2006年11月30日木曜日

僕は蛾アレルギー

来年のスギ花粉症の季節に備え、アレルゲンの検査を受けた。
今日、結果を聞いたら、

スギ花粉 陰性。
ハウスダスト 陰性。

過去11年間のアレルギーの歴史は一体なんだったのか?
4月の日本をあれほど避けた意味はどこにあったのか?
かなりショックを受けました。で、

ハンノキ 陽性。
ヒノキ 擬似陽性。
ガ 擬似陽性。

私 「先生、ハンノキって、何の木ですか?花粉はいつ頃飛ぶんでしょうか?」
先生 「さあ、何でしょうね?」

後で調べた。Alder/Birchの類で、やっぱり3~5月に花粉が飛ぶらしい。なるほど。

蛾のアレルギーって言うのは、小学4年のとき、夏に電気つけて窓を全開にしていたら、夕食の間に6畳間の天井がビッシリ蛾で埋まっていた、あのトラウマ以来なのだろうか...
(その蛾達は母が掃除機で吸い取っていた...)

2006年11月26日日曜日

東京ナイス 九日目にはもう飽きている

むむむ。
芝居の枠組みが、最初から見切れているような、かといって最後まで分からないような。

時間の流し方も、上手く捌いているような、でも、上滑りなような。
1986年から超特急で時間を回して見せるのは、アイディアとして否定しないけれど、観客と共有するのが難しい。事実の積み重ねは、興味が重ならない人には面白くないだろう。

作・演出のアイディアに載って役者が動くのは、装置としては面白いのかもしれないけれど、その分、役者が死ぬ。役者の持ち味は、もうちょっと他にあるかもしれません。

追悼 アニタ・オデイ

映画「真夏の夜のジャズ」で観たアニタ・オデイは、何とも金持ちで余裕があっておしゃれなアメリカのキレイな女性の代表選手だった。
羽飾りのついた黒いドレスで、海風を気にしてか軽く帽子を押さえながら歌う彼女は、高校生の僕に溜息をつかせるに十分な、そうだ、「ゴージャスな」女性歌手だったのです。

その後も"This is Anita" "Sings the Winners" を愛聴。
2,3年前にロンドンに来た時に聴きに行かなかったのが悔やまれます。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=121614&media_id=20

山の手事情社 青い鳥

阿佐ヶ谷スパイダースが伸びやかに育った物語を提示するとすれば、山の手事情社の青い鳥は、畸形一歩手前の、苦しく折れ曲がった世界を突きつける。

銀座線以来の山の手事情社ですが、うーむ。
ここまで厳しい芝居をやっているとは。
当日パンフにある、安田さんのメーテルリンクの解釈は、それはそれで説得力があって、
しかし、それはやはり、メーテルリンクがコドモ劇として書いたものを安田さんの考える水準まで引き上げて演じるのは、またそれも厳しいのではないかと...

多分ファウストは観ない。が、安田さんのテクストを演じる公演があれば、それは観に行くだろう。

この苦しさをもって表現しなければならない世界とは一体何か?窮屈に身を屈めながら是非また観てみたいのです。

2006年11月25日土曜日

阿佐ヶ谷スパイダース イヌの日

初めて観ましたが、何でこんなに人気があるのか、とってもよく分かった。

伸びやかで、すっきりと、変な思い込みも、変な自己否定も無く、骨太な物語を力強く観客に提示していく。
過激な様でいて実は「芝居」の伝統のツボを押さえた展開にも、全く嫌味がない。

2時間50分近く、休憩なしの芝居を、飽きさせずに最後まで力強く引っ張っていく力量は、これはすごい。

そう、この伸びやかな匂いは、日本の小劇場で見つけるのは難しかった気がする。むしろこれは、ロンドンのストレートプレイの匂いだ。
あの、「本場」英国の、骨太な物語をあくまで骨太に、拗ねることなくケレンに走ることも無く、力のある役者が真っ直ぐに見せていく、そういう匂い。

日経の劇評はラストが気に召さなかったらしいが、何の何の。古今東西、骨太のお化け話はこうやって終わると相場が決まっている。僕はConor McPhersonのShining City を思い出してニヤリとしたね。

日本の「小劇場」でこんな芝居を観るのは、あたかも、日本の女の子の体型が西洋人に近づいてきたのに似る。昔はアメリカ西海岸のビキニの女性の伸 びやかな肢体は日本では見るべくもなく、「出かけていって見る(眺める)」ものだったが、今時の若い子には何だか負けてない人も多い、という意味で。

