2010年8月26日木曜日

ロロ ボーイ・ミーツ・ガール

18/08/2010 ソワレ

初日。
おそらく既にたくさんの人から誉められていることは間違いなく、今更僕が誉めてどうということもないし、そもそも僕が誉めたりけなしたりしたからといってどうということもないのだろう。華のある役者に気の効いた演出、2時間飽きさせない趣向は非常に上手で、でも、何かしら留保をつけたくなってしまうのだ。

観ている間「死が二人を分かつまで」というフレーズが何度も頭の中に繰り返し浮かんだ。田中佑弥が演じる「連続殺人鬼」は、だれかれ構わず不条理に僕ら全てを襲う「死」そのものである。死は不条理だからこそのオールマイティーさを授けられている一方で、「愛してる」に溢れるこの芝居の中にあっては、常に「不条理に不特定の二人を分かつ」という極めて重い役割も課せられる。

一方、「死の不条理」に対峙するカウンターウェイトは「理不尽な愛」こと板橋駿谷の好演。後半の「死の不条理」vs「理不尽な愛」対決はこの芝居の大きな見せ場だったと思う。

けれども、一方でこの芝居を「べったべたの惚れたハレたを気の効いた趣向でコーティングしただけの2時間」と読んでしまうこともまた無理筋ではない。

この芝居は百太の100回目の別れで始まり、101番目の恋に(そしてその波及効果として過去の100の恋についても)百太がスーパーポジティブになって終わるのだけれど、(そしてあの死の不条理すらも「好き好き大好き」パワーによって乗り越えられてしまうのだけれど)、僕の目には(そしてこの点については娘も同意見です!)この後のシーンは百太の101回目の別れへとループするのは100%確実のように映ったのだ。百太がやっぱり101人目の恋人も「理由を上手く説明できないまま、100番目の恋人と同様に」ふってしまうのならば、そして、100回目の別れと101回目の別れとの間に挟まるものが気の利いた趣向と「他人の不条理な死」と「他人の理不尽な愛」であるならば、この芝居が提示する軽やかな2時間の末に、結局何の滓も残されないのではないか、という気がしてしまったのだ。それは、あんまりなことだ。

じゃあ何が欲しいんだよ?と問われると答えに窮するけれど、でも、実際、「そりゃあんまりだよ」に近い感じはしてしまうのだ。そういう感じは、しかし、「この芝居、一体何が言いたかったんだろうね?難しかったわね」みたいな、30年前のおばさんチックな感想に繋がりかねなくて、ちょっと自分的にはかっこ悪いな、と思ってはいるのだが、どうか。

2010年8月18日水曜日

カナデコトビート おかえりんご

15/08/2010 ソワレ

初見。千穐楽。
こういう、素直な芝居を観たのはすごく久し振りだったと思う。変にあざとくて観ていられないシーンも無かったし(それは裏を返すと、あっさり味過ぎるということではあるけれど)、妙に押し付けがましくないし。なんだか、オレたち何が嫌いで叫ばない踊らない笑わせない芝居を始めたんだったっけ、ってことを思い返した。

ラジオ体操で始まる冒頭は大好きなシーン。こんな風に、「今後の展開思わせぶり」でもなく「冒頭ガツンとインパクトで」でもなく、でも「あぁ、いわゆる静かな芝居ね」でもなく芝居を始められたらいいな、と思わせた。で、そのトーンは良くも悪くも芝居が終わるまで継続していたし。母の役を男優が演じるのも、ギャグにせずにすごくきちんと出来ていて好感もった。

なので、もっとできるはずだ、行け!という感じが大いにしたのです。
前半出てきた、割と重要な役割をになう「かこ」が後半さっぱり出てこなくなっちゃって、「永遠の家族」だから祖母⇒母⇒娘、の話のはずが祖母二人に集約されてしまう印象だったのは残念。祖母二人+美容師のシーンは、正直「後半、あともう一盛り上がり」へのつなぎだと思い込んでしまって、眠くなってしまった。
美容師の彼も、イロモノはイロモノと割り切って、もう少しあざとさだしても大丈夫だったろうし、前半何度か使った「繰り返しとズレ」は、折角面白いんだから後半にもう何度か使ってもよかったのに、と思ったりもした。リンゴジュースも、小道具としてもっと使いでがあったはずだし、外から来た嫁ももっといじれるキャラクターだし。等々。

