2015年5月27日水曜日

Gods Are Fallen and All Safety Gone

24/05/2015 ソワレ @Camden People's Theatre

UKでは日曜日は基本的に劇場が開いていないので、割と限られた中で「これかな?」と見当を付けて出かけてみたのだが、
シンプルでとても良い芝居に当たって、幸せな気分。

Camden People's Theatreは、Camden TownよりはむしろEustonに近いところにある、キャパシティ50人くらいのスタジオ。黒く塗られた壁とか、手作業で組んだ感ありありのバトンとか、まさに「小劇場」と呼ぶのに相応しい、僕にとってはとても居心地の良い空間。
そこで男優2人が約1時間にわたって演じる母と娘の会話。商業的に大ヒットになることはないだろうけれど、是非とも人に勧めたい、色んな人に観て欲しい、とても良い舞台に仕上がっていた。

小さな空間だから、ということもあるのかもしれないが、大げさな身振り、声を張った面切り台詞は無し。同じ台詞から始まる、日常のやりとりに即した、母娘の会話が、同じような構造で4回、変奏曲のように繰り返される(大人版「反復かつ連続」のように)。そういえば、ちょうど日本では快快が「再生」やってるなー、それと比べてどうかなー、どう着地させるのかなー、などと思いながら観ていたのだけれど、どうやらこの芝居の繰り返しは、年月の経過の中での繰り返しであることが、3回目くらいで分かってくる。後で戯曲を読むと、やはり、その辺を説明するト書きがきちんと書いてあるのだけれど、初見で観ている分にはそれは舞台の進行につれて徐々に分かってくるようになっていて、そこに観客の妄想を膨らませる余地が設けられている。

おそらく、この芝居のミソは、「母娘の日常のやりとり」を、キャパ50人のスタジオの、舞台奥(奥って言っても客席最前列からはたかだか2.5m先)の踏み台兼ベンチ以外は素舞台になってる中で、男優2人がTシャツにズボンのシンプルな格好で、カツラかぶるわけでもなく母娘です、と断って演じている点にある。そこで何が起きているのか、物語を組み立てるイニシアティブは、おそらく、相当部分観客が担える余地があるはずなのだ。

そこはどこなのか、いつなのか、本当に母娘なのか、どちらかの妄想の中なのか、男二人の母娘ごっこなのか(あ、それじゃあそのまんまじゃんか)、そういった説明は一切せずに、2人の対話だけで見せていく。俳優の力も感じるし、演出のテンポも感じる。いや、繰り返しになるけれども、戯曲のト書きはもっと説明的で、そのまま具象でやったら凄くつまんなかったんじゃないかと思う。戯曲家自身による演出、すごく上手くいっている。

ちなみに、タイトルのGods are Fallen and All Safety Goneというのは、後から調べたら、スタインベックの「エデンの東」からの引用。親の言ってることが必ずしも全て絶対正しいわけじゃない、ってことに子供が初めて気がついたときの気持ち。親の権威は徐々に失墜するのではなくて、ある日ハードランディングしなきゃならない。その修復にはとっても時間がかかる、ってことらしいのだけれど。

そもそもこの芝居のテーマは、まぁ、母と娘の会話だから、それはそうなんですが、そこを離れて、もっと好きなように観ても全然大丈夫な芝居に仕上がっていた。下手袖に近所の本物の母娘を招いて、何をするでもなく座ってもらってる、っていう趣向も、全く嫌みじゃなく、面白かった。

2015年5月24日日曜日

Oppenheimer

23/05/2015 マチネ @Vaudeville Theatre

このところウェストエンドで一番評価の高かったRoyal Shakespeare Companyのストレートプレイの最終日。レスタースクエアにあるTKTSに並んで当日券、ストール席をゲット。
原爆の父と呼ばれた男、ロバート・オッペンハイマーの生涯を、UC Berkeley在籍時(1930年代後半くらい)から原爆投下後の名声と悔恨(1940年代後半)まで追いかけていく3時間。前半はちょっともっさりした感じだったし、「これみよがしなリベラル西海岸の学者連中」の見せ方が臭いと思ったりもしたが、2幕目に入って俄然緊迫度を増し、ブラックベリーの呼び出し音で場内に殺気が漲ったラストシーンまで、ぐぐぐっと見せきった。

