2016年9月28日水曜日

Into the Woods

06/09/2016 20:00 @Menier Chocolate Factory

1987年初演のブロードウェイミュージカル。今回、米国プロダクションをロンドンに持ち込んだら評判が良くて大入り満員。あんまり評判が良いので筆者も観に行った。
なるほどなるほど、こりゃ面白いや。
魔女に魔法を掛けられて子供が授かれなくなっちゃった夫婦が森に出かけていって、魔女に言われたアイテムを集めようとしたところで、赤ずきんやジャックと豆の木のジャックやラプンツェルやシンデレラに出会って、さあどうなる、っていう話。
前半から音楽や場面転換のテンポも良くて、ぐいっと引き込まれる。で、物語的にも3回転半ひねりが決まったところで、おおーって思って、そこでこれ。
「はーい、それでは休憩を挟んで後半でーす」

え? これで終わりかと思った!

一度そう思ってしまうとなかなか修正が効きにくくて、かつ後半はソロの「長台詞聞かせソング」が多くなって辟易したこともあって、長く感じてしまった。
前半の破天荒な展開を、後半でわざわざもう一ひねりひねって畳んでまとめなくても良いじゃないか、って思ったのだけれど、そういうものでもないのだろうか?

2016年9月27日火曜日

かもめ (Young Checkov三本立)

03/09/2016 20:00 @National Theatre, Olivier

チェーホフ初期作品三本立て一日一挙上演のラストを飾ったのは「かもめ」。やはり四大戯曲と呼ばれるだけあって、芝居の作りがとても面白い。
チェーホフの意地悪な視線の確かさとか、それぞれの登場人物のキャラ(一人の主人公に詰め込むんじゃなくて)が人間関係のねじれ、物語のうねりを産み出す様とか、そこから立ち上る、絶望とも希望ともとれる空気とか、そういうものの舞台からの立ちのぼりかたが、明らかにPlatonovやIvanovとは異なっていて、観応えたっぷり。
この三本立て、ラストは必ず鉄砲が出てくるのだけれど、鉄砲の使い方、とりわけ発砲の後処理も、かもめに一日の長あり。また、舞台上に水を張った美術も、この作品で最も生きていた印象。

このプロダクションは、もちろんDavid Hareの解釈に沿って輪郭が取り直してあるのだけれど、
トリゴーリンの「自らの空虚の自覚」「全てを自分が書く小説に取り込んでしまう視線の在り方」(= Death or Glory, Becomes Just Another Storyなんだよなぁ)や、
あるいは、マーシャがトリゴーリンのメモの世界に取り込まれない「我」を終始保ち続ける様、
あるいは、ニーナが最後のシーン、舞台脇のぬかるみを力強くジャブジャブ踏んで退場していく様、
その辺りが、特にこのプロダクションではよく見えた。

特に、ニーナがラストに見せる力強さ。至高の芸術にはとても辿り着きそうにないが、力強く、泥臭く女優を続けていくためにジャブジャブ水を踏みしめて退場するその一歩一歩が、少なくとも旅の終わりにどこかに辿り着くための一歩のように見える。一方的に「かわいそうな哀れなニーナ」で終わっていない。
表面上成功しているように見えていても、神経質に並べられた原稿のように吹けば飛ぶような自我が壊れるのを待っているトレープレフとは対照的で。

イリーナ・トリゴーリンの「行かないで」のシーンは、「そこで脚つかんで引き倒しますか!」っていうダイナミックな動きで吉ではあったが、角替和枝さんのあのダイナミックかつねっとりしたイリーナにはちょっと及ばず。でも、端正に、かつ輪郭にメリハリも効いて、上質のプロダクション。8時間弱の一挙上演を飾るに相応しい芝居だった。

Ivanov (Young Checkov三本立)

03/09/2016 16:00 @National Theatre, Olivier

チェーホフ初期作品一気上演、2本目はIvanov。これも初見。

「若い世代の、無根拠に理想に走ろうとする理屈っぽい情熱」 がイワーノフの過去として示され、
「理想や理屈とは関係のないその場限りの前さばきでふわふわと人間関係を乗り切っていく如才なさ」へのチャンスもそこに示され、
で、そこで起きる現実の反応は、

「理想に燃えて始めた田舎での事業が破綻してしかも妻が病気になって困窮する中で、
金持ちの娘から求愛されて、あぁ、これで病気の妻が死んでしまえば再婚できておカネも楽になる、そうなったらなぁ、と思いながら、
そんなことを考えてしまう自分が嫌で嫌でしょうがない、
でもそんな自分を憎む上から目線の自分すら嫌で嫌で、
しかもそれじゃあ他にしようがあるのかといえば、どんな打開策も開き直りも見せずに、出口を自ら切り開く努力を放棄して、
あぁ嫌だ嫌だと自己嫌悪の中でただただ自閉していく、目に見えて困ったちゃんな態度」

である。
プラトーノフと同様、理想と上っ面の現実の相克を主人公一人に負わせて、周囲の人物については、吝嗇な金貸し女も、その夫で物わかりの良いインテリ都会人も、インテリに憧れる娘も、その周囲のあんまり深く物事を考えていない風の人たちも、それなりにキャラ付けしているもののおしなべてイワーノフの内部に切り込むこともなく、その鏡となることもなく、
結局はこの芝居、最初から最後までイワーノフの内部の悩みがイワーノフの中で自己完結して、
まぁ、どこにも行かないんだろうなぁと言う物語の行き先が当初の設定から運命づけられていた。主人公オーバーストレッチ。周囲は添え物。

いや、イワーノフには世界がそのようにしか見えていなかったのだし、そのようにチェーホフは描きたかったんでしょう、という向きもあるだろうけれど、
筆者はそうは思わない。
だって、後年、そうした相反するモチーフを複数の登場人物に負わせて、芝居のうねりを生み出す芝居を、チェーホフ自体が書いて、四大戯曲として後世に残したじゃないですか。

2016年9月24日土曜日

Platonov (Young Chekhov三本立)

03/09/2016 11:45 @National Theatre, Olivier

昨年夏、Chichesterのフェスティバルで上演されなかなかに好評だったチェーホフ初期作品群三本立て上演。 David Hareの脚色が入って、Platonov、Ivanov、かもめ、の三作品。この土曜日は一日のうちに三本立て一気上演、ということで、それぞれ2時間45分、2時間30分、2時間30分、合計8時間弱を同じ劇場で過ごす(おそらく平均年齢60歳超の)勇者達が朝のうちからNational Theatreに集結。

筆者はPlatonovとIvanov未見。かもめは色々なプロダクションで観てきたけれど、好きなのは、中野成樹+フランケンズの「ながめみじかめ」と、角替和枝さんがイリーナ、柄本明さんがトリゴーリンを演じた東京乾電池バージョン。さて、どうなる?

