2017年3月30日木曜日

Beware of Pity

12/02/2017 15:00 @Barbican

2015年末、ベルリンで初演されたSimon McBurney演出の大傑作。英語字幕も出来上がって、待望のロンドン公演。
初演時、筆者はたまたまベルリンに来ていて、ドイツ語を100%解しないまま劇場に突撃、字幕無し上演後に「すごい芝居を観た!」と確信したのだが。

<当時の感想は以下の通り>
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2016/01/ungeduld-des-herzens.html

今回、英語字幕付きの上演。
話はとてもよく分かったよ。あの後、ツヴァイクの原作小説も(途中までだけど英語で)読んだし、筋書きはとてもよく分かったよ。登場人物が何言ってるかも分かった。
でも、字幕と舞台を交互に見ていると、それによって失われる情報量が凄まじい、ってことも良ーく分かったんだ。

ベルリンで観たときの、あの、とにかく五感を総動員して何が起きているのか、誰がどんな反応しているのかを追い続けた体験と比べると、
トータルで舞台から受け取った「質量」が遙かに小さくなったと感じた。

ラストシーンも、(ひょっとすると、バービカンの小屋の大きさに比してスクリーンの大きさが小さかった、ということも作用したのかも知れないが)ベルリンで観たときの「ドドーン」というインパクトはない。
正直、字幕の方に意識が半分行っていたからだ。
自分的には非常に残念な観劇体験となった。作品にではない。自分自身にである。
そして、日本の芝居を「字幕付き」で英語圏に持ってくる時の限界も考えてしまった。ネイティブで言語を解する人とそうでない人との間での、受け取る情報量の落差は如何ともしがたい。

2017年3月29日水曜日

Us/Them

18/02/2017 20:00 @National Theatre, Dorfman

昨年のエディンバラで大好評を博した、ベルギーのカンパニーによる2人芝居。今回ロンドンはNational Theatreに登場。

<昨年観たときの感想はこちら>
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2016/09/us-them-edinburgh-festival-fringe-2016.html

昨年観たときよりも、公演としてこなれた印象。悪く言えば、小屋がNTだから、ということもあるのかも知れないが、若干よそ行きな感じがした。
明らかに「上手に」こなしていて、昨年の、ともすると勢いで乗り切ろう、という面は削られていたのは良いのだが、
「こなして話しを前に進めている」感じが、時々見えた気がして。

エディンバラで観たときはSummerhallの、「学校の階段教室を改造しました」感溢れる雰囲気の中での上演だったのに対して、
今回は見るからに「スタジオ方の中劇場です」感溢れるDorfmanだった、というのも多分にあるのかも知れない。

入ってくる観客が、エディンバラの、芝居をよく観る人、観ない人、関係者の若い人、というミックスから、
ロンドンの、情報感度の高い観客に絞られてしまったからかも知れない。

ひょっとすると、筆者自身が「2度目」ということで、集中力を欠いていたのかも知れない。

どうだったのだろう? 例えば、SPACや芸劇に持って行ったら、観客層の雰囲気も相当違うから、今回と異なる緊張感で観られるのかも知れないし。どうだろう?

Hamlet

25/02/2017 19:00 @Almeida

ロバート・アイク演出、タイトルロールにアンドリュー・スコット(シャーロックのモリアーティ役だった人)を配して、アルメイダからお送りするハムレット。
きりっと締まった、幹のぶれないシェークスピアを期待して出かけたが、結果も、ほぼ、期待に違わず。
「ほぼ」というのは、この3時間45分の上演の、最後の5分で、え!え!え!?ってなったからで、そこは末尾に<ネタバレ>として書きます。

舞台装置・衣装等々を現代に置き換えて、ニュース映像はデンマーク語で流す趣向。父ハムレットの亡霊は場内遠くに見えるのではなく、セキュリティ監視カメラの向こう、ディスプレイ越しにはっきりと映ったりする。ハムレットの人物造形も、平たくいえば抑えめ、誉めていうなら現代口語演劇風、くさしていうなら(多分)パワー不足の焦点がはっきりしない演技で、筆者好み。ハムレットの言動や感情の振れ幅がそもそも大きいのだから、それを全部増幅して舞台に載せるとハムレット個人に全体が振り回されてしまい、主役に頼った「スター芝居」になってしまう。今回のアイクのハムレットには、それを極力避けたいという意図が感じられた。

