2015年12月16日水曜日

The Wasp

12/12/2015 19:45 @Trafalgar Studio, Studio 2

火曜サスペンス劇場でも刑事ドラマでも、ハリウッド映画でも良いのだが、ラス前、犯人や悪者が捕まったり死んじゃったりする直前、長々と口上を垂れて、
「そんなことほざいてる間に早くやっちまわないから逆にやられちゃうんだよ」
とイライラしてしまうのは、小生に限ったことではないと思う。

そのラス前の3分ー5分を思いっきり引き延ばして、40分ー50分にしてしまったらどうなるか。この芝居になる。

永年音信不通だった中学時代の知人(ヤンキー系、ただいま5人目の子供を妊娠中のヘビースモーカー)に、不貞の夫の殺害を依頼する妻(バリキャリ系、不妊治療が上手くいっていない)。
実は依頼人の女には、その知人がとっくに忘れてしまった中学時代の恨みつらみがあって・・・
どうなる殺人計画。どうするヤンキー妻。
っていう話。
特にネタバレしたところで、この作品を人に勧めるつもりは毛頭無いので構わないのだけれど、バラしても面白くも何ともないのでバラさないが。

こんな長口上聞いてて、みんな、面白く観てるのか?オレには面白くないぞ。
どちらかと言えば、
a. 作戦が失敗して、気まずい関係だけが残って、これから先どうやってその気まずさを背負って生きていこうかしら。とほほ。とか、
b. 作戦が上手くいったは良いけれど、それから先の展開が思うように運ばず、どうしよう、とほほ。とか、
そういう方が観たいのである。
火曜サスペンス劇場みたいに、真犯人が自分の心の底を吐露した挙げ句、崖から飛び降りちゃったりとか、して欲しくないのである。そんな勝手でお気楽なエンディングがあって良いものか。いや、エンディングというよりも、僕が舞台上で観たいのは、
「思い込み」の吐露ではなくて、
結局どこにも行かない思い込みや思いが、どこに行くのか。振り上げた拳を振り下ろせないまま、ぐずぐずとどうやって振る舞うのか。
なのです。

この女性2人芝居、ラス前パートを1時間20分演じ続けなきゃなんなくて、役者2人は本当に大変だっただろうと思う。
でも、その大変さの甲斐無く、僕の観たい部分が訪れないまま芝居は終わってしまった。残念だ。

2015年12月15日火曜日

You For Me For You

12/12/2015 15:00 @Royal Court Theatre Upstairs

脱北を企てる姉妹、妹は成功してアメリカに渡り、姉は残ってはぐれた息子を捜す。
何年かして、妹は姉の脱北を再度試みるべく朝鮮半島に戻り、姉はその時、脱北の覚悟を固め、
そして2人を待つ衝撃の結末とは!

って、僕、別に、衝撃の結末なんか期待してないよ。

後ろに座ってたアメリカン・アクセントの2人連れのオヤジの方が、芝居終わるなり、拍手始まる前に「いい話じゃないか」って一言で纏めちゃったり、
隣に座ってた、「イヤミ」を実物にしたらこんな風になるんだろうみたいなイングリッシュ文化人オヤジがバチバチうるせえって位に上から目線の拍手送ってたり、
そういうのが我慢ならなかったんだよね。どっちかというと。
おセンチに陥ると、そういう、上から目線の「いいじゃないか」な感想かます下司野郎どもにつけ込む余地を与えてしまうのではないか。

北朝鮮のキツさは、そういう物語で収めて欲しくないと、僕は思う。そのキツさは、少なくとも、僕にとっては、上から目線で「いい話じゃないか」って言えるものじゃない。

脱北後の暮らしもやっぱりキツくて、アメリカで生きること・暮らすことが、脱北後も姉の脱出資金捻出が一番の目的となる妹にとって、唯一の選択肢のように思えてしまう瞬間に、そこに開けていたはずの希望の視界がきゅっと閉じてしまう。アメリカの暮らしも選択肢に欠ける息苦しいものであることには変わりが無いのだ。だから、北朝鮮とアメリカを対比させる展開は、ある意味、リアルではないのだけれど、「どこで暮らそうとも息苦しさに変わりは無い」点でとてもリアルなものになる。