こう書いていると、なんとなく、「センスにしつこさがついてきていない」という風に括れそうな気もしてきた。そういう、観客の欲望をくすぐりながら寸止めの60分でお帰りいただくのは、ちょっと勿体無い。次は、もうちょっと、しつこいのを観たい。

2010年8月17日火曜日

文月堂 夜も昼も

15/08/2010 マチネ

少なくとも、僕が芝居を観ることで得たいと思っている悦び、快楽の類は、一切そこには見出せなかった。

冒頭、高校生とその祖父が蛙の池を見下ろすシーン、当パン読むと「劇団」という設定があるのでてっきりその劇団による劇中劇のシーンかな、と思ってみていたら、その劇中劇が終わることなく2時間続いた。

もちろん、この芝居をとっても楽しむ人がいたり、泣いたり笑ったり、人生について考えちゃったりする人もいたりして、僕としては全く構わないし、むしろそれに水を差すようなことを言っちゃいけないなとも思うのだけれど、ただし、もし、この芝居が全く楽しくなかった方には、自信を持って「いや、あなたを楽しませる芝居も必ず紹介できますよ」と言える。

2010年8月16日月曜日

快快+B Floor Spicy, Sour and Sweet

14/08/2010 ソワレ

B Floor単独のパフォーマンス "Flu O Less Sense" と快快北川作篠田演出の "どこでもDoor" の2本立て。

企画として上出来だったとはけっして思わない。この「コラボ」を通して日タイの「国・原語(ママ)の違いだけでなく、文化の違い・方法論・カンパニーのキャラクターの違いを乗り越」えられたなんていう見当違いの楽観論にも与さない。でも、そういう「越えられないもの」にぶちあたった快快が持ち出したのが「どこでもドア」という「あったらいいな、でもありえないな」な道具であったこと、また、どこでもドアを鏡面としてあっち側とこっち側で平行して物事を進めたり、時として混じったりしながら、でも、最後まで越えられないものと格闘する姿をしっかり見せてくれたことが、快快の連中には申し訳ないかもしれないけど、僕にとっては大きな収穫で、そして、変に日タイ友好だぁ、みたいなものを押し付けられるよりもよっぽどか真摯で、ぐっとくるものがあったんだ。なんか、快快って、実は、明るく開いている人のためだけの芝居なんじゃなくって、さびしい人のための芝居でもあるんだな、とも(今さら気づいたのかい?なんて言わないで下さいね)。

言い方を変えると、あんなに「他者に対して開いている」と感じていた快快が、そして快快のスタイルが、一方で、開いているんではないかと思われたB Floorのフィジカルなスタイルと「コラボ」したときの「開かなさ」への対峙。快快をみつけている観客としては、創り手には申し訳ないけれど、面白かった。こういうの、「やり方が不味かったんでしょ」では済まされないことだと思うのだ。

この企画について「全てとても上手くいった」と誉める人には気をつけたほうがよい。そういう人は、野田さんの赤鬼(ロンドン公演)も上手くいった、あとは観客のパーセプションのせい、と平気で言ってしまえる人だろう。

そういえば、B Floorのパフォーマンスは、前半戦を観た時点で、快快よりもむしろ遊眠社との親和性を感じさせた。よく動く身体、キャッチーなプレゼンテーション。でも、「物語る」動きは快快よりも遊眠社だろうと思われた。

2010年8月15日日曜日

青年団リンク・RoMT ここからは山がみえる

14/07/2010 マチネ

初日。
一日経ってみて、自分が、かなり深く感動していることを思い知る。
3時間の1人芝居、全く長く感じなかった。出演している太田宏の力はもちろん、田野邦彦の演出、舞台美術、客席の配置、客あしらい、照明・音響が醸し出す全体の雰囲気、色々なものが本当に上手く調合されて、「1人芝居を押し付けられている」苦痛の時間になりかねない3時間を、ときに柔らかく、ときにハードに、速く、遅く、「北西イングランドの灰色の景色をバックグラウンドにしているにも拘らず」色彩に満ちた時空に変えて、観客を包み込んでいた。プロダクションとして最上級のおもてなしに仕上がっていたと思う。

