2007年9月30日日曜日

パレスチナ・キャラバン アザリアのピノッキオ

29/09/2007 ソワレ

人間の想像力なんてものは、実は生来備わっている人類共通のものではなくて、置かれた状況に左右されるものなのだろう。

だから、自分が、バブル期の後半から、何がリアルに見えてそこからどう想像力を働かせうるかについて考え詰めるようになったこと(=現代口語演劇 への傾斜)は、実は、「想像力を働かせうる場」を貪欲に求められるだけの余地が与えられた(つまり、他の色々な面で恵まれている、及び、テレビ等々の普及 で実は想像力を働かせる余地を失っている)上での贅沢だったのではないか、と考えながら観ていた。

すごく失礼な言い方をすると、パレスチナにいたら、そういう贅沢な想像力の働く余地があるのだろうか、むしろ、ちまちましていない想像力がガツン と効く世界なのじゃないか、と考えてしまったのだ。これは、日本で真面目に芝居をしている人にも、パレスチナで真面目に芝居を観る人にも、失礼な言い方な のだけれど。

でも、例えていうなら、「銃声」「砲弾の音」が日本の芝居で与えられるリアルさと、パレスチナ人が作る芝居で与えられるリアルさは、違う。そこに 働く想像力の度合いも違う、ということだ。日本の芝居でコーヒーカップに何も入ってないのに飲む演技をすると、「何だよ」と思うくらいに、銃声の無いパレ スチナは「何だよ」なのかもしれない。

つくづく、文化とは贅沢品である。

で、そういう文化の差、想像力の働き方の差、芝居の文法の差異を乗り越えて、きっと大久保鷹さんは素晴らしい役者だ。他の出演者を貶める積もりは 無いけれど、でも、大久保鷹、必需品であり、贅沢である。こういう役者の立ちを観ている間は、「想像力は云々」なんてぇ屁理屈は吹っ飛んでしまった。

ひょっとこ乱舞 トラビシャ

29/09/2007

やっぱり、今回も最後まで入れなかった。
芝居の入れ子の説明も(役の立て方を含め)くどい気がしたし、携帯メールを使ってみるのも、新奇な試みというよりは興味本位の帳尻あわせのようで。

でも、お客さんは喜んでいたようだ。

そうすると、時々頭をもたげる考えなのだが、「芝居の文法」ということについて考えざるを得ない。要は、文法が違う芝居にははなから入り込めない。文法が一致する芝居には、巧拙の判断、好悪の自覚がし易い、という意味である。

こないだ見た「ワワフラミンゴ」は全く文法の違う芝居で、結果観ている途中で「落ちた」わけだが、今日のこの芝居は、時々僕の文法に擦り寄ってくる感じがして、それが居心地悪かった。

その「擦り寄り」が、例えば携帯メールであり、入れ子の説明である。そういうことが無かったなら、舞踏を見るようにもっと素直に見れたのかもしれ ない(或いは、本当に「落ちて」いたかもしらない)が。しかし、「何だかわからん」芝居が続くと、却って自分の脳味噌の硬さのほうが気になってくる。ほん と、気になる。

2007年9月25日火曜日

唐ゼミ 鐵假面

24/09/2007 ソワレ

唐ゼミ初見。何といっても椎野裕美子。口も大きいが声もでかい。映える。これだけで、観に来てよかったと思う。
男優陣、いい面構え。顔の崩れた人がいないのは、若いからか?
女優陣も良い。何が良いって、ひょっとすると、唐組の「中年男優陣+一回り年下の女優陣」という構図でなくて、男女年齢バランスが良いのがプラスに働いているのだろうか、とも考えた。

そう。総じて、若い。それが、この、むかぁしの唐戯曲を演じるのにプラスに働いていた。勿論マイナスもあって、緩急つける手管はまだまだ研究の余地あろうし、時として「がむばってる」のが前に出ると、青臭い。

なかなかどうして、力がある劇団で、単なる「唐組 3A」ではない。是非又観てみたい。その若さの中から「アングラ古典芸能」という陰口を打破する何かも出てこようというものなので。

ワワフラミンゴ この島の話

24/09/2007 マチネ

すまん。芝居途中で寝た。5分位。40分過ぎた辺りから50分位の間。
という風に始めるのは、つまらなかったとけなすための材料ではないです。つまらない芝居であってもめったに寝ないし、逆につまらないと怒りで脳味噌が煮えてきて絶対に眠れないので。
途中で落ちていた以上、この芝居について語る資格が全面的に与えられているわけではないのだが、以下、言い訳混じりに書く。

何で寝ちゃうのか。多分、この芝居の文法が、僕の想定する芝居の文法からかなり外れていて、要は、ラジオでスロベニア語の朗読を流しているような状態になってしまったのだと。
つまり、読み取れなかったと。
そういう言い訳です。

敢えておじさんの領域に強引に持ち込んで理屈言うと、物語のスナップショットをスライドで続けて観ていると、「がちゃ、がちゃ、がちゃ」と、スライド上映機が左右にスライドを動かしている音ばかり聴こえてきて、いつしかその音のリズムに合わせて寝ていた、そういう感じか。

