2008年9月29日月曜日

鳥の劇場 料理昇降機

27/09/2008 マチネ

鳥の劇場、初の訪問。
鳥取空港からタクシーで20分。らしい。僕は空港から「鳥取大学前」駅まで徒歩20分。単線2両の汽車(ディーゼルエンジンの音がした)で3駅15分の浜村駅。送迎マイクロバスで15分。
すごくいい感じの小さな城下町の街並み、いい感じの劇場。近くに温泉も沸いてる。

幼稚園のお遊戯場を改造したスタジオ、まさに小劇場で、広さもタッパも丁度良い。ちょっと間口が広いけれど、80人収容の立派なスタジオである。近隣から車でいらしてる方も多くて、客層も幅広い。東京の「その筋の人率の高い」劇場に較べ、幸せ度の高い空間。

さて、ピンター27歳の時に書かれた「料理昇降機」、ボスの指示を待つ二人の恵まれない殺し屋を鳥の劇場主宰中島氏の演出で。

悪くない。冒頭、2人が出てくるときの、何ともキャラクターを出してるのか出してないのか分からない、細かな動きは、特に、良い。

が、この間静岡で観た、まさに伸びやかで屈託のない幸せな「剣を鍛える話」と較べると、屈託に満ちた、そして、解釈の加わった、演出だったと思う。それは、戯曲の可能性を狭めていたと思う。2人の殺し屋とボスとの関係を「上下の階層」に還元してしまうのは、物語としては分かり易くなり、近年の「グローバル化の弊害」「格差の固定化」とのリンクをつけやすくすることは出来ても、逆に、観客の考える余地、役者の動く余地も狭めていないか。

その点、この間DVDで観たIn Bruge は、ボスと2人の殺し屋の関係に(必ずしも明示的でない)ひねりを入れて、表面上同じテーマであってもより上手だった気がする。

芝居には注文をつけるが、鹿野にいて、そこから世界を観た感覚が舞台に投影されているならそれも良し。東京の小さな小屋で観るのとは明らかに違う味わいがあって、それは黒磯のACOAのアトリエでも感じたことなのだが、こういうところにくると、「場」としての演劇を強く感じざるをえない。それになんだか、1人で観に来ていることが、とてつもなくさびしいことと感じられる。今度は嫁さんも連れてきたい、来れたらいいな。本気で思ったことである。

テアトロフィーア Here We Are

26/09/2008 ソワレ

何と開演時間を間違えて、開演5分後に堂々とアゴラに乗り込み、3階ギャラリーへと案内される。とほほ。なので、開演の仕方、客のつかみ方についてはちょっと分かりません。

で、ヨーロッパのこのテの出し物を見てると、どうしても、「ゆるいな」とか「ベタだな」とか思ってしまう。特に較べてしまうのがわが日本が世界に誇るサイレントクラウン2人組みの「が~まるちょば」。が~まるちょばの技のキレや、構成に支えられたスピード感、客いじりの巧みさ、密度の濃さと較べると、テアトロフィーアの出し物は、ペースとろい、ネタはエッジ利いてない、アッと驚く技もない。うーん。これで、いいのか?

きっと、これでいいのだ。
けっしてバカにしたり見下げたりしているわけではないのだけれど、こういう出し物って、しっかり楽しむ人がいるのは間違いなくて、観に行った人々が「あ~楽しかったね」というであろう次元において実はが~まるちょばと等価だったりする。僕は圧倒的にが~まるちょばの方が好きだけれど、ぼくがが~まるちょばを推す理由の中には、実はちょっと、「コーヒー道」とか「芝居道」みたいな「道」要素が入ってて、後ろめたい気もするのだ。

たとえば、が~まるちょばのネタに、
「ボクサーがノックダウンを食う瞬間、リングの上で何度かはねるのをスローモーションでやる」
ってのがあるけど、イギリスでは「道」に走り過ぎた芸なためか受けていなかった(うちの家族にはもちろん受けた)。テアトロフィーアの連中は、そういう「高度な」芸をしなくとも客をひきつけるのに充分なポイントがあるのを知ってたり、適度に手を抜いたり、すべっても気にしない、みたいなところがある。締めるとこ締めればいいんでしょ、そういう図太さを感じざるをえないのです。

あ、そういえば、同じ感覚を、SPACでブラジルの劇団が「かもめ」上演していた時にも感じたんだ。コントロールされてない緩さというか、遊びというか、余裕というか。なんなんだろう。

水戸芸術館 Julian Opie 展

23/09/2008

Julian Opieというのは、Blurのベストのアルバムジャケットの似顔絵の人。逆に言えば、僕はそれ以上のことは知らない。
Blurのアルバムジャケットはすごく好きで、じゃあ、このOpieという人はどんなコンセプトで似顔絵(というと山藤章二さんみたいだが、ちょっと格好良く言えば、ポートレート)を書いてるんだろーなー、という興味で見に行った。もしかするととんでもないものが見られるかも知れないという期待もあって。

で、見て回った印象は、「クールでロジカルでイギリス人ぽい」。でも、とんでもないとまではいかなかった。ポートレートの点数はそれほど多くなくて、逆に、真円を頭にした全身像とかホログラムとか、浮世絵キッチュの日本八景とか、そういう広がりのある展示でした。

興味深かったのは、線の使い方や構図のヒントにマンガや浮世絵があることで、Opie氏自身は全然それを隠してなんかいないのに、自分がそれにずっと気がついてこなかったこと。そのセンスを「イギリス人ぽい」と思うオレは一体何なんだ。ということである。

あとは、執拗なまでの「足の省略」でしょうか。先端恐怖症と似た概念で、足恐怖症、というのがあるような気もしてくる。足首がくにっと動くのがいやなんでしょうか?

