2008年4月30日水曜日

鉄割アルバトロスケット 日常サウンド大根 大根+1

29/04/2008 ソワレ

こんなにカッコいいエストラゴンの登場は観たことがない。こんなにイカれた子供の登場も観たことがない。それだけで観に来た価値があった。

昔っから、ゴドー待ちはドリフがやるべきで、
エストラゴン=荒井注で決まり。
子供=加藤茶で決まり。
ラッキー=高木ブー。
ウラジミール=迷う。いかりや長介。
ポッツォ=消去法で仲本工事。
という配役まで考えてたのだけれど、このメンバーじゃ出来ない今となっては、ゴドー待ち、他に任せるテはない。そうだ、鉄割がいたんだった、と思った次第です。

「日常サウンド大根」三本立て、すべて拝見したけれど、だからといって、特に自分が好き物だとは思わない。3本で4500円。総上演時間3時間強。
変な商業演劇観るよりよっぽど面白いし、も1つ乱暴に言えば、ケラさんの芝居3時間強のもの一本観るよりよっぽど面白い、と、僕は少なくとも思った。一日一本、次の日が楽しみなのもまたよし。それぞれを一生懸命観れるし。楽しかった。

Oi-Scale 茶毒蛾無呼吸引金

29/04/2008 マチネ

2時間かけて追いかけるヤクザがらみの兄弟愛物語、フィルムノワールならぬ芝居ノワール。下手をすると始まって5分でもう飽きて、後の1時間50分お尻の痛い思いをしかねないプロットだが、2時間堪能させていただきました。

まずは冒頭の旧友再会シーン、ドライブ感のある台詞回しでぎゅっと観客をつかんで、かつ、「この芝居ならどんなに物語が盛り上がってもまかり間違っても面切って声を張り上げて愛を叫ばないに違いない」という信頼感をつくっておいて、そこへ持ってきて
「地元」へのしがらみ・閉塞感と「抜ける・抜けない」のモチーフ、それに暴力の香りを加えて後半へとつなげていく。

クライマックスに掛けての加速感は、何だか、「これ、なにも芝居でなくても、映画でもよかったんじゃないか」的なアナクロ芝居親父感覚をどうして も呼び寄せてしまうし、物語自体はベッタベタなので、いつ途中で「もういいや」となってしまうか心配になるが、演出・役者がよく踏みとどまって、物語の渦 に演技が呑み込まれる一歩手前で2時間持たせてくれた。

演技と平行の「心理描写朗読作戦」はそんなに上手くいってるとは思わないが、でも、それ、台詞と演技で処理したならくどくて長い芝居になりかねなかった気もするので、そこも許すとして、「このテの」芝居としてはまず合格点。

乱暴な比較をすると、シャンプーハットからねっとりと暑苦しい作・演出の主義主張・熱い思いを削ぎとって、人情ものにフォーカスした結果観やすく仕上がった、という印象が残った。

2008年4月29日火曜日

鉄割アルバトロスケット 日常サウンド大根 Life is 日常曼荼羅

28/04/2008 ソワレ

連休の谷間でカレンダー通りに仕事して、何となく気持ちがずーっと塞いでいた一日。開演前ビールも売られていたけれど、ビール一杯で悪酔いの予感がしてそれすらも遠慮。鉄割を見るのには極めてノリの悪い状態。

が、そんな一観客の事情には全く関知することなく、鉄割は今日も面白かった。つべこべ言わずに、「あー、変だ」とか「あー、おもしろい」と感じる 時があるのが良い。他の観客が面白がってて自分が面白くなければ、そこはスルーしてれば良くて、次(おそらく2,3分後)に出てくるヤツはきっと面白いだ ろう、という期待感。自分が面白ければ次ももっと面白いかもしれないという身勝手な期待感。そうやって1時間20分過ぎる。

極めて受身な観方をしてしまっているが、それだけ、僕の理屈っぽさが入り込む余地がないくらい良くできているということで、この人たちには才能が ある、と思う。同じ受身の観方をするのでも、テレビ観てるのより1億倍は面白いし、(失礼な喩えだが)ケラさんの芝居より3倍くらいは面白い。と、僕は思 います。

リトルモア地下を出たら塞いでた気分が吹き飛んでいた、なんてことは全然なくて、鉄割だってそんなことにはそもそも気にかけちゃいないのだが、少なくとも小屋の中にいる間は色んなことを忘れる。楽しかった。