で、Platonovである。まず思うのは「上演されないのにはそれなりの理由がある」ということか。四大戯曲に比べると、物語の重層感に欠ける印象。
チェーホフ芝居のモチーフとして出てくる
「若い世代の、無根拠に理想に走ろうとする理屈っぽい情熱」 と
「理想や理屈とは関係のないその場限りの前さばきでふわふわと人間関係を乗り切っていく如才なさ」
の2つを、この戯曲では、プラトーノフ一人(大学生の頃の情熱と、情熱は枯れたが性欲と機知は枯れない今日この頃)に負わせて、その2つの資質の対立関係を使って物語を駆動していく。
最後はもちろん破綻して終わるわけだけれども。

今回のプロダクションではJames McArdleが調子の良い伊達男を好演。冒頭、川の中をジャブジャブ歩いて登場してきた姿は確かに格好良い。前半の伊達男ぶり、口八丁手八丁から始まって、中盤の気持ちのぶれ、後半の「何でオレはこんな目に遭わにゃならんのだ?」に至るまで、安心して観ていられた。

観ていられたのだけれども、実はその「何でオレ?」っていうところが、観ていて苦しいところでもある。
この戯曲では、プラトーノフ本人が「何かに苦しんでいる」のにも拘わらず、そこに本人が自らメスを入れて切り込んでいく契機が与えられていない。いや、本人には見えてなくて一切構わないのだけれど、なすすべもなくプラトーノフが窮地に陥る様が、一種「自業自得だこのやろう」的な部分もあって、放っておくと、ただのドンファンものになっちまわないかい?という懸念がある。
最後は「ざまあみろ」ではなくて、「分かっているけど止められない」「前を向く契機はあった、少なくとも気づきのようなものはあったのにも拘わらず、そのように終われなかった」
ぐらいなことはあっても良いんじゃないかなぁ、と思ってしまう。少なくとも、モチーフの間の軋りをプラトーノフ一人に負わせるのであれば。

2016年9月21日水曜日

E15 (Edinburgh Festival Fringe 2016)

26/08/2016 18:30 @Summerhall

今年もLUNGはやってくれた。去年のエディンバラで最も心に残った芝居、The 56では、ブラッドフォードのフットボールスタジアム火災を題材にしてノックアウトパンチを放ってくれたのだが、今年は、E15で、自分たちを公営住宅から追い出そうとするカウンシルに立ち向かうロンドンのシングルマザーを描いて、これまた素晴らしい。去年のパフォーマンスがラッキーパンチではなかったことが存分に分かって大満足だった。
(昨年のThe 56について筆者はこんな風に書いている:
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2015/09/the-56-edinburgh-fringe-festival-2015.html)

実際にE15の会場に入るまで、これがLUNGによる公演だと認識していなかった。開演前に、昨年The 56に出ていたBilly Taylor(彼は本当に、一度観たら忘れられない良い役者なんだ)がチラシを配っていて、あれ?と思ったのだが、芝居が始まってから、「去年のThe 56の役者がもう一人出ているじゃないか」っていうので気がついた次第。アンテナの低さを恥じるとともに、自らの幸運を思う(いや、本当はもう一人、合計3人、去年のエディンバラでのキャストが全員出演していたことが、後で分かる)。

Verbatimでは、台詞が実在の人物の発言やインタビューを元に(というか、ほぼ忠実に)書かれているから、そこに作家の勝手な物語が入りにくい仕組みになっているのが魅力のポイント。
ところが一方で、ニュース番組やドキュメンタリーと同様「編集」作業は必ず入るし、むしろ、その出来不出来によっては、学芸会の発表みたいになってしまったり、アジ演説じみてしまったりするリスクも相当高い。

昨年のThe 56はその点、題材を極めてデリケートに扱いながら、かつ誠実に書かれていて、だからこそ体重の乗ったパンチが客席に届いていた。
ところが、今年のE15は、そもそもが、カウンシルのオフィスの前でデモを打ったり、公営住宅を占拠してしまったりする芝居である。アジ演説じみるどころか、「アジ演説」の台詞をそのまま持ってきて舞台に載せるのだから、題材としては相当にリスクが高かったはずだ。舞台上でアジ演説してメッセージを伝えるくらいなら、「むしろ街頭に出ていってやってくれ!」と思われるのがオチだから。

この公演は、この、「公開プロテスト芝居」のコアにあるメッセージを保ちながら、明るく、エンターテイニングに、カラッと、「芝居」として成立させていた。昨年のThe 56が「静」だとすれば、今年のE15は「動」。若い役者達が若い母親達を演じ、アジ演説もうまく取り込んで芝居を壊さず、楽しく観させていただいた。
でも、これ、シングルマザーが子供抱えて住む場所を奪われる、っていう、実はすっごくキツい話だし、楽しいだけじゃなくて、すごくキツい政策の貧困を激しく糾弾している。
いや、だからこそ、カラッと仕上げることで、最後に、自治体の糾弾よりもむしろ
「何かしら一つ、力を合わせて行動を起こしたことで、良くなったことがある」
という、希望に繋がりうる事実を語り伝えることに成功していた。
この、LUNGの人たちは、怒りで目が曇らせず、素晴らしい上演に仕立てることが出来る、すっごい人たちなんだなぁ、と改めて思った次第。

Heads Up (Edinburgh Festival Fringe 2016)

26/08/2016 15:55 @Summerhall

今年のエディンバラで大変評判が良く、全回売り切れ御礼のパフォーマンス。この日に追加上演が決まって、すかさずチケットゲット。しかし、連戦の疲れと「2人称独り語り」という風変わりな語り口、割と早口のKieran Hurleyの英語についていけなかったこと、そうした要素が組み合わさって、正直、全くついていけなかった。

ロンドンに帰ってきてからいろんなレビューでチェックしてみたら、なんと、この芝居で、Hurleyは、4人の登場人物を語り分けていたのだそうだ。
シティのデリバティブズトレーダーの女性
ロンドンの持ち帰りコーヒー店で働く男性
コカイン中毒で、妻が出産予定日を迎える男性
裸の写真がボーイフレンドによってネットにばらまかれたティーンエイジの女の子

すみません。僕の中ではシティのトレーダーは奥さんが出産予定日で、コカインでヘロヘロになって職場を出て行ってしまったし、家に帰ればシム・シティばっかりしているし、というように聞こえてました。持ち帰りコーヒー店のアブドゥラは聞き分けがついたけれど。アッシュが女性だと知ったのは芝居が終わった後。

ふう。

こんなこともあるか。

お話としては、ある日、ある、変哲のない、皆がストレスを抱えて、まるで世界の終わりのような気分で暮らしをしているときに、本当に世界の終わりが来てしまう、という話である(と、僕は思う)。全編を通して感じていたのは、RadioheadのJustのPVの世界で、おそらく、この、”you”を使って語りかける話者は、どこかのビルの寂しい部屋に一人居て、そこから、いろんな人の寂しい物語を追いかけていたのじゃないだろうか、ということ。どうだろうか?英語のネイティブスピーカーが、芝居の語り手から”you”で語りかけられたときに、その物語をどのように受け取るのだろうか。再び観られるチャンスがあったら、是非挑戦してみたい。

2016年9月20日火曜日

Anything That Gives Off Light (Edinburgh International Festival 2016)

26/08/2016 12:00 @Edinburgh International Conference Centre

スコットランド人俳優2人とアメリカ人女優1人がスコットランドを旅して回る話を、女性4人で構成されたバンドが生演奏でサポートするロードシアター。

ロンドンでビジネスマンとして働くスコットランド人、生粋のアメリカ人だが、遠戚を辿れば必ずスコットランドのどこかにルーツを見いだすことの出来るアメリカ人、スコットランドで生まれ、そこで暮らすスコットランド人。その3人が出会ったときに、スコットランドとは何か、アメリカとは何か、移民とは何か、そういうものが見えてくる.
んじゃないかなー?
というのがこの芝居の狙いだったと思われるが、「スコットランドあるある」や「勘違いアメリカ人あるある」が前に押し出されてしまい、「ご当地ドラマ」からもう一つ大きな風呂敷を広げられない、あるいはもう一歩掘り下げられないままに終わってしまったのは勿体ない。

百歩譲って「スコットランド人同士がスコティッシュで普通に喋ったら、筆者にはついていくのが大変だった」というのは、事実として認めざるをえない。だから、細かなニュアンスが追い切れなかったことは疑いようもない。でも、それを上回って前半のアメリカ人対スコットランド人のやりとりは大雑把な「あるある」になっていなかったか?いやむしろ、ウェストバージニアの小さな町を抜け出してきた彼女が、着いたばかりのスコットランドでなんの差し障りもなく会話に入っていっちゃったことに、(やっかみ半分以上入ってるが)驚きを感じたり。

