2007年10月29日月曜日

岡崎藝術座 オセロー

28/10/2007 ソワレ

激しく面白い芝居だったのだが、引っ掛かるところもあり、また、ちょっと忙しくもあったので、千秋楽を迎える前に日記書けなかった。残念。

70分、舞台から目が離せなかった。目が離せないのには明確な理由があって、
「フロントで人が台詞を話している時、あるいは、暴れている時には、必ず目に付きにくいところで変なことをしている奴がいる」
というのがルールで決まっているかのように、絶えずいろんなことが起きているからである。

オセローという、話の筋道が広く知られている芝居を舞台にのせるのだから、ストーリーの説明はおざなりで構うまい、という割り切り。
キャシオーの棒読みたどたどしい台詞から入っていく手管。白オセローの白目と黒目の対比。イアゴーの演技はまさに「裏で面白いことをしている時に フロントで台詞を吼えまくる」献身的かつ利他的と呼んでいいものであったし、唯一、物語の進行を担いながら色物であることも許されたヘレン・スミスからも 目が離せない(英語のアクセントで、オーストラリア人かなぁ?とぼんやり思っていたら、当たっていた。ちょっと得意だ。)。黒オセローの暴れっぷり、JB =エミリアの動き。ラストの電気ポットから出る水蒸気。
BGMの乱暴な使い方。ラストの威風堂々に爆笑をこらえる。
そしてセンター男。最初の舞台中央での振り付け、何をキューにしているか結局最後まで見破れず。でも絶対何かをキューにしている反応だった。

と、70分、「あぁ、面白かった」。でも、何でオセローなの?
こいつら、実はどんなテクストを持ってきても一緒なのではないか、との疑念がふと沸き上がる。おそらく、そこが、この芝居のミソの1つで、ストーリーを伝えることには100%興味が無いのだろう。ただ、舞台に乗っているものを楽しめ。
その快楽を、スッゴく高いテンションをもって駆け抜ける態度を、僕は、初見ということもあって思いっきり楽しんだのだけれど、さて、次は?その次は?

ものすごいことになりそうな気もするし、袋小路に入りそうな気も無くはない。いずれにせよ、個人的には今後見逃せない気がしている。

山の手事情社 傾城半魂香

28/10/2007 マチネ

誠に申し訳ない話なのですが、やっぱり今回も、冒頭から、「山の手事情社の文法って何だろう」と考えながら観ざるをえなくって、じぃっと考えなが ら観てたら、何とマイルスのクィンテットがかかって、あれ、文法が違うものを観ているのにいきなり慣れ親しんだ音楽が、と思ってたら、落ちた。従って、前 半一部見逃しがあります。

が、その後一歩引いて考えてみるに、
・ 語り
・ 体の動き
・ 台詞
・ お洒落ダンス(と呼ばせてもらいます)
をそれぞれ「ありのままに(自分の文法を一旦忘れて)とらえて見てみる」所に立ち返って意識してみると、実は面白いことが起きているようにも見え てきた。で、語りと台詞のバランスは、芝居の進み具合=スピードの変化に貢献しているのだな、なんて思ってみていたら、話が盛り上がって終わってしまっ た。

どういう問題意識を持ってこのようなみせ方になるのか、興味はあるけれど、「古典劇を現代衣装で、お洒落ダンス付き」というと、コンプリシテの尺 には尺を 大外れ芝居に似たところがあって、ちょっと個人的には受け付けない。「青い鳥」の時にも思ったのだが(そして今回も同じことを繰り返し考えてしまったのだ が)、既存のプロットを持ってくるんでなくて、現代を舞台にしたらどんな芝居になるのか?それが観たい気が大いにしている。

2007年10月28日日曜日

かもねぎショット 白か黒

27/10/2007 ソワレ

テルプシコール。久し振りだ。ツベルクリンを観に行って目覚まし時計が沢山鳴るのを聞いて以来だと思う。とすると、17-18年ぶり、ということ になるのだろう。でも、いまや家が近所になってしまったので、迷わずにいけた。というか、前を通るだけならこの1年で何十回も通っているので。

うーーむ。この、2人芝居30分×3本立ての90分、どう言ったらいいのやら。どうしても、2人芝居=エチュードから創って=なので引き伸ばして も30分が限度=じゃあ3本やるか=でもどうしても世界が軽い感じが否めないよね。となりがちで、この「白か黒」はそれにはまって苦戦してるなぁという印 象である。

やはり、2人芝居は、ムリをして演じるものだろう。「幸せな日々」しかり。「走りながら眠れ」しかり。ガチガチに作って役者に押し付けないと、 どーも、「最後までいくぞ!」って気が、観ててしてこないというか。大リーグで「先発投手は5回まで」って決まってるが、やっぱり先発完投じゃなきゃ、と か。あ、そういえば、「あなざ事情団」は観客参加型というナックルボールを勝負球にして、1時間半完投してたっけ。

11月にも後編があるが、オムニバスだとちょっときついかな。でも、テルプシコールの、あの、こじんまりとした暖かさは変わっていなくて、それは大きな収穫だった。

乞局 陰漏

27/10/2007 マチネ

アトリエ・ヘリコプター、とってもいい小屋だ。ここでやってる芝居というだけで、行ってみたくなってしまう。正直言って、今回の乞局もとっても迷っていて、きっと、王子でだったら行かなかったんじゃないかと思う。ヘリコプターだから、行った。

で、台風の中を五反田駅から15分。行って良かった、と思ったことですよ。乞局三回目にして、もっとも良かった。いや、良い悪いでなく、「きちんと見ていられた」ということかもしれない。