クローディアスのアンガス・ライト、ガートルードのジュリエット・スティーブンソン、オフィーリアのジェシカ・ブラウン・フィンドレーと、アイクの座組でおなじみの役者を揃えて、周囲の状況をキリッと輪郭づけ、ポローニアスのピーター・ワイト(一昨年のThe Red Lionsに出てたんだ!)とローゼンクランツ・ギルデンスターンのコンビ(出落ち気味に登場!)が微妙にコミックリリーフの役割を与えられて、渋すぎないように全体を組み立てる。その中にハムレットを放り込んで、個人の振れ幅は飽くまでも全体の枠組みの中に抑えて下さいね。ただし、注ぎ込むエネルギーの総量を抑えろといってるわけではないので、そこのところよろしく! って言ってる気がする。

アンドリュー・スコットはそこにきっちり応えて、多少手がヒラヒラしすぎかな、という気はするものの、現代風の、振れ幅ダダ漏れでない、でも、確実に危ないところへと進んでいくハムレットを演じて、見飽きない。アンガス・ライトのクローディアスが、なんとも「ひょんなことで国王になっちまった(あるいは、ひょんなことで前王を殺しちまった)」王を演じていて素晴らしい。前王ハムレットの「こいつひょっとして亡霊のくせに嘘ついて息子を煽ってるだろう?」的な何とも読みにくい振る舞いも良し。ジェシカ・ブラウン・フィンドレーには、ワーニャ伯父さんの時の突出した素晴らしさはなく、むしろ、冒頭スカートの不釣り合いな短さとヒールで歩くときの前かがみの姿勢が気になったけれども、兄レアティーズの前に現れたときの演技は圧巻。

そういう枠の中でのハムレットの物語は、定番の「ガートルード・ハムレットのマザコンねっとりな関係」「かまって光線バシバシ(©平田オリザ)のハムレット中二病描写」を排して、極めてドライに進行する。味がくどくないから、3時間超えてもお腹にもたれない。かつ、あ、これ、やべー、という感じが、しっかり伝わってくる。これまで筆者が観てきたハムレットの中でも出色のプロダクションだと思う。

<で、ここからネタバレ>

で、これだけ抑えて3時間45分進行しても、でも、やっぱり、最後はみーんな死んじゃうんだよね。そのカタルシスに対する照れくささは、みんな死んじゃう以上、拭い去れないわけで。さて、どうする?
2013年に上演された多田淳之介のハムレットは、みんなが死ぬシーンの前で芝居をぶったち切ってしまって、それはそれで「おお!」と思ったのだが。
今回のアイク演出では、ラスト、死者たちは、舞台上に設けられた大きな窓(引き戸)の向こう、舞台奥へと一人ずつ去って行く。舞台奥では、冒頭に現れたパーティーの続きが展開しているようにも思われる。それを舞台奥に感じながら、客の方を向いてニヤッとするハムレット。舞台奥のピクチャーに自分も加わろうとしているのか?
ん? これは、いやいやいや、これは、あれですか?

シャイニング

ですか? 舞台奥に加わって、みんなが満面の笑みで写真撮影したら、まるっきりシャイニングじゃないですか?その写真がお城の壁に飾られる、っていう趣向ですか?
とまあ、実際にはシャイニングみたいには終わらなかったのだけれど、でもね、終演後、一緒に観てた娘に「あのラストは一体何だい」ってきいたら、何と、娘曰く、

あれは、タイタニックのラストです。

世代差はあるにせよ、同じようなことを感じていたらしい。筆者、タイタニックは観ていないので何とも言えないが。
いやはや、「時計の着脱」の意味づけについてもアイクさんに聞いてみたい気がするが、いや、でも、なにもシャイニングとかタイタニックにしなくとも、十分締まった見応えのある上演だったと、筆者は思ってるんですよ。そこら辺、どうですか?

