2015年7月26日日曜日

Rufus Wainwright Solo

12/07/2015 @Royal Shakespeare Theatre, Stratford-upon-Avon

いやー、やっぱり歌の上手い人の生歌はええわーーーー、と実感。

Stratford-upon-Avonまで長距離バスでロンドンから3時間、行った甲斐あり。
普段はRSCの公演で使われている劇場を使った贅沢な弾き語りナイト。

RSCの劇場なので内装も落ち着いているし、客層も中年カップルとか多くて、落ち着いて聞けた。
僕らの前にイタリア人観光客風家族(夫婦+ティーンの息子・娘一人ずつ)が座ったときは、
失礼ながら、こいつら大丈夫かと思ったのだが、ルーファス登場とともに奥様大興奮、
歌詞も全部知ってて口ずさみながら、夫婦肩と肩よりそって横揺れしてるのをみて、
心の中で深くお詫び申し上げた次第。

前座のMax Juryはシンプルなローズ電気ピアノの弾き語り、
妹のLucy Wainwrightも、滑り気味の語りでギター弾き語り。
いずれも持ち味出しながら伴奏なしの真っ向勝負で気持ちよし。
3人合わせて3時間の長尺コンサートでありながら、まったく飽きなかった。

ルーファス・ウェインライトも、40歳を超えたとは思えない声の艶。高音も出て、聴き応えあったなあ。
妹に「ライザ」の恰好させたり、Max Juryに「ジュディ」の恰好させたり、も、適度の悪ノリ感あって良かったよ。
贅沢だった。

でも、白のスーツに「ビーサン」はやめてけろ。

1984

11/07/2015 @The Playhouse Theatre

2013年にNotthinghamで初演され、West Endでも大好評を博した、ジョージ・オーウェル原作「1984年」の舞台版、ロンドン再演。
噂に違わぬ100分間、オーウェルの世界を壊さず、しかも左派懐古主義の古典芸能にも堕ちずに現代性を保って、飽きさせず、エンターテイニングに観た。
ただし、芝居として刺激的でガツンときたかと言われれば、そこはちと食い足らぬところもあった印象。

出だしから前半、スチームパンク風の舞台美術を動かさず、プロップを微妙にぶれさせながら時間と場所をポンポン飛ばして進めていく手管は大いに見応えあり、
短い暗転とシーンの切り替えが天野天街さんの演出を思わせる。そしてそこで展開されるストーリーはまさしく1984年の世界である。
このまま100分間押し切ってくれたらメロメロにやられちゃう、とまでも思わせるのだが、
そこで「間口を広げて幅広い観客にも分かりやすく作ってしまう」のが今のウェスト・エンドの芝居の王道なのか、これは中盤以降、
舞台の展開とも合わせて、(演劇としては)失速していく。

後半、Julianとの情事以降の展開は若干メロドラマチックに流れ、拷問シーン以降はテリー・ギリアムの「ブラジル」風近未来ディストピアテイストに覆われて、「これだったらなにも芝居で無くっても」感が増してくる。
ただし拷問シーンの見せ方は、エンターテイメントとしては十分行けてるんだろうと思う。耐えられなくて出て行っちゃう老夫婦もいたみたいだし、「ディストピアをありがとう」な観客には十分見応えのある仕上がりではあった。

あぁ、しかし、それにしても、1984は永遠に不滅です。劇場に来てる硬派オヤジ率の高さを目の当たりにするに付けても、「あぁ、今度、読み返さなきゃ」と思った次第。
他人事じゃないんだよな。技術的にも、情況的にも。

2015年7月5日日曜日

An Oak Tree

05/07/2015 ソワレ @National Theatre, Temporary Theatre

観客参加型演劇ならぬ俳優参加型演劇。丁寧に作り込まれて、ぐいぐい引き込まれる。恐るべし。

この芝居の売り文句は一種きわものチックで、
「脚本・演出と客演俳優の2人芝居。客演者は、プロット・台詞、一切事前に聞かされていません(もちろん客演者は日替わり!)」。
よーくありがちな、客演者がつっかえたり、予期せぬ方向に転んだりして、チープな笑いを誘ってくるんじゃないだろうな、という予感もした。
ただし、もしかすると、と思わせるのは、これが10年前に初演されたものの、再演だということ。
ひょっとするとひょっとするかも、で出かけていったら、これが、とっても面白かったんだ。