19世紀ハイランドのクリアランスと、21世紀アメリカの鉱山開発自然破壊を、うま—く繋いで3人の気持ちを近づける、あるいは観客の視点から見たスコットランドとアメリカをグイッと近づけようとする試みは、悪くはないけれども、それも、きっと、現代を生きている3人の関係がもうすこし上手く見せられていたらもっと効果的だったのではないか、って思ってしまう。

コンファレンスセンター、という、劇場に仕立てるのにはちょっと広すぎて、冷たい感じのする空間で上演されたことも影響していたのかも知れない。当初のプロダクションの目論見には沿っていたものの、いわゆるプロデュースものの芝居にありがちな「互いの遠慮」が出てしまったのかも知れない。それにしても、中途半端だったなあ。

Come Look at the Baby (Edinburgh Festival Fringe 2016)

26/08/2016 11:00 @Just the Tonic at the Community Project

今年のエディンバラのプログラムの中で、ある意味最もカルトな出し物。

会場に入ると、見世物小屋にあるような一間四方の天蓋が据えてあって、その下に、椅子が一脚。おもちゃが雑然と床に散らばっている。それを取り囲むように客席があって、収容人数はおよそ40-50人ほどか。筆者が訪れたときの観客は、途中入場を含めて約8人。開演時間になると、赤ん坊をだっこしたおばあちゃまが入場。その30分後、係が客席の端っこから立ち上がって「終了」を告げると、おばあちゃまは赤ん坊をだっこして退場して終わり。カーテンコールはもちろんなし。

その間、おばあちゃまは赤ん坊をあやし続けていて、筆者が拝見した回は、赤ん坊は終始上機嫌。ニコニコしたり、おもちゃを落として不安になったり、観客に笑いかけたり、奇声を発したり。要はただの赤ん坊である。一応、おばあちゃまは、一通りの30分間の段取りを把握していて、赤ん坊に差し出すおもちゃの順番も、おそらく、事前にきっかり決めてあると思われる。いや、しかし、それ、段取り、って呼んで良いのか?

2008年、多田淳之介とCastaya氏とのコラボプロジェクトで、舞台上に俳優がただ立っているだけの芝居を観たときに、「これが椅子だったらどうなのか」とか色々考えたものだけれど、
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2008/09/lovecastaya.html

さて、赤ん坊だったら?
微妙。もうここまで来ると、岩合光昭氏の世界ネコ歩きと一緒の気がする。ネコや赤ん坊を眺めていて「想像力」の働く余地は、俳優や椅子に比べると圧倒的に小さいように、少なくとも筆者には感じられるのだが。
確かに癒やされたけど。

2016年9月19日月曜日

Alba Flamenca (Edinburgh Festival Fringe 2016)

25/08/2016 20:00 @Alba Flamenca

今回のエディンバラ滞在では、ツレもいることだし、ゴリゴリの芝居だけ見続けるのはやめよう、と思っていて、そういうのもあって、Alba Flamencaという小さな小屋に、フラメンコを観に行った。グラナダ、バルセロナ、大久保、といったところでフラメンコを観たことはあって、それらはどれも素晴らしかったなぁ、というのを覚えているけれど、さて、エディンバラでのフラメンコはどうか。日頃のお稽古事フラメンコカルチャーセンターの発表会でも見せられようものなら一日の終わりをぐだぐだで締めることにもなりかねない。なんと思っていたら、全くの杞憂だった。

カディスからやって来た6人組。歌い手の男(顔が思いっきりAndre Villas-Boas、AVBに似ていた!本当の名前は忘れた!)、ギターの若い男、箱ドラムの若い男、歌い手の女性(昔は踊ってたかも)、踊り手の女性2人。AVBが一声歌い始めた途端に、会場内の雰囲気がギュギュッと締まった。半端ない声の説得力。

踊り手も、若い方の女性は身体のキレをビシッビシッと強調する踊りであるのに対して、年かさの女性の方は相当な自由度を与えられていて、緩急、ブレークの入れ方、盛り上がりのイントネーション、といったところまで、自分の節回しとコブシでうねりを作っていく。プログラムには70分とあったけれど、100分近くの大サービス。が、その100分間全く飽きることのない、力強いパフォーマンスだった。

隣にあるスペイン料理屋”Lasal”も美味しかったし、今後エディンバラにお邪魔するときには、このコース、ちょっと外せないかも。

Dancer (Edinburgh Festival Fringe 2016)

25/08/2016 17:00 @Dance Base

グラスゴー出身で、学習障害を持つIan Johnstonと、イングランド出身で、Matthew Bourneの白鳥の湖にも出演したことのあるGary Gardinerの2人による、40分のダンスと語り。

Dancerというタイトルはいかにも大上段なのだけれど、押しつけがましくなく、タイトルに偽りなく、ストレートなパフォーマンスだった。Ian Johnstonの舞台での立ち方が、みやざきまあるい劇場の和田祥吾さんを思い出させた。障害者なのだけれども、そのことが、舞台の上では完全にニュートラルな感じ。障害の有無は、ハゲ・デブ・チビ・ノッポ・ヤセ・色白・色黒・出っ尻・ゼッペキ・ガキ・年寄り、そうしたものと何ら変わるところがなくて、自分は飽くまでも自分であって、そのことに自信があって、それを舞台に載っけてやろう、という企みに満ちている。妙に同情したり可哀想なんて思いでもしようものなら、途端にそこを逆手にとって一泡吹かせられそうな、文字通り「人を喰った」面構えで舞台に立たれると、観客としては、是非ともそういう瞬間を見たいものだと、身を乗り出してしまう。Ian Johnsonは、そう思わせるオーラを持っていた。

自分の身体の動きを、出来るギリギリのところまで追求して、それがどんな風に観客に見えているだろうかというところまで考えて、それをまた自分の身体にフィードバックしてるんだろうな、というのが分かって、だから、ダンスを観ていても、手を抜かれてないな、と安心していられる。と同時に、常に驚きがある。自己満足ではない。そこに、Dancerが自らをDancerと名乗る所以があるのか。

Ian JohnstonとGary Gardinerのお互いへの寄り添い方もすごく良くて、Garyには学習障害はないから、段取りを進めるとか、そういうところはGaryがリードするのだけれど、舞台に立つ上で、お互いへの寄り掛かり方がすごく「対等」なのだ。(Ianが障害者である、という見かけで判断していた筆者の予見が裏切られた、と思われても仕方がないけれど)、障害者がインヴォルヴされていない舞台においても、これほどまでに、1対1で、お互いへの依存が50/50である舞台は滅多に無いんじゃないかと思うくらい、相互への寄り掛かり方が対等で、こんなにお互いに身を預けることが出来る関係は、羨ましいを超えて、ある意味、非常に厳しいものなのではないかとも思わせる。

と、あれやこれや感じているうちに40分があっという間に過ぎて、Happyで観客も皆加わって舞台で踊って、「ずるい!こんな終わり方かい!」って思ったことである。

2016年9月18日日曜日

Mark Thomas: The Red Shed (Edinburgh Festival Fringe 2016)

25/08/2016 13:15 @Traverse 1

Mark Thomasは、左翼アクティヴィスト芸人として英国では一目置かれる存在らしく、昔はチャンネル4で番組を持っていたこともあるらしい。強面50歳、前日Roundaboutで別の若手の芝居を観ていたときに、最前列に座ってやたらニコニコしながら観ていらしたのが、はたから見ていると怖いじゃないですか、という感じの方である(実際、上演中に途中退出する観客に向かって、一旦上演止めて、「出ていくのは構わないけれど、ひそひそ話は止めろ」とお説教されていて、それはそれは怖かったです)。