弟の自殺を巡る話だけれど、実は、描かれているのは「弟の周囲の人間」である。兄・兄嫁・元の交際相手・元の同棲相手、労協義塾、それぞれが、自 分の生活のジグソーパズルの1つのピース(=弟)がかけたことに対してどのように対処するかを下西風味で描き出していくのだが、登場人物に2人例外があっ て、弟と(書きこむ気が無いかのように何もしない風に描かれる)、バンバなる男。
この2人の関係については、何か最後のほうにあるんだろーなー、と思っていると、案の定、ほぼ伏線どおりに落ちる。でも、種明かしに時間をかけないし、最後までimplicitである。
そういった、テーマとか物語とか何とかはimplicitに、遠まわしに、小出しに、という、何だか現代口語演劇の金科玉条のような雰囲気が、実は現代口語演劇教条主義者の僕にはまったのかもしれない。

で、テーマは?といわれると、確かに、(ネタバレっぽくなっちゃうので言わないが)ちょっと青臭いし、三橋・竹岡ペアはもしかするとフラストたまる役回りかな、とも思ったりしたが、まあいいや。
前に観た二作と異なっているのは、「気持ちの悪いものをみせる」ということに焦点を当てるのでなくて、パーツとしては気持ち悪くないのに「こうい うのが気持ち悪いんだよ!」と本人に言わせるようにもって行く周囲に焦点を複数当てて行く点で、それが、あからさまに気持ち悪くないのに全体としての気持 ち悪さあぶり出しに繋がっていた。
根津茂尚=兄のポジション取りと、木引優子=元交際相手の裂け目の見せ方に感心。
こういうことがあると、「滅多なことで、もうここの芝居は観ないなんていっちゃいけないなぁ」、と思う。

2007年10月23日火曜日

東京乾電池 留守・ここに弟あり

22/10/2007 ソワレ

そして今月もまたゴールデン街劇場に足を運んでしまった。
ほんっと、中年サラリーマンが月一でゴールデン街に足を運んで、2000円はらって帰っていく構図もこれで4度目。終演後めでたく半券三枚と手ぬぐい交換して、何が楽しいんだか。
でも、毎回、楽しい。

今日は二本立て、先月別キャストで観た「ここに弟あり」と「留守」。
「ここに弟あり」は、①台詞の前に余計な間が空く ②テンポを取り返そうとして台詞がすべる ③それを取り返そうとして声が無駄に張ってしまう  のでちょっと苦しい芝居展開。が、他に余計な仕掛けが無いから、そういうのがストレートに顕れてくるのもまた良し。やはり難しい戯曲なのだろうか。

「留守」では、好きな女優二人が登場してお得な気分になる。お八重の、「おしまさんったらほんとうにおしゃべりなんだから」というときの、怒って るような笑ってるような困ったような、何ともいえない顔を見ただけで、今日はもとが取れた。女優2人の掛け合い、ほんと、見てて飽きない。八百屋の困った 顔も良し。素直に真っ直ぐケレン無く演じてとても良い。

こんだけ楽しんで2000円ポッキリ。これじゃおじさん毎月通っちゃうよ。

2007年10月22日月曜日

ペンギンプルペイルパイルズ ゆらめき

21/10/2007 ソワレ

これがまた、面白かったのである。
この芝居、ワンフレーズで言い表せば、「愛と虚構のプレートテクトニクス」。

出だしから、「え、ここまでやるとちょっと過剰で、『こんな奴いねーよ』って誰もが思わないかい?」
と思うような要素を、これでもかと積み重ねていく。
その一つ一つのパーツは1cmくらい、リアルさからズレていて、強引なんだけれど強引過ぎず、でも、それが、間断なく積み上げられていく結果、「芝居として」の虚構がエラい方向に膨らんでいく。
例えば、玉置孝匡の怒鳴り過ぎ。リアルよりも5cmくらい怒鳴りすぎ。
ぼくもとさきこのしつこさ。リアルよりも約10cmしつこすぎ。
「これくらいまでなら勘弁できるでしょ?」と言っているようでいながら、実は、そのペースに観客を嵌めているのである。

その、虚構のプレートテクトニクスと平行して、夫婦の間、登場人物の間の感情のズレもちょっとずつ積み重なっていく。太平洋プレートがユーラシア プレートに向かって少しずつ沈み込むように愛と虚構のズレがエネルギーを蓄えて、居心地の悪さが耐えられない水準に達した時に、揺れ戻しが生じる。そして 余震。

このプロセスが、なんとも上手に描かれていて、目が離せなかった。芝居を虚構として組み立てるプロセスと、登場人物が虚構を組み立てるプロセスがシンクロで進行し、最後にガラガラっとひっくり返してみせる手管に目を瞠った。

前回トラムで観た「ワンマン・ショー」は、芝居の「構造」ばかりが浮き立っていまひとつの印象だったけれど、今回の芝居はよい。「リアルからのずれ方」がこれくらいの幅に抑えて積み上がっていく方が、僕としては見ていて気持ちよい。

でも、芝居前半は、実は、
「戸田昌宏はなんてトム・ヨークに似ているんだ」
ということしか考えていなかった気もする。似ている。似てるよね?特に、古着屋の店主なんていう格好で出てきて、あーいう無精ひげを生やしていると。
Radioheadの新譜、In Rainbows、なかなかいいっすよ。

あれ?話がずれたが、えー、気持ちよく最後まで観ました。こういう、現代口語演劇から5cmくらい距離を置いて、でも、きちんとしていて、という芝居も良いな、と思った次第です。

天然スパイラル トワイライト王女

21/10/2007 マチネ

今年の”Mitaka Next Selection”の4枚のチラシを見て、うちの娘が「一番面白そうだ」と言ったのが、この芝居である。それがこの芝居を観た理由。

終演後、三鷹駅に向かって黙々と歩いていたら、脇を歩いている(おそらく娘は高校生の)父娘が話をしていて、「これまで観た中で、一番面白かった。時々わからなくなったけれど、(他のに比べて)分かり易かった」
とのことであった。

