2008年11月30日日曜日

モモンガ・コンプレックス ひとりでいたい

29/11/2008

横浜トリエンナーレ、idance 80's のパフォーマンス。

このテのパフォーマンスが面白いか面白くないかを測る一番のバロメーターは、子供の食いつき方なんじゃないかと思う。

5時開演だったのだが、横浜に疎い僕は場所だけ確認しようということで4時15分くらいに現地へ。そしたら丁度リハーサルの最中。それを観ている、とある姉妹(想定年齢5歳+3歳)の視線の熱いこと熱いこと。パフォーマー達から一瞬たりとも目を離さずに、
姉 一歩リングドームに近付く
妹 姉に倣って一歩踏み出す
じっと観る
姉 また一歩リングドームに近付く
妹 また一歩踏み出す
じっと観る
パフォーマー達退場すると、退場した方向に追いかけていっちゃって、オジサンとしては「おいおい、知らないおねーさんたちについて行っちゃいけないよ」なのだが、要は、それくらい面白かった、ということなのだ。

炬燵に集う女性4人の姿は、谷川訳マザーグースの「こぎだせしらなみ3にんおとこ」の挿絵を思い出させる。箱舟こたつ号が大四畳半の中で次第に加速し、くるくる舞ったかと思うと、そのまま大海原へと漕ぎ出していった。20分間でこの躍動、このカタルシス。楽しかった。

2008年11月29日土曜日

Studio Salt 中嶋正人

29/11/2008 マチネ

まず、「(刑が)確定したんです」ドドーーーン!!の音は良くない。あの音は、
① 死刑囚はもっと前の時点で刑の確定を知らされているから、彼にとっての驚きではない。
② 坊さんは勿論面会の前に刑の確定は知っているはずで、彼にとっても驚きではない。
③ よって、この「ドドーーン!」は、(この情報をここで初めて知らされる)観客に対する親切心、「あなた、ここで驚きなさーい。ドドーーーン」のサインであろう。
今日び、この展開、このタイミングのこの台詞で誰も驚いたりはしない。

平田オリザと大阪大学の石黒先生が共同でつくったロボット演劇のニュースが、おとといのニュース9で結構長く(10分くらい)フィーチャーされていた。その中で、観劇後の若い女性が、
「ロボットの見せる無駄な動きに感情を感じた」
というようなことを言っていて、この方が芝居を見つけた方かどうかは分からないけれども、かなり正確なポイントを突いている気がしていたのだ。
その文脈で言うと、この芝居で山ノ井史が股をかく仕草は、
「(創り手にとって)無駄でない=意味のある」動きであるがために、感情とか、リアルとか、そういうものを感じさせない。
すなわち、この芝居で山ノ井氏は、まっとうな演出さえ付けばロボットですらできることもできなかった(or させてもらえなかった)ということになる。もっと無駄に股座掻いていれば、もうちょっと違ってたはずなんだけど。

死刑制度をテーマに取り上げているけれど、それについてはここでは触れない。個々人で考え方は違うだろうし、作・演出の考え方を教えてもらいに劇場に行ってる訳ではないので。少なくとも、芝居としてはぬるかった、ということである。

2008年11月26日水曜日

青年団 冒険王 再見

24/11/2008 マチネ

アゴラ劇場の上段の席(3階ギャラリー)から観た。
2階の通常客席から観る冒険王が、ピッチの脇から観るサッカーの試合だとすると、3階席から観る冒険王は、同じサッカーの試合をテレビ画面で上から見下ろすようなものだ。

全体の奥行きと舞台の構成が俯瞰できて、大変面白く見た。
もちろん、サッカーでも芝居でも、ある程度「プレーヤー視線を共有する」ことで場に入っていく効果はあるので、舞台が俯瞰できるということは舞台から遠い、移入しにくい、ということにつながる。だから、一度ピッチの脇で見た試合を、今度はテレビの録画で見るようなもので、芝居の見方としては邪道かもしれない。

ベッドとではけ口が、舞台中央のアリーナを囲むように五角形を形作る。そのアリーナを横切って、あるいは五角形の辺に沿って、複数の視線が飛び交い、ぶつかり、あるいは捩じれの位置でぶつからずに飛ぶ。それが面白い。

役者に近いところから観ているよりも、ボールに触れていないプレーヤー(台詞のない、フォーカスの当てにくい役者)に目が行きやすい。二反田幸平や大竹直、鄭亜美や永井秀樹の小技がよく見える。それも面白い。

が、何より、この冒険王という芝居は、観客が舞台を観る視線が、舞台上の役者達の視線と微妙なところで共有できたりぶつかったりするように、舞台美術も演出も出来ていて、それが特にこの芝居の面白さに繋がっているんだ、ということが、逆に実感できた。それが、実は一番面白かった。

なので、この芝居を観たことない人には、3階席はお奨めできない。2階席で、時々役者と視線を共有しながら、また、時には部屋を覗き見する感覚になりながら、視線を行ったり来たりさせて楽しんでください。場所を変えて観ると、何度観ても飽きないですよ。

RTNプロジェクト 就活支援セミナー

23/11/2008

いささか旧聞に属することではあるが、23日、帰国子女のための就活セミナーに、パネリストの1人として呼ばれて行ってきた。

http://www.rtnproject.com/

僕自身は帰国子女ではなくて、むしろ仕事で英国に行くまで海外で暮したことは一切ない。しかも、就活なんてえ言葉がない時代に、しかも大学二留で 就職したので、今の就職活動の仕組みがどうなっているかについて全く土地鑑がない。こんな男呼んでどうするんですか、という感じで緊張して、半分開き直っ てでかけた。

詳しいことは書かないけれども、若い人に囲まれて、自分がすごく興奮していたことは覚えている。ひどく興奮すると訳わかんないことを、自分のコントロールできない範囲まで本音出して喋りまくる傾向があるので、今回もきっとそうだったに違いない。
それに比べて、学生達は、クールで真面目で、「仕事を通じた自己実現」という、僕が過去20年逃げてきた課題に対してとても真剣だったように思われる。