2008年4月28日月曜日

鉄割アルバトロスケット 日常サウンド大根 サラウドン・トラック

27/04/2008 ソワレ

脳味噌に強烈な柔軟体操を喰らった気分。

鉄割の方々に失礼ながら敢えて何かに喩えるなら、キレまくってたころのマカロニほうれん荘のドキドキ感に凄く近い。そのこころは、あまりにもキレ てて、いつか磨り減っちまうんじゃないかと余計な心配をしてしまうからで、そんなことを10年も続けてなお磨り減っていないんだから余計に凄い。

何で面白いのかについてミョーな理屈付けも出来なくはないのだろうけれど、やめる。とにかく、観ていて・聞いていて、面白い。楽しい。

リトルモア地下、やっぱり本当に良いスペースで、客入れ中の客席のざわざわした感じも、何ともいえず気持ち良かった。

今回の日常サウンド大根3連作、残り2つも大変楽しみです。

東京乾電池 コーヒー入門

27/04/2008 マチネ

チラシ、予約の段階では出演者が分からなくて、一体どんな役者陣で望むのか気になっていたが、27日マチネは僕の好きな役者が出ていて、お得な気分。もちろん、他の役者が気に食わないというわけではないが。

現代口語演劇をくぐってきた世代による戯曲ではあるが、どちらかというと別役実不条理劇の匂いが前面に出てくる。谷川の味も出やすく、女優陣の 突っ放したせりふもちょうど良い。でも、そこで、加藤一浩なりのオリジナルな味わいが出てくるかというと、それは、出るには出てるのだけれど、前に見た 「恐怖ハト男」と同様、対話のダイナミズムがぎこちない、というのが「らしさ」になっていて、その分、全体の上演時間が延びている嫌いがあるかも。すごく 「バリ」が出てとげとげしている感じで、もうちょっとこなれても良い気もするけれど、こなれて変なウェルメイドに近づくと却って面白くなくなるのかもしれ ない。

通してみると、「スズナリでやるにはちとさびしい芝居。アゴラ・駅前・OffOffあたりで観たかった」というところ。

日曜日マチネにもかかわらず、空席の目立つスズナリ。客出し時、むちゃくちゃ厳しい顔をした柄本さんが腕組みして客席に座っていたのが印象的だった。これからたくさんダメ出しして稽古して、楽日に向けてどんどん良くなっていくのだろうか。

2008年4月27日日曜日

青年団若手自主企画 おいでおいでぷす

26/04/2008 ソワレ

いやあ、くだらなかったなぁ。
と、観終わって第一声。隣から「ひどい、ひどすぎる」の声が挙がる。
出ていた役者を前に何憚ることなくそんなことを言えてしまう、素晴しい芝居だった。

「口語で古典」というのは、「古典の解釈と表現」という罠にもっともはまりやすいモチーフで、とはいっても、最近だと、三条会のメディア・あな ざーわーくすのエレクトラはその枠を力強く、あるいは軽やかに超えて素晴しかったのだが、さて、岩井秀人、どうでる?というのが興味の1つ。

もう1つは、芝居のフォーカスが常に自らの体験・記憶にぐぐっとフォーカスしていく岩井一人称芝居の中でオイディプスがどのように振舞うんだろうか、という興味だった。

その興味を上回って楽しめる舞台だった。

ハタと手を打つ趣向は勿論楽しくて、特に、役者自身では見えないという字幕との掛け合いはとっても面白かったのだけれど、やはり、最もぐぐっと 持っていかれたのは、松井オイディプスの一人称の芝居に(物語上、当然のこととして)フォーカスが当たっていって、でも、周囲の役者は必ずしもフォーカス をオイディプスに当てていない、という妙なギャップと、そこに置かれた時の(岩井=擬似オイディプス=松井の)自意識の妙な拡散と自己完結の仕方である。

これは、さびしい。オイディプス、さびしい。

この、さびしい主人公の姿こそが岩井芝居の真骨頂で、このさびしさに移入した瞬間、オイディプスも引きこもりのプロレス兄さんも18歳見かけ60 歳の志賀君も、「個」として確立し、観客である僕の個に攻め込んでくる。そうしてそれこそが普遍に通じる(のではないかという妄想が僕の中に芽生える)。

