2009年2月28日土曜日

燐光群 屋根裏

27/02/2009 ソワレ

燐光群へのLove-hateな感情に終わりなし。
素晴しい発想、簡素かつドラマチックな舞台。24のシーンに小分けされた2時間15分、一つ一つのシーンが暑苦しくなる前に次のシーンに進んで、いつも燐光群の舞台に感じるくどさ・くささが立ち昇らない。どうやら僕は、「放埓の人」もそうだったけれど、ペース・展開を速くして役者に余計なことをさせない燐光群芝居の方が趣味にあっているのではないかと思う。

あとは、想像力の起点をすごく小さいものに置いたことで、いつもの、「坂手さんの問題意識、観客席を引っ張ってるつもりが実は観客遠く置いていかれている」状態に陥らなかったのも良し。

川中母さん、キュートさ抜群で、よし。15番目のシーンで満を持して登場した鴨川さん、良し。猪熊さんも飛び飛びのシーンできっちり芝居の臍を締めて、これまた良し。芝居のキーになるという点では、大西屋根裏ハンターも良し。でもなー、やっぱりなー、もっと分かりやすくない演技でも、充分世界中で通用する力強い戯曲だと思うんだけどなー。もっともっと、いわゆる「現代口語」系の演出・役者でも面白く出来ると思うだけどなー、と思ってしまう。

でも、迷ってた僕に、「屋根裏、いいよ」と薦めてくれたNじまさんには、とっても感謝です。

龍昇企画 風景の没落

25/02/2009 ソワレ

初日。
一言で括れば、インテリ老人キャッツ。
太宰治の「斜陽」をベースに、一つの土地の記憶が、憑依される人々の口から語られる。あるいは、老人達が解説を加える。その、一人ひとりが順繰りに物語を語って見せる(観客を演じる役者と、観客席に居る観客へ同時に)様が、どうにもキャッツ。五反田のキャッツシアターで語られる「はずかしい」台詞に堪えられないお年寄は、是非この老人キャッツの「はずかしさ」への呪詛を聞くが良い。が、客席にいた僕にとっては、正直、その呪詛の言葉こそがはずかしかった。

登場する老人達、折口・柳田・石田と名前が並べば、MBAをとってなくともインテリならば趣旨を了解するだろう。インテリじゃない僕は「石田」の名前にはピンとこなかったが、googleで検索すればすぐ分かる。

こういう、作者の思いをストレートに台詞に書いてしまうのは、若い劇作家がよく犯す過ちだと思っていたら、そうでもないらしい。言ってることにはうなづけないこともない部分もあるけれど、でも、それって、芝居として面白いかどうかとはまったく別の話。

当パンに書かれている演出家の言葉「稽古場で、台詞を立てられない、アイコンタクトが出来ない、指し示すことが出来ない、相手の台詞を捉えることができない演技者を見るにつけ、つくづく演劇は原初的な情報の伝達作法の中にあることを感じさせられる」も、あぁ、なんだかとっても怒ってるねー、とは思うけれど、それと、舞台上の芝居が立ち上がるかどうかは別の話で、あれ、ひょっとして、
「今回の芝居がつまんないのは俺のせいじゃない、役者のせいだ」
って言ってるわけ?なんていううがった読み方さえ出来てしまう。

インテリの使う言葉としての文語の役割についても、ちょっとなー。「文語の情報を口語に置き換える作業をしなくなった」ってのは、それはそうだけど、だからこそ、「語られる口語の情報を自分の口語に置き換える作業をしよう」ってのが現代口語演劇の問題意識の一つのはずなんだけど。

ま、そんな芝居をニコニコとしてごらんになっている年配の観客方がいたのは、不思議というか、救いというか。こういう文法の芝居もある、ということか。

小松杏里さんを舞台で拝見するのは「まいらない男たち」以来なのでとっても楽しみにしていたのだけれど、今回は残念。(幸か不幸か)ワンマンステージを与えられなかった堀夏子が「口語演劇」で健闘。

