2010年4月30日金曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第2回

24/04/2010

第2回は、ダンス・演劇批評家、武藤・佐々木・水牛のお三方を迎えてのシンポジウム「私の考える劇評」。

非常に率直な意見が聞けて小生ご満悦。さらに三人の一致した見解として「批評は必ずしもなくてはならないものではない」というのも率直かつ実は「批評」が依って立つポイントとして非常に重要な考え方だと思われ、それも収穫。

お三方それぞれに「劇評は誰に向けて書いているのか」について自覚的で、よって、「劇評とレビューと感想とはどう違うのか」についての「大体の」線引きができている。そうなると「レビューや感想じゃなくて批評を書け」みたいな注文に対する前捌きが可能だろう。「前捌き」というのは、三つのカテゴリーの間にあるのは明確な線引きではなくて、「大体の」線引きとそのバランスだから。

そういう意味で、佐々木氏の「プロパーの批評家」、武藤氏の「精緻に見ること」「批評とアカデミズムの両立」、といった言い方は非常に面白い。また、言説が「創り手」や「読者」に対してもつ権力性みたいなものへの注意深さも感じられて、大変示唆に富むシンポジウムだったと思う。

一つだけ宙吊りになっているのは、おそらく、野村氏が言っていた「創り手の意図をどう汲むのか」という質問への回答。僕自身は「作品は一旦創り手を離れてしまったら観客・聴衆・読者の妄想・想像力の手にゆだねられてしまうから、創り手の意図なんて、一種、どうでもよいのです」と言いたくなってしまう。でも、ドラマターグとして創り手の周辺に立って観客席も見る渡す仕事をしている野村氏からすれば「いやいやそうはいっても」ということではあるだろう。佐々木氏や水牛氏のスタンスは何となく予想できる気がする(た易いというのではなく、一貫しているという意味で)。武藤氏はどうか?「意図のない、ポイと投げ出しちまう創り手の作品について書く気はない」という彼は、どう回答するだろうか?

これに限らず、チラシの裏に書き付けた断片的なメモを読み返すといろんなアイディアや回答が埋まってて、いやいや、大変豊かな2時間半でした。

2010年4月29日木曜日

鰰 出世魚

25/04/2010

日曜日の朝9時45分から夕方5時半のクロージングまで、なんと天気の良い一日を丸々春風舎で過ごしてしまった。昼休みの神里・白神トークの大部分を聞き逃した以外はフル参加。バカといわれても仕方ない。いや、自分としては「これに一日つきあうのはバカです」と言いたいのではなくて、それだけ白神・神里に期待するところ大なのです、ということですが。

大いに楽しんだ。が、「突き抜けること」についてちょっと考え込んでしまった。

端的だったのは白神ももこのダンス。アイディアがあったり気が利いてたり、そういうの、もう知ってるよ、最後にやった「しゃべってるみたいに踊る」のを、最初から、20分でよいから、やってくれよ、と思ってしまった。そこには「気合い入れて突き抜ける方向へと全速力で走る」ことへの拒絶や疑義や照れや臆病さがある気がした。こういうのを「食い足りない」とか「欲求不満」というのだろうか。

バー齋藤、真田真プレゼンテーション、デブ学講座、一人ものまね王座決定戦、ストレッチWS、ソロダンス、新川崎コーラスセンター、みんな面白かったのだ。そして、面白い中にも「春風舎を一つの色で染めてしまわないように」するような意図が感じられて、それも悪くないと思う。でも一方で、それらすべてを、たとえば2時間一本勝負の中に押し込めて核融合を起こして、
"Amazing Splash of Colours"
を引き起こすことも可能だったのではないかと、僕は夢想する。白神・神里がどう思っているかは別として、僕はそういう出し物がたくさん観てみたいと思っている。また、それが可能なパフォーマーが揃っていたよ、とも思っている。

