2016年2月15日月曜日

Escaped Alone

13/02/2016 14:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

Caryl Churchillの新作。またもやってくれました。

昨年12月、National Theatreでの"Here We Go"も相当すごかったので、本作についても期待は高かった。
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2015/12/here-we-go.html

今回、Royal Court での新作は、おばさん4人が退屈なうららかな午後、裏庭でお茶飲みながらお話しする、っていうだけの話。
お話の中身は大体たわいがなかったり、ちょっと険悪になったり、昔を思い出したり。
でも、4人の座り位置は60分ずっと変わらないし、4人が互いの身体に触れる瞬間は1度しかない。
そういう緩い、ぬるい関係の中で、どこに裂け目があるのか。裂け目で誰が何を考えているのか、ということなんだけど、
それとても何かしら決着をつけようとか、因果関係を見いだしていこうとか、そういう、
いわゆる英国演劇で求められているであろう観客サービスは一切ない。

しかも、退屈しないのだ。

幕の下りた直後の感想は「青年団の『海神』だ、これは!」。
青年団の1989年の作品「海神」では、7人の外見日本人が世間話をしながら、でも、会話の端々に、
「この人たち、ギリシャの神様なのか(ポセイドンとか、アテネとか、アポロンとか)?」みたいな形而上な会話が挟まって、
かつ、「おれ、風の神だから」って言い出すヤツもいたり。そういう芝居。

庭の外から自動車の騒音や何やらは聞こえてくるけれど、空はうっすらとどんよりしたまま少しずつ色を変え、雲一つなく、外の様子を垣間見ることは一切出来ない。
もしかするとそれは(ベケット的な)ディストピアなのかもしれないし、
(平田オリザ的な)ディストピアの前触れかもしれないし、何でもないのかもしれない。
その中で、やはり、リアルタイムに、4人のおばさん達の感情が微妙に揺れ、どこへも向かわないのだ。

こんな芝居を、2016年のロンドンで再び目にするとは。素晴らしい。

2016年2月14日日曜日

The Mikado

06/02/2016 14:30 @Coliseum

ギルバート&サリバンのコンビによる不朽の名作オペレッタをこれまた初演以来30年でまったく現代性を失わず色褪せないENOのプロダクションで。
間違いなく大傑作。観るのは多分4度目(このプロダクションで3度目)なのだけれど、何度観ても飽きないし、新しい発見がある。
Ko-ko役のRichard Suartも1989年からこの役を張っているけれど、円熟・深化はあれども疲れはなし。

そもそも名シーン、名曲揃いで、このオペレッタが色あせることは未来永劫無いに違いないと思う。
何と言ってもサリバンの音楽がポップで美しくて、それがこれでもかとばかりに繰り出されて息つく間もなく耳を奪われる。

そしておバカなストーリー。
ミカドが統べる日本のとある町、ティティプを舞台に繰り広げられる、
ミカドと、その跡取りと、その跡取りの婚約者に無理矢理なりおおせた「二の腕の裏側は世界一美しい」と自負する女性と、
跡取りの恋人のキャピキャピ娘と、そのキャピキャピ娘に横恋慕する仕立て屋上がりの「高等死刑執行卿」。
しかもその高等死刑執行卿、近々斬首刑を執行せねば自らの首が飛ぶぞとミカドがのたまったものだから、さあ大変。

そういうオペラである。
ヴィクトリア時代のイギリスで書かれたオペラだから、PC一切お構いなし。
が、西欧世界と異なる基盤の元に高度な法治国家を成立させて繁栄を遂げた場所を舞台に充てて、当時の英国社会を諷刺するというのが趣旨なんだから、
これのPCに目くじらを立てるのは大いに筋違いだろう。
(ガリバー旅行記を読んで小人や宇宙人への差別反対を叫ぶのと同様だと、僕は考える)