龍昇企画、次回、「モグラ町」の続編をやるというのがとっても嬉しくて、それは収穫。

2009年2月24日火曜日

ポツドール 愛の渦

22/02/2009 ソワレ

真剣、面白かった。
2年前にポツドールの芝居観て、「二度と観ない」と思ったくせに、懲りずに観に行ってしまったのだが、2時間20分、これならぜんぜん長くない。

「恋の渦」「激情」とどこが違うかというと、やはり、物語に絡め取られない役者の立ち。この「愛の渦」にも、ペラペラな物語や、ペラペラな「意外な展開」は散りばめられているのだけれど、そんなものは最後にまとめてティッシュに丸めてポイッ、という態度が満ち満ちて、だって所詮、ただのスケベだし、みたいな潔さが素晴しい。

セックスのシーンとか、妙な猥談で盛り上がったりするようなシーンは、「なくもがな」とも感じちゃったりするけれど、それは、全体の緩急のアクセントになっていたり、ペラペラ感増大効果を生んでたりして、決して無駄でないのだ。そう。最初から最後まで、すけべ、以外に何もないのだから、その周りにある全てのペラペラなものが、ペラペラなものとして、立ち上がってくる。そういう意味で、全てのシーンに無駄がない。

あと、思ったのは、特に女性の「かわいい、かわいくない」って、作者によって違うのかなー、ということ。この芝居の作者は、「これなら最大公約数だろう」という基準を想定して「かわいい、かわいくない」の設定をしているのかなー?そこら辺のところ、作・演出の感覚・趣味と、最大公約数ではないかと思われる感覚・趣味と、特殊と思われる感覚・趣味と、作中人物の特殊な趣味に即した感覚・趣味が、もうちょっと分かりにくく、どうしても謎々が解けないぞ、くらいに変でも面白いのではないか、と思ったりしました。

2009年2月23日月曜日

三条会 ロミオとジュリエット

22/02/2009 マチネ

入場すると、舞台に描かれた絵がとても綺麗で、これは良し。

が、どうもおかしい。三条会の芝居を観てて、「入っていけない」気分を味わったことはこれまでなかったのに、どうも、遠い。もしかするとアトリエで見慣れてしまったために、妙に舞台が遠く感じられているのかもしれない。僕がロミジュリ好きじゃないからなのかもしれない。

何だか、ボリューム一定、スピードは巡航速度、時間をたっぷりとって、というシーンが多かったような気もする。ちょっとうとうとした。前日のあなざ事情団もそうだったのだけれど、余程自分のコンディションが悪かったのに違いない。

渡部友一郎の神父役はとても面白かった。「ベース持ってコードかき鳴らす振り」なんていうふざけたもグー。「ケーブルが垂れてて、どっかでアンプに繋ぐ気か?」と思わせてやっぱり何も起きないのもとても良い。

あなざ事情団 三人姉妹

21/02/2009 WS+ソワレ

三人姉妹は、甥っ子の誕生日に大阪でWS+公演にお邪魔してるので、二度目。でも、バイリンガル版はもちろん初めて。

WSがとても面白かった。観客とのコミュニケーションが、馴れ合いというか予定調和に陥らず、、期せずして演じ手の期待していなかった反応が返ってきちゃったときの演じ手の反応(困っちゃったり、強引に振り切ったり)に、とっても演劇的なものを感じる。

で、三人姉妹の公演。やはり大阪と東京とでは、客の突っ込み方に違いがあった。大阪で観てた時の(まぁ、就学前児童も参加してたのもあるが)あの緊張感は、今回は無し。
と思ってみていたら、なんだか集中力が切れてしまって、勿体なかった。
やっぱり、初見の時の方が、
「どこでどういじられるか分からない」
ドキドキ感が強かったこと。あと、東京では観客の「予想外の困り方」「予想外の反応」が少なかったのが原因でしょうか。それとも、単に僕がお腹が減っていたからでしょうか。

あ、そうだ。「開いた空間」よりも、やっぱり、春風舎のような「閉じた空間」でやった方が、観客の集中力も違うのではないかな、と思ったんだ。周囲の暗さとか。

カナダでは、きっと、観ている側も演じている側も、一瞬先は闇のドキドキ公演になること間違い無し。そのときの話は是非ゆっくりお聞きしたいなーと思っている。

2009年2月21日土曜日

中野成樹+フランケンズ 44マクベス

20/02/2009 ソワレ

2時間10分、ちっとも長くない。ともすれば変な臭いのつきやすいマクベスを、すっきり味で料理してみせた印象(誉めてます)。

正面に芝生が植わったアメリカの中流家庭"風"(僕はその現物をみたことがないので)の一軒家をかたどる舞台は、8つのコンパートメントを役者が行き来する様がドリフの様でもあり、いかにもペラペラのセットがサドラーズウェルズで観たマシューボーンのEdward Scissorhandsみたいでもある。

