2008年12月18日木曜日

桃唄309 おやすみ、おじさん3 草の子、見えずの雪ふる

17/12/2008 ソワレ

スズナリ初日。
ちょっと面白くないことがあって、また、冷たい雨も降っていて、あまり心のコンディションはよくなかったのだけれど、最後まで面白くて、観終わったらやなこと忘れた。

もちろん桃唄309の芝居は好きで見ているというのもあるけれど、菅原直樹は最近調子に乗っているのではないか(もちろん良い意味で)と思っているので、ちょっとスケジュール無理して行ったのだけれど、よい結果である。しめしめ。

何が良いって、一番良かったのは、僕が桃唄で一番気に入っている、なんとも気持ちの良いグルーブ感が、今回は真っ直ぐに前面に出ていたことなんだけれど、「物語を 聴き手=舞台上の役者 が共有していく構造」が、山中の図書館にキュッと凝縮されて、そこと現実(のはずの舞台上の世界)とのやり取りがうまーく作用していたのも、もう一つの勝因。

登場する全ての要素を僕が物語として消化しきれたわけではないのだけれど、それはそれで良い。何度か視点を変えてみてみたり、他の人と一緒に観に行って、見えたところ見えなかったところ、比べてみてもきっと面白いと思う。力の入る寸前でふっと抜くタイミングが、今回の舞台では特にはまって、その美味しいポジションに菅原氏が身を置いていた。さすが調子に乗っているだけの事はある。この芝居の1時間50分は、ちっとも長くない。

『おととうごき』 稽古見学

14/11/2008 夜

15日に池袋のModelTで上演された三本立てのパフォーマンス 『おととうごき』の一本に山内健司氏に出演する由。小生15日は都合つかないため、14日夜の公開稽古へ。

山内健司(青年団)+上村なおか(ダンサー)+川口知美(衣装)

もう本番も終わってしまって3日も経ってから何を言うか、ということはあるものの、とっても面白かったので、「何が面白かったか」書きます。

トータルな印象は、
「ロッキー山脈のインディアンのトーテムポールのきぐるみを着たお神楽」
とでもいおうか。

言葉と動きが寄り添いそうで寄り添いきらず、緊張感を維持した40分。「おととうごき」なので、発せられる台詞は必ずしも「ことば」として機能し なくても可、という決まり事が、かえって、緊張を保ったままで自由度を増している。後から聞いたら、「意味耳」と「音耳」があるそうで、なるほどうーん、 とうなづいてしまった。

川口さんの衣装も面白くて、上村さんが着る前は「すっかり皮を剥がれたビーバーの皮」な風情だったのだけれど、それを上村さんが着て動き出すや、 精気を吹き込まれ、すっくと立ってトーテムポールと化す。それと平行して、山内氏の吐き出す言葉は音素に分解されて意味を失い、祝詞の「リズムならぬリズ ム」を纏って絡む。それも面白い。

上村さんは全身に動物の精霊を纏っているから、身体がのぞいている部分は白く目立つ: 手指、左右の鎖骨が出会うところ、首、帽子で半分隠れた 顔。あと、時々のぞく足。たまに真っ直ぐ身体が伸びると、「あぁ、身体が真っ直ぐな時は、腱がこんな風に伸びているのか」というのが何だか新鮮でもある。

そんなことを考えていたら、終わった。本番がどのような構成なのかとか、残りの2つのパフォーマンスがどうだったかとかは知らない。でも、こうい う、じいぃっと見ていて、あるいは聞き耳を立てていて、飽きずに見ていられるパフォーマンスは良い。衣装もことばもうごきも、実際以上に色彩が豊かに使っ てあるように感じて、それも愉快だった。

2008年12月14日日曜日

竹中直人の匙かげん 三人の女

14/12/2008 マチネ

この芝居、あんまり誉める人いないんじゃないかな、と思った。
「あらあら、一体、なんだったのかしらねー」という感想が多いんじゃないかな。
でも、僕はこの芝居を観て、「岡田利規氏はやっぱり面白い戯曲を書く人なんだな」とも思いました。

幕前、両袖にたかーい壁が建って、暗い照明や舞台中央のパーティな雰囲気のテーブルがマシュー・ボーンの「くるみ割り人形」を思わせる。
開演するとひろーい舞台を少ない役者がいっぱいに使って、長ーい台詞の応酬。例えば
「自分がこれこれと思っているように見えるとあなたが言うのはそれはあなたの主観が入っているからそうなのであって、だから自分が思っていようといまいとそれはそれが事実であることとは無縁な・・・」
って感じなので、開始5分で寝ちゃった人を僕は複数人知っている(僕ではありません)。

そこら辺の饒舌さが、町田康の「宿屋めぐり」「告白」の語りも似る。語り手を変えながら話がどこにも進まず、役者の台詞が、意味のスレッドさえも 振り切りながらブンブンと唸る。それが面白い。出来れば本多でなく、もっと小さい小屋で、役者を小さなスペースに押し込んで観てみたい芝居である。

女優の数が舞台上に増えるにつれて、その「ブンブン唸る感じ」が消えて、役者が「演じよう、何とか意味を見出そう、伝えよう」という努力が前面に出ると、舞台の面白さはフェイドアウトしていった。それが残念。もっと、伝える努力をしなくても良いはずの戯曲なのに。

竹中氏の芝居は、94年の「月光のつつしみ」以来だと思うけれど、相変わらずの神経症芝居が懐かしい。岡田戯曲はデフォルメされたチェーホフな感 じがして、そこも岩松戯曲に通じた感じがしてしまうのは、僕の主観入りすぎか。戯曲良し、雰囲気良し。もっと評判が悪くなるくらいストイックにやればより 僕好み、ということでしょうか。

五反田団 あらわれる、飛んでみる、いなくなる。

13/12/2008 ソワレ

奇跡のようにといってしまっては前田氏と役者達に大変失礼になるのだけれど、でも、本当に、とんでもなく面白い芝居だった。やられた。

幕が開いてからのテンポのよさ、余計なもののなさ、意識の拡散、暴力的な関心のなさと空気への反応の共存、色んな点で、いわゆる現代口語演劇で 「あ、こういうのみたい!」と思わせるものが全部てんこ盛り。かつ高校生ならではの夾雑物が入り込んで、まさに「卒業しちゃったら再演できないからさ」と いうもったいなさがとてもよく分かった。

カジロの「なんば」な体重移動、ピンキーが体操ずわりしているときの土踏まず、後ろで様子をうかがっている4人の爪先の動き、お菓子の包装を剥く 音、ゆーみんは果たして自転車に乗れる人なのか乗れないのか、あ、そもそも、マソンって、何で「いることになってしまった」んだっけ?
いろんなことが細部まで詰まって、かつ謎々として残って、1時間40分突っ走る。すげーなー。

で、この芝居で最も得るところが在ったのは、実は、前田氏ではないかと思っている。色んなものがきちんと組み合わさって、すごい面白いものが出来ちゃう、ということが、芝居として実証されちゃったんだから。

が、「卒業公演だから」なのか、「完成度の高い芝居だから」なのか、「五反田団本公演じゃないから」なのか、「この先この才能はどうなっちゃうん だろう?」というドキドキ感には欠けた気がする。それは、とっても贅沢で、ひょっとするとひがみ半分の意地悪な要求なんじゃないかと、自分で思ったりする のだが。

2008年12月13日土曜日

RTNプロジェクト 就活支援セミナー その2

07/12/2008

これもいささか旧聞に属することになってしまったが、7日、帰国子女のための就活セミナーに、パネリストの1人として「懲りずにもう一度」呼ばれて行ってきた。

http://www.rtnproject.com/

「最近の若い人に一言」ということだったので:

① 会社で働くということは、所詮、個人と企業のバーゲニングでしかない。個人は、「企業という組織を使って自分の力にレバレッジをかけたい」と 思っている一方で、企業は、あくまでも使い勝手の良い個人、あるいは、企業を変えてくれても壊すまでには至らない個人、を求めている。
② でも、いざ勝負してみると、企業の方に一日の長がある。すなわち、企業は、「あぁ、この会社に入ってよかったなぁ。やりがいもあるし。」と いう幻想を働いている人に抱かせることが、とても上手。すると、個人にとっては、本来手段であったはずの「会社で働くこと」が、目的と化してしまうことが 往々にしてある。
③ その罠にはまらないためには、会社で働く際にも、「何で働くのか?」「何でお金儲けをするのか?」を常に頭の片隅においておく必要がある。
最近の若い人を見てると、①-③に対して無自覚であるために、問題解決能力は高くても、何故それが問題なのか、について考える能力が欠如している人が多いように思われる。

なーんて話をかましてきたのですが、ご存知の通り、こういう言葉って、そのまんま自分に返ってきますからね。怖いですね。

ポイントは、僕が言っているようなことも、実は、「幸せに生きるための処世術」でしかないよ、ってことなんですよね。

2008年12月6日土曜日

あなざーわーくす マンヂウ団地妻

05/12/2008 ソワレ

初日。あー楽しかった。楽しかった。

1時間、どこかの場に居たということ。で、その空間を、知らない人や知っている人と共有していたこと。それらの人の表情や動きや発する言葉に心を奪われたこと。おもてなしされたこと。
こんな簡単なことに、僕は飢えているのか?
でも、そんな簡単なことが、とてつもなく嬉しい。

当パンに「お客様の中に埋もれるようにお芝居をしてみたい」とあるが、まさにその通り、役者は観客に埋もれ、観客は役者の醸し出す団地キャバレーに埋もれ、お互いの存在を探りあいながら、世界を織り上げる。

若人あきこが外反母趾な(と思われる)裸足で割烹着着て動き回る生々しさは今までのあなざーわーくすでは見たことがなくって、それがまた楽しい。
(えーと、喩えるとすれば、柏屋コッコのマンガの中に突如楳図かずおの絵が飛び込んだような生々しさ。若人さんはとてもきれいな方です。誤解の無いように言うが。あ、あなざの他の役者さんがマンガ顔といってるわけでもないです。ただの喩えです。)

割烹着の下、両の胸につけてる星マークが、在りし日の「週間プレイボーイ」の新聞広告、乳首だけ星マークついてたのを思い出させて、それもうれしい(関根恵子のグラビアの載っていた号の新聞広告は今でも鮮明に覚えている)。
タイトルが「団地妻」なので、サービスシーンありよ、でも、ここ(胸の星)までよ、ということなんでしょうか?

もちろんお饅頭もとってもおいしくて、虫歯治療直後、まだ上あごが麻酔で痺れているというのに饅頭2個にビールまで頂いて、ご満悦の体で帰宅した。

2008年12月2日火曜日

青年団 冒険王 再々見

30/12/2008 ソワレ

未見の友人と2人で。流石に3度目となるとマニアじみるが、何度見ても面白いものは面白いのだから仕方がない。

今回は最前列で。ラグビーの試合をピッチのすぐ外から見ると、身体と身体のぶつかる音がバチンとかゴツンとか聞こえて、その臨場感たるやなかなかのものなのだが、今回の冒険王、最前列で見ると大塚氏のお腹を軽くぱしぱし叩く音が聞こえて、それもまた臨場感あり。

その他、遠目では見逃しそうな細かいところまで目に入って、虫の眼の観客としてはこたえられない喜びを味わった。どこまでも観ていて楽しい芝居だとつくづく感じた。

2008年12月1日月曜日

ポかリン記憶舎 鳥のまなざし

30/11/2008 マチネ

千穐楽。
「舞台と足の裏が触れる触感」と福士史麻の横顔につきる。

シアター・トラムのプロセニアムを取り払って、劇場中央にドカンと置かれたマウンドは、リノリウムや木の触感ではなくて、どうやら布、薄いスポン ジかそれに近い素材。見た目にやわらかいのだけれど、自ら触って確かめるべくもない。が、裸足の役者が出てきてそこに足を触れるや否や、そのやわらかさが 確認できると同時に、さらに「皺が見たい。たわみが見たい」と思ってしまう。照明の当たり具合からか、なかなかその皺が目に入らず、中盤に照明が横から当 たって陰影が見えやすくなって、ようやっと、「ああ、たわんでいる」と確認できる。

で、小生の視線はその柔らかい床を歩く役者の裸足の足に釘付け(小生足フェチではありません。念のため)。かかと着地の人、足先が反り返る人、爪先着地の人(女優2人)。長い足、幅の広い足。それらのバラエティに富んだ足が舞台に触れる触感が、見た目にも気持ちが良い。

タイトルの「鳥のまなざし」は、僕にはピンと来ない。所詮、僕の芝居を観る目は、地べたに張り付いた虫のまなざしである。

で、その、「街」というよりも「砂丘」を思わせる長方形の舞台の周りを、福士史麻が何度も走ってまわるのだが、これがまた、「走る役者の横顔を見 て!」といわんばかりである。そういえば、前回観た「息、秘そめて」でも福士史麻は横顔で登場、横顔で退場だった。「かわいいから出す」というよりも、む しろ、「ハードウェアとしてキレイだから福士史麻の横顔を使う」のではないかとまで思わせるものがある。

以上2点をもって良しとする。芝居の構成については、正直、ついていけなかった。話の構成を見ず、足ばかり見ていたせいだろう。ラストシーンも、 「一体誰と誰が出会ったのか」分かりませんでした。それはそれでよいのでしょうか?そのうち、誰かに話の筋を教えてもらうつもり。

2008年11月30日日曜日

モモンガ・コンプレックス ひとりでいたい

29/11/2008

横浜トリエンナーレ、idance 80's のパフォーマンス。

このテのパフォーマンスが面白いか面白くないかを測る一番のバロメーターは、子供の食いつき方なんじゃないかと思う。

5時開演だったのだが、横浜に疎い僕は場所だけ確認しようということで4時15分くらいに現地へ。そしたら丁度リハーサルの最中。それを観ている、とある姉妹(想定年齢5歳+3歳)の視線の熱いこと熱いこと。パフォーマー達から一瞬たりとも目を離さずに、
姉 一歩リングドームに近付く
妹 姉に倣って一歩踏み出す
じっと観る
姉 また一歩リングドームに近付く
妹 また一歩踏み出す
じっと観る
パフォーマー達退場すると、退場した方向に追いかけていっちゃって、オジサンとしては「おいおい、知らないおねーさんたちについて行っちゃいけないよ」なのだが、要は、それくらい面白かった、ということなのだ。

炬燵に集う女性4人の姿は、谷川訳マザーグースの「こぎだせしらなみ3にんおとこ」の挿絵を思い出させる。箱舟こたつ号が大四畳半の中で次第に加速し、くるくる舞ったかと思うと、そのまま大海原へと漕ぎ出していった。20分間でこの躍動、このカタルシス。楽しかった。

2008年11月29日土曜日

Studio Salt 中嶋正人

29/11/2008 マチネ

まず、「(刑が)確定したんです」ドドーーーン!!の音は良くない。あの音は、
① 死刑囚はもっと前の時点で刑の確定を知らされているから、彼にとっての驚きではない。
② 坊さんは勿論面会の前に刑の確定は知っているはずで、彼にとっても驚きではない。
③ よって、この「ドドーーン!」は、(この情報をここで初めて知らされる)観客に対する親切心、「あなた、ここで驚きなさーい。ドドーーーン」のサインであろう。
今日び、この展開、このタイミングのこの台詞で誰も驚いたりはしない。

平田オリザと大阪大学の石黒先生が共同でつくったロボット演劇のニュースが、おとといのニュース9で結構長く(10分くらい)フィーチャーされていた。その中で、観劇後の若い女性が、
「ロボットの見せる無駄な動きに感情を感じた」
というようなことを言っていて、この方が芝居を見つけた方かどうかは分からないけれども、かなり正確なポイントを突いている気がしていたのだ。
その文脈で言うと、この芝居で山ノ井史が股をかく仕草は、
「(創り手にとって)無駄でない=意味のある」動きであるがために、感情とか、リアルとか、そういうものを感じさせない。
すなわち、この芝居で山ノ井氏は、まっとうな演出さえ付けばロボットですらできることもできなかった(or させてもらえなかった)ということになる。もっと無駄に股座掻いていれば、もうちょっと違ってたはずなんだけど。

死刑制度をテーマに取り上げているけれど、それについてはここでは触れない。個々人で考え方は違うだろうし、作・演出の考え方を教えてもらいに劇場に行ってる訳ではないので。少なくとも、芝居としてはぬるかった、ということである。

2008年11月26日水曜日

青年団 冒険王 再見

24/11/2008 マチネ

アゴラ劇場の上段の席(3階ギャラリー)から観た。
2階の通常客席から観る冒険王が、ピッチの脇から観るサッカーの試合だとすると、3階席から観る冒険王は、同じサッカーの試合をテレビ画面で上から見下ろすようなものだ。

全体の奥行きと舞台の構成が俯瞰できて、大変面白く見た。
もちろん、サッカーでも芝居でも、ある程度「プレーヤー視線を共有する」ことで場に入っていく効果はあるので、舞台が俯瞰できるということは舞台から遠い、移入しにくい、ということにつながる。だから、一度ピッチの脇で見た試合を、今度はテレビの録画で見るようなもので、芝居の見方としては邪道かもしれない。

ベッドとではけ口が、舞台中央のアリーナを囲むように五角形を形作る。そのアリーナを横切って、あるいは五角形の辺に沿って、複数の視線が飛び交い、ぶつかり、あるいは捩じれの位置でぶつからずに飛ぶ。それが面白い。

役者に近いところから観ているよりも、ボールに触れていないプレーヤー(台詞のない、フォーカスの当てにくい役者)に目が行きやすい。二反田幸平や大竹直、鄭亜美や永井秀樹の小技がよく見える。それも面白い。

が、何より、この冒険王という芝居は、観客が舞台を観る視線が、舞台上の役者達の視線と微妙なところで共有できたりぶつかったりするように、舞台美術も演出も出来ていて、それが特にこの芝居の面白さに繋がっているんだ、ということが、逆に実感できた。それが、実は一番面白かった。

なので、この芝居を観たことない人には、3階席はお奨めできない。2階席で、時々役者と視線を共有しながら、また、時には部屋を覗き見する感覚になりながら、視線を行ったり来たりさせて楽しんでください。場所を変えて観ると、何度観ても飽きないですよ。

RTNプロジェクト 就活支援セミナー

23/11/2008

いささか旧聞に属することではあるが、23日、帰国子女のための就活セミナーに、パネリストの1人として呼ばれて行ってきた。

http://www.rtnproject.com/

僕自身は帰国子女ではなくて、むしろ仕事で英国に行くまで海外で暮したことは一切ない。しかも、就活なんてえ言葉がない時代に、しかも大学二留で 就職したので、今の就職活動の仕組みがどうなっているかについて全く土地鑑がない。こんな男呼んでどうするんですか、という感じで緊張して、半分開き直っ てでかけた。

詳しいことは書かないけれども、若い人に囲まれて、自分がすごく興奮していたことは覚えている。ひどく興奮すると訳わかんないことを、自分のコントロールできない範囲まで本音出して喋りまくる傾向があるので、今回もきっとそうだったに違いない。
それに比べて、学生達は、クールで真面目で、「仕事を通じた自己実現」という、僕が過去20年逃げてきた課題に対してとても真剣だったように思われる。

パネリストに最初に投げかけられた質問:
「あなたにとって仕事とはなんですか?」
にたじろぐ。
が、正直に答えよう: 「メシのタネです」「就職先で自己実現しようと思ったことはありません」「どうせならその場その場で仕事が面白い方がいい。その積み重ねが僕のサラリーマン人生です」

「なんだこの人?」くらいのインパクトはあったと思う。が、いかんせんそれだけだ。

バブルに踊る大学生のなれのはてを、いまどきの学生達はどんな目で見ていたのだろうか?今更気にしてもしょうがないのだが、気にはなる。

若さにあたったのか、それ以来ちょっと、「血潮がたぎるようなこと」ってなんかなー、と思ったりしている。

2008年11月25日火曜日

城山羊の会 新しい歌

24/11/2008 ソワレ

今回城山羊の会を観るのは3度目なのだが、今までの中で、(深浦加奈子さんが出演していないにも拘らず)最も好きな芝居だった。

前の2作が、なんとなく、ギスギスした人間関係の中でもネットリとした空間になっていて、それが、「芝居とは別のところを目指しているのではないだろうか」という疑念を抱かせたのに対して、今回は、乾いた、表面のざらついた芝居だったと思う。ディーヴァが出てくるのに。そこが良い。

もしかしたら、深浦さんが出ていないために、こんなざらついた仕上がりになったのかもしれない。深浦さんを観ない分、ささくれ立った表面に目が行ったのかもしれない。
あるいは、当パンに「稽古にはほとんど顔も出せませんでした」とあったので、それで、細部の味付け・お化粧のようなものが施されないまま本番を迎え、結果、ささくれ立った舞台になったのかもしれない。

いずれにせよ、芸達者の役者がこれだけ集まって、かつ、これだけ、「取り繕ってお化粧しない」芝居が観られるのなら、今後も見続けたい、と思わせた。

2008年11月24日月曜日

新転位・21 シャケと軍手

23/11/2008 ソワレ

中野光座、満員。当日券で入れてよかった。
飴屋法水氏が出演するというので観に行った、というのが正直なところ。去年のSPACでの「転校生」の演出が素晴しかったし、僕は東京グランギニョルは観に行かずじまいだったし。一体、どんな演技をされるのでしょうか?

が、芝居が、面白かったのである。秋田の畠山鈴香事件を題材にしたこの芝居、2時間半、ずっと、時計も見ず、お尻も痛くならず、じっと観ていることができた。もちろん、飴屋氏、大変面白かったのだけれど、僕は、観ている間、戯曲の力ということについて考えていた。事件当時自分が日本にいなかったため、事件の詳細について他の観客に比べて圧倒的に情報量が少ないという事情はあるにせよ、です。

だから、この戯曲は、山崎氏の演出を離れて、例えば、現代口語の他の演出家が演出しても、充分持ちこたえられるのではないか、いや、それは無理な相談なのだろうか、と考えてしまう。どうなんだろう?いや、でも、面白かったと思うんだけど。

飴屋氏が横を向いて台詞を言うたびに、長い髪の先が彼自身の息でふわーと揺れるのが、なんとも面白い。鈴香役の石川さん、殆ど正面を向かうことがないのだが、本筋と一見関係のない「三島さんの自殺」が伝えられるシーンで、下手でぼーっと正面を向いて座っていた、そのときの顔と照明の当たり具合が、忘れられない。

2時間半、休憩無しの芝居で最後までガッチリ魅せてくれる芝居は、近頃なかなかなかったので、(それが転位の芝居だったということも含めて)結構嬉しかった。

三条会 熊野・弱法師

22/11/2008 ソワレ

三条会の魅力を人に伝えるのには、どのように言えばよいのか?
近代能楽集連続上演を全て拝見した後での感想は、「三島戯曲って、本当は面白かったんですね」。それが分かっただけで、僕にとっては素晴しい体験なのだけれど、それをもって三条会の魅力です、といっても通じないだろう。

・ 役者が、変なんです。
・ 演出が、突拍子もなくて変わってるんです。
・ 役者の立ち、特に、女優の立ちが、美しいんです。
・ 山口百恵や井上陽水やレッド・ツェッペリンがかかるんです。

これでは、エリマキトカゲやウーパールーパーを他人に紹介するのと大して変わりがない...orz(生まれて初めて使ってみた。用例として適切ですか?)。

が、今回の三島シリーズで何となく僕なりにぼんやりとはいえ浮かんできたのは、
「演出家の解釈=この戯曲の意味は、実は、こういう意味だったんですよー。だから、それが分かり易いように演出してみましたよー。いかがですかー。僕ってすごくセンス良いでしょー、という説明」
と、
「演出家が戯曲を面白いと思いながら読んだ時のダイナミズムを、どうやったら観客と共有できるだろうか、という、仕掛け (仕掛けなので、説明なし)」
は、おそらく違うんだろうなー、という感覚である。もちろん、後者の場合でも観客は(特に三条会では)戯曲を読むプロセスを擬似追体験するのだけ れど、そこから出てくる解釈・妄想の結果については演出家は興味を持っていない。ただその「体験の瞬間のダイナミズム」だけに興味がある。

だから、観た後の感想も、「あれが変だった」「これが面白かった」であって、「あぁー、三島戯曲のテーマはこういうことだったんですかー、よくわかったなー」じゃないのである。
でも、そういう風に観れないと、芝居って面白くないんだよね。

以上、演出家の方々には既に自明のことかもしれないが(自明でない演出家も実際には7割くらいいるように僕には思われるが)、余計なことを言いました。

熊野、客演の桜内結うの動きが変で、思わず見入る。あの微妙な揺らぎ方は、三条会の役者と混じるとなんともいえぬ味わい。弱法師、(ネタバレなの で言わないが)盲目を逆手にとってフレームを変換。それに乗っかった俊徳の怪演が楽しい。桜間女史のブラウスは、あれは、手作りなのか、市販ならどこで手 に入れたのか。気になる。

繰り返しになるけれども、こういう三島作品なら喜んで何度も観たい、と思わせてくれたことに感謝、感謝。

2008年11月23日日曜日

パラドックス定数 怪人21面相

22/11/2008 マチネ

再演。初演を観てないので、この芝居は今回が初めて。
今回の決め台詞は、白砂の「私を、思い出すんだよ」。
うぉおおーー、それ、言わせますか?しかも、ちょっとタメを置いてから。
2年近くにわたり、作・演出の真の意図とはおそらく100%無関係に展開している、「パラドックス定数やをい演劇説」を全面的に裏付けるべたべたな台詞が・・・

野木氏の芝居をこういう風に「期待しながら」観るのは、芝居の観客として最早よろしくない段階に来ていると、我ながら思う。
次回以降は、もっと「テクニカル」に芝居と役者の動きを追わないと、流石にイカン。

某氏からは、高村薫氏の秀作「レディ・ジョーカー」の萌えっぷりとどこがどう違うのか?との質問を受けた。あ、そうか。グリコ・森永ネタのやをいといえばレディ・ジョーカーが横綱ですな。この芝居では、作・演出は、「敢えて」高村氏と同じ素材を選びつつ、別の切り口で力強い妄想力をもって別の物語を創り上げることができることを示した。と僕は評価する。

それでは、芝居として、演技を見つめる中からの想像力・妄想力を喚起させる力はどうか?そこがやっぱりいまひとつ判然としない。困ったものです。やはりここでも、僕の「芝居の見方」が試される局面に自分が置かれていると感じる。

2008年11月18日火曜日

観劇と想像力 再び東京デスロックのカステーヤについて

最近、知人の日記を読んでいたら、こんなことが書いてあって、月並みではあるが、目から鱗が落ちた。「今更そんなことに気がついたのか」と言われちゃうかもしれないけれど。

http://www.letre.co.jp/~hiroko/diary/Oct2008.html#1029

ちょっと長いけれど、該当部分を引用させていただくと、

「登場人物についての情報が増えていかないシーンでは、観客は、この登場人物2人はどんな関係なんだろう?と想像をどんどん膨らませていく。でも無制限に興味を持ち続けることはできないから、あまりにも情報の増えない状態が長いとあきてしまう。かといって、最初から情報を与えすぎると、説明的なつまらない作品になってしまう。客席に届く情報をうまく操作して、観客の想像力を適度に広げたり、それが広がりきってしまう前に狭めたりするのが演出家の仕事である。観客の想像力がどこまで広がり得るものかという幅は、商業的な演劇では狭い(=わかりやすい)し、実験的、前衛的な作品では広いが、いずれの場合でも、観客の想像力の幅は注意深く見積もる必要がある。特に実験的な演劇の場合ありがちな間違いは、観客が自分と同じ想像力の幅を持っていると思い込んで作品を作ってしまうことだ。観客の想像力を考慮しない作品は、ペンを1本舞台上に置いて「可笑しい」と笑い転げているようなもので、共感を呼ぶことはできない。」