でも、やはり背後にすごくロジカルな彼自身の興味の展開がありそうなところに、一種僕から感じる彼への興味の限界は感じた。彼自身の興味の展開については、水戸芸術館が用意したA4、800ページの大カタログを買うと良いと思います。僕は買わなかったけど。

2008年9月24日水曜日

la compagnie An 鳥の眼

23/09/2008 ソワレ

「いのち」のやり取りを巡る色んなイメージを、核になるストーリー一本決めてその周りに織り込んでいこうという趣旨はとっても分かりやすく伝わってくるのだけれど、いかんせんその核となるべき物語が紋切り型では、出来上がった芝居はどうしても力強さを欠く。

演出長谷基弘氏、一本調子な芝居の展開を何とか救うべく、桃唄でも採用している「舞台上、私聴く人、君話す人」の手法をここでも投入するが、役者に意図が伝わっていないのか戯曲の構造がそれを受け付けないのか、何だか中途半端で機能せず。なんだか「もったいない」感じの舞台だった。

Fabrica [11.0.1]

23/09/2008 マチネ

千穐楽。
客席(最前列下手)に入って舞台を見渡せば、パンチに弧を描いた切れ目発見。これはと上手を見れば、おお、これは懐かしき回り舞台。客入れ中にパ ネルの裏側と楽屋を見せて準備に余念のない役者陣を見せるとは、これはいわゆる舞台裏事情モノに違いない、さていつどの場面でクルリと舞台を回すかな。

と思ったら、幕前の暗転でいきなりクルリ。15分してまたクルリ。お、お、お、回る回る、惜しげもなく回る。下手側も蝶番を軸にパタンパタンとパ ネルが開閉して舞台が変わる。この趣向も面白い。舞台美術の杉山至曰く、「本広さんは動くのが好きだから」。杉山よ、人のせいにしてはいけない。君が動く 舞台大好きなのは20年前から良く分かっているぞ。

下手からだと、パネルのスキマから黒子役の役者の手がはるか上手に見通せて、なんとも面白い。そうした効果を下支えしてか、辰巳・白神コンビは良く映えた。白神未央、この舞台の力抜いた演技は出色。彼女が出てくると何だかほっとした。

肝心の芝居のほうは、舞台裏事情に男女の事情、芝居人エゴや演劇にかける情熱がとる形を描いて、近年の高井浩子のアベレージに届かぬ凡庸な戯曲。 設定の辻褄あわせとお客サービスが先に立ってまとめ切れなかった印象。「現代口語演劇くん」の設定は結構面白いと思うんだけど、誰かに遠慮してないかい? どうせやるならもっともっと現代口語演劇くんらしく「リアルに」やっちゃっても良かったんじゃないの?ほかならぬ高井・本広コンビなんだから。

2008年9月23日火曜日

東京デスロック 演劇LOVE Castaya

14/09/2008 ソワレ

作・演出のEnrique Castaya 氏のたっての希望で、ネタバレは禁止ということだったのだけれど、9月23日千秋楽につき、もう、そろそろネタバレしても良いでしょう。

<以下、全てネタバレです。再演を期待する方は読まないことをお奨めします。>



僕はてっきり多田淳之介自作・自演か、と思っていたので、出だし、知らない女優さんが出てきたので驚いた。

で、一言も発せず、動きもせずに何分か経過したところで、僕は、
「頼む。このまま、芝居が終わるまで動かず、台詞も発しないでくれ」
と心底願ったのである。そして、その願いどおり、45分間、その状態が続いたのである。

先日見た「朱鷺色卵」の公演でも、開演後何分か二人のパフォーマーが動かなかったのだけれど、そしてそのときも「このまま動かないでくれ」と願ったのだけれど、残念ながらその願いはその後2分ぐらいで打ち砕かれた経験をしていて、小生的には「夢よもう一度」がかなった訳だ。

それにしても、この女優、色々と表情を動かしているけれど、何を考えているのだろう?以下、ほぼ小生が考えた順番に
① 昔の感情を拾って泣いたり笑ったりするんじゃ、まるっきりメソッド演技だろう。まさかそんなことはしてないだろうな。
② もしかしたら、何分何秒後にどんな表情をするか、すべて細かく演出をつけているということも考えられる。多田淳之介だからな。
③ いや、キスフェスの趣旨からいけば、「スペイン」「スイス」ときて、これはベルギーか。ひょっとして、「フランダースの犬」のテレビ放映全シリーズを、最初から最後までトレースして、最後、少年が昇天するところで大泣きして終わるつもりか?
④ いやいや、これは、実は、「朝礼でおしっこを我慢している学級委員の女の子」なのかもしれない。だから時折、客席側、上目遣いに視線をやるのは、あれは、「早く校長先生の講話が終わらないか」と待っている目なのだ。

まじめに舞台を見ているふりして、実は僕が考えていることなんてその程度なのだ。ただし、そうやって、いろんなことを考えるきっかけを与えられていることの喜びは大きい。僕が個人で抱える妄想力なんて微々たるものなんだけど、そこに刺戟を与えて多少なりとも地表から離れようとする、その手助けをしてくれる舞台を、僕は毎回待っているのだ。CASTAYAは、それをしてくれる舞台だった。

だから、この芝居は、実は「一人の観客の想像力」の環の中でとっても閉じている芝居であるといって良い。だから、多田氏も、「これは、Castaya氏に作ってほしいと思うような芝居である」と言っていて、つまり、「作り手としての欲望」よりも「観客としての欲望」に極端に引っ張られた作品であるといえるのではないか。これを面白がる行為、あるいは、面白いだろうと思ってこういうことをやってしまう行為は、怒りを買うと言うよりも、「マスターベーションの共有」と取られてしまう虞はたぶんにあると思う。自分がこの芝居を観て気持ちよかった、その気持ちよさは、何だかマスターベーションの気持ちよさに近いかもしれない、という罪の意識もあるのだ。だって、この芝居を良いと思ったところで、その「良さ」はかなり自閉した、他者と共有できないものである可能性はきわめて高いからである。

舞台に乗っているものがただの「オカズ」じゃ、作り手としてはやるせないはずだが、そこらへん、本当のところはどうなのだろうか?自分にとって「芝居が面白い」とはどういうことなのか、それを改めて色々と考えてしまった。

dumb type "S/N"

20/09/2008 16:00

打ちのめされた。
最高に力強いステートメント。
でも、「力強い」というのは、僕たちが通常耳にするような、ジェンダーとか、国籍とか、セクシュアリティとか、差別とか、そういう「政治的」イシューを取り扱っているからでは必ずしもない。