パネリストに最初に投げかけられた質問:
「あなたにとって仕事とはなんですか?」
にたじろぐ。
が、正直に答えよう: 「メシのタネです」「就職先で自己実現しようと思ったことはありません」「どうせならその場その場で仕事が面白い方がいい。その積み重ねが僕のサラリーマン人生です」

「なんだこの人?」くらいのインパクトはあったと思う。が、いかんせんそれだけだ。

バブルに踊る大学生のなれのはてを、いまどきの学生達はどんな目で見ていたのだろうか?今更気にしてもしょうがないのだが、気にはなる。

若さにあたったのか、それ以来ちょっと、「血潮がたぎるようなこと」ってなんかなー、と思ったりしている。

2008年11月25日火曜日

城山羊の会 新しい歌

24/11/2008 ソワレ

今回城山羊の会を観るのは3度目なのだが、今までの中で、(深浦加奈子さんが出演していないにも拘らず)最も好きな芝居だった。

前の2作が、なんとなく、ギスギスした人間関係の中でもネットリとした空間になっていて、それが、「芝居とは別のところを目指しているのではないだろうか」という疑念を抱かせたのに対して、今回は、乾いた、表面のざらついた芝居だったと思う。ディーヴァが出てくるのに。そこが良い。

もしかしたら、深浦さんが出ていないために、こんなざらついた仕上がりになったのかもしれない。深浦さんを観ない分、ささくれ立った表面に目が行ったのかもしれない。
あるいは、当パンに「稽古にはほとんど顔も出せませんでした」とあったので、それで、細部の味付け・お化粧のようなものが施されないまま本番を迎え、結果、ささくれ立った舞台になったのかもしれない。

いずれにせよ、芸達者の役者がこれだけ集まって、かつ、これだけ、「取り繕ってお化粧しない」芝居が観られるのなら、今後も見続けたい、と思わせた。

2008年11月24日月曜日

新転位・21 シャケと軍手

23/11/2008 ソワレ

中野光座、満員。当日券で入れてよかった。
飴屋法水氏が出演するというので観に行った、というのが正直なところ。去年のSPACでの「転校生」の演出が素晴しかったし、僕は東京グランギニョルは観に行かずじまいだったし。一体、どんな演技をされるのでしょうか?

が、芝居が、面白かったのである。秋田の畠山鈴香事件を題材にしたこの芝居、2時間半、ずっと、時計も見ず、お尻も痛くならず、じっと観ていることができた。もちろん、飴屋氏、大変面白かったのだけれど、僕は、観ている間、戯曲の力ということについて考えていた。事件当時自分が日本にいなかったため、事件の詳細について他の観客に比べて圧倒的に情報量が少ないという事情はあるにせよ、です。

だから、この戯曲は、山崎氏の演出を離れて、例えば、現代口語の他の演出家が演出しても、充分持ちこたえられるのではないか、いや、それは無理な相談なのだろうか、と考えてしまう。どうなんだろう?いや、でも、面白かったと思うんだけど。

飴屋氏が横を向いて台詞を言うたびに、長い髪の先が彼自身の息でふわーと揺れるのが、なんとも面白い。鈴香役の石川さん、殆ど正面を向かうことがないのだが、本筋と一見関係のない「三島さんの自殺」が伝えられるシーンで、下手でぼーっと正面を向いて座っていた、そのときの顔と照明の当たり具合が、忘れられない。

2時間半、休憩無しの芝居で最後までガッチリ魅せてくれる芝居は、近頃なかなかなかったので、(それが転位の芝居だったということも含めて)結構嬉しかった。

三条会 熊野・弱法師

22/11/2008 ソワレ

三条会の魅力を人に伝えるのには、どのように言えばよいのか?
近代能楽集連続上演を全て拝見した後での感想は、「三島戯曲って、本当は面白かったんですね」。それが分かっただけで、僕にとっては素晴しい体験なのだけれど、それをもって三条会の魅力です、といっても通じないだろう。

・ 役者が、変なんです。
・ 演出が、突拍子もなくて変わってるんです。
・ 役者の立ち、特に、女優の立ちが、美しいんです。
・ 山口百恵や井上陽水やレッド・ツェッペリンがかかるんです。

これでは、エリマキトカゲやウーパールーパーを他人に紹介するのと大して変わりがない...orz(生まれて初めて使ってみた。用例として適切ですか?)。

が、今回の三島シリーズで何となく僕なりにぼんやりとはいえ浮かんできたのは、
「演出家の解釈=この戯曲の意味は、実は、こういう意味だったんですよー。だから、それが分かり易いように演出してみましたよー。いかがですかー。僕ってすごくセンス良いでしょー、という説明」
と、
「演出家が戯曲を面白いと思いながら読んだ時のダイナミズムを、どうやったら観客と共有できるだろうか、という、仕掛け (仕掛けなので、説明なし)」
は、おそらく違うんだろうなー、という感覚である。もちろん、後者の場合でも観客は(特に三条会では)戯曲を読むプロセスを擬似追体験するのだけ れど、そこから出てくる解釈・妄想の結果については演出家は興味を持っていない。ただその「体験の瞬間のダイナミズム」だけに興味がある。

だから、観た後の感想も、「あれが変だった」「これが面白かった」であって、「あぁー、三島戯曲のテーマはこういうことだったんですかー、よくわかったなー」じゃないのである。
でも、そういう風に観れないと、芝居って面白くないんだよね。

以上、演出家の方々には既に自明のことかもしれないが(自明でない演出家も実際には7割くらいいるように僕には思われるが)、余計なことを言いました。

熊野、客演の桜内結うの動きが変で、思わず見入る。あの微妙な揺らぎ方は、三条会の役者と混じるとなんともいえぬ味わい。弱法師、(ネタバレなの で言わないが)盲目を逆手にとってフレームを変換。それに乗っかった俊徳の怪演が楽しい。桜間女史のブラウスは、あれは、手作りなのか、市販ならどこで手 に入れたのか。気になる。