2017年3月28日火曜日

The Red Shed

11/02/2017 15:00 @Battersea Arts Centre

アクティヴィスト芸人Mark Thomasの一人ショー。昨年のエディンバラで観て、相当のインパクトがあったのだが、今回ロンドン、Battersea Arts Centreでの上演ということで、再度拝見。

<昨年観たときの感想はこちら>
http://tokyofringeaddict.blogspot.co.uk/2016/09/mark-thomas-red-shed-edinburgh-festival.html

Thomas自身、今回の会場にほど近いClapham生まれということもあって、去年Traverseで観たときよりも客席との距離が近く感じる。今回BACは初めてだったのだけれど、ひょっとするとBACという小屋の雰囲気なのかも知れないけれど。

やはり、自分の中の美しい物語を解きほぐしてそのルーツに迫り、その過程がまた新たな物語を産むという、良質なロードムービーの美徳をきっちり備えながら、舞台ならではの仕掛け - ICレコーダー再生、観客を巻き込んだ合唱等々 - を使って、その劇場にいるという体験自体を一つの記憶として刻み込みに来る。観客としては、「Mark Thomasの物語」「それを解き明かすMark Thomasの旅の物語」「そこで解き明かされる生き証人たちの物語」「それを聴かされる自分の物語」を行き来して、劇場を出たときには、おそらく、色んな記憶がぐしゃっとなりながら、ボトムラインでは「あぁ、お面白かった!」っていう、それはそれで一つの美しい物語を持って帰るのだろう。

方法論とテーマ、語り口等々、様々なものが、実に幸福に共存していて、それは、Mark Thomasの資質・企みによるものなのか、それとも今回のテーマが偶々ヒットしたのか。どうも筆者には前者のように思われて、このアクティヴィスト芸人、ソフトにアジりに来てるんだなあ、しかもそれが相当上手ときてる、というように思われて、次回公演も見逃せないな、と思った次第。

2017年3月27日月曜日

The Kid Stays in the Picture

11/03/2017 19:30 @Royal Court Theatre, Downstairs

ハリウッドの映画プロデューサー、Love Story、The Godfather、Cotton Club等を手がけたロバート・エバンズの自伝を、サイモン・マクバーニーが舞台化。
3月4日がプレビュー初日。テクニカルに相当作り込んだ舞台にするのだろうから、若干こなれてきた11日に観に行くのが良かろうと思ってRoyal Courtまで来てみれば、何とプレビューは延期されていて、筆者の観る回がプレビュー初回ということになっていた。道理で怖い顔したマクバーニーが劇場内歩きまわっとったわ、と妙に得心。本当の初回が観られて、吉と出るか凶と出るか。幕前にRoyal Courtの芸術監督とマクバーニーが並んで出てきて、「新作プレミアへようこそ! 実はゲネもやってません、よろしく!」みたいなご挨拶。80年代小劇場演劇、アリス界隈ではそういうのも結構あったよなー、何て思いながら、このわくわく感は、正直、大好きです。

で、パフォーマンス始まってみると、こなれてないのはしょうが無いとして、テクニカルな理由で上演が途切れることもなく、無難に公演終了。舞台上のアクリル板に、客席上に設けられたプロンプターのディスプレイが映り込んでいて「ああ、台詞入るところまで来ていないのかなあ」と思ったが、後でメディアのレビューを読んでもどうやら映り込んでいたみたいなので、おそらくそれはプレビューだから、ということではなかったのだろう。

語り手と身体を動かす人を分けたり一緒にしたり、投影した背景と役者を並べてそれを更に撮影して投影したり、それはそれはテクニカルに大変なことをやっているのは良ーく分かったが、構成・意匠としてはBeware of Pityとそんなに変わることがなかったし(しかもBeware of Pityの方が、観客と語り手の距離の取り方と、記憶の共有の仕方とに、はるかに説得力があった)、一方で、物語の「語り」の一形態としてこの舞台を捉えるとすると、導入から客の引っ張り込み方、突き放し方等々、Encounterには比べるべくもない。この、ハリウッドプロデューサーの一代記を、なんで語りたくなったのかが明確でないまま、メソッドだけは自分が目下取り組んでいることを思いっきり放り込んで、どうだ? っていう感じなのだろうか。

もちろん、役者も達者だし、話自体も荒唐無稽かつノンフィクションなので、へえー、という感じではある。でも、そこまで。それ以上になにか、と言われると出てこない。
要は、ピンと来なかった。あるいは、面白くなかった。あるいは、フツー。