話としてはマンチェスター郊外のとあるティーンエイジャーの日常と成長を描くビルディングスロマンと括ってしまって構わない。それを男優が語るのだから、まぁ、推して知るべしである。だから、勝負どころは、語り口であり、時間の伸縮であり、おもてなしの精神である。

そもそも西洋翻訳モノ演劇にありがちな「観客への語り芝居」で面白いのにはこれまで当たった経験があんまりなくて、そのテの芸で上質のものとなると落語になってしまう。あるいは、三条会なら大丈夫かな、とか、あるいは、チェルフィッチュの語り口であとは糊代を丁寧に、きれいに固めてしまうとか。だから、如何に太田宏といえども3時間語りっぱなしではかなりの苦戦が予想されたのだが、蓋を開ければこは如何に、力の入り過ぎない語り口、客席への目配り、観客に根を詰めさせすぎない劇場のつくりが全てプラスに働いて、するっと3時間聴けてしまったのだ。そのこと自体が、「スゲエ」ことである。

まぁ、マンチェスターご当地ものの戯曲に、「Oldhamの街の雰囲気はこんな感じかなー」という予見を持って臨んでいたアドバンテージは僕にはあるかもしれない(だから、前半、Streetsがかかった瞬間に涙出そうになってしまったのだ)。でも、それを差し引いたって、この強度はすごい、と、僕は言い張るね。そして、3時間をすごせたことだけがすごいのではなくて、本当に良い3時間を過ごしたなぁ、っていう実感が、一夜明けて、一日過ごして、それでもなおじわじわと身体にしみわたる経験については、プロダクションの皆様に深くお礼するしかない。

2010年8月12日木曜日

尼崎ロマンポルノ 富嶽三十六系

11/08/2010 ソワレ

「尼崎」を名乗る劇団がアゴラで東京語で芝居をしているのを観ると、途端にアウェー感が漂い、他所行き感が醸し出される。もちろん、東京の劇団が東京で芝居したって、(そしていくら「現代口語演劇」だなんて肩肘張ってみせたって)役者が話す言葉はいつも話している言葉とは違っていて、そもそも「戯曲家」が書いた言葉という制約の中で芝居してるんであって、たまたま東京の劇団にあっては「(おそらく)東京語圏の作家が」書いて、「(おそらく)日常東京語圏で東京語で暮していると思われる役者が」演じていることをアプリオリに前提しても平気になっちゃってる、ってことでしかないんだけど。でも、やっぱり妙な他所行き感を感じてしまったことには変わりない。

だから、という訳ではないけれど、ひょっとしたら、「関西圏の人が小劇場演劇を観る時には、おそらく、東京圏の人が小劇場演劇を観る時とは違う辞書を持ち込んで芝居を観ているのではないか」と思ったのだ。
・東京に住んでる人は、(東京が現代口語演劇圏であることもあってか)、芝居を観る時の辞書として、かなり日常会話で使っている辞書を持ち込んでるんじゃないか。
・関西圏の人は、芝居を観に行く時、見出し語が東京語で出来ている、普段使わない辞書を持ち込んでるんじゃないか。だから、吉本を見るときの辞書とは違うもの。そう、もしかしたら、吉本新喜劇を観る時の辞書は、日常会話の辞書なんじゃないか。
それは、過去ずーっと関西圏の芝居を観てきて、何となく腑に落ちないまま放置してきたことについてちょっとだけ余計に考えてみた、ということなのだが。まぁ、結構乱暴に外れている気もするが、どうか。

芝居のつくり、巧拙を問われれば、「拙」と言う。要らないシーン、足りないシーン、物語進行アイテムの働きの多寡、虚実の糊代の処理の粗さ、あげつらえば沢山あるけれど、やっぱり一番感じたのは、「なんで東京語かな?」ってことだった。そういえば、木ノ下歌舞伎とかKUNIOって、歌舞伎とか翻訳劇やってるから、京都を拠点にしてるのにそれが気になってこなかったな。