娘よ。おそらく、この芝居の内容は、君が思っていたようなものとは全然違っていたぞ。ジャケ買いには今後ともくれぐれも気をつけろ。
そして娘よ。父の芝居の趣味は、世の中的にえらく偏っているであろうことについても心しておいてくれ。自分がつまらないと思った芝居についても、(人が聞いている場では)滅多なことを言うでないぞ。

この芝居についていえることはそれくらいかな。あ、そうそう、何だか、20年以上前のネバランとか思い出しちゃったかな。

2007年10月21日日曜日

燐光群 ワールト・トレード・センター

20/10/2007 ソワレ

初日。
2001年9月11日、世界貿易センターが窓から見えるところにある、とある情報誌の編集室の一日を描く。

この題材を採り上げるに当たっては、「何が起きたか」という、いわば芝居のメイン・イベントは周知で、かつ、そのインパクトは余りにも大きい。そ うすると勝負どころは、「舞台上で何が起きるか」であり、その舞台上のイベントが、僕らがその過去の一点に向けて、自分の記憶と聞きづてを超えて、どのよ うに想像力を膨らませる作用を触媒するかにあると考える。

その意味で、
・ その場に居た人間の、(ちょっと古いが)等身大の振舞いを描こう、という趣向は、ある意味正しい。
・ しかし、結果として、何も起こらなかった。残念だ。

① 海外の日系企業のオフィスで英語が使われる局面に対するリアリティが足りない。これはある意味、「オレは経験者だ」と言い張ってしまえば議論にならない、詮無い文句ではあるけれど、最低限、「余計に英語を使わない」配慮が無いと、臭う。
② 僕の狭い知識の範囲をもって語るにしても、そこに居合わせた人たち、あるいは、少なくとも階段を黙々と何十階も降りた人たちは、この舞台で示されたような雄弁さを持ち合わせては居ない。雄弁に言葉で語れないからこそ、芝居で出来ることがあるはずだったのに。
坂手さんの「プロパガンダ台詞」「坂手流体言止め」が、これほどまでに耳障りに聞こえたことも珍しい。特に若い役者達。声を張るなよ。叫ぶなよ。舞台上の叫びは、本来真剣に膨らんでいったはずのものに、針で穴を開ける効果しか、少なくとも、この芝居ではなかった。

Ed Vassallo、良し。ニューヨークの人間が、実は最も声を張り上げることなく最も説得力を持って舞台に立っていた。
川中健次郎さん、良し。この、何にも構わない感、何でもあり感が、実は、毎回観たいです。

というわけで、この日、「ソウルの雨」「ワールド・トレード・センター」と、日本語+外国語混成芝居を二本立てで観たわけだが、やぱり、これ、難 しいよ。特に、日本人が外国語の台詞を話すのは。「日本語に対する距離感」を日頃の演技で作者・演出者とすり合わせられていても、「外国語に対する距離 感」をすり合わせる機会は滅多にないし、かつ、言葉との距離が遠い分、役者ごとに、あるいは台詞ごとに、誤差が大きすぎる。
おそらく、現代口語演劇の出現を通して日本の芝居が日本語との距離を再確認したのと同じくらいの気合を入れて、「舞台上で外国語を話す日本人 の、その言語への距離感」を再確認する作業が、個々に必要だという気がする。感覚論だけれど。そういえば、「別れの唄」は、そこら辺の感覚のズレが1つの 見所だった部分もあって、きちんと作っている印象があった。あと、Lost in Translation かな。タイトル通りで。

青森県日韓演劇交流事業 ソウルの雨

20/10/2007 マチネ

弘前劇場の長谷川氏の作・演出、役者陣日本勢はやはり弘劇からと、一部オーディション合格者で構成。きちんとやればしっかり観れる芝居になるはずだ。
と、どこを取っても力のある集団なはずだから敢えて言えば、出来の悪い芝居だった。

全体を通じて、「場」が作りきれていない印象。新築の美術館だからまだ場所に匂いがついていないんだ、ということかもしれないが、それにしても、様々な人間関係が交錯する場であるにもかかわらず、そういう空気にならないのは何故か?
弘劇の役者陣も元気なし。なんだか紋切り型。寺山リヤカー劇場の2人組、いつも楽しみにしているんだが、今回は設定がまずいのか、いつまでたっても試合に参加できずに終わってしまった感じである。

日本語・英語・韓国語を使い分けた戯曲なんだけれど、日本人役者の英語は、あれなら止めたほうが良い、というくらい棒読みで、
「英語が完全ではない日本人が、言葉を選びながら非母国語としての英語を話す」
リアリティからは極北にあった。それも興ざめ。

どうしても、そういうバラバラ感が先に立って、どうにも辛い芝居だった。

韓国組(コルモッキル)は対照的に面白かった。観られた。場を作る力と、特に、「母国語で無い言葉で場が組み立てられて何かが話されている時にど んな態度をとるか」への想像力。なんだか見てしまった。考えてみると、そもそも弘劇って、津軽弁と標準語、秋田弁等々が触れる場で違和感を自覚しつつ場が 成り立つ芝居をしてたと思うんだけれど、何故今回に限って日本人の役者の反応が紋切り型に見えてしまったのか?