現代口語の魔女達と、新劇言語のマクベス・バンクォが出会うシーンは、いきなりザラついて楽しい。王様のいるシーン、夫婦のシーン、魔女のいるシーン、門番のシーン、と、シーンによって言葉も違う。時間の流れ方も違う。そこら辺は、演出・役者とも「上手に」処理してあり、そのザラつきがシェークスピア戯曲の流れを邪魔しないように出来上がっている。

ペラペラのセットの上で、現代風の「いかにも現代の生活をペラペラに表象しているかのような衣装をまとった」役者達が、(有体に言えば)中世スコットランドと現代のペラペラな生活を二重写しにしてますよー、と言いたげだけれども、その思いつきにもたれず、思い付きを押し付けず、飽くまでもシェークスピアの戯曲を立てるスタンス。そこがちょっとスカしているようでもあり、でも、成功しているから文句はつかないだろう。

上演開始50分でもうダンカンが殺されちゃって、え、この後2時間10分まで何を見せるつもり?と思ってたら、門番のシーン・殺し屋独白でたーっぷり時間をとって、それがまた面白く、時間を忘れた。

なんてことないように見えるんだけど、実はかなり凝ってますぜ、という意気を感じる。現代の英国で現代風に力抜いてシェークスピアをやろうとすると、このアプローチに近いのではないかとも思われた。

ゴジゲン たぶん犯人は父

18/02/20009 ソワレ

ゴジゲン初見。初日。

何だか、受付・客席・舞台装置の感じが、古きよき学生演劇っぽい、と思っていたら、何と現役の学生がやっている劇団だった。「学生演劇っぽい」というと、何だか小ばかにした上から目線のコメントみたいだけれど、けっして悪い意味でもなくて、例えば、客層の何ともいえない暖かさとか、「出演者が息子の友人だから」みたいなノリも、最近アゴラでは見かけないなと思うと、ちょっと懐かしかったりする。

で、芝居の方にも、学生演劇っぽいイキのよさを期待したが、テンポ勝負のウェルメイド指向。協力にとくお組とかヨーロッパ企画の名前が出ていて、あぁ、そうか。と納得。予定調和は予定調和で割りきって、1時間40分どうやって観客をエンターテインするかをテンポで走りきった。

出だしで思ったのは、「あ、あなた、ヒップホップの人なの?じゃ、ちょっとやってみせてよ」なノリに対して、2つの方向があるということ。
方向1 そこでヒップホップをやって見せる
方向2 「えぇ?」でも、こんな場所で、どうしよう。ねえ?と、困る

①はゴジゲンのパターンで、分かり易いし、上手く行けばそこで笑いも取れる。どんな人かも表現できる。乱暴に括るとウェルメイド指向。
でも、僕は②の方が見たくって、だって、普通、人前で、「ヒップホップやってよ」って言われて、やる人いないじゃん?そこでどんな風に困る人かに興味があるよねー。という、青年団パターン。

①をケラさんとかヨーロッパ企画がやると、「舞台上からの上から目線かよ」といきり立つ小生ではあるが、そこは、学生演劇だからこそ許される部分もあるというか、何というか。そこから、如何に観客の期待を予定調和からずらしていきながら、リアルに、そして、「ありきたりのテレビドラマが生で見れる」以上のものを劇場で味わってもらえるか、というところを、どんどん頑張ってもらえたらなー、と、(あ、マズい、またも爺の繰言か?)、思った次第。

2009年2月16日月曜日

キラリ☆ふじみ グランド・フィナーレ

15/02/2009 マチネ

千穐楽。
一体、何がどうしてしまったのか。僕には幕開けから終幕まで、全てがバラバラに見えて、フォーカスできない間に終わってしまった。

松田洋治の「力の抜けた」芝居は、失礼ながら「力の抜けたように見せる記号」にしか見えず、岩井秀人得意の会話のシーンも、役者の間の物理的な距離に加えてどんなスクリーンが間に貼ってあるのか興味の突破口とはならず、オルターエゴ佐藤たちの80年代小劇場風な身振り(これは誉め言葉ではありません)も力を発することなく空間に吸い込まれていく。キラリの空間がいつになくひろーく感じられる。突拍子もなく出てくる英語の台詞も、「あぁ、オーストラリア訛りって、聞いてて気持ちいいよね」以上には意味が分からない。