客席から呼び出される客演者。緊張気味に。
そこから70分、作・演出・俳優の三役をこなすTim Crouchから客演者への指示は、すべて、「目に見えるところで」行われる。
マイクを通したヘッドフォンへの指示。ファイルにはさんだスクリプトを渡してのリーディング。台詞のやりとりをしながら「次、こう言って下さい」という指示。
ちょっと間をとって、これからこうなるから、こうしてください、という、小声での段取りの指示。
隠れた仕掛け無し。

これ、芝居の掟を破りまくりじゃないの?っていうか、そもそも稽古してから人前に出したら良いじゃん。という人も居ただろう。
インプロも何もないの?全部指示が出るんだったら、観客参加型でも良かったんじゃないの?という人も居ただろう。
客演者がこの直後になにをするかが、(指示を通して)全部分かっちゃうんじゃあ、「これから俳優が何をするか分からない」っていうドキドキ感は一切無いってこと?という人も居ただろう。
いや、これら全部、僕自身がちらちらと考えていたことです。恥ずかしながら。

ところが、である。
「劇中の役柄の人間関係」と「作・演出と客演者の人間関係」と「劇中劇の中の役柄の人間関係」が、階数表示のないエレベーターのように上下動する中で、舞台上の2人が作る関係性と、そこから生まれてくる物語の広がりに、どんどん引き込まれていくのだ。
いや、さっき書いたような小難しいことを考えながら、ふと気がつくと、引き込まれていた、のだ。理由が解明できないまま。

これは大変なことで、だって、目の前のパーツパーツが飛び抜けてどうだとか思っていないのに、してやられている。地図の書けない世界の中に、いつの間にか自分がいる、ということなのだから。そして、おそらく、(後付けだけれども)作・演出のナビゲーションの下で、客演者とともに、「劇」が形作られていく過程を、旅している。地図はないけれども、世界はある。その、目眩がするような感覚の素晴らしさ。

あなざーわーくすの「観客参加型演劇」の練られ方を思い出す。この芝居もあなざーわーくすに似てはいるけれども、「俳優参加型演劇」である点で異なっていて、それは、「予測可能性」を高めてある程度のクオリティを確保するとともに、「事前に作り込む劇の要素」を極力舞台上に持って上がっている。舞台に持って上がらなきゃならない分だけ、事前のスクリプト段階での作り込みは相当丁寧にやっているはずで、その完成度が異様に高いのだ。いや、もちろんあなざーわーくすの完成度も異様に高いんだけど、それは、「観客へのホスピタリティの高さ」であって、このAn Oak Treeでは「虚構の強度の強さ」が優先された、ということだろう。

だから、もっというと、実は、この芝居、客演者が「その場で初めて脚本を見る」という設定抜きでやっても素晴らしく仕上がるはずで、つまり、
「客演者がその場で初めて脚本を見るという設定の芝居」を、稽古してきて上演しても良かったはず。英国の俳優のレベルなら、それ、こなせるはずで、
そうすると、やっぱり、客演者は日替わり、その場勝負、っていうのは、「コマーシャルなキャッチ」の要素大、
っていうことかとは思っちゃうんだけど。まぁ、そこは、それとして。堪能しました。

Hang

04/07/2015 マチネ @Royal Court, Jerwood Theatre Downstairs

俳優の熱演が上滑りする、がっかり感満載の70分。
キツいテーマを扱うからと言って、そのキツさを押し売りされても困っちゃうな、というか、そもそも上手く舞台に載っかっていなかった。

死刑囚の死刑執行の方法について、選択を求められる遺族と、執行官2人のダイアログ。
終始「あんたたちにはあたしの気持ちはわかんないよ」な遺族と、「いや、分かってる、つもりなんですが」な執行官の真面目な会話。
そりゃそうだよ。要は、どんなに頑張ったって執行官は遺族にはなれないんだから、手続きも同情も無力だねってことで、
そこから一歩も出てこず、時として「熱の入った独白」で毒づいてみせる遺族と、その感情を逆撫でしまくる執行官のやりとりには全く興味が沸いてこない。

こういうテーマを舞台に載せるときには、もっと違うアプローチがあるでしょう!
と、ついつい、怒っちゃ行けないと思いつつも怒ってしまう。なべげんの「どんとゆけ」を思い出して、怒り倍増である。