と、そんな風で場が組み立てられない中でのラストの長ゼリは、つらかった。いや、ホント、何でこんな出来になっちゃったのだろうか?不思議だ。

2007年10月15日月曜日

東京乾電池 恐怖・ハト男

14/10/2007 ソワレ

開演前のアナウンスで、上演時間2時間20分、と聞いて、客席からいきなり恐怖の声が上がる。これで詰まんない芝居だったら最悪だ。頼む、面白くあってくれ。

結論。大変面白い芝居だった。ところどころ、効果があるのか無いのか分からない効果音を入れてみたり、数分間を飛ばすために暗転して幕を下ろして又上げて、なんていう意味のないことをやってみたり、ただ、それがアクセントにもなったりして、飽きずに最後まで観れた。

そして、エレベーター。あの閉まり方へのこだわりは、エラい!!舞台美術、そこだけ取り出してロボコン100点差し上げたい。

トータルで見て、破天荒な物語が好きなのに「物語」は排除したいという作・演出の意図は充分に満たされていたように思う。誰にどう落とし前をつけて、因果関係が云々、というのに拘らず、最後まで「場の空気」と「どこにも行かない・行けない感」を流し続けた力に敬意、敬意。
他の劇団も、同じどうしようもない生活を描くにしても、こうやって、押し付けがましくなくやったらいいのに、と思ったことである。

ただ、どうしても長くなる原因というのは見出されて、それは、「同時多発型会話」の不在である。会話が始まる前に、参加しない人たちを追い出す段 取りが必要になる。戻ってくると会話が止まる。書きたいと思った会話を全て入れると芝居が長くなる。そこはなんとか、「技術的に、処理」出来なかったのか なぁとも思われた。そういう技術的なところで、「単線な感じ」から、より、平田オリザチックな「時空を編みこむ感じ」へと脱皮していける余地があるような 気がした。今後も楽しみだ。

エイブルアート 飛び石プロジェクト公演

14/10/2007 マチネ

全席自由席ということもあったが、シアタートラムの前にあんなに行列が出来ているのは初めて見た。そして、久し振りに、芝居小屋に入る前の客の気 合というものを感じた。あの、静かな期待感は、最近ではなかなかお目にかかれない。かつ、障害者が出演しているということもあり、障害を持った観客も多 い。
いかん、この雰囲気に気圧されてはいけない。芝居は芝居としてきっちり観ねば。
「障害者でもこんなに出来るんだ」という感想になりませんように。前置きなしで「この芝居は素晴らしい」と言えますように。そう思いながら客席に入る。

第一部。Stepping Stones。この雰囲気は、キルバーン・ハイストリートのTricycle Theatreで夏休み企画で演じてる子供劇の感じだ。要は、真面目で、人柄の良い芝居で、悪くないはずなのに、やっぱりぬるい。演出のジョン・パルマー 氏の人柄によるものも大きいと思う。このイギリス人男性によく見られる妙にぬるい優しさは、往々にしてマイナスに働く。役者のレベルをさっと見た限りで は、もっと厳しい芝居が出来るように感じたのだが。と思って、はっとチラシを見返すと、「原作はイギリスの子供向けに書かれたファンタジックな作品」とあ る。そうか、子供劇か。うーむ。イギリスの子供劇の妙なぬるさが、そのまま来日しとる。もっと厳しい芝居が観たい。子供劇ならそういうものとして、真剣に 子供だけに見せたほうがよかったのではないか?

で、第二部は、まさに厳しい芝居となった。ロルカの血の婚礼はべたべたのどろどろな話なのは周知の通り。それを題材に、手話・言葉・身振り・日本語・英語を使って、気の抜けない濃密なコミュニケーションを力技で編み込んでいく。この迫力は芝居の醍醐味だ。
コミュニケーションの編みこみの説得力という点で、ジェニー・シーレイの意図が明確に伝わり、かつ、その意図を超えてゴツゴツと力のある空間が生じていた、と感じた。
隣人を演じる福角幸子、気合みなぎる。自分の背中を自分で観ることができた時にユーモアが生じる、と誰かがいっていたと思うが、そうだとすると、 障害のある自分を見つめ、演じる自分を見つめ、自分の視点と合わせて3つの視点を上空から鳥瞰して舞台に立つこの女優にはとんでもない高次元のユーモアが 溢れているとでも言おうか。こないだ観た唐さんと同じくらい目の離せない役者だった。これは、色物ではない。
この面子ならもっといろいろなものが観れそうな気もする。今後も、特に、Jenny Sealeyが引き続きこういう厳しい芝居を日本でも見せてくれますように。

2007年10月14日日曜日

満塁鳥王一座 Blind

13/10/2007 ソワレ

最近のオヤジのマナーの悪さ、特に団塊に年齢の近いスーツ通勤組のマナーが目に余るのは衆目の一致するところで、「最近の若い者は」という割には自分が見えてねぇじゃねぇかぐぉらぁっ、と思うことも毎日なのだが。
アゴラでそういうことがあるとさすがにへこむ。初っ端暗転、しーんとした中で、オヤジの欠伸「くぁーーーっ」だと。何様だよ。前の方では「決まっ て静かなシーンで」独り言いうやつ、靴を脱いだり履いたり。で、ラスト近く、静かなところで又もや「くぁーーっ」だよ。お前、通の歌舞伎通いかよ。だまっ とれこら。
傍若無人なオヤジが「おしゃべりおばさん」より性質が悪いのは、きっと、おばさん連が単に「分かってない」のと比べて、オヤジどもは、「自分は 他よりも分かっているし、何も言われない権利がある」と思っていることだ。始末に終えないよ。あ、いや、こないだのどっかの文藝誌でも、性別問わず、全く 始末に終えない奴が一人なんかいっとったなぁ。他の観客の迷惑になることも自分がやるのは当然の権利、みたいな。そういう、他の観客の気持ちに想像力の働 かない「自分ファシズム」な奴が芝居観て、どこに想像力を働かせ、何を楽しむのかね。一体。