そうして過ごした素晴しい1時間半を、その直後に「あぁ、くだらなかった」といってしまえるなんて、本当に幸せじゃあないか、と、そう思う。

パラドックス定数 HIDE AND SEEK

26/04/2008 マチネ

呉一郎=攻め、夢野久作=受け。
おお、いかんいかん、素人筋がこんなこと不用意に言うと手ひどく火傷する。

とはいうものの、パラドックス定数、相も変わらず男優だけ使って、野木萌葱の掌の中で虚実、いや、受け・攻め入り乱れて、昭和の初めの探偵小説界 の愛憎模様を描くやをい芝居。であるのだから、その筋にえんもゆかりもないあっしとしても、受け・攻め考えざるを得ないのである。

「でも、そのきっちり創られた世界って、芝居である必要はあるのか?」
と言われたことがあって、そこのところは「芝居として」今回確かめたかったポイントではあった。結論は、やっぱり、言われたとおりで、「芝居でなくても良い」んだな。

それでもなお、パラドックス定数の芝居が面白い、また観に行こう、と思ってしまうのは、野木萌葱が舞台に載せるものが、「現実の解釈と表現」「古 典の解釈と表現」というありがちな限界からは明らかに一線を画したところで、「妄想の発露とその拡大」を焦点として組みあがっているからだと思う。

役者の演技を割りとぎちぎちに縛って、自分の世界を作りこんだこの芝居、確かに「身体性」をきっかけにした芝居ならではの「想像力・妄想へのジャンプ」へのリンクは弱い。が、それと違うところで妄想力を発揮できる人にはこたえられないのんと違うかな?

すくなくとも、観客が作品を観る中で、どこかに「自らの妄想を主体的に発火させる」妄想スイッチがオンになる瞬間があれば、創り手の勝ちなのでは ないか、と僕は考えていて、その意味で、この芝居は「勝ち組」といってよろしいのではないかと思う。今回、ラスト10分はちょっと理に落ちて辛かったとは 言うものの。

2008年4月22日火曜日

Ort-d.d. Text Play 源氏物語

21/04/2008 ソワレ

「解釈と表現」はテクストを細らせる。
もとのテクストが特に骨太なものでないだけに、痛々しい。

解釈と表現のプロセスを経て、様々な声色や音程やニュアンスや表情や身体の動きがぎゅうぎゅうとテクストに着せられていった。
それをテクストへの彩りと感じられる観客は幸いである。
それをテクストへの味わい(想像力/妄想)の余地が剥がされていくプロセスであるかのように感じた観客はとても不幸だった。

芋のビールはとても美味しかったのだが。

2008年4月21日月曜日

三条会 綾の鼓

20/04/2008 ソワレ

千葉の三越が大好きだ。いつ来てもすいている。広々としている。
4階のカフェ・ウィーン、最高だ。4時過ぎにはいるとケーキが売り切れているので、殆ど客の姿見えず、とっても静かでくつろげる。コーヒー420円、おかわり220円でこのゆったり感は至福。

この冬まで千葉駅で降りたことのなかった僕が、千葉三越にお気に入りの場所を見つけるに至ったとは、まったくもって三条会のアトリエ公演のせいで、まぁ、それだけ三条会が気に入っている。どうでもよい話だが。

で、綾の鼓、面白かった。
・ 立崎真紀子、またも立ち姿で勝負。前半プロファイルのみ客に向けて、実は視線は岩吉こと榊原毅からびくとも動かず、あぁ、やはりこんな局面でも瞬きせずに両目をくわっと見開いているのだろうか、気になる。
・ クライマックス榊原鼓乱れうち、の1発目。小生の右後方、ちょっとお年を召した観客から、思わず「いいなぁあ」の声が漏れた。僕も全く同感です。

三島といえばマッチョになりたかった男だと、不勉強なりに勝手に思っていたのだけれど、「邯鄲」「綾の鼓」と観て、実は、三島は、本当は少女漫画 家になりたかったのではないかなどと思い出した。何となくだけど。本当はベッタベタの話を、目に星が100個くらい輝いてる絵柄で書きたかったのに、東大 法学部のプライドが邪魔をして小説にとどまってしまったのではないかと。今回の公演、そこら辺のところをチクチクといじっている印象でした。