僕が1時間半追い続けたのは、そういう紋切り型な「政治的な」言葉や身振りから自分をどんどん切り離したい、そこに何があるのかを見極めたい、でも、最後ギリギリのところでは「あなた」と「わたし」がいて、それぞれが切り離しえないコンテクストをしょってこれまでの時間を積み重ねてきた以上、紋切り型なコンテクストから100%逃れて二者が対峙することは不可能である、という絶望への道と、逆に、そのギリギリのところで、皆既日食ギリギリの場面でダイアモンドリングが一瞬きらめくときのようなカタルシス、救いの感覚は不可能ではないというその一点への希望。

それらのダイナミクスを、突き詰めることはできないにせよ「最高に力強いステートメント」と僕は呼びたい。

後半のアレックスによる台詞の繰り返し:「あなたが何を言っているかは分からない。でも、あなたが何が言いたいかはよく分かる」
は出色。「何が言いたいか」なんて結局のところ100%分かる訳はないのに、そう言い切る事。「耳が不自由なので一語一語は分からないけれど言いたいことは目を読めば分かる」みたいな紋切り型でセンチなステートメントではなくて、そう言い切ってしまうこと。その乱暴な台詞の向こうにしか、所詮100%は分かり合えない二者の間の希望が存在している。ように僕には思えた。

こんな素晴らしいフィルムを無料で一般公開したICCに感謝。そしてこの上映の存在を教えてくれた方々、皆様に感謝、感謝。

2008年9月22日月曜日

4×1h project Play#0

21/09/2008 ソワレ

中屋敷法仁と篠田千明の短い戯曲を1時間半で。

中屋敷作「ひとさまにみせるもんじゃない」では、中屋敷戯曲を中屋敷氏以外の演出家が演出する際の難しさについて考えた。
演出の「趣向」はあるが、その趣向は一本調子で、「役者が動いている」感よりも「ほら、役者が動いて見せてるのよ」感の方が強く、興醒め。どうせ やるなら東京デスロックくらいガチンコに近づけて見せないと嘘っぽさが先行する。所詮ウソンコなんだから、それを踏まえて、どう見せるかを考えるかが勝負 だと思うのだが。
女子高生を演じる男優面白いのに、泣きが入って減点50点。

篠田作「いそうろう」。良い戯曲。舞台中央の演出の趣向も非常に良い。
ただし、何の意図もなく、ただただ雰囲気を醸し出そうとしてるんじゃないかと疑わせるような役者の動き(新劇臭い or 動物園のシロクマ、とでも名づけられそうな歩み)が、それらを打ち消して興醒め。

そうやって通してみていると、どうも、僕は、全篇に漂う「雰囲気先行」な演出が気に喰わないのではないかという気がしてきた。そう思うと、客入れ時の役者のアップ公開が、やはり「雰囲気先行」で「意図・フレーム」なしなんじゃないかという気がしてきた。

でも、篠田戯曲はよかった。是非、この戯曲は、女の子2人ではなくて、青年団大塚洋×快快山崎皓司 の2人芝居で観たい。こたつの置いてある舞台で観たい。

中野成樹+オオカミ男、の短々とした仕事その4 ちょっとした夢のはなし

21/09/2008 マチネ 

正直に言います。
・ 芝居が進む間、なんだか、どってことない気がしていた。
・ 冒頭、「あれ、柴君の趣向のパクリかな?」と思った。
・ 途中、「もしかしたら長女はもう死んでいるんじゃないか?」とか、「一体誰の視線でこのハナシを追っていったら、こういう、のっぺりした風景が浮かび上がるのだ?」とか、ぼんやり思っていた。
・ その間、中野氏による和文タイトルを忘れて、原題の "The Happy Journey to Trenton and Camden" としか認識していなかった。
・ 最後、後ろの壁の文字と、和文タイトルを目にした瞬間に、背筋がゾゾゾーッと来た。
やられた。何の誇張もない。僕に起きたことそのまんまです。

といったことを振り返って、そして、考えてみると、そうした、ちょっとした夢みたいなことが、40分に収まってしまうようなところに僕らはいて、それは、現在かも過去かも未来かもしれない。この、時制のないのっぺり感の中に一定の感覚だけが漂って切ない。

その感覚が、同じ戯曲をもとにした短編映画の「日本を舞台にした、The Happy Journey to Boso Hanto」でもまた変な浮き上がり方をして、それも面白かった。

中野氏はワイルダー戯曲を誉めて誉めて誉めまくっていたけれども、僕は勉強不足でワイルダー作品読んだことがない。ただ、この芝居と中野×柴のアフタートーク聴いて、読みたくなった。

2008年9月21日日曜日

テアトル・デュ・ムーランヌフ ジャックとその主人

20/09/2008 マチネ

観終わった後に最初に思ったのは、
「ジャックとその主人、は、舞台に載せたくなってしまうテクストなんだな」
ということだった。

先週東京デスロックの「ジャックとその主人」を観た後、急遽図書館で2006年新訳を借りてきて読んで今回の公演に備えたのだが、そもそも話があっち行ったりこっち行ったりするのが売りの小説ということはよーく分かった。だから、
「読んでいる時にどこが印象に残ったか=舞台に載せるとすれば、どこを切り取って、どんな風に載せたいか」
について、構成・演出担当の趣味が露骨に出てくる。その違いが面白かった。ミラン・クンデラも同じ小説を戯曲化しているそうなので、そのうち読んでみるかも。

多田演出では、「天上に書いてあること」の一点をまず決めて、そこから点と点で構成を繋げていたのに対し、ムーランヌフの構成は、まず全体の枠組 みを決めて、そこにざっくりと各エピソードをどう嵌め込んでいこうかと考えた、そういう、アプローチの違いがあったと思う。なので、出来上がったものもか なり違う。

前半が終わった時には、正直、デスロック版のほうが面白いのではないかとも思ったのだけれど、前後半通してみて、後付けではあってもアプローチの 違いを理解できた時点で、軍配上がらず。つい最近読んだテクストと公演字幕テクストの違いとか、どこを端折ってるとか、自分が強い印象を受けたテクストの 部分と演出の受け取り方が違うな、とか、いろんなことが「違っている」、というのがポジティブに面白かった。

こういう、ある程度質の高い公演は、もう少し大きな小屋で(例えば吉祥寺シアター)お客さんももっと入れてやっても良いのかな、とも思ったのだ が、彼らのエーグルの本拠地はアゴラよりもちょっと狭いくらいの小屋らしい。うーん。こういうのをそんな舞台が近い小屋で観られるとは、スイスの村も侮り がたい。