その「リアルではないリアル」を突き詰めたのが、後半の、妹とNYのボーイフレンドが、路上で、それからの2人の一生を語る場面。
2人の30年−40年がまさに胡蝶の夢のように過ぎて、「一生を一緒に過ごしてくれて有り難う」の台詞が心を打つ。
それは、「何年間かの間で人生の素晴らしさを味わい尽くしました」という感謝でもあるし、「姉の人生と引き換えの日向の人生」への罪の意識でもあるし、「アメリカの人生もそんなもの」との諦念でもある。

ひょっとすると、この極めて美しいシーンを畳むためには、ラストシーンは不可欠だったのかもしれない。たとえそれがやっすい「お涙頂戴」なものに回収されてしまっても。
そこで、北朝鮮でもアメリカでもない、どこか他の道はなかったのだろうか、と、ついつい考えてしまうのだけれど、現実はそんなにたやすくない。それは北朝鮮にいても、アメリカにいても、東京にいても、それは同じで、そこに思い至ったときに、観客は上から目線の拍手なんかおくれなくなっちゃうはずなんだ。

2015年12月13日日曜日

Linda

05/12/2015 19:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

劇場に入るなり目に飛び込むのは、白パネル仕上げ、片側3層、裏側2層の回り舞台。そこに投影される映像は舞台が回っても画が歪まず、一体どんなプロジェクター使ってるんだとキョロキョロしてしまう。役者の数も多くて、相当気合いとおカネをつぎ込んだ芝居であることは開演前から十分に分かる。

冒頭の主人公によるプレゼン
わたしバリキャリ55歳。シングルマザーを振り出しに、これまで幾多の賞を取って、出世階段上ってきた。今じゃ夫と2人の娘。50超えると男からの視線が変わってきた。道ですれ違っても二度見なし。工事現場で口笛無し。そんな貴女に贈る、新しいシニア女性のための化粧品をどうぞ!
このイターいトーンが芝居全編を規定するテーマになっていて、この後の展開はと言えば、
バリキャリ55歳キャリアの絶頂が、会社のポジションを失い、夫は浮気し、子供とは心が通わず、自分の出来心のオフィス内情事が携帯経由で社内中に広まってドツボった挙句・・・という物語。ヒロインの演技が過剰なまでに力強く、いやしかし、最近メディアでぶいぶいゆわせてる自称バリキャリ系は男女問わず過剰気味だよなー、そこのところ、妙にリアルだよなー、と思いながら、最後まで面白く観られた。

とはいうものの、「こういう物語、わざわざ舞台でやる必要あるんだっけ?テレビや映画でOKじゃね?」という疑問は拭えず。
まぁ、エンターテイメントとしては相当イケてるのだが。
やはり、冒頭から前半終わりまでのドライブ感は相当なもので、一幕が終わったときの拍手はいつもにも増して大きかったのだが・・・

後で新聞のレビュー読んで知ったことなのだが、この芝居の主役は、当初、"Sex and the City"に出演していた有名女優(Kim Cattrallという方らしいのですが、僕はSex and the City観ていないのでまったくピンとこない)が演じるはずだったらしい。それが本番10日前に健康上の理由で急遽降板。10年前にオリヴィエの助演女優賞を取った実力派に代役を頼んでの本番だったんだそうだ。そうか、そう言われてみれば、
・妙に前売りチケットの売れ行きが良かったんだよなー。
・舞台装置にもバッチリおカネかかってるよなー、
・一幕終わりの拍手は、「代役さん、頑張ってるよー!」っていう声援の拍手だったんだ!

