15/11/2009 マチネ
字幕付きで。
まずはほっとした。(字幕は)悪くないよ。やっぱりオペレータがよーく分かっているというのが大きい。情報量を意識的に落としたのも良いほうに働いていたと思う。
ただし、客席に座って観ていると、やっぱり「あれはこうしたほうが、これはあーしたほうが」というアラが見えてくる。行の割り方とか、台詞の呼吸・間との整合とか、情報量を削りすぎたところとか。直したくなる。千穐楽なのに。
芝居はといえば、さらに輪郭の鮮明さを増していた。はっきりくっきりと舞台上で起きる事柄が空気に焼き付けられていた。これを嫌う人も好む人もいるだろうということも、先週観た時と変わらない。
そうだ。昔松井氏がユリイカに書いていたこと。
「今ここで起きていることだけ」を頼りにして、人間の「謎」や「奥行き」から解放されること。
これは、松井氏がポツドールやチェルフィッチュについて使った言葉だけれど、実は、この「あの人の世界」は、この松井氏の言葉を更に鮮明に舞台に載せた芝居だといっても良いのではないか。
物語を巡る寓話。でも、物語は、この舞台の上にも、舞台の外にインプライされる世界にも、どちらにも見つからないし、そもそも用意されていないのだ。
「夫婦」「姉弟」「嫁姑」「運命の人探し」「祭と復活」「自分探し」
物語のパーツはこんなに散りばめられているのに、物語はどこにも無い。頼りは「今ここで起きていることだけ」だ。
そうやってサンプルは、「過剰で空疎な現実」を、舞台の時空一杯で、全面的に引き受けて見せる。ポツドールやチェルフィッチュのような意匠を欠いている分、その皮相さ加減(=コスプレさ加減)はなお一層たちが悪いように思われる。
だから、この「あの人の世界」という芝居は、トンでもない芝居だし、評判が悪くてもおかしくない芝居だし、分からなくても仕方が無い芝居だし、むしろ分かる分かるといわれてはいけない芝居だし、寓話なのに物語から遠く、寓話なのに皮相的で本質を要求せず、現実から遠いのに現実に限りなく近く、余韻を残さずに記憶に焼きつく芝居なのである。
こういうリスクをとることの出来る作者・演出家・役者・スタッフの揃った座組みは素晴しい。万人に受け入れられることがなくとも、(自己満足ではなく)新しい地平の一つに踏み出す現場だったのではないか、とすら(考えれば考えるほど)思われてくる。
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