2009年3月31日火曜日

壁の花団 アルカリ

29/03/2009 ソワレ

前回観た「悪霊」よりも分かり易かった。というと誤解があるといけないのだが、やっぱり、重くて、暗くて、とっつきにくい芝居。

男優・女優2人ずつ、それぞれ力があり、小生の好きなタイプ。本当はもっとはじけたことをやろうと思えばできる人たちなのだろうが、嬉々としてかなんなのか、こんなことしちゃって、うーん、これ、面白いって言っていいのかなー?うーん、難しい。

なんだか、作・演出が役者の力にもたれちゃってる気もした。難しい芝居だ。みせ方、というよりも、こちらからの付き合い方として。

飴屋法水 転校生

26/03/2009 ソワレ

東京初日。
昨年静岡のSPACで初演された作品をフェスティバル・トーキョーで。これを持って来ただけで今回のフェスティバル・トーキョーの開催価値はあった。断言する。

昨年の衝撃はまだ残っていて、でも、まぁ、演出の趣意や展開はよーく分かっているつもりなので、それほど驚くはないかなぁ、と予想していた。むしろ、小屋としてはSPACの方が居心地が良いから、その分、東京で観るのは分が悪い。もしかすると、高校生の演技は水物で、今回つまらなくなってたらどうしよう、なんて心配すらしていたのだ。

開いてみれば心配無用の素晴らしい舞台に涙止まらず。飴屋・宮城・平田の超豪華な顔合わせがとんでもないプロダクションを産みだしたことが、東京でも証明された。
出演する高校生達、1991年生まれ、僕の娘と同い年の子が多い。あぁ、そーなんだー、と、やっぱり感慨深い。

<以下、ネタバレあります>


幕(というよりバトン)が上がり、最初の一人が舞台に出てくるところで、既に、膝ががくがく震えた。みんなが出てくる間中、震えが止まらない。客電がついて三々五々通路を通って入場してくると、もうそこで涙がこぼれて止まらない。高校生に涙を見られるのは癪なので、必死でこらえる。

が、転校生岡本さんが入ってくるともうだめ。しかも、下手わきのドアからの入場、僕の座っている真横で立ち止まる。ダメだ。40男の泣き顔を、他の観客に晒してはイカン、と、ますます必死になる。

ま、僕が泣くの泣かないのなんてのを繰り返して書いても意味はあんまりないので、芝居のことを書くと、

・ 高校生が退場していくときの顔!どうやったら、あーいう素敵に何も無い、ひたすら出口に向かうことだけを考えてる顔で退場できるのか。素晴らしい。みとれた。
・ 同時多発会話が、こんな形で提示されるとは。人の話を聞いているのかいないのか、それも全然分からない。なんと勝手な生き物なのか。女子高校生は。
・ 20人の同時多発戯曲を書ききった平田オリザの力量・体力に感服。
・ 15年の時をやすやすと超える戯曲の強度。それを極めて同時代のものとして、かつ、今だけの、ここだけのものとして、提示する飴屋氏。改めておそるべし。平田戯曲は本当に厳しいのが多くて、安易に戯曲として選ぶとしっぺ返しが激しいのだけれど、なんと素晴らしい演出であることか。
・ それを企画してしまった宮城氏の眼力!
・ 初演時よりもメリハリがはっきりして、高校生も「好きにできること」の幅を広げて、より勝手気ままに振舞ってみせ、かつ全体のアンサンブルも良い。東京初日ということもあったのか、素晴らしい気合だった。

2009年3月30日月曜日

14歳の国 稽古15日目

30/03/2009

今日は白神組の義太郎くんが稽古場にきてくれて、いつも気合一杯の稽古場ではあるがいつもにも増して気合が入る。

思えばオーディションを受けた12月3日、義太郎やカワムラアツノリさんや武谷さんが居る会場で、「オレはこの場に居るだけで充分幸せや。オーディションは、参加することに意義がある」と真剣に思ったことである。出演できるなんて、これほど好運で、うれしいことはない。
と思うと、やっぱり否が応でも気合入るよ。

杉原演出のやりたいことを色々試してみる。それにその場で応えられるだけ応えてみる。そのプロセスはもちろん楽しいけれど、本番に向けてそれをど う定着させるのか、さらにそこから壊せるのか、加速できるのか、それを20日間かけてやっていくのだろうか。そういうのが楽しい。そういう瞬間瞬間を味わ い尽くしたい。

日仏イラン合作 ユートピア?