いやいや、恐れ入りました。急な代役でここまで出来るとは、Noma Dumezweni、相当力のある女優さんです。

でもね、やっぱり、わざわざ舞台に載せてやる必要ないんじゃねーの?テレビドラマでよくね?って素直に思っちゃうんだよね。

2015年12月12日土曜日

Husbands & Sons

05/12/2015 13:00 @Dorfman Theatre, National Theatre

チャタレー夫人の恋人を書いたDHローレンスの3つの戯曲を一つにまとめて3時間の尺に詰め込んでみせた、力の入った芝居。
力が入っていたから傑作に仕上がっていたという気はさらさら無いのだけれど、力を入れて手間かけてつくっていることはよーく分かった。

下敷きになっているのは、"A Collier's Friday Night"、"The Widowing of Mrs Holroyd"、"The Daughter-in-Law"の3篇。
いずれもイングランド中部の炭鉱の街の貧しい家族を描いたもの。
が、そこで浮き上がる主題は、なんとも21世紀とそんなに変わっていなくて(いや、もしかすると、変わっていないように演出されていて)、そこは違和感なくすんなり観ることが出来た。上記3つの作品を順に僕なりに捉えた主題で呼ぶとすれば、「マザコンとその母」「よろめき妻と酔いどれ夫」「ダメな男と嫁と姑」。
どうです?すぐにも昼メロが10話分くらい書けてしまいそうな主題のオンパレード。

そういった主題なので、たとえ台詞の英語が古くって、"thee"とか"thy"とかの連発で、「すみません!何を言ってるのか、分かりません!」状態であっても話は十分に追える。

タイトルはHusband & Sons だけれども、焦点が当たるのはその妻であり母であり姑である。女性の心の動きを、丁寧になぞっていく。かつ、変に気張ったフェミニストアジテーション芝居でもない。
特に美しい女優を配してシンパシーに引き込む作戦ではないが、自然に引き込まれていったのは上手くしてやられたかもしれない。
特に「よろめき妻」の女優は、「シェイクスピア・ソナタ」の伊藤蘭さんに匹敵する素晴らしさだったと思う。「ダメな男と嫁と姑」の嫁も、スカートの前を掴む仕草がなんともいえず良し。
してみると、こういう昼ドラ芝居も、特に傑作というわけではなくとも、上手くやればオヤジをころっといかせることができるということか。

2015年12月9日水曜日

Sparks

29/11/2015 14:00 @Old Red Lion

日曜日、劇場に向かうバスが15分待ちで、これじゃあ間に合わないってんで地下鉄に乗ろうと思ったらそれがこの日曜日に限って区間運休。
なんとなーくイヤーな感じがしていたのだが、
それをすっかり帳消しにする、観ていて心地よい芝居だった。

12年間生き別れになっていた姉妹の再会を描く1時間50分、ほぼ2人芝居。役者が良かったからか、最後まできちんと観ていられた。姉妹の芝居なので、中にはおセンチが入るシーンもあるし、ちょっとご都合主義かなー、というところもあったし、特に終わり方はどうかと思ったのだが、それをもってこの芝居の値打ちは下がらないだろう。
「良い芝居を観させて頂きました」と思える、充実した時間だった。

ある雨の夜に突然訪ねてくる12年間音信不通だった姉。部屋に入ってくるなりお喋りの洪水止まらず、「あたしおかしいかしら?」と言いながら明らかに常軌を逸した喋りっぷり。重たいバックパックを開くとそこには酒壜がごっそり。挙げ句の果てには得意の白ワインボトル一気飲みを披露して芝居を引っ張る。
対する妹は、職場以外には外に出ることも億劫な、言葉数の少ないぱっと見内向的なくち。姉の突然の来訪にも受け身対応を余儀なくされるが。

冒頭の姉のお喋りが、あれだけのハイスピードで、しかも明らかに中身のないことを話し続けているのに、押しつけがましくなく、いくらでも聞いていられたのに、自分でもビックリした。ネイティブでない僕が聞いていても置いてけぼりにならないし、なにより、妹を無視して「私はこういうメンタルな女」みたいに観客にアピールする要素が一切感じられず、何故か好感が持ててしまう。お喋りの洪水の中に、何かしら、きちんとした、コアを感じたのだ。それは人格のコアかもしれないし、役作りかもしれない。役者本人のキャラかもしれない。でも、それは観客には所詮「見えない」ファクターだから、何でも良いのだ。とにかく、「アピールから入っていない」ことは確実で、それが素晴らしかった。最初は引き気味に入る妹も、抑えた表情の中に色々な感情が想起される充実した演技で応え、見応え抜群だった。