あ、そうそう。当日パンフの和訳、わたしがやってます。原作読まず、稽古も見ずに書いて果たしてどうよ、ということでとても不安だったのですが、 まぁ、英文を辿ってれば、結構当たらずといえども遠からず、なもんだなぁ、と。えっと、当パンの日本語訳に不満のある方、文責私ですので、あしからず。

2008年9月16日火曜日

鉄割アルバトロスケット レッツティーチャー

15/09/2008 ソワレ

観終わった感想は、正直に
「あー、鉄割のセンスをもってしても、難しいことってあるんだ」

舞台を教壇に、観客を生徒に見立ててHR+6時間目まで。これをただのStand-up Comedyにせず、なおかつドリフにせず、鉄割の舞台のテンションを持ち込んでどこまでやれるのか、って、実は難易度無茶苦茶高い。

出だし、犬井先生のしゃべりはさすがだけれども、実は、舞台の上で(陳腐な言い方で申し訳ないが)絶対に聞き心地の良い和音を作らない個性のぶつ かり合いが鉄割の魅力だとすると、教壇の上に先生1人はなかなか辛い、とすぐに思い始めた。そこでいじめられっこ生徒中島君の登場となるのだけれど、そこ に話が振られる度に「安心して」観てしまえる小生のプチブル観客ぶりは我ながら気に障る。白衣先生のツボに安心してはまる・笑ってしまう、そういう自分に も困る。

だから、「寄席に出てきてさーっと話したいこと自分のペースで話して引っ込んじゃう1人芸の人」の感覚で出てきてはけた、歴史の寿先生の間の持たせ方は、実は新鮮で、「レッツティーチャー」企画ならでは、という気もしたのだ。

2005年のエジンバラで観たクリス・アディソンの"Atomicity"も、同じく元素周期表についての講義の形態をとったStand-up だったのだけれど、正直、アディソンの方がネタの振り方、構成、持っていき方、格段に上だったと思う。やはりイギリス人だけあって、一人で喋り通すことに かけては、放っておくと日本人より勝ってるんじゃないか、と思ったりした次第。

ピチチ5 全身ちぎれ節

15/09/2008 マチネ

ピチチ5、初見。

まずは客入れ。ほしのホールに来て「前のほうが見やすくなっております」は、ウソでしょう、やっぱり。こんなに間口の広い劇場で。間口の広さをそのまま使ったプロセニアムに、ちょっとがっかりした、と思いきや。

芝居はともかくとして、惜しげもなく繰り出す舞台転換大道具。リビドーガチャピンや青森ねぶたも併せて、ここまでやればケレンもケレンよりむしろさわやかさを伴って、大人チケット2000円で入場した小生思わず「若いっていいな」。

そうそう、大人チケットといえば、階段オチをネタにした「平田満」ギャグで笑った客数名、すべて「大人チケット」仲間に間違いない。チケット割引立派に合格、おめでとう。

さて、ここからネタバレだが、本日のメーンエベントは30段を優に超える、バトンに迫る勢いの階段。階段が奥から迫り出すときに舞台前の階段が ちょっと斜めって、あぶないあぶない、まさかこれで本当に階段落ちとかしないよね、ほーらやっぱり宙に浮いてごまかしたよ。からびなで背中つって飛んだ飛 んだ。さーてどうやって終わらせるのかな。この男の人、からびなの金具背中にしょって眼鏡かけて、何段か落ちるだけでも痛いぜー、と思ってたら、思いっき り階段を転げ落ちた。

終演後数えてみて、めのこ、3段+3段+10段落ちで勢いつけて舞台から客席へ。
最前列に座ってる小生の目の前に落ちた。眼鏡かけて金具をしょったまま、落ちた。
まじかよ。これ、やっていいのかよ?
この芝居、この階段落ちだけで一生僕の記憶に残るのは間違いなし。夕べは東京デスロックで、やっぱり一生記憶に残るだろう芝居観たが、これも別の意味ですごい。
「プロセニアムのがっかり感」吹き飛んで、この連中、ほしのホールならではの階段落ちの一瞬に勝負かけてたのだ。しゃっぽ脱ぎます。

東京デスロック 演劇LOVE 愛の行方3本立て

14/09/2008 終日

デスロック3本立てを昼から夜まで、作品解説込みでかっつりいただきました。
何を書いてもネタバレになりますが、まず生意気に総評書けば
・ 特に「倦怠期」エンリク・カステーヤ氏の作・演出にかかる出演者非公表作、これは必見。個人的には、おととし「再生」を春風舎で観て以来の衝撃度で、
「これぞ芝居を観る歓び」
と思わせてくれた。少なくとも、「おばたは何を面白いと思って劇場に通うのか」のドンピシャのコアに肉薄。
・ それもあわせ、この演劇Love、お奨めです。 帰り道、もちろん「演劇LOVE」バッヂ3つ入り、買って帰ったですよ。

<以下、ネタバレを恐れず読まれる方、どうぞ。"Castaya"については、カステーヤ氏のたっての希望につき、23日以降に改めて詳細な感想書かせていただきます。>



<発情期>夏目慎也1人芝居の「ドン・キホーテ」。芝居は所詮「ごっこ遊び」であること、そのごっこにディテールに至るまで命を賭けていることを 確かめた上で、そのごっこ遊びは果たして「1人でいても」成立するのかという、遊びまくっているようで実はふっかい命題に夏目慎也挑戦。

ドン・キホーテを演じるのに普段着で「いらっしゃいませ」はないだろ、と思いきや、いつしか八畳一間で1人っきりで遊ぶ「夏目くん」の姿がドン・ キホーテを演じるアロンソ・キハーナに重なり、後半、舞台奥を向きながらいきなり振り返って哄笑する夏目氏の視線の先に鏡が見えた気がして、何とこれは、 夏目本体=ドン・キホーテ、鏡の夏目=サンチョ・パンサ、一人二役の芝居だと理解する。おもろうてやがて悲しき独居青年の凄み。ただの笑えておかしな芝居 とは違いまっせ。

<蜜月期>この日観た他の2作に較べて、原作の面白さが比較的ストレートに舞台に載せられている気がして、つまり、意図が見やすい構造で、そこにもたれている気もして、正直、割を食っていた。
三条会の橋口氏のイロモノ振りに対してストレートに受ける佐山、という構図も非常にすっきりしていて、それもまた、「食い足りない」感に繋がっていたとも思う。いや、それにしても、だ。佐山和泉、いい役者だよな。橋口氏、変態だよな。