繰り返しになるけれども、こういう三島作品なら喜んで何度も観たい、と思わせてくれたことに感謝、感謝。

2008年11月23日日曜日

パラドックス定数 怪人21面相

22/11/2008 マチネ

再演。初演を観てないので、この芝居は今回が初めて。
今回の決め台詞は、白砂の「私を、思い出すんだよ」。
うぉおおーー、それ、言わせますか?しかも、ちょっとタメを置いてから。
2年近くにわたり、作・演出の真の意図とはおそらく100%無関係に展開している、「パラドックス定数やをい演劇説」を全面的に裏付けるべたべたな台詞が・・・

野木氏の芝居をこういう風に「期待しながら」観るのは、芝居の観客として最早よろしくない段階に来ていると、我ながら思う。
次回以降は、もっと「テクニカル」に芝居と役者の動きを追わないと、流石にイカン。

某氏からは、高村薫氏の秀作「レディ・ジョーカー」の萌えっぷりとどこがどう違うのか?との質問を受けた。あ、そうか。グリコ・森永ネタのやをいといえばレディ・ジョーカーが横綱ですな。この芝居では、作・演出は、「敢えて」高村氏と同じ素材を選びつつ、別の切り口で力強い妄想力をもって別の物語を創り上げることができることを示した。と僕は評価する。

それでは、芝居として、演技を見つめる中からの想像力・妄想力を喚起させる力はどうか?そこがやっぱりいまひとつ判然としない。困ったものです。やはりここでも、僕の「芝居の見方」が試される局面に自分が置かれていると感じる。

2008年11月18日火曜日

観劇と想像力 再び東京デスロックのカステーヤについて

最近、知人の日記を読んでいたら、こんなことが書いてあって、月並みではあるが、目から鱗が落ちた。「今更そんなことに気がついたのか」と言われちゃうかもしれないけれど。

http://www.letre.co.jp/~hiroko/diary/Oct2008.html#1029

ちょっと長いけれど、該当部分を引用させていただくと、

「登場人物についての情報が増えていかないシーンでは、観客は、この登場人物2人はどんな関係なんだろう?と想像をどんどん膨らませていく。でも無制限に興味を持ち続けることはできないから、あまりにも情報の増えない状態が長いとあきてしまう。かといって、最初から情報を与えすぎると、説明的なつまらない作品になってしまう。客席に届く情報をうまく操作して、観客の想像力を適度に広げたり、それが広がりきってしまう前に狭めたりするのが演出家の仕事である。観客の想像力がどこまで広がり得るものかという幅は、商業的な演劇では狭い(=わかりやすい)し、実験的、前衛的な作品では広いが、いずれの場合でも、観客の想像力の幅は注意深く見積もる必要がある。特に実験的な演劇の場合ありがちな間違いは、観客が自分と同じ想像力の幅を持っていると思い込んで作品を作ってしまうことだ。観客の想像力を考慮しない作品は、ペンを1本舞台上に置いて「可笑しい」と笑い転げているようなもので、共感を呼ぶことはできない。」

東京デスロックの "Castaya" を観て以来、自分にとって芝居が面白いということがなにかについて考え続けていて、実は、秘かに思っていたのは、
「もし多田淳之介が、何もしゃべらない役者じゃなくて、何もしゃべらない椅子を舞台の上に45分間置いて、それが芝居だと言い張ったら、それでも自分はそれを面白い芝居だとして観ることが出来るだろうか?」
ということだった。いや、もっというと、その感覚は、昨年の "Love" で、自分の想像力の幅を "Love"が超えかかっているのを感じて以来、ずっと続いていた、といってもよい。
それに対し、 平田オリザ曰く、「極端にそれをやったら共感を呼ぶことは出来ない」。そうか。そうだよな。言われてみれば。

誤解の無いように言えば、「想像力の幅」というのは、「想像力の絶対値・偏差値」ではなくて、「想像力の働く帯域」である。個々人で、想像力の働くきっかけとか、ジャンルだとか、そういうものが異なるのであって、その、「想像力の帯域」の違いに無頓着な芝居は、いわゆる「客を変に選ぶ」芝居になっちまう、ということなのだろう。いや、もちろん、小生の遠く及ばぬ妄想力をお持ちの方も、数多くいらっしゃるのは分かってますが。

ま、一方で、「観客が自分と同じ想像力の幅を持っていると思い込んで作品を作ってしまうこと」は、実験的な演劇に特有の現象ではなくて、実は、大抵のテレビのディレクターやつまんない芝居の演出家達は、①観客は自分と同じ想像力の帯域を持っているor持っているべきである ②観客の想像力の絶対値・偏差値は、自分の想像力の絶対値・偏差値より低い(自分のほうが感度が高い) と思っているフシがある。あるいは、もっとひどいのになると、観客の想像力の帯域・方向感を、自分のこれと信じる方向へと「矯正」「教育」してくれちゃおうとする人たちもいる。「この~うたは~~、悲しい歌だよ~~、さあ、泣け~」系のミュージカルとかはそうだと、僕は思う。

逆に、ケラリーノ・サンドロビッチ氏のキャパシティはすっごく広くて、あらゆる想像力の人々がアクセスできる帯域の芝居を作ってしまう。そのサービスは、すっごく長い上演時間になって現われてしまう。

等々、この、「観客の想像力の幅・帯域」というフレーズを軸に考えると、時として混濁しがちな自分のスタンスについて、整理がつけやすそうな気がしたので、ご紹介しました。

それにしても、こういうことを整然と考えているところに、平田オリザの凄みというか、ズルさというか、を、改めて感じる。こういう軸を過たないからこそ、青年団の芝居は誰にでも進められる水準を維持できるのか。なるほど。