で、こういうおバカなストーリーにのっかるポップな曲は、もちろんおバカな歌詞が載っかってとてもうきうきするのだけれど、
でも、やはり圧巻なのは、このおバカなストーリーに載っけてとてつもなく美しい曲が、しかもその場で聞いていると「なんだか美しくなきゃならない」みたいに歌われるシーン。
ヒロインの独唱"The Sun Whose Rays Are All Ablaze"(わたし、こんなに悲劇のヒロインになっちゃって、美しすぎて困るわぁ)
Ko-koの独唱 "On a Tree By a River a Little Tom Tit"(この曲を歌い上げて口説き落とさねばおれの首は救われない)
何度聞いても涙が出てくる。

ヴィクトリア時代の人々は、これ観て大いに喜び、笑い、楽しんで家路についたのだろうと想像される。テレビ・映画のない時代である。
その頃に素晴らしかったものは、テレビ・映画がはびこる世になってもバッチリ生き残る。
彼らに負けず劣らず僕も楽しんで帰ってきたし、何度行っても楽しめる自信があるんだ。

D"Oily Carteのプロダクションではキャスト全員着物で出てくるのだが(ご覧になりたい方はMike Leighの映画'Topsy Turvy'を見て下さい!)、
このプロダクションは海辺のリゾート地を舞台に、イングランド風の衣装で固めて、舞台中真っ白で統一して、現実感をかっ飛ばして観客に提示する
(そう、現代においてはちょんまげ・着物のエグゾティシズムは諷刺に資するものとしてはもはや通用しないのですから)。
そういう一手間も手伝って、また、(現在のENOプロダクションの初演ではKo-koを演じたのはEric Idleだったとのこともあり)Monty Python風の小芝居も手伝って、
全く古臭くない。

本当はこういうのを日本で映像で観て、「やっぱりロンドンでミカド観たいわぁ」と言って欲しいんだよな。みんなに。お勧めですよ。ほんと。

2016年2月8日月曜日

黒塚

30/01/2016 20:00 @パリ日本文化会館

木ノ下歌舞伎のパリ公演。フランスの観衆が木ノ下歌舞伎をどう捉えるかにも興味があったし、パリ日本文化会館の広めの小屋で黒塚がどう見えるかにも興味があった。
でも、なにより、木ノ下歌舞伎が観たかったんだよ!
僕と同じく、アゴラでの四谷怪談が木ノ下初めだった友人F氏も来たパリ千穐楽。

観に行って本当に良かった。
作品としての成熟が見られたのもよかったし、広い小屋(日本で言うとあうるすぽっと位の広さはあるかなー。吉田町スタジオが20コくらい入りそうな)でも十分に通用する、というか、座組が小屋の広さに対して十分な意識をもって対処してれば全く関係ない、というのが分かったことも大きかった。
ちょっと引いたところで拝見したのだけれど、北尾氏のダイナミックな動きとか、武谷氏の緩急とか、旅僧達のポジション取りとか、そういうのがよーく見えたのも良かった。

本当に、何度観ても良い芝居。

木ノ下先生/邦王子のトークを開演前にもってきて、「口語台詞」「文語台詞」の区別が字幕についてることの説明があったことも奏功。
僕もちょっと迷ったら字幕で確認したりして。

しかし、なんと言ってもパリの人たちの「面白そうな芝居」「美味しそうな料理」に対する貪欲さといったら・・・
こういう芝居をロンドンにもってきて、面白がってくれるだろうかというと、正直、自信が無い。
却って完成度が高いだけに、何かと難癖をつけてこけおろしにくるんじゃないかという気がする。そうじゃないと、イギリスの現代演劇が何に対して手を抜いているかがあからさまになってしまうおそれがあるから。