この芝居もそういうスナップショットのようなシーンが繋がっていて、それを観る際に、①強引に一定のコンテクストに嵌める or ②強引に役者の身体性に焦点を当てていく、その2つの対応が考えられるはずなのだが、今日の僕はそのどちらも出来なかったわけです。 何故だろう。答は出ません。寝ちゃったから。さみっと氏よ。すまん。でも、貴兄の出ているシーンでは起きていたよ(学生芝居観に来た友人みたいな台詞 だ...ますます自己嫌悪)。

2007年9月24日月曜日

鉄割アルバトロスケット たこまわせ

23/09/2007 ソワレ

えっと、楽しかったです。あんまり何も考えないで、楽しみました。

「てんごくのとびら」では本当に笑いが止まらなくて、このままではバカ笑い爆発しちまうと思ってこらえるのが本当に苦しかった。また別のシーンでは笑いが噴出する直前で暗転されて寸止めで収まっちまったり、この、間の外し方もまた気持ち良い。

このパフォーマンスに理屈や説明をつけたくは無くて、もういいや、このままだらーと楽しんでいよう。と思わせる。そこらへん、これだけ訳分かんないことやればオレタチのこと消費できやしねぇだろ、ざまぁみろ、という自信が感じ取れて、それも気持ちよい。また観に行きます。

シアターナインス シェイクスピア・ソナタ

23/09/2007 マチネ

松本幸四郎さんの演技を真剣に見るのは、「黄金の日々」をテレビで見て以来なのだが、1幕1場、何だか訳分からん悪態をつきながら登場するのを一目見て、魅了された。あぁ、この人はとってもいい役者なんだ、と。

作・演出岩松氏だから、戯曲は例によって例の如く岩松神経症芝居を期待していれば良いのだが、幸四郎以下の役者陣がそれをどう受け止めるか、というのが僕の興味の焦点だった。

で、その欲望は本当によく満たされて、松本幸四郎さんに対して岩松さんの演出が付いて、その要求を満たしながら松本幸四郎が殺しきれないものとい えば、それは「色気」とでも呼ぶべきもので目が離せないし、伊藤蘭さんは本当に綺麗で演技も「芝居臭く振舞う女」に極めて自覚的で泣かせる(割箸の思い出 には本当に泣きかけた)。堪能しました。

導入から構成、幕切れにかけて、チェーホフがすっごく意識されているから(岩松氏ロシア文学科だから当然だけれど)、岩松神経症芝居のカラーは若 干薄まっている気もするが、だからこそ柔らかでかつ毒のある戯曲に出来上がっていて、こういう芝居はもっと小さな小屋で小さな劇団がやっても充分に楽しめ る、現代の古典となってよい芝居であった。で、そういう芝居をきっちりこなして色気まで見せる松本幸四郎はやっぱりエラいのでした。

2007年9月23日日曜日

ジャブジャブサーキット アインシュタイン・ショック

22/09/2007 ソワレ

アインシュタイン来日時の中で関係者誰もが首をひねる空白の1時間。高名な博士は一体どこで何をしていたのか...という切り口自体をどうこうは 言うまい。要はその空白の時間をどう料理するかが勝負であって、例えば野田秀樹は、アポロとヒューストンの交信が一旦途絶えるところに史上最弱のボクサー を放り込んで傑作をものしたわけである。

問題は、僕が観たいのはそこで生じる狭間で「何が起こるか」であって、「その時代背景がなんだったか」の説明ではない、ということだ。野獣降臨で 東西冷戦とかケネディの演説とかフルシチョフとか出してきて1時間半解説されても全く無価値だったろう。このアインシュタイン・ショックで、アインシュタ イン博士来日の際の巷の様子、科学者達の行状を事細かに解説されても、無価値だ。

ネタ本をそのまま台詞に乗っけることが100%ダメだと言っている訳でもない。燐光群の「放埓の人」は、沢野氏の著作の切り貼りを台詞にしているにも拘らず、役者の身体をフルに稼動させて力ずくで成立させてしまう素晴らしい舞台に仕上がっていた。

メッセージというか、動機というか、そういうものも否定しはしないし、それらが伝わるために、時代背景の説明やら本の台詞やらが必要なのならそれ はそれでよい。ただ、料理の仕方、舞台での見せ方にはもっと気を遣うべきで、そうでないと、2時間無駄だったとは言わないけれど、1時間半無駄だった、と 思わざるを得なくなってしまうのである。

遊園地再生事業団 ニュータウン入口

22/09/2007 マチネ

難しい芝居だ。何が難しいかといって、
①リーディングもプレビュー公演も観ていて、戯曲もカッコいいし方法論的な遊びに満ちていてそれがトンがっているし、宮沢氏の「ノイズ文化論」もとっても良い本だったし、とても楽しみな公演だった。かつ、「その」期待に十二分に応えていた、のに、
②じゃあ、この芝居をみんなに薦めるかといえば、うーん、と思ってしまうかもしれない。
というところが悩ましいのだ。

適当な言葉を見つけるのに苦労するが、強いて言えば、「危ない感じがしなかった」ということになるだろうか?ここでいう「危なさ」とは、端的に は、イオネスコの授業でマリー役の角替さんが登場する時、必要とされるシーンの2分前に上手から出てきてツーッと下手の窓枠の下まで行って、そこで1分以 上じっと佇んで声をかけられるのを待つ、そういう危なさである。

「ニュータウン入口」、みんな良い役者なんだけれど、作・演出の掌の枠から外れていない気がして。作・演出の意図する「排除されるものとしてのノ イズ」を説明するために、自分の身体性のノイズを殺してないか?あるいは、コンテクストの中でノイズととられるであろうノイズを選び取って舞台に載せてい ないか?