2008年11月17日月曜日

五反田団 すてるたび

16/11/2008 ソワレ

役者が舞台上で「ぜーはー」していると、「ははぁーん、余裕が無い、とか、絶望的、とかいう演技ね」と即思ってしまって、一気に冷めてしまうのだけれど、黒田大輔は「ぜーはー」が許されてしまう日本で唯一の役者なのではないかと思われるほどに、ぜーはーしても、ぐしゅぐしゅしても、嫌味が無いというか、面白いというか、見てて飽きない。

そもそも、ぜーはーしているのが、演技なのか、子供の遊び的ぜーはーごっこなのか、何なのか良く分かんないし、ぐしゅぐしゅしてても、泣いてる演技なのか笑ってるのか良くわかんないのかただの洟垂れなのか、全く分からない。

そういう懐の深さがあるので、冒頭の仕草(ネタバレになるので明かさない)が何だか分からないところから出発して、実は最後に辻褄を「合わせようと思えば合う」、(でも本当のところはわかんない)、ようになっているのが、予定調和でなく見られた。

そうやって、予定調和でないところへズレていきながら、実は一つの環に収まっている(ようにも思われる)ところへと観客を引っ張っていく手管にシビれた。こんなに片付いていてパンチの綺麗なアトリエヘリコプターは初めて見たのだけれど、そういうシンプルな舞台で4人でバッチリ魅せてくれる力にも感謝。

当パンに「劇作家として思春期に入っている」ということが書いてあったけれども、それは丁度、12年目の青年団「冒険王」初演の当パンに、平田オリザが「いよいよ書きたいことが尽きて、書きたいことなど何もない。でも書く。という状態になってきた」と書いていたのと、年齢的に奇妙に符合するように思われる。
(そしてその文章を、前日の「冒険王」のアフタートークで多田淳之介が読み上げたのもまた奇妙な符号ではある)

その後の平田の仕事ぶりを思い返すにつけ、今後の前田氏の歩みが大変楽しみな局面に入ってきている。と思う。

2008年11月16日日曜日

青年団 冒険王

15/11/2008 ソワレ

初日。
当日パンフには「過去2回の公演に比べて、明るい、積極的な冒険王」とあったが、観た印象も、カラッと、クリスピーな仕上がりと感じた。
僕は、冒険王については1996年のアゴラ初演を観たきりなのだが、そのときに比べると、やはり、イスタンブールに「一時」停滞している人たちが、考え込むよりも、アクションが先に出る人たちとして描かれている印象である。

それは、良し悪しではなくて、やはり、時代の空気とか、役者の持っているものとかによるのだろうけれど、個人的には、永井秀樹の「場の御し方」に かかっているところが大きいような気がした。永井氏がこういう使われ方しているの、あんまり観た記憶がないけれど、こういう演技を観ると、やはり、力量の ある役者だと感じる。

小生は下手の「火宅夫」「追いかけ妻」ポジションで拝見したが、中盤、能島・二反田の会話のシーンでは、不覚にも涙が出た。初対面の2人の、なん ともいえない状況での視線の絡み方と、2人がそれぞれに抱えているバックグラウンドへの想像力が、舞台を対角線に走る視線から、パァーッと広がる一瞬が見 えた、気がした。そういう、ちょっとした瞬間の演出が、平田オリザ、上手いのだ。もちろん、それをいともた易く演じてみせる役者陣も素晴しいし。

アフタートークで山村崇子さん出演、あんなに沢山、しかも楽しそうに、芝居の話をする山村さんもひさーしぶりに観た気がする。それもよかった。

平田芝居には、「行き止まりになりかねない場所」が数多く出てきて、それは例えば、「S高原から」だったり「ソウル市民 - 昭和望郷編」だったり「眠れない夜なんかない」だったり「南へ」だったりするのだが、この「冒険王」は、半分はそういうテイストを持ちながら、そこから、 半歩or一歩前に出ようという意識を感じさせる芝居である。最初期の「欲望という名の林檎」は、大内主税が船のへさきにいる場面で終わっていて、そういう 意味では、一歩踏み出すところまでを描いていたけれど、今後、「一歩先に行ってしまった人」を戯曲に書いたりはしないのだろうか?そういう芝居を、説教臭 くならず、野田秀樹臭くならずに書くのは難しいのかもしれないけれど、いつか、見てみたい気もする。一歩踏み出すことすら、それが本当に前向きなのかどう なのかも分からないはずで、そういう場がどこかにあってもいいんじゃないかな、と思ったりもするのである。

シアタートラム 「友達」

15/11/2008 マチネ

期待とがっかり度のギャップという意味で、今年ナンバーワンの芝居。2時間15分、「早く終われ」が9割、「万が一面白くなる可能性もある」が1割で過ごした。

「(「友達」を)読み始めた頃の私は、必ずしもそうは(「友達」という戯曲がとても面白いとは)感じていませんでした。」
という当パン上での岡田氏の意見は、率直だし、共有できる。また、
「暴力についての問いかけであるらしいということ、それはまあおいといて、目の前の上演行為、役者がそこにいること、そしてこの劇場の中でパフォーマンスをするということを、まずは何よりも見て下さい」
というくだりも、圧倒的に正しい。僕のような「虫の眼」の観客にとっては。

でも、上演の面白さは、名の売れた俳優の紋切り型やヨガやちょっとした奇態なポーズや気取ったポーズにあるとは、僕にはとても思えない。俳優達本人どもが「どうです、これ、面白いでしょう」と気負って、あるいは気取って観客に提示してみせる動きや台詞回しが、観客の想像力の可能性を開くのではなくて、却ってそれを細らせることについては、演出・俳優、どう考えていたのだろう?取り立てて若松氏をけなす目的で言うのではないが、ヨガのポーズで台詞を言うことは、ちっとも面白くない。上海雑技団を呼んできて台詞言わせたほうがよほどアクロバティックなことが出来るはずで、でも、岡田氏がそれをしなかった理由は、(プロデューサー側の事情とは別に)きっとあるはずなのだ。

前半、上手奥のベンチに腰掛ける呉キリコのたたずまい、良し。柄本時生の脱力感、良し。ただし、稽古中はもっとよかったに違いない。稽古中に良かった自分を「なぞる」作業に入っている気配が臭ってきた。