久々の本多で、舞台が遠く感じたけれども、それは、それで良いのだ。だって、細かなところに拘って楽しむ芝居じゃないんだから。

で、そうした伸びやかな芝居や肢体を前にすると気後れしてしまう僕は、ちょっと肩をすくめて呟くのです。
「すっげえいい芝居だよね。オレには出来ないけど」。
それから三福林でメシ食って帰りました。

2006年11月19日日曜日

無機王 吉田鳥夫の未来

サミット伊東さんが前回出演してた「無機王」である。

記憶が一定時間経つと振り出しに戻る設定は、最近バカ売れして映画化もされたけれどあんまり面白くないセンチな小説、「博士の愛した数式」と同じ。

一旦巷で消費されちまったネタで芝居やるんだから、それは、頑張っているに違いない、と期待して行った。

結果、面白い芝居でした。

アンケートにも書いたが、印象に残ったのは、
・ 虎美、ウンコ座りするも、(オレと同様)足首堅いからか、かかとが浮いている。
・ 女子中学生、横倒しに倒れるときに足がピクピクしている。
・ タミアイ、卓袱台を引っかく音が聞こえる。しびれた。
・ 女子中学生、リップクリームが取れないように横向きでストローを使うと宣言し、堂々と、時間をかけて面を切る。これにもしびれにしびれた。
・ 洋、たじろぎ方が何とも言えない。虎美、卓袱台の下から洋を引っ張り出すとき、電気あんまをしなかったのが残念だ

うーん、オレは、一体何を観ていたのだろう?

でも、そういう細部に目が行くということは、全体の作りについて安心できていたということです。
贅沢を言えば、もっと鳥夫と保を観たかったんだけど。何だか、最初は鳥夫の話だったのに、書いているうちに周りの登場人物にすっごく情が移っちゃって、鳥夫・保が割りを食った印象あり。
割を食ったのは、鳥夫・保の他、喜一郎と海老子もそうですね。他の役者ほど遊びを与えられていなかった。
ああ、この芝居、2時間超えてもいいから、もっと沢山みたかったなぁ。

一つ難癖つけるとすると、「幸せいっぱいサザエさん風ファミリーで始め、ハッピーエンドで終える」トーンの決め方、かな?
もっと気持ちの悪いハッピーエンド、あるいは、希望の持てる悲しい大団円、もしかすると、何だかよくわかんない結末、というのもあったかも知れない。そういうことの出来る力のある劇団だと思いました。

ジャブジャブサーキット 歪みたがる隊列

昼の『鵺』のせいで余りにも考えすぎて頭に血が行っており、
夕飯を食ったらその血が一気に胃に降りて貧血でアブラ汗がダラダラ流れ、横になって休むまもなくそのまま開場になだれ込み、真っ青な顔で、
「2時間吐かずに芝居を観れるだろうか」
と人知れず心配しつつ眼を閉じていたら、芝居が始まってしまった。

ジャブジャブサーキットの方々、すみませんでした。次からは体調100%で来ますから。今回は大目に見てください。

と心の中で唱えていたのだが、1時間50分、あっという間に過ぎた。1時間位したところで体調もすっきり。

前半のどうしても説明台詞にならざるを得ないところを、はしぐち氏がよく支えた。
物語りも種明かしもきちんとあるのだけれど、やり過ぎない役者が押し付けがましくない。

終演後に初めてきちんと読めた当パンに、
「全速力で回避したつもりでも、気付けばじわじわとドラマが侵食してきます」
とある。まさにその通りで、多重人格を題材とした時点で、はせ氏は、メロドラマへ真っ逆様のクレバスを避けながら、時速100KMを超えるスピードで滑降し続ける、芝居界の三浦雄一郎とならざるを得なかった。

その場にお付き合いすることを許していただいたことは、一種嬉しい体験でした。

2006年11月16日木曜日

シアタートラム 鵺

二日酔いを引き摺っての観戦。

いきなり、役者陣の芝居芝居したセリフや面切り百連発に戸惑う。なぜ、宮沢さんはそんな演技を役者にさせるのだろう?

劇中劇に清水邦夫さんの戯曲が引っ張ってこられて、それらの台詞が、今、21世紀の東京でリアリティを持つのはすごく大変だな、と思う。
なぜ、宮沢さんは、わざわざそんなものを舞台に載せるのだろう?