23/03/2009 ソワレ

初日。

フランス・イラン・日本、3つの国の作家・演出家が集まって、お互いに最上級の敬意を払いながら作り上げたに違いないと思わせる、上質の芝居。メタ演劇、というと、どうも頭でっかちな、後で「あれってどーゆー意味なんだか、説明して下さいよぉ」見たいな方に流れがちなのだけれど、そうならなかったのは、3人の「メタ演劇」に対する意識に浮ついたところがないこと、それとやはり、お互いのパートに対して敬意を持って取り組んでいること、が大きいのではないかと思う。

そして、芝居がそれ自体として非常にポリティカルなメディアであることの再認識と、そのはかなさ、せつなさ、それゆえの愛らしさを、僕は、共有できた気がした。昨年のシンポジウムで、演劇が政治的であることとはどういうことか、という話を平田・宮沢・岡田の3氏でしていたときのフラストに対する、1つの回答のように感じられる。

「超話題作」みたいなインパクトのある、はったりを利かせた作品ではないのだけれど、(それゆえ、爆発的な評価を得ることは無いかもしれないが)、素晴らしい作品である。

僕自身、銀行員としてイランに出張した経験があって(これ、自慢です)、イランには思い入れ強いんだけれど、うん、満喫しました。

<以下、ネタバレです>


プロローグ シルヴァンによる前口舌。饒舌に、ユーモアをもって。理屈っぽくなく、くどくなく、でも、思いっきりポリティカルに。
第1部 平田オリザの口語演劇、3ヶ国語混在でも地力発揮。ここまでで休憩。平田に面白かった旨伝えたら、「後半はもっと面白くなる」由。
第2部 アミールの舞台裏バージョン。これがまた、よーく表舞台を意識して、かつ、楽屋落ちにならずに、しっかりとリアリティに足をつけながら進む。日本人・イラン人・フランス人の「変さ加減」が良い。
エピローグ うん? と思う。こういう落とし方かい?と思う。でも、きれいに落ちなくて良いんです。ぐだぐだだけれども、態度として成立していれば。
ガスマスクのうだうだ踊りの中に過去上演された演劇の記憶が昇華されて、今日見たこと、あったこと、きっと跡形も残らないだろう。そういう、脆弱ですぐに揮発して失せるメディアとしての演劇を、こうして、今、目の当たりにすることの幸せを、つくづく感じたことである。

2009年3月29日日曜日

東京デスロック リア王

28/03/2009 マチネ

マチネといったところで、一日一公演なのだが。で、あぁ、それも納得いくよなー、という感じの、やはり役者を酷使する多田演出は相変わらずなのだけれど。
劇中にかかる演歌に引っかかって、ちょっと、というのが正直な感想。もっというと、デスロックを観ていて初めて、「音楽、邪魔」と思ってしまった。

劇中の音楽の使い方は難しいはずで、というのも、特に流行歌は、個人の記憶とかなりリンクしていて、その記憶と劇中の出来事をつなぐ役割を園音楽がどう果たすのかが問題となる。「悲しい出来事だから悲しい曲ね」みたいのは論外としても、個々人の反応を包み込んでなお効果的な音楽とするなら、かなり気を使ってかけないと、と思った。僕の場合は、芝居への興味から離れてしまうように、今回かかった曲は働いてしまった、ということなのです(逆に、パフュームは、100%僕知らないのでいくらかかっても気にならない)。そういう状況でカラオケのイントロの前に妙な間が入ると、それは非常に気になる。特に二回目以降。

音楽がかからない男優のシーンは安心して観ていられた。佐藤誠、ほんと、調子に乗りやがって、という感じである。夏目、山本、楽しそうだね、という感じである。夏目の客いじりは、実は、今回のリア王の中で僕が一番好きなシーンです。一方、女優陣は、おもりに加えて演歌を背負っちまったおかげで割を食った印象。

本当はもう一度くらい観たいんだけど、それもかなわないので。とりあえず、次はどうなる?