と、長くなったが、この、満塁鳥王一座、「対観客の語り」と「舞台上の登場人物間の会話」をできるだけシームレスに組み合わせることで、新しい時間の流し方を模索している、と観た。
「模索」というのはまだ必ずしも上手くいっていないからである。「舞台上の会話」では、リアルタイムでコミュニケーションとるので、1秒は1秒 だ。基本的に。一方で、対観客語りモードでは、5秒使って「10年経ちました」と言えば、10年経ってしまうのである。恐るべき技だ。

この技を最近一番過激に使ったのは、ハイバイの岩井秀人氏で、開演前のアナウンスで、「志賀君は60歳の外見ですが実は18歳で、一年に3年ずつ歳をとっていますからよろしく」
と、説明台詞を使うと5分、使わないと20分要する設定を、1分で説明しきり、一部オヤジ客の不興を買っていたわけである。

満塁鳥王一座は岩井氏ほど不埒ではなく、あくまでも芝居中でのモード切替に拘っていたが、じゃあ、「語りモード」ですっ飛ばすシーンと、「会話 モード」でリアルタイム進行するシーンを比べてみた時に、まだまだ、「会話シーン」の中で、「折角モードを使い分けるなら、こんなところもとばしてくださ いよー」とお願いしたくなるシーンがいくつもあった。これが、戯曲の「拙い」部分である。クサくて観てられない絶叫シーンとかは、「語り」を使ってバンバ ン飛ばしてよい。その代り、もっとたわいが無いといわれそうな、でも、是非除いてみたい部分をぎゅぎゅっと意地悪にピックアップしてほしいのだ。

あと、下山事件とか、そういう戦後史のことが分かっていてほしいのか、そうでないのか。オイディプスとのリンクはそれはそれでよいけれど、何とな く測りかねるところもあったかな。作・演出がもうちょっと物語や役者・観客に対して意地悪になって、語りと演技の並存で出来る空間を、もう1つうえの階層 にいる作・演出がコントロールしている感じになると、観る楽しさもひとしおなんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか?

毛皮族 おこめ

13/10/2007 マチネ

初見、初日。
前篇。この紙芝居風は、きっと狙ってやっているんだと思うけれど、だからなんだ、という気もする。この、飽くまでペラペラの紙芝居によって、物語 もとことんペラペラに綴られていくんだが、ラストシーンで落とそうとしてんだかしてないんだか、泣かそうとしてんだかしてないんだか、とことんペラペラな どこかのテレビドラマのパロディなのか、わかんない。僕には分かんない事だらけだ。かといってもっと分かりたいとも思わなかったし。

後篇。スチュワーデス物語(多分)+007映画の折衷パロディもの。こっちの方がペラペラ感が余程楽しめるけれど、このテの刺激がほしいならジョージ朝倉のカラオケバカ一代3回読んだ方が面白いかな。

全体としては、苦しい。女ドリフを目指すならもっとテンション上げないと届かないだろうし、宝塚を喰う積もりならエンターテイメントとして隙を無 くさなきゃならないし、大学祭りの学内人気者パフォーマンスだとするとチケット代高すぎる。「今まで何をしてきたか」は分からないけれども、何がしたいの かも今ひとつ見えないし、これでは平日の本多で動員苦労するのもむべなるかな。

2007年10月11日木曜日

犯さん哉

10/10/2007 ソワレ

お洒落で軽くて隙が無い。最初から最後まできっちり作ってツボのはずしどころ、くすぐりどころも油断なく弁えて、観客は何の苦労も無く2時間10分観続けていられる。

古田新太さん、初見だったが、あぁ、センスの良いソツのない、己を知った役者なんだなという印象。

エンターテイメントとしては非常に芸のレベルが高いが、そこまで見せ付けられて、当方の妄想及び想像がジャンプする引っ掛かりどころ一切なし。これをもって、僕が楽しんだといえるのかどうか。

2007年10月9日火曜日

恥御殿

08/10/2007 ソワレ

スカッとした。何がスカッとするかって、先ず、東京駱駝の「現代口語演劇」もろパロディの台詞回しで駱駝隊組んで去っていくセンス。これにやられ る。続くレビューで、いきなり一曲目、「私は風」である。俺、カルメン・マキ聞くのなんて中3の春以来。しかも人前でカルメン・マキを歌う奴も初めて観 た。中里順子に男気を感じる。さらにちょっとピコピコした曲の振り付けが、何だかMighty Boosh の Electroを思い出させてちと泣ける。と思ったら「他人の関係」に岩崎宏美。おじさんは大興奮の渦だ。

最後のジャイケルは、「この技であれば、わしの元上司の大○田さんの方が実は芸達者かも」とちょっとだけ思いつつ、でも、I'm Bad 最後まで踊りきる体力には大拍手で、いやー、最後まで楽しませていただきました。

欲を言えば連れと一緒に、あるいは娘も連れて来たかったが、それはまた今度ということで、気持ちよくうちに帰りました。

The Shampoo Hat その夜の侍

08/10/2007 マチネ

ストレートに泥臭く伝えようとしていて、まさにストレートに伝わってきて、かつ、細部にも手を抜かずに、細部の一つ一つが芝居の全体に奉仕する。
この気合について斜に構えるつもりはないし、そこにあざとさが無い限りにおいて、それはプラスに働いていると感じた。

でも、そんな芝居を観ながら、僕は次の2つの不謹慎なことをしていたのだ。
① 1時間ちょっと経過したところで、「じゃあ、あと、1シーン10分でシーン6つね。暴力シーンが1つ、対決シーンがラス前に1つ、ラストシーンが1つ、出かける前が1つ、あと何だろう?」と計算を始めたこと。
② カーテンコール、役者が並んだところで、「あ、配役をこう入れ替えて観てみたい」と考えたこと。ちなみにMy 配役は 黒田=木島、野中=小林、児玉=中村、赤堀=青木、多門=久保、日比=星 です。