東京デスロックの "Castaya" を観て以来、自分にとって芝居が面白いということがなにかについて考え続けていて、実は、秘かに思っていたのは、
「もし多田淳之介が、何もしゃべらない役者じゃなくて、何もしゃべらない椅子を舞台の上に45分間置いて、それが芝居だと言い張ったら、それでも自分はそれを面白い芝居だとして観ることが出来るだろうか?」
ということだった。いや、もっというと、その感覚は、昨年の "Love" で、自分の想像力の幅を "Love"が超えかかっているのを感じて以来、ずっと続いていた、といってもよい。
それに対し、 平田オリザ曰く、「極端にそれをやったら共感を呼ぶことは出来ない」。そうか。そうだよな。言われてみれば。

誤解の無いように言えば、「想像力の幅」というのは、「想像力の絶対値・偏差値」ではなくて、「想像力の働く帯域」である。個々人で、想像力の働くきっかけとか、ジャンルだとか、そういうものが異なるのであって、その、「想像力の帯域」の違いに無頓着な芝居は、いわゆる「客を変に選ぶ」芝居になっちまう、ということなのだろう。いや、もちろん、小生の遠く及ばぬ妄想力をお持ちの方も、数多くいらっしゃるのは分かってますが。

ま、一方で、「観客が自分と同じ想像力の幅を持っていると思い込んで作品を作ってしまうこと」は、実験的な演劇に特有の現象ではなくて、実は、大抵のテレビのディレクターやつまんない芝居の演出家達は、①観客は自分と同じ想像力の帯域を持っているor持っているべきである ②観客の想像力の絶対値・偏差値は、自分の想像力の絶対値・偏差値より低い(自分のほうが感度が高い) と思っているフシがある。あるいは、もっとひどいのになると、観客の想像力の帯域・方向感を、自分のこれと信じる方向へと「矯正」「教育」してくれちゃおうとする人たちもいる。「この~うたは~~、悲しい歌だよ~~、さあ、泣け~」系のミュージカルとかはそうだと、僕は思う。

逆に、ケラリーノ・サンドロビッチ氏のキャパシティはすっごく広くて、あらゆる想像力の人々がアクセスできる帯域の芝居を作ってしまう。そのサービスは、すっごく長い上演時間になって現われてしまう。

等々、この、「観客の想像力の幅・帯域」というフレーズを軸に考えると、時として混濁しがちな自分のスタンスについて、整理がつけやすそうな気がしたので、ご紹介しました。

それにしても、こういうことを整然と考えているところに、平田オリザの凄みというか、ズルさというか、を、改めて感じる。こういう軸を過たないからこそ、青年団の芝居は誰にでも進められる水準を維持できるのか。なるほど。

2008年11月17日月曜日

五反田団 すてるたび

16/11/2008 ソワレ

役者が舞台上で「ぜーはー」していると、「ははぁーん、余裕が無い、とか、絶望的、とかいう演技ね」と即思ってしまって、一気に冷めてしまうのだけれど、黒田大輔は「ぜーはー」が許されてしまう日本で唯一の役者なのではないかと思われるほどに、ぜーはーしても、ぐしゅぐしゅしても、嫌味が無いというか、面白いというか、見てて飽きない。

そもそも、ぜーはーしているのが、演技なのか、子供の遊び的ぜーはーごっこなのか、何なのか良く分かんないし、ぐしゅぐしゅしてても、泣いてる演技なのか笑ってるのか良くわかんないのかただの洟垂れなのか、全く分からない。

そういう懐の深さがあるので、冒頭の仕草(ネタバレになるので明かさない)が何だか分からないところから出発して、実は最後に辻褄を「合わせようと思えば合う」、(でも本当のところはわかんない)、ようになっているのが、予定調和でなく見られた。

そうやって、予定調和でないところへズレていきながら、実は一つの環に収まっている(ようにも思われる)ところへと観客を引っ張っていく手管にシビれた。こんなに片付いていてパンチの綺麗なアトリエヘリコプターは初めて見たのだけれど、そういうシンプルな舞台で4人でバッチリ魅せてくれる力にも感謝。

当パンに「劇作家として思春期に入っている」ということが書いてあったけれども、それは丁度、12年目の青年団「冒険王」初演の当パンに、平田オリザが「いよいよ書きたいことが尽きて、書きたいことなど何もない。でも書く。という状態になってきた」と書いていたのと、年齢的に奇妙に符合するように思われる。
(そしてその文章を、前日の「冒険王」のアフタートークで多田淳之介が読み上げたのもまた奇妙な符号ではある)

その後の平田の仕事ぶりを思い返すにつけ、今後の前田氏の歩みが大変楽しみな局面に入ってきている。と思う。

2008年11月16日日曜日

青年団 冒険王

15/11/2008 ソワレ

初日。
当日パンフには「過去2回の公演に比べて、明るい、積極的な冒険王」とあったが、観た印象も、カラッと、クリスピーな仕上がりと感じた。
僕は、冒険王については1996年のアゴラ初演を観たきりなのだが、そのときに比べると、やはり、イスタンブールに「一時」停滞している人たちが、考え込むよりも、アクションが先に出る人たちとして描かれている印象である。

それは、良し悪しではなくて、やはり、時代の空気とか、役者の持っているものとかによるのだろうけれど、個人的には、永井秀樹の「場の御し方」に かかっているところが大きいような気がした。永井氏がこういう使われ方しているの、あんまり観た記憶がないけれど、こういう演技を観ると、やはり、力量の ある役者だと感じる。

小生は下手の「火宅夫」「追いかけ妻」ポジションで拝見したが、中盤、能島・二反田の会話のシーンでは、不覚にも涙が出た。初対面の2人の、なん ともいえない状況での視線の絡み方と、2人がそれぞれに抱えているバックグラウンドへの想像力が、舞台を対角線に走る視線から、パァーッと広がる一瞬が見 えた、気がした。そういう、ちょっとした瞬間の演出が、平田オリザ、上手いのだ。もちろん、それをいともた易く演じてみせる役者陣も素晴しいし。

アフタートークで山村崇子さん出演、あんなに沢山、しかも楽しそうに、芝居の話をする山村さんもひさーしぶりに観た気がする。それもよかった。

平田芝居には、「行き止まりになりかねない場所」が数多く出てきて、それは例えば、「S高原から」だったり「ソウル市民 - 昭和望郷編」だったり「眠れない夜なんかない」だったり「南へ」だったりするのだが、この「冒険王」は、半分はそういうテイストを持ちながら、そこから、 半歩or一歩前に出ようという意識を感じさせる芝居である。最初期の「欲望という名の林檎」は、大内主税が船のへさきにいる場面で終わっていて、そういう 意味では、一歩踏み出すところまでを描いていたけれど、今後、「一歩先に行ってしまった人」を戯曲に書いたりはしないのだろうか?そういう芝居を、説教臭 くならず、野田秀樹臭くならずに書くのは難しいのかもしれないけれど、いつか、見てみたい気もする。一歩踏み出すことすら、それが本当に前向きなのかどう なのかも分からないはずで、そういう場がどこかにあってもいいんじゃないかな、と思ったりもするのである。

シアタートラム 「友達」

15/11/2008 マチネ

期待とがっかり度のギャップという意味で、今年ナンバーワンの芝居。2時間15分、「早く終われ」が9割、「万が一面白くなる可能性もある」が1割で過ごした。

「(「友達」を)読み始めた頃の私は、必ずしもそうは(「友達」という戯曲がとても面白いとは)感じていませんでした。」
という当パン上での岡田氏の意見は、率直だし、共有できる。また、
「暴力についての問いかけであるらしいということ、それはまあおいといて、目の前の上演行為、役者がそこにいること、そしてこの劇場の中でパフォーマンスをするということを、まずは何よりも見て下さい」
というくだりも、圧倒的に正しい。僕のような「虫の眼」の観客にとっては。

でも、上演の面白さは、名の売れた俳優の紋切り型やヨガやちょっとした奇態なポーズや気取ったポーズにあるとは、僕にはとても思えない。俳優達本人どもが「どうです、これ、面白いでしょう」と気負って、あるいは気取って観客に提示してみせる動きや台詞回しが、観客の想像力の可能性を開くのではなくて、却ってそれを細らせることについては、演出・俳優、どう考えていたのだろう?取り立てて若松氏をけなす目的で言うのではないが、ヨガのポーズで台詞を言うことは、ちっとも面白くない。上海雑技団を呼んできて台詞言わせたほうがよほどアクロバティックなことが出来るはずで、でも、岡田氏がそれをしなかった理由は、(プロデューサー側の事情とは別に)きっとあるはずなのだ。

前半、上手奥のベンチに腰掛ける呉キリコのたたずまい、良し。柄本時生の脱力感、良し。ただし、稽古中はもっとよかったに違いない。稽古中に良かった自分を「なぞる」作業に入っている気配が臭ってきた。

個々の役者が台詞を言う前に、必ず、2秒ずつくらい、間を入れていた。
これは、「現代口語演劇」では詰めさせられる「間」なのだけれど、僕には、恰も、「友達」の上演に名を借りた、現代紋切り型ショー、まるで歌謡番組のように1人ずつ役者が自分の台詞を披露する、キッチュな見世物のようにも見えたのだ。だからこそ、役者達は客席に向かった面を切っても、媚びるような視線を客席に投げかけても許される。そうした、グロテスクな、2次元家族バラエティショーのようなものを生み出そうとしていたのであれば、全てを抱え込むフレームとして納得はいく。でも、少なくとも役者人たちはそれに自覚的ではあるまい。

2008年11月15日土曜日

多和田葉子+高瀬アキ 飛魂II

14/11/2008

木曜日の日経夕刊生活欄の舞台ガイドに控えめに3行、「多和田葉子+高瀬アキ」とあって、偶々そのページを開かなかったら後で地団駄踏んでいただろう、その場でシアターXに電話で予約。よかった、チケットまだあった。

ともにベルリン在住の小説家とピアニスト。高瀬アキさんは、僕がまだジャズライフとかスイングジャーナルとかをジャズ喫茶で読んでたころから日本 で活躍されていたが、ベルリンに移り住んでいたとは知らなんだ。多和田さんは、いわずと知れた現代日本で最もすぐれた小説家・ライターの1人で、中でも 「飛魂」は、小生最初の2ページを読んでぶっ飛んだ、生涯に読んだ小説の中で五本の指に入る傑作。多和田氏が幅広く朗読パフォーマンスをしていることは 知っていたが、(そして去年の『飛魂』)は聞きにいけず地団駄踏んだのだが)、「飛魂II」と来ては、何もかも振り捨てて聞きに行かずばなるまい。

予想に反して、会場、一杯ではない。おかしい。
最前列中央に何の臆面もなく陣取る。隣の女性二人組み(1人はアメリカ人、もう1人はドイツ人のようなアクセントでしたが)が話をしていて、どうやら、飛魂は絶版、ヤフオクで1万円で手に入れた、とのこと。おかしい。あんなに素晴しい小説が、絶版ですと。

高瀬・多和田両氏登場。多和田氏第一声。予想していたのと声が違う。思っていたよりも低いところの倍音が豊かで、芯がある。The Go! Teamで強調されるような「日本人っぽい」発声からは離れた感じ。

朗読なんだけれど、ピアノと言葉が絡んで、どうも多和田氏、「テクスト」でなくて、「楽譜に記譜された言葉」をうたっているようだ。そういう目の 動き。だから、テクストは読まれていると感じる時もあるし、まるで組みあがったレゴをちっちゃな固まりごとに外して放り投げていると感じる時もあるし、 もっとちっちゃいパーツで遊んでいると感じることもある。ピアノに「乗せて」コトバをうたうのではなく、ピアノはあくまでも一連の繋がった文章をばらばら に砕いてしまう溶媒のように作用して、それを多和田氏が新しいカタチに組みなおしてくれるのだ。

まるで、「ヘビ遣い」ならぬ「コトバ遣い」が、つぼの中からコトバを呼び寄せて、ステージの上で踊り、くねらせている印象である。これは、楽し い。飛魂のパートでは、本のページの上でもぞもぞと動き出した文字どもが、コトバ遣いの手によってページから(封筒から剥がされる使用済み切手のように) ふわっと剥がされて、音となって、観客席の聴衆の耳の穴めがけて飛んだいく気がする。それも楽しい。

1時間20分、本当にあっという間に終わった。こんなに素晴しいコトバとの接し方が出来るとは。

2008年11月11日火曜日

ひげ太夫 熱風ジャワ五郎

09/11/2008 マチネ

初見、千穐楽。

いやいや、楽しかったっす。そして、「芝居」という、大人が必死こいて本気でやる「ごっこ」が、「ごっこ」である故にこそ必死こいてやらなきゃならないもので、その「ごっこ」の世界に、「ごっこ」であることが分かっていてなおかつ没入できる素晴しい観客がいたときに、素晴しい場が共有できるのだということを改めて感じた。

「芝居のごっこ性」が創り手にも観客にもきちんと自覚されるときに、ぐぐっと場がひとつになるというのは、青年団の芝居でもそうだし、他の現代口語演劇でももちろんそうだし、唐さんの芝居でもそうだし、この、ひげ太夫の舞台もそうなのだ。

だからこそ、僕の後ろに座ってた小学生は、ぐいぐい舞台に引っ張りこまれる気配を放っていたし、驚いたことに、僕が全く反応できないシーンで、大うけに受けていた(確か小学校に行きたいとか行きたくないとかいうくだり)。要は、大人の押し付けでないコンテクストの中で、ほんとに楽しんでんだな、というのが、よーく分かったのだ。だから、僕も僕で、自分が面白いと思ったシーンでは存分に笑わせていただいた。

本当に、説教臭くて芝居も臭い、オレが小学生の頃に体育館や北区公会堂で見せられたあの子供芝居はなんだったんだろーなー、と思った次第である。あー、今の子供がうらやましい。

2008年11月9日日曜日

岡崎藝術座 リズム三兄妹 再見

08/11/2008 ソワレ

最初から最後まで、食い入るように観させていただいた。
エレベーターがのぼってきて、俳優のサカタが登場するところ。姉の登場、同居人の登場、巣恋歌の登場、兄の登場、妹の登場、ショウコの登場・・・全てにおいて、「観たくないシーンが無い」!ということに、終演後気がついて、愕然とする。「無駄がない」という言い方をすると、恰もかっこよく、演出家の意図に沿ったものしか置かれていないような聞こえ方をするかもしれないが、いや、実際、意図に沿ってないことは起こらないのだけれど、でも、ノイズというか、「リズムのズレ」までが、そこになければならないズレとして配置されているように感じられた。
で、その先は、観客に跳べと、舞台が言っている。

舞台の上・中央・下に役者が分散して同時平行で演技が進むところも、普段なら、観客の意識を散らそうとする試みとして冷静に見られるのだけれど、今回は、「どこも観ていたい!もったいない!」と思ってしまう。

内田慈さんは、みーんなが誉めている通りで、全く素晴しい。が、個人一押しはやっぱり白神さんで、前半の「リズムな生活、ん、そーーーーーっ」までで、実は芝居全体の半分以上を使っている。そこが素晴しいからこそ後半が生きるのだ、と力説したい。もちろん、役者についても、誤解を恐れずに言えば、「過不足が全くない」。

2度見なのに、やっぱり1時間半やられっぱなし。

リズムのずれと言っても、縦と横とそこからはみでる立体と言ってもいいんだけれど、それは、僕が舞台で感じたいところの、「戯曲・演出・演技」の構造が掬おうとしてこぼれ出る「破れ」「裂け目」のことではないかと。そういう裂け目が、リズムを突き詰めようとするところから、ピリッと生じて、それは、岡田利規氏がこの間60年代演劇のシンポで言っていた、「90分間の世界を創り上げること」に極めて近く、しかも、そこに裂け目を生じさせているという意味で、既にその先に在る可能性を秘める。と、僕は思う。

2008年11月8日土曜日

クロムモリブデン テキサス芝刈機

08/11/2008 マチネ

終演後、階段を降りて帰ってたら、(おそらく)スラブ系のお母さんが、3-4歳と思われる息子を思いっきり怒鳴りつけて、息子大泣きだった。その最初に飛び込んできた言葉が、「気をつけてって言ったでしょ」に聞こえて、妙だったな。それが収穫。

一体、「芝居が面白い」とはどういうことなのか、考えてしまった。僕の考える「芝居の面白さ」を100%共有できる人間がいるとは思わないし、いたら、お前オレかよ、って感じで気持ち悪いし、まぁ、少なくとも、僕と「芝居の何が面白いか」について意見の異なる人はこの世に60億人は軽くいるはずなんだが。じゃあ、僕と若干なりとも近いところで会話が出来る人(どこが同じでどこが違うか、という話が出来る人)がどれくらいいるのだろうか、と考えたときに、結構心細くなるような舞台ではあった。

2008年11月6日木曜日

多田淳之介+フランケンズ トランス

05/11/2008 ソワレ

80分間の公演を観ながら考えたのは、やはり、鴻上尚史氏の戯曲は余計なものが多くて、説明しなくてもいいことを説明して、面白くもないことをさも面白いように押し付けがちな戯曲なんだ、ということだ。そのまま上演しても、おそらく、何の想像力=妄想力も刺激されず、一愚民として役者の芸を受け入れて終わる、ってことになっちゃうんじゃないかと思うのだ。

この説明過多な戯曲と較べて、多田自身の手になる「3人いる!」が、いかにシンプルな中に想像力を刺激する仕掛けを巡らせた、読む/観るに堪える戯曲であるか、ということが良く分かった。でも、多田氏は、自分の戯曲の方が面白いのをひけらかすためにこの上演を仕組んだのではないのだ。

あえてトランスを「仕掛けつきで」上演することによって、そこから生まれてくる面白いものもあるに違いない、という確信があるんだと思う。つくづく、多田淳之介も、業が深いというか、欲が深いというか、まあ、とんでもない芝居好きである。


<ネタバレあり注意>

そんな戯曲を上演するに当たって、多田淳之介は、桑田佳祐とか、松任谷由美とか、「瞳を閉じて」(って、誰が歌ってるんですか?)とか、くるり、とか、これでもかとばかりに記号な音楽をかけまくるのである。

歌謡曲に乗って説明される紋切り型な台詞やシチュエーションは、まさに、目隠しをされた4人の役者によって演じられることで、「紋切り型が演じられるシチュエーション」という、(ううっ、陳腐な言い方ですまんが)メタな構造を与えられる。

かつ、4人の役者が3人分の台詞を分けあって、どの役の台詞を誰がしゃべるかもシャッフルしてある。要は、「誰が本当に誰なのか」は、分かっても分からなくても良いようになっている。

そうやって、①観客を分かりやすいストーリーで引っ張る必要はないのさ、ということ、②鴻上戯曲にもう1つ上位の枠を嵌めることで、ストーリーで引っ張られない観客に、想像力のきっかけを与えることが出来るのさ、ということ。
この2つを試そうとしているのか。
あ、そうそう、お客がストーリーに寄りかからなくてもよいように、多田氏、開演前にトランスの物語を全て説明してくれるのではある。

でも、やっぱり、自分としては、自分の妄想力を引っ掛けて一段上に跳ぶきっかけは、つかめなかったなぁ。終盤の「サンゾウ」の長ゼリではきっかけが一瞬見えた気がしたが、コンディションもあるためか、我ながら不発。もったいなかった。

で、そういう自分を振り返るにつけても、やっぱり、「3人いる!」の方が面白いんだよなー、なんでわざわざトランスをやるのかなー、なんて、自分の妄想力不足を人のせいにしたがっちゃったりするのである。この戯曲・この演出が「ドンピシャ」に来た人もいるはずで、今度そういう人の話も聞いてみたい。

2008年11月5日水曜日

ハイバイ オムに出す 偽キャスト追加公演

03/11/2008 ソワレ

「舞台上で起きることが、毎回毎回、初めて起きることのようにできたらいいのに」
というのは、昔から芝居の創り手にある願望で、20年位前に、柄本明さんの演技がそういう風にほめられているのを聞いたことがある。

それに少しでも近付くためにかどうかは知らないが、今回岩井秀人がとったのが、
「出来上がった芝居で1人だけ役者を入れ替える」
作戦である。うむ。この作戦、どこまで上手く行くか、見てやろう。

と、格好良い能書き垂れて観に行ったわけではなくて、実は、「ヒッキー」の妹役を篠田千明が演じると聞いて、
「ひょっとしてこれは、キュンとくるのではないか」
と思ってしまったのである。それで観に行ったのである。端田新菜や中川幸子もぐっと来たのだけれど、ひょっとすると、篠田妹だと、とんでもなくキュンと来るのではないか、と期待したのである。

結果としては、面白かった。でも、キュンとはこなかった。篠田妹の「違和感」「異分子感」は常にあったのだけれど、それは、「舞台上の事件が毎回初めて起きることによる、どっちに転ぶか分からない危なさやワクワク感」とは違っていて、篠田が「あれ、こんなとこいて良かったんだっけ?」と感じていると思われる感じ、そのザラつき感を味わった印象。

岩井氏出演の「落語編」も、岩井氏が上手なためにやっぱり妙に平衡が取れていて、「破れに近い」という妙な緊張感は、残念ながら、なし。

しかしまあ、「面白いものをより面白く」するために、色んなことを考えるものだ。なんとも業の深いことである。

2008年11月4日火曜日

多摩川劇場 山下号(ゲネ)+中野号+再び柴号

03/11/2008 昼

9時開演の岡崎藝術座、朝公演が終わるや否や、東横線に乗り込んで一路多摩川駅へ。多摩川劇場、中野成樹組「欲望という名の電車をラップにしようとする男の害について」の整理券を取りに並ぶ。さらに、1時のゲネプロ回も観れることがわかったので、山下残組の「会話レス、電車音」も観ることにする。

「多摩川劇場、全3本制覇。」

誰に誇れるものでもないだろう。ま、その日、本当に自分はヒマだったのだ、ということは証明されるが。

山下号、台詞無しの振り付けのみ。うーん、個々の動きは面白いんだけど、それらを繋ぐ糸が見えないと、更に、電車の両方向を首を回してみていると、フラストレーションが先に来たかも。自分はどうしても「コンテクスト」を求めがちな観客である、という、いつもながらの限界に突き当たる。

中野号、車内のおばさんとラッパーおにいちゃんの口論が、いつしかスチャダラパーに乗ったラップになっちゃうというお話。日常会話のリズムとラップとの臨界点を探るという意味で柴幸男の傑作パフォーマンス「御前会議」に似るが、いかんせん柴が1時間20分掛けてやったことを10分でせにゃならんハンデは大きくて、「御前会議」のサトルさは無い。が、インパクトは充分にあった。多摩川の駅で、4-5歳児が、両手突き出して、リズムに乗った言葉を吐き出しとったよ。

で、その足で多摩川駅の改札を出て、柴号のおまけ編に乱入。プラレールが繋がっていく様を、再度、今度は見物人としてみる。それも面白い。本当に面白い。
人と人との「絆」なんて、所詮コンテクストの中でしか成り立たないんだけれど、柴号のパフォーマンスは、そのコンテクストの接点を、プラレールの継ぎ目に凝縮させて、その場その刹那の知らない人同士、偶然多摩川線に乗っちゃったというちっちゃな「絆」を、景色の変化というもう少し大きなカタルシスに繋げて、一生忘れ得ない風景を刻み付けてくれた。

今日、通勤していたら、今度はその風景の変化に、「お店さん」「天気さん」「白猫さん」「過去さん」の台詞がふと重なって、涙出そうになった。プラレールの発想だけではなくて、もう一発仕掛けがあったのだ。それにも驚いた。

岡崎藝術座 はやねはやおき朝御飯

03/11/2008 朝

早寝早起きなら任せろ。毎日5時半に起きて通勤し、土日でも下手すると6時に目が覚めちまうオレ様だぜ。ということで、9時開演、朝食付きの岡崎藝術座朝公演へ。・・・結構こんでるぞ。と。みんな、好き物である。

が、そんな猛者どもの期待に応えて、いや、期待を上回って、無茶苦茶笑わせていただいた。ほんと、こんなにすごい役者どもが、嬉々としてこんなに くっだらねー観客巻き込みパフォーマンスに邁進して、しかも一時も手を抜かず。朝の元気炸裂する劇魂パワーにただただ目を瞠り、口をアングリ開けた。

<以下、全文ネタバレです。観る予定のある方はぜったいに読まないで下さい。>




奈落からリズム三兄妹が生首出して歌い始めた時点で、もう、笑いが止まらない。これ、すごい。すごい。内田慈さん、素で笑ってませんでしたか?涎 ちょっと垂れたりしてませんでしたか?目覚ましで起きた西田夏奈子がアゴラの外に飛び出していくと、観客いじりと思いきや、無作為に5,6人客を選んで奈 落へ突き落とす間、必死で間をもたす白神未央が素晴しい。

この、「比較の問題として」普通の人により近いところにいる3人組が導入したこのパフォーマンスは、なんと、奈落の底で待ち受ける変態社長とマ ネージャーによって観客全員による朝食会へと変貌。朝食60食分、すみませーん60回分でラ○チハ○スは大繁盛、休日の朝の静かな散歩をいきなり西田にか き回された駒場商店会の老人達は大迷惑である。
(ちなみに、この朝食作りでつかれきったと思われるラ○チハ○スのお兄さんは、夕方カウンターに突っ伏して居眠りしていたよ。僕が弁当頼もうとして声かけたら、真っ赤な目をしてすみませーん、だったよ)

そして、この、駒場の路上で歌う巣恋歌が変態社長に見出され、渋谷ハチ公前でデビューリサイタルやってこのパフォーマンス終わるのだが、電車で移 動する間も、リズム三兄妹はなぜか「り」で終わる言葉ばかり出てくるしりとりを続行。「り」で終わる言葉には当然「リズム!」で受けるお約束に、電車の中 でも渋谷の駅でも笑いがこみ上げる。

心底楽しめる、三連休の最終日の朝を飾るにふさわしい公演だった。9日の回はもう売り切れ間近らしい。朝に自信のある人もない人も、ガムばって行って見てください。元気な日曜になること請け合いです。それか、午前中でアドレナリン出尽くして力尽きるか、どっちか。

2008年11月3日月曜日

岡崎藝術座 リズム三兄妹

02/11/2008 ソワレ

くらったくらった、がつんときた。こりゃ面白い。
でも、何が面白いのか、説明しづらい。

俳優サカタに度肝を抜かれ、その、テレビ見てるぞ目線とともに微妙に変化する首の揺れにまずやられる。
リズム・ドランカー白神未央のテレビ見てる目線もまたみてて飽きず。
鷲尾・内田慈の兄弟会話、その微妙な掛け合いの「リズム」が、狙ってるのか狙ってないところにずれているのか、興味深い。
巣恋歌、バイオリン、むちゃ上手いですね。かつ唄も上手い。良いバイオリン使ってました。
あぁ、役者一人一人挙げてると長くなるのでもう一箇所ずつ、一人ずつほめるのはやめるが、要は、役者見てて飽きない。
しかも、「リズム」なんだから、ミュージカルもありだ。そこら辺のキモチ悪さを一身に引き受けて、自分のペースで舞台に上げてみせる乱暴さこそ、神里芝居の真骨頂。

でも、それを、「乱暴だから面白い」と片付けてしまうのは良くないと、自分で思う。もう一度観に来たい。

多摩川劇場 川のある町に住んでいた

02/11/2008 マチネ

マチネ、というか、東急多摩川線を舞台に、1日1本の回送電車を使ってそこで芝居を上演しようという企画なので、時間も、昼間の電車の運転間隔が 比較的長い時間帯、ということである。その上3両編成の電車で3つの座組みがあるので、2日・3日の2日間2回公演では、3つすべてを見ることはできない 計算になる。

11時に整理間発行開始、10分前に行くとすでに16、7人並んでいて、うむうむ、多摩川線で大々的にキャンペーン張ってなかった割には盛況じゃないですか。その場で柴号・中野号・山下号とあるが、小生迷わず柴号を選択。