14歳の国 稽古14日目

29/03/2009

いよいよ、稽古、「次の段階」へ。 面白いよなー。シンプルなアイディアで見え方が全然違って来るんだなー。これをやるために今までの稽古があったんだなー、と今更のように。

こういうアイディアが出てきて、しかも、本番近くなるとそれにすら飽きて、もっともっと、やれやれー、てな具合になるのか、と、杉原演出、ますますもって楽しみです。 ご来場予定の方、きっと、これ、面白くなりますよ。お楽しみにどうぞ。

2009年3月28日土曜日

14歳の国 稽古13日目

28/03/2009

通してやってみる。何とか通る。これからこれから。まだまだ削るみたいです。

と思ってたら、明日からはさらにどんどん壊してく、というか、変えてくみたいだ。きたきた、トップギアに向けて回転数が上がりそうな予感。

って勝手に思うのはいいけれど、
相変わらず塩漬けと味噌漬けと切り身間違いそうになったり、春巻と春雨間違えて自爆したり、ちょっとイカン状態ではある。集中、集中。

14歳の国 稽古12日目

27/03/2009

真田さん急遽NG。冒頭部分に代打で登場。予想外に似てるみたいで、時々受ける。やった!
この間、真田さんの真似してるつもりで台詞言ってたんだけど、だーれも気付いてなくて、僕が「似てる?」って聞いたら、みんなきょとんとしてたからなー。
でも、僕が寝てるシーンは、人の台詞を聞いてるだけで動きが見れないから、動きが似せられないんだよねー。残念です。

杉原氏は戯曲を少しずつ削ってすっきりみせていく作業に入っている。僕に見えてなかった戯曲の起伏を、きちんと見てるんだなー、と思った。さすがだ。よしよし。

前のめりにならないよう、でも、余計なタメで見せないように気をつけないと。
時々、うまーく場に乗っかってると感じる瞬間も出てきた、と思う。その感覚を失わずに。でも、滑らずに。丁寧に。

2009年3月25日水曜日

珍しいキノコ舞踊団 × plaplax The Rainy Table

22/03/2009 ソワレ

正直に言うと、開演後5分で退屈し始めた。
導入部があって、雨の日の退屈な一室から夢の世界へGO!っていう、わりかしありきたりな設定。まぁ、設定自体はパフォーマンス全体への好悪とは別物。
どういう展開をするのかと思いきや、うーん、6人のパフォーマーがかわりばんこにメインをとって、短いパフォーマンスを10のシーンで綴る。

ダンス全く素人の僕がこういうパフォーマンスを観るときには、
・ 舞台上の「きれいな形・フォーメーション」には興味なし。というか、分からないから。
・ インパクトのある身体の動きには、素直に驚く。
・ 日常のちょっとした動きとのリンクが見出せると、途端に虫の眼が発動されて、興味を引かれる。

今回は、そういう意味で、僕の好みのパフォーマンスではなかったということです。退屈はしたけれど、悪く言う筋合いは無い。

声紋都市-父への手紙

22/03/2009 ソワレ

舞台芸術としての力強さは、どこにあるのか?
こういうシビれる芝居を観ると、改めてそう考えてしまう。
舞台中央の傾斜舞台をゆっくりと滑り落ちる役者達。正面のスクリーンに映し出される巨大な松田氏の顔。原爆資料館の受付の女性を困らせる松田氏の映像。女装で土手を転がり落ちる松田氏の映像。

写真の無脳児は昭和42年生まれとある。僕と同い年だ!全体として「アヴァンギャルド」と片付けてしまえる作品なのに、そういったディテールをきっかけにしてどんどんリアルなものとして引き込まれていく。

「これは、どういう意味でございます?」と聞き続けるロープウェー嬢の存在感は、舞台上から観客の意識へと侵食を始め、雑踏を歩いている女の言葉になぜか涙が出る。

このテの、必ずしも特定のスジを追わない舞台は、往々にして見た目のインパクトと自己満足で終わっちゃう気がしていたのだけれど、こういう、総ての要素が舞台の力強さに結びつくようなものを見てしまうと、なんだか、考え込んでしまう。シビれた。

14歳の国 稽古11日目

25/03/2009

二場の稽古。最後は「無茶通し」をして締め。中屋敷組の川口さんが遊びに来た。

タバコの出し入れを何度もしているうちに、何だか、刑事ドラマのクリシェみたいになってきた気がする。いかんよ。

昨日の稽古で、僕の眼が「曇って見えた」時があったらしい。多分、眼鏡が汚れていたのだと思われる。

「そろそろ次の段階に入ります」なんだそうです。それなりに一旦出来たからなのか、それとも単に時間がないからなのか。いずれにせよ、楽しみです。

2009年3月24日火曜日

14歳の国 稽古10日目

24/03/2009

今日も二場をずーっと稽古。
なんだか、面白くなってきている。気がする。
だんだん、距離がとれてきている、気もする。

14歳って、ナボコフのロリータにでてくるロリータは、何歳だったっけ?
14歳だったような気がする。ナボコフの名前が出てこなくて、しばらく、んーと悩む。

帰りの電車の中で、今まで気がつかなかった大変な伏線に気がついたが、それを話す相手がいない。明日の稽古で話してみよう。
ただ、それを話したからと言って演技・演出かわるのだろうか?もっとヤなのは、今まで気がついてなかったのが自分だけだったときだな。まぁ、勇気出して言ってみよう。