終わり方は・・・これはちょっと要らないシーンだったかなー、と素直に思ったのだけれど、そして、こんな終わり方するかなー、とも感じたけれども、
いや、このラストシーンが最初に想定されていたからこそ、そこから逆算した演技が姉妹の芝居を引き締めていたのかもしれない、だとすれば、1時間45分、十分堪能したのだもの、ラストへの不満も安いもんだ、と考えたことである。

いやー、なんだかね。本当に、小粒の良い芝居ってのは良いですね。

2015年12月8日火曜日

Lines

28/11/2015 20:00 @The Yard

英国陸軍に入隊した4人の若者の生き様を90分間。前半は訓練期間、後半は実践、名作フルメタルジャケットと同様の構成。
前半のストーリー展開も若干フルメタルジャケットを思わせるものがある。

4人の若者、それぞれにキャラも立って、演技も悪くない。だが、生々しさは実はそれほど感じられない。
それは、彼らが自分のことを語る際に、三人称で語るからかもしれない。
それとも、彼らが軍人として戦争に従事することについて、リアルに感じていないように描かれているからかもしれない。
どうしても、薄膜一枚隔てたところで軍隊にいる4人の存在を感じざるを得なかった。

でも、いかによそよそしく、他人事のように語ろうとも、人間の身体は殴られれば痛いし、鉄砲の弾が当たれば血が出るし、放っておけば死ぬように出来ている。
そのつなぎ目、すなわち、頭の中で考えていた戦闘と、実際の戦闘との境目、継ぎ目は、フルメタルジャケットでは、前半/後半それぞれのラストのシーンで「ぎゃ、痛え!」と思わせる形で出てくるけれども、この芝居では最後まで示されない。
本当は、僕は、その境目/継ぎ目をまたぐ瞬間が観たかった、気がする。

この芝居では、その痛みは薄膜の向こうにとどまっているように思われた。それが、世相が戦争について感じ取る、その感じ方のせいなのか、はたまた作者の意図なのか、それは僕には測りかねる。もしかしたら、軍人さんが大好きなUKならではの芝居なのかもしれない。もしかしたら、自らは安全な場所にいながらにして「敵」を殲滅する、空爆の強化を語るキャメロンのように、痛みは常にどこか向こう側にあるのかもしれない。客席と舞台の間の薄膜を想定すれば、痛みは常に2枚の薄膜の向こう側なのかもしれない。

ちなみに、2015年は、このままいけば、UKの軍隊が過去100年以上を振り返ったときに、国外で戦闘に従事していない最初の年になるんだそうだ。へぇ。
このことをどれだけ身近に感じられるのか、ってことなのかもしれない。
(結局その後シリア空爆に踏み切ったので、記録は達成されなかったのだけれど)

Here We Go

25/11/2015 19:00 @Lyttleton Theatre, National Theatre

3場、45分間の短い作品だが、間違いなく傑作。

以下、ネタバレではあるが、ネタバレによってこの芝居の面白さはいささかも損なわれないと考えるので、以下、そのまま記す。

1場は見たところ葬儀の後、参列者による切れ切れの会話。ツイート「囁き」とでも呼べそうな会話で紡がれているような、そうでもないような。「死後、死者本人とは関係ないところで展開される出来事」を思わせる。
2場は暗闇の中での老人の独白。「死の瞬間。この世とあの世の境目」を思わせる。
そして3場。老人と介護士。ベッドと椅子。パジャマから外出着に着替え、ベッドから椅子へと場所を移り、そこで外出着からパジャマに着替え、椅子からベッドへと場所を移り、そこで着替え、場所を移り、着替える。その繰り返し。溶暗。

1場/2場でも明確なコンテクストは排除されているが、肝となるのは3場。このシーンの存在が、その前の2つのシーンのコンテクストを一気に混濁させるからだ。
1場/2場は曲がりなりにも観客としてコンテクストを与えやすく出来ている(「死後」と「死の瞬間」)のだが、3場はそうはいかない。
3場は、生でもあり死でもある。僕らは役者の生きた身体が舞台上で動くのを観る。演じられる老人も生きているものとして着替え、歩く。でも、どこにも進まない。一言も発しない。しかも、毎回毎回、逐一同じ段取りで着替えを遂行し、移動し、同じ動きに顔をしかめる。外界の人=観客にとって、何らアウトプットを発しない老人は、まさに「死んでいるも同然」である。いや、しかし、一方で、老人は生きている。実際、役者も生きている。芝居はナマモノ、というクリシェが、こんなに直截に発揮されることはない。動いている以上、死んでいない。
彼は、何もアウトプットしていないけれども(死んでいるけれども)、一体、彼(生きている脳)の中では何が起きているのだろうか?