うん。すごく良い芝居ではある。が、3時間かけて追いかけるほどの厚みはなかったのではないかという気もしている。
オッペンハイマー自身に加えて、各登場人物はそれなりに個性のある人物揃いなのだが、それらの人物の道行きにドキドキハラハラすることはない。彼らは皆、オッペンハイマーという「主役ならではの、巨大で歪んでいて複雑で、まぁ、芝居のタイトルにするのに相応しい人物」の添え物だってみんな分かってるから。
そういう、一つの自我に着目した骨太な展開っていうのは、西洋ならではの自我の取り扱い方を反映している気もする。僕からすると、こっちで芝居観てて辟易することの一つとも言えるのだけれど。うーん、でも、チェーホフの戯曲でそういうの感じたことはないなー。実は西洋の演出だとチェーホフの見せ方も違うのかなー?どうなのかなー?気になる。あと、シェークスピアの取り扱いも。

3時間以上かけて時代のうねりを見せる、という意味では、去年観た木ノ下歌舞伎の「三人吉三」は本当に凄かった。4時間かけようが、5時間かけようが、登場人物一人一人が特定のタイトルロールに奉仕するのではなく、きちんと存在感を持って演技し「部分部分を観ていても楽しめる」のにもかかわらず、それが、全体として大きな物語のうねりに繋がって「時代の姿まで見えちゃった気がしてくる」のであれば、前半がたるいとか、中盤ダレたとか、そういうことは起きないのだという好事例。いや、そういうの一度観ちゃうと、西洋大河ストーリー何するものぞ、自我を軸とせずとも物語のうねりは十分味わえるぜ、っていう具合に気持ちが大きくなるんだよね。

逆に、一つの自我の在り方にフォーカスして作り込むなら、平田オリザの「暗愚小傳」や「走りながら眠れ」の方が遙かにシャープで、無駄がない作りだと思う。時代のうねりはぐっと後景に下げておいて、でもしかし、主人公の自我(肥大もせず、卑小でもない、極めて等身大の自我)の後ろにあるものが、芝居とみた後にじわじわと染みだしてくる作り方も、これもまたあり。何より、3時間かけてなくて良いのだ。

こうして、二兎を追い、さらに幅広い観劇層(含むover70s+家族連れ)にエンターテイニングだと感じてもらおうとする三兎まで追っかけた、最大公約数の芝居を創ろうとした結果がこれか、ひょっとして。それなら頷けなくもない。僕の好みではなかった、ということだけかもしれない。

2015年5月18日月曜日

Eclipsed

16/05/2015 ソワレ @Gate Theatre

素晴らしい舞台を観た。
芝居を観ながら「これがどの程度、実際にリベリアで起きたことに基づいているのか」とか「この芝居はハッピーエンドに向かうのか、酷い結末を迎えるのか」とかが関係なくなって、とにかく舞台上で起きていることから目が離せなくなり、この舞台をずっと観ていたい、と思ったのだ。

リベリア内戦時の、反政府軍の頭領の妻、第1号と第2号と第3号と、新しく加わった第4号の話。前振りを聞くなり、かなりキツい話であることは想像できて、劇場ロビーの写真を見ても、やっぱり相当キツそうな予感。「キツい」っていうことは、反面、説教芝居やアジテーション芝居に陥るリスクも相応に高いということで、期待値を上げないようにして、Gate Theatreの客席最前列最上手席に陣取った(こっちに来てまで最前列かい・・・)。

リベリア内戦。反政府軍の頭領の妻たち。彼女たちが住む住居の外の様子は舞台からは窺えない。時折訪れる頭領も、舞台上には登場しない。大きな物語は、戦闘も含めて、舞台の外で起きている。彼女たちが彼女たちが暮らす世界の遙か外、ジャネット・ジャクソンやビル・クリントンやモニカ・ルビンスキがいる世界に想像を逞しくするのと同様、観客も舞台の外の戦闘や少年兵たちについて想像を逞しくするほかない。そして、舞台上で展開されるのは彼女たちの日常だ。日常・・・泣いて笑ってケンカして、嫉妬して、同情して、ウソついて・・・そういう日常のやりとりが、現代リベリア語(とおぼしき英語、ピジンの親戚みたいな)で続いていく。そこに、戦闘員になると言って住まいを飛び出した第2号が帰ってきて、リベリアの婦人のために平和を取り戻す活動家のバリキャリ実業家がやってきて、これまでプライベートな空間だった彼女たちの住居が、セミ・プライベートな色彩を帯びて・・・

って、これ、現代口語演劇の王道を行ってるじゃないか!