結局二本とも、くどくどと屁理屈かますヒマもなく、素直に楽しんだ。卒塔婆小町・葵上も楽しみ。

犬婿入り

20/04/2008 マチネ

出演者の塩野谷正幸氏がいみじくも当パンで述べているが、「犬婿入り」は小説世界のひとつの完成形であり、寝かしておけばよかった、というのはとても当たっている。
一体、この、在独40年の演出家渡辺和子氏は、どのような勝算があってこれを舞台化しようとしたのか。というのも、結局、まぁ、このテの、小説の 舞台化にはよくある話だが、元の小説を3回繰り返しで読んだほうがよっぽど面白くて、読者の想像力/妄想力も殺されなかっただろう、という結果に終わって しまっているからだ。

小説の世界を提示するのに、それをそのままなぞるのではなくて、この作品であれば「テレビのワイドショー」という枠をひとつはめることで何かを加 えようとする試みは、それはそれでよい。しかし、きっと、渡辺氏は、それが80年代日本で第三舞台や山の手事情社やそのエピゴーネンの学生演劇によってさ んざ使われていたことにはきっと思い当たらなかったし、周りも教えてあげなかったのだろう。しかも、今回の演出は、はっきりいって、それらに較べて、たる い。しかも、多和田さんがわざわざ電子メールで「喋り方はいかにもマスコミという感じを強調しなくて十分かと思います」と警告してくれているのにも拘ら ず、堂々とマスコミ喋りが強調されているのはどうしたわけか。

こういうのを観ちゃうと、やっぱり、日本の芝居はよその国に較べてすっごく進んでて、面白いんだなぁ、と言わざるを得ない。芝居が面白いのは、日本に住んでて数少ない良いことの一つだ。

2008年4月20日日曜日

三条会 邯鄲

19/04/2008 ソワレ

三条会がこのところすっごく気になっていて、かつ、気に入っていて、公演があれば足を運ぶことにしているのには理由があって、もちろん、マイミクcaminさんの強力なプッシュもあるけれど、一番大きいのは、
「何が面白いのか、まったくもって自分でも見切れないから」
だ。それで、その感覚を確かめに、そしてあわよくば三条会の面白さの正体を突き止めたいという欲望に駆られて、総武線に70分乗って千葉のアトリエにやってくる。
そして、やっぱり「一体どうなってるんだ?」という感覚を味わって帰る訳である。これもまた、「あんたも好きねぇ」のクチだ。

今回から三島の現代能楽集連続上演ということだが、その第一弾「邯鄲」。
いや、おもしろかったっす。期待通り、というか。
・男三人組は、「アングラの定型である三人組」であり、岩井秀人が使う「演劇の神様」であり、もう一つは、別役実風に言えば、「芝居の構造を意識させる」ための道具立てとなっている。
・女優二人、いつもながら、「立ちの美しさ」に惚れ惚れする。立崎真紀子の中島みゆき口パク、すっと伸びた背筋と「まばたきするな」の演出が出ているのではないかと思われるくわっと見開かれた眼、これはなんとも美しい。

「三島をやります」といっているのに、それが、三島の「解釈と表現」にとどまっておらず、それに加わっている何かがある。その何かを突き止めたくて、結局分からず、でも、少なくともとっても面白くって、足を運ぶ。至福だ。

桃唄309 月の砂をかむ女

19/04/2008 マチネ

桃唄309の芝居を観始めて1年ちょっと、4本目にしかならないのだけれど、今回の設定は過去3本にあった「土を踏む感触」がないばかりか、何と 踏むのは月の砂。舞台は月面基地の中。うーん、僕が桃唄に期待するものとはちと違うが、当パンによれば、昔SFものをやったこともある由。

誤解の無いように予め言うと、僕は桃唄の芝居についてくる独特のにおいとか、くせとか、そういうものは「好き」です。そこをスタート地点として、敢えて言うと、今回の芝居は、
「80年代に見た学生演劇の中で良く出来たものの、さらに上出来なもの」
という印象だった。もちろん、「物足りない」という意味で。

帰り道思ったのは、
「ギリギリの状況に置かれた人々に対して想像力を働かせることは難しい割りに報われない。だって、僕達、現実にギリギリの状況に置かれていないんだもの。
どちらかというと、自分が今この日常にいながら、実はギリギリの状況に置かれていて、自分がそれに気がついていないだけなんじゃないか、というように妄想を働かせることの方が余程興味深いことなのではないか、少なくとも今の自分にとっては」
というようなことです。

