニーをにじみ出させている。

が、実は、この話は、「原理主義者」対「宗教と教育の分離主義者」の話では終わっていない。それが失速の原因である。

女教師がどんどんテンパっていく過程で、実は、「原理主義者」対「テンパっている人」へと物語の構造は徐々にシフトしていたのだが、

主人公のティーンエイジャーが、「嘘をつく」瞬間に、この物語は明らかに失速した。この瞬間、それまでの「狂信者」対「狂信者」の、和解の可能性が見いだせない衝突が、
単なる「ウソつき」対「テンパった人」のありきたりな対決へと堕してしまった。作者が決して「狂信者が信念を守るためにウソをつく話」とか、「狂信者同士のぶつかり合いなんて所詮この程度だ」とか「冷静にいきましょうよ。みんな仲良く!」とかいうことを意図していないのはよーく分かるのだが、でもやはり、「嘘つきの狂信者」にはそれなりに対処法があるし、「テンパった人」には「冷静にいきましょうよ」と言えば済むのだ。

そして、どうにも解決しようのない問題を扱う緊張感溢れる芝居を見る目をしていた観客も、「ウソつき」対「テンパった人」の物語になった瞬間に、ドタバタ学園劇(ちょうど本谷有希子の「遭難。」のような)を観るときの「まぁ、現実にはこんなこと起きないんだけどね」という、余裕の目で舞台を眺めていられるようになってしまうのだ。

本当に恐ろしいのは、そして手に負えないのは、絶対に嘘をつかない、非の打ち所の無い「狂信者」である。そしてもっと恐ろしいのは、議論が白熱し、相手のウソによって追い詰められた挙句、自分の両足に釘を打ち込む逆上女ではなくて、きわめて冷静に、そして穏やかに、ロジカルに、自分の両足に釘を打ち込む人である。

トニー・ブレアのウソは怖くない。デイヴィッド・キャメロンのウソも、所詮人気取りのためと思えば怖くない。ナイジェル・ファラージュも怖くない。怖いのは、テレーザ・メイが、「移民の受け入れは英国社会を分断する恐れがある」と真顔で語る時だ。なぜならそれは彼女がそれを本気で信じて言っているからだ。右派がコービンを恐れるのは、コービンが本当に自分の言ってることを信じているからだ。

そういう手に負えなさを示すのに、やはりティーンエイジャーを持ち出したのは作戦として上手く作用していなかった気がする。もっといい大人を使っていれば、と思ってはたと思い出した。Nick HornbyのHow to be goodは、いい大人の間の「寛容に対する不寛容」の話だったなぁ、と。おそらく、何らかの形で折り合いがつくというのが、ハッピーエンドかどうかは別として、直視すべき現実に近いところなのではないかと思う。そこをぎゅっと直視して、観客にリアリティーを感じさせられれば。この作品は、その作業を最後の最後にサボってしまったように思われて、残念である。

2015年10月11日日曜日

King Lear with Sheep

03/110/2015 19:30 @The Courtyard

羊8頭と人間1人によるリア王の上演、45分。

タイトルが、”King Lear with Sheep"であって、”King Lear Performed by Sheep"でないことに注意が必要。確かに、羊の中の一頭は紙で作った王冠をかぶっているし、娘の衣装をまとった羊たちもいた。が、大方の予想通り、登場する羊たちは芝居のプロットには一切興味を示さず、舞台上にばらまかれた餌を食み、フェンスに身体をすりつけ、蹴込みの幕を留めている黒ガムテを噛んで引っ張り、時たま観客に眼を向けながら糞をひり出すばかりである。動く置き道具みたいなものである。

そうすると、あとは、人間の役者がそれをモチーフにしてどう芝居を作るか、という問題になる。

つまりこの公演は、「羊によるリア王の上演を、観客に観てもらう公演」ではなくて、「羊にリア王を上演させようとしたらどうなっちゃうのか、という状況を、人間が演じて、それを観客に観てもらう」公演なのであある。まぁ、そういうものとして楽しめば相応に楽しく、興行主の役の俳優がリア王のセリフを自ら発することで帳尻を合わせようとするシーンも、それなりに滑稽ではあるが...

実は、冒頭、羊たちの登場を待つシーン(既にこの公演のメタの構造がそこで示されているのだけれど)で、役者の妙な照れを感じて、既にちょっと興ざめしていたのだ。つまり、「あれ、おかしいな」と、(1) 客席目線に近いところでスタートするのか、(2) そういう演技であることをあからさまに曝しておいてスタートするのか、とでは、その後の観客のメタ構造への入り込み方に差がでてくるんじゃないかなと思ったのだ。この公演では役者は(2)を選択肢していて、僕にはそれが良い方向に働いているとは思えなかった。
結果、それなりに楽しかったけれども、もっといけたはず、エンターテイメントとしては羊たちの予測不能な振舞いに救われたね、ということになるだろう。

2015年10月5日月曜日

The Red Lion

28/09/2015 20:00 @National Theatre, Dorfman Theatre

三流セミプロフットボールクラブのロッカールームを舞台にした男の三人芝居。
真面目に、丁寧に作ってあって、役者も非常に達者なのだけれど、幕引きも含めて想定の範囲内に収まってしまった、残念な芝居。
と見せかけて、実は、3人の男の決して報われることのない愛の三角関係をねっとりと描いたエローい芝居なんじゃないかと、じわじわ思い始めている。