終演後、スタンディングオベーションでカーテンコールはダブル。「熱演料」なんだとすると、英国演劇シーンもそんなもんか、とまたまた思ってしまった。

2015年7月2日木曜日

Temple

27/06/2015 マチネ @Donmar Warehouse

素晴らしい舞台だった。観ながら、涙出てきた。劇中(静かな芝居なので)しゃくり上げるのをこらえていたのだけれど、
終わったところで隣の女性から「良い芝居でしたね」って言われて、「すごかったです」と応えながら、声を出して泣きそうなのをこらえた。
観終わって劇場出てきて、テクスト買おうとするときに、売店窓口で泣いちゃうんじゃないかと思って心配だった。声がつかえた。
それくらい、大好きな舞台でした。

ウェストエンドの芝居には珍しく、90分一幕、休憩なし。
2011年、Occupyムーブメントの中で、セント・ポール大聖堂の前にもプロテスター達が陣取っている。
それを強制排除するべきか静観すべきか、決断を迫られるセント・ポールの主席司祭の苦悩。決断の日の午前中の何時間か。
窓の外にはセント・ポール寺院の大聖堂が常に見える。舞台上の大机には書類が散乱して、まるで青年団の一幕劇のよう。

っていうと、これ見よがしなウェルメイド深刻劇のようにも思われて、ちょっと躊躇しながら行ったのだが、なんとこれが、予想を遙かに上回る素晴らしい舞台。
主人公の主席司祭が、ラスト、どのような決断を下すのか、その揺れ動くココロを仔細に描く、なんていうありきたりではない。

正直、ラストがどうなるかなんて、途中からどうでも良くなっていく。主席司祭の置かれた場所・シチュエーション、そこに自分が「在ること」を受け止めざるをえない主席司祭の、一瞬一瞬の立ち居振る舞いから、片時も目が離せなくなっていく。

排除と共存、秩序と自由、経済と精神、そういった二択を迫る周辺人物の中で、自らを凡庸で優柔不断な人物だと断罪するところまで追い込まれる主席司祭。
周辺の人物はその点割り切れたもので、いや、戯曲の構成上、そういう造形になっているんだけれど、悩みはするものの、そこで「結論」を下すことが出来る人々だ。
そういう人々に囲まれたときに、主席司祭は、自分が、究極のところ、「正しい」結論が下せない状況に置かれていて、かつ、何らかの決断をしなければならない、ということに、自覚的なのかそうでないのか。
更に厄介なのは、この主席司祭、神様と人間と結ぶ存在でもあるので、「神様」と「人間界」の狭間でも苦しんでしまう。そもそも資本主義のルールとキリスト教(英国国教会)の折り合いをどうつけるのか。

だけど、おそらく、一番大事なことは、彼が、どんな形にせよ、実は「結論を出している」ということで、それは、「悩んでいるとき」でも「指示を出しているとき」でも、そのアクションを起こすことについて自分自身で決めているということなんだよな。そしてそれは、セント・ポール寺院の主席司祭だからこその悩みなのではなくて、誰もが抱えている瞬間なんだよな。それを役者と共有したと思った瞬間に、涙が出てきたんだ。
そして、芝居観終わった後で、「ヒッキー」の岩井さんや吹越さんを思い出して、あぁ、あの司祭は「ヒッキー」なんだって思ったら、また泣けてきたんだ。
ちょっと泣きすぎだけど。

臨時雇いの秘書が、ドジで間抜けでぜんそく持ちで大学中退でとっちらかってて、お前、日本の少女マンガなら確実にパンを口にくわえて玄関飛び出してきただろう、っていう風情なのだけれど、彼女だけは、「決断」「判断」から遠いところに身を置いて、それだけに軽やかに振る舞って、この芝居全体の重苦しいトーンの中でコミックリリーフを演じるとともに、主席司祭にとっての救いとなっていた。いや、この立場って、無責任のようでとっても大事で、彼女がどんなこといってくれても良いんだけど、で、うんうん、って聞くんだけど、結局、彼女のいうとおりにする必要も無いし、いや、最後は自分で決めるんだし、って思ったときに、逆に、彼女のような人がそこに居ることが、とっても大事なんだ。と思わせる。劇中においても大事なんだ、って思わせる。おいしい役だったな。