2009年12月6日日曜日

タニノクロウ 太陽と下着の見える町

04/12/2009 ソワレ

初日。いやー、格好良かった。そして、ある意味、さわやかだった。意図が徹底していて、かつ、エンターテイニングだった。
同じ、「えぇっ!?」と思うネタであっても、サンプルの松井周が気持ち悪いところに観客を宙吊りにして放置するのに対して、この舞台はエンターテイメントとしてカタルシスのあるところでひとまず決着をつける。良し悪しではないけれども、そういう差は、感じた。

パンチラ(とセックスシーン)はもちろん頻発するのだけれども、いやらしさはない。なぜなら、それらのパンチラは、きちんと演出されていて、観客の目に対して「はぁーいこっちこっち、ご期待通りのパンチラですよー、さぁ見てくださいねー」というように示されるからで、僕はもともとそんなにパンチラ好きではないのだが、それにしても、パンツ見てこんなにいやらしくないとなー。女優陣折角きれいなのになー、と、自責の念にかられる。それにしても、パンツの見せ方に関するタニノ氏の演出はかなり細かかったに違いない。マガジンとかサンデーで読んだ少年マンガの「少年妄想パンチラ」の構図に限りなく近く、それも幼女パンチラから40台パンチラまで用意して、全く周到である。

パンチラはそれくらいでいいや。実は僕は「妄想の倍音成分」について考えていたのです。

4.48サイコシスで、飴屋氏は、もうぐちゃぐちゃでどうにも均整の取れていないテクストの倍音を一個一個丁寧に解きほぐして、取り出して、色んなレベルで舞台に載せてみせた。それはホーミーとのアナロジーで、その場で思いついた絵なんだけれど、倍音と言うのは、字面だけみても立ち上がってこなくて、かなり丁寧に解きほぐさないと聞こえてこない。それをやってた飴屋さんは本当に真摯で、粘り強くて、ピッチにうるさくて、かつ、当たりの鋭い演出家だと思ったのだ。

で、タニノ氏がこの舞台で示しているものも、妄想の倍音成分だといってほぼ間違いないのではないかと思う。久保井氏演ずる50台男に焦点を当てたときに、他の登場人物が久保井氏の妄想の産物なのか、それとも本当にいる人なのか、という問いには答が出せないし、答えは示されないけれど、少なくとも、久保井氏含めた登場人物が、タニノ氏の妄想(失礼!想像力)の産物であることは確かで、タニノ氏が、テクスト書きながら、色んな音域に自分の想像力(本当は妄想と書きたい!)を割り振っている、その丁寧さがうかがえるのが楽しかった。一聴すると無関係でテンデばらばらに見える各シーンは、実は一つにキュッとまとまった世界になっているという信頼感というか、安心感というか。

同じ音の倍音ばかり聞かせていると観客は退屈するから、パンチラをまぶして、そのざらつき具合で舞台を引っ張ってみせたりする。佐野陽一演じるパンティ君とマメ山田さんは、その倍音から外れたところに置かれて、観客が世界にのめりこむことを許さない。そのバランスも素晴しかったと思う。

そういう豊かな世界の中を、90分間フルに行ったり来たりできることは、観客として無常の喜びである。陳腐で使い古された「メロディ」にこだわる一本調子の芝居がまだまだ多いんだもの。

あ、そうだ。最後、拍手が起きるタイミングを許さない終わり方を狙っていたようだけれども、そこに限っては演出の思う壺にははまらないぞ。こんな素晴しい舞台、拍手をしないテはない。

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