「佐藤、東京の盛り場で小林に説教される」シーンの小林の長台詞で、ついに就寝。小林役の役者が悪いのではない。そこに至までに、僕は充分に集中力を失っていたので。あ、そのシーン終了後起きましたが。念のため。

最後、歪んだプロセニアムに幕が引かれるに及んで、
「あぁ、この芝居は、プロセニアム芝居にかろうじて歪みを加えたのだろうか?」
と思った次第。

何が良くなかったのか?
a. 小生の体調が悪かった(花粉症発症2日目)
b. ストレスレベルが上がっていた(芝居以外のプライベートなこと+仕事)
c. 単に芝居の観すぎで疲れている
d. 岩井戯曲に問題があった
e. 演出に問題があった
f. その他プロダクションに問題があった
どうにも分からない。こんなに、舞台に入っていけないことも珍しい。
ひどい芝居を観てても、
「ここがどうにも許せない!」くらいの具体的なアラが見つかるはずなのに。

かなり精神的にダメージを受けた。良くない。誰か、面白いところ、良くないところ、教えてください。

2009年2月15日日曜日

初期型 Dumb!

14/02/2009 ソワレ

冒頭から、「とにかくなんとしても突き抜けろ!」という気合が溢れ、カッコいい。
性別年齢問わず暴走する身体を見せにかかられると、僕は、弱い。

男女許して許さない合戦の重森氏の小芝居に笑い、カワムラ氏の昆虫ムーブメントに驚く。
が、一番印象に残ったのは、今回拝見したメンバーの中で唯一初見でなかったピンクの須加さんで、正直、とても驚いた。アゴラでピンクを観た時の、「構成にずるさが欠けているために炸裂仕切れていない感じ」が、初期型では一切なくて、とにかく、伸び伸びと、輝いていた。ホント、楽しそうに見えたし。

なんか、やっぱり、楽しかったな。90分、あっという間だった。最後、むちゃくちゃにメーターが吹っ切れた感じ、加速度全開で終わる感じはなかったけど、この人たちになら、もうちょっとアコギでズルいことされても、許しちゃうと思う。

コマツ企画 汝、隣人に声をかけよ

14/02/2009 マチネ

あれー、何だか、集中できないなー、と思って観ていたら、終わった。
うむ。上手だし、ソツもない感じだし、物語に嵌りこまないような工夫もあるし、一体、何が自分にとって気に喰わなかったのか。あるいは、何故、面白いよー、と言えないのか。

うーん、何で入り込めなかったのだろう、と感じてる時に思い出したキーワードが、平田オリザ登録商標の「セミ・パブリックな空間」。この作品、セミ・パブリックな空間の中で人と人を合わせるよりも、むしろ、プライベートな会話を重ねて、それをすごく狭いパスを通して他のプライベートな世界と結び付けようとしてるんじゃないかな、と。

だから、個々のプライベートなスキットは、それだけではちょっと入りづらい印象があって、そこから、「実は個々のスキットが繋がっていく」流れを見せられても、観客としては追いづらかったのではないか。少なくとも、僕には。

平田の「セミ・パブリック」という考え方は、舞台上に事件を起こすのに役に立つだけでなく、観客が舞台上に移入できるための補助線の役割も果たす、極めてずるい概念である。そのずるさを敢えて避け、プライベートな空間で90分紡いじゃおうという心意気やよし。

旧劇団スカイフィッシュ 適切な距離

13/02/2009 ソワレ

観ている間「時制と人称の不一致」ということをずっと考えていた。
母親との関係が緊張している息子が上演する芝居。演じる役者。それを紹介する友人・本人。
そういう入れ子構造をもって、テクストが役者によって読まれていく。

「時制」というのは、例えば、
(a) 演じている人の言葉=役の言葉。<演技> ⇒ 時制は一致、一人称
(b) 演じている人の言葉=劇中でさらに演じられている人の言葉。<劇中劇> ⇒ 時制はずれる。
(c) 演じている人の言葉=役の言葉。語られる内容は他者。<紹介> ⇒ 時制はずれる。三人称。
いずれのケースでも、観客は、演じている人しか見えていないし、演じている人の身体にしかリアリティを感じられるきっかけを持たない。