2010年4月26日月曜日

キラリ☆ふじみプロデュース LOVE the world

24/04/2010 ソワレ

多田淳之介氏のキラリ☆ふじみ芸術監督就任第一作。東京デスロックで上演した"LOVE"を下敷きに再構成、韓国人俳優4人と日本人俳優4人の混成部隊で。

初演時の、ややもすると観客を振り落とすような、受け付けないような、目つきの鋭そうな空気が、あたたかく観客席に手を差し伸べてくるような包容力に姿を変えていた。同じモチーフに基づきながら、また、突きつけるもののインパクトをそのままに、洗練と成熟を感じた。

冒頭、役者がカラフルな衣装にメガネ、同じくカラフルなスーツケースにグッズを満載して登場したのに、まず驚く。
LOVEの一連のシリーズでは、冒頭出てくる役者に「出来るだけ記号を背負わないように」させて、とはいっても役者の個人史は役者の身体にきっちり予め刻まれているのだから、そこまで消し去って舞台に載せるわけはいかない、そのギャップにどう折り合いをつけていくか、どうやって「今、ここにある身体」に集中するか、がミソだったと思う。

それが、今回はいきなり冒頭から記号をまとった役者達が舞台に現われる。メガネ、スーツケース、枕、水、鍋、着替え、本などなど。お、やっぱり多国籍軍ともなると、あらかじめ共通の「裸の身体」で舞台に立ってくれとはおいそれと言えないわけですか?と思う。

その後、一旦は役者達はその記号を落としてしまうのだけれど、後半再度記号どもを身に纏い始める。冒頭着ていた記号と違うものを身に着けて。言葉はなく、せわしなく舞台上を歩き回る。ぶつかる、袖が触れ合う、すれ違う。でもそこにもやはり言葉のコミュニケーションは生じない。そこにはこれまでの「言葉のコミュニケーションでもどこにも連れて行ってもらえないこと」への苛立ち、言葉以前のコミュニケーションへの憧憬のようなものは無くなっていて、「記号を纏った者同士のコミュニケーション不在へのあきらめ」があるように思われる。それは、とてもさびしい現状肯定のようにも受け取れる。初演時、少なくとも夏目慎也はどこへとも知れずはしごを昇って進んでいった。今回、役者達はお互いに言葉を交わすことなく、各自の記号を纏って退場する。ラストの視線の交わりになにがしかの希望の芽はあるのか...

大きな舞台で演じられるLOVEは、空間が大きい分だけ包容力を増したように思われた。狭い場所で観るLOVEは、若干intimidatingな感じがして、息が詰まることもある。「大きな空間でも大丈夫じゃん」という自信と余裕は、この3年間のLOVEの公演の成果だと思う。「小劇場演劇」ではなくて、れっきとした「舞台表現」なんだと思い知った。

2010年4月25日日曜日

甘もの会 どどめジャム

23/04/2010 ソワレ

前作「炬燵電車」がとっても不思議な感じで、第2回公演も必ず観ようと思っていた。同じ肥田知浩氏の戯曲を使って、新川の小さなアトリエでの公演。正直なところ、期待通りに世界が広がりをみせなかったことにフラストレーションを感じた。戯曲のせいだと思う。

「炬燵」も「どどめ」も、「記憶」を軸に組みあがった戯曲である点は共通している。ただし「どどめ」の記憶は、主人公の男の一人称視点での過去の記憶と未来の記憶がある時点で交錯する「縦の編み方」であるのに対して、「炬燵」の記憶は、炬燵の周りの空間をハブにして、そこに出入りする登場人物たちの視点と複数の記憶が交錯する「横の広がり」を持っていた。いずれも小さい空間での上演を前提として、そこから世界をどう広げるかが勝負どころの芝居なのだけれど、「炬燵」の周りにぶわーっと世界が広がっていった感覚を思い出すと、やはり「炬燵」に軍配を上げてしまう。