かたやこの公演のタイトルにもなっているThe Red Shedというのは、彼が30年以上前、大学に入学したばかりの頃に足を踏み入れ、その後も交流を続けている、労働党仲間の集うクラブのことで、この芝居は、Thomasがこのクラブやその頃の活動(炭鉱ストライキの支援を含む)にまつわる美しい思い出を語ろうとして、いや、ちょっと待てよ、その美しい思い出は、実は彼自身が脳内で創り出した勘違い、あるいは嘘の記憶なのではないかという思いに襲われたところから始まる。この芝居は、彼の記憶の正誤を確かめるために、30年来のアクティヴィスト仲間や、友人や、当時炭鉱ストライキに関わっていた様々な人々の記憶をたぐり、訪ねながら、ロードムービー的に、そして、Thomas自身が自分が語ったばかりの物語の正当性を疑い、美しい思い出の虚偽を自分で暴いてしまうのかも知れない、という、一種入れ子構造を持った物語として、進行する。

一人芝居なのだけれど、客入れ前に観客6人に声を掛けて、上演中ずっと舞台上に座ってもらっている。観客はThomasの指示に従って、各々持たされているお面をつけて、友人や道々出会う人々に扮することになる。それは、スピーカーから流れてくる実際のインタビュー時の録音とあいまって、すごくゆるーい感じに劇場の場を作っていくと同時に、観客の一部を自分の記憶の再生に取り込んで、自分と観客の記憶をリンク・攪拌する触媒のような効果を持っていたように思われる。

Mark Thomas(今年で50歳)が、実際に、炭鉱ストライキのピケに参加していたということはとても重要で、Billy ElliotやThe PrideやBrassed Offといった、映画でしか見られないような80年代英国の炭鉱ストライキが、実際にあったこと、そして、今目の前に居るMark Thomasの人生に実際に繋がるものとして実在したんだと思うと、彼の記憶は、僕にとっても重い。何故なら、僕が英国映画を観る上で前提にしてきたコンテクストが、自分の目の前の生き証人によって書き換えられる / 上書きされているのだから。
会場内をふと見回すと、「おれっちも炭鉱で働いてたよ」っていう人たちが多数観に来ている様子で、そうした観客達にとってMark Thomasの言葉は一層重たいはずだ。
そうして、彼の語る美しい思い出は、彼だけの中に刻みこまれたり生成されたりするのではなくて、Traverseの会場内のいろんな人の記憶を攪拌・生成・上書きしていく装置となる。
語りは、記憶の生成・攪拌・上書きの装置である!ってことを、今さらのように。

Solidarity forever, solidarity forever...
と唱和する観客の中には、本当に、70−80年代に自分声として歌っていた人もいようし、
筆者は、小学校の時分に、学校の朝礼でこの歌をクラスで歌わせた先生、日教組よりもさらに左の人で、そこら辺に関しては、Mark Thomasばりに厳しかった先生のことを思い出したりしたのだ。
そぉーらにはおぉひさあまあ、あーしもとにちきゅーうぅ...

2016年9月15日木曜日

Every Brilliant Thing (Edinburgh Festival Fringe 2016)

24/08/2016 15:15 @Roundabout, Summerhall

今年のエディンバラ、筆者の一番のお気に入り。

この世界で見つけた素敵なことを、一つ残らず、メモに書き付けていこう、というお話。
でも、必ずしも幸せいっぱいの話ではない。かといって、不幸に囲まれた人がせめてもの慰みにと、素晴らしいことを書き付けて気を紛らわせる、っていうマッチ売りの少女的な話でもない。
周囲の人々や世の中全体がぱあーっと明るくなる話でもない。どちらかというと「身のまわり半径5メートルしか描いていない。世界で戦えない芝居」と言われてしまいそうな部類に入る。
でも、この芝居を見終わったとき、ぼおっと心が明るくなったんだ。ちょうどこの芝居を観た分だけ、温まった気がしたのだ。この芝居をまだ観ていない全ての人が、この芝居を観て、その分だけ温まったら良いな、って、そういう気持ちになる芝居だった。

大学を卒業して劇作家になり、そろそろ中年を迎える登場人物。6歳の時に母親が自殺を試み、未遂に終わる。その時に、子供は、思いつく限りの世の中の素敵なことを、気づいたところで一つ一つ書き留めておくことにする。1番=アイスクリーム。
その後、家族のことや自身の精神状態のことで不安を抱えながらも、出会いもあれば別れもあり、もちろん日々の暮らしもあって、小さな喜びも大きな喜びも、それは、いちいち書き付けていくと切りがないのだけれど、ともかくそれを続けていく。そのメモは、次第に、何十万枚にもなっていく。

プロットはそれだけ。Johnny Donahoeの語り口、上演中、少なくとも30人は何らかの形で芝居に参加することになるのだけれど、誰に何をお願いするかとか、というところまで、細かな心配りが行き届いて、安心して聞いていられる(演者の方では、英語がしゃべれるのか、いや、理解できるのかすらも予想がつかない日本人カップルに台詞を読んでもらうのは、心配の種だったかも知れないけれど!)。これはうそんこの話なんだよなー、と思いながら客席で聞いているけれど、でも、それは、ひょっとするとJohnny Donahoeが自分のことも交えて脚色しているような。いや、僕が勝手に自分に物語を引き寄せているのかしら。そこを突き詰める野暮はよして、少なくとも上演中はうそんこな話に身を任せる。

2015年のエディンバラでは早々に売り切れ御礼で観られず、今年もやっぱり満員だったが、それに十分値するクオリティの高さ。Roundaboutでの公演は、円形に狭い舞台を取り囲む客席に対してシーンを無理に見せようとすると空回りしがちだけど、独り語りで観客を巻き込むスタイルの公演にとっては願ってもない場所だし、もちろん演者の技量は要求されるけれど、Johnny Donahoeにかんしてはその点での心配は一切無用だった。

後でテクスト買って表紙を見ると、Ickeの1984やPeople, Places and Thingsも書いてるDuncan MacmillanとJohnny Donahoeの共作だった。なるほど、質が高いわけで。
この芝居、日本で誰か演じてくれないかなー、と思って、劇場出ながらツレと話していたら、中野成樹さんの名前が挙がった。それだ! ぴったりだ! 中野さんで観たい!
というわけで、中野さん、この芝居、演じてみませんか? 一生懸命訳しますから。

2016年9月14日水曜日

Lemons, Lemons, Lemons, Lemons, Lemons (Edinburgh Festival Fringe 2016)

24/08/2016 12:10 @Roundabout, Summerhall

Roundaboutの2人芝居には気をつけろ。
去年もこの小屋で観た2人芝居が面白くなかったなぁ、というのを思い出す。
この芝居、去年のエディンバラで評判が良くて、ロンドンで上演された後、今年もエディンバラの人気演目。ロンドンで見逃していた感も強かったので、頑張ってチケット取ったのだが、ピンと来ず。期待通りには運ばなかった。

弁護士になりたて、経済的には心配ないノンポリの女の子と、ペット葬儀屋さんでバイトするアクティビストの男の子とが出会って、仲良くなって、ケンカして、っていう話。
伏線になっているのが「一日に発することの出来る単語数制限法」という、まぁ、いかにも芝居っぽい設定。
その制限の中で2人はどうやってお互いの気持ちを伝え合うのでしょうか?