半分を過ぎたところで、役者が、
「長ゼリって、一体誰に向かって話してるんだろうね?」
「芝居の中の音楽って、どこで鳴ってるの?」
と、今更ながらの突込みを入れる。
演出家役の上杉氏、「お前らのそういう賢いところが気持ち悪い」と言う。
なぜ、そんな自己完結したやり取りをわざわざ舞台上で説明するのだろう?

なんてことを、二日酔いの頭で考えながら観ていた。
で、この芝居の観方として成り立ちうる幾つかの類型。

① 遠く日本を離れた異郷で、時空を超えた友情がよみがえる。現代のお化け話、おとぎ話。ちょっといい話。

② Velvet Goldmine が変節しちまったDavid Bowie の大断罪映画だとすれば(くわしくは本田透氏のこのコラムを参照
http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/vg.htm)、
これは、70年代以降大先生になっちまった蜷川幸雄氏の大断罪芝居である(日経の劇評パターン)

③ この芝居は、かつての時代の空気にあってはリアリティを持ちえた戯曲の言葉が、いまや時代とのリンクを失いつつある、その働きを鵺に例え、日本の芝居人の来し方行く末を見つめなおそうとする試みである(当日パンフそのまま)

④ この芝居は、全篇、1演出家の妄想の世界である。或いは、昔日のアングラスターの死の直前の、一瞬現れて消える妄想の世界である。そのどちらか(2つの妄想が交錯して現れたものではない)。
妄想の中で「現実」とみなされる人の動き、話し方は、「演出家(本当は役者かもしれないが、以下、演出家で統一)」が世界とコネクションを試みる中での現実なので、演出家が外界に求めるようにしかならない。すなわち、芝居がかっている。
その態度が本当の現実世界との中でリアリティを持ちえず演出家が苦しむのと同様に、清水邦夫の戯曲の言葉もまたもがき苦しむ。
シアタートラムに居る観客は、そのなんとも苦痛に満ちた、しかも決して解決されることの無い苦痛を、妄想を観るもう一人の演出家自身として体験する、という構造。
・ハンディカムで記録をとり続ける男は、妄想の登場人物達が自分達が現実であることを殊更に強調するための道具たてである。テープを入れ替える 間、彼らが演技をやめるのは、「全く最近の連中はいつもカメラ目線で困る」ということを匂わせるためではなく「役者たちの振る舞いが何らかのフレームに収 まっていることを示唆する仕掛け」として使われている。
・役者たちの自分突っ込みは、妄想・夢の中の「これは夢だかんね」という自分説明の代用として使われている。
→ 1人の男の非常に特殊な妄想のありようの中で、この男の外界の捉え方のメソドロジーをとことん剥ぎ取ったところで、この芝居のリアリティが普遍として観客に迫ってくる仕掛け。

僕は、途中、④の観方に辿り着いたところで、最初の3つの疑問(本当はもっと色々あったが)が解けて、この芝居を楽に観れるようになりました。それまでは、色んな疑心暗鬼が渦巻いて、大変だった。

観終わって、とても満腹感がありました。言い方を変えれば、疲れた。とてもよく考えられている芝居。頭を使う芝居。

でも、少なくともこの芝居は、あんまりエンターテイニングには受け取られないのではないだろうか。
まぁ、読み返してみると、かなり僕の観方もひねくれまくってますが。個人的にはこう読み解かないと納得いかなかったです。

2006年11月15日水曜日

富士山が見える

朝、起きて出かけるとき、ドアを開けた真正面に富士山が見えます。
何と、引っ越してきて半年にして初めて気が付いた。

オフィスの窓から、やはり富士山が見えます。
今日は南アルプスも見えたらしい(僕は見逃した)。

やっぱり、富士山はいいのぉ。
昔は十条の小学校の屋上から見えた、ような記憶があるが、今じゃ背が低すぎて見えないでしょう。

日本に居て本当によかった、と思う数少ない機会の1つです。

2006年11月13日月曜日

タテヨコ企画 フラミンゴの夢

ヨコタ君の芝居を初めて観るのは、緊張した。
万が一すごく恥ずかしい芝居を演出していようものなら、僕が居たたまれなくなってしまうだろう。そして、芝居前に顔を合わせていたにも拘らず、眼をあわさぬようにしてコソコソと帰らなければならないだろう。そして、日記には何と書けばよいのか!