1時35分に蒲田駅プラットホームに集合。列を作って電車に乗り込めば、最後尾の柴車両の床にはクレヨンで描いた絵が敷き詰められて、その上をプ ラレールが一本、車両を縦断して敷かれている。日ごろ多摩川線を通勤電車として使っている身としては、何ともいえぬ異空間が広がっているだけで、すみませ ん、かなりテンションがあがった。こんな多摩川線、今後100年は拝めないぞ、と、何枚も携帯で写真を撮る。

2時きっかりに出発進行、開演。そうです。この芝居には、「開演が押す」ということはありえないのです。ダイヤが乱れちゃうから。多摩川に向かう 間に、とあるカップルと多摩川線君、それに、多摩川線沿線の住民の皆さんとの会話があって、と、さすが3両編成、7駅しかない多摩川線だけあって、ろく すっぽ話も展開しないうちに終点多摩川についてしまうのだが、その間に外からこの芝居電車を見る人たちの視線が何とも面白い。だって、電車が駅に着いたと 思ったら、回送で乗れないし、かつ、人がたくさん乗ってるし、かつ、変な人たちがのっている。床に絵とオブジェが散らばっている。その内側にいる幸せ。

多摩川についても芝居は終わらず。川を見たことがないという多摩川線電車君を、浅間神社の上まで連れて行ってあげる。プラレールをつないで。大人 も子供も、一生懸命になってつないで、坂を上る。途中、カーブではちょっとずるしてワープする。それがもう、楽しい。神社の丘の上について、多摩川が見え る。そのカタルシス。

駅から3分歩いて、ちょっと高いところから川が見えるってそれだけのことなんだけど、それがとてつもなく楽しい。

芝居が終わって、多摩川の駅の改札をくぐったときに、何だか三文小説みたいで恐縮だが、一瞬、眼がくらんで、年間500回は確実に通過しているは ずの多摩川の駅が、何だか、別の場所のように思われたのだ。その一瞬が僕にとってはとても大事で(だって、そういう、クラクラっとくる芝居って、そうそう あるもんじゃない)、柴氏と役者達には、その一瞬のお膳立てをしてくれたことについて、いくら感謝してもしたりない。そういう芝居でした。

2008年11月2日日曜日

ハイバイ オムニ出す

01/11/2008 終日

6月の「て」が素晴しくて、いまや調子に乗っているに違いない(と僕は勝手に決め付けている)岩井秀人のハイバイが送るオムニバス4本立て公演(本当は一回に2本立てなので、今日も、マチネ・ソワレ通しで観て4本立て)。

リトルモアのチラシでは岩井氏「『て』は自分が客として面白かったかというと、大いに微妙だった」と書いていて、それはとても意外だった。つくづく、芝居に関して欲が深いというか、業が深いというべきなのか、
一観客の僕としては、岩井秀人の劇作が「て」でぴょこっと1つ上の次元に跳ねて出て、で、それでもって、周りを見回してみたら、なんだかやっぱり面白そうなものがあった、というのがこの、「SF・落語・いつもの・フランス」に繋がったのかなー、などと考えて観に行った。

SF「輪廻TM」では役者の上手さに舌を巻き、落語編では思いっきり岩井マジックに嵌められギャフンと言わせられた上に、夏目慎也、折角前回の演劇Loveで客演希望を打ち出したらその結果がこれかい、みたいな楽しみもあって、楽しい。ヒッキー・カンクーントルネードはもともと大好きな戯曲だが、やっぱり、何度観ても良い。
フランス編、「コンビニュ」はヤン・アレグレの「Hana no Michi」のパロディなんだけど、でも、コアになるモチーフが自己満足でない分(いや、っていっても、「謝るか謝らないか」っていうひじょーにくだらないことなんだけど、でも、やっぱり、「京都で1人、孤独なおれ、おしゃれかも?」とは比べ物にならない)、モチーフが透けて見えたときに恥ずかしくない。

と、なんだかんだで一日、とっても楽しかった。こういうの、とっても有難い。

2008年10月27日月曜日

甘もの会 炬燵電車

26/10/2008 ソワレ

千穐楽。駅前でアンパン買って食べながら行ったら、何と会場で手作りアンパン販売中。つらい。僕もつらかったが、万が一俳優がアンパン嫌いだったら、それはもっと辛かっただろう。

肝心の芝居のほうはというと、大変面白かった。1時間強、「思わぬ拾いもの」な感じで、嬉しくなる。まさに炬燵の周り、2m四方くらいのことしか取り扱っていないのに、そこに拘って芝居を作ると、その外のこと、また、世界に何千・何万とあるであろう炬燵の周りに集まる家族や叔母やいなくなった夫や父や子供達のことが見えてくる、気がするのだ。

若い役者陣で子供のいる役というのはそれなりに負荷がかかっているはずだけれど、「なんなく」とは言わないもののきちんとこなして、よし。子供の役の2人も、よし。

もしかすると、初物で、前日に土井・森下夫婦を見た後だから、それを引きずって余計に移入して良く見えたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。いずれにせよ、気になる。次も観る、と思う。

アイサツ ぼくのおうさま

26/10/2008 マチネ

現代口語演劇とか、リアルな台詞回しとか、そういう芝居はどうしても「身の回り3mのことしか言ってない、ひ弱な芝居じゃねーか」みたいな、割と 見当ハズレの批判に晒されることが多いと思うが、実際観てみたら、どう考えても想像力が身の回り3mから抜けてでいなくて、「あ、こんな芝居があるん じゃ、さっきの批判もウソじゃねーな」みたいなことを僕も思っちゃったりするような芝居も実は多い。まぁ、想像力の欠如した芝居は、現代口語だろうが新劇 だろうがアングラだろうが80年代風だろうが、ダメなものはダメなんである。当たり前だけど。

で、この、アイサツの「ぼくのおうさま」では、「身近な日常の些細な感情から離れれるだけ離れたリアル芝居」「スケールの大きな芝居をあんまり大 きい声を出さないで」とあって、そういう試みであれば行って観る価値は大いにある。上手く行っていようといまいと(乱暴な話)関係なくて、そういう試みの 働き方を観るのが面白い、はずだ。

で、観た感想はというと、なんだか、半径3mの芝居が、広い宇宙に散らばって、それらを繋ぐ糸が見えないくらいにお互いから離れてしまって、今度 は逆にそれを無理矢理繋ぐ意図に縛られて、瞬間瞬間の、それはそれで大事な半径3mの世界がなおざりになりかけたところで、舞台に放り出された、という印 象。チラシに書かれた問題意識がどういう経路を辿ってこの舞台に結びついたかを考えると、これ、結構、不本意な結果だったんじゃないかな?勝手ながら。

開始後55分で、それまで曲がりなりにも作り上げてきた世界をガラガラガッシャンと壊してしまって、これからどーするんだ、ひょっとしてこのまま 乱暴に突っ走るのか?と思わせたが、やっぱり、前半のシーンとシーンとの間の距離は、前半と後半の距離とあんまり変わらない。つまり、つながりのなさを無 理矢理つなげてる感じは変わらない。展開の仕方が苦しいので、登場人物を紋切り型に落とし込まないと上手く繋いで見せられなくなっている印象である。

まぁ、半径3mと大きな世界(大河)を繋ぐ方法は他にもあるので、今回が余り上手くいってないと小生1人が言ってみたところでなんということもあ るまい。観客にとっては舞台に乗ってるものが全てかもしれないけど、創り手にとっては問題意識のほうが実はずっと大事だったりするのだから。

2008年10月26日日曜日

三条会 班女・道成寺

25/10/2008 ソワレ

毎度毎度、三条会の何がそんなに面白く感じられるのかを、今度こそは掴んで帰るぞと思って出かける、今回もそうだったのだけれど、やはり、そのエンターテイニングなステージにやられっぱなしのまますごすごと引き揚げて来た。

班女と道成寺を1つの上演の中で組み合わせて、「狂女=清子」を軸に二つの世界をパタパタといったり来たりさせる趣向。アトリエに入るなりかかっ ている「天国への階段」ライブ版は、中学から高校に掛けて文字通り何百回も聞いた曲、むむむ、曲の最後が開演の合図になるのだなと合点がいく。

今回面白く感じたのは渡部友一郎の使い方で、この、いかんともしがたいまでにキャラ立ちした三条会の役者陣の中にあって、道成寺の主人役がなんとも俗で良い。サングラス+じょーろのエアギターのくだりも、実は、渡部氏のずれ方が一番ヘンで面白かった。

と、こうやって面白がっているうちに今日も上演が終わって、あー、とっても面白かった。でも、やっぱり、何が面白いのかは「とにかく見てみてください」というしかないのが歯がゆい。

2008年10月25日土曜日

元祖演劇乃素いき座 虫たちの日

25/10/2008 マチネ

「不条理ってなんだい?」
「ええっ?不条理」
「そう。不条理劇って」
「あぁ、そりゃ、辻褄が合わないとか、そういうことだろ」
「不合理ってのは?」
「それは違うな。不条理と不合理は違うよ」
「要は、話の筋が通ってないってことなんだろ?」

これ、今日、開幕前に実際に客席で流れていた会話です(筆力不足で申し訳ない。本当はもっと面白かった)。

で、いき座による別役不条理劇なのだが、これがすばらしい。
別役不条理劇というと、どうしても、受付とか、男1とか、家族(らしき人たち)とか出てくるのかなー、と思ってしまうけど、これは、夫婦2人でご飯食べる芝居。
趣としては、平田オリザの2人芝居のようで、一体何が不条理なのか、と思ってずっと観ていた。

2人でご飯を食べる時の、時々舌が鳴ったり口が鳴ったりするのが、なんとも心地よいのが不思議だ。前半の夫婦の会話のかみ合わなさの間合いがなんとも絶妙で、「不条理」というより「あまりのリアルさ」に、涙を出して笑った。

ストーリーを分かりやすく組み立てていくことで時空を織り上げる(というより、「間を持たせる」だな)芝居を蹴散らすかのように、この、かみ合わ ない台詞が場の空気を目の詰まった糸で織り上げていくプロセスに、いき座の凄みがある。そうやって織り上げられた世界に、ラスト近くの妻の台詞でサッと亀 裂が入るのが感じられて、最後の土井さんの台詞によって世界が切り裂かれ、観客は宙に放り出される。

あ、これは、不条理だ。

と、放り出された一瞬に、感じた。

こういうクオリティの高い芝居は、もっともっと多くの人々に見られてしかるべきだ。この芝居は金沢に持って行くなんて話も聞いたが、これや、「阿 房列車」等は、もっともっと、日本中の人に観てもらいたい作品です。いろんな街の小さな空間に、50-60人の老若男女が集まって、じっと息を潜めて、こ ういう芝居を、1時間1本勝負で観て、観終わった後、ふーっ、と1つ息をついた後に、美味しい食事でもして帰れば(あるいは、帰って夫婦一緒にご飯を食べ れば)、それが幸せってもんでしょう。

いいむろなおきマイムカンパニー from the notebook

24/10/2008 ソワレ

うわー、おもしろーい、と、素直に楽しめることの出来るパフォーマンス。
こういうのを、小学校高学年くらいの子供と一緒に見に来ると、きっと、とても舞台を観るのが好きな子供が増えるんだろう、と思う。

とはいっても、その裏にある技量はお子様向きどころかとっても高くて、むむむとうならせる。以下何行かネタバレですが、でも、それを期待して是非アゴラに足を運んでいただきたいという思いで、敢えて記します:

・ 1人ストロボ
・ 地面に倒れる時はお定まりの身体バウンド(それが上手い!)
・ 6人その場走り、でも、舞台上で回っちゃいます
・ 大人が本気でやる電車ごっこ、「崖落ち」ついてます
・ 金魚ばちのなかはどうなってるのかなー?

前半の50分間は息つく暇もなく過ぎて、ただただマイムの世界に引っ張られていく。

難を言えば、いいむろ氏の力量が突出しているからなのか、1対5のシーンが圧倒的に多くなってしまって、中盤以降、単調に感じられた。もう少し変 化のある構成であれば、もっともっと面白く、1時間半まで一気に見せられるのではないかという気がした。ラスト近くのノートをモチーフにしたシーンも、 ちょっと時間を引っ張り過ぎな気がする。

本をいじるシーンには、下町唐座の「さすらいのジェニー」、コンプリシテの "The Street of Crocodiles" もそうなのだけれど、僕はいつも心を動かされてしまって、今回も、実は、あそこで終わってくれたらなあ、という気がしていたのだ。

とはいえ、こんなカンパニーが関西にあるんだ、というのが分かってとても嬉しい。是非またアゴラで観たい。

2008年10月20日月曜日

地点 桜の園

19/10/2008 ソワレ

これまで一体何回桜の園を観たことがあったっけ、と思い返すと、実は片手で数えるほどでしかなくて、自分でも、まさかそんなことは無いだろう、と思うくらい、観ていない。それにしては、ロパーヒンやトロフィーモフやリューバやガーエフの姿を色々なバージョンで色々な場面で何度も観た気がするのは、それだけ何度も桜の園を読んでいて、その度に、脳内で役者達が勝手に動き回っているのだろう。

そういうフラッシュバックの有り様を、今回の三浦演出は、なんだか丁寧に拾い集めて提示してくれた気がするのだ。
愚痴のエピホードフや老いたフィールスをはじめとする面々は姿を見せず、舞台上には6人のみ。物語の順番もハナから無視されていて、なんと言ったって、ロパーヒンがバーンとベンチの背を叩いた瞬間のピアノの打鍵の音は、そのまま、桜の木が倒れる音である。

舞台上に敷き詰められた一円玉を踏み分けて堂々と歩くことを許された登場人物はロパーヒンただ1人で、小林洋平、その大役を見事に果たして凄みがある。ところで杉山よ、一体何円分両替したのか?

で、僕は、「ちっちゃなお百姓さん」ロパーヒンにも、理屈屋のガーエフへも、トロフィーモフへも、リューバにも、アーニャへもワーリャへも、すなわち、全ての登場人物に、移入できてしまうのだ。それは「桜の園」がそれを許すように出来ているのかもしれないし、三浦演出のせいかもしれない。どちらかは分からない。

でも、いずれにせよ、今回の桜の園では、僕が桜の園に触れた時に毎度毎度フラッシュバックする感覚を、少なくとも、邪魔することなく、1時間半、楽しめた。それはとても嬉しい。

渡辺源四郎商店 どんとゆけ

18/10/2008 ソワレ

畑澤直球芝居、今回は死刑制度を取り扱って、変に生真面目な説教芝居とお涙頂戴人情芝居の間のせま~い間隙を縫って85分、みっちり見せてくれた。

劇場に入るなり、舞台上には畳ならぬ畳の敷かれた部屋があって、周りには山下昇平得意の白塗り日常オブジェ攻撃。これだけ見てても充分楽しめる。
いざ芝居が始まると、ささきまことさんががっつり舞台のセンターを固め、あっちこっちに芝居を振り回す畑澤マジックの臍をびしっと押さえて存在感を示す。逆にささきさんがいるからこそ、畑澤氏は、こうした、右に左に振り回してこそ、の芝居を安心して創れるのだと思う。なべげんはまさに得がたいミッドフィールだーを得た。ささきさんはなべげんのパトリック・ヴィエイラです。

と、まあ、エラそうなことを書いてるけれど、実は、舞台奥の絵に、照明の当たり具合で浮き上がってくる人の絵2体、芝居が終わるまで、全く気がついていなかった。しかも、打ち上げの場で役者さんが説明してくれて、やっとこ分かるか分からないかで、従って、芝居の流れを変にきってまで照明を変えてた苦労は、僕には全く伝わってなかった、ということになる。本当に、スミマセンでした。

有体に言ってしまうと、
・ 許すこととは何か
・ 悔い改めることとは何か
・ 人の命は取り返しようがない、ということの意味は何か
って話なんだけど、それをきちんと舞台に載せるのは、難しい。それをど~んと直球で投げ込む、その後左右に変化球で散らしておいて決め球はストレートね、という畑澤芝居の配給、堪能した。

2008年10月19日日曜日

東京グローブ座 サド侯爵夫人

18/10/2008 マチネ

ここは緊迫感のあるセリフ!効果音「シャリーーーン!!」
ここは別れのシーン!効果音「教会の鐘の音」
ここでは観客、おののけ!!効果音「ドドーーーン!!」

加納さんと篠井さんを一緒に見れるのは、1989年のアリスの身毒丸以来(かな?)だと思って楽しみにしていたのだが、2人の掛け合い以外は上記の通り。やるせない。

「現在から見た60年代演劇」

17/10/2008

早稲田大学演劇博物館グローバルCOEの「国際研究集会・60年代演劇再考」の初日。平田オリザ・宮沢章夫・岡田利規の3人によるパネルディスカッション。

当代人気の劇作家3人を集めてのパネルディスカッションということで、会場は超満員、通路の補助席も埋まりきって、入りきれない方々はホールのモニターで見ていた由。

「現在から見た60年代演劇」なのだから、上記3人が定義する60年代演劇とは何か、それが彼らの劇作・演出にどう影響しているのかしていないのか、その3人の問題意識に共通するものはあるのかないのか、という話が進むことになるのかと思っていたら、さにあらず。

まずは司会者が、自分の思い込みによる紋切り型60年代演劇と紋切り型の「平田芝居」「宮沢芝居」「岡田芝居」を規定して、それらを結びつけ、そ れに対してそれぞれのパネリストがどう考えるかを聞いていくスタイルになった。これでは推進力をもったディスカッションは起こらないだろうし、第一、司会 者の思いには聴衆の105%は興味持ってないよ。なので、このパネルディスカッションは、その始まりから、上手く運ばないことが既に約束されていた。

発言がもっともアグレッシブだったのは平田で、「いかに青年団とアゴラは戦ってきたのか」「なぜ平田は政治や地方公共団体(=体制側のようなも の)に近付く戦術をとるのか」「10年後、20年後は、役者は全員ロボットでよい」等々、ふかすふかす。岡田氏ドン引き、政治には興味ないっすから、みた いな砦に立てこもってしまった。その中で、おそらく3人の中で、最も、全体の会の進行に気を配っていたであろうと思われる宮沢氏が色々軌道修正に繋がりえ る牽制球投げるのだが、これもワークしなかった。まぁ、どれもこれも、パネリストの責任では全くないのだけれど。

話が前に進まなかったのは、議論の立て付けを誤っていたからなので、それについて3人を責めることはできない。むしろ、三者三様の異なった態度を見ることができたこと自体をエンターテイニングだったと考えるべきだろう。

まぁ、しかし、平田が何を言うにせよ、根底にあるのは、
「オレの芝居をもっと沢山の人に観てほしい」
というただ1つの欲望に尽きるのであって、それ以上でも以下でもない。社会への働きかけもヨーロッパばなしもロボットも政治も助成金も、そんなも のは、上記の欲望が満たされる限りにおいて、二の次・三の次だ。そこは岡田氏が言う「90分-120分の時空を創り上げて、観客にそこで過ごしてもらうこ とにしか興味がない」態度と100%同義だと、僕は信じる。

だから、「芝居が社会に対してどういうインパクトを持ちうるのか」とか、「芝居を道具としてたたかうのだ」とかいうアジテーションが入り込む余地は、本当は、無いはずなのだ。そのことは、どの程度聴衆に伝わっていたのだろうか?

2008年10月14日火曜日

映画 東京人間喜劇

13/10/2008

青年団の役者陣を贅沢に使って、しかも出来上がった映像はきっかり深田晃司の眼で見た世界。「深田氏の眼には、青年団の役者はこんな風に見えていたのか!!」という驚きがとても新鮮だった。

芝居で観ている時にはどうしても奥行きがある三次元の空間で役者が動いていることに無自覚なのだけれど、映画のスクリーンの二次元に役者が映され ると、そこに、監督の目で切り取られ配置された「カタチ」と「色」の概念が生まれて、うなじや背中や全体のシルエットやおでこどもが、ニットやマフラーに いろどられてスクリーンの上を滑っていく。映画を見つけた人にはごくごく当たり前のことなのかもしれないが、少なくとも僕にはそれが非常に新鮮だった。

岩下徹さんのパフォーマンスは「晩春」の能舞台を思わせたし、志賀廣太郎の医師は「鉄男」の六平さんを思い出させる。佐藤誠・大竹直・酒井和哉の3人のシーンは、ここでは敢えて言わないが、出色の出来。

「全体に生きる個の孤独と、そこにある『救済の可能性』」と、チラシにはあるが、まさに、救済の可能性について思いをめぐらせるきっかけとなりう る映画で、そこには何の説教臭さもあきらめもなく、ひとつの世界が提示されている。「人間喜劇」とはよくぞ名づけたものだ。満喫した。

dracom祭典2008 ハカラズモ

13/10/2008 マチネ

役者が出てくるとPAから台詞が流れてきて、それに合わせて役者が当てぶりするかと思いきや、台詞と動きがシンクロしていない!
台詞に若干遅れて動きが出るのか、先行して動きが出るのか、読めない。もしかするとまったくリンクさせてないのかと思いきや、シンクロする瞬間が出てきたりして、もてあそばれ感あり。

後で当日パンフ読み返すと、確かに、前作「もれうた」でも「録音された台詞と俳優の演技する身体がずれる」ということをやっていて、そうか、それが作・演出にとって面白いことなんだな、と思った。

それと、「コート」という場を巡って交わされる様々な会話の断片が組み合わさって、何かひとつの世界が織り上がるのかと思いきや、最後まで端切れ は端切れのまま拡散して、統一感のない感じ。そもそも白線で囲まれた制度としての「場」が既にある以上、そこに物語を持ち込むまでもなく、断片がコートを 通り過ぎる瞬間を定点観測することで世界を成立させよう、ってか?

うーん、そういう「ズレ」の感覚とか、あるいは、「振り付け」が実は台詞と連動していないこと、というのはわからいでもないが、それと断片化が合わさると、ちょっと、眠い。
どうしても舞台上の現象を一定の(自分なりの)コンテクストに当てはめて咀嚼しようとする限り、それが不可能に近付けば近付くほど、眠くなる。でも、まあ、最初から70分の公演だと分かっているので、落ちずに観ていたのだけれど。

紋切り型の「お芝居」からどこまでズレを生じさせたら、「刺激」として楽しむことが出来、どこから先に行ってしまうと「コンテクストに嵌められな いもの」として拒絶してしまうのか、という線を自覚させられたみたいで、ちょっと後味の悪い芝居だった。が、次回同じテを使ってきたら、もう少し突っ込ん で観る覚悟は出来ているつもり。

吾妻橋ダンスクロッシング

10/10/2008 ソワレ

40過ぎのサラリーマン、仕事帰りにアサヒアートスクエアに立ち寄って、若くてカッコいい客の揃った会場で缶ビールを開けると、若くて美しい女性から声を掛けられた。おやま、これも吾妻橋ダンスクロッシングのご利益か、ムリして来て本当に良かったと思ったら、なんのことはない友人の彼女で、遠慮のない40男は、その友人の不在にかこつけて隣に掛けさせてもらう。ビールも進むが舞台も進む。

快快の「ファイファイマーチとpeter-pan」は相変わらず切れ良し見栄え良しセンス良し。これと鉄割アルバトロスケットの戌井・村上両氏+康本雅子さんの「五輪さん」が観られただけでジーンときて、おじさんはもう言うことなし。

それに加えてLine京急の「これでもか」な技量。ついていけないことの心地よさ。

Miles Runs the Voodoo Down まるまる一曲に合わせて踊りきったKentaro Dx!!の軽やかさ、愛らしさ!これは全く思いもよらなかった収穫で、マイルスでここまで無理なく踊っちゃうなんて、またもover40枠には堪えられない舞台。

こういう寄席スタイルの公演は、最近の、ジャンルで固められたくないパフォーマー達を集めるのにはとても向いている。また、ジャンルで固まっている人たちであっても、その組み合わせ次第で(必ずしも全部が当たりでなくても)飽きずに観せられる。これは楽しい。

幸せな気分で会場を出る間際、快快野上女史に鉢合わせてご挨拶、握手、これもまた幸せの素、40男の幸せなんてこんなもの。で、友人の彼女と連れ立って下北沢で一杯やるのが幸せのピーク。もちろん友人(男)も合流して3人飲みですが。これもまたダンスクロッシングのご利益ということで。

2008年10月7日火曜日

鵺の会 タンタジルの死

06/10/2008 ソワレ

「額縁劇」というアイディア自体はけして悪くなくて、実際、幕が開いて最初に役者が出てきた瞬間、「メークからしてまるっきり絵画の登場人物なりきりですか!」と驚いたのだ。

でも、美術館に行って一枚の絵を1時間半見ることはないだろう。たとえその額縁の中の絵がゆっくりと変化するからといって、やっぱり、15分以上1つの額縁の中を見ている事はないだろう。

だから、額縁を1時間半観させるのは、はなから無理だったのではないか。と、途中、何の臆面もなく眠ってしまった言い訳ではなく、思う。奥行き 30cmの舞台ですれ違う時の、あのなんとも二次元劇団エジプトな動きはとても滑稽で面白いのに、次に役者がすれ違うまでに20分も待たなきゃならないの は苦しい。

「タンタジルの死」の戯曲そのものもそもそも一本調子で、90分観続けるのもつらかった。

前回アゴラで観た「小平次」は面白かったのだけれど、鵺の会、次はどう出る?

Radiohead さいたまアリーナ

05/10/2008

Radiohead、ライブバンドだったんだ。ギターバンドだったんだ。
トム・ヨーク、声、通るんだ。

と、そういう感想が真っ先に来る。レコードでしか聞いたことなかったために、このバンドのことを思いっきり誤解していた。失礼しました。
しかも、ギターバンド丸出しのPablo Honeyの曲は一曲もやらなかった(気がする)し。

素晴しいライブで、Just、Everything in its Right Place、My Iron Lung 等の昔の曲がかかったときには振り切れそうになった。スタンディングだったらフューズが飛んでいたのではないかと思われる。

イギリスのティーンエイジャーには「リズムなしメロディーなしコードなし」と揶揄されたりもするRadioheadだが、いやいや、このバンド、すごいよ。

志賀さん、初主演ですか。

これは、ちょっと、見ねばなるまい。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20081006et08.htm

2008年10月5日日曜日

鳥の演劇祭シンポジウム 地方の現場から演劇の未来を考える

28/09/2008 夜

鳥の劇場、鳥の演劇祭の最終日前夜は、鳥取・東京・富山からパネリストを迎えたシンポジウム。

「演劇の公共性」とは何かを軸に話が進んだけれども、パネリスト達、「自分たちが考える演劇の公共性の定義」については語れても、「観客にとって芝居の公共性とは何か」に言及する、あるいは、そこに想像力を働かせた発言が極々限られていたのが非常に残念だった。

一観客として言えば、芝居の公共性とは、
・ 鳥取に芝居を観に行くのに、1人で行かないこと。ま、別に1人で行ってもよいけど、観終わったらそれについて思いを語り合える人がそばにいること。
・ もっと踏み込んで、他人でも良い。観終わった後、その芝居について語り合える場があること。
・ それは、鹿野の町で言えば、鹿野の人たちが、「ゆうべの鳥の劇場の芝居は、あれはさあ・・・」と語り合えること。
・ 鹿野まで芝居を観に来た僕に、「ようこそ。芝居を楽しんでいってくださいね」と、町の人がいってくれること。
そういう体験のこと、あるいは、そういう体験から広がって得られる何かではないか。そこからしか始まらないんじゃないか。と考える。

鹿野の町を1人で歩いていたら、すれ違う人に「こんにちは」と声を掛けられて、それだけでもう、僕は、鹿野で「公共性」に触れた、と思ったわけで ある。声すら掛けられないAlienな存在ではなくて、「日頃町では見ないけれど、おそらく他所から芝居を観に来た人」というポジション・コンテクスト を、すれ違う一瞬で組み立てる。そういう、コミュニティのコミュニケーションのコンテクストに組み込まれることが公共性であるとすれば、鹿野には、芝居の 公共性であっても、どんどん広がる余地が、本当に豊かにあるのだと思う。
東京では、公共性どころか、人間が機械人でないことを疎明することにすら汲々としているのだから。

「料理昇降機」に出てくる二人は、それぞれ、アストン・ビラとトットナム・ホットスパーというフットボールクラブのファンなのだけれど、彼ら、別 に、フットボールが無茶苦茶上手いわけでもないだろうし、選手が知り合いな訳でもない。でもやっぱり試合結果に対してアツくなるのは、それは、フットボー ルが、イギリスで、「公共性」を有しているからです。公共性を持つスポーツだから、大資本が入ってくることへの警戒感・嫌悪感を持つし、よそ者選手が入っ てきてもその公共の場に受け入れられる素地があるし、どこのクラブをサポートしているかで、何となく出自とか性格とか、そういうところまで思いが語れる。 イギリスのフットボールには思想がなくとも公共性がついてきた。日本の演劇、どうだ?鳥取の演劇、どうだ?