①は、芝居がだれたからではない。「芝居が明確にどこかに向かっている」のが余りにも最初から目に見えているために、却って、そこまでの道行きを 計算してしまうということです。言い換えると、推理小説とタイトルが付いていたら、犯人が最後に見つかるはずだと結論を先取りして、それにあわせたペース 配分で本を読んでしまうようなものだ。

②は、配役の個性までもが①の「どこかに向かっていくこと」に奉仕するのは、特にこの劇団ではもったいないような気がしたから。もっともストレー トに伝わる配役は、それはそれで効率的かもしれないけれど、僕が芝居小屋に行く理由は、「もっと他愛のないものが観たい」からなのだ。効率的に、強烈に伝 えるメディアは、それは、実は、芝居ではないところにあると思う。

その意味で、全体への奉仕が明確でなかったのは「警備員」だった。無論、良い意味である。この役に関しては、「誰がやっても大丈夫な、つまり置き 換えが自由な」役であるにも拘らず、「滝沢がやっているからこうなっている」という感覚が何ともむず痒くて(このむず痒さも誉め言葉である)、また、劇中 最後まで名を呼ばれないこの女性は、何も叫ばない癖して、その「名前も要らないくらいの立ちで」芝居の臍にいたのだ。そこら辺が、実は女優氏には悪いが 「戯曲の勝利」みたいなところもあって、そこは何だか勉強になった。

と思って、役名も「警備員」とだけあったよな、と当パンを開くと、ちゃんと「関由美子」なる名前が与えてあって、自分の記憶や解釈なんて、ほんと大したことないなぁ、と思ったことである。

2007年10月8日月曜日

唐組 眠りオルゴール

07/10/2007 ソワレ

開場前並んでいたら、くつ袋の使い道を説明していた。そうか、最近の客はくつ袋なるものに慣れていないのか...そういえば、唐ゼミを観たときに 唐さんが来てたので、それとなく「唐さんが来てますね」と隣で並んでる人に言ってみたら、「唐さんってどんな人か知らないんですが」。そういう時代だ。

それにしても不思議なのは、これだけ巷に芝居が溢れている中にあって、赤テントよりも面白い芝居が滅多に無いということだ。去年帰ってきた当初は、自分の中のノスタルジアが「赤テント面白い!」と言わせているのかもしれないと思っていたけれど、どうやらそうではない。

赤テントの芝居には、特に観客の妄想力を掻き立てる仕掛けなど施されていない。それでもなおかつ掻き立てられてしまうミソは、作・演出の妄想力そ のものである。本当に、唐さんの傍若無人で巨大な妄想力に対峙するのは大変なことで、勿論そこに巻き込まれぬよう半歩引いて観ても充分エンターテイニング だし、半歩踏み込めば、大嵐の中で脳味噌を直接剣山でチクチクつつかれているかのような、頭の中がかゆくて仕方が無いことになってしまう。

それが毎回楽しみなのだ。
そして、「どうやっても唐さんを超えることは出来ないな」と、超えることを試みすらしていないくせに、生意気にも思ってしまったりするのである。

円 天使都市

07/10/2007 マチネ

芝居、立ち上がらず。
三谷・平木夫婦の「いかにも老人」な演技が気になって気になって、ひょっとすると壁の向こう側では芝居らしきものが進行していたのかもしれないけれども、僕にはその壁の向こうが見えない。一体どう観ればよいのか?

作者はプログラムの中で、「俳優はある人物を演じる以前に、報告者としての立場を守らねばならない」と書き、「母語を外国語のように聞きたい」と書く。
そこに当てはめて舞台の上で発せられる言葉に耳を傾けると、どうやら、次のように思えてくる。

俳優達は、一つ一つの言葉に対して浮かぶイメージを慈しみ、それが充分に一言一言にこもるように台詞を発することを求められている、のではないか?
そのことで、言葉の持つ「歴史」を示そうとしているのではないか?
従って、作者の要求その一、「報告者の立場」は、当初から逸脱されている。どちらかといえばワイドショーのレポーターである。下世話だとか下品と か言っているのではない。報告者としての立場を忘れ、「自分の歴史・ものの見方」を露骨にある事象に嵌めこんで、そこに疑問を加えぬまま発信する態度のこ とである。

そして第二に、「母語を外国語のように」発信するには2つの通り道があるはずで、一つは、母語としてのコンテクストとなりかねないものを徹底的に 剥ぎ取るパス。もう一つは、個人としてのコンテクストに徹底的に拘ることで、聞き手が母語として認識するものとの差異を浮き立たせるパス。
この演出では、後者を選択し、しかもそこで、「差異」について自覚的でない、つまり、徹底的に個人に拘ったものが「聞き手にも共有しうる」と、かなり楽観的に信じている気配がした。

そういうことばかり考えて観ていた。

一つだけ。実は、「老夫婦」は記憶を辿る存在としての、「若い2人」は現在に目を向けるレンズとしての役割を、アプリオリに期待してしまうのだけ れど、芝居の中ほどで、どうも、老夫婦こそが現在を生き、過去を忘れ、その一方で若い2人が過去に囚われ、前に進まない、というねじれが起きているような 感覚に襲われた。それが、やはり松田氏の書く「都市であると同時に廃墟であることの二重写し」であるならば、その効果は少なくともそこはかとなく、発揮さ れていた、ということは言えるのだろう。他の演出でも見てみたい。もっと剥ぎ取っていく演出で。