こういうSFものは、やはり、自分に近いところにアナロジーが働くような要素が無いと、難しい。だからといって、日常べったりの現代口語演劇wannabeにもうんざりではあるのだが。

2008年4月19日土曜日

庭劇団ペニノ 苛々する大人の絵本

18/04/2008 ソワレ

アトリエ「はこぶね」への入場の仕方、内部の作りこみ、25人限定の客席、客入れでかかる森進一。一言で乱暴に括ると、「あんたもすきねぇ」系の芝居である。

開場前にやましたまことさんと鉢合わす。まさに「あんたもすきねぇ」と言い交わしたくなるシチュエーション、雨の青山。

芝居そのものも、「好きものの」観客に充分堪える内容で、開演から終演まで隙がない。二本の木を見せながらそのメタファーに頼ることなく、豚と羊 の暮す部屋の視覚に訴える有様がいかにもでありながらそこに固執することなく、男の出現を起こしながらその事件に頼ることなく、と、こう書くと、この芝 居、「好き物系」の外見を取りながら、色物にありがちなバランスの破れからは遠く、実はすっごくバランスに気を遣いながら組みあがっているんだな、と気付 く。

いわゆる「あらあら、一体何が言いたかったのかしらねぇ?」な話であるにも拘らず、そこに、観客が勝手に判断するだけの糸を一本残しておいてあげる程度にエンターテイニング。見事だ。

しかも、その時空が、雨の金曜日の青山のふるーいマンションの3階の一室だ、というのも味噌である。試しにぐいーっとズームアウトして、山の手線 内の空間の中を、一箇所、3m×4m×1.8mの寸法で切り取って、そこで「大人の絵本」が繰り広げられる有様、そこから半径10mの球体では、ひょっと すると誰かが金曜日の夕ご飯を食べている有様を思い浮かべると、これまた何ともいえない。あれ?やっぱり「あんたもすきねぇ」なのか?

2008年4月17日木曜日

とくお組 西洋のレイルボーイズ

16/04/2008 ソワレ

初見。初日。
何だか大変情報量の少ない芝居で、リアルさも、かつありがちなウェルメイドさ加減もなく、さっくり終わってしまった。

しかしまぁ、目を引いたのは、その芝居の、とことん薄っぺらな作り物っぽさである。
この作り物感が「狙った」ものであったら、それは、買える。
例えば、煉瓦壁のパネルに画鋲で紙をとめるシーン。
また、台詞に「かなり意識していれる」間。
衣装やキャラクターの「薄っぺらなマンガ」感。
こういったミエミエの嘘臭さが、いわゆる「芝居」への絶望と悪意で成り立っているのだとすると、そこにある「劇場全体を眺めわたす目」を買う。
一方で、チラシの裏に書いてあるように「演劇をよりポピュラーなエンターテイメントにする可能性」を真剣に求めてこうなっているのであれば、それは別の意味で絶望的だ。

2008年4月14日月曜日

青年団若手自主企画 御前会議 三見

13/04/2008 ソワレ

実はこの日のマチネの芝居、開演時間を間違えて見逃すという失態。かなりへこんだ状態で午後が始まった。この場を借りて、改めて、関係者に深くお詫びいたします。ご迷惑おかけしました。

それでいて、この、御前会議、三度目観ちゃうのだから、われながら始末に終えない。

本当に、何度観ても飽きないのだ。現代口語ラップの一発芸を観に行くのであれば一度で十分。でも、何度観ても、どの時間帯も、飽きずに見ていられた。至福。

後半、宇宙人襲来について話す場面で、バックに何となくうねったノイズが流れるのだけれど、おじさんとしてはウルトラセブンとかウルトラマンに出 てきた「宇宙人の宇宙船の中の音」が流れてきたらぴったりだな、などと考えてしまった。ほんと、なんだか、目が離せないのに色んな妄想にスイッチの入る芝 居だ。

この芝居にここまで入れ込んでしまったのは、きっと、「自分が芝居のなにを面白いと思うのか」のヒントとしてかなり強力だったからなのではないか とも思っている。色々な要素の組み合わせが、本当に幸せな形で表に出たのか、それとも僕のツボに嵌っているだけなのか。柴氏の次回作、楽しみだ。