だからこそ、シンポジウムで語られた内容にはがっかりしたし、逆に、このシンポジウムが開かれるに至った積み重ねや、鹿野の町の文明の開かれ方には、本当に感動したんです。

パラドックス定数 三億円事件

03/10/2008 ソワレ

「実際に起きた事件を元に虚構を組みなおすハードボイルド男芝居」の名を借りた野木萌葱の腐女子芝居、今回は三億円事件時効直前の刑事達のドラマ。

はい、もうこれだけで一気に妄想広がっちゃうひと、いたでしょう?そういう期待を裏切らない、全員メガネ・ダークスーツ仕立て。役者陣、あと20歳年取ったらオノ・ナツメの世界。

とはいうものの、正直なところを白状すると、観る直前になって、「また同じ趣向の芝居を1時間半観ちまうのか」という気分にはなった。野木氏の世界がなまじ閉じた格好で完結しているがために、「次はどうかな?」のワクワク感に欠けるのは、仕方がないのであろうか?

しょっぱな諌山氏の力の入った台詞は先行き心配になるが、時間の進行とともにきちんと台詞の力の入り具合にもオチがついて、各役者とも出すぎず引っ込みすぎず、野木ワールドを織り上げて、1時間40分飽きずに一気に見切った。やっぱり、何のかんの言って、面白い。

終演後、マイミク非夏氏、劇作家M女史と飲み。男2人がかりでMさんに、いかにパラドックス定数が腐女子芝居であるかを、「BL」の定義から説き起こして説明。その後、パラドックス定数が芝居である必要があるのか、という話に及んで、小生、持論の「高村薫はハードボイルドの名を借りたやをいである」論を繰り出すも、不発。その他色々話して、結局朝4時半。それだけ話せるネタを提供してくれたパラドックス定数にとりあえず感謝です。

2008年10月1日水曜日

瀕死の王

28/09/2008 マチネ

初日。
退屈な芝居。
そもそもの戯曲が、ラストの死に向けて緩慢に1次元の時間を流しながら、間に思い出したように茶々を入れてみせるつくりだから、というのに加え、
「人々の姿をユーモラスに描きつつ、人間の悲劇性や存在の意味を鮮やかに劇化」(チラシより引用)しちゃってるもんだから、
説明したい役者は思いっきり説明に走っちゃうし、そこから脱したい役者もトータルの紋切り型の中に絡めとられちゃうし、観ていて何も掻き立てられない。

40分経過の頃から、うとうとした。55分くらいになって、これではけなすことも出来ないと思い、思いっきり起きてみた。90分経過して、やはりどうにも眠くなった。我慢はしましたが。

小田島雄志大先生が元気に観にいらしている姿をお見かけできたのは収穫でした。

青年団 火宅か修羅か(鳥の劇場)

27/09/2008 ソワレ

劇場前で青年団の連中に会って、
「お、追っかけですか? こんなところまで?」
なんて言われたが、それは誤解。僕は、「鳥の劇場が一目見たくて」鹿野に来たのです。

マチネのスタジオと打って変わって、劇場の方は学校の体育館をホールに改造。にしすがもの創造舎や精華小劇場も同様に体育館なんだけれど、今まで のところ、鳥の劇場がベストと言い切る。体育館を改造した建物につきものの反響を如何に殺すかとか、どうやったら公民館ぽくならないかとか、すごく大事な ことに気を遣っている。客席の組み方もあわせて、一見すると吉祥寺シアターと見間違うほどの出来映えは素晴しい。難点は、やっぱり専門のホールと較べると 貧弱なバトン周りか。でも、とってもいい感じ。

劇場に入ると、平田オリザが客入れをしている。彼の客入れを見るなんて、20年ぶりに近いのではないか、と、ちょっと嬉しかった。

約150席がほぼ一杯になって、年齢層も幅広く、その中で演じられた火宅か修羅かは、やはり素晴しい出来映え。しかも客席も素晴しくて、終演後、 役者が、「観客があったかかった」と言っていたが、まさにその通り。役者の一挙手一投足に対する集中の仕方が、なんだか、張り詰めたとは言わない、でも けっして途切れない、そういう、幸せな感じだったのである。

青年団のように、東京では、「ちょっと高踏派」みたいに見られている劇団が、こういうあたたかでしっかりした観客の眼に晒されるのはとても良いことだと思う。鳥の劇場、観客を育てるという意味でも良い仕事してるんじゃないだろうか。

芝居のことについて一言いうと、前半の高橋縁「死ぬのがバカらしくなっちゃう」の台詞は、本当に美しい。この日このとき、この役者からじゃなきゃ聞けないんじゃないか、っていうくらい、この日は、彼女の台詞に、打たれた。

2008年9月29日月曜日

鳥の劇場 料理昇降機

27/09/2008 マチネ

鳥の劇場、初の訪問。
鳥取空港からタクシーで20分。らしい。僕は空港から「鳥取大学前」駅まで徒歩20分。単線2両の汽車(ディーゼルエンジンの音がした)で3駅15分の浜村駅。送迎マイクロバスで15分。
すごくいい感じの小さな城下町の街並み、いい感じの劇場。近くに温泉も沸いてる。

幼稚園のお遊戯場を改造したスタジオ、まさに小劇場で、広さもタッパも丁度良い。ちょっと間口が広いけれど、80人収容の立派なスタジオである。近隣から車でいらしてる方も多くて、客層も幅広い。東京の「その筋の人率の高い」劇場に較べ、幸せ度の高い空間。

さて、ピンター27歳の時に書かれた「料理昇降機」、ボスの指示を待つ二人の恵まれない殺し屋を鳥の劇場主宰中島氏の演出で。

悪くない。冒頭、2人が出てくるときの、何ともキャラクターを出してるのか出してないのか分からない、細かな動きは、特に、良い。

が、この間静岡で観た、まさに伸びやかで屈託のない幸せな「剣を鍛える話」と較べると、屈託に満ちた、そして、解釈の加わった、演出だったと思う。それは、戯曲の可能性を狭めていたと思う。2人の殺し屋とボスとの関係を「上下の階層」に還元してしまうのは、物語としては分かり易くなり、近年の「グローバル化の弊害」「格差の固定化」とのリンクをつけやすくすることは出来ても、逆に、観客の考える余地、役者の動く余地も狭めていないか。

その点、この間DVDで観たIn Bruge は、ボスと2人の殺し屋の関係に(必ずしも明示的でない)ひねりを入れて、表面上同じテーマであってもより上手だった気がする。

芝居には注文をつけるが、鹿野にいて、そこから世界を観た感覚が舞台に投影されているならそれも良し。東京の小さな小屋で観るのとは明らかに違う味わいがあって、それは黒磯のACOAのアトリエでも感じたことなのだが、こういうところにくると、「場」としての演劇を強く感じざるをえない。それになんだか、1人で観に来ていることが、とてつもなくさびしいことと感じられる。今度は嫁さんも連れてきたい、来れたらいいな。本気で思ったことである。

テアトロフィーア Here We Are

26/09/2008 ソワレ

何と開演時間を間違えて、開演5分後に堂々とアゴラに乗り込み、3階ギャラリーへと案内される。とほほ。なので、開演の仕方、客のつかみ方についてはちょっと分かりません。

で、ヨーロッパのこのテの出し物を見てると、どうしても、「ゆるいな」とか「ベタだな」とか思ってしまう。特に較べてしまうのがわが日本が世界に誇るサイレントクラウン2人組みの「が~まるちょば」。が~まるちょばの技のキレや、構成に支えられたスピード感、客いじりの巧みさ、密度の濃さと較べると、テアトロフィーアの出し物は、ペースとろい、ネタはエッジ利いてない、アッと驚く技もない。うーん。これで、いいのか?

きっと、これでいいのだ。
けっしてバカにしたり見下げたりしているわけではないのだけれど、こういう出し物って、しっかり楽しむ人がいるのは間違いなくて、観に行った人々が「あ~楽しかったね」というであろう次元において実はが~まるちょばと等価だったりする。僕は圧倒的にが~まるちょばの方が好きだけれど、ぼくがが~まるちょばを推す理由の中には、実はちょっと、「コーヒー道」とか「芝居道」みたいな「道」要素が入ってて、後ろめたい気もするのだ。

たとえば、が~まるちょばのネタに、
「ボクサーがノックダウンを食う瞬間、リングの上で何度かはねるのをスローモーションでやる」
ってのがあるけど、イギリスでは「道」に走り過ぎた芸なためか受けていなかった(うちの家族にはもちろん受けた)。テアトロフィーアの連中は、そういう「高度な」芸をしなくとも客をひきつけるのに充分なポイントがあるのを知ってたり、適度に手を抜いたり、すべっても気にしない、みたいなところがある。締めるとこ締めればいいんでしょ、そういう図太さを感じざるをえないのです。

あ、そういえば、同じ感覚を、SPACでブラジルの劇団が「かもめ」上演していた時にも感じたんだ。コントロールされてない緩さというか、遊びというか、余裕というか。なんなんだろう。

水戸芸術館 Julian Opie 展

23/09/2008

Julian Opieというのは、Blurのベストのアルバムジャケットの似顔絵の人。逆に言えば、僕はそれ以上のことは知らない。
Blurのアルバムジャケットはすごく好きで、じゃあ、このOpieという人はどんなコンセプトで似顔絵(というと山藤章二さんみたいだが、ちょっと格好良く言えば、ポートレート)を書いてるんだろーなー、という興味で見に行った。もしかするととんでもないものが見られるかも知れないという期待もあって。

で、見て回った印象は、「クールでロジカルでイギリス人ぽい」。でも、とんでもないとまではいかなかった。ポートレートの点数はそれほど多くなくて、逆に、真円を頭にした全身像とかホログラムとか、浮世絵キッチュの日本八景とか、そういう広がりのある展示でした。

興味深かったのは、線の使い方や構図のヒントにマンガや浮世絵があることで、Opie氏自身は全然それを隠してなんかいないのに、自分がそれにずっと気がついてこなかったこと。そのセンスを「イギリス人ぽい」と思うオレは一体何なんだ。ということである。

あとは、執拗なまでの「足の省略」でしょうか。先端恐怖症と似た概念で、足恐怖症、というのがあるような気もしてくる。足首がくにっと動くのがいやなんでしょうか?

でも、やはり背後にすごくロジカルな彼自身の興味の展開がありそうなところに、一種僕から感じる彼への興味の限界は感じた。彼自身の興味の展開については、水戸芸術館が用意したA4、800ページの大カタログを買うと良いと思います。僕は買わなかったけど。

2008年9月24日水曜日

la compagnie An 鳥の眼

23/09/2008 ソワレ

「いのち」のやり取りを巡る色んなイメージを、核になるストーリー一本決めてその周りに織り込んでいこうという趣旨はとっても分かりやすく伝わってくるのだけれど、いかんせんその核となるべき物語が紋切り型では、出来上がった芝居はどうしても力強さを欠く。

演出長谷基弘氏、一本調子な芝居の展開を何とか救うべく、桃唄でも採用している「舞台上、私聴く人、君話す人」の手法をここでも投入するが、役者に意図が伝わっていないのか戯曲の構造がそれを受け付けないのか、何だか中途半端で機能せず。なんだか「もったいない」感じの舞台だった。

Fabrica [11.0.1]

23/09/2008 マチネ

千穐楽。
客席(最前列下手)に入って舞台を見渡せば、パンチに弧を描いた切れ目発見。これはと上手を見れば、おお、これは懐かしき回り舞台。客入れ中にパ ネルの裏側と楽屋を見せて準備に余念のない役者陣を見せるとは、これはいわゆる舞台裏事情モノに違いない、さていつどの場面でクルリと舞台を回すかな。

と思ったら、幕前の暗転でいきなりクルリ。15分してまたクルリ。お、お、お、回る回る、惜しげもなく回る。下手側も蝶番を軸にパタンパタンとパ ネルが開閉して舞台が変わる。この趣向も面白い。舞台美術の杉山至曰く、「本広さんは動くのが好きだから」。杉山よ、人のせいにしてはいけない。君が動く 舞台大好きなのは20年前から良く分かっているぞ。

下手からだと、パネルのスキマから黒子役の役者の手がはるか上手に見通せて、なんとも面白い。そうした効果を下支えしてか、辰巳・白神コンビは良く映えた。白神未央、この舞台の力抜いた演技は出色。彼女が出てくると何だかほっとした。

肝心の芝居のほうは、舞台裏事情に男女の事情、芝居人エゴや演劇にかける情熱がとる形を描いて、近年の高井浩子のアベレージに届かぬ凡庸な戯曲。 設定の辻褄あわせとお客サービスが先に立ってまとめ切れなかった印象。「現代口語演劇くん」の設定は結構面白いと思うんだけど、誰かに遠慮してないかい? どうせやるならもっともっと現代口語演劇くんらしく「リアルに」やっちゃっても良かったんじゃないの?ほかならぬ高井・本広コンビなんだから。

2008年9月23日火曜日

東京デスロック 演劇LOVE Castaya

14/09/2008 ソワレ

作・演出のEnrique Castaya 氏のたっての希望で、ネタバレは禁止ということだったのだけれど、9月23日千秋楽につき、もう、そろそろネタバレしても良いでしょう。

<以下、全てネタバレです。再演を期待する方は読まないことをお奨めします。>



僕はてっきり多田淳之介自作・自演か、と思っていたので、出だし、知らない女優さんが出てきたので驚いた。

で、一言も発せず、動きもせずに何分か経過したところで、僕は、
「頼む。このまま、芝居が終わるまで動かず、台詞も発しないでくれ」
と心底願ったのである。そして、その願いどおり、45分間、その状態が続いたのである。

先日見た「朱鷺色卵」の公演でも、開演後何分か二人のパフォーマーが動かなかったのだけれど、そしてそのときも「このまま動かないでくれ」と願ったのだけれど、残念ながらその願いはその後2分ぐらいで打ち砕かれた経験をしていて、小生的には「夢よもう一度」がかなった訳だ。

それにしても、この女優、色々と表情を動かしているけれど、何を考えているのだろう?以下、ほぼ小生が考えた順番に
① 昔の感情を拾って泣いたり笑ったりするんじゃ、まるっきりメソッド演技だろう。まさかそんなことはしてないだろうな。
② もしかしたら、何分何秒後にどんな表情をするか、すべて細かく演出をつけているということも考えられる。多田淳之介だからな。
③ いや、キスフェスの趣旨からいけば、「スペイン」「スイス」ときて、これはベルギーか。ひょっとして、「フランダースの犬」のテレビ放映全シリーズを、最初から最後までトレースして、最後、少年が昇天するところで大泣きして終わるつもりか?
④ いやいや、これは、実は、「朝礼でおしっこを我慢している学級委員の女の子」なのかもしれない。だから時折、客席側、上目遣いに視線をやるのは、あれは、「早く校長先生の講話が終わらないか」と待っている目なのだ。

まじめに舞台を見ているふりして、実は僕が考えていることなんてその程度なのだ。ただし、そうやって、いろんなことを考えるきっかけを与えられていることの喜びは大きい。僕が個人で抱える妄想力なんて微々たるものなんだけど、そこに刺戟を与えて多少なりとも地表から離れようとする、その手助けをしてくれる舞台を、僕は毎回待っているのだ。CASTAYAは、それをしてくれる舞台だった。

だから、この芝居は、実は「一人の観客の想像力」の環の中でとっても閉じている芝居であるといって良い。だから、多田氏も、「これは、Castaya氏に作ってほしいと思うような芝居である」と言っていて、つまり、「作り手としての欲望」よりも「観客としての欲望」に極端に引っ張られた作品であるといえるのではないか。これを面白がる行為、あるいは、面白いだろうと思ってこういうことをやってしまう行為は、怒りを買うと言うよりも、「マスターベーションの共有」と取られてしまう虞はたぶんにあると思う。自分がこの芝居を観て気持ちよかった、その気持ちよさは、何だかマスターベーションの気持ちよさに近いかもしれない、という罪の意識もあるのだ。だって、この芝居を良いと思ったところで、その「良さ」はかなり自閉した、他者と共有できないものである可能性はきわめて高いからである。

舞台に乗っているものがただの「オカズ」じゃ、作り手としてはやるせないはずだが、そこらへん、本当のところはどうなのだろうか?自分にとって「芝居が面白い」とはどういうことなのか、それを改めて色々と考えてしまった。

dumb type "S/N"

20/09/2008 16:00

打ちのめされた。
最高に力強いステートメント。
でも、「力強い」というのは、僕たちが通常耳にするような、ジェンダーとか、国籍とか、セクシュアリティとか、差別とか、そういう「政治的」イシューを取り扱っているからでは必ずしもない。

僕が1時間半追い続けたのは、そういう紋切り型な「政治的な」言葉や身振りから自分をどんどん切り離したい、そこに何があるのかを見極めたい、でも、最後ギリギリのところでは「あなた」と「わたし」がいて、それぞれが切り離しえないコンテクストをしょってこれまでの時間を積み重ねてきた以上、紋切り型なコンテクストから100%逃れて二者が対峙することは不可能である、という絶望への道と、逆に、そのギリギリのところで、皆既日食ギリギリの場面でダイアモンドリングが一瞬きらめくときのようなカタルシス、救いの感覚は不可能ではないというその一点への希望。

それらのダイナミクスを、突き詰めることはできないにせよ「最高に力強いステートメント」と僕は呼びたい。

後半のアレックスによる台詞の繰り返し:「あなたが何を言っているかは分からない。でも、あなたが何が言いたいかはよく分かる」
は出色。「何が言いたいか」なんて結局のところ100%分かる訳はないのに、そう言い切る事。「耳が不自由なので一語一語は分からないけれど言いたいことは目を読めば分かる」みたいな紋切り型でセンチなステートメントではなくて、そう言い切ってしまうこと。その乱暴な台詞の向こうにしか、所詮100%は分かり合えない二者の間の希望が存在している。ように僕には思えた。

こんな素晴らしいフィルムを無料で一般公開したICCに感謝。そしてこの上映の存在を教えてくれた方々、皆様に感謝、感謝。

2008年9月22日月曜日

4×1h project Play#0

21/09/2008 ソワレ

中屋敷法仁と篠田千明の短い戯曲を1時間半で。

中屋敷作「ひとさまにみせるもんじゃない」では、中屋敷戯曲を中屋敷氏以外の演出家が演出する際の難しさについて考えた。
演出の「趣向」はあるが、その趣向は一本調子で、「役者が動いている」感よりも「ほら、役者が動いて見せてるのよ」感の方が強く、興醒め。どうせ やるなら東京デスロックくらいガチンコに近づけて見せないと嘘っぽさが先行する。所詮ウソンコなんだから、それを踏まえて、どう見せるかを考えるかが勝負 だと思うのだが。
女子高生を演じる男優面白いのに、泣きが入って減点50点。

篠田作「いそうろう」。良い戯曲。舞台中央の演出の趣向も非常に良い。
ただし、何の意図もなく、ただただ雰囲気を醸し出そうとしてるんじゃないかと疑わせるような役者の動き(新劇臭い or 動物園のシロクマ、とでも名づけられそうな歩み)が、それらを打ち消して興醒め。

そうやって通してみていると、どうも、僕は、全篇に漂う「雰囲気先行」な演出が気に喰わないのではないかという気がしてきた。そう思うと、客入れ時の役者のアップ公開が、やはり「雰囲気先行」で「意図・フレーム」なしなんじゃないかという気がしてきた。

でも、篠田戯曲はよかった。是非、この戯曲は、女の子2人ではなくて、青年団大塚洋×快快山崎皓司 の2人芝居で観たい。こたつの置いてある舞台で観たい。

中野成樹+オオカミ男、の短々とした仕事その4 ちょっとした夢のはなし

21/09/2008 マチネ 

正直に言います。
・ 芝居が進む間、なんだか、どってことない気がしていた。
・ 冒頭、「あれ、柴君の趣向のパクリかな?」と思った。
・ 途中、「もしかしたら長女はもう死んでいるんじゃないか?」とか、「一体誰の視線でこのハナシを追っていったら、こういう、のっぺりした風景が浮かび上がるのだ?」とか、ぼんやり思っていた。
・ その間、中野氏による和文タイトルを忘れて、原題の "The Happy Journey to Trenton and Camden" としか認識していなかった。
・ 最後、後ろの壁の文字と、和文タイトルを目にした瞬間に、背筋がゾゾゾーッと来た。
やられた。何の誇張もない。僕に起きたことそのまんまです。

といったことを振り返って、そして、考えてみると、そうした、ちょっとした夢みたいなことが、40分に収まってしまうようなところに僕らはいて、それは、現在かも過去かも未来かもしれない。この、時制のないのっぺり感の中に一定の感覚だけが漂って切ない。

その感覚が、同じ戯曲をもとにした短編映画の「日本を舞台にした、The Happy Journey to Boso Hanto」でもまた変な浮き上がり方をして、それも面白かった。

中野氏はワイルダー戯曲を誉めて誉めて誉めまくっていたけれども、僕は勉強不足でワイルダー作品読んだことがない。ただ、この芝居と中野×柴のアフタートーク聴いて、読みたくなった。

2008年9月21日日曜日

テアトル・デュ・ムーランヌフ ジャックとその主人

20/09/2008 マチネ

観終わった後に最初に思ったのは、
「ジャックとその主人、は、舞台に載せたくなってしまうテクストなんだな」
ということだった。

先週東京デスロックの「ジャックとその主人」を観た後、急遽図書館で2006年新訳を借りてきて読んで今回の公演に備えたのだが、そもそも話があっち行ったりこっち行ったりするのが売りの小説ということはよーく分かった。だから、
「読んでいる時にどこが印象に残ったか=舞台に載せるとすれば、どこを切り取って、どんな風に載せたいか」
について、構成・演出担当の趣味が露骨に出てくる。その違いが面白かった。ミラン・クンデラも同じ小説を戯曲化しているそうなので、そのうち読んでみるかも。

多田演出では、「天上に書いてあること」の一点をまず決めて、そこから点と点で構成を繋げていたのに対し、ムーランヌフの構成は、まず全体の枠組 みを決めて、そこにざっくりと各エピソードをどう嵌め込んでいこうかと考えた、そういう、アプローチの違いがあったと思う。なので、出来上がったものもか なり違う。

前半が終わった時には、正直、デスロック版のほうが面白いのではないかとも思ったのだけれど、前後半通してみて、後付けではあってもアプローチの 違いを理解できた時点で、軍配上がらず。つい最近読んだテクストと公演字幕テクストの違いとか、どこを端折ってるとか、自分が強い印象を受けたテクストの 部分と演出の受け取り方が違うな、とか、いろんなことが「違っている」、というのがポジティブに面白かった。

こういう、ある程度質の高い公演は、もう少し大きな小屋で(例えば吉祥寺シアター)お客さんももっと入れてやっても良いのかな、とも思ったのだ が、彼らのエーグルの本拠地はアゴラよりもちょっと狭いくらいの小屋らしい。うーん。こういうのをそんな舞台が近い小屋で観られるとは、スイスの村も侮り がたい。

あ、そうそう。当日パンフの和訳、わたしがやってます。原作読まず、稽古も見ずに書いて果たしてどうよ、ということでとても不安だったのですが、 まぁ、英文を辿ってれば、結構当たらずといえども遠からず、なもんだなぁ、と。えっと、当パンの日本語訳に不満のある方、文責私ですので、あしからず。

2008年9月16日火曜日

鉄割アルバトロスケット レッツティーチャー

15/09/2008 ソワレ

観終わった感想は、正直に
「あー、鉄割のセンスをもってしても、難しいことってあるんだ」

舞台を教壇に、観客を生徒に見立ててHR+6時間目まで。これをただのStand-up Comedyにせず、なおかつドリフにせず、鉄割の舞台のテンションを持ち込んでどこまでやれるのか、って、実は難易度無茶苦茶高い。

出だし、犬井先生のしゃべりはさすがだけれども、実は、舞台の上で(陳腐な言い方で申し訳ないが)絶対に聞き心地の良い和音を作らない個性のぶつ かり合いが鉄割の魅力だとすると、教壇の上に先生1人はなかなか辛い、とすぐに思い始めた。そこでいじめられっこ生徒中島君の登場となるのだけれど、そこ に話が振られる度に「安心して」観てしまえる小生のプチブル観客ぶりは我ながら気に障る。白衣先生のツボに安心してはまる・笑ってしまう、そういう自分に も困る。

だから、「寄席に出てきてさーっと話したいこと自分のペースで話して引っ込んじゃう1人芸の人」の感覚で出てきてはけた、歴史の寿先生の間の持たせ方は、実は新鮮で、「レッツティーチャー」企画ならでは、という気もしたのだ。

2005年のエジンバラで観たクリス・アディソンの"Atomicity"も、同じく元素周期表についての講義の形態をとったStand-up だったのだけれど、正直、アディソンの方がネタの振り方、構成、持っていき方、格段に上だったと思う。やはりイギリス人だけあって、一人で喋り通すことに かけては、放っておくと日本人より勝ってるんじゃないか、と思ったりした次第。

ピチチ5 全身ちぎれ節

15/09/2008 マチネ

ピチチ5、初見。

まずは客入れ。ほしのホールに来て「前のほうが見やすくなっております」は、ウソでしょう、やっぱり。こんなに間口の広い劇場で。間口の広さをそのまま使ったプロセニアムに、ちょっとがっかりした、と思いきや。

芝居はともかくとして、惜しげもなく繰り出す舞台転換大道具。リビドーガチャピンや青森ねぶたも併せて、ここまでやればケレンもケレンよりむしろさわやかさを伴って、大人チケット2000円で入場した小生思わず「若いっていいな」。

そうそう、大人チケットといえば、階段オチをネタにした「平田満」ギャグで笑った客数名、すべて「大人チケット」仲間に間違いない。チケット割引立派に合格、おめでとう。

さて、ここからネタバレだが、本日のメーンエベントは30段を優に超える、バトンに迫る勢いの階段。階段が奥から迫り出すときに舞台前の階段が ちょっと斜めって、あぶないあぶない、まさかこれで本当に階段落ちとかしないよね、ほーらやっぱり宙に浮いてごまかしたよ。からびなで背中つって飛んだ飛 んだ。さーてどうやって終わらせるのかな。この男の人、からびなの金具背中にしょって眼鏡かけて、何段か落ちるだけでも痛いぜー、と思ってたら、思いっき り階段を転げ落ちた。

終演後数えてみて、めのこ、3段+3段+10段落ちで勢いつけて舞台から客席へ。
最前列に座ってる小生の目の前に落ちた。眼鏡かけて金具をしょったまま、落ちた。
まじかよ。これ、やっていいのかよ?
この芝居、この階段落ちだけで一生僕の記憶に残るのは間違いなし。夕べは東京デスロックで、やっぱり一生記憶に残るだろう芝居観たが、これも別の意味ですごい。
「プロセニアムのがっかり感」吹き飛んで、この連中、ほしのホールならではの階段落ちの一瞬に勝負かけてたのだ。しゃっぽ脱ぎます。