役者が悪いわけでもないのだが、どうも一つ一つのシーンが面白くない。その場その場を面白くしないと、全体を線で繋いだときに初めて面白くなる、なんてことは起きないと思うんだけど。
そういう意味では、シーンや台詞が全体の趣向と2人の関係の進行にのみ奉仕していて、シーン自体の面白さが犠牲になっていたということかも知れない。
あるいは、Roundaboutの完全円形劇場、せいぜい6畳程度の狭い円形舞台が客席に取り囲まれている構造の中で「シーンを作る」こと自体が苦しいのかも知れない
(それが証拠に、この芝居の直後に同じ小屋で観たEvery Brilliant Thingは無茶苦茶面白かったのだから)。
それとも、話す前にその日の残り語数(14とか、5とか)の数字を宣言するのが、なんだか付け足しっぽくて、それで引いてしまったのかも知れない。

60分の短い芝居だったのだけれど、途中携帯電話が鳴って、それを取った女性が電話に向かって「今、芝居観てるところだからかけ直すね」と、場内の皆が聞こえる声で応答してしまったのは忘れられない。ここのシーンにもそれぐらいインパクトがあったならなぁ。Mark Thomas氏が最前列に座ってニコニコしながら観ていたのが際立っていた。表情を翻訳すると、「心意気や良し。ただしまだまだじゃの」ってとこだろうか。

2016年9月13日火曜日

Us / Them (Edinburgh Festival Fringe 2016)

24/08/2016 10:00 @Summerhall

今年のエディンバラ・フェスティバル・フリンジで、おそらく、GuardianからTelegraphまで、最も評価が高かった作品の一つ。
そうであることが頷ける、質の高い、切り口の鋭い、キッツい芝居だった。

ほぼ素舞台の舞台奥には様々な子供用ジャケット(小さなものから大きなものまで)が掛けられている。
若い男女の役者2人がほぼ素舞台の舞台上に登場。チョークで学校の見取り図を描いていく。二人はどうやら中学生のようだ。数字が得意な男の子と記憶は定かでないけれども明朗快活な女の子。二人は見取り図を描きながら、学校の様子を説明していく。町の様子、学校の様子、父兄の暮らし、出入り口、体育館の様子、朝礼で脱水症状で倒れたときの友達の様子。
どうやらロシアの小さな地方都市の学校であるということが分かってくる。朝礼でロシア風の歌を元気よく歌い出す。
そしてテロリストが校内に乱入する。

二人が説明してきた場所が、2004年9月、残暑の厳しい、北オセチアの町ベスランであることが判明する。この物語は、チェチェン独立派によって学校が占拠された実在の事件を、舞台上の2人が思い出しながら語る、という形を取る。舞台上の男女の若い役者は、始終、子供目線での語り続ける。2004年から12年経って、当時12歳だったとすれば今24歳か・・・と、そんな整合性をぼんやりと考えながら観る。

バスケットボールのコートがやっと一面とれるほどの空調の効かない体育館に、小学生から高校生までの子供と出迎えの父兄、赤ん坊も含めて約1000人が押し込まれ、真ん中には「振動すると爆発する爆弾」がおかれて、侵入者達が入れ替わり立ち替わり番をしている(というよりも、常に脚で踏んで圧を掛けていないと爆発してしまうのだ)。僕たち(Us)1000人と、彼ら(Them)30人。
泣き叫べば撃たれて死に、黙って耐えれば脱水で死ぬ。暴れれば爆弾が爆発して死ぬ。次々と子供が脱水で倒れていく有様を、二人は、子供の視点ならではの興奮をもって、かつ、興奮以外の感情を交えずに、語っていく。そしてクライマックス。結末は書かないけれども。既に報道されているとおりである。

が、その時に二人に起きたことは大きく異なる。大統領から見舞金をもらって贅沢品を買い込む男の子。担架で運び出される様子が世界中に報道されて、一躍有名になる女の子。
当時の報道を覚えていらっしゃる方であれば(筆者は恥ずかしながら全く記憶になかったが)、彼女が誰であるか、その後どういう経緯で、今こうして舞台に立っているのかを知る。
そして、この物語が、この2人によって語られるべきだったことの必然性をも知る。

生と死が本当に際どいところで交錯していた場所について、バイアスを交えずに語ることは非常に難しい。それがチェチェンやオセチアについてであればなおさらである。
それを、二人の少年・少女を使って語らせた手管、まず、良し。しかも、子供ならではの「残酷なまでの真っ直ぐな目線」で語らせることで説教臭さを拭い去り、観終わって涙も出ないほどのドライな後味。だからこその説得力。

プログラムには「ファミリー向け」とあって、開演も朝の10時と確かにファミリー向けの時間帯だったけど、これは、子供だけに見せるのは勿体ない。
軽量級に見せかけて、傷口も狭いけれども、実は刃渡りが相当長くて、深いところまで差し込んでくる芝居だった。

Mouse - The Persistence of an Unlikely Thought (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 22:00 @Traverse 1

エディンバラフェス開幕のはるか前から完全売り切れ御礼の人気演目。Daniel Kitsonは去年も売り切れで見逃していたので、今回は超気合い入れてチケット確保。
まさにそれに相応しい怪作・怪演、Daniel Kitsonの独り芝居は、100分間ヘヴィー級のパンチを繰り出し続けて文句なしの大傑作。

客入れから持って行かれる。素舞台の会場に入ると、Daniel Kitsonが自分で舞台を作り始める。鉢植えやラジオや机、椅子、ゴミ箱、電灯、電話、色んなものを舞台裏から持ち込んで、定位置にセット。お次は電ドラ持ち込んで、ケーブルの配線まで。それにたっぷり15分。そして開演。

夜遅く出かけようとしていた、とある劇作家のところにかかってくる、間違い電話。
相手「これ、俺の携帯番号なんだけど、お前、俺の携帯盗んだだろ」こっち「盗んでねーし。これ、大体、固定電話だし。てめーの間違い電話だろーが」相手「そんなはずはない」というやりとりから始まる。
「君の書いてる芝居のプロット、聞かせてくれよ」「さわりだけね。すぐ出かけなきゃなんないから」。
で、それから12時間。延々と続く男二人の長話。
「じゃあ、切るね。急いでたんだろ?」「もう良いんだよ。もうちょっと話させろよ」
「あ、ちょっと待ってて。子供に朝ご飯ださなきゃなんないんだよ」
「もしもし?」「あ、妻ですけど。起きてきました」
こんな感じで続く独り芝居。電話の向こう側の声が録音なのか役者の声なのかは判然としないが、舞台上にいるKitsonとは別人の声。

っていう、20−30分くらいのコントのような様式を取りながら、この芝居が「芝居」であるというのは、それは多分、劇中の劇作家が書いているという物語と、劇作家と間違い電話の主との会話と、Daniel Kitsonがこれを上演するというアクトと、観客がそれを見ている、という構造が、凄くきちんと意識されて、会話の内容・物語の内容が、グリグリとその構造の中を掘り進んでいってしまうからだったのではないかと考える。そして、それを、舞台上には劇作家だけを生身で置くことで、徹底的に一人称芝居で作り込んでいくという力業。しかも緻密。

敢えてたとえるなら、多田淳之介の「三人いる」を、一人で、長尺で、かつ、入れ子の範囲を、3人の会話の中で押し広げるのではなく、舞台上の一人の人物の奥底、そこまで潜ったら戻ってこられないじゃないか、っていうところまで深く潜らせていく、そういう芝居だったと思う。

女にメッセージを伝えるネズミ。それは本当にメッセージだったのか?ネズミだったのか?それはいつ、どこであった話なのか?
間違い電話なのか?いたずら電話なのか?
「妻」のいっていることは信用できるのか?
二人の男の記憶はどこまで一致していてどこで捻れているのか?
この劇作家自体、どんだけ変な男なんだよ?いや、Daniel Kitson自体相当変わった人みたいだけど。

凄い体験だった。Telegraphは「長すぎる」って書いていたけれど、それは、おそらく、あまりの濃さに、後半疲れちゃったんだろうと、ちょっと同情しないでもない。
敢えて難癖をつけるなら、「観劇体力に欠ける」観客には本当にしんどかっただろうと、それくらい「怖いところ」まで潜っていく、観るにも覚悟のいる芝居だった、それをゴリゴリ押し込んできた、そういう点かな。

これは、是非、山内健司主演での上演を観てみたい。と、真剣に思った。
Traverseの戯曲販売コーナーに行ったら、「Kitsonは自分の公演の上演台本、一切出版しないんですよ」とのこと。残念。そこまで変わり者だったか。