14歳の国 稽古9日目

22/03/2009

今日もお客様来場。やはり、お客様来ると、(われながらさもしいのですが)変わる。
これが、アゴラの客席にお客様がいたりすると、もっと変わるのだろーか。

ウェストサイド物語を見てナイフの取り扱いの練習をしようと、稽古中突如思い立ったが、稽古場を出ると即忘れていた。
そういえば、ここ3年、「ビデオを借りる」とか「DVDを借りる」とか、したことがないので、どこでウェストサイド物語を手に入れるか、全くアイディアがないことに気付く。なんか、くぢけそう。

帰りは百軒店で食事して帰りました。柴氏の百周マラソンはどうなったのだろうか?

2009年3月21日土曜日

田上パル 改造★人間

21/03/2009 マチネ

久し振りの田上パル。前回の「そうやってうんうん頷いていろ」を見逃しているので、ほぼ1年ぶり。楽しみにして行った。疲れ気味なのか、朝から異様に眠くて、変な芝居観たら寝ちゃいそうな勢いで眠かったのだが、田上パルなら眠る心配皆無である。

1時間50分の断食道場の大騒動。やっぱりいいよなー田上パルは、と楽しんで、その上で一言二言あるとすれば、
・ 今回、ちょっと、がなってる時間の割合が多くないかな?
・ この設定だと、熊本弁でなくてもよくなっちゃってないか?

女性キャストも加わって、これまでの作風からはちょっとずつ変わっていくのだろうか、という気もしたけれど、女性にも元気よくやってもらう、というのが先行して、「男どうしでしんみり」的なところが削られちゃったかな。

ま、いいや。楽しかったし。次はまた違ったバランスで見られるんじゃないかと思ってます。

14歳の国 稽古8日目

20/03/2009

一場を通してみる。通したと思ったら、も一度通してみる。休憩挟んで二場やって、も一度一場を通してみる。ドンドン余計な間が取れていった、気がする。

今夜もお客様登場。今日の差し入れはポテチ。甘いものも心を落ち着けるが、塩も実は心が安らぐんだそうだ。だから、僕たちついつい味の濃いものに頼っちゃうんだろう。

僕は数学の先生に見えたんだそうだ。何でかって聞いたら、へんなヤツは数学の先生に多いんだって。そういわれればそうかもしれない。でも、やっぱり、ちょっと、美術の先生に見えたかったかも。ベレー帽でも買おうかな(失礼。某有名台詞)。

2009年3月20日金曜日

14歳の国 稽古7日目

19/03/2009

なんだか、だんだん、「壊すためのもと」みたいなものになりつつあるのを感じる。早く次のステージに行きたいけれど、焦ってはいけない。
台詞を入れて、力を抜いて。

お客様来訪。差し入れで頂いたチョコビがあっというまにはける。甘いものの差し入れは、女子専用ではないのです。ごちそうさまでした!

演出は「時間がないかもー」と言い出したよ。よしよし、あと1ヶ月。まいてけー。

2009年3月19日木曜日

14歳の国 稽古6日目

18/03/2009

今、自分なりに考えているテーマは、「マイペースな人になる」です。

周囲の事象を自分なりにきちんと知覚しているのだけれど、その処理の仕方と処理経路が混線しているような。

「マイペースな人になる」と決めてしまうと、周りを見なくなってしまうが、それを外すと、割と自分なりに処理経路が確立されていて、面白くない気がする。
何か一つ回路をかましてやればいいのかもしれないけど、今ひとついいのが見つからない。

2009年3月17日火曜日

井手茂太 コウカシタ

15/03/2009 ソワレ

いやー、面白かった。井手氏・Bubble氏の双子ダンス。Diaのチャーミングさ。

客席上方、天井付近から舞台に向かってパイプがはしっているのを見て、てっきり
「あぁ、きっと、ここを伝ってパフォーマー達が舞台に滑り降りていくに違いない」
なんて思ってしまったが、これはダンス公演であってアングラ芝居ではないので、全て僕の思い通りになったりはしない。