2008年4月12日土曜日

青年団若手自主企画 御前会議 再見

11/04/2008 ソワレ

再見。やっぱりとっても面白い。

いくつかメモ書き程度に言えば、

・ 今回は、自分で分かったのだけれど、ほとんど「笑わなかった」。それは、現代口語ラップミュージカルに付随していた、「役者ごとの予見できなかった事件」がそれほど顕著に見えなかったから。

・ それは何故かというと、役者が上手になっていて、アクシデントを未然に防ぐ術を身に着けていたから。そして、役者ごとのタイム感の「ゆらぎ」の振幅が小さくなっていたから。

・ 「振幅が小さい」のはちっとも悪いことではない。振幅の小ささは、「地の会話」と「ラップ会話」の差異を(すなわちメリハリを)小さくする。だから、より、分かりにくくなる。この芝居の中で、分かりにくいことは良いことだ。

・ 「ゆらぎの振幅が小さく」「分かりにくく」なることによって、この芝居が「ラップに聞こえるか」「現代口語演劇に聞こえるか」は、ますます、 観客の態度によって決まるようになる。要は、「戯曲の意味を追いたがる」観客と、「ラップのリズムを追いたがる」観客とで、まったく別の捉え方になるは ず。で、その線引きが、揺らぎの振幅の小ささによってすっごく微妙なところに引かれているのが、何とも面白いのだ。そこでどっちに振れるかを追っていくの は、舞台を追うとともに自分の中のリズム・タイムを追うことでもある。そこに興奮する。でも、笑いはしない。

・ だから、今回も、最後まで「ラップ」に入っていけない観客は結構いたと思う。それはそれでよいのだ。すごく微妙なんだから。そして、「戯曲が面白い」と思う人は、きっと、そういう「楽しみ方」も出来たわけで、その意味で、戯曲の選択もあたり、という訳である。

・ 畑中友人とかけてセロニアス・モンクととく。そのこころは、「お前が弾くとタイムが狂っちまうからオレのソロの時にはピアノ弾くな」と言ったマイルスと、今回畑中氏のタイム感覚に泣かされる役者達。

・ 御前会議とかけてネフェルティティの後半ととく。そのこころは、「マイルスとウェイン・ショーター、書き譜で半拍音の頭をずらしてるのか、その場でやっちゃったのか、良く分からない。が、確かにワークしている」。

2008年4月11日金曜日

Modest Mouse @渋谷

10/04/2008

うむー。去年サマーソニックで聞いたときの方が燃えたかも。仕事帰りスーツで行ったわしにも原因はあったのだけれど。やっぱり聞いている側の構えで変わってきちゃうんだよなー。

アンコール1曲目・2曲目のBury Me with It と We've Got Everything はどちらも凄く好きな曲で、それは良かった。まえーのアルバムの曲も演奏したりして、それはそれでまたほっとした。

でも、僕がいちばん好きな、そして最も沢山聞いてる曲は、Karma's Payment です。ここだけの話ですが。

2008年4月8日火曜日

青年団若手自主企画 御前会議

07/04/2008 ソワレ

初日。この芝居の初日に立ち会えたことが、自慢です。自慢しちゃう。

この芝居が何故ここまで自分にとって面白いのかは、実はまだ整理がついていない。
いくつかポイントを挙げるとすると、

① この「歌わないミュージカル」という試みは、
  A. ミュージカルって、ウソだよね。人間あんなふうに喋らないよね。
  B. 新劇って、ウソだよね。人間あんないいお声で喋らないよね。
  C. でも、青年団の芝居だって、ウソだよね。だって、タイミング計って台詞言ってんじゃん。
  D. チェルフィッチュだって、ウソだよね。全部タイミング計ってるもんね。
  ということを、暗に言っているのだ。アプリオリに「役者が『リアルに』台詞を喋ること」を受け入れてしまうことのウソさ加減に気付けよ、と言っているのだ。
でも、結構自分でも明示的には気付いていなかったんだ。ずっと。

② 英語は日常会話で歌う言語である。日本語は日常会話で歌わない言語である。
と言い切ってしまっていいの? と突きつけてくるのだ。
ちなみに、イギリスの役者は、シェークスピアの全戯曲が、
タ・ター・タ・ター・タ・ター・タ・ター・タ・ター
のリズムで出来ていることをまず叩き込まれると聞いたことがある。
でも、イギリスの役者って、そんな戯曲を「普通に言う」って努力をするんだ。どういうこと?
日本語はどうだ? 日本語戯曲はどうだ?