という緊張感である。なので、終演後の乾杯にもちょっとお付き合いできて、良かったです。というか、安心した。

すごく良い芝居。役者良し。使い方良し。そして何より、丁寧に作ってました。アンケートにも書いたが、「アラの探せない」芝居。

で、何が不満か。観終わって一日経って、何だかふつふつと形になりつつある感想。

「人柄の良い芝居でありすぎる」
そのこころは、①ヨコタ君の人柄のよさが前面ににじみ出ている ②登場人物みんなが、実はいいやつ ③で、その、いい人たちの空間が、善意も悪意も、良い人のエッセンスが紡ぐループの中で閉じている

それって、とっても気持ちいい。

でも、芝居でぐっと来る瞬間って、えてして、そういう心地よい空間の中に、一瞬裂け目が開いて、そこから冷たくて生臭い風が、あっと声を上げるまもなく、瞬間吹きこんで、たちまちに止む、というようなところにあったりもするんです。

今度は、そこを覗いてみたい。ヨコタ君に見える世界に一瞬開いて閉じる闇の世界への窓。いい人の役柄を与えられながら、分けの分からない心地悪さ(かもしれないしそうでないかもしれないもの)を残す役者。

次も楽しみにしてます。

2006年11月12日日曜日

新転位・21 嗤う女

チラシには
「人は本当に<機縁>もなく人を殺害しうるのか?」
とあり、
「本作品は林真須美被告を真犯人と特定して書かれたものではありません」
とある。

僕は、この事件の騒ぎの間、日本に居なかったので、他の観客が共有しているバックグラウンド、あるいは、作演出者が、「共有しているだろう」と前提しているバックグラウンドが欠落しているところがあったかもしれませんが、以下、その前提で。

とても切なくなる芝居でした。「人は本当に<機縁>もなく人を殺害しうるのか」なんて、本当は、分かる訳ないんです。
分かる訳ないんだけれども、それが分かっていて、なお、転位の芝居は、その分かるか分からないかのギリギリのX軸まで、漸近線を引いていく。
それは丁度、演じる役者と演じられる配役が、本当は全く関係の無い2つのものであるのと一緒だ。「迫真の演技」という使い古された言葉があるけれ ど、本当にその通りで、「真」に向かってどこまで漸近線を引いていこうとも、真になる訳が無い。なったと信じた時点で頭がどうかしている。

だから、芝居の中でいくら突き詰めていっても、本当の真実は見えない。その点について余りにも無自覚だったり楽観的だったりする芝居(や観客)が溢れる中で、転位の芝居は余りにも自覚的で、かつ悲観的だ。

辿り着かないのが分かっているのに、そこに向けて歩まざるを得ない、その、駆り立てる何かが、とても切ない。

いい芝居でした。

ハナオフ 相対的浮世絵

良きにつけ悪しきにつけ、大人の芝居。
口の悪い言い方をすれば、年寄くさい。
でも、その分、安心して観れる。最後まで一線を外さないで芝居が進むだろうという安心感。

無駄なシーンも多い。年寄りだけあって、芝居の体脂肪率も高め。20年前に比べて明らかに体脂肪率が落ちて、何だかむしろ若返ってしまったようにも見えた水下さん本人と対照的。水下さんの体脂肪率が14%なら、この芝居の体脂肪率は23%くらい。

ただし、削って削って芝居を作りこむ先に、結構不毛な地点が出てくるってことも何となく見当が付いていて(僕らエタノールを飲まないのと同じで)、じゃあ、どれくらい混じり物が入っていれば良いかなんていうのは、舞台に載せてみなきゃ分からない。

こうして書いてると、何だか、一番咎められるべきは実は観客としての僕の態度で、一体、オレ、何を水下さんの芝居に期待してたんだろうね、ってこ とで、まさか「可も無く不可も無く」を期待してて、その枠の中に入ってたのでOK、みたいなナメた態度で芝居小屋に足を運んではならんのである。

ああ、水下さん、ごめんなさい。僕が水下さんに言わなきゃなんなかったのは、実は、こういうことです:
「ミズさん、もっとそぎ落とした、エッジの効いた芝居もやってくださいよ。まだ落ち着く歳じゃないっすよ」

モンキー・ロード えんかえれじい

モンキー・ロード。小生恥ずかしながら予見ゼロ。
北村想さんの新作書き下ろし、ということだが、実は、その時になって初めて気がついた。僕は北村想さんの芝居を観たことがなかった。あれ?「雪わたり」観たっけか?思い出せない。うーん。
というくらい予見ゼロでした。

さて、観てみると、苦しい芝居だった。さぞ書いていて苦しかっただろう。だって、歌のシーンが無ければ正味20分くらいの芝居だよね?
あれ、演歌ミュージカルとして観れば、その時間配分で正しいのか?