それはそれとして、本当に、パフォーマー達の身振りの一つ一つが面白くて、観ていて飽きない。そう。「ダンス」というよりも「身振り」をみせてくれている、という感じなので、すごく近いところで、かつ、地に足がついていると感じられて、すっと入っていける。それが嬉しかった。

白井剛 blueLion

15/03/2009 マチネ

第一幕。不覚にも、うつらうつらする。確かにくらーいなかでゆーっくり動くので、観てて眠たくなっちゃうのは自分なりによーく分かるが、しかし、やっぱり、眠くなる。

休憩後、よーし、今度こそしっかり観るぞ、と構えたものの、うーーーん、これ、ひょっとしたら面白くないんちゃうか、と思い始める。三匹の山羊のがらがらどんの辺りで、それはほぼ確信に変わって、自分が第一幕で眠くなったのも、実は、面白くなかったからではないか、と、何とも自己正当化の口実が上手いこと手に入ったのだが。

まぁ、それはそれとして、その状態が、50分続くとかなりつらい。ダンサーよりもギタリストの指の動きの方が面白いのも、かなりつらい。あるいは、上手でブロックを積んでいる2人を見ていると、ダンサーの動きが邪魔に思えてくるのもまたつらい。

同じゆっくり動くのでも、転形劇場のゆっくりには、力があったなー、と思う。何故、転形劇場だと力があって、このパフォーマンスには力を感じないのか。難しい。でも、ホント、つらかった。

前半眼をつぶってた時もあるので、100%否定は出来ないのだが、でも、ちょっと、ピンとこなかったです。

14歳の国 稽古5日目

みんなの14歳の頃についてうだうだ話す。
オレ、バンドでベースやって、アナーキーの "Not Satisfied" やっとった。
アナーキー、あんまりみんなピンと来なかったみたいだ。杉原、「アナーキー」とメモっていた。

すまん。本当は、部屋では、もう、キースジャレットとかマイルスとかウェザーレポートとか、聞き始めてたんだ。隣の隣の部屋のヤツはドリスデイとかリナホーンとか聞いてて、それがジャズスタンダードに最初に触れた機会だったんだ。

ボクはあんましパンクじゃなかったな。

なんだか、稽古中も14歳の頃をボーっと考えたりしちゃったよ。自分史をたどってた。

舞台に上がることへの切実さを、もっと稽古中から感じていたい。ウソンコであっても、「ここを措いて自分が立つ場所は他にない」みたいな。そういう、シビれる感じが、もっと、もっと。

2009年3月15日日曜日

ロメオ・カステルッチ Hey Girl!

11/03/2009 ソワレ

なんだかなー。
「センセーショナル」とマスコミが書きやすそうな素材が沢山並んでいて、従って、
「センセーショナルで斬新な舞台が賛否両論を巻き起こした」
って書き易い出来なんだよなー。で、それだけなんだよなー。
舞台上で剣を振ると、「ビューーン」って効果音を入れるのって、どうよ?

当パンの英語部分 "About "Hey Girl!"" にも書いてあるけど(何でこれ日本語に直さなかったんだろう?)、「カステルッチは史実等々に題材をとりながら、それをそのままつかうのではなくて、シンボル・ジェスチャーのみを抜き出して使っています」。
まさにそれがこの舞台のスカしていて気に喰わないところで、要は、それらのシンボルやジェスチャーからカステルッチ自身の文化的バックグラウンドを理解できて、

「ボクちんこれが主張したいナリー」

ってのを読み取ることの出来る観客だけに向けられた、マスターベーション的な臭いのプンプンする舞台になっている。ということなのだ。文化人毛唐による文化人毛唐のための文化人毛唐の芝居。

「普遍」を目指すのであれば、とことん「個」に徹しなければ、異なる文化的背景を持つ人々には伝わらない。この作品は、まさにその真逆を行く。カステルッチが、自らの教養・歴史的背景に即して物事を「抽象」し、それらのイメージは「抽象」であるからこそ「普遍」たりうると勘違いしてしまったためにできた代物だと感じた。