2016年9月12日月曜日

In Fidelity (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 19:30 @Traverse 2

劇作家Rob Drummond(もちろんこの作品の台本も書いている)が自らホストとなって観客参加型で進める、男女の出会いと愛の仕組みのメカニズムの追求ショー。
発想そのものを取り立てて斬新とか独創的とか思ったりはしないが、丁寧に書き込んだ台本・段取りに支えられ、舞台に上がった観客2人の人柄・コミットメントも手伝って、素晴らしい上質のエンターテイメントとなっていた。

舞台は主に3つのプロットを縒り上げながら進んでいく。1つ目はDrummond自身が「取材」と称して、出会いサイトに登録し、そこでいろんな女性と出会い、チャットする、そして個人メールでやり取りしたりする。その顛末。2つめは、会場にいる独り身の観客から男性一人、女性一人のボランティアを選んで、70分の間「初デート」をしてもらうという趣向。その2つの物語の進行を、3つめ、脳科学(?)の観点のトピックで繋いでいく。

正直なところ、1つめの「お試し出会いサイト」と3つめの「愛と出会いの脳科学」のパートは、見易いけれども、よくテレビで放映していそうな「なるほど」番組とそれほど変わらない印象。
だから、このショーがショーとして、あるいは、演劇として成り立っていたのは、ひとえに、観客参加のパートのおかげだ。

会場内の「パートナーが現在いない人」の中からボランティアを募って、舞台上に上がってもらう。いくつかアンケートを採った後、舞台上に残って構わないという男女一人ずつで「暫定ペア」をつくってもらい、その二人に舞台上でデートして頂く。ホストはDrummond、という趣向。
「出会い」から「最初に過ごす時間」「印象の持ち方」までをその二人にパフォームしてもらうわけである。
ただし、参加者の2人も、現状シングルだけれども、その場を通じて「本気で」パートナーを見つけにいっているわけではない。「自分たちは、劇場の中のパフォーマンスを成り立たせるための披験体である」という立ち位置をよーく理解して、自分をコントロールしていた。かつ、これは本当にたまたまだと思うけれど、二人とも人柄がとても良くて、今後付き合う付き合わないに関係なく、お互いに対する気遣いとリスペクトを失わずに振る舞っていたのだ。そして、観客も、その「舞台を創る側の意図」と「ボランティアの2人の心の持ちよう」「観客として見守る立場」の三者の距離感をきちんと理解していたと思う。そこら辺が、テレビの前の無傷な消費者を前提としたねるとん紅鯨団とは一味違うところではないかと思ったりもした。

だから、2人の考え方を開陳するシーンでも、2人が会場(観客)から置き去りになってしまうおそれが無くて、会場全体が、実は、ショーの終盤にはほんわりと2人を応援するムードになっていたりして、これは不思議。こういう「大人の振るまい」は、たまたまこの回だったから可能だったのか、この公演を通してずっとそうだったのか、エディンバラの観客だから可能なのか、色々考えさせられた。少なくとも、日本でこの公演が成立するとは、小生にはとても思えなかったし。

上演中、パートナーと何年続いているかアンケートというのがあって、うちの25年も相当上位に入っているはずと自信を持って臨んでいたら、甘い甘い、60年カップルが二組あって、その人達、同じ大学でハンガリー動乱を支援する活動をしてて知り合ったってんだから脱帽。そうだな、1956だったんだから、今年で知り合って60年だよ。
終演後、Traverseのバーで、Drummond氏、ボランティアの2人、ハンガリー動乱のカップル2組が一緒にお酒飲んだりしていて、終演後も含めたケアも行き届いた、まさに大人のエンターテイメントだった。

2016年9月11日日曜日

Infinity Pool: A Modern Retelling of Madame Bovary (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 16:35 @Bedlam Theatre

フローベールのボヴァリー夫人を現代英国に移し替えて、しかも、台詞無し、役者不在。作者兼オペレーターのBea Robertsが、プロジェクションとPCディスプレイとOHP(懐かしい!)だけで90分見せてしまう力業。ところがそれが「試みの新奇さ」で終わらない。超絶に面白く、切なく、しかも「現代英国で、この形態で、ボヴァリー夫人の翻案を上演すること」には必然性があるのだ!とまで思ってしまう傑作。おそろしい才能である。

現代英国で働く一児の母。一人娘はほぼ手が離れて一緒に遊びに行く歳でもなくなってしまったし、夫は退屈だし、毎日出かける職場の仕事は配管部品オペレーターのクレーム処理。退屈とストレス。会社のPCで買い物サイトを覗いてまわってクレジットカードでお買い物。女性上司との葛藤。容貌へのコンプレックス。
クレームをつけてきた男性とのチャットの始まり。関係の深まり。海辺の町で、二人っきりで会いませんか。
さあどうする?
ボヴァリー夫人は破綻と自殺で終わるが、現代英国のボヴァリー夫人はどうやって決着をつけるのか。

そうした物語が、プロジェクションとPC画面とOHPで綴られる。台詞なしとはいっても、会話のテクストはプロジェクターで表示されるし、勿論、チャットのやり取り、成り行きも、時にはリアルタイムにキーボードに打ち込まれながら、表示されていく。

テクストを観客に追わせるぐらいなのだからわざわざ舞台上で上演する必要は無いじゃないか、「電車男」みたいに本にすればいいじゃないか、というなかれ。テクストが入力される時間、OHPにスライドが置かれる時間等々、物理的な時間の存在が計算ずくで織り込まれて、その進行感・テンポが心地よい。加えて、テクストで表示される「台詞」からは、生身の役者が付け加えるであろう声のトーン、高低、スピード、強弱といったニュアンス・ノイズがそぎ落とされてしまい、その代わりに、普段舞台で観るのとは異なった種類のノイズ、つまり、フォントや文字の色やテクストのぶつ切りの加減等が付け加わる。そこにニュアンスをつける作業は、実はこれまでのところ、まだまだ「観劇の作法」の中で確立されていないから、クリシェに陥りにくいから、観客の想像力が、(少なくとも僕自身にとっては)これまで経験したことの無かったように拡がって、スリリング。素舞台に一見雑然と機器が乗っているだけの、本来であれば殺風景な舞台に、豊かな色彩が展開する。

また、写真やテクストの画像を追っていく過程で、あたかも「物的証拠」を辿りながら物語を追いかけているかのうような錯覚に陥っていくのも楽しかった(ちょっと、昼のワイドショーを無音で見ている感じに近いかも)。その物理的なスピードと、物語の展開のバランスが非常に良くて、物語の展開を5秒遅れ、10m離れた距離で追っていくうちに90分間があっという間に過ぎた。

表題の"Infinity Pool"というのは、海辺のリゾートホテルによくあるプールで、海側に面した縁は最上部まで水が張ってあって、プールの中から見ると、あたかもプールがその向こうの海まで無限に続いているように見えるプールのことなのだが、さて、現代英国のボヴァリー夫人がプールの中から見た向こう側は、本当に海まで繋がっていたのでしょうか。それとも、現実には、縁のすぐ外側には水がどーっと鉛直に落ちて、排水溝に続いているだけだったのでしょうか。
ネタバレは敢えて避けるが、ラストシーンは、(台詞が一切無いのに!)切なくて泣けたのだ。

NuShu (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 15:00 @Dance Base

後でツレに聞いたところでは、パフォーマー達の身体能力が非常に高かったそうで、それはすみませんでした、きちんと観てませんでした、ということになるのかもしれないけれども、この、台湾からやって来たカンパニー(女性4人、男性1人)のパフォーマンス、中国は湖南に伝わる伝統芸能をモダンダンスに取り入れて演じて見せようという意図はチラシ等で伝えられていたものの、小生にはその意図そのものが気にくわなかったのか、それともその意図を実現する力がカンパニーに足りなかったのか(おそらく前者だと思うけれど)、小生の目には「中国伝統芸能フレーバーを取り入れた異国情緒(エグゾティシズム)いっぱいの『(東洋の)女の一生の物語』あるある話」としか映らず、観ていて辛かった。