スカイフィッシュで気になったのは、(b)(c)の形態をとりながら、役者の感情が盛り上がっちゃうケース。それって、盛り上がってるのは、声を張っているのは、だれ?物語を追う視線では、もちろん、語られている人だったり、演じられている人な訳で、すると、「語る人」には、別の感情の流れがあるはず。それはどこに行ってしまったのか?そういう時制と人称のズレが行き過ぎると、「クサい」芝居になる。語りの身体性のリアリティ無しに、感情の流れに移入してくれと強制されてしまうので。

ただ、今回の「適切な距離」がクサかったかといえば、方法論が表に出た分、それはなかった。一方で、構造の強度が充分でなかったために、物語に流されそうになった局面が多々あった、ということだろうと思う。

所詮芝居なので、時制と人称はどこかで矛盾をきたしているはず。その、矛盾に見える点を丁寧に作りこめば、構造の強度はもっと上がるはずなんだけどな。
と、それが、チェルフィッチュのすごいところなんだ、と気がついた。あの語り口と身振りに騙されちゃいけない。岡田戯曲のすごいところは、語りから入って演技と行き来する、時制と人称のつなぎ目を、恰もそんなものがないかのように塞いで繋ぐ手管にあるんじゃないか。と、今更のように。

アフタートーク、杉原氏の「残念、拷問、疑問」。率直、かつ、僕からみたこの作品の良さを損なわないコメント。「疑問」にあった、作者と演出との緊張関係が止揚されて新たな高みに行っていない、という指摘は、多分当たっていて、色んな趣向に当たってみる前に、一つの趣向の強度を上げる(それは、ちまちまとスキマを目張りする苦痛に満ちた作業かもしれないが)形で、演出と役者がもっと追い込まれれば、大変なものに化ける可能性は、まだまだある。

2009年2月14日土曜日

スロウライダー クロウズ

11/02/2009 ソワレ

ホラーの物語の作り方としては、素人の僕から見ると、「予定調和」や「やっぱこうくるよ」や「あ、これ、あの映画のパロディね」みたいな撒き餌を散りばめながら、それに上乗せしてドキッ・ぞくっとさせるところに肝があるのかな、と思ったりしている。

今回のスロウライダー、ゾンビもの。小生、ゾンビ映画は名作 "Shaun of the Dead" しか見ていないのだけれど、その映画にもあった、
「ゾンビもののシーンって、なんか、ほんとに危ないシチュエーションなのか、よくわかんないんだよね。画面の中にはゾンビ溢れてるけど、画面の外はどうか、ちゅう話だし。なんか、ゾンビの動きも、ひょうきんといえばひょうきんだしさ。ウソくさいよね」
という、創り手と観客がある程度共有している感覚を舞台に持ち込んできた。

が、演出が意図してか意図せずしてか、この芝居、ゾンビもの物語としてエクストラの「ドキ」「ゾク」を生み出すことはなく、従って、ホラーとしては、最後の落とし方も含めてどうかと思ったりしたが、「これってウソンコだよね」感をかなりひろーく押し広げた舞台で、それがとても面白かった。

県の防疫課の2人の仕事と関係なさそうな素振りと無防備ぶり、小屋のオーナーのゴルフクラブのウソ臭さ、埋葬屋のインチキっぽさ。インチキ医者のインチキな経歴。ゾンビたちのいかにもな登場の仕方。
極め付きが「生涯最高のツボ」!あの紙粘土を生涯最高と呼ぶ(あるいは呼ばせる)のは、ゾンビだから感覚が変なのか、コミューンの周りが気を遣っているのか、ヘリで来たアーパー娘も含めて(今の日本の世相も含めて)みーんな眼がどうかしちゃってるのか、それともこの芝居のプロダクションのカネが足りなかったのか。全く不明。どうとでも取れる。

僕は、「コミューンのみんな、『こりゃダメでしょ』と思いながら気を遣っている」説を採る。

舞台上の人物達がサトルを笑ってよいのか悩んだに違いないのと同様、僕もまた、あのツボにどう反応すればよいのか、困ってしまえば良いのです。

その困り方。ホラーに付きものの予定調和や、舞台上のではけ口の作り方等々、
「ウソンコなんですよ~」
なものがカオティックに散りばめられて、それがぎゅっと着地していかないところに、何となく「劇団の最終公演」な匂いを感じたりしたのである。