三人の男達は、
クラブに生涯を捧げ、名選手から監督となるも成果が挙がらず、行方不明となった後にホームレスとなって街に戻り、今では用具係を務める、文字通り「伝説」と呼ばれる老人。
野心に溢れ、成果は上がるがダーティ・プレイ、ラフ・プレイを辞さないそのスタイルが周囲との反目にも繋がる。離婚の危機を抱える監督。
彗星のように現れる若手天才プレーヤー。父親の暴力により右膝に爆弾を抱えるが、それを庇いながらプレーを続ける。「伝説」に敬意を向け、監督のダーティ・プレイ指南には反発する、純なヤツ。

この、一種定型ではあっても魅力的なキャラが、結局のところ、2時間30分かけて、物語が始まって悲劇的に終わるまでを、丁寧に辿ってくれるだけで終わってしまった、つまり、俳優の仕事が物語の説明で尽きてしまった気がして、観終わった後、正直言って不満が残ったのだ。

僕が劇場に期待するのは、「物語でも状況でも良いのだけれど、その中で俳優がどのように振る舞うのか」「状況にどう反応するのか、ということに、俳優がどのように想像力を働かせるのか」であって、物語に奉仕する演技は、いくら上手で丁寧であったとしても、僕が観たいものではない。
それが、僕が新劇よりも現代口語演劇に信頼を寄せる理由であり、今年ロンドンで観た芝居の中でもTempleを推す理由である。そして、いまウェストエンドで上演中のOresteiaでも、前半、物語に立ち向かって凄惨に打ち倒されるアガメムノンが素晴らしく、ただ悲劇に翻弄されるだけのオレステスの物語が全くつまんない所以である。残念ながら、The Red Lionの男のドラマは、そのドラマを丁寧に辿るだけで終わってしまった、気がしたのだ。

が、一点引っかかったことがある。それは、この、フットボールを巡る熱い男のドラマにあって、3人の絡み方が、妙にネットり、ジトッとしていたことなんだ。
芝居の冒頭は、「伝説」の男がチームのユニフォームにアイロンをかけるところから始まるのだけれど、その丁寧さに潜む「身体」の感じ。
若手有望株の若い男の子が出現したときの、老人の目の輝き、いきなりのマッサージ。
その男の子に向かって20cmの距離から両手で頬を挟み、唾を飛ばしてがなり、平手打ちし、自分の思想を叩き込もうとする監督。
現実に男の子を染めようとする監督から「選手を守ってあげたい」と心から思う老人。
現役時代の老人のことを思い出し、熱く語るうちに号泣してしまう監督。

そうした姿の全てが、舞台上で、ねっとり絡み合っているように感じていたんだ。

そうです。この芝居が描きたかったのは、「フットボールというホモソーシャルな空間での男のせめぎ合い」ではなくて、「限りなくホモセクシャルに近い、しかも成就することのない、悲しい男の三角関係」だったのです。
そこに思い至った瞬間、すべてに合点がいった。薄い本のプロットもいくつか挙がってきそうな気すらしてくる。
一見して物語をなぞるだけに見えた2時間30分だが、そのことに拘りすぎてはいけない。男のドラマはフェイクです。これは愛のドラマです。だから、物語のフォーマットは、ある意味、どうでも良い。フットボール愛もどうでもよい。その中から、悲しい愛の姿をあぶり出したことが大事なのです。

どうでしょう?

2015年10月4日日曜日

Pomona

26/09/2015 20:00 @National Theatre, Temporary Theatre

冒頭から懐かしの1980年代日本の小劇場演劇を思わせる展開の現代劇。
汚れたランニングに汚れた白ブリーフ、その上に米軍放出のコート引っかけてサングラスのスキンヘッドあごひげ男がキッツいマンチェスター訛りで「インディ・ジョーンズの失われたアーク」のあらすじを語り出すところから、何だか第三エロチカじみたものを感じて、
「これ、展開に付いてはいけないかもしれないけれど、楽しめるんじゃないだろうか」
って気がする。

囲み客席の中に浅い擂り鉢状に中心に向かって下っていく6角形の舞台があって、中心に排水溝の蓋。
マンチェスターの市内、運河の中にコンクリート造りの島があって、出口は1本の道。
そこに入り込んだ人間は二度とそこから戻らないという・・・
そこに、行方不明になった双子の妹を探しに若い女がやって来て・・・

取っつきにくいが実はお人好しの娼婦、目的のためには手段を選ばない女ボスキャラ、無口で凶暴な大男、妄想とラヴクロフト風RPGにうつつを抜かすその相棒、そしてそのRPGをプレイしにどこからともなくやって来る謎の少女、
うっわー、キャラの立て方も第三エロチカで、これ、どうやって風呂敷広げていくんだろう、いや、最後には畳んでいくんだろう、と期待は高まる。

が、実際のところ、芝居が進行するにつれてこれらのキャラクターが有機的に絡んで、伏線が活きてきて、ストーリーがうねっていく、ということが起きたかというとそんなことはなくて、一つ一つのシーンが、断片としてすごく面白いことはあっても、うまく織り上げられていたとは言えないだろう。
むしろ、奇天烈キャラと暴力的なイメージを積み重ねておいて、あとは観客に放り投げている感じがした。
あ!って、それ、まさに川村さんの第三エロチカそのままじゃないか、と思い当たる。
うーん、このテの芝居の作り方(フィジカルな演技、暗転の多用とイメージの積み重ね、等々)が、これからどんな風に進化していくかにはとても興味が沸いてくる。

全体としてスマッシュヒットではなかったけれども、このテの芝居をUKで観ることはほとんど無かったので、それはそれで楽しめた。