ただし、
・ 女性が生まれてきたラテックスとペンキのお化けみたいなものが、芝居中90分間ずっとたらたら垂れ続けていたのは面白かった。反対側でやってる演技よりも全然面白かった。
・ 男が何十人もニュアンス無しにただただ登場して座布団で女性をばしばし叩くのも面白かった。そこで使われた「ばし、ばし」の効果音は、たけちゃんマンの効果音みたいで、とっても面白かった。

14歳の国 稽古4日目

14/03/2009

3日目は金曜にあったのだけれど、僕の仕事でウルトラスーパースペシャルヴィップ大集合大会が木曜・金曜とあったため、金曜日はお休みさせていただいたのです。

杉原氏のイメージする「美術の先生」は、キュートで朗らかな人なんだそうだ。そういう美術の先生に当たったんだそうだ。
僕が習った美術の先生は、
(先生その1) イェローオーカー、黄土色!と連呼してみたり、眼鏡を通してみた事物はウソンコの事物だから裸眼で絵を描けといってみたりした変な先生(悪い意味で)
(先生その2) 暗い先生。この先生の話で印象に残ってるのは、美大の友達が、針を指に刺して、その破片が何年かかけて血管を巡って心臓に届いて、早死にした、と言う話くらいだろう。あぁ、くらい。
なので、朗らかでキュートな美術の先生、ってのは、イメージとして新鮮です。

あ、もう1人美術の先生で知ってる人いた。義理の妹。うーん。美術の先生とは、いったい...

「鯖の塩漬け」ってのがどうも、上手く言えない。「鯖の切り身」になったり、「鯖のしめ鯖」になったり、「鯖の味噌煮」になったり。そうなんだ。鯖の塩漬け、ってビンに入ってるのを見たことがないんだよな。まぁしめ鯖もビンには入ってないけど。

山海塾 金柑少年

08/03/2009 ソワレ

山海塾、初見。大変楽しかった。極めてエンターテイニングな時を過ごした。

白塗りだったり、「暗黒」舞踏だったり、なんだか、難しいのではないか。難しいことを考えて、それを伝えようとしていて、観ていてそれが分からないと(誰にかは知らねど)ピシッとしかられてしまうのではないか、あるいは、頭が悪いと思われてしまうのではないか、という危惧が先に立ちがちなのだが、決してそうではないことがよーく分かりました。

あと、思ったのは、すごーくダイナミックに舞台を跳ね回るのでなくて、微細な動きを繰り返すことが割合に多いので、虫の眼の観客としては、色んなところをミクロに観ていられて、飽きないということもあったかも。

色んな人に、「山海塾って、本当におもしろいよー」と、今更のように、薦めたい。

2009年3月11日水曜日

14歳の国 稽古2日目

10/03/2009

パイプ椅子並べて実際に立って稽古。最初ちょっと2幕。次1幕。それから2幕。
台詞が入りきってないのもさりながら、他の役者との距離感がまだまだ。一人離れている時はまだしも、何人かの中に入っていると全然ダメ。自分の場所を忘れてしまう。
色々やらなきゃならないこと多い。

2009年3月10日火曜日

松井周 火の顔

07/03/2009 ソワレ

僕の好きな役者が5人舞台にいて充分に持ち味を出せば面白くないわけはないので、実際、とても面白かった。

平田オリザは「悲しい時に靴下の臭いを嗅ぐ人間もいるかもしれない」と言ったが、松井周は「悲しい時にオナニーする男は絶対にいる」みたいなところで芝居を作っている。と思う。

この「火の顔」と言う戯曲は、ドイツ人の若い戯曲家の手になるらしくて、引きこもりの弟と近親相姦の関係にある姉と、その両親と、姉のボーイフレンド、なんていうベタな設定。そのまま舞台に載せたらとても観ちゃいられないだろう戯曲を取り扱って、うまーく観客の眼が単線にならないように演出をつけて、2時間持たせる。

サンプルが三鷹でやった「カロリーの消費」と同様、舞台の間口一杯、べたーと横にのびた舞台が、観客の意識を分散するのに手を貸していて、かつ、左右の勾配、テーブル兼床の微妙なカーブが役者の動きにカラーを加える。杉山美術、良し。ただし、テーブルダンスもどきだか(雌鳥の中のナイフでみたような)男根の象徴だかわからない下手の柱はちょっと。

5人とも良い役者なので改めて個々で誉める必要は全くないけれど、野津あおいさんの顔つきが大人になっていてハッとした。「大人になっていた」というのは、言い換えると、表情の倍音が増していた、ということだと思う。そういうのもあって、虫の眼の観客である小生、松井演出を堪能したのだが。