その意味で、ビデオカメラの多用は吉。生身の身体と画像の「ヒト」とのズレとリンクの気持ち悪さは、役者の立ちに関係なくノイズを発生させるからである。ハードウェアとして、観客がノイズを知覚する触媒として機能していたと思う。

いや、ひょっとすると、知覚器官としての僕自身が、宮沢さんのイメージする身体性を伴った劇言語と、そこから発せられているノイズの在り方についていっていないだけかもしれない。分からない。

知覚や意識等々を一つのコンテクストに絞り込ませず、むしろ拡散させながらイメージを押し広げて行こうとする。だから遊びを舞台の中に埋め込ん で、舞台のルールをも徐々に侵食しようとする、それら全ての試みが非常に魅力的かつ刺激的なのだけれど、それらのスキゾな(ちょっと恥ずかしい言葉だが) 振る舞いが、最後のガザの画像の問題意識のコアと上手くつなげられない。口の悪い言い方をすると、アリバイ作りに失敗した感じだ。

この芝居について書きたいこと、言いたいことはもっともっと沢山ある。そういう材料が本当にふんだんに惜しげもなく投げ込まれていて、豊かで、きっといくら付き合っても飽きない芝居なのだ。でも、手放しで「素晴らしい」とは言えないのだ。

次も、又次の公演も、きっと行く。そして、一つ一つの試みをめんたま飛び出るくらいに一生懸命見る価値がある。そうしているうちに、何か、本当に とんでもないものが出てくる可能性があるのだ。昨年・一昨年といいところの無かったアーセナルだって、今シーズンは6試合で勝ち点16、Adebayor も花開いたんだから。そういうことなんだ。きっと。

2007年9月21日金曜日

東京乾電池 ここに弟あり

20/09/2007 ソワレ

月末劇場3度目。前2回の半券を忘れて、手ぬぐいをもらい損ねた。次回忘れないようにしよう。

岸田戯曲。確か、青山円形でのナイロンの芝居の中にも入っていた。そうか、単品で観ると30分くらいの芝居なのか。

新人公演というのも楽しみで、それは、
①どんな人が乾電池で新人なのだろうか?
②乾電池の新人はどの程度新人なのだろうか?
という、ほとんどくだらない興味なのだけれど、まぁ、そんなものです。僕が芝居観る態度なんて。

男優2人が、何だか、もがいている感じがした。懸命にひっかかりを克服しようとしてそこが解決しない、苦しい感じ。言い方を変えると、力が入っていた、か。女優の方は、演技が太かった。堂々たるものであった。
ということで、乾電池の新人男優2人は新人であると呼ぶに足るくらい新人な匂いがして、それが面白かった。女優は新人らしからぬ、と言わせるような、そういう新人の匂いがして、それも面白かった。

1500円で30分、会社の帰り道。なんだか、南半球産の手ごろな値段のワインをあけてみて、予想外に美味しかったり、「あ、こんな味を目指して んな、でも、ちょっと届いてないな」とか思いながら飲んで、さっと家に帰る感じだ(すいません、こんなこと書きつつ、小生ワインは全く分かりません)。 あぁ、楽しかった。

2007年9月18日火曜日

26.25団 博愛

17/09/2007 ソワレ

これが何だか、面白かったのである。王子では往々にしてこういうことが起きる。

「割と閉じた特殊な集団」、「周囲のコミュニティとの軋轢」、まぁ、ありがちかな。ちょっと舌足らずな話し方、香港系を名乗る妙なアクセント、どういう積もりなのだろう。と、いうネガティブな印象から入って、ラスト、人間関係の色々な気持ち悪いバランスが崩れて終わる。

この、ありがちな話が最後まで見られたのは、専ら、①役者、特に高校生3人+女子大生2人 が面白かったこと、②作・演出の細部でのセンスが妙に面白かったこと、の2点による。
逆に大人役は、乱暴なところのある物語を進める役割をしょわされて、割を食った印象。

前半から中盤にかけては、だから、高校生や女子大生のシーンを面白がっていた部分があって、「あぁ、こんな感じで終わるのかな」と予想を立て始めたところに、

「ちょうさん+マザー 2人語りのシーン」である。香港人が、椅子を持って来ようというのか腰を上げ、でもやっぱり先の二人を追って出て行こうと いうのかドアまで行って、半開きのドアをきちんと閉めてから戻ってきて腰掛けるシーン。この、「半開きのドア」にちょっとドキッとした。あぁ、こういう演 出が出来るんだ、と。