個々の役者が台詞を言う前に、必ず、2秒ずつくらい、間を入れていた。
これは、「現代口語演劇」では詰めさせられる「間」なのだけれど、僕には、恰も、「友達」の上演に名を借りた、現代紋切り型ショー、まるで歌謡番組のように1人ずつ役者が自分の台詞を披露する、キッチュな見世物のようにも見えたのだ。だからこそ、役者達は客席に向かった面を切っても、媚びるような視線を客席に投げかけても許される。そうした、グロテスクな、2次元家族バラエティショーのようなものを生み出そうとしていたのであれば、全てを抱え込むフレームとして納得はいく。でも、少なくとも役者人たちはそれに自覚的ではあるまい。

2008年11月15日土曜日

多和田葉子+高瀬アキ 飛魂II

14/11/2008

木曜日の日経夕刊生活欄の舞台ガイドに控えめに3行、「多和田葉子+高瀬アキ」とあって、偶々そのページを開かなかったら後で地団駄踏んでいただろう、その場でシアターXに電話で予約。よかった、チケットまだあった。

ともにベルリン在住の小説家とピアニスト。高瀬アキさんは、僕がまだジャズライフとかスイングジャーナルとかをジャズ喫茶で読んでたころから日本 で活躍されていたが、ベルリンに移り住んでいたとは知らなんだ。多和田さんは、いわずと知れた現代日本で最もすぐれた小説家・ライターの1人で、中でも 「飛魂」は、小生最初の2ページを読んでぶっ飛んだ、生涯に読んだ小説の中で五本の指に入る傑作。多和田氏が幅広く朗読パフォーマンスをしていることは 知っていたが、(そして去年の『飛魂』)は聞きにいけず地団駄踏んだのだが)、「飛魂II」と来ては、何もかも振り捨てて聞きに行かずばなるまい。

予想に反して、会場、一杯ではない。おかしい。
最前列中央に何の臆面もなく陣取る。隣の女性二人組み(1人はアメリカ人、もう1人はドイツ人のようなアクセントでしたが)が話をしていて、どうやら、飛魂は絶版、ヤフオクで1万円で手に入れた、とのこと。おかしい。あんなに素晴しい小説が、絶版ですと。

高瀬・多和田両氏登場。多和田氏第一声。予想していたのと声が違う。思っていたよりも低いところの倍音が豊かで、芯がある。The Go! Teamで強調されるような「日本人っぽい」発声からは離れた感じ。

朗読なんだけれど、ピアノと言葉が絡んで、どうも多和田氏、「テクスト」でなくて、「楽譜に記譜された言葉」をうたっているようだ。そういう目の 動き。だから、テクストは読まれていると感じる時もあるし、まるで組みあがったレゴをちっちゃな固まりごとに外して放り投げていると感じる時もあるし、 もっとちっちゃいパーツで遊んでいると感じることもある。ピアノに「乗せて」コトバをうたうのではなく、ピアノはあくまでも一連の繋がった文章をばらばら に砕いてしまう溶媒のように作用して、それを多和田氏が新しいカタチに組みなおしてくれるのだ。

まるで、「ヘビ遣い」ならぬ「コトバ遣い」が、つぼの中からコトバを呼び寄せて、ステージの上で踊り、くねらせている印象である。これは、楽し い。飛魂のパートでは、本のページの上でもぞもぞと動き出した文字どもが、コトバ遣いの手によってページから(封筒から剥がされる使用済み切手のように) ふわっと剥がされて、音となって、観客席の聴衆の耳の穴めがけて飛んだいく気がする。それも楽しい。

1時間20分、本当にあっという間に終わった。こんなに素晴しいコトバとの接し方が出来るとは。

2008年11月11日火曜日

ひげ太夫 熱風ジャワ五郎

09/11/2008 マチネ

初見、千穐楽。

いやいや、楽しかったっす。そして、「芝居」という、大人が必死こいて本気でやる「ごっこ」が、「ごっこ」である故にこそ必死こいてやらなきゃならないもので、その「ごっこ」の世界に、「ごっこ」であることが分かっていてなおかつ没入できる素晴しい観客がいたときに、素晴しい場が共有できるのだということを改めて感じた。

「芝居のごっこ性」が創り手にも観客にもきちんと自覚されるときに、ぐぐっと場がひとつになるというのは、青年団の芝居でもそうだし、他の現代口語演劇でももちろんそうだし、唐さんの芝居でもそうだし、この、ひげ太夫の舞台もそうなのだ。

だからこそ、僕の後ろに座ってた小学生は、ぐいぐい舞台に引っ張りこまれる気配を放っていたし、驚いたことに、僕が全く反応できないシーンで、大うけに受けていた(確か小学校に行きたいとか行きたくないとかいうくだり)。要は、大人の押し付けでないコンテクストの中で、ほんとに楽しんでんだな、というのが、よーく分かったのだ。だから、僕も僕で、自分が面白いと思ったシーンでは存分に笑わせていただいた。

本当に、説教臭くて芝居も臭い、オレが小学生の頃に体育館や北区公会堂で見せられたあの子供芝居はなんだったんだろーなー、と思った次第である。あー、今の子供がうらやましい。

2008年11月9日日曜日

岡崎藝術座 リズム三兄妹 再見

08/11/2008 ソワレ

最初から最後まで、食い入るように観させていただいた。
エレベーターがのぼってきて、俳優のサカタが登場するところ。姉の登場、同居人の登場、巣恋歌の登場、兄の登場、妹の登場、ショウコの登場・・・全てにおいて、「観たくないシーンが無い」!ということに、終演後気がついて、愕然とする。「無駄がない」という言い方をすると、恰もかっこよく、演出家の意図に沿ったものしか置かれていないような聞こえ方をするかもしれないが、いや、実際、意図に沿ってないことは起こらないのだけれど、でも、ノイズというか、「リズムのズレ」までが、そこになければならないズレとして配置されているように感じられた。
で、その先は、観客に跳べと、舞台が言っている。