が、疑問として残るのは、「なぜ、こんな戯曲を選んだのですか?」ということ。いかにも、ドイツやイギリスの劇評で採り上げられやすい、
「センセーショナルでございます」
だけが売りの、文字通りのマスかき野郎に自己満足マスかき長台詞を話させるような戯曲を、何故採り上げたのですか?ということ。

こんな戯曲が演じられるのを観るよりも、松井周の歪んだリビドーがもっと前面に出た芝居が観たい。「パイドラの愛」の時も思ったけれど、こういう、マイナスから始めて若干のプラスで落ち着くような仕事は、あんまりしてほしくないなぁ、とも思った次第

14歳の国 稽古初日

10/03/2009

稽古初日。
開始から1時間、身体を動かす。3日後の筋肉痛が怖いぞ。と。
その後、読み合わせ。自分の台詞の覚え方が思いっきりなってなくて、他の台詞を喰う喰う。もっかいちゃんと覚えないと。
「一回芝居を作ってから壊します。まいていきます」
という演出の言葉に、まずは信頼度◎、プレッシャー↑。

2009年3月8日日曜日

高山明 雲。家。

07/03/2009 マチネ

高山作品初見。千穐楽。
少なくとも会場内に3人はイビキをかいて寝ているのが聞こえて、今回ばかりはそれに対して怒りを覚えない。まぁ、こういうプレゼンテーションの仕方ではしょうがないだろう。

僕はと言えば(ちょっと自慢げに)、最初舞台奥の階段を降りてくるところでは、抑揚を殺したテクストが耳に入ってこず、コンテクストが失われてウトウトしかけたのだけれど、持ちこたえたところで映像による「今回の演出の種明かし」が出てきて、やはり一定のコンテクストのフレームにはまると、こういうテクストでも寝ないですむ。

が、寝なかったからと言って取り立てて引き込まれたわけでもなく、後半はサンシャイン劇場の怪談を思い出しながら観てた訳です。

「翻訳不可能性の中にこそ、逆説的に、日本語でしか実現し得ないイェリネク作品の上演可能性が隠されている」とチラシにあるが、変な翻訳、わざと耳に入りにくくしたテクストの中には逆説を見出す余地も無いだろう。

こんなことを書くと、「自分の置かれた、生まれ育ったコンテクストに当てはまらない刺激を受け入れようとしない偏狭な態度のために、こうした、演劇を越境するような作品に対して眼が開かれていないのではないか」なーんて言われそうだけれど、
そういう批判に対しては、
「コンテクストを超えた普遍は、飽くまでも「個」を突き詰めたところからしか得られないのではないかと考える。イェリネクの原語版を上演できないから、翻訳不可能性と言う言葉を使って日本語版の翻案を上演すること自体は良い。が、その翻訳不可能性の中で、外国人留学生の登場とか、サンシャインを碑に喩える陳腐な比喩、っていうのは、むしろ、観客をコンテクストに嵌めるための手段じゃないのか?僕は、コンテクストを提示されるよりもむしろ、パフォーマーの個としての身体をもっと一生懸命見ていられるような仕掛けを求めます。コンテクストを紡ぐのは観客に任せてくれ。」
と言いたい。要は、全体に、押し付けがましかったんだ、と、僕は言いたいのかもしれない。分かりにくくすれば押し付けがましさが薄まるわけではないのだ。

またまた、そんなこと言っちゃうと、イェリネクのプロフィールにあった「政治家やマスコミから非難を浴びる一方、様々な文学賞・戯曲賞ではきわめて高く評価される」ってあるのを持ち出して、「お前は政治家・マスコミ側の人間だ!だから分からないんだ!」って言われちゃいそうで、それも気分悪いな。

2009年3月2日月曜日

リミニ・プロトコル カール・マルクス:資本論、第一巻

01/03/2009 ソワレ

千穐楽につき超満員。通路も一杯、旧体育館の2階側廊部分に立ち見の観客も入れての公演。
オリジナルの8人のキャスト(おそらく旧西ドイツの出身者5人、東ドイツ出身者3人、ラトヴィア人1人)に加えて日本人4人の総勢12人が語る、それぞれの資本論。

金融資本主義が行き詰ったからこれからはマル経の復活だ、みたいな物言いとか、1985年生まれ革命家ワナビーサーシャの「Viva Chavez!」のポーズでキメ!にはサーッと引いちゃう所もあったけれど、そんなものは小さい小さい。