マクバーニーに対し、常に、より新しいことを求める、ということではない。コンプリシテのプロダクションが過去100%面白かったというわけでもない。だから、この作品がイマイチ冴えないからといって、マクバーニーへの信頼度が落ちるわけでは全くないのだけれど。

Amadeus

14/03/2017 19:30 @National Theatre, Olivier

2016年シーズンNational Theatreのスマッシュヒット。とにかく評判が良くてチケットも取れず、ようやく観ることが出来た。やはり、文句の付けようのない出来映え。

筆者は学生時代、英語劇でこの芝居にかかわっていたので、全体の構成、細かい台詞、そういうところまで割と覚えていたのだけれど、それと比べても、今回のプロダクションでは、特に奇をてらったとか、大幅に切り貼りしたとか、そういうのは感じなかった。飽くまでスタンダードに、でも、2017年に上演するからにはその観客に向けてどのように見せていくのか。そこへの目配り・気配りが本当に丁寧で、その丁寧さを実現できる予算もバッチリついて、なんて羨ましいプロダクションなのだろう、と思ったことである。

生真面目なサリエリに、下ネタ連発のモーツァルト(30年の月日を経て、それなりに年取って、英語の単語も増えてから聞くと、そのお下品さが分かり易くなっていた!)、おバカキャラ全開のヨーゼフ二世、かわいこちゃんでなくて、地に足がついていてすれてさばけた感じのコンスタンツァ、生声でマジックフルートのアリア歌って魅せたカテリーナ、何故か映画でも英語劇でも今回プロダクションでもしゃべり方が一緒になってしまうローゼンバーグ、嬉々として演技もしちゃうオーケストラの面々、幕間にステージ上で自撮りするバイオリニスト、楽器持った間者の二人、女性フォンストラック、その他全員、全ての役者が魅力的で、作りも丁寧で、なんだか、「うわー!素敵だなー」と、素直に思ってしまった。

<ここでネタバレ>
実は、アマデウスのクライマックスというと「死ね−!アマデウス、てめー、死ねやー!」の絶叫が英語劇以来頭にこびりついていたのだが、今回は、その絶叫は無し。
その代わりに、この生真面目なサリエリ、モーツァルトの家で一緒にすすり泣いちゃって、こりゃまあ、酷い女(ここでは神様!)に魅了されて、お互い貶め合ったりケンカしたり色々あったりした挙げ句、最後は両方その女に裏切られてすすり泣き大会、ってのが、驚きとともに、うん、それは大いにあり、もっともな展開だとも思えてしまう。

とにかく上質で、おそらく、演劇を見つけていない人にも100%楽しめて、隙の無いプロダクション。UK演劇の底力。

2017年3月26日日曜日

Lost Without Words

18/03/2017 18:00 @National Theatre, Dorfman

キャリアの長いシニア俳優(70代、80代)を6人舞台に載せて(筆者が拝見した日は男性がお一人都合で出演せず、5人のプロダクションとなったが)、
演出家2人の演出のもとで、即興の芝居を披露する、という試み。なんだか大喜利っぽくもある。完全即興の掌編5本、大変楽しんだ。

当日のお題は、(1)前庭で世間話する老人二人、(2)"d"を使わないで話して下さい、(3)ベッドの二人、(4)弟の思い出独り語り、(5)居心地の良い地元のクラブ、(6)全部の台詞で韻を踏んで下さい、の6本立て。

筆者の先入観として、英国の役者は「既にある言葉を発する」ことを重視している印象があって、自分で台詞を創りながら話さなきゃならない時にどういう態度を取るのかには非常に興味があったのだが、やはり、状況を説明しだしてしまう人あり(説明台詞100%!)、演出に与えられた状況をそのまま台詞として発語してしまう人あり、つなぎ・受身の演技に徹して物語の進行への貢献は放棄する人ありと、様々な反応が見られて興味深い。でも、やっぱり、筆者にとっては、物語をどこかに運ぼうとしない演技の中から裂け目が現れて、舞台上の空気が突拍子もないところへと向かっていく瞬間がいちばん楽しかった。

演技中に容赦なくだめ出しする演出家二人。「こう言って下さい」「こう展開して下さい」「その展開はあなたたちが思っているほど面白くないですよ」。それも観客の面前で。
それに応えながら、どのように「自分ならではの一刺し」の演技・一言を繰り出すかを忘れないのが、老練・手練れの役者陣。この回も、予想もつかない決め台詞ビシッと決めて暗転、なんていうこともあって、それは、演技を楽しむというよりはむしろやっぱり大喜利の醍醐味。