冒頭、あるいはシーンの合間に小芝居を見せていた方(年齢・態度から言って「お師匠さま」なのだと思われる)の身のこなし、気合いは、おお、さすがお師匠さま、と思わせるものがあって、特に冒頭のきちんと決まったポーズ、つま先の形には期待感が高まったのだけれど、若手のパフォーマー達が一生懸命身体を動かすにつれて、その一生懸命さ(および身体能力の高さ)と裏腹に、醸し出そうとしている「異国情緒」や「物語」がペラペラと垂れ流されている感じがして、興醒めしてしまった。

が、やはり、個々の身体能力は高かったようなので、小生の目が節穴だという可能性も高い。あるいは、パフォーマンスに物語を見いだしてしまった、観客としての小生のバイアスの方に問題があったのかもしれない。はたまた、もしかすると、群舞とソロが順番にやって来て、それにお師匠さまの小芝居が加わる「様式美」が気にくわなかったのかも知れない。

いずれにせよ、小生にとって「おおっ!」という瞬間は、45分間、訪れなかったわけである。無念。

2016年9月8日木曜日

Last Dream (On Earth) (Edinburgh Festival Fringe 2016)

23/08/2016 13:25 @Assembly Hall

生真面目に創ったんだろうなぁ、ということは窺えるけれども、その生真面目さが徒となって、拡がりに欠ける芝居に仕上がってしまっていた。
新しいものを目指すための試みが、却って芝居全体を縛ってしまっているようにも思われた。

観客は、開場して場内に入るときにヘッドフォンを渡され、上演中はずっとそのヘッドフォンのみを通して音を聞く仕組みになっている。
素舞台の方へと目を向けると、上手からパーカッショニスト、ギタリスト、女優二人、下手には一段高いところに男優が居て、総勢5人。
すでにパーカッショニストとギタリストが演奏(開演前はインプロヴィゼーション)を始めている。

開演すると、物語は2つの軸で展開する。一つは1961年、人類史上初の有人宇宙飛行に成功したガガーリンの物語。
もう一つは2016年、マリからサハラを越えてモロッコへ、そこから手こぎボートでスペインへと渡ろうとする人々の物語。
その2つの物語が平行して、音としてはヘッドホンを通じて交錯しつつ、進んでいく。

かたやガガーリンは広ーい宇宙の星の海から生還。かたや、モロッコからこぎ出した小舟は、大型貨物船の航路とぶつかったあおりをくって転覆する。


で?

ガガーリンとアフリカからこぎ出した人々がどこでどうやって交錯してこの作品が生まれたのかが、さっぱり分からなかった。
おそらく、稽古場で話し合って交錯したのだろうけれど、それは観客に対しては説得力を持たない。
強いて言えば、暗くてだだっ広いところに独りで投げ出された感覚、ということは出来るけれど、そこまで。
ヘッドフォンがなくとも、観客の想像力を拡がりのある方向へと刺激する手段はいくらでもあったはずなのに
(僕は、この芝居を観ながら、アポロ獣三を産み出した夢の遊眠社って凄かったんだなあ、と思っていたし)。

難民・不法移民の話が嫌だと言っているわけではない。が、生真面目に「それは可哀想」という語りをストレートに話しても、それはガガーリンとは関係ない。
難民・不法移民ネタに頼って観客に最後まで真面目に観させようと思っているのであれば、それはテーマに対する甘えだろう。
社会的問題意識を「観客に訴えかける」方向で芝居を組み立ててしまうと、創り手の想像力も、芝居の拡がりも、細っていく。その好事例。残念な芝居だった。

2016年9月6日火曜日

Camille O'Sullivan: The Carny Dream (Edinburgh Festival Fringe 2016)

22/08/2016 20:30 @Underbelly Circus Hub in the Meadows

今回のエディンバラでは、ストレートプレイ偏重は避けよう、と思っていたこともあって、「キャバレー」に行ってみることにしたのだ。
Underbellyとは言っても"In the Meadows"なので、Meadows(旧市街の南側に拡がる気持ちの良い緑地)の一角に建つテントでの公演。テントでの1時間40分ほど、大いに堪能した。

冒頭、Radioheadの"Exit Music (For a Film)"から始まって、あれ、こんな曲を歌うのかなー、と思っていたら、
Bob Dylan、Tom Waits、Nick CaveからAlicia Keysまで、いろんな曲を織り交ぜて、実に幅が広い。
観客層の老若男女、幅広いのだけれど、その広い層が、とても良く反応していて、みんな、洋楽聞いてるんだなー、って思ったり(だってここUKなんだから、当たり前じゃないか!)。
飛び抜けて歌の上手な人だなー、とは思わなかったけれど、やや泥臭い感じの節回しで歌うアルトが良い。
語りもキレキレなわけではないけれど、たっぷり時間を取って観客の反応を確かめながら進行するところに、エディンバラフリンジ12年目という貫禄を感じる。

あぁ、こういうのを、キャバレー、っていうんだなぁ。
語りと歌をとり混ぜながら、観客の記憶とか感情とか、そういうものを掘り起こしていく作業なんだろうなぁ、と。
日本でいうと、「白いばら」みたいなキャバレーも、そういう場所なのかも知れないなぁ、とか、
「ディナーショー」って、そういう場なのかも知れないなぁ、とか、
もし、懐かしい歌を、とても上手にじゃなくて、泥臭い感じでも、自分に近いところで歌って貰えたら、
いろんな感情が掘り起こされて、幸せに感じるのかな、とか、そういうことを考えながら、気持ちよーく聞いていた。

で、後半は、Bowieトリビュートで何曲か。周囲の55歳+のオヤジ層の反応がすごい。そうだよな、70年代から80年代、この人達、リアルタイムでBowie聞いてたんだもの。
Princeに捧げるPurple Rainでは会場みんなで声を揃え、最後はBilly Joelで締めて、「大盛り上がり」というよりも、しっとりと、いい感じで暖まって終了。
いや、良かったです。これぐらい力を抜いて楽しめるんだー、って。

2016年9月2日金曜日

Team Viking (Edinburgh Festival Fringe 2016)

22/08/2016 14:55 @Just the Tonic at the Community Project

今年のエディンバラ到着一本目は、まだ20代のJames Rowlandによる60分独り語り。いきなり素晴らしいパフォーマンスにノックアウトされた。語る自分と語られる自分(実在する自分と虚構の自分)の間の距離の取り方、虚構と事実の間の膜のはり方、客席との間合い、それらを裏打ちしていく小さなエピソード、小芝居、小道具の巧みさ、おもちゃキーボードとデジタル・ディレイ(多分)を組み合わせて、その場多重録音で積み上げる歌を挟んだ構成の妙、等々、大したものだと呻らされた。

1958年のハリウッド映画"The Vikings"に倣って、死んだ幼なじみをバイキング式の葬儀で送り出そうという話。ブロンドの頭髪にあごひげ、ぽっちゃりめの身体に白いシャツ、サイズが微妙に窮屈な黒いスーツ。その物語は、若くして亡くなった友人へのトリビュートのようでもあるし、一方で、小さなエピソードの積み重ねの中にちりばめられた伏線の回収があまりにも見事なために、まさかこりゃ全部実話じゃないな、と、「ウェルメイド感」でもって自分を納得させることも出来る。咳払いをしたり、洟をかんだりして、間合いを取る仕草、公園の描写、クリスマスプディングのブランデーのエピソード、病床での会話、舟を送った直後の大どんでん返し。こうしたものが、過不足なく構成されて、美味なことこの上ない。