加えて、一人称芝居で記憶を交錯させられると、どうしても早い段階で「オチの読める」展開になりがちで、そこも惜しかったと思う。石担ぎ、モンゴル相撲、飴拾いなど、魅力的なモチーフが散りばめられているだけに、それらの人物の「視線」が加わると、もっと立体的に芝居の時空が立ち上がったのじゃないかという気もした。

室内が屋外に化けられるか、というのも大きな命題で、やはり、こういう小さな小屋で、役者のすぐ後ろが白い壁という制約はなかなか乗り越えがたかったのだろうという印象。違う小屋で、視点の加わった「別バージョン」が出てきたら、それは観に行きたいと思うかもしれない。

山内健治 舌切り雀

22/04/2010 武蔵小金井四谷怪談のアフターなんとか

フランス語、観客参加型、日本語字幕付き。フランスの40を超える場所ー小学校、病院、友人宅、公民館ーで、子供を前に上演してきた山内健司氏の一人芝居の日本初演。

すげー。余裕の立合いで劇場をグリップしながら、一瞬でも目を離したら切るぞという気迫みなぎる。「現代口語演劇」の立ち上がりから洗練までを身をもって創り上げてきた役者が、フランスのガキどもの前に丸腰で立って「どーだ」とばかりに他流試合。そこで負ってきた無数の生傷が、笑顔の奥にうかがえる殺気の源か。

日本語の雀、フランス語の雀。視線の仕様も反応の仕様もまったく異なる中で「共通のなにかを見つけられるかられないかのきわめて狭いパス」をくぐっていく。ほんと、すげー。

青年団若手自主企画 武蔵小金井四谷怪談 再見

22/04/2010 ソワレ

再見。山内健司「舌切り雀」の日本初演を観に行ったというのが本当の理由なのだけれど、本編でもばっちりやられた。初日よりもさらに切れ味、完成度を増して、というより、この面子に「完成度」なんて言葉は失礼か。

「演劇は、そもそもが、ごっこ遊びなんです」という命題に立ち向かう時に、観客を安全な客席においておくのではなくて、また、観客参加型でも、さらに言うと客いじりでもなくて、でも「はい。じゃあなた、観てる人の役ね」と割り振って、その舞台を観る目(視線)をぐいぐいと舞台の時空に引っ張りこんでいく手管はすごい。

舞台上の演技を「リアル」と感じるためには、観客の中に「リアルに見えるための約束事」があるのが前提なのだけれど、岩井秀人の芝居はその「約束事」が観客によって違うことがよーくわかっていて、そのずれを巧みにこじあけにかかる。

芝居をみなれた観客であれば、ある程度「自分のリアルにとっての約束事ー約束A」と「芝居の約束事-約束B」を行き来しながら、舞台上で起きる出来事に一つ一つ辻褄をつけて、一貫した物語を作り上げるだろう。そのプロセスは、新劇であろうが夢の遊眠社であろうが青年団であろうが、変わることはない。約束Aと約束Bの前提の置き方次第で、芝居が楽しめなかったり楽しめたり、訳が分かったり分からなかったりするのだろう。岩井芝居の「視点の転換」「ズレ」は、約束Aと約束Bを絶えずゆさぶりながら、一つの固定した焦点を舞台上に結ぶ余地を観客に与えないのだ。

もちろん、約束Bを芝居の中で大胆に転換したりメタレベルに翔んだりして、そのことで約束Aをゆすぶってみるような芝居も数多くあるのだけれども、岩井芝居の「視点の転換」には、僕は、彼が「鳥瞰型・神様目線の現代口語演劇」ではなくて、「現代口語一人称芝居」を続けてきた後にしか提示し得ないものを感じる。

岩井秀人が世界の隅っこから世界を観るレンズ。その自分に他人のレンズが焦点を当てていると感じることについてのおそろしく肥大化した自意識。そこから、「その他人を観るさらに他の他人」「岩井と岩井を観る他人が同時に何かを観たときに何が起きるのか?」「岩井と岩井を観る他人が同時に何かを観たときに何かが起きていることについて、さらに他の他人は何かを感づいているのか?」「それらすべてを意識しながら舞台に乗せたら一体何が起きるのか?」
観る度にそういう凄みを感じて、何とも心地よく僕はおののく。