最後、演出による役者紹介「この役者たちは、一切を捨て、勇気だけをもって舞台に上がってくれました」。違うだろ。勇気だけじゃない。技術と老獪さも一緒に持って上がっていたよ。

My Country; a work in progress

18/03/2017 20:00 @National Theatre, Dorfman

UKのEU離脱に関する2016年6月のレファレンダムについて、当時のUK市民へのインタビューと政治家の発言をコラージュしたverbatim。
登場人物は7名、Britannia, Caledonia, The North East, Cymru, The South West, Northern Ireland, The East Midlands。
それぞれUK各地を擬人化して、それらの地域でのインタビューを読み上げる。

もっとシリアスなverbatimを期待していたけれども、意外に軽いタッチで、ご当地ジョークも繰り出して、深刻になりすぎずに75分見せた。
見せきってはくれたんだけど、そしておそらく、これ位軽いタッチにしないと、キツすぎて見ていられなくなるのかも知れないのだけれど。

でもね、どうしても、ノリが、演劇よりは、「仁鶴のバラエティー生活笑百科」に近い気がしてしまって。
連合王国の中の相談事おまへんか? 四角い仁鶴が、ま~るく収めまっせ。
って感じだったんだよなー。
会場も適度に温まってるとはいうものの、芝居の観客よりもむしろ、バラエティー生活笑百科のオーディエンスに近い。
これからUK各地を巡演するそうなので、それに対応できるゆるーいフォーマットとして今回の上演の形に落ち着いたのだろうけれど、
それにしても、ロンドンに住む芝居好き外国人としては食い足りない感じ。

ま、そもそもタイトルからしてMy Countryだから。筆者はあくまでも移民だし。他人事として適度に面白かったです、ということになるのだろう。
ちょっと残念ではある。

2017年3月25日土曜日

Roman Tragedies

19/03/2017 16:00 @Barbican Theatre

いまや大人気のオランダ人演出家Ivo van Hoveがシェークスピアのローマ悲劇3作品「コリオレイナス」「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」を一挙通し上演。
途中何回か、5分ぐらいのトイレ休憩をさんで、合計6時間。途中、舞台上に上がってそこにある(ひょっとするとさっきまで役者が座っていた)ソファに掛けても良し、端っこに立ってても良し。
舞台上には売店もあって、軽食・飲み物購入可能。

正直、Ivo van Hoveの芝居については「ケッ」と思うこともこれまで何度かあって、今回も「ビジュアル過多の肩すかし」を心配していたのだが、なかなかどうして、大変楽しんだ。
「舞台上出入り自由」にするところとか、「ビッグスクリーンに役者大写しになっているのだから、必ずしも客席から舞台が見える必要無いでしょう」と割り切ってしまうところとか、「オランダ語+英語字幕でも、字幕をビッグスクリーンに投影すれば、観客は首を動かさなくて良くて楽でしょう?」という割り切りとか(えええ?じゃあ何で舞台で上演するの?という突っ込みは取りあえず放って置かれている)、「物語の進行の説明にニュース番組を使ってみせるとか(しかもその使い方は、アイクのハムレットに比べると相当ダサい感じ)」、そういう、「生の舞台を楽しみたい派」を置き去りにして、できるだけさらっとご覧頂こうという趣向が功を奏して、6時間通し公演、シェークスピアのローマ悲劇3つをぶっ通しで観ても疲れない。ゆるーいエンターテイメントとしての完成度は非常に高かった。けだし、「わくわくシェークスピア悲劇ランド」と呼ぶに相応しい仕上がり。

一方で、役者は、極めて普通の演技を見せる。モダンな家具の配置に、ダークスーツの登場人物たち、マイクを握っての演説等々、「現代風」の趣向は見せるものの、取り立てて凝った演技は見せず。そこが、ギトギトに飾り立てたテーマパークな演出とのカウンターバランスとして働いているようにも見えた。
アントニーのシーザー追悼演説を舞台上・間近な位置で見られたり、カシアスとブルータスのいさかいを近くで眺めたり、舞台上でぼーっと座ってるシーザーの亡霊に目を向けてみたりと、ジュリアスシーザー好きの筆者にはとても「楽しい」舞台だった。アントニーを演じたHans Kestingが出色。