が、やはり問題は山口百恵だろう。三条会もそうだけれど、こうまで山口百恵がかかると、一応小学生の時分リアルタイムでテレビの百恵ちゃん観てい た、そして、テレビCMで「モモエチャーン」を聴いていた僕としては、だ。「なんでモモエ?」という方に集中力がそれた気がして、それはちょっと役者に申 し訳なかったかも。翌日から、慌てて図書館で借りた「ジャックとその主人」を読んでいるところです。

<倦怠期>これを倦怠とは呼ばない。素晴しい。是非、全ての自称他称「演劇好き」がこの舞台を眼にしますように

2008年9月13日土曜日

王立フランドル劇場&トランスカンカナル 森の奥

13/09/2008 ソワレ

ベルギー人が英語でなくてフレミッシュ・フランス語を喋るのを初めて聴いた。だって、彼ら、相手日本人だと英語で話してくれる優しいやつらだか ら。こういう風にフレミッシュとフレンチのスイッチを入れたり切ったりできるのは、喩えていうならアメリカンスクールに通ってる日本人の帰国子女たちの英 語と日本語ちゃんぽんの会話を想像すると近いかもしれない。それを大人が、TPOとニュアンスを考えながらやっている感じ。後で聞いたところでは、ブ リュッセルの街自体がそんな風になっているそうで、うーん、奥が深い。

というわけで、ベルギーからやってきた劇団ならではの完璧なバイリンガル芝居。こりゃ面白い。平田も、きっと、凄く楽しんでこの戯曲書いたに違い ない。だって、オール日本人キャストじゃ「バイリンガル芝居」なんて創れないんだから。まぁ、アメリカでだって(ヒスパニックを入れれば別かもしれない が)バイリンガル芝居なんて創れないんだから、この、ベルギーの役者陣と平田芝居+題材、が、かなり幸福な出会いを果たした舞台、といってよいのではない かと考えた。

話の内容はかなり専門用語もあって全篇説明の嵐なんだけれど、小生も一応「カガク三部作」の最初の2つの初演には出演してたし、かつ、先週日本語リーディングで予習もバッチリ。字幕を追う時間を節約して舞台に集中できた。

話の切り出し方(フレンチで行くか、フレミッシュで行くか)、つなげ方、そこのニュアンスは、非ベルギー人の僕には最後までは突き詰められないも のの、おぉぉっ、と感じる瞬間が随所にあって、知ってる話なのに1時間半時計を気にせず進んだ。かつ、青年団なら15人くらいが入れ替わり立ち代りの舞台 を、6人で持たせるあたり、役者の力も充分。いやいや、ヨーロッパの役者は本当に力がある。

こういう芝居を創るプロセスを経て、平田が、ヨーロッパの役者が演じられるような、うねりの大きな、1人の役者に任せるシーンの滞空時間が長い、「眠れない夜なんてない」のような芝居を書きたくなっちゃったのかな、とも思った次第。

2008年9月11日木曜日

リンゴ企画2008 あの山羊たちが道をふさいだパートII

10/09/2008 ソワレ

9時45分開演のパフォーマンスということもあり、割とダンスを見つけている人、関係者の友人知人が観客席に多い印象。小生すこーし肩身狭い。神楽坂の住宅街、地下に降りたスタジオは100席近くが空席を除けばほぼ満員、これはなかなか楽しくなりそうな予感。

コンドルズの近藤良平氏のパフォーマンスは初拝見。どうせ観るなら近いところで、ということで、こういうスタジオで拝見できるのは僕にとっては入りやすかろう。かつ、藤田桃子さんは青年団の「立つ女」以来ファンなので、それも楽しみ。

で、始まってみると、やはり僕の視線は藤田さんに釘付けで、どうにも他のパフォーマーとたたずまいが異なっていて、その異なり方が、
・ なぜ彼女の突出の仕方が目に入るのに、他のパフォーマー達の「違うところ」が目に入らないのか
・ なぜ僕が「空白に落ちた男」のユーモアが大好きで、このリンゴ企画のギャグが嫌なのか
と考えさせるに足る異なり方。ただ単に美味しいところを持っていっている、ということではない。周囲の物事との関係の取り方が素晴しいのだ、と思う。
前半、森下真樹×藤田桃子 のシーンは出色だった、と、ダンスを見つけない僕は思う。

他のシーンも観ていてぼんやり考えていたのは、
「群舞(みんなで同じ振り付け)に関係性はない(勢いはある)。そして、関係性のないパフォーマンスは僕には関係がない。従って関心がもてない。遠い。」
「パフォーマーの間に関係性があるパフォーマンスは、僕にも関係がある、ように見える。従って観客にも関心が持てる。従って舞台と観客席が一体となった空間が織り上げられる。」
ということ。それが、この間観た「ドラマチック、の回」が素晴しくて、今回の出し物では思わず時計を見てしまった、その違いに繋がったような気もしている。

2008年9月9日火曜日

百鬼どんどろ 卍

07/09/2008 ソワレ

うーん。何と、ここまでやりますか。
何とまあ、「倒錯のエロス」とおっしゃいますが、人形遣いとそれに操られる人形とが絡んで、首が落ちたり濡場があったり、さらに屍姦ありタイタスあり(とはいっても相手が人形では厳密には屍姦とは言えないだろう)、うーん、ここまでやられると、人形愛とか自己愛とかで括れない、足を踏み入れちゃいけない世界を感じる。「凄み」といえば誉め言葉だけれど、そもそも近付いて良い悪いいっちゃいけないような。

世界各国で上演されてるらしいが、僕は、ヨーロッパ人は、このパフォーマンスを観たら、途中で、笑うのではないかと思った。首が落ちるシーンとか、手が抜けるシーンとか。絶対彼らは笑う。何で笑うかは分からないけれど。でも、「Sunset Boulevard」のクライマックス、拳銃で人が死ぬ場面で、彼ら、笑うからね。だから、この芝居観ても笑うに違いない。僕にはとても笑えないが。そんなことを、ずっと考えながら観た。