ちっちゃなエイヨルフ

11/02/2009 マチネ

タニノクロウ演出によるイプセンは「野鴨」に続き2度目の拝見。前回同様、きっちり読み込んで、輪郭をくっきり浮かび上がらせた端正な演出。

「野鴨」はただただ救いがない話を生真面目に綴る退屈感が強かったけれど、この「ちっちゃなエイヨルフ」では、一人ひとりの罪の意識、救い(or 救われた、救われたかもしれないという勘違いなのか妄想なのか現実のことなのか)、前向きさ(と、これはほぼ確実に前向きだと思い込むだけのこと)が織り込まれていて、ラストの、
「本人達は、ちょっとだけ自分が救われている気になっても赦されるのかな、と思い出した」
くらいの着地が、心地よかった。Nick Hornbyの小説の終わり方に、ちょっと似てる。決してハッピーエンドではないが、救いのめもなくはない、というところ。

1987年、紀伊國屋で第三舞台を初めて見たときに、「勝村さんって、いい役者なんだな」と思ったのをとてもよく覚えている。ソナチネを見たときも、そう思った。今回もそう。
タニノ氏の演出をきちんとこなしつつ、その中に秘めている(のか隠してはいないのか)プロレスごっこ魂というか、「暴れたい魂」というか、野性みたいなものが、随所で感じられて、結果、役者間の距離感や身体感覚にウソンコがなくて、ラスト近く、夫婦で手を握り合うシーンがきちんと伝わった。
うずくまるシーンで、突き出たお尻のズボンの下に「黒ブリーフ」が透けたのはご愛嬌。昔から、本番は黒ビキニで気合入れる人、実は結構いる。

とよた真帆、「にっぽんの、じょゆうよぉ!」なのか「西洋風、肉欲万歳!!」なのか、何だか中途半端な気も最初したけれど、ラストに向けてその中途半端な向き合い方が、これまた良い具合に「リタの現実との折り合いのつけ方」に着地して、結果、良し。

勝村さん、とよたさんのキャスティングも含め、これって、演出タニノ氏の勝ち、ってことなんでしょうか?ま、何はなくとも、マメ山田さんは手放しで凄いんですが。

2009年2月9日月曜日

国立劇場 二月文楽公演 女殺油地獄

08/02/2009 ソワレ

人形浄瑠璃観たのは、ロンドンSadler's Wellsに曽根崎心中が来た時に見たっきりで、その時には、芝居もすごかったけれど、「日本の伝統舞台=歌舞伎=女形=女装趣味」と決め付けてバッチリ決めてきたゲイカップルの多さに目を見張ったのを覚えている。

今回、国立劇場に初めてお邪魔して、さぁ、どんなもんだか観てみようと思ってたらこれがもう面白くて面白くて。最後列だから人形の顔はよくは見えないのだけれど、人形のちょっとしたそぶりが面白くて、伝わってくる。
冒頭の喧嘩のシーンの華やかさ。河内屋のシーンの駆け引きの中での立ち居振る舞い、いずれも息を呑んで見る。
が、与兵衛がお吉に一発目斬りつけた後の、あの、放心とも覚悟ともなんともつかぬあの「立ち」にぐっと来た。上手から下手まで、油でさーーーっとすべるのにもぐっと来た。

そしてなにより近松氏の戯曲。極道息子の破滅一本道、という一直線なプロットでありながら、そこにえもいわれぬ襞を縫いこんで、結末が見えていながら一時も飽きさせない構成は見事の一言で、いや、これだけ書ければ何百年も残るでしょう。心から納得した。

2009年2月8日日曜日

PORT+PORTAIL 年をとった鰐の話

08/02/2009 マチネ

影絵とダンスを組み合わせてすっごく綺麗に舞台を見せてくれて、それが面白かった。冒頭の影絵でグッと引きこまれ、ラスト近くのダンスと影絵入り混じったパフォーマンスを本当に楽しんだ。

ただし、「年をとった鰐の話」のお話はあんまり面白くなくて、かつ、テンポと明るさが変わらないと眠くなってしまった。特に、シーンとシーンの境目。これは、観ている僕の疲れ具合にも夜とは思うけれど、もうちょっとペースに変化があったらなー、と恨み節。

もっともっとストーリーから自由に、ビジュアルとノリ優先で影絵+ダンスパフォーマンスを構成したら、何だかもっとすごいものが見られるような期待感はたっぷり。・・・って、要は、僕が、「年をとった鰐の話」が気に喰わないってことでしょうか?・・・いやいや。真面目に、ストーリーの枠がはまることで、テンポや明るさが拘束されて自由度が制限されたのが残念、ってことなんです。