③ こんだけ役者を縛っておいて、そこから立ち上がってくるものって、何だ?

④ 芝居の「一回性」ってなんだ? 再現可能性って何だ?
  クラシック音楽のコンサートの一回性って何だ? 再現可能性って何だ?

⑤ (これ、ちょっとネタバレ注意です)
台詞をビート(あるいはリズム)に乗せる試みは、最近でも、
A. 三条会の「秘密の花園」の冒頭メトロノーム
B. Collolの、パーカッションつきリーディング
C. 今回
と三通り観たのだけれど、その意図するところは全然違っていて、でも、例えば三条会が何を達成しようとしていたのか、とか考え出すとまた難しくなっちゃう。

いやぁ、でも、これら5つのポイント、どれも外れてそうな気がして、いやになる。
いずれにせよ、何だかとんでもないものを観たという感じは未だにしている。

2008年4月7日月曜日

青☆組 うちのだりあの咲いた日に

06/04/2008 マチネ

うむ。青臭い。が、青臭い分だけ、「ウェルメイド」臭が抜けて、好感が持てたかも。

リアルに作りこもうとしているように思われる舞台の作りに、実は突っ込みどころが多かったのだが、
(例えば、①畳の部屋の外に向けたふすま(or障子)が全て取り払われていたが、それは、芝居の決まりだからか、それとも本当に取り払うものなの か? 法事が終わったらもとに戻さないか? ②畳の部屋が開いている方向は、東と南か? だとすると、南向けの縁側は、なんと、隣家に向いて開いているの か? 実は凄く広い庭なのか? ③なぜ、カルピスを飲みたくなるような初夏の日に、坊さんにはあったかいお茶を出すのか? ④テレビがついているように見 えない 等々)
去年スズナリで観た時(洗濯物のぞんざいな畳み方)もそうだったが、実は、吉田小夏は、細部の見せ方を、弱点としているのではないか。

で、こういう芝居として作りこむと、どうしてもその弱点はそのまま弱点として晒されてしまう。

でも、アフタートークで岩井秀人氏が言及していた「テレビ人間」って、実は面白そうじゃん。そういうセンスと高校生台詞の青臭さが融合したところ に吉田小夏の面白さがあるのだとすると、昨年から観ている2作は、その強みを活かしきれていない、ということではないか。そういうことを思いました。

なお、これほどまでに目をくりくりと動かす足立さんは、ケーニヒスベルグの橋以来だと思いました。

2008年4月6日日曜日

Collol リーディング「虹の彼方に」

05/04/2008 ソワレ

清水宏と高橋源一郎。なんと80年代(後半)な組み合わせなんだろう。
友人に誘われなかったら、こんな80年代なリーディングにも来なかっただろうし、門前仲町の門仲天井ホールにもおそらく一生来ないで終わっていたかもしれない。
若干アナクロチックな意地悪な期待感をもってお邪魔したわけである。

結果。面白かった。
でも、それはもしかすると、「清水宏ショー」としてだけ面白かったのかもしれないし、むかーし読んだ「虹の彼方に」をこういう形で読み返す構図が面白かっただけなのかもしれない。
パーカッションつきのリーディングという試みは必ずしも上手く行っていなかったと思うし、山田・江村両氏には申し訳ないけれども、清水氏の有り余 るものを受け止めてさらに増幅するパワーの核融合はなかった。もてあます元気と出鱈目さをかかえて、どこへ行くのか清水宏、という感じがしてしまったわけ である(まぁ、そんなに清水氏の芝居を沢山観ているわけではないけれど)。あの過剰さは、僕には笑えなかった。むしろ寂しい気がした。

リーディング開始時に、なぜか山田・江村両氏が「文庫本の最後のページを」めくってたりしたのは小芝居としては面白かったかも。あるいは、椅子の交換ごっことか。
ここから何か次回に繋げて引き出すとすれば、清水宏リーディング+黒子 なんてのはみてみたいかも。

サラリーマンの人事異動のシーズンとも重なり、水曜日から飲み四連荘の〆めの土曜日。門前仲町で一軒目は「山憲」、ついで「オーパ」と、二軒とも 大変素晴しいお酒を頂いた。門前仲町、すばらしい。芝居がなくともまた来たい。芝居があれば是非来たい。でも、さすがに四連荘後の日曜の朝はぐだぐだでし た。