うん。そうだよ。ロンドンにいては観られないものが観たかったんだ。それができるのはパリ。ロンドンからはそもそも呼びもしないだろって思う。そういう違いは大きいよ。

2016年2月7日日曜日

Stilles Meer 《海、静かな海》

24/01/2016 20:00 @Hamburgische Staatsoper

オペラこのような素晴らしいものであるのなら、これからもずっとオペラを観たいと思う。
「オペラは総合芸術である」という言葉を聞くたびに「ケッ」と思ったり、
(これはミュージカルでも同じことだけど)なんで突然歌い出すんだとか、台詞を歌で言わなきゃならないんだとか、演技が変だとか、それこそ現代口語演劇原理主義者に極めて近いところに出自を持つ小生としては、
正直、オペラは敷居がとても高い。

今回、平田オリザがリブレットを担当していること、舞台美術を杉山至が、衣装を正金彩が、照明をDaniel Levyが、それぞれ担当していること、
ハンブルクは多和田葉子さんが長いこと住んでいた、そして、彼女の小説にも度々登場する街で、以前から是非一度訪れたいと思っていたこと、
そういうのがあって、半分勢いでハンブルク州立オペラにお邪魔したわけである。
「平田オリザのオペラ」ってどうよ?というのもある。ダメだったらそう言えば良いのだし。

が、一幕、2時間弱の上演中、まったく飽きることがなかった。

オーケストラ、音楽、歌、演技、舞台美術、衣装、照明、ロボット、全ての要素が緊密に舞台上に織り上げられていた。そして、それら全ての要素とそれに拘わる人間達が、「オレがオレが」という我を一切張ることなく、同時に力をめいっぱい発揮して、
杉山の舞台美術は、このオペラが素材にした「隅田川」を意識した舞台上手の桟橋と、舞台中央、観客席に向かって傾斜した円形の「太陽光発電パネル」にも見える主舞台、舞台中央につり下げられた11本の光る管。構図・構造は力強く、同時に、能舞台のようなニュアンス。それが、照明の当たり方によって絶えず表情を変えていく
舞台奥のホリ幕にはおそろしく美しい「アンバー」とも「金色」ともつかない明かりが当たっていて、上演中、それが青や黒や黄昏の色に変化して見応えあり。
日本語でシチュエーションを告げるロボット「ロボビー」も、おまけで出てきたわけではなかった。冒頭のロボットのアナウンス、動きが、舞台上の出来事にぐいっとフレームを嵌めて、空間を締めていることに驚く。
細川俊夫氏の音楽も素晴らしい。平田のリブレットは、普段見る青年団の「現代口語演劇」の戯曲と比べればシンプルで骨太、微細なニュアンスでの勝負はしていない。口の悪い言い方をすると「編み込み」が足りない気もするのだけれど、音楽と編み込まれることで、立体感や深みが出ていて、「これがオペラか!」とうなる。
オペラ歌手だからといって、あの、テレビでよく見るような「わたしを見てー!わたしだけを見てー!こんなに歌の上手いわたしが美しい(悲しい)歌を歌い上げてるのよー!」なところは一切無い。変な物語や感情に奉仕するのではなく、作品にコミットして素晴らしい。特にカウンターテナーの男性は出色。

震災後の被災地に暮らす人々を描いており、そこに切り込む演劇ではあるけれど、「隅田川」をモチーフとして母親に焦点を当てながら、そこに入ってくる第三者としてドイツ人の男性を配し、彼があたかも「イザナミを追うイザナギ」(=冥府を訪れるオルフェウス)のように機能して、シンプルな中にも観客の目線を立体化する仕掛けが施され、一本調子の押しつけがましい芝居に陥らず、さすがは平田戯曲。それをとても良く理解していると思われる細川氏の音楽、ナガノ氏の指揮、歌い手達。クールで中身の詰まったパフォーマンス。

駄作には戯曲家に生卵をぶつけて応えると言われるハンブルクの観客、「熱狂的」ではないが、おべっかでない、圧のあるカーテンコールが長く続いて、日本人としてはちょっとほっとすると同時に、「うん、そうだよね、すごく良いオペラなんだよね、これ」とあらためて納得。

いや、素晴らしい体験だった。