スロウライダー トカゲを釣る-改

07/09/2008 マチネ

前回三鷹ほしのホールで観た時が「予想外に(失礼!)」面白くて、今回も楽しみにして出かけた。

バッチリ2時間のホラー演劇、またも満喫。ホラーなので、物語が決まっていて、観る側もその筋を辿るラインからそんなに外れた観方が出来るわけではなくて、最後はきっちりオチがつく、という構成は避けられない。また、ホラーなので、思わせぶりな効果音も不可欠だし、盛り上がるところでは絶叫シーンもそりゃ出てくるだろう。

そう書くと、どうも自分の好みの芝居のストライクゾーンから外れてしまいそうな気がするのだけれど、いや、それにも拘らず、というか、ひょっとすると、そういうものを、細部で手を抜かずに作ってあるからなのか、2時間、ドキドキしながら、尻も痛くならず、拝見しました。

ハイバイから客演の金子岳憲、さすが。彼が出てくると、グイグイ進む物語の渦に、観ている側として巻き込まれずにすむ、というか、「その場で舞台に乗っている状況や動き」に集中できる。こういう上手さは、観客としてとても助かる。中川智明の抑えた(ちょっとキザな)演技も、こういう人と一緒だととても映えて見えて、それも良し。

1つだけ白状すると、最後の「500円玉」のオチの意味は、実は、「こういうこと、かな?」という感じで、ちょっと自信が持てないんですが。どなたか内緒で、どういうことか教えてください
(なーんてことも、現代口語の芝居ではあんまり聞くことがないのですが)。

青年団 ヤルタ会談+森の奥

06/09/2008 マチネ・ソワレ

前から観たい観たいと思っていたけれどなかなか機会がなかった「ヤルタ会談」と、ベルギーでのプロダクションが来日中の「森の奥」日本語リーディングの二本立て。「森の奥」はA組B組に分かれて二度楽しめる。1日小竹向原を徘徊しながら、マチネ・ソワレと拝見。

ヤルタ会談、うーん、こりゃ面白い。世界史上の重要な事件って、実は、それが起きている間、そこに居合わせた人たちがみんなそろって「オレは重要だ」という顔をしてる訳ではない。と思うのだ。もちろん、「オレは重要だ」という顔をしている人はいるけど、そういう人たちは、重要でない事件に際しても「オレは重要だ」って顔をしてるよね。そういう意味で非常に平田オリザっぽい芝居だと思う。三人の芸達者の「笑わせにかかる技」に騙されてはいけない。

マチネは下手で観たのだが、英語字幕の出来が良くて、ついついそちらにも目が行った。さすが、北米ツアーでもまれてきたプロダクションだけあって、そっちも出来が良い。

「森の奥」=(「科学するココロ」+「北限の猿」+「バルカン動物園」) ÷3 -学生 +ベルギーの匂い
ということで、これらの芝居を知っている人なら予想がつくだろうが、とにかくサルの研究の説明が長い。これを平田戯曲、リーディングでやると、観客眠くなっちゃうんじゃないか、ということなのか、演出多田淳之介が出した趣向が、「ライラの冒険(His Dark Materials)」。役者がみな自分の「おサルDemon」を持って動いて、舞台上のコミュニケーションが「人と人の間」なのか「DemonとDemonの間」なのかが曖昧になるように振舞っていた。その趣向、面白い。

人とDemonの距離感や「人間コミュニケーション」と「Demonコミュニケーション」のギャップの捉え方、が役者によってまちまちで、そのズレを追うのが楽しい。そのまちまちな感じが、「稽古時間の不足」を反映しているのか、「狙った効果」なのかはちょっと微妙な気もしたけど。

うん。これをベルギー人役者(フラマンの人とワロンの人の共演)でやるのか。楽しみ。

2008年9月7日日曜日

In Bruge

DVDで鑑賞。

ロンドンで仕事に失敗したイギリス人・アイルランド人コンビの殺し屋2人がボスの命令でクリスマスのブルージュへ。義理の両親を接待するのには全欧州でピカイチの街だと小生をして断言せしめる(ホントです!義理の両親と欧州に出かけられる方、拙者パーフェクトガイダンスできまっせ!)、要はロンドンの殺し屋を退屈で絞め殺すには全欧州で最もふさわしい街で、野郎二人がすごすクリスマスの物語。しかし、こんな小さな町でそもそも物語なんか成立するのか?

観終わった後、嫁はこの映画を「ゴドー待ち」だと言った。僕はこの映画を「ソナチネ」だと言った。

いずれにせよ名作である。
興行成績、良くなかったらしい。DVD、売れてないらしい。でも、名作である。

オフビートで生乾きな笑いが、なんともアイリッシュである。おバカさ加減が、アイリッシュである。そして、このアイリッシュさが、クリスマスの日のカトリックの教会にあって、どうしようもなくアイリッシュな、そう、コナー・マクファーソンがどうしようもなくアイリッシュであるようにアイリッシュなのである。
(そういえば、ベケットもアイリッシュか。あんま関係ないけど)。

日本で公開されるかどうかは疑わしいけど、もし公開されたら、騙されたと思ってみてみてください。そして、感想聞かせてください。2時間くらいは僕独りで語れます。

Hellboy II

21/08/2008

ロンドン封切初日。Pan's Labyrinth で一躍名を上げいまやHobittsの映画化に携わる予定となったビッグネーム、ベニチオ・デル・トロ監督の最新作を上映するスイス・コテージのオデオンは、なんともやっぱり空いていて快適だった。

それにしても折角のロンドンの休暇を妻子とともに閑散ローカル映画館で、「ヘルボーイ2」観てつぶすとは、われながらイカす。前作も十分楽しめたのだけれど、今回は前作の成功を受けて予算も10倍増しなのか、セットから細部デザインまでデルトロ尽くし。

デルトロといえば、まさか同じ監督だとは思わずにまずヘルボーイを観、その後Pan's Labyrinthを観、ヘルボーイでは家族そろってサ ムアップしたのが、Pan's Labyrinthの後では夫婦で票が割れて、今でも娘が記憶しているような激しい口論になって、要は、今回も場合によっては夫婦喧嘩になる可能性を抱え つつ映画館に入ったのだが、きっと楽しみ方の違いはあるにせよ、みんな文句なく楽しんだ。