もちろんすべての役者素晴らしいのだけれど、この回は特に石橋亜希子にシビれた。役が切り替わる間の、むにゅうっとした時間の流れ方を完璧に支配。見えないストップウォッチを彼女がカチカチ押して、観客の意識の中の時間すらも止めたり進めたりしていた。

2010年4月20日火曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第1回

17/04/2010

平田オリザ、「劇場、劇団、劇評を語る」。
劇場と劇場法のことは沢山語ったけれど、劇評のことはあんまり語らなかったな。

昔「(文芸)評論家とは、馬の尻にたかるハエのようなもんだ」と言った人がいると聞いたことがある気がする。
(その辺の記憶が定かでなくて、馬にたかるアブだったか、牛にたかるハエだったか...)
どうやらそんな扱いな感じ。要は、平田オリザは劇評を「ないと困るもの」と発言したのだけれど、受けた印象としては逆で、平田にとって劇評は「なくてもあんまり困らないもの」なのではないかと感じられた。まぁ、そうだ。彼は世の中に劇評があろうがなかろうが、芸術活動を続けるに違いないのだから。

ただ、一方で、平田の海外(特にフランス)での活動を正当化するための裏付け材料として、平田自身が「誉めてるのかけなしてるのかよく分かんないんですよ」というようなフランスの劇評を使ってきたことは間違いなく、「なくても困らないもの」の効用を利用するのって、どーよ?という気もしないではない。まぁ、それも「いやいや、あるものは使ったらいいじゃない」と返されたらぐぅの音も出ないが。

そしてまた、平田の考える「アーツカウンシル」も、何かしらの言説に「権威」「権力」を持たせる試みなのだろうけれど、彼が一体そこに何を求めているのか(「どう利用したいのか」というのと「何を期待しているのか」の二つの意味で)も、今ひとつすっきりしなかったかな。

武藤・佐々木・水牛の三人の講師陣、こういうところについて一体何を思ったのか、聞いてみたい気はした。

百景社 しらみとり夫人/バーサよりよろしく

18/04/2010 マチネ

千穐楽。テネシー・ウィリアムズの戯曲を短めに2本立てで。

ベタな戯曲をメタに処理する発想、よし。「しらみとり夫人」ではト書きの指定の思わせぶりと"実は"な登場人物の状況と"実世界"上のほぼ素舞台なステージセットのズレがうまーく処理されて、一本背骨が通る。「バーサよりよろしく」も、身体への負荷と言葉遊びをうまく組み合わせて、単なるどんでん返しな芝居から脱皮させていた。

だからこそ。台詞やちょっとした表情の滞空時間が長すぎたのが惜しい。
おそらく、テネシー・ウィリアムズの台詞が(もしかすると和訳のせいもあって)恥ずかしい、という意識はあったと思うのだ。だから、演出の意匠がうまくハマってると思わせているうちに、ささっと、滞空時間を与えずに、テクストをこなした方がよい結果が出たのじゃないかと思ったりしたのだ。空気椅子も水バケツも、折角役者に苦行を与えているのだから、苦悶の表情を捨石にしてしまった方が、トータルではもっと観やすくなったんじゃないかなー、と思われた。トータル50分くらいにぎゅっと圧縮してもよかったんじゃないかな、と。

2010年4月19日月曜日

青年団若手自主企画 武蔵小金井四谷怪談

17/04/2010 ソワレ

初日。いきなり岩井マジックに酔った。
「役者の身体は役の容れ物である」というコンセプトを岩井氏は名作「3人いる!」を引き合いに出して「東京デスロックメソッド」と呼ぶ。いやいや、またまた、ご謙遜を。