舞台の上・中央・下に役者が分散して同時平行で演技が進むところも、普段なら、観客の意識を散らそうとする試みとして冷静に見られるのだけれど、今回は、「どこも観ていたい!もったいない!」と思ってしまう。

内田慈さんは、みーんなが誉めている通りで、全く素晴しい。が、個人一押しはやっぱり白神さんで、前半の「リズムな生活、ん、そーーーーーっ」までで、実は芝居全体の半分以上を使っている。そこが素晴しいからこそ後半が生きるのだ、と力説したい。もちろん、役者についても、誤解を恐れずに言えば、「過不足が全くない」。

2度見なのに、やっぱり1時間半やられっぱなし。

リズムのずれと言っても、縦と横とそこからはみでる立体と言ってもいいんだけれど、それは、僕が舞台で感じたいところの、「戯曲・演出・演技」の構造が掬おうとしてこぼれ出る「破れ」「裂け目」のことではないかと。そういう裂け目が、リズムを突き詰めようとするところから、ピリッと生じて、それは、岡田利規氏がこの間60年代演劇のシンポで言っていた、「90分間の世界を創り上げること」に極めて近く、しかも、そこに裂け目を生じさせているという意味で、既にその先に在る可能性を秘める。と、僕は思う。

2008年11月8日土曜日

クロムモリブデン テキサス芝刈機

08/11/2008 マチネ

終演後、階段を降りて帰ってたら、(おそらく)スラブ系のお母さんが、3-4歳と思われる息子を思いっきり怒鳴りつけて、息子大泣きだった。その最初に飛び込んできた言葉が、「気をつけてって言ったでしょ」に聞こえて、妙だったな。それが収穫。

一体、「芝居が面白い」とはどういうことなのか、考えてしまった。僕の考える「芝居の面白さ」を100%共有できる人間がいるとは思わないし、いたら、お前オレかよ、って感じで気持ち悪いし、まぁ、少なくとも、僕と「芝居の何が面白いか」について意見の異なる人はこの世に60億人は軽くいるはずなんだが。じゃあ、僕と若干なりとも近いところで会話が出来る人(どこが同じでどこが違うか、という話が出来る人)がどれくらいいるのだろうか、と考えたときに、結構心細くなるような舞台ではあった。

2008年11月6日木曜日

多田淳之介+フランケンズ トランス

05/11/2008 ソワレ

80分間の公演を観ながら考えたのは、やはり、鴻上尚史氏の戯曲は余計なものが多くて、説明しなくてもいいことを説明して、面白くもないことをさも面白いように押し付けがちな戯曲なんだ、ということだ。そのまま上演しても、おそらく、何の想像力=妄想力も刺激されず、一愚民として役者の芸を受け入れて終わる、ってことになっちゃうんじゃないかと思うのだ。

この説明過多な戯曲と較べて、多田自身の手になる「3人いる!」が、いかにシンプルな中に想像力を刺激する仕掛けを巡らせた、読む/観るに堪える戯曲であるか、ということが良く分かった。でも、多田氏は、自分の戯曲の方が面白いのをひけらかすためにこの上演を仕組んだのではないのだ。

あえてトランスを「仕掛けつきで」上演することによって、そこから生まれてくる面白いものもあるに違いない、という確信があるんだと思う。つくづく、多田淳之介も、業が深いというか、欲が深いというか、まあ、とんでもない芝居好きである。


<ネタバレあり注意>

そんな戯曲を上演するに当たって、多田淳之介は、桑田佳祐とか、松任谷由美とか、「瞳を閉じて」(って、誰が歌ってるんですか?)とか、くるり、とか、これでもかとばかりに記号な音楽をかけまくるのである。

歌謡曲に乗って説明される紋切り型な台詞やシチュエーションは、まさに、目隠しをされた4人の役者によって演じられることで、「紋切り型が演じられるシチュエーション」という、(ううっ、陳腐な言い方ですまんが)メタな構造を与えられる。

かつ、4人の役者が3人分の台詞を分けあって、どの役の台詞を誰がしゃべるかもシャッフルしてある。要は、「誰が本当に誰なのか」は、分かっても分からなくても良いようになっている。

そうやって、①観客を分かりやすいストーリーで引っ張る必要はないのさ、ということ、②鴻上戯曲にもう1つ上位の枠を嵌めることで、ストーリーで引っ張られない観客に、想像力のきっかけを与えることが出来るのさ、ということ。
この2つを試そうとしているのか。
あ、そうそう、お客がストーリーに寄りかからなくてもよいように、多田氏、開演前にトランスの物語を全て説明してくれるのではある。

でも、やっぱり、自分としては、自分の妄想力を引っ掛けて一段上に跳ぶきっかけは、つかめなかったなぁ。終盤の「サンゾウ」の長ゼリではきっかけが一瞬見えた気がしたが、コンディションもあるためか、我ながら不発。もったいなかった。

で、そういう自分を振り返るにつけても、やっぱり、「3人いる!」の方が面白いんだよなー、なんでわざわざトランスをやるのかなー、なんて、自分の妄想力不足を人のせいにしたがっちゃったりするのである。この戯曲・この演出が「ドンピシャ」に来た人もいるはずで、今度そういう人の話も聞いてみたい。

2008年11月5日水曜日

ハイバイ オムに出す 偽キャスト追加公演

03/11/2008 ソワレ

「舞台上で起きることが、毎回毎回、初めて起きることのようにできたらいいのに」
というのは、昔から芝居の創り手にある願望で、20年位前に、柄本明さんの演技がそういう風にほめられているのを聞いたことがある。

それに少しでも近付くためにかどうかは知らないが、今回岩井秀人がとったのが、
「出来上がった芝居で1人だけ役者を入れ替える」
作戦である。うむ。この作戦、どこまで上手く行くか、見てやろう。