五反田団 俺の宇宙船、

07/02/2009 ソワレ

五反田団の神通力も三鷹までは届かないのか、星のホールには空席もちらほらあって、勿体無い。

相変わらず(全面的に建て直さない限りは)ひろ~い星のホールで、五反田団の芝居をどう見せるのかと思っていたら、舞台装置はやっぱり「ぎゅっと詰め込む」よりも「ふわーっと広げる」感じ。芝居の作りも、一点に焦点を当てないように、当てないようにと作っていた。あの広い空間を埋めに行っても勝ち目はないので、それはそれで正解。
でも、狭い小屋で観ればもっと余計なことが沢山見えたり想像されたりするところが、ひろ~いところだと、やっぱり動きを追う作業に追われて、「小さいものが見えにくい」「余計な妄想力を働かせにくい」嫌いあり。まぁ、それは、芝居の出来不出来ではなく、僕の好み。

<以下、若干のネタバレありです>

大山雄史の「お前、どっからその台詞回し借りてきたんだよ!」と思わず突っ込みたくなる台詞ぶりや、齋藤庸介の運転手の板についたサマは、「新年工場見学会はこのための練習だったのか?」と思わせる。大山氏、あんな風に、借り物な上っ面の言葉を「台詞として、借り物のように」言えるのはすごい。鳩狩り三人組(古典!)も楽しい。

川隅奈保子が舞台にいる時間が最も長くて、全体の構成も、彼女の妄想を起点としながら焦点を絞らせずに風呂敷を広げて、最後はしゅ~っと畳むように作ってあるのだけれど、その焦点の定まらなさと、妄想/現実の狭間を意識しているのか意識していないのか、外からは分かんないぞ、というポジションに、川隅氏、上手く身を置いていたと思う。さすがであった。

あぁ、でも、こうやって振り返ってみると、改めて、紋切り型の芝居なら1分半で済ませるシーンを、個人の妄想と現実の境を梃子にして思いっきりマッチポンプ式に膨らませて、1時間30分の芝居に仕立ててしまう前田氏はすごい。

2009年2月7日土曜日

Peeping Tom "Le Sous Sol"

06/02/2009 ソワレ

「最高にスキャンダラスなダンス」というチラシのキャッチコピーには反吐が出るが、パフォーマンスそのものは楽しんだ。

半分土に埋まった部屋に(おそらく、亡くなったばかりの?それとも、亡くなった夫を追いかけてきたイザナギを演じる?)老婆が訪れる。
そこで老婆が目にする、黄泉の国によどみ漂う生の記憶のオンパレード。

あぁ...こう言っちゃうとやはり陳腐で、キャッチコピー通りの反吐の出る説教臭いパフォーマンスだったように聞こえちゃうかな。

言い直します。設定とか(読み取らせる)物語は、スキャンダラスでも禁断でも本質でもなんでもない。が、わかりやすいといえば分かりやすい。一方、動きは面白かったし、(素人目には)とても上手でした。

顔と顔がひっついた2人のダンス。次に、一方の首がとれて、その切り口が他方の胸にひっついたダンス。次に、腰で繋がったままアクロバティックな体位を繰り広げる男女。
「これ、コンビネーションで3人で出してくれたら面白いぞ」
と思ったら、きっちりその期待に応えてくれた。3人でくんずほぐれつ顔×顔×腰、腰×腰×顔、腰×腰×腰、となるうちに女が外れて、男同士後背位ではけていくシーンにはニヤッとした。

それにしても、終演後、30分かけて「客席の掃除をしてから」トークの時間って、どうよ?
僕は帰りましたが。30分待ちってのはいかにも中途半端だったのだけど。

キリコラージュ 「それでつくります。」

04/02/2009 ソワレ

初日。アゴラ冬のサミット初日。

うーん。ソロと群舞と大喜利の間をふらふらとさまよって、着地点のない感じだった。
冒頭、ストウさんと外山さんの2人のシーンはとっても良くて、いきなり引き込まれた。同じ姿勢をとる二人の足の開き方の違いさえもが、ぐっとせまってきた。