現代口語演劇に特有の「リアルな」=「舞台の1秒=現実の約1秒」みたいな時空のつながり・流れを大胆にブチ切って、岩井異空間につなぎ直して舞台に提示する。これは、多田ワールドの「これ、結構リアルに身体酷使されてるよね?」のリアルとは趣を異にして、なんと呼べばよいのやら、
「岩井キュビズム」
とでも言うべき時空の再構成に凄みがある。

役者陣、岩井空間の空間の歪みを全身で受け止め、時間の切り貼り・ストップ&ゴーを「違和感のあるもの」として流していく力がさすがで、まさに名人芸。このゴツゴツ感、この鮮度。たまらん。

鰰 深海魚

16/04/2010 ソワレ

深海魚初日。
60分、あっという間に過ぎた。退屈せず。どちらかと言えば「もっと続けてくれ!」とさえも思う。

時間の流れ方が、一つのゴールに向かっていない感じ。無理矢理絵にたとえていうと、全体のサイズや構図を決めてから絵を描くのではなくて、一点を決めた後、平面の充実を保ちながらじりじりと絵を広げていった感じ。それがキャンバスの大きさに収まらなければ継ぎ足せばよし、予想外に小さくまとまってしまったのならそのまま提示しよう、ということか。

ダンスと演劇の両側から攻めるという「ジャンルを超えた試み」的な見方よりもむしろ、僕には「二人の演出家による共同作業」という感じの方が強く印象に残った。舞台芸術を、演出家のエゴ(あるいは主張)を核に置いて、それを起点として一本筋を通した上で理解しようとすると、おそらくこの出し物は単に捉えどころのない焦点のボケたものになってしまうだろう。

あっちに行ったりこっちを向いたりしつつ、時空を常に充実させながら時間を進めていく作業は、とっても骨が折れる。創り手も骨が折れるだろうが、観る側もきっと骨が折れる。だから60分が丁度良い。こういうことが「起きている」ことに対して、ホッとするような、不安になるような、不思議な感じがした。力を入れて観にかかるとはぐらかされる。入場料どぶに捨てたれー、というくらいの気持ちでパーになって観たら、思いもかけない大波に攫われるんじゃないかという期待感はあるのだけれど、何分貧乏性なのでそこまで身を任せられなかったのがちょっと無念。

2010年4月10日土曜日

Crackers Boat "Flat Plat Fesdesu"

09/04/2010 ソワレ Cプロ

KENTARO! といえば、吾妻橋で "Miles Runs The Voodoo Down" に乗って踊ってみせられて、それだけでブッ飛んだのを鮮明に覚えている。だから、今回の企画も、何がどうあろうとKENTARO! のダンスがアゴラで観られればそれだけですごいのは間違いなかったけれど、今回は岩崎愛さんの弾き語りとTokyo Electrock Stairs も加わって、たっぷり堪能した。

岩崎愛さん、まず、よく通る真っ直ぐな声が快い。曲も素直で、いい感じ。歌詞は40男が聞くと照れちゃう感じでちょっと引くけど、そういえば若い頃、道を歩いていて突如世の中の全てを受け入れてよいような、そういう「ぱぁああっと開けた瞬間」がたまーにやってきたのを思い出した。岩崎さんの歌にはそういう「極めてまれに訪れるポジティブな一瞬」の極めて狭い入り口をこじ開けるようなおおらかな力があった。

Tokyo Electrock Stairs 、身体が良く動くのを自分達で確かめながら、気持ちの良さを味わっている感じがまた良し。やっぱりKENTARO! 氏の動きは際立っていて、他のメンバーと同じ動きをしていても「残像」の残り方が違う。ストロボたいてるわけでも蛍光灯でもないのに「残像」ってなんだよとは思うが。KENTARO! ソロも「飽きる瞬間が決してやってこない」とはこのことか。ホント、彼が動いている様はいつまでも観ていられる。11月のソロ公演、すっげぇ楽しみだ。

CDのおまけとブラウニーも頂いて、すっかりご満悦。「こいのぼり」のブラウニーはパサパサしてなくて生チョコに近いしっとり感、うん、日本人好みだね。うちで美味しく頂きました。