つづいて、女子高生2人が飛び込んできて、一人の腰が立たなくなる。そこですかさず、「ファイトォ」である。それもメゾピアノで。やられた。

この2つの小技で、一気に続きが楽しみになっちゃうんだから観客と言うのは現金なものだ。

それがラストになってがなり合いかよ、と再び引きかけたところで、意外なオチで見せる。これが妙な後味の悪さにつながって、又一つ忘れられなくなる。

戯曲の構造はまだまだ改善の余地があって、お客女子大生2人は折角面白かったのに最後宿に戻ってこなくて、「一体どこに行っちまったんだよ」と思 わせるし、よくよく考えてみたら、舞台の民宿の商売を説明するだけで役割終わっちゃってるし、熱血先生は理由も無く船に遅れるし、なんちゅう乱暴な進め方 や、と思う部分もある。

また、当パンで「様々な考え方を持った人間を描く」といっている割には、ラストに持っていく時の視点が、どうも姉に偏っている(移入しすぎてる) 気もするし(あ、でも、そうやって偏った持っていき方をするからこそオーラスのオチが映えるのか?)、そこら辺、もっと突っ放して描いても良いかなぁ、と 思ったり。

結論。もっと上手に組み立てた次回作が観たい。

らくだ工務店 戦争には行きたくない

17/09/2007 マチネ

芝居を観ていて、実は一番気になったのは、「戯曲」なのだった。
① 「主語止め、体言止め、述語無し」台詞の多様。これは、話し手が話し続けようとして、「会話・対話の相手に流れを遮られる」時にしか成立しないのではないか。止めた後に間が空いては、ただの台詞を忘れた人と間違われても仕方が無い。
これ、間を空ける役者のせいではない。なぜなら、みんながみんな、やりにくそうにしていたから。きっと作・演出に罪を着せて差し支えなかろう。
② 最初の暗転までの40分間が、説明台詞ならぬ説明シーンになってしまって、これがつらい。
③ だから時間配分の算段が狂ったのかどうかは分からないが、後半残り20分での元ヤクザを巡るシーンが良く分からない。勿論、筋を追うだけが芝居じゃないんだけれど。
④ ②と③、まとめると、「あぁ、みんな、辛いこと抱えながらやってんだ」ということを説明するシーンはカットして構わない。辛い中で、誰が何を しているかにむしろ興味がある。もっと言うと、誰が何をするかは戯曲に書いてあるから、それはもういいや。何かをしている中で、余計な説明をそぎ落とす中 で、なおかつ役者から漏れ出してくるノイズ、舞台に突如生じる裂け目、そこのところが、僕は観たいです。

目の付け所は悪くないと思うんだけれど、消化不良な芝居だった...(なら、早く自分で書けよ、って声が天から聞こえてきそうだが...)

2007年9月17日月曜日

イデビアン・クルー 政治的

16/09/2007 ソワレ

いや、まいりました。お洒落でかっこよくて面白くて。
タイトル「政治的」というだけあって、仲間割れありひそひそ話ありいじめあり、と、政治的な仕草がパーツとして取り込まれて入るけれど、勿論ダンスなんだから物語を追う必要は無くて、ただただ目に付いた面白い動きを追っていくうちにあっという間に時間が過ぎる。

しかも舞台上手は舞台奥にかけて下り斜面、下手側は舞台奥に向けて競りあがっている斜面、オフィスの異なる部屋になっていて、右チャンネル・左 チャンネル同時並行、どちらもご覧になれます、ということで一粒で二度美味しい。動きがシンクロしても微妙に違うし、ちょっと焦点をずらして両方一遍に見 ようとして両方とも追えなくなっちまうのもまた一興である。

(あざといという意味で)エンターテイニングに過ぎる、という人が出てくるだろうな、とは思うけれど、僕としては全く構わなくて、この楽しい動きは、子供と一緒に来て、真似しながら帰り道を歩いていきたくなる。こういうダンスなら、もっと観たい。出来れば家族と一緒に。

サンプル カロリーの消費

16/09/2007 マチネ

何だかとんでもない芝居だった。2000年代後半のゴドー待ちはこんな形をとったのか、という気もした。理由は後で書く。

ほしのホールは、「小劇場」演劇にかなり力を入れている小屋なのだが、何分にも妙に間口の広い舞台で、観ていて収まりが悪い。ここで芝居を何本か 観てきたけれど、どうも、しっくりこなかった。サンプルがここで演ると聞いた時には、一体、春風舎全体が舞台上に2つは入りそうなこの小屋で何をするつも りだろう、と思ったのを覚えている。

舞台上、カーブした壁1枚。高さ2m、その上は何も無い空間。なんとも人を食った作りだ、というのが第一印象。人が出てくるといかにも人が小さい。遠い。でも、そこを自覚した芝居の作りになっている。

乱暴に括ってしまうと、「通行人の芝居」である。主役やワキ役はなくて、通行人しかいない芝居である。

渡辺香奈が引いたチョークの輪に沿って、上手から下手へ、下手から上手へ、通り過ぎる、あるいは、しばらく舞台上にいたりする。部屋の中のシーン 等々あるにも拘らず、役者がそこに『属している』感じはしない。それは、アフタートークで松井氏が「観客の視点をある特定の視点に移入させない」と言った ことときっとリンクしていて、個々の演技がいわゆる「現代口語演劇」なのに、全体として、薄い透明パネルを2枚立てて、その狭間で演技しているような薄っ ぺらさがある。それが、「通行人」くさい。そこに、昨日見た「イキウメ」の芝居風に言えば、「自と他を絶対に乗り越えない仕掛け」が設定されている。