2010年8月9日月曜日

庭劇団ペニノ 苛々する大人の絵本

08/07/2010 17時の回

幼い頃から芝居小屋連れ回した結果、成長してから妙に趣味がうるさくなって、滅多なことでは芝居を面白いと言わず「まぁまぁだった」とか「こういうところは面白いんだけど」みたいなことしか言わなくなった、そういう小難しい娘に、乾坤一擲「これならどうだ!」みたいな感じで突きつけたのがこの「苛々する大人の絵本」。案の定「すっげえ変だった!面白かった!」と言わせてやったぜ。

あらかじめ「Radiohead の"There There" と "Knives Out" のPVの世界をあわせたような芝居だよ」とは言っておいてはいたが、やはり地下の階が出てきたときのインパクト、マメ山田さんが出てきた時のインパクトはすごくて、しかも、「ここまで変態つきつめますか!」の度合にも際限がなくて、素晴らしい。一昨年に拝見したときと比べても、分かりやすく、しかも十分に変態チックで、それが「変態をありがとう」でも「むむむ、これは何のメタファーかな(腕組み)」でも「意味深をありがとう」でもない絶妙のバランスに収まっていて、素敵な仕上がりだった。

あ、そういえば、2008年版を観た時も、
「好き物系」の外見を取りながら、色物にありがちなバランスの破れからは遠く、実はすっごくバランスに気を遣いながら組みあがっているんだな、と気付く。
と書いていて、初めて見た時の印象って変わらないもんなんだなー、と思ったりもした。

ニットキャップシアター ノクターンだった猫

08/07/2010 マチネ

ごまのはえさんの書いた芝居を拝見するのは、2007年の「お彼岸の魚」、2008年流山児事務所の「双葉のレッスン」以来、三度目。

冒頭、ごまのはえ氏の呪文(と僕は呼ぼう)が役者たちを引き寄せ、彼の劇世界を立ち上げていくシーンは秀逸で、彼のつぶやきと指の動きに引き寄せられる。そこから、時には一連の物語にずるずると引っ張られるかのように、時には彼の妄想とともにジャンプしながら、2010年ネコといっしょに劇世界の旅、心地よい緊張感を持って観ていられた。

それが「愛してます!」に戻ってきた瞬間の驚きは僕にとってはこの芝居のクライマックスで、「あぁ、ここで芝居がブチッと切れて終わってしまったらなんと幸せなことだろう」と、創り手の皆様には大変失礼ながら、真剣にそう思ってしまったのである。

その後の「愛してる!」ダッシュと、それに連なる一種「広げた風呂敷を畳みなおす」感のあるラストではちょっとダレてしまったけれど、あぁ、もっと、弾けて広がりきって回収できないところまで飛んでいっていたらなぁ、というのはとても個人的な願望なので、聞き捨ててください。

東京デスロック 2001年-2010年宇宙の旅

07/08/2010 ソワレ

最近、東京デスロックの公演に出かけるとどうもくつろいで観られるようになってしまって、実はこの変化を僕は非常に歓迎している。前のめりになって眉間に皺を寄せなくてよくて、しかも観るに堪える芝居は、「東京死錠」とか「小劇場」からは予想しにくいかもしれないけれど、ふじみ市に拠点を移して以降のデスロックは、明らかに「おもてなし」「芝居のフレームとしてのホスピタリティ」をすごく意識するようになって、それは、多田淳之介が芝居のあり方について考えを巡らしてきた中で、非常にポジティブな変化だと思うのだ(とはいえ「リア王」の公演で演歌を流したのもそのホスピタリティへの意識の表れだったし、それに対して眉間に皺を寄せた僕は激しく拒否反応を示したのだけれども。それを誤魔化す積もりもないのだけれど)。

今回の「宇宙の旅」は、ふじみ市民会館の中庭の池を使って、「ふじみのデスロック」=「ふじロック」。野外、ワンドリンク付き、オールスタンディング(もちろんペタッと座って観てもOK)、携帯つけっぱなしでOK、写メOKのゆるーい感じ。場内には中年男子「腕組み隊」もいれば浴衣のご婦人もちらほら、おばあちゃんと孫の小学生がまったりと腰を下ろして、まさにこういう芝居は客席後ろから全体が見晴らせるところで観ていたい。