そこで、僕の想像の回路は1場と2場に向いて開く。
妙に脈絡に欠けた、明確なコンテクストを与えられているようでロジカルでない2つのシーンは、ひょっとすると、老人の内面で起きている(と、老人が考えていることがら)なのではないか。だからこそ、1場の人々の会話は時に途切れて、あたかも「誰かその場にいない人に向けて」語られる瞬間が紛れ込んだり、2場の老人の独白は妙に芝居がかった、面を切った独白になっているのではないか。1場と2場の歪んだ三人称と一人称の芝居が、3場の「生と死の間」に絡め取られて、一つの絵が出来上がったように思われた。

ヨイヨイの老人の一連の無言の動きから、その中で無限に続く不毛な想いの断片を引きずり出してきたのではないかと思われてくる。それは、とても残酷なことだ。
それは、老人に限らず、死んだように生きている人たち、これから自分に訪れるであろう死について考える人たちにとって、とてもキツいメッセージである。
僕らがいかに死後のこの世(生者による会話)やあの世(三途の川の手前)を考えてみたところで、そんなものはアウトプットされることはないし、外から見えるのは日常の繰り返し、もしくは、腑抜けたように見える老いた身体だけだ。
ここには、将来に向けた「明日への希望」「将来への希望」は一切示されない。キツい。

多田淳之介の「再生」は、やっぱり繰り返しの末に死んじまう話だけれど、でも、その繰り返しの中に、(つかの間ではあっても)生の祝祭の繰り返し(再生)があり、reincarnation(再生)への希望がある。このHere We Goにはそれすらもない。
この間rinoのツイートにあった「ヨーロッパには過去があってアジアには未来がある」という言葉を思い出す。
このHere We Goに未来があるとはとても思えない。でも、そこには、未来がないという現実を抉り出す凄みがあって、震えた。

45分の上演時間の間に、途中退場する人たちが何人もいたし、3場の繰り返しで、繰り返しが起きると、そこで途中退場する人たちや、"Oh no"と言ってみせるご婦人や、他人に聞こえるように苦笑してみせる人が、たくさんいた。
それは、この芝居がキツいから、自分を誤魔化そうとした人たちだったのだろうと思っている。
もちろん、なんでそんな態度をとったのか説明を求めたら、イギリス人のことだからその都度もっともらしいことを言うのだろうけれど、でも、きっと誤魔化しだ。

そういう人たちに対して、この芝居は開かれている。1場に立ち戻って、登場人物(生者たち)が口にする「わたしは、○年後、こうやって死にます」という言葉。その言葉を発する生者の立ち位置が、老人の死についての芝居を観ようとする観客の立ち位置と重なる。自分たちがどのような形であれ死に向かっていること(あるいは既に死んだも同然であること)を思い出させる明確な機能を持つ、誤魔化しを認めない、観客に向けられた呪いの言葉なのだ。

2015年12月5日土曜日

スーパープレミアムソフトWバニラリッチ

21/11/2015 20:00 @日本文化会館パリ

このタイミングで、パリで、チェルフィッチュの公演を観ることが出来たのは、自分にとっては大変大きな意味があった。
それだけでも大きかった。

日本での上演は観られなかったので、本作品は初見。チェルフィッチュの公演を観るのは「地面と床」以来。

パリ行きも以前から予定していた。電車で2時間半。極端に遠くはないだろう。美味しいものも食べたかったし、友人にも会いたかった。「わざわざパリまで」感は、さほど無い。前週のことがあったために、「今、パリに行くこと」について意味がついたように思う。