東京デスロック 演劇LOVE 愛の行方3本立て

14/09/2008 終日

デスロック3本立てを昼から夜まで、作品解説込みでかっつりいただきました。
何を書いてもネタバレになりますが、まず生意気に総評書けば
・ 特に「倦怠期」エンリク・カステーヤ氏の作・演出にかかる出演者非公表作、これは必見。個人的には、おととし「再生」を春風舎で観て以来の衝撃度で、
「これぞ芝居を観る歓び」
と思わせてくれた。少なくとも、「おばたは何を面白いと思って劇場に通うのか」のドンピシャのコアに肉薄。
・ それもあわせ、この演劇Love、お奨めです。 帰り道、もちろん「演劇LOVE」バッヂ3つ入り、買って帰ったですよ。

<以下、ネタバレを恐れず読まれる方、どうぞ。"Castaya"については、カステーヤ氏のたっての希望につき、23日以降に改めて詳細な感想書かせていただきます。>



<発情期>夏目慎也1人芝居の「ドン・キホーテ」。芝居は所詮「ごっこ遊び」であること、そのごっこにディテールに至るまで命を賭けていることを 確かめた上で、そのごっこ遊びは果たして「1人でいても」成立するのかという、遊びまくっているようで実はふっかい命題に夏目慎也挑戦。

ドン・キホーテを演じるのに普段着で「いらっしゃいませ」はないだろ、と思いきや、いつしか八畳一間で1人っきりで遊ぶ「夏目くん」の姿がドン・ キホーテを演じるアロンソ・キハーナに重なり、後半、舞台奥を向きながらいきなり振り返って哄笑する夏目氏の視線の先に鏡が見えた気がして、何とこれは、 夏目本体=ドン・キホーテ、鏡の夏目=サンチョ・パンサ、一人二役の芝居だと理解する。おもろうてやがて悲しき独居青年の凄み。ただの笑えておかしな芝居 とは違いまっせ。

<蜜月期>この日観た他の2作に較べて、原作の面白さが比較的ストレートに舞台に載せられている気がして、つまり、意図が見やすい構造で、そこにもたれている気もして、正直、割を食っていた。
三条会の橋口氏のイロモノ振りに対してストレートに受ける佐山、という構図も非常にすっきりしていて、それもまた、「食い足りない」感に繋がっていたとも思う。いや、それにしても、だ。佐山和泉、いい役者だよな。橋口氏、変態だよな。

が、やはり問題は山口百恵だろう。三条会もそうだけれど、こうまで山口百恵がかかると、一応小学生の時分リアルタイムでテレビの百恵ちゃん観てい た、そして、テレビCMで「モモエチャーン」を聴いていた僕としては、だ。「なんでモモエ?」という方に集中力がそれた気がして、それはちょっと役者に申 し訳なかったかも。翌日から、慌てて図書館で借りた「ジャックとその主人」を読んでいるところです。

<倦怠期>これを倦怠とは呼ばない。素晴しい。是非、全ての自称他称「演劇好き」がこの舞台を眼にしますように

2008年9月13日土曜日

王立フランドル劇場&トランスカンカナル 森の奥

13/09/2008 ソワレ

ベルギー人が英語でなくてフレミッシュ・フランス語を喋るのを初めて聴いた。だって、彼ら、相手日本人だと英語で話してくれる優しいやつらだか ら。こういう風にフレミッシュとフレンチのスイッチを入れたり切ったりできるのは、喩えていうならアメリカンスクールに通ってる日本人の帰国子女たちの英 語と日本語ちゃんぽんの会話を想像すると近いかもしれない。それを大人が、TPOとニュアンスを考えながらやっている感じ。後で聞いたところでは、ブ リュッセルの街自体がそんな風になっているそうで、うーん、奥が深い。

というわけで、ベルギーからやってきた劇団ならではの完璧なバイリンガル芝居。こりゃ面白い。平田も、きっと、凄く楽しんでこの戯曲書いたに違い ない。だって、オール日本人キャストじゃ「バイリンガル芝居」なんて創れないんだから。まぁ、アメリカでだって(ヒスパニックを入れれば別かもしれない が)バイリンガル芝居なんて創れないんだから、この、ベルギーの役者陣と平田芝居+題材、が、かなり幸福な出会いを果たした舞台、といってよいのではない かと考えた。

話の内容はかなり専門用語もあって全篇説明の嵐なんだけれど、小生も一応「カガク三部作」の最初の2つの初演には出演してたし、かつ、先週日本語リーディングで予習もバッチリ。字幕を追う時間を節約して舞台に集中できた。

話の切り出し方(フレンチで行くか、フレミッシュで行くか)、つなげ方、そこのニュアンスは、非ベルギー人の僕には最後までは突き詰められないも のの、おぉぉっ、と感じる瞬間が随所にあって、知ってる話なのに1時間半時計を気にせず進んだ。かつ、青年団なら15人くらいが入れ替わり立ち代りの舞台 を、6人で持たせるあたり、役者の力も充分。いやいや、ヨーロッパの役者は本当に力がある。

こういう芝居を創るプロセスを経て、平田が、ヨーロッパの役者が演じられるような、うねりの大きな、1人の役者に任せるシーンの滞空時間が長い、「眠れない夜なんてない」のような芝居を書きたくなっちゃったのかな、とも思った次第。

2008年9月11日木曜日

リンゴ企画2008 あの山羊たちが道をふさいだパートII

10/09/2008 ソワレ

9時45分開演のパフォーマンスということもあり、割とダンスを見つけている人、関係者の友人知人が観客席に多い印象。小生すこーし肩身狭い。神楽坂の住宅街、地下に降りたスタジオは100席近くが空席を除けばほぼ満員、これはなかなか楽しくなりそうな予感。

コンドルズの近藤良平氏のパフォーマンスは初拝見。どうせ観るなら近いところで、ということで、こういうスタジオで拝見できるのは僕にとっては入りやすかろう。かつ、藤田桃子さんは青年団の「立つ女」以来ファンなので、それも楽しみ。

で、始まってみると、やはり僕の視線は藤田さんに釘付けで、どうにも他のパフォーマーとたたずまいが異なっていて、その異なり方が、
・ なぜ彼女の突出の仕方が目に入るのに、他のパフォーマー達の「違うところ」が目に入らないのか
・ なぜ僕が「空白に落ちた男」のユーモアが大好きで、このリンゴ企画のギャグが嫌なのか
と考えさせるに足る異なり方。ただ単に美味しいところを持っていっている、ということではない。周囲の物事との関係の取り方が素晴しいのだ、と思う。
前半、森下真樹×藤田桃子 のシーンは出色だった、と、ダンスを見つけない僕は思う。

他のシーンも観ていてぼんやり考えていたのは、
「群舞(みんなで同じ振り付け)に関係性はない(勢いはある)。そして、関係性のないパフォーマンスは僕には関係がない。従って関心がもてない。遠い。」
「パフォーマーの間に関係性があるパフォーマンスは、僕にも関係がある、ように見える。従って観客にも関心が持てる。従って舞台と観客席が一体となった空間が織り上げられる。」
ということ。それが、この間観た「ドラマチック、の回」が素晴しくて、今回の出し物では思わず時計を見てしまった、その違いに繋がったような気もしている。

2008年9月9日火曜日

百鬼どんどろ 卍

07/09/2008 ソワレ

うーん。何と、ここまでやりますか。
何とまあ、「倒錯のエロス」とおっしゃいますが、人形遣いとそれに操られる人形とが絡んで、首が落ちたり濡場があったり、さらに屍姦ありタイタスあり(とはいっても相手が人形では厳密には屍姦とは言えないだろう)、うーん、ここまでやられると、人形愛とか自己愛とかで括れない、足を踏み入れちゃいけない世界を感じる。「凄み」といえば誉め言葉だけれど、そもそも近付いて良い悪いいっちゃいけないような。

世界各国で上演されてるらしいが、僕は、ヨーロッパ人は、このパフォーマンスを観たら、途中で、笑うのではないかと思った。首が落ちるシーンとか、手が抜けるシーンとか。絶対彼らは笑う。何で笑うかは分からないけれど。でも、「Sunset Boulevard」のクライマックス、拳銃で人が死ぬ場面で、彼ら、笑うからね。だから、この芝居観ても笑うに違いない。僕にはとても笑えないが。そんなことを、ずっと考えながら観た。

スロウライダー トカゲを釣る-改

07/09/2008 マチネ

前回三鷹ほしのホールで観た時が「予想外に(失礼!)」面白くて、今回も楽しみにして出かけた。

バッチリ2時間のホラー演劇、またも満喫。ホラーなので、物語が決まっていて、観る側もその筋を辿るラインからそんなに外れた観方が出来るわけではなくて、最後はきっちりオチがつく、という構成は避けられない。また、ホラーなので、思わせぶりな効果音も不可欠だし、盛り上がるところでは絶叫シーンもそりゃ出てくるだろう。

そう書くと、どうも自分の好みの芝居のストライクゾーンから外れてしまいそうな気がするのだけれど、いや、それにも拘らず、というか、ひょっとすると、そういうものを、細部で手を抜かずに作ってあるからなのか、2時間、ドキドキしながら、尻も痛くならず、拝見しました。

ハイバイから客演の金子岳憲、さすが。彼が出てくると、グイグイ進む物語の渦に、観ている側として巻き込まれずにすむ、というか、「その場で舞台に乗っている状況や動き」に集中できる。こういう上手さは、観客としてとても助かる。中川智明の抑えた(ちょっとキザな)演技も、こういう人と一緒だととても映えて見えて、それも良し。

1つだけ白状すると、最後の「500円玉」のオチの意味は、実は、「こういうこと、かな?」という感じで、ちょっと自信が持てないんですが。どなたか内緒で、どういうことか教えてください
(なーんてことも、現代口語の芝居ではあんまり聞くことがないのですが)。

青年団 ヤルタ会談+森の奥

06/09/2008 マチネ・ソワレ

前から観たい観たいと思っていたけれどなかなか機会がなかった「ヤルタ会談」と、ベルギーでのプロダクションが来日中の「森の奥」日本語リーディングの二本立て。「森の奥」はA組B組に分かれて二度楽しめる。1日小竹向原を徘徊しながら、マチネ・ソワレと拝見。

ヤルタ会談、うーん、こりゃ面白い。世界史上の重要な事件って、実は、それが起きている間、そこに居合わせた人たちがみんなそろって「オレは重要だ」という顔をしてる訳ではない。と思うのだ。もちろん、「オレは重要だ」という顔をしている人はいるけど、そういう人たちは、重要でない事件に際しても「オレは重要だ」って顔をしてるよね。そういう意味で非常に平田オリザっぽい芝居だと思う。三人の芸達者の「笑わせにかかる技」に騙されてはいけない。

マチネは下手で観たのだが、英語字幕の出来が良くて、ついついそちらにも目が行った。さすが、北米ツアーでもまれてきたプロダクションだけあって、そっちも出来が良い。

「森の奥」=(「科学するココロ」+「北限の猿」+「バルカン動物園」) ÷3 -学生 +ベルギーの匂い
ということで、これらの芝居を知っている人なら予想がつくだろうが、とにかくサルの研究の説明が長い。これを平田戯曲、リーディングでやると、観客眠くなっちゃうんじゃないか、ということなのか、演出多田淳之介が出した趣向が、「ライラの冒険(His Dark Materials)」。役者がみな自分の「おサルDemon」を持って動いて、舞台上のコミュニケーションが「人と人の間」なのか「DemonとDemonの間」なのかが曖昧になるように振舞っていた。その趣向、面白い。

人とDemonの距離感や「人間コミュニケーション」と「Demonコミュニケーション」のギャップの捉え方、が役者によってまちまちで、そのズレを追うのが楽しい。そのまちまちな感じが、「稽古時間の不足」を反映しているのか、「狙った効果」なのかはちょっと微妙な気もしたけど。

うん。これをベルギー人役者(フラマンの人とワロンの人の共演)でやるのか。楽しみ。

2008年9月7日日曜日

In Bruge

DVDで鑑賞。

ロンドンで仕事に失敗したイギリス人・アイルランド人コンビの殺し屋2人がボスの命令でクリスマスのブルージュへ。義理の両親を接待するのには全欧州でピカイチの街だと小生をして断言せしめる(ホントです!義理の両親と欧州に出かけられる方、拙者パーフェクトガイダンスできまっせ!)、要はロンドンの殺し屋を退屈で絞め殺すには全欧州で最もふさわしい街で、野郎二人がすごすクリスマスの物語。しかし、こんな小さな町でそもそも物語なんか成立するのか?

観終わった後、嫁はこの映画を「ゴドー待ち」だと言った。僕はこの映画を「ソナチネ」だと言った。

いずれにせよ名作である。
興行成績、良くなかったらしい。DVD、売れてないらしい。でも、名作である。

オフビートで生乾きな笑いが、なんともアイリッシュである。おバカさ加減が、アイリッシュである。そして、このアイリッシュさが、クリスマスの日のカトリックの教会にあって、どうしようもなくアイリッシュな、そう、コナー・マクファーソンがどうしようもなくアイリッシュであるようにアイリッシュなのである。
(そういえば、ベケットもアイリッシュか。あんま関係ないけど)。

日本で公開されるかどうかは疑わしいけど、もし公開されたら、騙されたと思ってみてみてください。そして、感想聞かせてください。2時間くらいは僕独りで語れます。

Hellboy II

21/08/2008

ロンドン封切初日。Pan's Labyrinth で一躍名を上げいまやHobittsの映画化に携わる予定となったビッグネーム、ベニチオ・デル・トロ監督の最新作を上映するスイス・コテージのオデオンは、なんともやっぱり空いていて快適だった。

それにしても折角のロンドンの休暇を妻子とともに閑散ローカル映画館で、「ヘルボーイ2」観てつぶすとは、われながらイカす。前作も十分楽しめたのだけれど、今回は前作の成功を受けて予算も10倍増しなのか、セットから細部デザインまでデルトロ尽くし。

デルトロといえば、まさか同じ監督だとは思わずにまずヘルボーイを観、その後Pan's Labyrinthを観、ヘルボーイでは家族そろってサ ムアップしたのが、Pan's Labyrinthの後では夫婦で票が割れて、今でも娘が記憶しているような激しい口論になって、要は、今回も場合によっては夫婦喧嘩になる可能性を抱え つつ映画館に入ったのだが、きっと楽しみ方の違いはあるにせよ、みんな文句なく楽しんだ。

僕の気に入った箇所を思い出すままに挙げれば、巨神兵あり(僕はオリジナル観てことないのだが)、ウォレスとグロミットあり、キングコングあり、 しし神あり、スターウォーズあり、Lord of the Ring の妖精界の王子様やエント族あり、エイリアンあり、と、要は、
「僕チン、これまで観た映画の中で撮ってみたいシーンをぜ~んぶ選んで、僕ちんテイストでぜ~んぶ染め上げて、芸術性を一切問われない映画にばぁ~んとぶちこんで、ほいでもって一本映画作りた~い」
というわがままが全部通って、監督ご満悦の体なのである。その純真なセルフエンターテイメント精神や善し。全編、文句なく楽しませてもらったぜ。

とはいうものの、そういうのが優先しちゃうと、やっぱりフレームとしての「プロット・物語」は前作の「ラスプーチンを追って厳寒の地へ」に較べる とどうしても弱く感じられて、それはあちこちで言われるんと違うかな?いいんだ。きっと、ヘルボーイ3も出る。その前にホビットも出る。その時はまた、あ の手この手をくりだしてくるんだろうから。それもまた楽しみだ。

高山広のおキモチ大図鑑 「劇輪」

05/09/2008 ソワレ

なんと前回おキモチ大図鑑を拝見してから(確か渋谷ジャンジャン)10年以上の月日が経っている。この企画が始まったのが1988年ということだ から、じゃあ、最初の7年くらいは拝見してた勘定になるのだが、今になって観るとなると、高山さんの老け具合とか、身体が動くんだろうかとか、何だか技が 円熟していたらどうしようとか、そんなことを色々考えてザムザ阿佐ヶ谷に向かった。が、いろんな意味で変わってなかった。

20周年記念企画ということで、数あるネタの中から20個厳選して演じるのかとも思っていたが、それも違っていた。おそらく、どれも初見。しかしまぁ、高山さんらしいネタ8本、暑苦しいのもすべっちゃったのも含めて、併せて堪能させていただいた。

このテの一人芝居では、ある意味、「イッセー尾形のエピゴーネン」に陥らずになおかつ面白くなくてはならず、毎回非常に厳しい戦いとなることが予 想される。そこを見事に引き受けて20年ですか。すばらしい。暑苦しさとすべりネタが織り成すリズムが、平均点に陥らない、「高山さんでこそ」のものを求 める観客をひきつけていると見る。ちょっとうちわになったらやだな、とも思っちゃうのだが、まずは、愛されてこそ、というところから始まるので、そこは眼 をつぶるべし。

2008年9月2日火曜日

東京寄席スタイル vol. 3

02/09/2008 ソワレ

アゴラで体験するプチ寄席。落語の合間に色物中の色物、Jirox Dolls Show や渡辺香奈の"Moon Riba" がはさまって、こりゃ面白い。

アゴラのようなスタジオに高座を設けて落語家を放り込むのがまず面白い。噺家さんが大きく見える。声が出てるんだ、ということも良く分かる。演芸場やプロセニアム以外で見るとこういう存在感なのか、と改めて思うのが面白い。

Jirox Dolls Show は、ちょっと、これは、どうか、という感じで面白い。アゴラの醍醐味、といってしまって良いのか。いいのだ。Jiroxさん、歌、すっごく上手です。

武藤大祐氏のトークも面白かった。「面白さを突き詰める以外にない」とは真摯かつ深い。そういう発言を、トーク開始後3分で引き出してしまう林真 智子も凄い。面白さを突き詰める行為を、自分でパフォームするでもなく、批評に落とすでもなく、「東京寄席スタイル」という場を創ることでやってしまう武 藤真弓・林真智子コンビも面白い。

この企画、仕込み・バラシの手間がかからないのであれば、是非定期的にアゴラに呼んで組んでもらいたい。きっともっといろいろなことが出来るはず。

朱鷺色卵 こなたかなた

31/08/2008 ソワレ

観ていて浮かんできたキーワードは、「測る」。
時間を計る。お互いを測る、距離を測る、においを測る。
自分の腕の伸びる向きを測る、リーチを測る。

モダンダンスなのに、何だかロジックが常にまとわりついている気がしたのは、この「測る」というキーワードから僕が離れられなかったからだと考えられる。

後で当パンを読み返すと、川端康成のリリシズムにヒントを得たとあって、うーん、じゃあ、ロジカルな印象は本意じゃないのかな、と思うけれど、でも、僕が観ている間
「なんだか、ロジックからはみ出た動きはないものかなぁ」
と思っていたのは正直な話なので、そこは、観客としての技量不足かそれとも別の理由か。

いずれにせよ、ダンスを観ていてこんなにロジックを意識することは余りないので、それは面白い体験だった。

柿喰う客 真説・多い日も安心

31/08/2008 マチネ

千穐楽。

<以下、ネタバレ>


AV女優の天下獲りと秦の始皇帝を引っ掛けて物語りに落としたフレームの巧みさはさすが中屋敷法仁、バブル絶頂期の「カノッサの屈辱」を思い出させ、「焚書坑女」には+40歳の特権、思わず笑う。

でも、何故柿喰う客の芝居が面白いかというと、そういう「仕掛け」「プロット」が気が利いているとかではない。むしろ、そのプロットに沿って、2時間を怒涛のごっこ遊びで埋め尽くしてしまうキャパシティと気迫の濃さが凄いわけである。

ごっこ遊びをなめてかかってはいけない。子供がごっこ遊びをしている時のリアルさに関するルール決めのシビアさには、誰しも思い当たるところがあ ると思う。そこには、演じていて面白いか面白くないか、というとっても厳しい基準しかなくて、子供たるもの面白くないごっこからはすーーーっと離れていっ てしまうこと必定である。そこには、妙な説教臭さとかテーマとか世界の広がりとかは無用、とにかく遊びつくせ。そういう態度をもって「妄想エンターテイメ ント」と呼ぶのであれば、これはもう、そこに一枚かむほかない。

なので、柿喰う客が人気劇団になっても、それは、「サービス精神旺盛だから」だとは、僕は言わない。僕が柿喰う客を気に入るのは、「ごっこに徹する姿勢が果てしなく愛らしいから」である。
だって、僕は、柿喰う客に出てくるAVネタギャグも、テレビネタギャグも、最後にカラオケで歌う曲も、なーんも知らんもんね。でも観てて楽しい。「焚書坑儒」も「戦国の七雄」も知らん人だって充分楽しんでたじゃないか。

これからも、中屋敷法仁があくまでも自分の面白いと思うごっこ世界を、これでもかとばかりに創って壊して創って壊す、その勢いを、どうぞ失いませ んように。観客としての僕も、いつまでもそういうごっこ遊びを「面白い芝居」として受け容れられますように。なんだか、そういうことを祈ってしまうのであ る。

2008年9月1日月曜日

サンプル 家族の肖像

30/08/2008 ソワレ

いつもながら、ドーンと腹に溜まる芝居。満腹した。

某氏によれば、「辻美奈子フランス語レッスンにあわせてポエムを歌う」のシーンで、僕は「口をあんぐりと四角に開いて」観ていたらしいが、舞台によだれを落とさなくて良かった。
そこに限らず、「羽場さん三角関係へのお説教をあきらめる」とか、「木引いったい何をしたいのか」とか、「古館いんちき(?)ホーミー」とか、 「古屋会心の笑み」とか、「管理人の怒りはいつも理不尽」とか、「村上聡一最後まではじけないぞ」とか、口をあんぐりさせたり、笑いが噴出したりするのを 懸命に抑えなきゃならない局面が、スポラディックに現れては消えて、観終わった印象、「なんとエンターテイニングな2時間」!。ヘリコプターの屋根裏に2 時間幽閉されて覗き観る人々のうごめき。

直前に五反田駅前の歩道橋のふもとを走って消えたドブネズミの姿(おそらく連日の豪雨で下水が溢れ、住まいを失ったのだ)や屋根をたたく雨の音とあわせて、まさに人々がゴゾゴゾとうごめく姿が、全体のうねりや脈絡とは無縁に綴られて行く。

が、この脈絡の欠如が、一方で、「この芝居はどんな芝居ですか?」という問いに対して、「ドーンと来る」とかいうわけのわかんない形容と、個々の事象に即した説明しかできない理由となっている。

脈絡の欠如を「現代人の孤独」とか「絆の欠如」とかいってしまう紋切り型は無しとしても、しかし、この、脈略の欠如した一連のシーンに対して自分 なりの妄想スイッチを入れて外の世界を膨らませていく、あるいは勝手な物語をつないでいく作業にかなりの手間がかかることは間違いなく、結果、観終わって から1日たってもまだなお、うんうんうなっちゃってたりするわけである。
こういう、
① 説明すべき物語は一切排除して、
② かつ、そこから無理矢理何かを紡ごうとする観客にさえも挑戦していく
松井周の態度をどうとるか。松井氏にとっては納得感が高まりつつも(なぜなら、自分の考えていること・感じていることは何かなんて、高々2時間の 『物語』で語れるものではないのだから、突き詰めて考えれば、物語は排除されていって一種当然だ)、観客からは遠ざかっていく、あるいは、摑みどころがな くなっていく。「カロリーの消費」から本作と来て、次に同じ感じでもう3歩進んだら、ついていけなくなる可能性もすこーし感じてはいる。

最後にひとつ難癖つけるとすれば、古舘寛治の「40歳引きこもり老母に養ってもらってる」、まんま「薫の秘話」な設定は、ちと紋切り型な気がした んだけどな。いや、悪くない。悪くないんだけど、できるんだからもう一ひねりお願いしますよ、という気もしたのだけれど。どうでしょうか。

G-Up ペガモ星人の襲来

30/08/2008 マチネ

芝居自体のことをとやかく言う前に。
今回は有川マコトを観に行った。17-18年か前に一緒の芝居に出たことがあるけれど、それ以来彼が出ている芝居からご無沙汰している。この、一種「オールスターキャスト」的な舞台で、そろそろ不惑のはずの有川氏がどんな芝居をしているのか、いや、くどくど言う前に、
「元気かい?」
ということだ。で、元気な姿は相変わらずで、体型も実は17-18年前と変わってなかったな。嬉しかった。

あとは、岩井秀人の立ち居振る舞いが勉強になった。現代口語を自認する人間がこういう場でいかに舞台に立つか。小椋あずきとの夫婦漫才も含め、大いに笑わせていただいた。そして、大いに盗むべし、このしたたかさ。

そんなところでしょうか。

各駅停車 いつもの中に、沈む

9/08/2008 ソワレ

この芝居の弱点を諸々あげつらうことはそんなに難しくなくて、かつ、それは、最前線のことを目指す反作用としてのコントラバーシャルさでもないのだけれど、でも、今後、
・テクニカル・技術的な点をきちんとつぶしていく・改善していくのだろう、そして
・その中でどうしてもつぶしきれないものが作・演出の個性もしくは劇団のカラーとして出てくることになるだろう、と思う。

出来・完成度と較べれば、好感度はもてた芝居、ということか。

個別に気のついたところをいくつかあげると、
・固有名詞は、例え特定の色がついてしまうリスクを背負ってでも、使ったほうが良いということ。「この街」とか「あそこ」という言葉の連発は、実は「芝居を遠くしてしまって」良くない。また、日本を覆っていると語られる戦争の気配についても、もっと具体的でないと。「匂わせる」のにしては言及の回数も多いし。
・ひとつの手として、「具体的なもの」「身体に近いもの」をもっと使えば、それが、観客の想像力スイッチに手を伸ばすためのパンくずとして機能するはず。屋上から見える景色とか、服装とか、もっと小さいディテールとか。
・その意味で、出だしのシーン、失敗。「ああだ」「こうだ」で引っ張りすぎて、だれた。荻野組の苦労がしのばれる。
・同じ青年団組でも、大久保は色物な分だけ得をしたか。
そういう点は、振り返って他山の石とすべし。その意味で、勉強になる舞台だし、変な年寄りじみた言い方すると、「若い人たちの、これからが楽しみな芝居」ということになるんだろう。

ただし、逆に言えば、「舞台にあげる前につぶしておけたはずのポイント」も数多くあって、それが放置されたまま舞台に乗っちゃった、ということもできる。それをどこまで許容するかについては個別に差が出てくるだろう。
「大学時代をしのぶ若者たちの再会」という、おおむね現代口語演劇の紋切り型に近いといわれても仕方がないモチーフも含め、数多い課題を次回までにどこまで消化して、もっときちんと舞台に載せられるかどうかが勝負。

2008年8月27日水曜日

木ノ下歌舞伎 三番叟/娘道成寺

26/08/2008 ソワレ

開演前から幕の向こうをすり足に小走りに舞台を上から下へ、下から上へ、横断する脚が見える。あぁ、この走りは、なんだっけ、あ、そうだ、ノルウェーの田舎の土産物屋のオヤジが、「日本人の中年女性は何故皆小走りなのか?」という問いかけを、実演入りで僕ら家族にしてきたときの、あのすり足の小走りに似ている。

と思っていると、ワタナベマモル氏による三番叟の事前解説がスピーカーから流れて、あぁ、「三番叟」も「京鹿子娘道成寺」も観たことがない、というか、この歳になるまで歌舞伎も能も観たことがない、この恥ずかしいオレにも分かるように、解説付きで上演かい、と、若干失礼なことを考え始める。