でも、演歌で押し通すのにはちょっと息切れしてしまっていて、後半ハチドリの話とか病気の説明とかしだすと、途端に焦点が合わなくなる。

折角演歌ミュージカルって大見得切るんだから、最後まで元気にエンターテインして頂く方が、むしろすっきりしたんじゃないかしら。

2006年11月5日日曜日

燐光群 チェックポイント黒点島

坂手さんは、僕が芝居と関わる態度を形成する中で、かなり重要な一言を僕に投げかけた人で(多分1989年ごろ。ご本人は全然覚えてないと思いますが)、その頃からその政治意識と舞台への意思と取り敢えず走ってみる、という態度は、常に一種敬意の対象となってきました。

今日、2日目。客席のオバサン指数は、100点満点で5万点くらい。かなり戸惑う。

だが、竹下景子さんが出ようと、渡辺美佐子さんが出ようと、坂手節は一つも変わらない。青年団を静かな芝居、岩松さんを神経症芝居と呼ぶならば、坂手シュプレヒコール芝居は変わらない。

全篇役者が叫んでる、ってことじゃないですよ。
「言いたいことを全て舞台の上に、台詞の上に、のっけてやろう。感じたことを、考えたことを、とにかく全て舞台という拡声器を通して叫んでやる。伝えきれないことは分かってても、咽喉が枯れるまで叫んでやる」
という態度が、僕なりに定義するシュプレヒコール芝居の真髄です。

これって、舞台に載せられている発想やモチーフの量があれだけ大量だと、かなり乱暴なゴール設定で、実際、芝居も乱暴かつ風呂敷畳めてない。

でも、坂手さんの頭に渦巻いているものが、妙に整理されないままのっかってる、そこにカッコつけもスタイルも要らない、という意思表明が気持ち良い。

観てる最中に「何で芝居というメディアを使うの?」という疑問が沸いてくる。それを力技で2時間20分押しまくる。
人に薦められる完成度、ではないけれど、
一種Guilty Pleasureなところがある芝居でした。

2006年11月4日土曜日

新宿梁山泊 風のほこり

十何年かぶりに浅草木馬亭へ。当たり前かもしれないが、周りの風情は変わっていない。
そういえば、梁山泊も十何年かぶりだ。吉祥寺東口のビルで六平さんが旗を振っていた芝居以来。

六平さんも、14年ぶりの梁山泊だそうだ。登場するときに「むさか!」とか、「待ってました!」とか、でるかなあ、と思ってましたが、出ませんでしたね。この日は。

この芝居、「アングラ古典芸能」というにはすこうし乱暴さ加減が足りず、センチすぎ、汗と血と土の臭いがしてこない。でも、それをもって梁山泊が十何年か前より詰まらない、ということではない。十何年かとしを取った僕にはちょうど良い塩梅でした。

ついでながら、唐さんの戯曲を舞台で見る度に、李麗仙・緑魔子・金久美子・(あと、唐さんの芝居じゃないですが、銀粉蝶)以降の女優は苦労するなー、と思う。今回も例外ではない。まるでマックス・ローチとトニー・ウィリアムズ以降のジャズドラマーのようだ。

新国立劇場 シラノ

シラノは、中2のときに中高合同の文化祭で上演したシラノに、尼さん役で出させてもらった(男子校だったので)、小生にとっては数ある芝居への入り口の1つに位置する、大事な芝居。

かたや鈴木忠志さんの芝居は初めて。
あのワセ小歩き以外にこれといった予備知識も無く、拙者昔っからあれできないし、ロビーに着くと観客の平均年齢高いし、どうなることかと思っていましたが。

ああ、シラノって、いい話だなあ。っと。帰り道、年配の男性が、「最後、男のこころいきだ!っていうのが良いんだよね」って、本当に、そうですよね。僕も同感です。

で、鈴木ワールドは、というと、僕にとっては、「歌舞伎」や「能」が観ていて面白いのと同じ意味で、面白かったです。逆に言うと、現代の芝居として捉えるのはつらい。

もしも鈴木ワールドが「世界で激賞されている」のであれば、それはそれで良い。でも、今後の日本の芝居を変えるインパクトは感じませんでした。本当はもっと他のところに意味深いものがあるのかもしれませんが。すみません。