2017年3月19日日曜日

深田晃司「淵に立つ」

14/10/2016 @角川シネマ新宿

昨年10月から当ブログ滞っていたのだが、まぁ、色々な理由や言い訳はある。「エディンバラ」から「初期チェーホフ三本立て」の流れで観劇疲れしてしまったとか、ちょっと他のことで芝居にかかわってたとか、この年になって初めて買ったPS4にハマったとか、色々ある。
で、それらが落ち着いて、再開しようとするにあたって、どこで中断してたのかを確かめたら、なんと、というか、予想通り、なのか、「淵に立つ」の感想が書けていなかったのだった。
すごく腑に落ちる。「淵に立つ」について人にどう語るかがモヤモヤして、半年間糞詰まっていたのだ。ある意味。

もしかすると、「淵に立つ」を観たら芝居を観に行く気がしなくなっていた、ということかも知れない。昔、中上健次の小説をいくつか読んだ後、本を読むのが嫌になったのを思い出したりする。

で、なんで糞詰まるのかっていうと、多分、筆者は、「淵に立つ」が気にくわないのだ。
最初に書いておく。筆者は深田監督への身びいきが激しい方だと自認しているし、師匠からそのことを指摘されて逆ギレしたりもする。れっきとしたファンだと思っている。だけれども、多分、僕は、「淵に立つ」について、「(他の凡百の映画と比べて)出来の良い作品だと思う」けれども、「素晴らしい作品だ」と言いたくないのだ。

話はちょっと変わるが、昔、たしか、開高健さんのエッセイで「100%牛肉のハンバーグ、つなぎなし!のハンバーグを食べようと思ったら、フライパンの上でぽろぽろに崩れて、食べられなかった」という話を読んだことがある。つなぎの量や配合の好みは人それぞれ、どれが正解ということはないと思う。が、つなぎの量に加えて、肉の質、味付け、焼き方、いろんな条件によって、確かに美味しいハンバーグと不味いハンバーグはある。
映画の作り方もちょっとそれに似たところがあると思っている。思いっきり化学調味料ぶっ込んだ映画も沢山あるし、具材で勝負の映画もある。

「淵に立つ」は、そういう意味で、まず、好もしい映画だ。殊更に強い調味料を使わない。観る人によって色々な味わい方があるし、味わい方によって色々な味がする。だから、きっと何度観ても楽しめる。そして何より、筆者にとって好もしいのは、「物語のつなぎの量を抑えている」ことだ。それは、深田監督作品について、僕がいつも思うことではある。

で、それを踏まえて、自分に気にくわなかったところを幾つかあげる。<以下、ネタバレ>

1. 浅野さんの赤いTシャツは「勝負Tシャツ」なのか?あれは、「荷造りが出来ていた」ことから推察すると、「旅立ちTシャツ」だったのか?それとも、いつも赤いTシャツで、たまたまローテーションがその日に当たっていたのか?ちょっとその後の出来事を予見させすぎてないか?
2. 事件のあった公園に「痴漢に注意」の看板が一枚映り込んでいたら、「浅野がやったのか?」がますますよく分からなくなっていたのではないか?
3. 河原で浅野がすごむシーン、あれ、声を荒げない方がもっと怖かったのでは無いか?あるいは、優しい声だった方が、その凄みが現実なのか「古舘寛治の脳内」が分からなくて良かったのでは無いか?
4. 後半の筒井さんのキレイ好きは、普段から露骨に見えるのでは無くて、「普通」の中から間歇的に噴き出してきても良かったのではないか。

うーむ。映画観て半年たっても、やっぱりこういう細かいところばかり気に掛かるのか。細かいというか、「ツナギを入れすぎないハンバーグ」がウリの店に来て、「もっとツナギを削れ」と難癖つける客のようなものだ。
我が師曰く「あんたの趣味に合わせて作ってたら、映画として観るに堪えないものになっちまう」。・・・然り。