が、そんな失礼な考えも3分後にはすっかり吹き飛んで、後は指をくわえて舞台上で繰り広げられる「慶と笑のエネルギーの噴出」に身を任すほかない。天下泰平、五穀豊穣、芝居小屋の一歩外に出れば、「まがいもの」あるいは「願われるもの」としてしか存在しないものが、三人の変なかっこした男達の舞の歓喜の噴出の中に、一瞬見えた気がしたって言っちゃってもいいよね、と言いたくなる。

そしてまた、天下泰平、五穀豊穣、国家安穏といったものにまつわる歓喜のイメージが、能⇒歌舞伎⇒現代舞踊 と続く中で、(能・歌舞伎を観たことのない僕にさえ感じられるように)一定のコードとして振り付け(おそらく三番叟のプロットや振り付けにヒントを大きく得ていると思われる)に埋め込まれている、そしてそれを実際に僕が感じた(と少なくとも僕が信じられる)ところに、この集団が「歌舞伎」を名乗る意義がある。そう感じた。

帰国早々いきなりすっげえ幸せでカッコいいものを見て、時差ぼけも吹き飛ばされた。

娘道成寺は、実は後ろの生バンドが視覚にも訴えて、時々パフォーマーから目が離れてしまったのが、後々考えてももったいない。でも、人格がCrackする瞬間を始め、あれあれと身体の表情に見とれている間にあっという間に終わってしまった。裸足の足が床に敷いた幕を摺る音から始まり、綱のビニールのこすれる音、パフォーマーの息遣い、そういうものに思い切り頓着しながら演じるパフォーマーとそれを伴奏するバンドのかっこよさ。

不幸せな物語だが、観ているボクはとても幸せになった。

放電完了

2週間、放電してきた。

ロンドンで、家族の引越しをしてた。
夏は終わっていました。2週間、気温が20度を上回ることはなかった。

シーズンオフで、面白そうな芝居はやっていなかった。
Hellboy II を観た。
In Bruge をDVDで観た。
Flight of the Conchords のDVDを観た。
本を2冊読んだ。
それらについてはいずれまた感想を書くつもり。

娘は途中でReading Festival に出かけてしまった。
Cage the Elephant、テレビにも出てたが、いかす奴らだ。

あとは呆電しっぱなし。公私ともにすっかりスイッチがOFFになって、電源プラグも抜かれて、体中から電気が抜けて、バッテリーが空になった状態。
それはそれでとっても気持ちが良い。

そうそう、案の定引越しの時にBritish Telecom がヘマをこいて、結局僕がロンドンを離れるまでインターネット繋がらなかったのです。
時々図書館の無料PCで、読むだけ読んでましたが。

帰国して80時間。ようやっとエンジンがかかってきた。

2008年8月9日土曜日

矢野顕子リサイタル

07/08/2008

2002年、Pizza Express以来の矢野顕子。前回はキャパ100人未満の小さなクラブにアクースティックのバンドを連れて来たのを聞いたのだけれど、今回はピアノ一台の弾き語りで調布の1,400人収容の大きなホール。

そりゃもちろん小さな小屋で近くで聴く方が僕は好きだけれども、でも、大きなホールだからといって不満があるわけではなく、むしろ、大人数で一遍に同じ音楽に耳を傾けるのも、楽しい。PAの感じも良くて、リラックスして聴けた。矢野氏のほうも、必ずしもハードコアなファンだけが集まっているんじゃないのを感じ取りながら「リサイタル」を進めていたと思う。
生演奏で聞くと、あの「変な、ちょっと鼻にかかった声の歌い方」が、どれだけ豊かな声のキャパシティと正確な音感(テクニックというと語弊があるかもしれないけれど)に支えられていることか、と思う。矢野顕子はセンスだけではないんです。

「時節柄」のバカボンで幕を開け、釣りに行こうと続く冒頭の二曲で、もう既に「あぁ、聴きに来てよかった」と思う。はっぴいえんどの「夏なんです」と、大瀧先生の曲も2曲とり上げて、そういう曲を矢野節で聴けるのもまた楽しかった。最後、「この曲をやらないとコンサートが終わらない」といって「ひとつだけ」を。うん、いい曲。でも、矢野さん、みんながみんなこれだけを聴きに来たわけじゃないんですよ。新曲もとっても素敵でした。10月の新譜は、買ってしまうかもしれない。気に入った曲の曲名は、ここでは言えない。

2008年8月6日水曜日

野の道 流れる

06/08/2008 ソワレ

初日。
一言で言えば、「好みの芝居」。1時間40分3本立て、ついに一度も(文字通り)時計に目をやることなく、時間配分で意識が散ることもなく、お尻が痛くなることももちろんなく、食い入るように観てしまった。

貧乏八畳間の舞台は、杉山至+鴉屋がおそらくとっても得意とする分野で、二方向に開けた部屋の周囲をコワリのスケルトンで囲ったシンプルな舞台の「におい」が、まず良し。

各シーン3人ずつ役者が出てくるのだけれど、その立ち、台詞、「現代大阪弁演劇」とまでは突き放さないまでも、背伸びをせず、自己顕示に走らず、あくまで「場」に拘った演技もまた良し。

3作とも「在日」「被差別集落」に言及した芝居で(2番目はその名も「ムグンファ」となっている)、しかもその登場人物のおおかたが(特に2作目、3作目において)、その、苦痛の思い出が付着している場所を、「戻るべき場所」として認識するのもまた興味深い。声高に叫ばないことで、日本人が「あちら側」と思ってしまいがちなイシューが、越境して普遍に繋がる契機を与えられる。

こういう、奇をてらわず、でも、シーンごとの着想に素直に、「八畳間」という空間に視点をカチッと固定して丁寧に場がつくってある芝居は、上手くいっている箇所もいっていない箇所も含めて、観ていて嫌味がなく、飽きない。もちろん役者陣もそれぞれに力のある人たちで、それに支えられている部分もあるとは言うものの、役者を入れ替え設定を入れ替えてもきちんと統一された「におい」が伝わってくる舞台に仕上がっていた。

普通のきちんとした飲み屋で普通のきちんと作った肴で酒を飲むような。そんな後味の残る芝居でした。

2008年8月4日月曜日

岡崎藝術座 三月の5日間@上野広小路

03/08/2008 ソワレ

フレームの嵌め方の素晴しさに舌を巻きつつ、寸止め感が大変惜しまれる舞台。

<本稿、以下全篇ネタバレです。>




上野広小路の演芸場、舞台は高座、客席は全面畳敷きに座布団敷き。
最前列にパンダの被り物した人を含む先客が陣取って、弁当を食いながらおしゃべりに興じている。さては岡崎藝術座シンパの連中か、そういえば、新百合ヶ丘でも顔見た覚えが、って、実は役者だぞ、と。
(前から二列目、僕と知人の間に開演までずっと空いてて鞄が置いてある座布団があって、「これも役者の席に違いない」と断言していたら、何のことはない、普通のお客さんでした。すみませんでした。)

開演するや、最早演芸場の外では見ることのできない巨大な蝶ネクタイの男達やウクレレ漫談のコンビが登場して、演芸のノリで三月の5日間が語られる。その趣向、良し。

上野という「東北」に向いて開けた土地で、渋谷の話をする。六本木の話をする。その話を聴いている(という設定の)人たちの身なりは、「東北」に向いていて、西の方、例えば新玉川線とか東横線の匂いからは真逆。パンダ社長とか、妙な光沢のワンピースのお姉さんとか、気合ボンタンのお兄ちゃんとか。
舞台上から順に、
渋谷・六本木⇒上野⇒更に東から来た人たち⇒それを観る、主に西から来たであろう芝居の観客
という図式があって、この⇒の一つ一つが実はかなり深い断絶である。最前列の似非観客達が美しく青きドナウのクライマックスに合わせて後ろを振り返る時、僕らとそれらの人々の断絶と、「語られる者と語る者」の間の断絶が開けて見えて、思わずすくんだ。

あるいは、それら似非観客の陽気さは、Shiningの壁掛け写真の中の人々(亡者達)が開くパーティの陽気さに似る。時に観客が舞台に上り、下手袖に吸い込まれ、袖から出ては舞台上に倒れ臥し、物語を語って見せる。それは「終わったこと」なのだから、繰り返し語られて構わない。次にそれを繰り返させられるのは自分かもしれないという恐れ。振り返るパンダ社長の顔は、Shiningで逃げ惑う妻がバタンとあけたドアの向こうの、羊コスプレ人間の恐怖を蘇らせて、やはり、すくむ。

このフレームを嵌めて最後の浮浪者のシーンまで寄り切ったらすごいことになる、と思っていたら、ヤスイ君が怒られたところで突如終幕。え、えぇえー?これで終わっちゃうの?そういえば、幕の閉まる中で、何となく役者のニヤニヤした顔、これは何か続きにあるに違いない、あれ、違うの?あれあれあれ?

うーーん。休憩入れてもいいから、最後まで通してほしかっただす。だって、前半、凄かったんだから。

キラリ☆えんげきっず

03/08/2008

尾倉ケント、島林愛、多田淳之介、岩井秀人の4人がリーダーの芝居ワークショップだなんて、生田萬氏の言葉を借りるまでもなく、なんて贅沢な企 画。子供よりもオレが自分でワークショップ参加したかったわい。ということで、その成果発表を観るべく東上線に乗って富士見市役所へ。

観終わった正直な感想は、「期待しすぎていたかな」。
もっと、子供たちの「ごっこ遊びならではのリアルっぽさの要求」が噴出する場を期待していたのだけれど、むしろ、「わたしとあそんで」という絵本 のフレーム(あるいは割り振られた役柄)にどうやって子供たちが自らをはめ込んでいくのか、というところのグラデーションがよく見えた印象である。

もちろん、子供が年齢に関わらずぐぐーっと舞台上の「ごっこ空間」に踏み込んでいく瞬間はいくつもあったし、Smile Kids のラスト、子供たちが鬼ごっこをしている時、いきなり前列で抱っこされていた乳児(推定5ヶ月)が舞台で起きていることにぐわっと反応して、マジで驚いた りもした。

リーダー4氏とも、持ち味をたっぷり出していたと思う。そう、4氏が持ち味を出しているということは、子供パワーに押し込まれる瞬間がどれくらい 今日の舞台上で生じたのですか?という質問に繋がるのだが、それはきっと、「学芸会風の」フレームを持った発表会の中で探すものではなくて、ワークショッ プの場でリーダー諸氏がしっかり受け止めていたのに違いない。ホールわきに貼られた写真が、「あー、うらやましい」な感じだった。「発表」よりも「創って いく場」の方がはるかに楽しいのは仕方がないか。

それにしても、夏目慎也、各チームに思う存分いじられて、きっと生田さんにもいじられて、愛されている。いや、ほんと、愛されるのに値するキャラならではの大活躍だった。

2008年8月3日日曜日

FUKAI PRODUCE 羽衣 ROMANCEPOOL

02/08/2008 ソワレ

おおっぴらにエッチであこぎにセンチ。

目新しいことを血眼になって探さなくとも、他と違った気持ちの良いパフォーマンスはそこにあるんだよ、ということがよーく分かる。こういうのがア ゴラで観られるのはとても嬉しくて、(青年団、五反田団からリオフェス、チェルフィッチュまで取り込んだ)アゴラ特有の「匂い」に、この集団のエッチな香 りがまた1つ付け加えるのか、と思うとまたそれも嬉しい。

このFUKAI PRODUCEという集団を人に説明するに当たっては、どうしても、
・ なんだか無脊椎動物のような とか、
・ 芝居の系統樹から外れた生き物のような
という言い方になってしまう。

60年代アングラから現代口語演劇まで、どんな方法論を展開すればここに至るのかという質問は彼らについては無意味で、「だってこういうのがある んだもん」の一言で片付いてしまう。でも、「センス」とか「才能」と言って諦めてはいけないのじゃないかとも思うし、じゃあ、どんな風に整理したらよいの か、と考えるより前に、まずは存分に楽しむべし。

山田せつ子 ふたりいて

02/08/2008 マチネ

途中幾度も舟をこいだ瞬間があったので、あまり生意気なことを言ってはいけないとは思うが、基本は「人にお奨めできるパフォーマンス」なので、書ける限りのことを書く。

開演から20分弱、音の無い中で、非常に厳しいパフォーマンスが展開する。「厳しい」というのは、パフォーマーの身体の動かし方、把握の仕方に対して要求が厳しい(=分かりやすい意味を排除する、日常へのリンクを排除する、メタファーとしてのデフォルメを排除する、予定調和を排除する、という、引き算を極める感覚)のと同時に、観客に対しても集中を要求するという意味で厳しい。この厳しさはすごい。と、素人目にも思う。

やがて舞台にパートナーが登場し、音楽が鳴り(90年代のルー・リードですか?という類のギター)、徐々に2人がお互いに影響しながら演じる場面になる。音楽も、大音量のものからミニマリズムっぽい繰り返しになったり、無音に近くなったり。
終盤は無音のパフォーマンスに戻り、それから、リスペクトールのテクストがスピーカーから流れる中でパフォーマー達が動きまわって、終わる。

これから先は言い訳になってしまうが、やはり、繰り返しの多い音楽が流れて、それにパフォーマンスがのっかった瞬間に、舟をこいでしまった。クラシック音楽聴きに言って、妙に耳当たりの良いメロディが流れると寝てしまうのと同じ道理。舟をこぐのはほんの2,3秒で、というのも、パフォーマーがあたかも2,3メートルを瞬間移動したかのように映って、驚いたりしていたからです。

ああ、やっぱり自分も、物語とか意味に頼ってしかパフォーマンスを観られないのか、と思って、自分にがっかりする結果となった。捲土重来を期したい。

2008年7月28日月曜日

@@ has a headphone "いつでもここは夏である"

26/07/2008 マチネ

楽しかった。観て楽しい、聴いて楽しい、飲んで楽しい。
山縣太一をはじめとする4人のパフォーマー達、みんなおしゃれで格好良くて身体がよく動いて、とても目が離せない。

プロジェクターで投射される記号の渦はまるで東京の街そのもので - そう、僕が久し振りに東京を歩いた時に感じた文字通りゲロ吐きそうなくらいの情報過多、「僕を見て、私を見て、これ買ってあれ買って」な記号の渦のようなのだ。

その中をくぐって、あるいはその中に全身埋まりながら、パフォーマー達は渋谷から新宿まで移動したり、バイクで走ったり、昔のことを話したりする のだが - そういう、街中で拾ってきたちょっとした身振りをダンスに仕立ててSTスポットにのっけた、なんて言っちゃったら、身も蓋もないおじさんの新 聞劇評に仕上がってしまう。

そうじゃなくて。記号の渦に逆らってるわけでもなく、でも、渦の流れに身を任せてるわけでもなく、そこにはパフォーマー達の「個」があって、
「僕を見て、私を見て、なんも買わんでいいから、僕らを見て。ここにいるの、僕らなんですけど。こうやって動いてるの、楽しいんですけど」
という、ひどく当然の、でも、伝えることも感じ取ることもエラく難しいモノが、目の前にポンと差し出されていることの興奮とせつなさ。

ポケットティッシュ手裏剣のキレの良さは往年の新宿の虎が夕刊をポストに投げ入れる時のキレを思い起こさせ、野上絹代がジャンプする瞬間に涙こぼ れそうになり、Balkan Beat Box でこんなに格好良く踊れる奴らに嫉妬する。松島誠の立ちに、山縣太一の酔拳に、山崎皓司のダッシュに、目を瞠る。

とても幸せな横浜の午後。ドリンク三杯でめでたくプレイリストも手にして、文句なくご機嫌でうちに帰りました。

2008年7月27日日曜日

三条会の真夏の夜の夢

25/07/2008 ソワレ

楽しかった。とっても楽しかった。

小田島訳のシェークスピアの台詞がこんなにしっくりと耳に入ってきたのが、まずは新鮮な驚き。これなら文句ありません。小田島先生もこの舞台を観ていたら、きっと自分も舞台に上って朗々とご自分の訳を読み上げたくなることだろう。
ボトムのロバはこれまで見た真夏の夜の夢の中でもっともグロテスクでユーモアに富む。それも含めて、素人芝居組は何とも楽しい、刺身のつまにとどまらない存在感を示す。
野外、円形の舞台もシンプルかつ美しい。舞台の向こうに木が繁って背景をなし、それが、なんとも、日本の森な感じで、それも良い。中央の円錐が、メイポールのような感じでそうでないようで、それも良い。

しかし、ショーを攫ったのは近所のおじさんだった。後半、舞台奥の役者用スタンドの間に、片手をスタンドにかけたままじっと動かず芝居の行方を見守る、いかにも近所からやってきたオヤジ。しかも、舞台奥ほぼ中央にいるので、照明モロあたり。それにも全く動じず表情も変えずに立ち尽くす姿に、観客はみなシビれていたに違いない。
結局、そのまま、芝居がはねるまで微動だにせず、舞台奥にはける役者陣も特に反応するでもなく、芝居は終わった。
あれが演出だったとすると、まさに脱帽ものです。あんなふうには、舞台に立てない。

羊と兵隊

25/07/2008 マチネ

現代のチェーホフを目指すのかあいも変わらずの岩松ワールド、今回もまた、三人姉妹の引用あり、19世紀末的な長台詞あり、奥様の不貞あり召使あり家庭教師あり、と、露骨なチェーホフトリビュート。

鉄骨剥き出しの軍靴工場オーナーの邸宅。俗物な主人、姉妹、異物としてのプラチナブロンドの中村獅童、ゴスなメイド、イカれた家庭教師。これだけ揃えて岩松シェフの厨房に並べれば面白くないわけはなくて、休憩挟んだ2時間40分、たっぷり楽しめる。

が、どことなく昨年のシェイクスピア・ソナタに較べて食い足りない気がしたのは、おそらく、下記二点による:
① 獅童の上に乗っかる年齢のいった男優が一枚足りなかったこと
② 芝居全体の中のユーモアの欠如

①についていうと、中村獅童初見だったが、獅童自身はさほど悪くない(台詞をキメすぎる嫌いがあるのは減点材料だけれど)。が、もう一枚、年齢が 上の男優に物語の差配をゆだねておいた方が、獅童の遊び方にバリエーションが出て面白かったのではないか。ちょっと役割を自分の背中に負いすぎて窮屈に なっている気もした。

②は、僕にとってはより重要なことなのだけれど、この「羊と兵隊」という芝居は、おそらく、「悲喜劇」と呼べない、あるいは、呼ばせないつくりになっている。妙に、生真面目なのである。
ユーモアのある芝居を作り出す具体的なハウトゥーが存在するわけではないのだが、ユーモアの前提条件として、自らを第三者の眼で突き放して見る態 度があるとすれば、シェイクスピア・ソナタの戯曲・演出・役者(特に松本幸四郎と伊藤蘭)にはそれがすっかり備わっていた、そして、今回の「羊と兵隊」に はそのどれかが、ちょっとずつか、それともすっかりか、欠けていた、ということなのだろう。

いずれにせよ、「チェーホフの持つ現代性とは何か」という、チェーホフ戯曲の公演を観た後、居酒屋で4時間くらい話し続けられそうなネタを、自ら戯曲を書き演出することで世に打ち出していく岩松氏の愛と胆力には、ホント、敬服せざるを得ない。勉強になります。

2008年7月26日土曜日

岡崎藝術座 三月の5日間

25/07/2008 ソワレ

すっごく楽しかった。どんどんのめりこんで観た。

この芝居の目指す欲望がとてもはっきりしていて、
「面白い芝居がしたい」
「三月の5日間の戯曲は面白い」
「チェルフィッチュは面白い」
そこから外れることは一切目に入らないまま芝居を創ったらこうなったのではないか、とまで思わせた。

(以下、ネタバレ)






面白いことがしたい、という絶対のルールの下では、反則はない。
だから、チェルフィッチュの身振りをなぞって芝居を始めても、それはサル真似ではなくて、
「面白いことをなぞってみたい」ことの自然な発露である。
それは丁度、奥泉光が「書きたいことなど何もない」と言い切って、かつ、読書する中で「なぞりたい」「続きが書きたい」欲求を拾った結果を小説とすること、とか、高橋源一郎が、「好きな小説と遊ぶことから始める」といっているのと同じだ。

でも、なぞってもなぞっても、それは神里雄大の演出と役者の身体性を通して捩じれ、曲がって、異形の物へと逸脱していく。基本3ルールが明確だからこそ、そこに拘った結果としての逸脱にはケレンが無く、ただただ唖然として芝居を追いかけるしかなくなる。

神里氏はアフタートークで、「最初から順を追ってしか芝居を創れない」と言っていたが、それだからこそ、その逸脱のプロセスが素直に見えてきて、かつ、そこには迫力がある。そのエネルギーと、可能性がブワッと開いていく瞬間のエクスタシーに浸った。

小生的に一番印象に残ったのは、みんなで外に出た後、女優が「渋谷の街がいつもと違うみたいだ」ということを階段を上りながら話すシーン。最下段に座った僕が後ろを振り仰ぐと、そこには観客と、役者と、新百合ヶ丘駅前の10階建てくらいの背の高いマンションが見える。
その視界には、金曜日午後9時に、
・ 新百合ヶ丘で誰かの帰りを待っている人(マンションのドアの向こうの幻視)
・ 新百合ヶ丘の駅から家へと向かう人(通行人への勝手なレッテル貼り)
・ 新百合ヶ丘で芝居を観ている人(事実)
・ そこで語られているのは、いつもと違うように(観光しているように=生活と関係ないように)目に入る渋谷(=本来生活と関係の無い街)(セリフ)
・ それを聞いているのは、本来生活の場である(あるいは、通勤の通過点でしかない)新百合ヶ丘駅前まで、芝居を観に来た人々(自分には少なくとも当てはまる)
・ それを駅と家の間にある通勤路で語っている役者
そういうものが全部一遍に見えて、でも、それを繋ぐものは一観客である自分の想像力=妄想と、ふと振り仰いだという偶然の結びつきの細ーい糸でしかなく、でも、

「あぁ、こういうものが掴みたくて、オレは芝居を観に来るんだ」

と思った。

神里氏の言う「場所に拘る」芝居が、そういう宇宙を一瞬でも見せようという意図なのであれば、それはすっごくワークしていて、かつ、僕はそれを確かに感じた、気がしたのである。

2008年7月23日水曜日

東京オレンジ 真夏の夜の夢

21/07/2008 ソワレ

初見。『インプロヴィゼーショナルシアターシリーズでは、即興メソッドを使い、出演者と客席が一体となって、その肉体とアイディアを駆使し、たっ た一度しかない"いま・っこ"を創り上げていきます。』 ということだけれど、本当に面白いの? と、おじさんは、まず、懐疑的スタンスから入る。開演 後、パフォーマンスの前説によれば、どうやら、この集団は、そこいらの大喜利とは訳が違いますよ、てな鼻息なのだが、一体どうなるのか?

みていると、たしかに、観客からのお題をランダムに拾って、そこから作る物語と舞台設定にどうのっかっていくか、かなり気合入れて取り組んでいるのは分かった。で、こっちも気合入れてみてると、どうやらインプロには3通りあるらしい。
① お題から物語を膨らませること
② 舞台で起きていることに、(場の中で)ビビッドに反応すること
③ 舞台で起きていることに、新たな見方・ヒネリを加えて続けること

②が決まる瞬間は観ていて気持ちよいし、③は本来妄想の持ち主である観客の役目でもあるのだが、それをうまーく先取りされたりすると、素直にヤラレタ、と思う。
が、所詮、①は大喜利だろう。しかも、全てのシーンは、構成のルール上、①から始まらざるを得ない。そこで、下記のような弱点が噴出。

① 冒頭、いきなり、「わたしはこんな人ー」という自己紹介、100%説明台詞からシーンが始まらざるを得ない
② しかも、複数の役者が場をつくってそこに観客を引き込むのではなくて、役者が役者にその場で説明せにゃならんから、説明台詞指数百倍増し。
③ 舞台で場を創るときも、1対1で会話を創るのは(難しいなりに)まだ良い。が、1人加わって3人になった途端に、場が創れなくなってしまうケース多発。

で、結局、ラストに近付くと、「まとめやすい」「観客にとって終わりやすいだろうと思われる」一本の物語に乗っかっていこうという態度がにおってきて、それも辛かった。

やっぱり純粋インプロは難しいのだ。
こんな比較の仕方は双方に失礼かもしれないが、例えば、「あなざーわーくす」の「レクリエーション演劇」は、最初から①は用意しておいて、観客に も晒しておいて、②と③に命賭けて来るから観客が入り込みやすい。かつ、観客にも振るから、出演者と客席が文字通り一体。一方、去年観たシャトナー研は、 どちらかというと大喜利に徹して、(芝居からは遠く離れても)、エンターテイニングではあった。
東京オレンジについては、そこら辺を割り切りらず、あくまでインプロにこだわろうとする生真面目さは買うが、「どうせ割り切らない限りはここまで」的な妙な諦めが、どことない内輪ノリに繋がっているとすれば、それはちょっと残念。

ゲストの絹川友梨氏、昔は「飯島由美」名で遊機械に出てらした由。おお、そういえばどことなく見覚えあったよ。まさに20年以上ぶりに舞台で拝見。ちょっと懐かしい。来年アゴラで二人芝居やる由。楽しみだ

2008年7月22日火曜日

BoroBon企画 男たちのお料理教室

21/07/2008 マチネ

東京ガスのビル内にあるほんまもんの料理教室スペースを使って芝居をやってみよう。
ということで、70席ほどが調理実習スペースの周囲に用意されていて、うち男性客8人程度。全体の1割が男性というのは花組の本公演よりも若干比率が高くて、これも「男達のお料理教室」というタイトルのなせる業か。

芝居の中身は、有体に言ってしまえば「美味しんぼ」だか「クッキングパパ」だかを芝居でやってしまった、と、そういうことで、料理の中身・味と人 情噺をうま~くリンクさせて芝居に仕立てた、という、何だかつまんない芝居みたいな言い方になってしまう。でも、そもそも料理教室スペースを使って芝居や るという時点で、実は、そういう制約はバッチリはまってるのである。だから、仕方がない。

が、テレビのお料理教室の「先生の言っているとおりなら100%確実に美味しいお料理が出来ま~す」という誰もが知っているお仕着せの予定調和と、若干予定調和かかった芝居(でも目の前でリアルタイム料理)、が組み合わさった時に、思わぬ面白みが出た。

何が面白いって、目の前で火や包丁を使って料理作るのが面白い。段取りを間違えたり、上手く包丁が使えなかったり、火をかけたままあっちにいっちゃって観客がハラハラしたり、だし汁の匂いがしてきたり。
昆布だしを火にかけて、「小さい泡が底から上がってきまーす」・・・から、実際に上がってくるまでの間の沈黙。
具をどんぶりにあける時の緊張感。

芝居の勝負どころの1つとして「いかに何回も稽古しながら、初めてのように演じるか」というのがあると思うが、特に溝口健二さん、ぜったいに、何 回稽古しても、何べん本番くぐっても、料理うまくなってないに違いない(=初めて料理教室に来たかのように演じられる)と思う。それがまた凄い。

例えば、ちょっと古いが、「料理の鉄人」が実は調理人の台詞や動き、弟子の動きやアクシデントまで全部シナリオできっちり決めていて、料理の出来 上がりまですべて台本どおりだとすると(本当はそうなんですか?)、この芝居はそれに近いのかもしれない。少なくとも飽きるまでは、僕達はその鉄人達のお 芝居を充分に楽しんでいたと思うし。
プロによる調理の予測可能性が余りにも高くて演劇に適さないのであれば、素人の料理=お料理教室。その発想は、当たり。でも、二匹目の泥鰌はいないかもしれない。

あ、そういえば、何年か前、ロンドンにベルギーの料理人集団がやってきて、バービカンの舞台上で料理作ってサーブする、というパフォーマンスをやっていなかったっけ?でも、それは、予測可能性が高すぎて、芝居にはならず、ただのあざといレストラン、みたいな印象だった。
日本でも、去年の庭劇団ペニノには料理シーン出てきたし、乾電池の「おとうさんのおとうさん」でも鍋をつついていたけれど、今回の「男達の料理教室」のように「料理する行為」を虫眼鏡で見せたりはしていなかった。と思います。