日常を描いているのに、リベリアの内戦時の日常そのものがキツすぎて、極めてきっつい芝居に出来上がっているんだけど、それを織り上げるものは日常の所作であり会話であり、「阿修羅のごとく」にも比すことが出来る四姉妹の愛憎であり、文字の読めない1号と2号が4号の読む本を耳で聞いて世界を膨らませていく過程は「ストリートオブクロコダイル」のシーンのように美しく、可笑しく、せつない。2号が飛び出していく食うか食われるかの世界は、まさに資本主義の弱肉強食の裏返しとなって普遍性を帯び(るように小生には思え)、狭い狭いリベリア反政府軍のアジトが、ぐぐっと世界を広げていくのが強く感じられた。
そして何より「どのシーンを観ていても美しく、目が離せなかった」。役者たちの魅力、アンサンブル、勘違いしなさ加減、本当に観ていて飽きなかった。

こういう芝居、日本にいる人にも是非是非観て欲しい。こういう芝居、SPACとかFTとかKAATで呼んでくれないかなー。鳥の劇場で観られたら最高だろうなー、春風舎じゃちょっと狭いなー、そういうことを考えながら、幸せに帰路についた。

2015年5月17日日曜日

Golem

16/05/2015 マチネ

<恥ずかしい事実誤認があったので、書き直します。戦間期の芝居じゃないですね。カンパニーの名前が1927だったんですね。知ったかぶりは末代の恥。以下、訂正版です>

ロンドンに来て最初の週末に芝居を観てから、引っ越し、生活の立ち上げ、家族リユニオンと、あたふたしているうちに1ヶ月近く経ってしまった。
今日の昼に観たのは、Golem。今時の芝居ならではのテクノロジー・ガジェットを駆使した芝居ってことで、相当流行ってるらしい。
Trafalgar Studioっていう小屋は初めて来たけれど、Studioと言う割には観客席も300席近い客席がきちんと急なスロープで組んであって、想像していた日本の小劇場風スタジオとは相当違う。客層も例によって子供連れあり、老夫婦あり。さすがに観光客はほとんどいないが。

Golemってのは、ご主人様の言うことを何でも聞くはずの土人形のことで、それが段々と主客逆転していくっていう筋立てで、分かりやすくて、話の進み具合から置いて行かれることもなくて、安心して観ていられる。

この筋立てを支えてるのが舞台奥パネル+役者が出し入れする3尺×6尺(くらい)のパネルに投影される書き割り+動画で、この出来が素晴らしく良い。(ネタバレすんませんが)土人形の動きは100%この投影で処理されていて、役者の動き・シンクロぶりも完璧。つまりは今は懐かし2次元劇団エジプト+α、今風に言えば範宙遊泳がちょっと似てるかな。テクニック的にはGolemの方が遙かにカネも人手もたっぷりかけて一日の長あり、でも、イメージの広がり方は範宙遊泳の使い方の方が良いなー、と感じた。

筋立てのこともそうだし、技術の使い方にしてもそうなのだけれど、この芝居で惜しいのは、それらのことが、テーマ、すなわち、「テクノロジーに使われちゃってませんかー?」っていう極めて分かりやすいメッセージに奉仕する形でしか出てこないこと。そうしないと伝わらない、という主張には耳を貸すけれども、それは、観客の想像力がスパークする機会をあきらめている、って気がする。観客の想像の余地を狭めるってことは、劇中の Go Friend、Go Mealとか、i-macとかi-なんとかとか、翌日配送何とかPrimeとか、その延長のGo-Theatreになっちゃうんじゃないの?って言いたくなっちゃう。

でも、そこで、諷刺を楽しみながらも「自分はそんなことないから」って思い込んじゃってる部分が西欧の、特にわりかし教養のある(従ってカネを出して芝居を観に来る)人に多かったりするからなあ。そういう自尊心までも揺るがしてしまうような仕掛け・演劇まで行ってしまうと、却って、「理解できないふりをされる」ことになっちゃうのかもしれないなー、などと思ったりもしている。これでは日本の小劇場演劇が受け入れられるまで、あと5000年はかかるのかもしれないなー、マジで。