タテヨコ企画 ウツセミウツラ

07/04/2010 ソワレ

初日。
大変面白く観て、気分よーくスズナリを出た。

まず、舞台美術。濱崎氏の舞台は、タテヨコ企画の芝居ととっても相性が良い。気が利いているのに突っ張ってなくて、暖かみがある。今回も「中庭」チックな空間がふわっとくるまれていて、スズナリの中で遠近が効いているのに役者が小さく見えない。天真と百合江の二人のシーンは、内なる宇宙と外に広がる世界を同時に映して美しかった。

おハナシの設定はタテヨコ企画おなじみの「お坊さんもの」。コンセプト自体に驚くようなことはない。乱暴に括ってしまうと若い修行僧の視点に立った教養小説チックな話なのだけれど、そこには一つ仕掛けがあって、
「禅寺だけに、本質をつかんだと思った瞬間それはスルリと逃げていく」
ようになっているのである。

例によって例のごとくいろんな人たちが出てきて、いろんな出来事が起きる。通常の教養小説ならそれを通して何かしら主人公が成長して、何かしら結論・教訓じみたものを得て、観客も何かしら「観る中で成長する」んだろうけれど、そうは問屋がおろさないのが禅寺の妙。

だから、「因果応報」と「風呂敷の畳み方」を気にせずに安心して観ていられた。その場の役者の表情、動き、ストーリーと関係ないところのちょっとした破れ、そういうものに集中して観ていられるという点で、「誤解を恐れずに言えば」東京デスロックを観るのと同じように楽しかったのである。東京デスロックをみんなに勧められるのと同じように、今回のタテヨコ企画、お勧めなのである。

小田豊さん、肝心要の芝居のへそを「ぎゅうっ」と締めて素晴らしい。西山竜一さんも、悪い人のようで実はいい人と言えないこともないけれど結局悪い人なんじゃないの?、みたいな、何ともおかしみのある役作りで出色。彼が退場する場面はちょっと涙出そうになった。ちゅうりさん、客入れ中にはけて、そのままカーテンコールにも出てこなかったが、一体どこへ行ってしまったのか。それが謎。

こんだけ誉めたんだから一点だけ難癖付けるとすると、セミの声。ミンミンゼミとつくつく法師を一緒に鳴かせてはいけないのではないか。昼下がりのミンミンゼミから夕方近くのつくつく法師、といった具合に鳴き声のブレンドを調整するくらいのことはしても良かったと思うが、どうか。

2010年4月5日月曜日

ハル大学 カガクするココロ

01/04/2010 ソワレ

初日。
大変面白かったのだ。白状すると「英語で現代口語演劇ができるだろうか」、「どうしても台詞をうたっちゃうんじゃないか」とみくびっていた部分も正直あったのだが、そういう偏見ははっきりとひっくり返されたと思う。

昔、内野儀さんが「なんだ、現代口語演劇っていったって、岸田今日子さんが演じたらとっても面白くなっちゃうんだから、(現代口語演劇が否定しようとしていた)新劇と何ら変わるところがないじゃないか、と思った」と話していたのを思い出したりもしたのだ。

と同時に、これは「翻訳劇」である。登場人物はもちろんみんな日本人だし、研究室ではお互い「名字呼び捨て」で呼び合ってるし、要は「こんな日本人いねーよ!」とつっこめるのだけれど、敢えてそういう「リアルでない」ところにつっこまずに「関係の取り方のリアルさ」に注目するのがミソ。

考えてみれば、シェークスピアを日本の劇団が日本で「日本語への翻訳で」ガチンコ演出で演じて、それをイギリスに持って行ったときに、イギリス人がどれくらい「面白い」と思ってくれるか心許ないところもある。
ところが、今回、平田オリザの芝居をイギリスの大学生が「英語翻訳で」演じて、それを日本に持ってきたものを「面白い」と思っちゃったのである。