加えて、役者個々の力は充分あるにも拘らず、松井演出は役者達が「通行人1」「通行人2」以上の個を発揮することを巧妙に禁じているように見え る。役者を見ていても、手先とか足先とか、そういう細部よりも、「佇まい」を意識させる。それは、ほしのホールで演じるという制約からなのか、とも思えた けれど。

通行人しかいない芝居なのだから、筋がどこかに行く、ということはない。それで、役者達はチョークの輪を回り続ける。どこかにたどり着く、という ことはない。歌は、手に入れたと確信した瞬間に歌でなくなる。役者達は決して待ちはしない。移動する。でも、それは、「進もうか」「あぁ、進もう」2人、 進み続ける、位の意味でしかない。

呆けた母と介護人のカタチはそのまま、PozzoとLuckyであり、HamとClovである。いつの間にかベッドの馬車は2頭立てになって、後ろから馬子も付いてくる。そうだ、きっと、オリジナルゴドー待ちのあの2人も、くるくる回っているだけだったのだ。

そうか。この芝居は、ゴゴーとディディが出てこないゴドー待ちだ。PozzoとLuckyと子供しか出てこないゴドー待ちだ。でも、Pozzoと Luckyはそれぞれ複数いる。そして、一つのPozzo&Luckyを目で追うことを許さず、複数のペアが出会う場所を、シチュエーションを変 化させながら舞台に載せているのだ。

なぁーんて、屁難しいことを考えてしまうような芝居ではあった。「通行人芝居」といったって、大枠の筋はあるし、キャラもたてているし、観ていて 緊張感を解かせない作りは素晴らしい。冒頭の渡辺香奈の立ち、米村・古館・古屋のそれぞれ種類の違う凶暴さ、等々、見所も多い。いや、ただの変態芝居じゃ ない、ってことが言いたかった訳なんです。今までほしのホールで観た芝居の中で、群を抜いて素晴らしかった。

2007年9月16日日曜日

動物電気 先輩へのあこがれ

15/09/2007 ソワレ

昔、会社の会議で、「あれ、こいつ、いっつもこの会議出てたっけ?」てぇ奴が、(想像するに)誰かの代理で出てきてて、案の定、15分くらい一言も喋らないなぁと思ってたら、いきなり
「わりぃ。部屋を間違えてた。」
と言って出て行った話には無茶苦茶笑った。

僕は開演して15分立たない間に、部屋を間違えてたことに気が付いたのだけれど。まぁ、こういうときには、間違えた奴が悪いのだ。誰がミスリードしたわけでもなく、自分が間違ったのだから。後は、楽しめるだけ楽しむしかない。

面白度ゼロ%のシーンでは、舞台の上、全員、素になってましたね。これは、無茶苦茶面白かった。それをやってのける役者とそれを楽しむ客と。また一つ、愛されている劇団を目の当たりにしたというわけです。

イキウメ 散歩する侵略者

15/09/2007 マチネ

宇宙人が侵略してくる話である。1つだけ抽象的な概念を抜かれちまうんである。怖いんである。
ただし、邂逅→謎解き→アクション→大団円
という筋道を辿るのが作・演出の意図ではないんだろう、ということは当パンからも何となく読み取れるし、観た後の感想もそうだ。

瀧川・浜田のテンションのコントラストが妙にしっくり来るのか来ないのか、何だか面白い関係を保ったまま、ラスト近くで
「君の足りないところを僕が埋めるからさ」
には怒涛の愛を感じた。良し。

だが、実はもっと気に入ったのは、「自と他の境」を抜かれた後の医師の演技。あんなに何だか分かんないところで苦労する演技を、何だか分からない ままに舞台に載せるセンスが良い。実際、自分から抽象概念が一つ抜けたら、あんなふうに対処するんじゃないだろうか(瀧川・浜田コンビのように怒涛の愛で 乗り切るなら別だが)、と思わせる。そこで引き立つのが、「自と他の境」を抜き取られて、感情移入が激しくなっちまう、というプロットを考え付いた作・演 出のセンスだろう。

が、そのセンスは実はその後の「物語」に対して妙な伏線を張ることになる。瀧川・浜田の愛のシーンにしてやられた後、ふっと考えてみると、自分が 「自と他の境」を抜かれて感情移入してたんじゃないか、と思い立つ。そうなると、オーラス、主人公たる夫婦の愛のシーンを見ていても、「自と他の境」に自 覚的な観客の眼からは「なんだかなぁ」となってしまうのである。まさに両刃の剣だ。両刃のヤイバではない。念のため。

そもそも抽象的な概念を30人くらいから一人一個ずつ抜き取ってもせいぜい30の概念だから、なかなか愛まで行き着くのには無理がある、というアラ探しは別にしても、ラストはちいと苦しかったな。