僕の気に入った箇所を思い出すままに挙げれば、巨神兵あり(僕はオリジナル観てことないのだが)、ウォレスとグロミットあり、キングコングあり、 しし神あり、スターウォーズあり、Lord of the Ring の妖精界の王子様やエント族あり、エイリアンあり、と、要は、
「僕チン、これまで観た映画の中で撮ってみたいシーンをぜ~んぶ選んで、僕ちんテイストでぜ~んぶ染め上げて、芸術性を一切問われない映画にばぁ~んとぶちこんで、ほいでもって一本映画作りた~い」
というわがままが全部通って、監督ご満悦の体なのである。その純真なセルフエンターテイメント精神や善し。全編、文句なく楽しませてもらったぜ。

とはいうものの、そういうのが優先しちゃうと、やっぱりフレームとしての「プロット・物語」は前作の「ラスプーチンを追って厳寒の地へ」に較べる とどうしても弱く感じられて、それはあちこちで言われるんと違うかな?いいんだ。きっと、ヘルボーイ3も出る。その前にホビットも出る。その時はまた、あ の手この手をくりだしてくるんだろうから。それもまた楽しみだ。

高山広のおキモチ大図鑑 「劇輪」

05/09/2008 ソワレ

なんと前回おキモチ大図鑑を拝見してから(確か渋谷ジャンジャン)10年以上の月日が経っている。この企画が始まったのが1988年ということだ から、じゃあ、最初の7年くらいは拝見してた勘定になるのだが、今になって観るとなると、高山さんの老け具合とか、身体が動くんだろうかとか、何だか技が 円熟していたらどうしようとか、そんなことを色々考えてザムザ阿佐ヶ谷に向かった。が、いろんな意味で変わってなかった。

20周年記念企画ということで、数あるネタの中から20個厳選して演じるのかとも思っていたが、それも違っていた。おそらく、どれも初見。しかしまぁ、高山さんらしいネタ8本、暑苦しいのもすべっちゃったのも含めて、併せて堪能させていただいた。

このテの一人芝居では、ある意味、「イッセー尾形のエピゴーネン」に陥らずになおかつ面白くなくてはならず、毎回非常に厳しい戦いとなることが予 想される。そこを見事に引き受けて20年ですか。すばらしい。暑苦しさとすべりネタが織り成すリズムが、平均点に陥らない、「高山さんでこそ」のものを求 める観客をひきつけていると見る。ちょっとうちわになったらやだな、とも思っちゃうのだが、まずは、愛されてこそ、というところから始まるので、そこは眼 をつぶるべし。

2008年9月2日火曜日

東京寄席スタイル vol. 3

02/09/2008 ソワレ

アゴラで体験するプチ寄席。落語の合間に色物中の色物、Jirox Dolls Show や渡辺香奈の"Moon Riba" がはさまって、こりゃ面白い。

アゴラのようなスタジオに高座を設けて落語家を放り込むのがまず面白い。噺家さんが大きく見える。声が出てるんだ、ということも良く分かる。演芸場やプロセニアム以外で見るとこういう存在感なのか、と改めて思うのが面白い。

Jirox Dolls Show は、ちょっと、これは、どうか、という感じで面白い。アゴラの醍醐味、といってしまって良いのか。いいのだ。Jiroxさん、歌、すっごく上手です。

武藤大祐氏のトークも面白かった。「面白さを突き詰める以外にない」とは真摯かつ深い。そういう発言を、トーク開始後3分で引き出してしまう林真 智子も凄い。面白さを突き詰める行為を、自分でパフォームするでもなく、批評に落とすでもなく、「東京寄席スタイル」という場を創ることでやってしまう武 藤真弓・林真智子コンビも面白い。

この企画、仕込み・バラシの手間がかからないのであれば、是非定期的にアゴラに呼んで組んでもらいたい。きっともっといろいろなことが出来るはず。

朱鷺色卵 こなたかなた

31/08/2008 ソワレ

観ていて浮かんできたキーワードは、「測る」。
時間を計る。お互いを測る、距離を測る、においを測る。
自分の腕の伸びる向きを測る、リーチを測る。

モダンダンスなのに、何だかロジックが常にまとわりついている気がしたのは、この「測る」というキーワードから僕が離れられなかったからだと考えられる。

後で当パンを読み返すと、川端康成のリリシズムにヒントを得たとあって、うーん、じゃあ、ロジカルな印象は本意じゃないのかな、と思うけれど、でも、僕が観ている間
「なんだか、ロジックからはみ出た動きはないものかなぁ」
と思っていたのは正直な話なので、そこは、観客としての技量不足かそれとも別の理由か。

いずれにせよ、ダンスを観ていてこんなにロジックを意識することは余りないので、それは面白い体験だった。

柿喰う客 真説・多い日も安心

31/08/2008 マチネ

千穐楽。

<以下、ネタバレ>


AV女優の天下獲りと秦の始皇帝を引っ掛けて物語りに落としたフレームの巧みさはさすが中屋敷法仁、バブル絶頂期の「カノッサの屈辱」を思い出させ、「焚書坑女」には+40歳の特権、思わず笑う。

でも、何故柿喰う客の芝居が面白いかというと、そういう「仕掛け」「プロット」が気が利いているとかではない。むしろ、そのプロットに沿って、2時間を怒涛のごっこ遊びで埋め尽くしてしまうキャパシティと気迫の濃さが凄いわけである。

ごっこ遊びをなめてかかってはいけない。子供がごっこ遊びをしている時のリアルさに関するルール決めのシビアさには、誰しも思い当たるところがあ ると思う。そこには、演じていて面白いか面白くないか、というとっても厳しい基準しかなくて、子供たるもの面白くないごっこからはすーーーっと離れていっ てしまうこと必定である。そこには、妙な説教臭さとかテーマとか世界の広がりとかは無用、とにかく遊びつくせ。そういう態度をもって「妄想エンターテイメ ント」と呼ぶのであれば、これはもう、そこに一枚かむほかない。

なので、柿喰う客が人気劇団になっても、それは、「サービス精神旺盛だから」だとは、僕は言わない。僕が柿喰う客を気に入るのは、「ごっこに徹する姿勢が果てしなく愛らしいから」である。
だって、僕は、柿喰う客に出てくるAVネタギャグも、テレビネタギャグも、最後にカラオケで歌う曲も、なーんも知らんもんね。でも観てて楽しい。「焚書坑儒」も「戦国の七雄」も知らん人だって充分楽しんでたじゃないか。