と、格好良い能書き垂れて観に行ったわけではなくて、実は、「ヒッキー」の妹役を篠田千明が演じると聞いて、
「ひょっとしてこれは、キュンとくるのではないか」
と思ってしまったのである。それで観に行ったのである。端田新菜や中川幸子もぐっと来たのだけれど、ひょっとすると、篠田妹だと、とんでもなくキュンと来るのではないか、と期待したのである。

結果としては、面白かった。でも、キュンとはこなかった。篠田妹の「違和感」「異分子感」は常にあったのだけれど、それは、「舞台上の事件が毎回初めて起きることによる、どっちに転ぶか分からない危なさやワクワク感」とは違っていて、篠田が「あれ、こんなとこいて良かったんだっけ?」と感じていると思われる感じ、そのザラつき感を味わった印象。

岩井氏出演の「落語編」も、岩井氏が上手なためにやっぱり妙に平衡が取れていて、「破れに近い」という妙な緊張感は、残念ながら、なし。

しかしまあ、「面白いものをより面白く」するために、色んなことを考えるものだ。なんとも業の深いことである。

2008年11月4日火曜日

多摩川劇場 山下号(ゲネ)+中野号+再び柴号

03/11/2008 昼

9時開演の岡崎藝術座、朝公演が終わるや否や、東横線に乗り込んで一路多摩川駅へ。多摩川劇場、中野成樹組「欲望という名の電車をラップにしようとする男の害について」の整理券を取りに並ぶ。さらに、1時のゲネプロ回も観れることがわかったので、山下残組の「会話レス、電車音」も観ることにする。

「多摩川劇場、全3本制覇。」

誰に誇れるものでもないだろう。ま、その日、本当に自分はヒマだったのだ、ということは証明されるが。

山下号、台詞無しの振り付けのみ。うーん、個々の動きは面白いんだけど、それらを繋ぐ糸が見えないと、更に、電車の両方向を首を回してみていると、フラストレーションが先に来たかも。自分はどうしても「コンテクスト」を求めがちな観客である、という、いつもながらの限界に突き当たる。

中野号、車内のおばさんとラッパーおにいちゃんの口論が、いつしかスチャダラパーに乗ったラップになっちゃうというお話。日常会話のリズムとラップとの臨界点を探るという意味で柴幸男の傑作パフォーマンス「御前会議」に似るが、いかんせん柴が1時間20分掛けてやったことを10分でせにゃならんハンデは大きくて、「御前会議」のサトルさは無い。が、インパクトは充分にあった。多摩川の駅で、4-5歳児が、両手突き出して、リズムに乗った言葉を吐き出しとったよ。

で、その足で多摩川駅の改札を出て、柴号のおまけ編に乱入。プラレールが繋がっていく様を、再度、今度は見物人としてみる。それも面白い。本当に面白い。
人と人との「絆」なんて、所詮コンテクストの中でしか成り立たないんだけれど、柴号のパフォーマンスは、そのコンテクストの接点を、プラレールの継ぎ目に凝縮させて、その場その刹那の知らない人同士、偶然多摩川線に乗っちゃったというちっちゃな「絆」を、景色の変化というもう少し大きなカタルシスに繋げて、一生忘れ得ない風景を刻み付けてくれた。

今日、通勤していたら、今度はその風景の変化に、「お店さん」「天気さん」「白猫さん」「過去さん」の台詞がふと重なって、涙出そうになった。プラレールの発想だけではなくて、もう一発仕掛けがあったのだ。それにも驚いた。

岡崎藝術座 はやねはやおき朝御飯

03/11/2008 朝

早寝早起きなら任せろ。毎日5時半に起きて通勤し、土日でも下手すると6時に目が覚めちまうオレ様だぜ。ということで、9時開演、朝食付きの岡崎藝術座朝公演へ。・・・結構こんでるぞ。と。みんな、好き物である。

が、そんな猛者どもの期待に応えて、いや、期待を上回って、無茶苦茶笑わせていただいた。ほんと、こんなにすごい役者どもが、嬉々としてこんなに くっだらねー観客巻き込みパフォーマンスに邁進して、しかも一時も手を抜かず。朝の元気炸裂する劇魂パワーにただただ目を瞠り、口をアングリ開けた。

<以下、全文ネタバレです。観る予定のある方はぜったいに読まないで下さい。>




奈落からリズム三兄妹が生首出して歌い始めた時点で、もう、笑いが止まらない。これ、すごい。すごい。内田慈さん、素で笑ってませんでしたか?涎 ちょっと垂れたりしてませんでしたか?目覚ましで起きた西田夏奈子がアゴラの外に飛び出していくと、観客いじりと思いきや、無作為に5,6人客を選んで奈 落へ突き落とす間、必死で間をもたす白神未央が素晴しい。

この、「比較の問題として」普通の人により近いところにいる3人組が導入したこのパフォーマンスは、なんと、奈落の底で待ち受ける変態社長とマ ネージャーによって観客全員による朝食会へと変貌。朝食60食分、すみませーん60回分でラ○チハ○スは大繁盛、休日の朝の静かな散歩をいきなり西田にか き回された駒場商店会の老人達は大迷惑である。
(ちなみに、この朝食作りでつかれきったと思われるラ○チハ○スのお兄さんは、夕方カウンターに突っ伏して居眠りしていたよ。僕が弁当頼もうとして声かけたら、真っ赤な目をしてすみませーん、だったよ)

そして、この、駒場の路上で歌う巣恋歌が変態社長に見出され、渋谷ハチ公前でデビューリサイタルやってこのパフォーマンス終わるのだが、電車で移 動する間も、リズム三兄妹はなぜか「り」で終わる言葉ばかり出てくるしりとりを続行。「り」で終わる言葉には当然「リズム!」で受けるお約束に、電車の中 でも渋谷の駅でも笑いがこみ上げる。

心底楽しめる、三連休の最終日の朝を飾るにふさわしい公演だった。9日の回はもう売り切れ間近らしい。朝に自信のある人もない人も、ガムばって行って見てください。元気な日曜になること請け合いです。それか、午前中でアドレナリン出尽くして力尽きるか、どっちか。