以下、結論を箇条書きで:
① このプロットを舞台に載せた作・演出のセンスと役者の技量、良し。
② 抽象概念を1つだけ抜かれた人を舞台に載せることはできるし、面白くなる。抽象概念を積み上げる人は、難易度が余りに高い。
③ 導入とエンディングをいじれば、もっと大人で面白くなる可能性あり。また、抜かれた時に目がクラッとくるのは、反則。もっと訳が分からない、普通の感じのほうが良い。宇宙人も、魂の無い感じを殊更に出すのは変。
④ メインの物語よりも、サブの瀧川・浜田に見入ってしまったのは作・演出に申し訳ないが、ま、しょうがない。役者のせいでは必ずしも無い。

2007年9月15日土曜日

鵺の会 怪談小幡小平次

14/09/2007 ソワレ

初見。ちなみに、小幡だが、おばたとは読みません。こはだ、みたいに呼んでました。

変な芝居だった。最初から最後まで変な芝居だった。戯曲が大正時代のものだというので、おじさん劇団かと思って行ったらさにあらず、演出も役者もみな若かった。

妙に突き出た花道。妙に縛られて見える役者の動き。抑揚を殺したいいお声の台詞。「SCOTみたいでしょ」という方もいたが、僕はSCOT観た事 ないので分からない。どちらかというと、縛って縛って、とことん縛ってそこから漏れてくるノイズを浮き立たせるという意味では、何だか転位21みたいだ なぁと思って見ていた。でも、見た目は明らかに転位ではない。台詞の飛ばし方も違う。

物語は当パンに全部洗いざらい書いてあるのだから、物語を追う必要も無く、あとは役者をずっと観ていれば良い。暗い色の和服が、顔と手と足袋以外 をすっぽり覆ってしまって、否が応でも顔と手と足袋に目が行く。役者、表情を動かさないので、手と足に目が行く。指が長いぞ。あるいは、和服の背を通して 背中の筋肉がプルプルしているのが分かる。役者が派手に動かずとも、飽きずに観ていることができるのだ。
女形の動きも変だ。物語をなぞれば女の怖さとか何とかなってしまうところを、そういう説明を物語りに任せてしまって、どこか他のところに居る。それが却って怖い。

書家の手になる、「能舞台の変形」の舞台も、この何だか分かんない芝居に趣を加える。物語は物語に任せて、舞台は削りたいだけ削る、そうして残さ れたのが花道、という趣向に見える。だから、花道は「客席に突き出て」はいない。両側に広がる舞台を削っていったら偶々こんな形になったのだ。

削りきったところから観客の想像力を喚起する、というのは、現代口語演劇黎明期によく使われた紋切り型だけれど、実はこういう削り方もあると思い知った。自分ではこういう芝居はしないだろうけれど、次の一歩も是非観てみたい、そういう芝居でした。

2007年9月10日月曜日

新宿梁山泊 唐版風の又三郎

09/09/2007 ソワレ

あぁ、テント芝居は、ほんとぉにえぇなぁ、これだよこれ、靴袋、等と考えつつ入場すると、そこに何とテントにはおよそ似つかわしくないベンチ席が。迷わず座った自分に「ほとんどこりゃ背信だ」と自虐の責めが入りつつ開幕。

海外に持って行ったプロダクションだというだけあって、国内版では入らないだろうような何だかお洒落な群舞も付いて、こなれた仕上がりに感じられた。ただ、こなれるというのは誉め言葉半分、そうでないもの半分なところがあって、というのも、妙に観客に優しい作りが、逆に、
「何が何だかわかんないけれどすごかった」
という、昔の梁山泊が持っていた(hopefully今も持っている)、あるいは、今でも唐組が明らかに保っている、あの感覚を殺しているような気もしたのだ。

おそらく、オーストラリア人にこの芝居を見せるときにはそれなりの「配慮」も必要だったのだろうけれど。

この芝居だけで、「ぬるい」とか言ってしまうのは乱暴に過ぎるとは思うけれど、どうなのかなぁ、と思ってしまった。ベンチ席に座っといてこういうのも何なんだが。

でも、テント芝居は、やっぱり良い。客席のどこで見ても役者が近くて、「肉声」を感じる。照明にてらされて蛾が舞うのも風情があって、その風情は、最近増えた幾分冷たい感じのする劇場では味わえない。これから始まる井の頭公園野外劇フェスタ、楽しみです。

smartball The Perfect Drug

09/09/2007 マチネ

うーん、もったいない。
去年、王子小劇場で前作を観たときに、最近の若い役者達があまりにも当たり前のように「クサい台詞を排除した」「現代口語演劇」を何の苦も無くこなして、プラスアルファで何をしようかと考えているのを目の当たりにして、とっても驚いたことを覚えている。

もったいない、と言う理由は、そのプラスアルファが、「ストーリー」だった、ということだ。

いくらクサくなくしても、説明台詞は説明台詞でしかないし、ストーリーの展開に縛られた演技はそれ以上のものにしかならない、と僕は考える。役者から発せられているはずのノイズが、ストーリーにかき消されていた。

僕らが生きている世界のノイズを拾ってきて、それをどう提示するかという問題意識には異議なし。でも、ドロドロの、おそらく現実の世界に近いのだ ろうものを持ってきて、はい、これがリアルなノイズだよ、って言われてもなぁ。ノイズは前景に阻まれてこそノイズである。前景にバーンと出しても、それ、 「ノイズを有難う」の世界ではないのか?
それは、「感動を有難う」と同じ打ち出し方なのではないか?