これからも、中屋敷法仁があくまでも自分の面白いと思うごっこ世界を、これでもかとばかりに創って壊して創って壊す、その勢いを、どうぞ失いませ んように。観客としての僕も、いつまでもそういうごっこ遊びを「面白い芝居」として受け容れられますように。なんだか、そういうことを祈ってしまうのであ る。

2008年9月1日月曜日

サンプル 家族の肖像

30/08/2008 ソワレ

いつもながら、ドーンと腹に溜まる芝居。満腹した。

某氏によれば、「辻美奈子フランス語レッスンにあわせてポエムを歌う」のシーンで、僕は「口をあんぐりと四角に開いて」観ていたらしいが、舞台によだれを落とさなくて良かった。
そこに限らず、「羽場さん三角関係へのお説教をあきらめる」とか、「木引いったい何をしたいのか」とか、「古館いんちき(?)ホーミー」とか、 「古屋会心の笑み」とか、「管理人の怒りはいつも理不尽」とか、「村上聡一最後まではじけないぞ」とか、口をあんぐりさせたり、笑いが噴出したりするのを 懸命に抑えなきゃならない局面が、スポラディックに現れては消えて、観終わった印象、「なんとエンターテイニングな2時間」!。ヘリコプターの屋根裏に2 時間幽閉されて覗き観る人々のうごめき。

直前に五反田駅前の歩道橋のふもとを走って消えたドブネズミの姿(おそらく連日の豪雨で下水が溢れ、住まいを失ったのだ)や屋根をたたく雨の音とあわせて、まさに人々がゴゾゴゾとうごめく姿が、全体のうねりや脈絡とは無縁に綴られて行く。

が、この脈絡の欠如が、一方で、「この芝居はどんな芝居ですか?」という問いに対して、「ドーンと来る」とかいうわけのわかんない形容と、個々の事象に即した説明しかできない理由となっている。

脈絡の欠如を「現代人の孤独」とか「絆の欠如」とかいってしまう紋切り型は無しとしても、しかし、この、脈略の欠如した一連のシーンに対して自分 なりの妄想スイッチを入れて外の世界を膨らませていく、あるいは勝手な物語をつないでいく作業にかなりの手間がかかることは間違いなく、結果、観終わって から1日たってもまだなお、うんうんうなっちゃってたりするわけである。
こういう、
① 説明すべき物語は一切排除して、
② かつ、そこから無理矢理何かを紡ごうとする観客にさえも挑戦していく
松井周の態度をどうとるか。松井氏にとっては納得感が高まりつつも(なぜなら、自分の考えていること・感じていることは何かなんて、高々2時間の 『物語』で語れるものではないのだから、突き詰めて考えれば、物語は排除されていって一種当然だ)、観客からは遠ざかっていく、あるいは、摑みどころがな くなっていく。「カロリーの消費」から本作と来て、次に同じ感じでもう3歩進んだら、ついていけなくなる可能性もすこーし感じてはいる。

最後にひとつ難癖つけるとすれば、古舘寛治の「40歳引きこもり老母に養ってもらってる」、まんま「薫の秘話」な設定は、ちと紋切り型な気がした んだけどな。いや、悪くない。悪くないんだけど、できるんだからもう一ひねりお願いしますよ、という気もしたのだけれど。どうでしょうか。

G-Up ペガモ星人の襲来

30/08/2008 マチネ

芝居自体のことをとやかく言う前に。
今回は有川マコトを観に行った。17-18年か前に一緒の芝居に出たことがあるけれど、それ以来彼が出ている芝居からご無沙汰している。この、一種「オールスターキャスト」的な舞台で、そろそろ不惑のはずの有川氏がどんな芝居をしているのか、いや、くどくど言う前に、
「元気かい?」
ということだ。で、元気な姿は相変わらずで、体型も実は17-18年前と変わってなかったな。嬉しかった。

あとは、岩井秀人の立ち居振る舞いが勉強になった。現代口語を自認する人間がこういう場でいかに舞台に立つか。小椋あずきとの夫婦漫才も含め、大いに笑わせていただいた。そして、大いに盗むべし、このしたたかさ。

そんなところでしょうか。

各駅停車 いつもの中に、沈む

9/08/2008 ソワレ

この芝居の弱点を諸々あげつらうことはそんなに難しくなくて、かつ、それは、最前線のことを目指す反作用としてのコントラバーシャルさでもないのだけれど、でも、今後、
・テクニカル・技術的な点をきちんとつぶしていく・改善していくのだろう、そして
・その中でどうしてもつぶしきれないものが作・演出の個性もしくは劇団のカラーとして出てくることになるだろう、と思う。

出来・完成度と較べれば、好感度はもてた芝居、ということか。

個別に気のついたところをいくつかあげると、
・固有名詞は、例え特定の色がついてしまうリスクを背負ってでも、使ったほうが良いということ。「この街」とか「あそこ」という言葉の連発は、実は「芝居を遠くしてしまって」良くない。また、日本を覆っていると語られる戦争の気配についても、もっと具体的でないと。「匂わせる」のにしては言及の回数も多いし。
・ひとつの手として、「具体的なもの」「身体に近いもの」をもっと使えば、それが、観客の想像力スイッチに手を伸ばすためのパンくずとして機能するはず。屋上から見える景色とか、服装とか、もっと小さいディテールとか。
・その意味で、出だしのシーン、失敗。「ああだ」「こうだ」で引っ張りすぎて、だれた。荻野組の苦労がしのばれる。
・同じ青年団組でも、大久保は色物な分だけ得をしたか。
そういう点は、振り返って他山の石とすべし。その意味で、勉強になる舞台だし、変な年寄りじみた言い方すると、「若い人たちの、これからが楽しみな芝居」ということになるんだろう。

ただし、逆に言えば、「舞台にあげる前につぶしておけたはずのポイント」も数多くあって、それが放置されたまま舞台に乗っちゃった、ということもできる。それをどこまで許容するかについては個別に差が出てくるだろう。
「大学時代をしのぶ若者たちの再会」という、おおむね現代口語演劇の紋切り型に近いといわれても仕方がないモチーフも含め、数多い課題を次回までにどこまで消化して、もっときちんと舞台に載せられるかどうかが勝負。