2007年10月7日日曜日

文学座+青年団 その行間まで、100km

06/10/2007 ソワレ

つらかった。
餓死した母子の母の手記と、そこに書かれた日付・時刻での自らの高校時代を照らし合わせて、そこに生じる「自分の」感慨が舞台に載せてある。
その感慨を舞台を使って観客に説明してくれても、少なくとも僕の何かを刺激するものにはなり得なかった。

テクストを「読む人」たち。彼らの声はどこへ向かうのか?僕にはそれが、行き場も無く中空をさまよっているだけに聞こえた。中途半端な抑揚やおどけがその辛さを目一杯誇張する。
「そもそも、手記のテクストだってどこへ向かうというわけでもなかったのですから」
という向きもあろうが、それを口に出したとたんに、作者にテクストの何が響いたかを探る糸口は完全に閉じてしまうだろう。

同じ、活字になったテクストを舞台に載せる試みでも、燐光群の「放埓の人」は格段に上出来だった。読み手(黙読)としての坂手洋二と、読み手(音 読)としての役者達と、身体と、役のキャッチボールと。そういうごった煮を舞台にぶつける中に生まれる隙間に、観客はスルリと割り込んでいくスペースを見 つけることが出来た、気がした。
今回の公演にはどうにも入り込む余地が無い。

また、「演技」もつらかった。なぜテクストを読み上げる母の声はあんなにも辛そうなのか。なぜ腰を曲げるのか。そこに作・演出の想像力はどう働いているのか。観客はどこに想像力を働かすのか。どうにも厳しい。

唯一何かが起こる予感がしたのは、寝たきりの息子の足の裏だけだ。そこには何かが生まれる気配があった。気配だけだったけど。

jorro mirror

06/10/2007 マチネ

5月のトライアウトに続き、2度目。

先に、終演後の客出し曲のことを書く。おいおい、赤羽の団地の話をしといてエレカシで〆めますか!! それじゃまんまじゃねーか。
いっておくが、小生も北区生まれの不惑過ぎである。北といえば「赤羽」を指し、南といえば「池袋」を指す、そんな町で幼少期を過ごした。
ビバ、北区! 北区万歳! 東急線ナンセーンス。
が、みやじの曲は、「愛と夢」より新しい曲は一切聞かん。だから今日かかった曲も知らん。

横道にそれたが、そこらへんの、赤羽台団地と家賃85,000円1Kのギャップをどことなく匂わせる、というのが、意図か? 赤羽人情話としてみ るなら、上手くいっていた様な気もする。「気もする」というのは、再開発後の赤羽にはトンと寄り付いていないから、その分の留保だ。

でも、芝居自体の出来は、前作の方が良かった、かな。
①前回は「飲み屋さん」という設定だったため、「一体どこを見ていればよいのか」感がより強く、狙っているであろう「リアル感」、作っていない感がより強かったこと。
②対して今回は、アパートの一室で時間を流さなきゃならないので、観客は目のやり場に困らない。すると、何が起こるかというと、
 a. プロットが決まっているだけに、一本調子になり勝ち(特に同棲相手との喧嘩シーン)
 b. 同時進行型の会話の中で、「片方が意識して会話のボリュームを下げることで、もう片方の”メインの”会話を聞かせてしまう」という、新劇な展開が時として生じる。

トライアウトの時も思ったけれども、役者がプロットにあわせて「安全策をとらざるを得ない」のではないかというところが、設定が変わるとこう出ますか、という印象。

でも、逆に言えばそれが今回も「安心してみてられる」結果にある程度繋がっているので、従って、観想を一言で言うなら、前回同様、「悪くない」。

ってことは、だ。この技量で、台詞書く段階でもっとギリギリ詰めれば、もっとスゴイこと出来ると思うんだけれど。前回の感想と似てきて恐縮だが、今回も、これが正直な気持ちです。

2007年10月1日月曜日

東京デスロック 演劇LOVE 3本立て

30/09/2007

「社会」「3人いる」「LOVE」の3本立て、初日一挙上演、全解説付き。
雨の原宿に集まった人々はさすがに猛者揃いで、終日原宿リトルモア地下に詰めてた観客が少なく見積もって20人はいたな。

3作を通して観ながら考えたのは、芝居を通してどう虚構(=ウソんこ)を創り上げるか、ということ。演劇の場は、作者・演出・役者・裏方・観客・ 小屋までを含めたところで成立するので、その中で、いかにして、「一観客」の地位を選び取った「僕」が自分なりの虚構を仕立てて遊べるか、それに向けて、 「作り手」がどんな仕掛けをこしらえてくれるか。そういうことです。

舞台の上に載っている役者の身体は、ウソをつけない。役者が「僕は手が5本ある」と言っても、それは、無い。でも、役者が、「僕には、見えないし 触れない手が5本付いている」と言い張ったら、それは本当かもしれない。それか、役者がウソをついている。大事なのは、ウソをついているのは役者の台詞で あって、目に見えたり匂ったりする身体がウソをついていないということです。

作り手の「仕掛け」は虚構を紡ぎだす(ウソんこの世界を作り出す)起点/支点を定めていて、例えば、役者が「なんて晴れた空だ」といってみたり、 みんなでスーツを着て会社っぽくしたり、お皿を落として驚いたり、下ネタや裸を乱発して下賎な雰囲気を醸し出したり。観客はそういう仕掛けを支点にして、 エイヤッと自分の想像力・妄想力にレバレッジをかける。

前置きが長くなったが、要は、今回のデスロック3本立ては、舞台の上からミエミエの虚構構築装置を剥ぎ取っていった時に、演劇の場がどう虚構・妄想を紡ぎだせるのかを生物進化の絵本のように見せてくれる体験だった、ということだ。