2008年11月3日月曜日

岡崎藝術座 リズム三兄妹

02/11/2008 ソワレ

くらったくらった、がつんときた。こりゃ面白い。
でも、何が面白いのか、説明しづらい。

俳優サカタに度肝を抜かれ、その、テレビ見てるぞ目線とともに微妙に変化する首の揺れにまずやられる。
リズム・ドランカー白神未央のテレビ見てる目線もまたみてて飽きず。
鷲尾・内田慈の兄弟会話、その微妙な掛け合いの「リズム」が、狙ってるのか狙ってないところにずれているのか、興味深い。
巣恋歌、バイオリン、むちゃ上手いですね。かつ唄も上手い。良いバイオリン使ってました。
あぁ、役者一人一人挙げてると長くなるのでもう一箇所ずつ、一人ずつほめるのはやめるが、要は、役者見てて飽きない。
しかも、「リズム」なんだから、ミュージカルもありだ。そこら辺のキモチ悪さを一身に引き受けて、自分のペースで舞台に上げてみせる乱暴さこそ、神里芝居の真骨頂。

でも、それを、「乱暴だから面白い」と片付けてしまうのは良くないと、自分で思う。もう一度観に来たい。

多摩川劇場 川のある町に住んでいた

02/11/2008 マチネ

マチネ、というか、東急多摩川線を舞台に、1日1本の回送電車を使ってそこで芝居を上演しようという企画なので、時間も、昼間の電車の運転間隔が 比較的長い時間帯、ということである。その上3両編成の電車で3つの座組みがあるので、2日・3日の2日間2回公演では、3つすべてを見ることはできない 計算になる。

11時に整理間発行開始、10分前に行くとすでに16、7人並んでいて、うむうむ、多摩川線で大々的にキャンペーン張ってなかった割には盛況じゃないですか。その場で柴号・中野号・山下号とあるが、小生迷わず柴号を選択。

1時35分に蒲田駅プラットホームに集合。列を作って電車に乗り込めば、最後尾の柴車両の床にはクレヨンで描いた絵が敷き詰められて、その上をプ ラレールが一本、車両を縦断して敷かれている。日ごろ多摩川線を通勤電車として使っている身としては、何ともいえぬ異空間が広がっているだけで、すみませ ん、かなりテンションがあがった。こんな多摩川線、今後100年は拝めないぞ、と、何枚も携帯で写真を撮る。

2時きっかりに出発進行、開演。そうです。この芝居には、「開演が押す」ということはありえないのです。ダイヤが乱れちゃうから。多摩川に向かう 間に、とあるカップルと多摩川線君、それに、多摩川線沿線の住民の皆さんとの会話があって、と、さすが3両編成、7駅しかない多摩川線だけあって、ろく すっぽ話も展開しないうちに終点多摩川についてしまうのだが、その間に外からこの芝居電車を見る人たちの視線が何とも面白い。だって、電車が駅に着いたと 思ったら、回送で乗れないし、かつ、人がたくさん乗ってるし、かつ、変な人たちがのっている。床に絵とオブジェが散らばっている。その内側にいる幸せ。

多摩川についても芝居は終わらず。川を見たことがないという多摩川線電車君を、浅間神社の上まで連れて行ってあげる。プラレールをつないで。大人 も子供も、一生懸命になってつないで、坂を上る。途中、カーブではちょっとずるしてワープする。それがもう、楽しい。神社の丘の上について、多摩川が見え る。そのカタルシス。

駅から3分歩いて、ちょっと高いところから川が見えるってそれだけのことなんだけど、それがとてつもなく楽しい。

芝居が終わって、多摩川の駅の改札をくぐったときに、何だか三文小説みたいで恐縮だが、一瞬、眼がくらんで、年間500回は確実に通過しているは ずの多摩川の駅が、何だか、別の場所のように思われたのだ。その一瞬が僕にとってはとても大事で(だって、そういう、クラクラっとくる芝居って、そうそう あるもんじゃない)、柴氏と役者達には、その一瞬のお膳立てをしてくれたことについて、いくら感謝してもしたりない。そういう芝居でした。

2008年11月2日日曜日

ハイバイ オムニ出す

01/11/2008 終日

6月の「て」が素晴しくて、いまや調子に乗っているに違いない(と僕は勝手に決め付けている)岩井秀人のハイバイが送るオムニバス4本立て公演(本当は一回に2本立てなので、今日も、マチネ・ソワレ通しで観て4本立て)。

リトルモアのチラシでは岩井氏「『て』は自分が客として面白かったかというと、大いに微妙だった」と書いていて、それはとても意外だった。つくづく、芝居に関して欲が深いというか、業が深いというべきなのか、
一観客の僕としては、岩井秀人の劇作が「て」でぴょこっと1つ上の次元に跳ねて出て、で、それでもって、周りを見回してみたら、なんだかやっぱり面白そうなものがあった、というのがこの、「SF・落語・いつもの・フランス」に繋がったのかなー、などと考えて観に行った。

SF「輪廻TM」では役者の上手さに舌を巻き、落語編では思いっきり岩井マジックに嵌められギャフンと言わせられた上に、夏目慎也、折角前回の演劇Loveで客演希望を打ち出したらその結果がこれかい、みたいな楽しみもあって、楽しい。ヒッキー・カンクーントルネードはもともと大好きな戯曲だが、やっぱり、何度観ても良い。
フランス編、「コンビニュ」はヤン・アレグレの「Hana no Michi」のパロディなんだけど、でも、コアになるモチーフが自己満足でない分(いや、っていっても、「謝るか謝らないか」っていうひじょーにくだらないことなんだけど、でも、やっぱり、「京都で1人、孤独なおれ、おしゃれかも?」とは比べ物にならない)、モチーフが透けて見えたときに恥ずかしくない。

と、なんだかんだで一日、とっても楽しかった。こういうの、とっても有難い。