そして、この緩さは(そこまで織り込んで芝居を構成し、創り込む過程が創り手にとっては苦労を伴うものだろうけれど)、とても強い。そして、柔らかな強さの中に、(いわゆる「展示物」としての芝居よりも)想像力へのスイッチを数多く埋め込むことができると実感する。開演後、ステージを据えた池の向こうに見えた只見客の子供たち、イヌを連れたおじさん、近所から聞こえる太鼓、東京音頭、炭坑節、マイクのアナウンス、ステージ近くの瀕死のセミの声、そういうものが、「硬いステージへのスパイス」としてではなく、「柔らかいステージ」に欠かせない構成物として、アクチュアルな瞬間瞬間を輪郭づける、そのことに、今更のように驚く。

過去・現在・未来を意識しながら、舞台に提示されているのは常に「現在の」姿でしかあり得ず、佐藤誠のツイートは「現在の」つぶやきでしかありえない、という「現前性」を大前提としながらも、ラストにかけては未来への想像力に向けて観客をジャンプさせる滑走路が周到に仕掛けられている。その仕掛けはもちろんドラマツルギーとして素晴らしいのだけれど、僕にはそれよりもずっと強く、「想像力へのチャンスとなるべきスイッチ」が、この柔らかなフレームの中に無数に埋め込まれているさまに、深く打たれた。そして、その構造の中で、観客の意識が、舞台上の出来事と客席内の出来事、劇場外の出来事の間を自由気ままに行き来する、その行き来(すなわち、ときとして舞台上から意識が逸れてしまうこと)を許容しながら、緩いフレームの中で観客の集中力を暖かく包み込んでしまうこと。そういう中に、何十人もの人々と一緒に包まれていること、それが何ともいえず、気持ちよかったのだ。

本当に、こういう芝居に触れられる子供たちは幸せだ。媚びない、でも、生真面目に客人をもてなす態度。劇場は、その喜びをシェアする場所なのだ。

劇評掲載(手塚夏子「私的解剖実験5-関わりの捏造」、ワンダーランド劇評セミナー)

手塚夏子さんの「私的解剖実験5 - 関わりの捏造」についての劇評が、ワンダーランドに掲載されました。
相変わらず拙いものですが、240cm×270cmという数字にだけはちょっと自信があります。読んでみてください。

http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=1361

2010年8月4日水曜日

toi 華麗なる招待 ツリーバージョン

31/07/2010 ソワレ

今日の「華麗なる招待」は「ツリー」バージョン。配役が入れ替わるだけでもかなり印象が変わるかなと期待してSTスポットに足を踏み入れると、なんとなんと配役どころか舞台の趣、構成に演出も大きく変わって、見応えいっぱいの舞台だった。

横浜公演は千穐楽終えたからある程度ネタバレ混ぜながら言えば、僕はツリーバージョンの方がより楽しめた。役者と同じテーブルに腰掛けて90年間を「体感(もちろんうそんこで)」する感覚に、何ともいえずビリビリきた。フランケンズで感じた(だからこの言い方はちょっと使い回し感があるけれど)「大人ままごと」な引き込み方。うそんこだと分かっていてもなおその場に居合わせることが楽しくなること。自分は「カネを払ってエンターテインしてもらう観客」ではなくて「大人ままごとに参加して、快楽をつかみとる観客」であることの確認。

何よりも、部屋の「中にいる」ツリーバージョンと「外から眺める」スターバージョンとではいろいろな距離感が違って、中からみたときの「死に向かう」距離感は、息が詰まりそうに長く感じた。そうやって考えると、スターバージョンのあの距離感も実はなかなか捨てたもんではなくて、一つのパッケージとしての90年間をぎゅっと括ってみせるやり方も、もっともっと楽しんで観れたのではないかとも思われてきた。

召田さんのルシアは目が離せなかったし、坂口辰平には娘大喜び、黒川さんのアーマンガードおばさんで締めくくってほしいというのは、toiが"The Long Christmas Dinner"を演ると聞いてからずっと心待ちにしていたことだし、もちろん他の役者陣も力が溢れ、満喫。

そうそう、一ついい忘れていた。スターバージョンの武谷氏。老いたウェインライトのおじさんの顔は、あれは、どうみても吉本隆明の顔真似だ。そうとしかみえなかった。