<以下、モロ、ネタバレです。結論が待てない人にはこう言おう。まぁまず、観ろ。絶対に、観ろ。どうしても観れない人にはこう言おう。ご愁傷様でした。>






1本目「社会」は、作・演出本人も「スタンダードな現代口語演劇」と言っているし、まぁ、台詞の端々や携帯電話での会話(のふり)が、虚構世界を支える機能を果たしていて、あとは作・演出の話のまとめ方と役者個人個人の面白さを観る芝居、ということになる。
勿論そこでは、新劇等々の「驚いたお皿ガチャン」とか、小劇場の「逼迫雄たけびドン!」という仕掛けは先ずもって剥ぎ取られている。観客の想像力 といっても、所詮は片桐の人格とかカラオケ屋の事件とか、高山がどのパートを担当してたのかとか、まさかステージでは金髪のカツラかぶってたんじゃ、と か、その程度のもんだ。ま、それが楽しいんだけど。

2本目「3人いる!」になると、今度は、舞台の外の社会も剥ぎ取られている。この芝居でも携帯電話は使われるが、その相手「ヤマちゃん」は、実は 舞台の上に居て、話す相手になってしまったりして、要は、世界が3人の中に閉じる。「外の世界で展開する物語」を支点に想像力を発揮する機会は観客から剥 ぎ取られ、観客は、舞台の上の3人について、
・ ロジカルに考えれば誰が本物で誰が偽者か、を、考えながらみないといけない、
・ さらにふと、もっと怖い考えが頭に浮かび、あ、でもそんなことを考えてしまったなんて人に話したらただの異常な四十オヤジといわれること請け合いだ、トホホ、と独り苦しんだり、
てな具合に頭を回転させ続けることを強いられる。役がくるくる入れ替わって付いていけなくなる手前のところで寸止めを掛け、そこに観客の想像力を働かせる余地を残す多田氏の手管に脱帽する。

で、3本目、「LOVE」では、その3人の「世界」「背景」すらも取り去った状態から芝居が始まる。背景の無い剥き出しの身体を舞台に載せたとこ ろで、どうやって虚構を紡ぐことができるのか。虚構の構築に失敗したら暗黒舞踏に行って「わからんなぁ」と呟くオヤジと一緒になってしまう。
上でも書いたが、ウソをつくのには身体だけでは足りない。何か仕掛けが必要だ。役者同士が目と目でコミュニケーションして、立ったり座ったり。 3対2とか4対1で人間の関係性・政治の本質を思い浮かべるほど僕の妄想は陳腐でないし、かといってもっとすごいものが紡げるほど強力でもない。実は、途 中まで、すごく心配したのだ。
が、そこまで引っ張っておいた甲斐があったと確信した、その虚構の梃子の支点は、次の2つ:
①音楽。「これ、誰がかけたんだ?」と考える、つまり、何らかの意図を感じた途端に、世界が広がる。
②夏目登場。この男の、まるっきりコンテクストに囚われない立ちは何なんだ?強烈に色んなことを考えてしまう。

ん、と。言いたいことは。"LOVE"においては、観客は、すごく少ない小さなチャンスに自分の想像力を賭けることを強いられているのではないかと。少なくとも僕はそう感じた訳です。そういうきっかけを探しに行かないと入り込めないように出来ているのではないかと。

ちなみに、僕の感じた世界は、次の通りです:
女性達が"I Love You"と言えるのは、歌詞もそう言っているからです。
女性達は、その意味で、何か(=音楽のスイッチをOn/Offする誰か)に、その在り方を規定されている。音楽のOn/Offはその躾のプロセス。
夏目は登場当初、だれにも規定されていない。
でも、女性達から矢継ぎ早に発せられる質問に答えることで、夏目は規定されていく。一定のコンテクストに絡めとられていく。それを確かめる作業が、「あー、いーですねー」だ。
同時に質問の投げ手たる女性達も益々縛られていく。彼女達は夏目よりも一歩半だけ、余計に縛られた存在になっている。
そう考えると、「どんな○○が好きですか?」という問いかけは、夏目のLoveを規定していく過程である。Loveもまた、一定の枠組の中にて意義付けられ、規定されるべきものとしてある。

あ、これは、そのまんま、オレ自身のLoveに対する自信の無さが生み出した怖い妄想なんだ。あるいは、自分が社会に縛られていることを反映して、自分の想像力がこっちの方向に進んだんだ。

で、最後、女性達は社会に出て行く。めいめい社会に受け入れられるLoveをかかえて。しばし夏目考える。でも、やっぱり社会に出て行く。そして3本立ての1本目に戻る。

以上が、僕が"Love"から紡いだ虚構です。

アフタートークで多田氏の話したイメージと、全然違った。でも、僕にとっては僕の妄想の方が面白い(って当たり前だが)。多田氏は、そうやって勝 手な想像力が膨らむことを観客に許す。いや、勝手に膨らませることを強要する。そのための仕掛けだけはちょっとだけ残しといてくれている。その「ちょっと だけ」が、どんどんデスロックの芝居から剥ぎ取られていく。
非常に厳しい芝居だ。途中で「すごく心配になった」時点で、僕は、この芝居からふるい落とされそうになっていたのだ。

こんなに必死になって観ないといけない芝居なんて、ほんと、Loveがなきゃ観れませんぜ。大満喫。家族にも自慢できる。
芝居の作りのことを延々と書いたが、勿論、役者陣みんな良し。夏目・佐山はもとより、客演岩井氏、その他男優・女優、堪能しました。小屋番の女性 のたたずまいも、夏目の立ちと同じくらい美しかった。お疲れ様でした。そして何より、気持ちの良い客席・客層でした。秋のデスロック祭り。豊作である。