なんだか、うれしいような、悔しいような(もちろん平田オリザは嬉しいんだろうけど)、複雑な気持ち。時々「翻訳劇ならでは」のちょっとした間の空いたところを発見しては、「あぁ、翻訳劇だなー」なんて意地悪なことを考えたりもする。

とまあ、色んなことは考えたけれど、何より「カガクするココロ」は若いキャスティングで演じるのが良い。ほんと「人生真っ盛り」な感じがして、しかも力があるって、素晴らしい。

2010年4月3日土曜日

誰も、何も、どんなに巧みな物語も

31/03/2010

その場に居合わせることの幸せ。月並みな言い方ではあるが、本当に充実した80分だった。

僕は「舞台の空間を埋める作業」がとってもダサいことのように思っていた時期が長くて、実は今でも割りとそう思っている。所詮時空を埋め尽くす、全てを語りつくすことなど不可能なのだから、余白をどう見せるか、いや、物事をどう見せないか、いかに物事は見えないものか、が勝負所ではないか。そういう理屈である。

ところが、安部聡子、山田せつ子、2人のパフォーマーが BankART Studio NYK のがらんとしたスペースに立つと、とたんに、その空間の隅から隅まで何かがぶわーっと充満するのを感じる。確かに感じた。
2人のパフォーマーが、動き、声を発し、時としてお互いに無関心であるかのように振舞い、時として過剰に干渉しあう。近付き、離れ、その遠近法がなんとも美しい。
(もちろん、色んなところをうろうろしているから空間が埋まっているって言ってるわけではないんですよ。念のため。)

その中で、ジャン・ジュネのテクストはそれだけでは時間を支えていないし、山田せつ子氏の動きだけでは空間を支えていないし、安部聡子の声だけでは空間は満ちていない。加えて、安部・山田の視線は、観客抜きでは成立しない。テクストと演出と演者と観客が、そのどれを抜きにしてもこの時空を成立させられない格好で支えあって、濃厚なスープのような霧のようなモノを生み出している。そう信じられることの幸せといったら!

boku-makuhari スリープ・インサイダー

29/03/2010 ソワレ

初見。2時間10分たっぷり重たい芝居。
観ていて途中でどうにも脈絡が追えなくなり、一体どうしてしまったのかと思っていたが、終演後当日パンフ読んだら、「提示される」物語の脈絡など最初から無かったと分かった。最初に当パンきちんと読んでおけばよかった...創り手が自分の物語を押し付けようとせず、「物語は観客の想像力/妄想が紡ぐもの」ことを前提としてくれる芝居は正直僕の好みだし、そうした余地のない押し付け芝居に腹を立てたりもするのだけれど、それでもしかしこの芝居の中で何かしらの筋・脈絡を読み取ろうとしてしまった自分の未熟さよ。

この芝居の一見した「脈絡のなさ」には、しかし、イメージに頼る(観客に丸投げする)なげやりさよりも、むしろ、丁寧な周到さを感じた。つまり、最初から引いて観なくとも、個別に脱線するためのスイッチ・引込み線が仕掛けてある感じ。戯曲の色々なところに「観客の皆さんはどこからどう脱線していただいても構わないのですよ。例えば、ここ」といった誘い水。誘い水ではあるのだけれど、それに乗って脱線する、あるいは脈絡のない迷路をうろうろすることは、決して観ている側にとっても楽なことではない。というのも(少なくとも当パンの挨拶をちゃんと読んでいない観客は)「いつ物語の本筋が立ち現れるかわからない」という考えからなかなか逃れられないからである。で、疲れてしまう。

そしてこの疲れは、観客だけでなく役者・作者・演出も共有しているに違いないと感じたのだ。その点が、同様に観客が脈絡をとらえにくい芝居をする松井周との違いだと思う。サンプルの芝居も「脈絡がつかみにくい」けれど、少なくとも松井周は「自分の中では辻褄が完璧に合っている」と言ってしまう。一方で岩崎裕司は、自らにとって整合性のとれる辻褄からも、あらゆる機会を捉えて逃れていこうとしているように思える。それは、きっと、しんどいことだろう。しんどいけれど、充分挑むに値する行為。