2008年7月21日月曜日

ジョン・ボーナムの気持ち

飲んで帰って、寝て、夜中に異様にむせて起きた。
むせたつばが妙に胃液臭くて、気持ち悪い。
戻すほど飲んではなかったと思うのだが(そして、その後も実際戻さなかったのだが)、なぜ、むせたのか?
「そんなん、いつものことやんか」という向きもあるかもしれないが、小生にとっては生まれて初めての感覚だった。

それにしても、である。
ジョン・ボーナムはきっと、死ぬ直前、
「この胃液の臭い、なんとかならんか!」
と思っていたに違いない。ちょっとだけ彼の気持ちに近づけたかな。
(だれか、「なわきゃねーだろ」と突っ込んでください)。

青年団国際演劇交流プロジェクト ハナノミチ

20/07/2008 ソワレ

6月のソロパフォーマンスを観たときに、
『7月の「ハナノミチ」パフォーマンスで、もしテクストがもっと「伝わる」ように演出が変わっていったら、それは僕にとっては面白くないのかもしれない』
と思っていたのだけれど、まさにその通りになった、と思う。

やはり、芝居が始まるなり、僕はテクストに対して耳をふさごうとしてしまって、それは、翻訳がどうこうとかいうのではなくて、(これはパフォーマ ンスの後半、テクストが耳に入り始めて気がついたのだけれど)そもそもテクストの内容が作者のマスターベーションじゃねーか、ということなのだ。

要は、異邦の地、京都、異邦人なオレはひとりぼっち。さびしかったり、娘のことや別れた配偶者のことを考えたり、「あ、オレが今感じているのって、ひょっとして、空?」みたいな。岩井芝居の一人称なんて屁でもない、究極の一人称。要は、独りよがりでつまらない。

「日本語に翻訳したテクストなので、フランス人演出家の手に負えなくなってしまった(伝え方という意味で)」という考え方もあるかもしれないが、逆に、フランス語のテクストとしてフランス人が聞いたら、シンプルにつまんないのではないか。どうせ作・演出家には日本語分からないのだから、と観客も割り切って、アルファベット変換して「エグゾティックな音の連なり」として聞けば、内容に立ち入らなくて良くて、大丈夫かも。

役者たちの獅子奮迅の活躍が、
(註:ベッカムがシメオネにぴょこたん蹴りを入れて退場を喰らい、イングランドがアルゼンチンに敗れた試合で、ホドル監督は残ったイングランドの選手達の戦いぶりを、文字通り「あいつらはライオンのように戦った」と褒め称えた)
あたかも、「テクストに耳を傾けないでくれー。おれたち、テクスト以外のところでこんなに面白いことをしてるんだからさー。」というように見え て、痛々しさすら感じる。でも、そこに青年団の役者達の底力を感じて、というのも、その緊張感で1時間50分、集中力を持続して、観客の眼を引きつけ続け るわけだから。

安倍健太郎の立ち、多田淳之介のテクストのあしらい方、鄭亜美の声の説得力、工藤倫子の存在の通奏低音な安定感、熊谷祐子の動き、兵藤公美の視野の広さと舞台上で起きていることの掬い取り方。それぞれが個の能力を発揮しながら、モーメントを交換していく。
(まるで、調子の良いベルカンプとアンリとピレスとヴィエイラとエドゥとコールとローレンが持ち場を守りながら自在にパスをまわしているかのように。その間、レイ・パーラーがフィールドを走り回って相手ミッドフィールダーを倒しまくっているかのように。)
全員が舞台上で起きていることに対して集中を切らさず、確実に瞬間をキャプチャーする力を満喫した。ヤン・アレグレも、そういう瞬間を掴む能力は備えているのかもしれない。

後半、舞台が壊れて、役者の持ち駒が尽きた頃になって、テクストが浮き立ってくると、ちょっと引く。ところが、9-1で川隅奈保子がテクストを話 すところだけは、なんだか見とれた。中身は知らないけれど。役者が舞台に立っていて、音を発しているだけで観ていられる、ってこういうことか?不思議だ。

公演中、音楽は全く使われなかったけれど、僕の頭の中にはなぜか開演直後からRadiohead の Optimistic がかかりっぱなしで、それもあってか、墨一色で汚されていく舞台に、いろんな色がぶちまけられている感じがして、それもまた楽しかった。

結論。テクスト以外は全部良し。

北京故宮 書の名宝展

20/07/2008 @江戸東京博物館

これは本当に素晴しい。みなさんに一度観に行っていただきたい。そして、どの書がお気に入りか、それを話し合いたい。
両国の江戸東京博物館、新宿から総武線で20分、駅から3分、是非どうぞ。

小生、小学六年から筆で字を書いたことがないし、書道教室に行ったこともないし、ペンの持ち方も「頭が悪いみたいな持ち方をする」と言われるし、もちろん字が下手で慶弔ごとの記帳のときに本当に恥ずかしい思いをするし、というくらい書道と縁がない。筆の運びとか、形の良し悪しとか、そういうのは、全然分からない。その僕が、(妙な憧れじみたものを抜きにして)撃たれた。

老若男女、分かる人も分からない人もいて、昔の字を声に出して連れに読んであげてるお爺さんや、名人の筆の動きを宙でなぞっている若者や、薀蓄たれてるオジサンや、自分の分かる漢字を拾って喜んでる人や、そういう人たちを見るのも愉しい。

書は分からないので、解説は出来ません。でも、1つだけ感想を言う。

70点近く展示してある書の中で、ひときわ、伸びやかな線で、何の屈託もなく、四肢が素直に伸びて、健康に、力強く、自由に動いてしかも過たない、そういうのをイメージさせる作品が1つあって、一通り見た後やっぱり気になって誰が書いたのか確かめてみたら、清の乾隆帝の書。これにも撃たれた。「本当に、皇帝らしい皇帝だったんだろう」と思う。

それだけでもみんなに観に行ってほしいと思うけれど、もっともっと素晴しいものがたくさん展示してありました。展示場を出た後の書道関連グッズ直売コーナーも、ちょっと異次元な感じが面白かった。

2008年7月20日日曜日

青年団若手自主企画 World's Dutch

19/07/2008 ソワレ 

作・演出本人にも言ったし、飲みながら5、6回は言ったので、もう辟易している人も要るかもしれないが、
「これを手放しで面白いといってしまったら、ウソな気がする。でも、面白くないということは全くない。そこらへんのほそ~いラインの上を、危ういバランスを取りながら、1時間15分集中を途切れさせずに観てしまった」
というのが正直な感想。

"World's Dutch" というタイトルでセクシュアリティについての芝居だと聞くと、まず「スカなのではないか」という疑念が沸きあがる。
英語では"sex doll" だから、"世界のダッチ"って言われても、"人間だったら友達だけどワールドだからワールドダッチ"、みたいな感じしかしないだろう(しないか。イギリス人がロボダッチを知っているわけないし)。

というわけだが、開演すると、辻美奈子(ヒロイン)が自分について客席に向かって語り始める。これは、①チェルフィッチュぽいのか  ②Vagina Talksっぽいのか、と考えてしまうのだけど、でも、結局どこにも着地せずに(というか、ほっぽらかしになってしまったかのように)、ラストまで行って しまう。入れ子構造も、整合性がついているのかいないのか、いや、おそらく考えてないんじゃないか?みたいな感じで処理されている。

話が進行するにつれて、これは肉欲万歳!!の話なのか、フェミニニティの話なのか、自意識についての話なのか、男ってバカね、な話なのか、世界と 自分との関係を確認する中で感じるざらつきの一断面として偶々今回セックスを採り上げたのか(僕個人はこの最後の選択肢を推す)。
おそらく、凄く陳腐な言い方で申し訳ないが、この芝居は上記すべてのちょっとずつであり、逆に、どれでもない。その、どこにも着地させないとこ ろが、この芝居の面白いところなのだけれど、じゃあ、それがかなりその狭いストライクゾーンに狙って投げた結果なのかといえば、そこは確信が持てない。も しかしたら(大変失礼ながら)結果オーライなのかもしれない。

この芝居を観終わって、その取り扱う素材にも拘らず「ドロドロした印象がない」のは、おそらく、セックスに関する話についても、「ドロドロする」 とか「観客を興奮させる」手前でほっぽらかしているからで、そこから先はかなり乱暴に観客に任されている。この寸止め感すら中途半端で、時としてモロな紋 切り型が噴出しかけるが、それすらも寸止めでとどまり、危ういところで道を踏み外さない。もちろん、その自意識の奥までを観客に晒さない作・演出や役者の 中がどれくらいドロドロしているかは、観客の妄想に任されているわけである。

ラストシーンは、おそらく、唯一、明確な方向感を舞台上及び観客に与えるシーンとなっているのだけれど、これも、「終わりのサイン」=オチ として観てしまえばさほどガックリ来るわけでなく、かつ、深刻にも陥らず。不思議な1時間15分。

ロンドンの「今年の目標!One night standは控えること!」とのたまった女性に捧げたい芝居です。

東京乾電池 黙読

19/07/2008 マチネ

エンターテイニングで思わず身を乗り出したのは前半10分、あとは苦しかった。
このテの演出で三人芝居、1時間超を持たすのにはかなりあざといことをしないといけないのではないか、あるいは、もっと観客に対して「緊張を切らしてはいけませんよー」という明確なメッセージを送らなければならないのではないか。そういうことを考えていた。

加藤戯曲を 恐怖ハト男⇒コーヒー入門⇒黙読 と観てきたけれど、ハト男がやっぱり一番面白い。今回は特に、あざとさを削り取った分が、そのまま辛くなってしまった印象である。
特に、折り返しラン以降、このシチュエーションに至った経緯を三人で語りだすと、その場がどこに向かうのかというモメンタムが一気に失速した感じがして、辛かった。。これは、演出・役者ではなくて、戯曲の責任だろう。

つくづく、少人数の不条理劇を退屈させずに構成する別役さんの力を思い知った、というのが今日の結論。

2008年7月14日月曜日

東京ネジ みみ

13/07/2008 ソワレ 

救われる話には救いがない。

精神的外傷のせいで聴力をほぼ失った女性。王子様はその原因の核心に迫り、女性はトラウマから救われる。

むむむ。こんなに簡単にまとめてしまって良いのか。良くないかも。でも、前半、分身が出てきて、フリーライターが王子様に変身したところで、観客としての僕は大団円の王子様のキスと解けた呪いを(イヤイヤながらも)期待する以外に選択肢がなくなってしまったのだ。

物事の解決に向けたアリバイの積み重ねに役者をつぎ込むのは、途方もなく贅沢だけれども、そこに芝居として立ち上がるものは(ほとんど)ない。

そうなると、男優陣(王子様、犬=家来、プレイボーイ、無責任男)のどこに移入させられようとしているのか、どんな風にアリバイのピースとして作 用させられようとしているのか、あとはたま~にでてくる小芝居とか、そういうところにしか目が行かなくなって、なんとも残念な時間となってしまった。

アリバイは不要。小生には、
「本当に聴力が弱いのか、聞こえない振りしてるのか分からない」
「語った過去が本当なのかウソなのか分からない」
「人格に惚れてるのか、耳かきテクに惚れてるのか、分からない」
「女王と犬の話は、ライターが書いているのかヒロインの妄想なのか、はたまた女子高生の妄想なのかその父の妄想なのか、芝居が終わっても全然分からない」
「会社の会長は実はうさぎの耳の後ろの垢を舐めるのが大好きなのかもしれない」
とか、それくらい分からない救われない話で充分だ。

帰り道、「耳かき屋さん」なんて初めて聞いたなあ、と思って五反田から山手線に乗ったら、あったあった、ホームを思いっきり目黒方向に歩いていって、西を見上げると、そのビルには「耳かき屋さん」の看板が燦然とそびえていたよ。

2008年7月13日日曜日

ドラマチック、の回

マイミクまちこさんのお勧め。アンテナが低くて気がついていなかったが、昨年の青年団自主企画「スネークさん」の振り付けをした田畑さんの構成・振付。デスロックに出ていて靴が際立ってかっこよかったのが印象に残る白神ももこさんも出演。
千歳烏山の住宅地の真ん中にあるStudio Gooに急遽当日券でお邪魔した。

で、さすがまちこさんのお勧めだけあって、大変面白かったです。まちこさん、改めてお礼を申し上げます。

なんといっても一番打たれたのは、全編を通して溢れるユーモア。「身を聖地に向けて投げ出せ、そして進め。それもリズムに合わせて」とか、「後ろを向いて手をしきりに動かしてなにをしてるのかな~?」とか、「私のおしりってどうよ?」とか、「カセットテレコ自転公転ドップラー効果(みたいに聞こえているんじゃないか)」とか、「チッチとサリーのたけくらべ」とか、「落ち着かない騎馬の馬」とか、まあ、タイトルは小生が勝手につけたのだが、特に観客の受けを取りに来ていないのに、愉快なものが溢れてきて、幸せな気持ちになる。

それほど大きなスタジオではないのに、6人のパフォーマーが空間を上手く切り分けて、コントラストをつけて、前景と後景を作りながら実は後景で変な動きをして見せたり、絶えずきょろきょろと舞台中に眼を配らないと面白い動きを見逃して損した気分になる。要は、空間の構成に深み・厚みとカラーがある。ソロで動いている時の緩急、注意のひき方も何ともチャーミングで、息抜きがしたければそちらに注目したり、またよそ見したり。

あっという間に40分過ぎて、寝てたわけでもないのに夢を見てた後の感じがした。気持ちの良いパフォーマンスだった。ラストの、「オアシスの象たちの乱舞」のカタルシスは、良い意味でツベルクリンを思い出させた。

ミクニヤナイハラ プロジェクト 五人姉妹

12/07/2008 ソワレ

マチネ後、「ざらついてはいかん、撥ね付けてはいかん、食わず嫌いはいかん」と唱えてアゴラにお邪魔したのだが、でも、1時間10分、つらかった。まぁ、評判も良いみたいなので、「分かってない奴の戯言」と仰っていただいて全く構わないが、正直、楽しめず。

一番気になったのは、台詞のスピード、身体の動きのスピード、台詞の音程、といったものが、1時間、一定だったこと。人間、同じレベルの刺激をずーっと加え続けると、感覚が痺れてきて眠くなる。だから、芝居でもダンスでも緩急をつける。そこに注意を払っていない気がした。
今回は、1時間10分の上演時間が分かっていて、かつ、最初の5分くらいでそれを感じて「ざらつきアドレナリン」が分泌されてしまったので、寝なかったけど、でも、困った。

パフォーマー達の身体も良く動いているし、振り付けはお洒落だし、台詞何言ってるかわからなかったり聞こえてきたり、というのも、ダサい試みとは言わない。でも、聞こえてくる時に面切っていう台詞がダサいと、聞いていて恥ずかしくなります。

ということで、観ながらずっと、なぜ、80年代後半の「ツベルクリン」が打ちのめされるほどに突出してお洒落で面白かったのか、ということを考え ていた。単に僕が若かっただけだとは思わない。でも、「自分が出来ること」を考えるんじゃなくて「昔こういうものがあった」としかいえないのはちょっと心 苦しくて、悲しい。

燐光群 ローゼ・ベルント

12/07/2008 マチネ

せんがわ劇場初見参。思ったよりも大きな建物で驚く。新しい劇場だけれど、冷たい感じのしない、割と感じの良い小屋だ。

ここのところ、燐光群の芝居は、観に行っては毒づくことが多かったのだけれど、何といっても今回は大鷹明良さんが出演しているので、それを観たかった。そして、それは、ある程度満たされた。と思う。

でも、やっぱり今回も、坂手シュプレヒコール演出が凶と出て、2時間20分、つらかった。いや、そもそも、19世紀末の「自然主義悲劇の最高傑作」と燐光群の本人達は非常に幸福な結婚、でも、いかんせん100年遅かった、ということなのだろうか。

色々毒づくポイントはあるのだけれど、一番大きいのは占部房子の使い方で、正直、2時間強の叫びっぱなし、暴れっぱなし、観ていられず目のやり場 に困った。一言も叫ばず、暴れず、男を舐めたような目つきで、でも、狂気へと進んでいく(われながらなんてチープな!)姿がみれたらよかったのになー、 と、冒頭からずっと思っていた。そして、そのまま終わった。坂手流の「現代テイスト」への改訂も、今回は皮相的に過ぎて苦しかった。

その日他で飲んでいてなるほどと思ったのだが、話のモチーフは去年武藤真弓演出のリーディングで観たファスビンガーの「ブレーメンの自由」に似て いる -社会の抑圧、家族、ジェンダー、宗教-。でも、「悲劇のヒロイン」の見せ方が坂手演出と武藤演出で全然違っていて、正直、村田牧子のヒロインの方 が全然面白かった。

芝居がはねた後、黙って前のめりで早足で帰ろうかとも思ったのだが、Nじさん、Sい君と鉢合わせて、近所でお茶。Nさんの演劇Loveぶりに、ざ らついてばかりの自分が恥ずかしくなった。あぁ、ほんとうの芝居好きというのは、あなたのことを指すのだろう。心が洗われました。で、その場で言い忘れて いてまたもあとで後悔したのだが、「て、の演技、素晴しかったですよ」。この場を借りて申し上げます。だれかNじさんにあったら伝えて。

2008年7月7日月曜日

青年団 眠れない夜なんてない 再見

06/07/2008 ソワレ

千穐楽。
ゆったりと、焦って事件を追わずに、でも、油断なく、舞台に眺め入る。

どっかの劇評に「手に汗を握ることは起きない」と書いてあったが、こんなに充実した舞台に見入っていて「手に汗を握らない」というのは一体いかがなものか。ハリウッドのアクション映画でしか手に汗を握れないのは、コーラの飲みすぎで味蕾が死んじゃったようなものである。
ま、逆を返すと、僕がコーラがぶ飲みしたら一発でお腹壊しちゃうということだが。

ゆったりとしたうねりが気持ち良い。ディテールがポンと目に触れることがあって、それも良い。

どこか作り物っぽい環境の中で作り物っぽい日々を過ごして、そこから出たくなくなっちゃう人たちを、「本当の作り物」の中で演じているのが、何だ か面白かった。でも、そういう「作り物of作り物」の裂け目から、作りきれない何かが染み出てきちゃったりするのが、また面白い。

何度見ても、誰と見ても、きっと違うものが見えてきて、面白いのだろうと思う。

地点 三人姉妹

06/06/2008 ソワレ

初日。
叔母に「関西で面白い芝居はあるか」と聞かれて地点を挙げ、挙げてしまった以上時間をとってお付き合いせずばなるまい、という口実で、大阪まで来た。
三浦演出の三人姉妹は春風舎で見逃していたので、一度観たかったというのもある。新幹線の往復チケット取った後になって、秋に東京に来ることが判明。まんまとはめられた。

ということで劇場に着くと、Mさんとでくわす。初めて紹介されたのが那須のなぱふぇす、次に顔をあわせるのが大阪で地点の初日。M氏はその後午前零時開演のやみいちこうどうに出かけていったが、いやいや、ホント、好きモンですねえ。かないませんわ。その他、いろんな人に出くわす。美術の杉山にも出くわす(初日だから一種当然か)。芝居がハネた後、なぜか叔母と二人で打ち上げにもお邪魔した。なにがかなしうて大阪まで来て杉山と飲む?まあ、叔母は楽しかったみたいで、それがなにより良かったのだけれど。

で、肝心の芝居だが、これは、本当に、観に来て良かった。
まさに公演中舞台上にあるものすべてに演出の意図が行き渡っていて、役者も舞台も戯曲も音も、すべて芝居の切り離しえない部分となっている。それがすごい - と感じるということは、じゃあ、常々見ている芝居では演出の意図が行き渡っていないということか?いや、そうじゃないよね。

おそらく、自分としては、芝居の中の時空の「粗と密」を楽しむ部分はきっとあると思っている。三浦演出はその「粗」を許していなくて、まさに「芝居を作りこむ」とはこういうことなのか、と思わせる。役者・音響・照明・美術・舞監、みんな、すごいストレスにさらされていることだろう。
で、そういう、芝居の中で起こっている・中にあるすべての事物について、「あれはどういう意図なのか?」と問うた時に、演出家から100%答えが返ってきそうな感じって、果たしてどうよ、ということはすこーし考えたけれど。すごい気合を入れて描き込んだ油絵みたいな印象が強烈に残る。

もちろん、一筆書きの一字だって、面白いものは1時間観ていて飽きないものなのだ。そこら辺のことをウンウン考えてしまった。東京公演も大変楽しみ。それまでにありったけ考えておかなくちゃ。

A級 Missing Link 裏山の犬にでも喰われろ!

05/07/2008 マチネ

初見。精華小劇場にも初めてお邪魔した。
なんばの街の人通り、人のうねりにあてられつつ劇場へ。小学校の体育館跡ということで、もっとだだっ広く拡散する空間かと思っていたが、案外そうでもない。

舞台上に作られた10畳間が、いろんな時点の・いろんな場所の、複数の登場チームの活動の場となっていて、それが、「人間よりも古くから地球上にいる一族」の姉妹の話とリンクしながら物語をドライブする。冒頭の姉妹の会話がちょっと力入っていて、かつ思わせぶりすぎるところもあって、2時間強の芝居、どうなっちゃうんだろう、とも思ったが、逆にそこで余計な期待をやめた分、楽に観れたのかもしれない。妙にいらいらすることなくあとの2時間集中途切れず観た。

複数の物語の絡ませ方自体は悪くなかったのだと思う。そこで不快感を催さないから2時間もったのだろう。ただし、抑圧するもの⇔されるもの、の単純二元論は弱いし、劇団ネタ、台本入れ子ネタは、「あざといプロットの入門編」みたいな風もあって、工夫の余地ありか。一度つくった物語の構造を壊して、もう少しうにょうにょと分かりにくくしても良かったと思う。

一方で、関西弁の台詞の芝居だったのは好感度アップ要因。関西の劇団だから当然か、というと、東京で観る関西の劇団は必ずしもそうでもないし、そこら辺が「ああ、やっぱり来てみるもんだ」と思えたりする。

大きな減点要因は、冷房の効かせ過ぎ。後半は左肩が冷えて冷えて。全般に大阪は東京に較べて冷房が激しい感じがした。喫茶店、電車の中も含めて。みんな、平気なのかな?

鉄割アルバトロスケット 鉄割の信天翁が

04/07/2008 ソワレ

鉄割を見始めてからもう何回目かになる。当パンに自分の好きなネタが載っていると、大変にうれしい。開演前から期待感が高まる。オープニングの「はじ◎よ」、やたらカッコよくて、ここだけでもう「来てよかった」感たっぷり。あとはリラックスして観た。

あれ、なんか、前半だけで帰っちゃった人も結構いるみたいだけど?
っていう風になるのも、実は今回、ちょっと頷けないこともなくて、その回の前半にはキレを感じず。「もうすぐ休憩ですからね」ってえ台詞が本当に苦しく聞こえて、どうしちゃったのかと思う。
後半盛り返して、馬鹿舞伎には拍手も出たが、トータルではやはり長く感じた(って、実際2時間30分近くやっててくれたので、僕としてはお得感あり)。

「いつわさん」、カッコよい。泣ける。「麻薬の取引現場」、Sabotageのクリップをそのまま舞台でやる根性に感服。その他色々あるが、中島弟の露出度がいまいちだったかも(それは言わない約束か?)。

初見でこの長さだったら、やっぱりきつかっただろうと思う。が、末広亭で寄席を見たら、休憩挟んでもっと長い時間やってるわけなので、そのつもりで観れば、なんてことはないのだ。
力を抜くのが、ポイントでしょうか。

2008年6月30日月曜日

プリセタ ランナウェイ

29/06/2008 ソワレ

プリセタ、好みの芝居。40歳の男による40歳の男のための40歳の芝居。戸田昌宏と谷川昭一朗、いつ観ても面白い。もっともっと混んでても良いのにな。でも、若い人がわざわざ観に来るものでもないのかもしれない。むちゃくちゃ尖がった芝居でもないし。

というわけで、今回戸田vs谷川、たっぷりと堪能させていただいたのだが、実は、取り扱う事象が「家族の愛」だったり「親父と息子」だったりしたので、いつもよりも「情けなさ」「下らなさ」が遠慮して、クサい芝居がちょろっと顔を出して、苦しいところもあった。
後半妹の長台詞はちょっと危なかったし、あえて言うなら戸田昌宏の「目のそらし方」「目の伏せ方」も、今回はすこーししつこかったんじゃないか な、と。戸田昌宏、良い役者なのはみな分かっているので、後は、みんなが好きな「目の伏せ方」を封印した演技も逆に面白いんじゃないかと思うが、どうか。

全般に、「前回公演から間が詰まって、戯曲が練りきれなかったのか?」と思わせた。
「大雨による津波の心配」とか、微妙なギャグだかギャグじゃないんだか、みたいなものや、Like a Virgin 胸出し踊りも、前後の脈絡考えたらただのサービスシーンじゃないか、みたいなのもあって、それはそれで大変よろしいのだが。もっと情けなく、もっと同情に 値しないような中年男を描いていってくださることを、切に希望します。

アンナ・ハシモト クラリネットリサイタル

29/06/2008

極くたまにはクラシックも聴く。ま、大変お世話になった人の関係だから、というのもあるのだが。

英国でPurcell School⇒Royal Academy of Musicと王道を歩む彼女はまだ20歳前なのだけれど、2004年にバービカンで演奏した時に較べて、目に見えて音が出るようになっていた。
指は相変わらず良く動くけれど、そこに頼らず、色んな音域の音を自信を持って演奏できていたのが、大変印象に残る。緊張すると眼鏡に手をやる癖も、今回は3度しか出なかったし。

帰りの電車で、隣の席に「聞きつけている」ご夫婦が乗ってらして、ご主人が、
「難しい曲もやってたね、あれは難しいだろう。でも、そういうので、ピアノの音がクラリネットの音を喰っちゃいかん」とか、「あの曲は、良かった」とか、色々仰っていたのが勉強になった。かつ、よくよく楽しんで家路についてらっしゃる感じで、僕もちょっとだけ嬉しくなる。

僕が今後どのくらいクラシックを聴く機会があるか分からないけれど、その数少ない機会で、伸びやかな、キリキリしない音を耳に出来たのも幸せだった。

2008年6月29日日曜日

東京タンバリン 華燭

28/06/2008 ソワレ

杉山至+鴉屋の舞台は出色。この激しく使いづらい三鷹星のホールを、ここまでカッコよく見せたのは、これまで何度も見た中で、昨年のサンプルの舞台だけ、って、これも杉山が舞台美術担当していたのだけれど。いや、この舞台美術だけでもとは取りましたよ。マジで。

さて、肝心の芝居だけれど、東京タンバリンの舞台は、どうしても、「パッケージ商品として観客に差し出せる」という意識が先に立っているような気がしてならないのだ。
佐竹大先生の「大先生」ぶりっことか、馬場大先生の堂々たる「大先生」っぷりとか、飲んだくれ大場の猪口のあおり方とか、ソノコが何故出の時だけ 唄を歌っちゃうのか、とか、そういう紋切り型が、(もしかすると多少の諦めとともに)臆面もなく舞台に晒されて、まぁ、そんなものは放っておけばよいとい うのも1つの考え方なんだけど、

「話をうまくまとめる」

だけが芝居の勘所じゃないような気がするんだよね。じゃあどうしろっていうんだよ、という答を出せてないのが苦しいんだけど。

新国立劇場 混じりあうこと、消えること

28/06/2008 マチネ

芝居本編1時間半、アフタートーク1時間20分。
芝居本編は、これ、1時間半かけなくていいんでないの、1時間10分くらい?三条会なら35分?ってな具合で、若干台詞の言い方等々間延びした印象もあって、途中ちょっと眠くなったりもした。