だから、青年団の「smartballと比べればはるかにお上品な」芝居の中に、ふと立ち顕れる裂け目が、実はsmartballの暴力シーンよりもはるかにゾゾゾゾっとなる気持ち悪さだったりするのだ。
逆に、The Perfect Drug のラストシーンは、ドリフの前半の舞台の終わりの「ちゃちゃちゃ ちゃんちゃかちゃっちゃ ちゃんちゃかちゃっちゃ ちゃちゃーん、ぱ、ぱらっぱ、ぱっぱー」という、あのエンディングに近くて、実は、極めて陽気な終わり 方だったと思う。

そのエンディングが、「セックスと暴力のえげつない世界を有難う」な観客への皮肉なメッセージであったのなら、次は、「素敵な行き場の無いストー リーを有難う」といって期待してくる観客をぎゃふんといわせて欲しいのだ。その力はある劇団だと思う。だから、今回はもったいなかった。そういう意味で す。

2007年9月9日日曜日

田上パル アルカトラズ合宿

08/09/2007 ソワレ

春風舎に行く途中で志賀さんと鉢合わせ、「菅原くんがいぃんだよぉ」といいお声でおっしゃっていたが、実際、良い。
この筋肉芝居にあって、一番筋肉の無い男が舞台をさらってしまうんだから、世の中分からないもんだ。

ただし、筋肉があろうとなかろうと、男子高校生なんてのはバカでキッチャナくて考えてることはみな一緒、なのだ。大体は。そして、卒業してから は、そういうやましい過去には目をつぶりがちなのである。そこに敢えて目を向け、かつ、花や恋や女子高生といった、実は男子高校生の隣に気付かれずに存在 していたのかもしれない(すいません。ここ、地方の男子校出身者のドリーム入ってます)、そして、テレビドラマや映画ではそれが必ずあるという風に描かれ ている物事を排除してしまうことで、田上パルは成功した。

現代熊本弁演劇でありながら、田上パルの芝居は上記に思いっきりレバレッジをかけて劇的である。

田上氏が今後どれくらい熊本弁高校生ものに拘っていくかは分からないが、ここまで書けるのであれば、昔オリザが田上氏に「熊本弁なんかダメだよ。 これからは世界だよ」みたいな絡みを入れていたのも、今となっては極めてポジティブなコメントだと認識されて、つまり、どこに目をつけ、どこを芝居の始点 にするかを見定めれば、熊本だろうが東京だろうが巴里だろうが、グイッとバールに体重かけてレバレッジのきいた芝居を作る力がある、それをやれ、というわ けなのだろう。

ほんと、これからもすっごく楽しみです。

RoMT the real thing

08/09/2007 マチネ

台風9号で被害を受けた方々には非常に申し訳ないのだけれど、台風の通過、というイベントは、あたかも骨太のストーリーを持った芝居に似る。
骨太、というのは、実は、陳腐、ということにも通じる。つまり、「発生→接近→上陸→通過→台風一過」という筋書きは毎度繰り返され、それに疑いがもたれることも無いし、持つ必要も無い。芝居の筋書きの「ほれた→はれた→切れた→云々」の繰り返しと同様である。

ところが、その大きな筋書きの中で、当事者達は「自分の視点で自分が好むところの細部だけを切り取って情報を取り込む」のである。台風であれば、 自宅近くの天気、勤務先の天気、電車運行状況、道路状況云々。あるいは、雨雲レーダーの小さな雨雲のきれっぱしが自宅にかかっているか、知人の家にはどう か。真っ赤で表示されている雲はどこなのか。例えていうならそういう細部である。
芝居であれば、役者の身のこなし、ちょっとした台詞、小さな予期せぬ裂け目、そういうものである。

何が言いたいかといえば、細部がある限り、ストーリーは芝居を妨げない、という意味である。一方で、細部の集積で台風を説明することが到底不可能なのと同様に、細部でストーリーを説明しようとする芝居は破綻する、ということである。

で、何でそんなことを考えたかというと、どっかの芝居のアフタートークで、田野氏が「ストーリーをやりたい」と言っていたのを思い出したからだ。

大抵の場合、ストーリーな芝居は細部が全体の奴隷となって観るに堪えなくなってしまう、そこをどう解決するのかが興味の中心だった。

田野氏の答は、「全速力で走り抜ける」ことだったように見受けた。もともとの二幕もの芝居を2時間一本勝負で。時間をかけて遊ぶ余裕を役者に与え ず、筋力で走りきる力技に出たと見る。若い役者陣と合わせ、恰も「小型だが強い勢力を保ったまま時速30KMで北上中」の趣。そしてそれは、この芝居につ いて正解だったように思える。2時間、時計を見ずに終わった。見終わった後は、Bloc Party のアルバムを2枚続けて聴き終えた、という感じ。