役者もしんどい演技を強いられているに違いないのだけれど、そこでほぼ出ずっぱりなのが、サンプルにも出演する、かつ青年団所属の、奥田洋平であることは注目に値すると思う。「物語をはぎ取ったしんどい演技をしても、それはやはり十分に観ていて面白いこと」という問題意識は、実は、現代口語演劇の原初の問題意識ではないかと、僕は考えている。現代口語演劇の演技は「日常を演じる、だらしなくて楽でつまらない演技」なのではなくて、実は一つ一つの動きが「物語に支えられていない」分、しんどくて過激な作業なんだということを、奥田の演技は示しているようにも思われたのだ。

2010年4月1日木曜日

ままごと スイングバイ再見

28/03/2010 マチネ

千穐楽。
この芝居の出来の良さについてはもういろんな人が書いているだろうから、色んなことを誉めるのはやめます。一つだけ言うなら、能嶋瑞穂さんは今回もほんっとにきれいだった。こはり氏との出会いのインタビューのシーン、分かっていてもみとれて、涙出た。

芝居の話はそれくらいにして、学生の頃ネパールに簡易水道を作りにいった友人のことを書く。ネパールから帰ってきて、彼曰く「ネパールの人は、淡々と人生を受け入れる。三食同じものを食べ、働き、食べ、寝、働き、食べ、寝る。娯楽は乏しい。ない。不平は言わない。淡々と生きる。」

蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまった僕たちは、最早そのようにして暮らすことができないという点で、不幸である。その不幸を背負って生きる以上、また、「文化」とか「宗教」といった「贅沢品」も身に纏って生きるほかないじゃないか、そんなことを考えたことを覚えている。今でもそう思う。

この、スイングバイという芝居は、ネパールで友人が見てきた「淡々とした暮らし」への、一種の応援歌である。それは良い。僕がついつい考えちゃったのは、「芝居」という贅沢に身を浸しながら淡々とした暮らしにアプローチせざるを得ないせつなさについて。

柴氏がなんかのアフタートークで「芝居をして、きちんと生活できるようになることが目標だ」みたいなことを言っていたのを覚えている。彼もまた、「芝居」という人類の文明の最高の贅沢の一つを仕事としながら、それが「淡々とした暮らし」にどう比肩しうるかを試している、あるいは、後ろめたさを引きずりつつ進んでいる、という気がする。

「私の仕事は、お芝居をすることです」
「私の仕事は、ままごとをすることです」
一連の台詞の中に、こういう言葉がなかったことに、若干驚きというか、がっかり感はあった。

かろうじて、「私の仕事は、人を笑わせることです」がそれか。

あるいは、わが社において、「社内広報」という、言い方によっては、「無くても構わないもの」の極地にあるような部署を採り上げたのもそういうことかもしれない。柴氏にすれば、演劇は「わが社」の社内広報のようなものであり、無くても構わないし、世直しの道具でもないけれど、でもやっぱり、おばちゃんのお掃除と同じくらい、一生懸命取り組むのに不足は無い仕事ということなのだろうか。

そう。だからこそ、だ。あの、一連の台詞の中で採り上げられる職業に、貴賎はないのじゃないか?と、どうしても思ってしまうんだ。
「私の仕事は、おカネを貸すことです」
「私の仕事は、パワーポイントの体裁を仕上げることです」
「私の仕事は、天下り先を確保することです」
価値観と関係なく、今日も様々な人が、様々な仕事をしている。メーテルリンクの青い鳥で未だ生まれぬ赤ん坊が「ぼくは疫病とともに生まれ、すぐに死ぬのだ」と言ってのける、そういうところまで呑み込んだ世界まで、僕は実は柴氏に期待しているのではないかとも思うのだ。