が、他の出演者のソロがまぶされる、あるいは、面切ってレビュー方式の場面になると、途端にそこが中途半端になって、客席を向いているのに客席に迫ってこない。パフォーマーの身体が面白くないわけではないのに。むしろ、客席を向かないときに場が出来かける。でも、客席を意識するとそれが壊れる。観てる側としては、
「もっと、舞台上本位で炸裂してくれ!」
というフラストレーションがたまる構成だった。

そういえば似たようなフラストレーションを感じるパフォーマンスが去年もあったような・・・PINKのお2人もそうだったな。
要は、魅せ方にケレンなし。ズルさ一切なし。悪く言うと、見せ方がウブな感じ。
こういうニュアンスを、「アゴラで観るパフォーマンスっぽい」といってはダメかな?
このカンパニーがそうした「ちょっとした」引き込み方やカタルシスのちょい出しを身に着けたときに、もう一つ皮が剥けて過激に面白くなるのか、観やすくてつまらなくなるのか、楽しみではある。

2009年2月5日木曜日

あなざ事情団の稽古にお邪魔した

あなざ事情団「三人姉妹」の稽古にお邪魔した。

「あなざ事情団」というのは、僕の大好きなあなざーわーくす演出のわたなべなおこさんの「あなざ」と、山の手事情社の倉品さんの「事情」と、青年団の松田さんの「団」を合わせて、「あなざ事情団」です。
昨年は大阪まで追っかけて、甥っ子の誕生日にあなざ事情団の「三人姉妹」、一族で観たわけですが、今回は、何とバイリンガル版で再演。

http://www.letre.co.jp/~hiroko/threesisters

観客参加型演劇なので、役者だけではなんとも稽古しにくいところもあって、小生、「観客の役」で参加。お察しの通り、役者が観客をいじるいじる。いや、いじるというよりも、「使う」。
本番で観ると、自分は1箇所にじっと座っているので、一通りのいじられ方しかないのだが、稽古場だと、1人で何人もの観客の役をこなさなければならない。こりゃ楽しい。
一粒で何度も楽しめる。
を、地で行くわけであります。

バイリンガル公演ということもあって、随所に工夫あり、小芝居あり。
しかも、稽古中、観客役のわたなべさんが、「カナダ人対応」とかいって、椅子に座らないで中腰になって、「でかいカナダ人が客席に座ってたらどう変わるか」を試させてみたり、意地悪でいじりにくい客になってみたり、それも楽しい。本番中他の客席でそんなことがあったら、ドキドキして見ていられないだろうから。

そんなこんなで3時間あっという間にすぎて終バスの時間。満ち足りて帰宅。

3時間飽きないんだから、きっと本公演1時間30分くらい、飽きるわけがないですよ。お奨めします。

2009年2月1日日曜日

高山植物園 天の空一つに見える

31/01/2009 ソワレ

高山植物園、初見。4年ぶりの公演ということだが、高山植物園の旗揚げから前回の公演までの間、僕はまるまる日本にいなかったので、こういうことになる。

客入れ中の稽古風景はかなり面白い。その後の期待感高まる。
滑り出し、稽古部屋の入り口にフォーカスが当たっている辺りの展開は悪くないのだけれど、だんだんと「観づらく」なっているのに気付いた。

多分、舞台中央の土俵が邪魔をしているんだな、と思う。会話の内容が、小さくまとまって話すようなプライベートのことなのに、基本的に観客の視点が舞台の端へ端へと寄っていく。土俵の向こう側の相手に話さなきゃなんなかったり、土俵の上手と下手で同時に物事が進行すると、観ててシンクロがとりにくかったり。舞台の臍にいる小河原康二に視線が行くとピタリとはまって一瞬安定するが、またすぐどろろんとバランスが崩れる。

出演しているのはいずれも青年団の名だたるてだれ揃いだから、役者の力量というよりもやはり場所のやりにくさなのじゃないかと思う。第1回青年団プロデュース公演「麻雀放浪記」で、舞台上の全自動卓の存在感に舞台全体が喰われてしまったのを思い出す。

的の絞れないまま、食い足りない現代口語演劇で終わるのかと思ったら、突如残り10分でカチッとスイッチが入って、土俵の内外入り乱れてわーっと来た。あ、これまでの1時間強はこのためのマクラですか?といっちゃあ失礼なのだけど、もっと後半部分を観たい、あるいは、その匂いを前半から感じていたかった、という気がしてもったいない気分。