戯曲の体裁は「前田不条理劇ワールド」。登場人物が「思わず口に出す言葉」が、それ以降の登場人物それぞれの行動を規定していく、そうやって、い きあたりばったりに物語が紡がれていく、そのプロセスが良く見えるお話だなあ、という印象。こういうの、おままごと、っていうんだろうと、自分の脳内では 「大人のおままごとワールド、顔と身体つきは大人の役者が演じてるけど、実は全員7歳児だと思って観てください」という芝居なんだろう、と思っていたら、 アフタートークで、「神話を作ろうとしてたんです」という話を聞いて、目から鱗でした。

これもアフタートークを聞いた後で腑に落ちたのだが、やはり、白井晃演出と4人の役者は、「そこで何が起きるのか」に集中し切れなかったようで、 どうしても「背後の物語」「人物の背景」がないと演じられ/演出できなかった、という印象。五反田団でなら目に付くであろう「余分な細部」とか、「あらぬ 方向に妄想スイッチを入れる仕掛け」は残念ながら観られず。要は、紋切り型を紋切り型からもう一段羽ばたかせる仕掛けは欠如。

アフタートークは白熱の1時間超、元NHKの堀尾アナ、新国の観客を1人でしょって立って、「分からない」「意味が分からない」「どういう意 味?」を連発。堀尾氏は「いわゆる観付けた観客」のpatronisingな態度までしょっちゃってるもんだから、途中で前田氏マジ切れ
「僕のことバカにしてませんか」「例えばNHKのアナウンサーの方だとそういう風に見えてしまうと思うんでしょうけど」
等々、おいおい、君の言葉そのまま新国立劇場の観客にざらついてるぞ、みたいな感じで進む。間に挟まって困る白井晃氏、その中庸ぶりが芝居の中途半端さを象徴しているようにも思えた。

パートナーにそのことを教えたら、「身を挺して前田君からピンポイントの説明を引き出そうとした堀尾アナの態度や善し」とのご託宣。うむうむ、ごもっとも。堀尾アナのお蔭で、

「演出の違いはセブンイレブンまでの行き方の道順の違いみたいなもの」
「現代の神話を作ろうと思った」
「分かることは、カテゴライズすること。あっち側とこっち側を、分けること」
「混じりあうこと、消えることは、境界を無くしていく試みであること。前田氏はアプリオリな定義づけ・条件・境界にざらついた違和感を感じていること」

等々、前田氏の重要な発言もバッチリ聞けたのだから。

前田氏は日記で曰く「司会のアナウンサーの方は東大出身に違いないと途中から勝手に思う。」
うんにゃ、それは違うぞ、前田君。東大君は、観客をしょって引き受けたりしないぞ。どっちかとゆーと、客席に隠れて独り愉しく妄想を膨らませてるぞ。

というわけで、芝居よりもアフタートークの方が面白くなってしまったのは残念だけれど、戯曲そのものはとっても大好き。是非五反田団で観てみたい。もちろん少女役は立蔵葉子、いや、中川幸子?うーん。迷う。

青年団 眠れない夜なんてない

27/06/2008 ソワレ

初日。
ここ2年くらい観てきた青年団の舞台に較べて、人の出入りを抑え、一人ひとりが受け持つ時間帯をストレッチして、その分芝居全体のうねりも大き く、力強い。それをきっちり受けて立ち、舞台上の空気を支える役者の力も充分。終演後の「打ちのめされた感」「満腹感」は、ここ最近観た中でも一番だっ た。

「いかに相手のレスポンスを無視して無理矢理話し続けられるか」は、いわゆる長台詞への平田なりの回答かもしれないし、
「台詞のとちりだか演出なんだか最後までわからない、誰も突っ込めない言い間違い」とか、
「この人は本当のことを言ってるんだかうそを言ってるんだかわからない」とか、
ナミの戯曲ではこなせない面白テーマも盛りだくさんで、それはいうなればソースの愉しみ。

放射形の広がりを意識した舞台の「すわりの悪さ」は、「上手から下手に流れる緩やかな風」という「別役舞台風水」の風の流れを分断して、それは、この芝居ではむしろ効果としてはプラスに働いていた。
役者の衣装も、これはモロにネタバレなので書かないが、「サービスシーン」てんこ盛り。

もちろん役者の技量は保証つきで、どこを観ても飽きない造りはいつものことながら、「ひらたよーこ vs 松田弘子」「山村崇子 vs 松田弘子」は、まさに、"Clash of the Titans"と呼ぶにふさわしい。それに限らず、各役者への「重心のかかり方」が今回の青年団では非常にはっきりしていたように思う。「パス回しだけ じゃないぞ」という感じが、どの役者からも骨太に伝わった。

いまや小劇場演劇の「メインストリーム」と呼ばれることもある青年団の新作だが、青年団が、「時代を軽やかに駆け抜けて」いないことははっきりと 分かる。どこに向かっているかは一観客として知るべくもないけれど、ドーンと腹に響く一歩、次にピアノが撃つコードがまるっきりコンベンショナルなところ からかけ離れている、要は、”Giant Steps”、とまあ、お後がよろしいようで。

2008年6月22日日曜日

柿喰う客 俺を縛れ!

22/06/2008 マチネ

「柿喰う客は80年代演劇より出でて80年代演劇よりも80年代演劇」

この間の流山児事務所の芝居を観て「80年代芝居の限界」みたいなことを感じていたら、なんと王子では80年代芝居の限界をこうやって取っ払ってみちゃいました、みたいな芝居をやっていた。

2時間20分、長い長い、でもおおむね飽きずに、スピードと身体の動きとノリで見せ切ってしまう。実は、中盤、1時間30分過ぎたところでちょっとペースが落ちて眠りかけたのだけれど、スタートからラストに向けて物語のラインがガッチリあるので、特にロストすることなく観続けられた。まさにメッセージ無用の80年代演劇、妙なメッセージを取り払った分を台詞・演出・役者の技量で埋めて、ここまでやっていただければ文句ありません。

オジサン的には、すし詰めのタイニイ・アリスで観た花組の悪乗りと高揚感を思い出しました。

ポストパフォーマンストークも大変面白かった。特に、中屋敷氏が、
・ 「現代口語演劇」がここ3年面白くないと感じていること。
・ 高校時代「弘前劇場」を観て育ったこと。
・ 高校演劇をしながら80年代演劇(遊眠社・第三舞台等)の戯曲・ビデオを漁りまくったこと。
・ 日本語の「七五調」の心地よさに着目していること。
うんうん、そこまで考えて、この芝居。すごく納得的。

80年代演劇の限界だと思っていたことを、青年団は「歌わない・踊らない・笑わせない」で突き抜けようとしていたのだけれど、高校時代弘前劇場を見て育った中屋敷氏は、80年代演劇の「歌って踊って笑わせる」部分はそのままとっておいて、どうやったら2000年代に突き抜けられるかをうんと考えてやっている。同時に、ポップな作りにしてあるけれど、実は、野田の芝居が日本の芝居の正統を受け継ぐものだと井上ひさしが言っていたのと同様、柿喰う客の芝居も、しっかり「日本の芝居」しているのである。

今後、中屋敷氏がこの「借り物の80年代ぽさ」を脱ぎ捨てる時が来るのか、来ないのか。大変興味深い。


それにしても、今、小劇場では現代口語演劇が主流なのか。知らなかった。
てっきり野田とか阿佐ヶ谷スパイダーズとかキャラメルボックスとかナイロンとか大人計画が主流なんだと思っていた。それともそういう人たちは「小劇場」ではないのか?
そこらへん、事情通の人に聞いてみたい。

toi あゆみ 再見

21/06/2008 ソワレ

ああ、面白い。面白い。どこを見ていても面白い。
上下ソデで出を待っていたり、歩き終わってはけていったりする姿も面白い。
初日から微妙に振り付け・小芝居をいじっていて、その違いに30秒後くらいに気がつくのも面白い。

しばらく足だけ見てたらそれも異常に面白い。あと4、5回観に行って、どれが誰の足だか区別がつくくらいにじっと観ていたい(小生足フェチではないです。念のため)。
アンダープロネートの人、オーバープロネートの人、後ろ重心の人、前のめりの人、気合台詞で足じゃんけんがチョキになる人、蹴り上げて前に出した 足の爪先がぴょこんと曲がる人、右足だけ地面を掴む人、左足だけ掴む人、細かくステップ踏む人、踏まない人。ダンスの上手そうなスキップ、ぎこちないス テップ。

観客の視線を意識的に足に集める演出は、実は、「砂、熱い」、「足、痛い」、「新幹線から電話をかけるシーンでの所在無い娘のステップ」、等々、 実は割りと限られていたのではないかと思う。だからといって今まで足に充分目をやっていなかった自分を、ちょっと呪った。ほんとうは「あるく」芝居なのだ から、もっともっと足の表情に目が行っていて当然のはずだったのに。

でも、役者陣の顔の表情、髪をいじる仕草、もじもじして指がお尻をお散歩する仕草、そういうのもずっとみていて飽きないので、なかなか足だけに集中するわけにはいかないのだ。

もしこれを、本当に身体の癖を完璧に把握していてそれを消し去ることの出来るパフォーマー達が、機械のように一糸乱れぬ動きで1時間40分演じて 見せたらどうか。それはそれで、無茶苦茶気持ち悪くて、かつ、機械の中にやっぱり「個」が噴出してきて、恐ろしいことになるかもしれない。観てみたいよう な、観たくないような。今回の役者のレベルが、柴氏の意図したレベルなのか、そうでないのか、次はどこに行くのか、等々、興味は尽きない。

ハイバイ て

21/06/2008 マチネ

「岩井一人称芝居(*)」を予想して来た観客をまんまと罠に嵌めて、しかも現代口語演劇の手練手管だけじゃなくてしっかり家族の物語なエンターテイメントだったりするぞ、というわけで、ヤラレタ!こりゃおもしろい。

(*) 「岩井一人称芝居」とは、「岩井秀人の自意識を中心に」「岩井秀人をあらわす登場人物に移入してもらうことを前提として」「岩井秀人の視点で」「岩井秀人の物語を進行させる」芝居を称して、小生が勝手に名づけたものです。

視点のズレトリックだけで見せてるんじゃないぞ、というのが、次男坊の友人や長女のムコの使い方で、彼ら2人の存在が芝居のフォーカスが複数視点で分解されちゃうのを防いでキュッとネジを締めていた。

戯曲の話とは別に、また、どうやったら、「場として成立していないこと」を「舞台上の場として成立させる」のか、という課題もあって、そういう企みをきちんと舞台に載せるためには、もちろん役者の技量がしっかりとしてなくてはならなくて、その辺りも、猪俣氏初めとする役者陣、すばらしい。わたくしメ的には永井若葉さん素敵で素敵で仕様がないが。

芝居がはねて劇場の外に出ようとしてると、やたら興奮してお友達にまくしたててるオジサンが一人いて、よーく見ると東京芸術劇場の高萩氏でした。そりゃそうでしょうとも。とっても面白いよ。今回のハイバイは。

2008年6月21日土曜日

Hana no Michi II @東京日仏学院

20/06/2008 ソワレ

結構疲れていたので、僕の頭が変だったのかもしれないけれど、変なパフォーマンスだった。

通常は、
・ 役者が舞台上でテクストを発声する
・ 観客はそのテクストを聴き取る。意味を考えたり、時には、声質や音程や他の役者とのからみを「音をmass(質量のあるもの)として聞いたり」する
・ で、観客は、「役者が何を言ってるかわかんない」とか「意味がわかんない」とか「新聞の朗読みたい」とか「クサい」とか「気持ちが伝わってきて良かった」とか「魂を揺さぶられた」とか、色々勝手なことを言う
ということが劇場では起きるはずなのだけれど、エスパス・イマージュで僕に起きたことは、

・ 発声される、もしくはスピーカーから流れてくるテクストは、ほぼ耳を素通り。逆に、バックグラウンドのノイズのように、全体の雰囲気を規程するように働いていた
・ その一方で、プロジェクターで投影されるイメージは、布団の上でリモコンをいじったり、寝返り打ったり、騒いだり、飛んだり跳ねたり、笑ったり、と、むしろ、テクスト以上に雄弁に物語のきっかけを観客に与えているように取れた。
・ また、壁や舞台面に書き付けられるテクスト(文字)達は、そこに付着することによって、聞き流される・見過ごされることを拒否し、その場に踏みとどまろうとしているのだった。
・ じゃあ、舞台上の役者には何が起きているかというと、文字を書き付けたり、プロジェクターに投影された影絵の黒子であったり、なんだか、「私を見て!」的な動きはしていないぞ、と。

自分なりにまとめてみれば、通常は前景にあるはずの役者+テクストが、まさに発声されるテクストであるがために後景へと退いて、代わりに、普段は舞台の上で大きな顔をしていないもの(「文字」とか)がうじゃうじゃと湧き出してきたような印象だった。そういう面白がり方は、おそらく演出家の本意ではない気もするが。

それはそれで(僕にとっては)良いのかもしれないけれど、7月の「ハナノミチ」パフォーマンスで、もしテクストがもっと「伝わる」ように演出が変わっていったら、それは僕にとっては面白くないのかもしれない。

toi あゆみ

18/06/2008 ソワレ

初日。
黒子衣装の女優10人が歩んでみせる女の一生。ベタな物語に白黒の舞台なのだけれど、観終わってみると、凄く沢山の色付けが各シーンでされていることに気がつく。

ベタな物語であっても、シンプルな舞台であっても、その中から溢れてくる役者の「個」を観る喜び、そして、随所に出てくるすっごく個別の要素をきっかけとして自分の物語/妄想/想像のスイッチを入れる喜び。僕が芝居を観る喜びのツボにはまった芝居である。

芝居がはねた後、結構興奮して色んなことを喋り散らしていた気もするが・・・例えば、柴演出のファシズムと演出のデモクラシーについて(何のこっちゃ)、100人市民演劇構想、東京デスロックにおける山本雅幸の脛毛・・・今となっては自分でもその脈絡は不明だ。

で、どんな芝居なの?と聞かれたら、やっぱり分かりにくい喩えだが、ロンドンのアパートから見えた、ヒースローを離陸する旅客機みたいな話だ、と言おう。
僕の昔住んでたアパートの窓からは、ヒースローをきっちり40秒ごとに離陸する飛行機達が、左前方の木のこずえから、右の窓枠上方へと斜めに視界を横切っていくのが良く見えた。
一機目が窓枠左からゆっくりと右上方へと、僕の視界を横切っていく。
飛行機の尻尾が隠れる頃、今度は、左側、同じ木のこずえから、ほぼ同じ位置・角度・速さで次の旅客機が現われる。右へと横切る。
それが消えかける頃、次の飛行機が・・・
ぴたっと同じ動きを繰り返していくのだけれど、それは、スイス航空だったり、全日空だったり、ノースウエストだったり、そして、同じコースをそこでは辿っていくのに、じつは僕から見えないところで世界中の色んな場所に分かれて飛んでいくのだろう。なんだか不思議な気がして、見ていて飽きなかった。
この「あゆみ」も、おんなじくらい、いや、それ以上に、いくら見ていても飽きない芝居です。

<以下、ネタバレ気味に>

歩くペースであゆみの人生を辿っていって、山登りでスピードが遅くなる。すると、先読みする観客の常として、
「あ、終わりに差し掛かってきた。いつ、歩みが止まるのだろうか?」
というドキドキ感が高まる。
で、「立蔵葉子が止まった!」と思った瞬間に、それまで抑えたスピードに蓋をされていたものが舞台上にぶわーっと弾けて出てきて、思わず涙が出た。
そこで一回緩めておいて、その後はゆるーくふわふわと流していく緩急良し。

照明は工夫の余地有り。2人並んで歩く時、奥側の人の顔がくらーく見えちゃったのはもったいなかった。

2008年6月17日火曜日

消防士さんは子供の憧れ

通勤時に、会社近くの消防署から消防自動車が二台出て行くところだった。
今朝初めて気がついたのだが、消防自動車は、全身に意志を漲らせている。
「火事があったら、消しますよ」
という強い意志。余計なスペックは不要である。

火事で出動している訳ではないので2台揃って信号待ちしているところに、向こうから道を曲がって小学生の兄妹、登場。
2人ともじーっと消防自動車を見ながら、こっちに歩いてきたが、
ちょうど、消防自動車が発進するのと同じタイミングで、
兄、消防自動車のホースに「ぴとっ」と触ってみせた。

あぶねーよ、おまえ。でも、その触ってみる気持ち、痛いほど分かるよ。

イギリスで、消防自動車を見物に行って消防自動車に轢かれて死ぬ子供が結構いるっていうのも、とっても良く分かったよ。

2008年6月16日月曜日

流山児事務所 双葉のレッスン

16/06/2008 ソワレ

ごまのはえ氏のニットキャップシアター、彼岸の魚という芝居を1年くらい前に観て、なんだか80年代っぽい芝居だなー、もうちょっと突っ込んで書 ける人なんじゃないかなー、と思っていたのだが、何と今回、すっごく良く書けた台本で、さすがに作者のごまのはえ氏、天野天街・流山児祥の両氏に五度も書 き直させられただけの事はある。

前半の繰り返しパートのドライブ感、ズラしを入れながらの後半への加速感はなんとも観ていて心地よく、観客が「種明かしに向けたヒント」を見つけ に走らないよう、エンターテイニングに、テンポ良く進む。このテンポは2年前に早稲田で同じく天野演出の芝居を観た時と同様で、ああ、これが天野節なの か、と思ったりもする。

そういうわけで、後半に差し掛かるまで、悪い意味ではなくて、「80年代演劇との幸福な再会」な感じがしていたのである。正直、それだけでも、この芝居、観る価値はあると思う。

でも、最後になって、このわけの分からない話の風呂敷を、何と、畳んで、オチをつけてしまったのは、とても残念。これだけしつこくめくるめく不条 理な繰り返しを見せ付けているのだから、そこから物語を妄想する作業と勝手なオチをつける作業は、客に任せてほしかった。メッセージは要らない。ただた だ、役者が舞台上をぐるぐると巡り続けるだけで、スッごく強力な、まさに「演劇でしか出来ない」舞台になっていたのじゃないかと、思ってしまった。
そこらへんが、実は、80年代に僕が観ていた芝居に感じていた限界と妙に重なって、懐かしいというか、惜しいというか。

中野成樹+フランケンズ 夜明け前後

15/06/2008 マチネ

フランケンズ、初見。
「誤意訳」というのだから、翻訳劇っぽくないのだろう、現代口語っぽい日本語訳とはどういうものなのだろう、という興味があったのだけれど、幕 前、福田氏(だったっけ?)が「割とストレートに訳して」と言っていた通り、というか、原文読む前に額面どおりに受け取っていいのか知らないが、壊れきっ た日本語訳ではなかったと思う。

ただ、その辺の、「100%現代口語に持ってきてないんだよ~」というような引っ掛かりが、面白かった。
「こんな風にしゃべるやつなんていねーよ」的な突っ込みを入れるよりも、
「こんな風に日本語喋るやつって、どうなんだろう」的な興味の入り方。

誤意訳部分と下西氏書き下ろしの前日譚と、どことなく「リズム」というか「うねり」が違っていて、それもまた、面白い。

「短々とした仕事」だけあって、淡々と始まり、淡々と終わったが、こういう、昆布茶みたいな芝居が観られる環境にいることは、われながら幸せだと 思う。本当はおじさんには気がつかないような毒が入ってるのかもしれないが、湯のみ一杯では「あれ?ピリッときた?」位のことである。

昆布茶なので、終演後ホーンがパラパーーッと鳴り響く必要は無いと思ったが、石塚レイ氏の当パンの文章とっても面白くて、曲も面白かったので、それも良し。楽しかった。乾電池の月末劇場じゃないけど、木曜の夜の会社帰りに寄って行きたい芝居かな。

2008年6月15日日曜日

SPAC 鳥の劇場 剣を鍛える話

14/06/2008 ソワレ

物語と舞台芸術の幸福な結合。劇場・観客・天候・魯迅・音響・役者の動き・語り、全てが何を足しても何を引いてもこうはならなかっただろう、とでもいうかのように結びついて、素晴しいステージだった。

糸を紡ぎながら・洗濯しながら・炊事をしながら、子に物語をする母親。酒を飲みながら物語を「読む」親爺。物語られる登場人物たち。観客はそれらを見比べながら、自分の立ち位置を確認しつつ、いつしか物語の中に引き込まれるのだが、その引き込み方の巧みさは、素材の選び方と場の設定の仕方に多くを負っている。

「語られている物語の舞台は、多分、中国なのだろう。でも、おおきみ、って、どこの言い回しだ?」というのと、「語られている現場として提示されている場所は、おそらく、日本なのだろう。でも、一体、いつの時代だ?」という、2つの引っ掛かりが全体に覆いかぶさって、それが、物語提示型舞台にありがちな「突っ込みたくなるポイント」をうまーく回収していく。

例えば、語りの中で、現代口語演劇なら「多分」というところ、「おそらく」という言葉が発せられると、普通は、「あぁ、翻訳劇、っぽい」と思うのだけれど、それが、①魯迅の語りだからか、②中国の語りだからか、③母親の口伝だからか、と思ううちに、スーッとどこかに回収されて、逆に物語世界に引き込まれていく。斬られた首が舞う場面も、奇術師がメガネをかけ巨大な蝶ネクタイを締めているのも、全体の物語の構造の中できっちり成立していた。

凄く乱暴に言うと、作・演出の意図は、物語を語られるあの気持ちよさの再現にあると思われた。耳から入った情報をもとに子供が織り上げる妄想・想像の世界をどうやって舞台に載せるか。しかも、ここの観客の想像力に出来るだけ多くを委ねながら。そういう、ちょっと考えると、自分の個人的な気持ちよさにとどめておいて共有を諦めてしまいたくなる様な難しい連立方程式を、こうしてすんなりと舞台に載せてしまった手管に、素直に脱帽した。

加えて、魯迅の物語→語り手の物語→舞台を観る観客の物語 の入れ子構造の中に、図らずも、あるいは、測ったの如くにカラフルなノイズが埋め込まれて、まるで魯迅の物語の朗読をSP盤78回転で、戦前に耳を澄まして聞いた子供達のことを想像しながら聴いている、そういう気分にもなった。幸せな場だった。

作・演出の中島氏は、実は彼の大学時代から知っていて、だけれども一緒に芝居することもなく、また、留年の回数の多寡もあって卒業年次も異なり、20年近く彼の居場所について全く知らなかった。そういう人の芝居を観るのは、「気に入らなかったらどうしよう」というネガティブなドキドキ感が付きまとう(自分が現代口語演劇に入れ込んでいれば尚の事である)のだが、いや、身内びいきじゃないが(身内というほど近しくもないのだが)、素晴しい仕事である。素晴しい。という思いとともに、自分の過去20年を思って自責の念を感じないでもない。クヤシイ!それが、新宿に向かうバスに乗り込む直前、僕の頭の中に詰まっていた単語です。

SPAC ハビマ国立劇場・カメリ劇場 アンティゴネ

14/06/2008 マチネ

悲劇とは、「神の掟」と「人の掟」の狭間に投げ込まれ、破滅への道筋を辿らなければならないことに自覚的でありながらなお破滅へと突き進む一人間が、そこで逡巡しつつも立ち止まることが出来ない、その内面のジレンマにこそ存在する、と、このプロダクションを観て学んだ。

この素晴しいプロダクションの中で、悲劇を背負うのはクレオンである。そして、立ち位置を右に左に揺らしながらテーバイの破滅を見届けなければならない退役軍人たち(コロスたち)である。

物語をドライブするのはもちろんアンティゴネである。ただし、彼女が「人の掟」に逆らい「神の掟」を選び取ることは、「悲劇的」ではない。少なく とも彼女はこのプロダクションでは、(最後の最後、感情にとらわれかけるその一瞬を除いては)、ただの感情に流されて聞き耳を持たない人であるかのように 描かれており、クレオンにとっては、自分が悲劇的状況に陥るきっかけを作った困った人であり、テーバイの市民にとっては、自らの運命を方向付ける(だがし かしその運命はどうやら自分達に都合が良くないものになりそうだ)新たなスフィンクスである。
ハイモンもまた、父に妥協を請い、最後には恋人とともに死ぬわけだから、その物語は充分表面上「悲劇的」なのだけれど、恋に生き、恋に死ぬその物語は、「神の掟」と「人の掟」の拮抗の1つの帰結ではあっても、悲劇的ではない。

クレオンの悲劇は、アンティゴネが最初に捕らえられてきたのを発見した際の驚きと戸惑いと、あの、「困ったことになった」という表情に集約されて おり、そこが、小生にとってのこの芝居の「臍」であった。そこにおいてクレオンは、今まさに自分が悲劇的状況に投げ込まれ、運命のレールをくだり始めたこ とを知る。後は運命のみぞ知る。

そのクレオンの運命を横目で見るテーバイの市民達もまた、運命の虜である。市民はアンティゴネに同情しさえすれ、クレオンの掟を進んで破ろうとは しない。その意味で、知恵と歴史がそのジャケットの中に詰め込まれた退役軍人たちは、オーウェルの動物農場に出てくるロバを思い出させる。

クレオンもテーバイの市民達も観客も、「神の掟」に逆らうことが破滅への一本道であることにはとうに気がついている。何となれば、舞台奥の壁の上には英語とヘブライ語で、
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
と大書してあるではないか。それに充分自覚的でありながら、なおかつここの意思決定において「人の掟」を選び取らざるを得ないクレオンのジレンマ こそ、すぐれて「アンティゴネ」の現代的テーマなのであり、その一点において、観客はクレオンに、はたまた舞台上の退役軍人たちに、感情移入することが出 来る。

このプロダクションには、2006年の第二次レバノン紛争に触発された部分が大きい、と演出のスニル氏は語った。2006年の最終的な停戦では、 シーア派武装勢力ヒズボラが「勝利宣言」を出す一方で、イスラエル側は当初作戦に失敗し、時の政権が政治的・外交的ダメージを受ける結果となっている。
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
イスラエル政府はその傲慢さゆえに作戦に失敗し、ヒズボラに外交的勝利を収めさせてしまったのだろうか。そしてそのことが1つの悲劇としてこのプ ロダクションを触発したのだろうか?いや、そんな表層的な類似だけで、このプロダクションがここまで力強いものとなったとはとても思えない。

もしもソフォクレスの悲劇がイスラエル・レバノン紛争と通底するものを持ち、また、より普遍的な現代への力強いインプリケーションを持つとすれ ば、それは、破滅へと繋がりかねない状況に放り込まれていることに充分自覚的でありながら、なお、いくさを続けるという選択肢を選び取らざるを得ないイス ラエル政府/軍の指導者のジレンマが、そしてその選択肢に必ずしも100%同意できずとも、積極的に「否」という選択肢もありえないイスラエル国民のジレ ンマが、まさに、運命に虜われた状況として、悲劇的だからである。

アンティゴネが「神の掟」を選び取って死に至り、「神の掟」を退けたクレオンとテーバイを滅ぼしたのに対し、現在の中東では、「神」を前面に出す者達が両陣営において破滅へと繋がりかねない選択肢を強く推している状況には、一種の皮肉を感じる。

もちろん、この芝居が戦火の中東でのみ成立する悲劇であると結論付けるのは早計に過ぎる。例えば、静岡の舞台上に載っているのが、勲章をつけた後 期高齢者のコロスたち、老人への手厚い福祉を訴えるアンティゴネと、財政再建・福祉充実のジレンマに喘ぐクレオン・政権与党の姿だ、と考えてみても構わな いだろう。重要なのは、このプロダクションが、「悲劇的であること」を大きな物語から引き離し、個人レベルに落とし込んで見せたこと、それによって観客 は、一個人から始まって、自由な大きな物語を逆に編み上げていく自由を与えられた、ということである。芝居における普遍はとことん個に拘ることから生じる ことの、素晴しい一例だと思う。