シーンの一つ一つが強く記憶に残る、素晴らしい体験だった。
それが、前週のことがあったからなのか、チェルフィッチュがキレッキレだったからなのか、なのかは、判然としない。
これが青年団の公演だったら。岡崎藝術座だったら。はたまたキャラメルボックスだったら。こんな風に記憶に残る観劇体験になったかは、分からない。結論は出ない。
でも、いずれにせよ、大変素晴らしい公演をみせて頂いた。

その出会いに、感謝する。クオリティの高いものを届けてくれた関係者/役者/スタッフの方々に、心から感謝する。

で、何が素晴らしかったのか。
芝居がはねた後、友人と色々話していたのだけれど、強く感じたのは、
「極めて上手であること、巧みであることは、決して嫌味なことでもダメなことでもないのだ」
ということ。
一つ一つの仕草が「意味の無い仕草」に見えたり「意味を持つ、意味を伝える、記号としての仕草」に見えたりする、
それが、絶えず揺らいで、観ていて飽きない。
誰が/誰に扮して/誰に対して/ 言葉を発しているのかも、絶えず変わる。しかも、それによって観ているわたしの意識の流れが邪魔されない。

ある動きが、「記号っぽく見える」のと「特に意味の無い仕草に見える」のを区分けするコンテクストは、ある集団が持つ「文化」によっても「個人」によっても異なるはず。
だから、作者/演出家/演者が一つのコンテクストを軸に一連の仕草を提示したときに、そのコンテクストが100%そのまま受け入れられる可能性は殆どゼロで、
したがって、観ている側からすれば、「あぁ、この創り手は、おそらく、ある一定のコンテクストに沿ってある仕草をみせている。それは、自分の想定するコンテクストとずれている/ずれていない。従って、この動きはリアルでない/リアルである。」という判断を無意識に働かせているのだと考える。
今回のチェルフィッチュの素晴らしかったところは、そのコンテクストの差異の継ぎ目を見事なグラデーションで「処理していた」ことだと思う。「処理」というと作業っぽいけれど、それは、本当にすごいことだ。
東京の日本人も、パリの日本人も、パリのフランス人も、みんなが、異なるコンテクストで同じ一つのパフォーマンスを観ていて、
おそらく、自分のコンテクストとのすりあわせをそれぞれに行いながら、その殆どがそれを楽しんでいたのだから。
で、「あぁ、ここで差が出るな」とか、「これは万国共通」とか、そういう境目が、(敢えて演者側から強調しない限りは)感じられないような、見事な肌触りだったのだ。

「自分の言っていることは万国共通、みんなに通じることだ」というナイーブな感覚を超えて、
「背負っているコンテクストが人それぞれなのだから、それに耐えられる強度を持ったパフォーマンスを、『剛』ではなく『巧』をもって創れば良い」
という発想。

また、語りの構造の強度もまた素晴らしく強くて、しかも、継ぎ目の処理が見事である。
それは、作者が、誰が/誰に扮して/誰に対して/ 言葉を発しているのかについて、常にクリアーに見えているからに違いない。

音楽も良かった。のっけからバッハの平均律クラビアを、あんなぺラペラな音で流してくるとは。
あれにしても、音楽のどの部分を自分の持つコンテクストに結びつけて捉えるかで、相当聴き方に個人差が出ていたはず。

いや、すごい。言うのは簡単だけれど、それをやってのけるのは本当にすごい。

昔、柴幸男さんの「御前会議」で、現代口語演劇の台詞をラップに乗せて語っているのを初めて聞いたときに、
「所詮、リアルな発語もリアルでない発語も、演出家による振り付けでしかない。後はそれがどう観客にとらえられるか、だ」
と気がつかされた時に、同じくらいビックリしたのを思い出した。

「わたしはあなたのコンテクストを100%共有することはできません。だから/でも、わたしはあなたのパフォーマンスを観る。だから/でも、わたしはあなたと会話を交わしたい。だから/でも、わたしはあなたと共存できる。」
そういうテーマが、語られる事柄や、その語り口や、みせかたや、そうしたところから、
わたしの意識の中に形作られているのを感じた。やられた。

本当に、素晴らしいアーティストの巧の技を堪能した。幸福な時間だった。