全体にストイックな中でバビィの良く動く眉毛が暴れたがっていて、それを上手く不発させて良いアクセントにしていた。仲俣氏の広い背中が印象的だ。その他役者陣もよし。OASISやBadly Drawn Boyという選曲はまんまイギリスで、冷静さを失ってしまったよ。

一つ気になったのは、戯曲から伝わってくる、あるいは、イギリスにいれば極々普通に体験するところの、イギリス女性の「肉欲アブラギッシュ」感の、舞台上での欠落か。
女優が「いやらしくなければならない」とか「色気が足りない」とか言っているのではなくて、むしろ、
50になって12歳年下のボーイフレンド、とか、金曜日は香水増量、リフトが臭うぞ、といった、イギリスのオフィスでごく普通に起き、語られていることを、日本で舞台に載せたときにどう料理するか。だって、日本で「肉欲万歳!」とか、あけっぴろげにいってもなぁ。

逆に、ふにゃふにゃ、うじうじした男は日本の役者の風土によくはまるんだよな。それを評して、「だから翻訳劇はゲイものが良くなっちゃうんじゃない?」というヒトもいたが。

でも、そういうところも踏まえ、また、言葉の選び方の繊細さにも支えられ、「翻訳劇」も楽しいじゃないか、と思ったことです。楽しかった。

2007年9月6日木曜日

こまつ座+シスカンパニー ロマンス

05/09/2007 ソワレ

休憩を挟んで3時間の芝居が最後まで途中退場なしに観れたのは経験豊かな役者によるところ8割(あとは意地)。ただし、観ながらずっと感じていたのは、
「この芝居を観ている人たちは一体どんなことを考えているのか?」
である。皮肉でなくて。

①スタニフラフスキに、「ペテルブルクの芝居は大げさすぎる。クサい」と言わせながら、当のスタニフラフスキがチェーホフにキツイこといわれてコーヒーカップかたかた鳴らす演出について

②オルガとマリヤが「リアルな芝居」について話していたところに入ってきたチェーホフが、入ってくるなり驚いて鞄の中身を放り出して尻餅をついてしまうことについて

③トルストイに、「芝居というものは物語を始まりから始めて終わりに向かわせていくものだ。チェーホフの芝居は逆立ちしている!」と言わせ、 チェーホフにそれに反論させながら、実は「ロマンス」はチェーホフの作家としての人生を始まりから始めて終わりまで追っていることについて。

真剣に。観客のみなさん、どうお考えなのですか?
よってたかってオレをかつごうとしているのですか?

これは、そういう演劇的とされるものについてのアイロニーを描いた芝居なのですか?それとも僕はもっと素直に感動すべきなのですか?

誰か、教えて。

2007年9月3日月曜日

燐光群 白髪の房・三人姉妹

02/09/2007 ソワレ

久し振りに坂手さんの芝居を観てがっかりした。三人姉妹の方。

白髪の房は、フィリピンの戯曲家による原作の英訳をさらに和訳、という戯曲を燐光群ベテラン役者陣が演じる。芝居そのものよりもむしろ先ず、チラシに描いてある役者陣に目を奪われる。鴨川さん、天使の羽根が生えちゃって...

このテの、重たいテーマにナタで立ち向かうような、言い方を変えて訳知り顔に言えば、ちょっと古拙の香りがする芝居では、おそらく、燐光群のよう な、まさに坂手戯曲をナタで調理してきた役者が合うのだろう。そういってしまう僕は、ひょっとすると燐光群に対する点が甘くなっているのかもしれないが、 ともあれ、最後まで観れた。

嫁を見送った当日だったこともあり、自分の30年後を考えたりして、妙な気分だった。但し、涙はない。涙を誘う演出はおそらく無かったし、そうなっていたらもっとつまらない仕上がりになっていたはずだから。
2つケチをつけるとすれば、何箇所か翻訳がこなれていなかったのと、音楽の使い方、くらいか。

これに対し、「現代能楽集 三人姉妹」はがっかりもいいところで、内藤演出は不発。役者がワーワーがなるばかりで戦場の緊迫感は無く、三人姉妹も 劇中劇だからわざとダサい演技なのか本当にダサい演技なのか見分けつかず。もともとの緊迫感も無いから弔いの儀式に癒し無く、これではとても成仏できま い。残念。

狐狸狐狸ばなし

02/09/2007 マチネ

初演は3年前とのことだが、小生初見。
今年観たナイロン100℃で岸田戯曲を見事に料理する手管に見惚れ、今回はさて如何かと本多に足を運べば、ここでもさすがケラ演出、最後までこのテの芝居を観てなお飽きず、またもやられてしまった。

ナイロンの時と違うのはやはり篠井さんがいることで、篠井さんは本当に花がある。その花を引き立てるのがわれらが務めと割り切ってか、ラサール石 井・板尾創路、ともに身の程知った大人の演技を感じさせ、六角氏もこういうアンサンブルの中で観ると活きるといって差し支えない。こないだのコクーンとは 大違いだ。

ケラ氏曰く、これは軽演劇であると。まさに。この軽さで最後まで走りきる手管はまさに名人芸で、実は全くテキトーとは対極にあるこまかぁい演出が入っているのだろうと思いつつ、それを忘れて見入るのもまた、小屋の大小に関わらず、芝居の楽しみの一つである。