虚実の間を巧みに縫って語りながら、その更に外側に、観客が記憶をたぐり、想像力を巡らせる余地を作り出していた。そして、終わってから振り返ってみると、「幼なじみの死」というテーマで、ここまで笑いを交えて語りきることの出来る度量に改めて呻らされる。自らを、あるいは語るテーマを、一段離れたところから突き放して見るところにユーモアが生まれ、笑いを誘い、余白が生じ、物語がそれ自体を超えて豊かに育つ。そしてその過程を支えるのは、飽くまでも一つ一つの仕草・エピソードのディテールにある。そこが揺るがない。そこにも力を感じた。

エディンバラのフリンジで観るプロダクションは、小屋の制約からか、プロダクション運営上の制約からか、役者一人によるパフォーマンスが多いのだけれども、こういう作品が観られるのならば大歓迎だ。

The Plough and the Stars

06/08/2016 14:15 @National Theatre, Lyttleton

20世紀アイルランドの劇作家、Peter O'Caseyによる1926年初演のこの芝居は、1916年アイルランドで起きたイースター蜂起の前後のダブリンを描く。題名の"The Plough and the Stars" 「鋤と星」というのは、蜂起の時に市民が掲げた「北斗七星」をあしらった旗のデザイン。「20世紀アイルランドの芝居」ということ以外に事前知識が殆ど無いままで観たのだが、率直な観劇中の印象は「ずいぶん古臭い芝居だな」というもの。構成、役者の使い方、シーンの展開、そして、現代日本のテレビドラマでもありがちな「こんな感情剥き出しのヒロインにはイライラするなあ、早く退場して欲しいなあ、と思っていると最後までサバイブしてしまう症候群」等々、まあ、1926年初演の芝居だと聞かされると、なるほど、と思わず思ってしまう。

ただし、戦闘や衝突そのものではなく、イースター蜂起においてどちらかというと後景に配される人々、すなわち、市民兵の妻、酔っ払い、ヘタレ共産主義者、やもめ女、娼婦、新教徒の女、といった人々に焦点を当てる手口はさすがで、書かれてから100年経った今でも、(若干なりともステレオタイプ的な描き方、もって行き方は古臭いとしても)そこに光を当てたことで浮き上がるものは失われていないし、そうした登場人物の行動を追いかけても、役者が丁寧にきちんと追いかけているから飽きることがない。

四幕ものの大仰な芝居に出来上がっているのだけれども、大味な物語の展開をちょっと脇に置いておいて、一つ一つの小さなシーンに着目すれば、そこには岸田國士の芝居を観るのに似た楽しみがある。ブリテンからやって来た女の「何て酷い有様!」の小芝居、パブでの女同士のケンカとバーテンの困った顔、英兵2人の紅茶を挟んだちょっとした会話、新教・旧教二人の女の市街戦の中のちょっとした冒険、そうした「ちょっとしたもの」の魅力が、骨太で(同時に大味で大時代な)物語の中に埋もれていて、それはあたかも「現代史の大きな物語とそのうねり」の中で失われていく個人の、一人一人の小さな物語を、入念に拾い上げていく作業にも似る。古臭いからと言って、全部丸ごと捨てちまっちゃあいかん、ということか。

2016年9月1日木曜日

Richard III

03/08/2016 19:00 @Almeida

Ralph Fiennes主演のリチャード三世。見映えも性格も良くない強度の側湾症の男が、権謀術数の限りを尽くしてイングランド王になるまでの小悪党ぶりを、Fiennesが嬉々として演じていたのが印象的。幕前から冒頭にかけての駐車場のシーン(彼の遺骸は2012年にレスター市内の駐車場の地中から発見された)の後、舞台下手奥からFiennesがひょこひょこ登場して、「じゃ、これから、僕の話、始めますねー」ってなノリで物語を始める語り口に、まずはシビれる。

その後、幾多の謀略、裏切り、暗殺を経て王位を我が物にしていくのだが、ワンステップ進むごとに舞台奥にしるしが現れて、「また一歩、野望に近づいた」(登録商標「サルまん」)感が半端ない。「ステップを踏んで王位に近づいていく」サラリーマン双六な感じは、ドラマを大きくうねらせて進む大悪党ではなく、リチャードの小悪党ぶりに相応しい。

Fiennesは、そうしたプロダクションの意図を、すごく良く理解して演技しているように思われた。映画でも人気のある大スターだけれども、銀幕で見せるキャラクターや魅力に甘えず、これでもかとばかりに小悪党ぶりをしっかり、真面目に追求している姿が心地よい。2009年、東京で古田新太さんのリチャード三世を拝見したときには「シェークスピアの戯曲の強力な枠組みを乗り越えることは、古田さんをもってしても難しいのか」と思ったものだが、意外なもので、小悪党の似合いそうにないハンサムなFiennesがコツコツと(しかも嬉々として)小悪党を演じて積み上げる3時間は、むしろシェークスピアの物語の大枠をグイグイと外に向かって押し広げていく力強さと拡がりを、このプロダクションに与えていた。

ラスト近くの戦死シーンも、小悪党Fiennesの渾身の闘いだからこそ、説得力を持つ。渾身だけれども、所詮ヘタレなサラリーマンテイストの殺陣もどき、すべては双六の結末の一つに過ぎない。地中に埋まったリチャードが、カーテンコールで地上に戻ってくると、それは立派に演じ抜いたFiennesではなく、「ま、こんなもんですかね、王位継承双六の今回の結末は」とうそぶくリチャードのようで、サラリーマンの筆者はここで再びシビれた。王位を賭けた大ばくち、身ぐるみ脱いで、すってんてん。といったところか。

Cuttin' It

26/07/2016 20:00 @The Yard

相当キツい芝居だった。FGMをテーマにしている時点でキツい芝居なのは分かっていたつもりだったけれど、その予想の幅を上回るキツさ。
ティーンエイジャーの女優二人が大いに好演、それがまた芝居のキツさを増すばかり。涙を誘う余地も無く、ぬるい正解を示してお茶を濁すこともなし。ドーンと来た。

テーマはFGM。小生も殆ど知識を持ち合わせていないし、日本にいて、あるいはUKにいても日常でそれについて話すことは、おそらく「ほぼ、絶対に」無いだろう。
それが、ソマリアをはじめとするサハラ周辺諸国では2000年来の「伝統」として行われていること。UKの移民コミュニティでも引き続き行われていること。
UKでは合法でないから、「ヤミ」でオペレーションが行われていること。そういうことは、芝居の中で最低限、説明される。

でも、これはFGMを知らない人のための啓蒙芝居ではない。
二人のティーンエイジャーが、FGMについて経験することを、飽くまでも二人の視線から上から目線へと遊離することなく、地に足をつけたまま、しっかり目を開いて直視している。
それは本当にしんどいことだ。観客にとってもしんどいし、創り手にとっても相当しんどかったのではないかと思う。

自分に課された仕打ち、それが妹にも課されるかも知れないということ。
一方で、それをコミュニティーにおける決まりだからと受け入れて、淡々とそれに加担すること。
自分に課された、「妹に課して欲しくない」行為に、友達が加担しているという現実。

それは、ソマリアからやって来た二人の少女の視点から離れないからこそ、普遍性をもって迫ってくる。
今までコミュニティーで行われてきたことだから、続けて良いのか?
それがおかしいと考えることは、「伝統を捨てること」だったり「西洋にかぶれた考え方」だったりするのか?
そこを乗り越えて、強力に議論を進める力を、僕らは持っているのか?

この芝居は、そこをオープンにして終わる。それもまた、観客に対してキツい。キツいけれども、押しつけがましさはない。
それほどまでに、舞台上の二人の少女は、色々なものを、きちんと背負って演技していた。
こういう芝居が上演出来るロンドンって、素晴らしい場所だな、って思ったんだ。