「ツナギ」は、この映画を語るコンテクストでは、「観客が、スクリーンに映っている事象に基づいて、物語を組み立てるための材料・ヒント」ということになる。
「淵に立つ」の解釈の多様性は、深田監督が意図して「ツナギ」を削ることで増すのであって、そのツナギの分量のバランス感が、映っていないところにもあるはずの世界の豊かさを保証しつつ、一方で観客を途方に暮れさせない役割を果たす。本作品のバランスは、まず、「実験作」ではなくて、「秀作」と呼ばれるに相応しいと思う。

で、面白いのは、その「ツナギ」のまぶし方の差配が、作中の各登場人物の生き方・見え方をも支配しているように思えることだ。
例えば、前半、浅野さんについては「かなりあからさまに」示されるツナギ要素として、「ぎこちなさ」がある。彼のぎこちなさが、豊富に提供される物語要素 - 殺人、服役、裏切り、欲望 - と、それを制御しようとする日常とのギャップから来るものである、という説明を、いわば親切にしてくれているのである。

ところが、後半、太賀さんの登場後、深田監督は、物語要素 - 親子関係、母の状況、等々 - を太賀に向かって放り込むにもかかわらず、太賀がとる行動は、それらの物語のコンテクストに、「影響を与えていないように見える!」のだ。太賀は、あたかもそういったコンテクストとかけ離れたところで生きている。彼の行動が何に規定されているのかが全く分かんない。これが、実は、この映画を観てて、筆者が

すげえ! 謎すぎ!

と思った箇所だ。
裏を返すと、父親・母親・友人の、3人の大人たちの演技は、相当程度コンテクストに規定されている気がした。太賀と娘(後半)の取る行動が、コンテクストと無縁である(娘のケースでは無縁にならざるを得ない)ことを引き立てるために、大人3人の「コンテクストからの自立」が制限されている気がしたのだ。それは、僕にしてみれば勿体ないと映る。「もっとツナギ削ってもいいんじゃないの?」っていうことだ。

でも、ひょっとすると、そういうことを考えている時点で、筆者は深田監督の術中に嵌まっているのかも知れない。
というのは、この映画で示されているのは、5人の主要登場人物がそれぞれに物語を生きる様は、あたかも、相手にも札が読めないインディアンポーカーのようなもので(結局は、その中にいる人には自分の物語すら俯瞰することが出来ないのだから)、

・ 自分は自分で一つの物語を背負って生きて行かざるを得ない。
・ 自分の物語を他人が見ることが出来ているかというと、必ずしもそうではない(たとえそれが家族であっても)。
・ でも、自分の来歴と現実のギャップは、何かにつけて噴き出してくる。それは、他者にとって受け容れがたいかも知れない。他者に気がつかれていないかも知れない。
・ 自分は、他者と生活するに当たって、そこから始めなくてはならない。物語を完全には共有することが出来ないところから。
・ そこに、「とにかく何でも良いから、どこかで折り合いをつける」ところから、やっと一歩踏み出せる。

それは絶望的な状況では無くて、むしろそれに直面して、インタラクションが始まって、っていうことなので、実は、それは、ポジティブな人生賛歌なのだ、と、筆者は思う。
だから、ラストシーンは、絶望的なラストではなくて、そこから色んな方向に踏み出すことが出来る、始まりのシーンで、だから、この映画はすっごくキツいけど、勇気の出る、前向きな映画なんだ、って思う。

筆者にはそう見えている。だから、この映画は、「不気味」でも「ホラー」でもない。人生賛歌じゃないか、って思う。
「あの男が現れるまで、わたしたちは家族だった」っていうキャッチ、やめてくれ。「いわゆる家族」から「折り合いをつけて一緒にやっていこうとする家族の出発点」に立ったんだから。って思う。
浅野さんの「不気味演技」やめてくれ、って思う。他人と生きることって、それだけで十分不気味なんだから、って思う。

ということについて、深田監督がどう思っているのかは分からない。ツナギの差配の具合が上手くいって、カンヌでも評価されたのかも知れない。
でも、もっとツナギを削っても(少なくとも僕には)面白いはずなのに、不気味な映画と呼ばれて、そういうところで「怖い」とか「素晴らしい」とかっていう評判が立っていることに、筆者は、少なくとも、苛立っている。だから、「素晴らしい」とは言いたくない。

そういう思いで、半年たってもまだ、「淵に立つ」のことを考えています。