当パンに素晴しいこと書いてあるのでそのまま引用すると、
「この作品の場合、演出がこれをどう読むかということではなく、一体だれがこれを読んだのかということが問題である。この本の内容よりも、現代社会においてこの本がどんな位置を占めているのか、誰がそれを使用し、知っているのか、ということが主題なのであって、政治的なカラーや経済的な実践は問題ではない」
これが、このパフォーマンスの全てだ。もっと言えば、
「出演者個々人の人生のある局面においてこの本がどんな位置を占めていたのか」
が問題なんだ。

だから、流行らないマル経信奉者であるところの大谷先生の「立ち」「佇まい」に、思わず涙が出るのです。サーシャや佐々木氏のアジ演説まがいを見る元闘士ノート氏の眼差しに不覚にも感動しちゃったりするのです。

ロンドンの英語学校で一緒だったドレスデン出身の女の子が、「それでもやっぱり資本主義は好かない」と言いながらアメリカに留学してったのを思い出す。

マルクスみたいなとっても頭の良い人が一生懸命世の中の色んなことを一つの理論で切って切って抽象化して、一つの世界にまとめて提示してみせた、その結果としての資本論が、大月書店の文庫本として極めて具体的に客席に出回ると同時に、同じくらい極めて具体的に個々人の生活の局面で生き得る様に、めまいがする。そういうめまいのするような、吐き気のするような、世の成り立ちを、叫ばず、騒がず、盲目のクリスティアンの微笑と優美な指先の動きのように、ユーモアたっぷりに提示してみせるパフォーマンス。素晴しい。

2009年3月1日日曜日

イ・ユンテク オセロー

01/03/2009 ソワレ

美加理さんの美しさに驚き、阿部一徳さんの勇姿を拝見して感慨深いものがある。
が、もっと驚いたのは終演直前、舞台がぱーっと明るくなって以降の、韓国人男優・女優の身体の開き方、というか、オーラがブレーキ無しで放射される様、に驚いた。こりゃすごい。本編中は抑えてたんですかぁ?って感じである。特に男優の方、王様役で肩が凝ってたんでしょうか?

日韓合同公演で、しかも「伝統を取り入れて」なんて言われると、これまた僕のストライクゾーンからは外れている予感があったのだけれど、で、まぁ、組み立ては、芝居よりは音楽劇(ミュージカル、っていうとあんまりだし、他に良い言い方はあるだろうか?オペラ?)な感じではあったのだけれど、和太鼓も、韓国の打楽器も、横笛も、琴も、木琴も、全て嫌味なくはまって、むしろカラーを舞台に加えて心地よい。大きく揺さぶられたとは言わないが、最後まで気持ちよく見られた。

それにしても、年をとったからなのか、やっぱり、阿部さんを見ていると、僕が東京で芝居を観始めたことのことをどうしても思い出してしまう。駒場小劇場で観たTabre、綺畸とか。そのころ美加理さんは蟷螂にいらしたとか。冥風過劇団はいつ行っても空いてたとか、そんなこと。その頃の阿部さんと、力・キャパシティは変化しても、ちょっとした癖とか変わってなかったりするのが何とも感慨深かったりする。昔自分が芝居を観てた態度を思い出すと、ちょっと恥ずかしいけれど。いや、こんなことを考えてしまうのは、やっぱり何だか年をとったんだろう。よくない。

下鴨車窓 書庫

28/02/2009 ソワレ

初日。下鴨車窓初見。
シンプルで力強いプロット。くどくない進行。
こういう、一種寓話的な設定(固有名詞なし、社会設定なし)の芝居は、「個」に取り付くしまがなくて退屈し、眠気を催すことが多々あるのだけれど、この芝居については、司書役の男優が最後まで飽きさせず、2時間の芝居が苦痛抜きで観られた。

周囲の人間(受付嬢、学生、先生)がかしましく囀る中で、口数の少ない司書の「個」のよりどころの輪郭が浮き上がる過程が面白い。受付・学生の2人の女優の、一種投げやりな台詞の放り出し方も、それでしっかり成立していて、不快感を催さない。

僕が「本」を取り扱う芝居に未だに弱いせいなのか、それとも他に理由があるからなのか、本来あまり僕の好みのストライクゾーンに入らないはずのスタイルの芝居が、すんなり入ってきたことにちょっと驚いた。多分、きっと、力のある集団なんだろう。次回もぜひ拝見したい。