2010年9月28日火曜日

ジル・ジョバン ブラック・スワン

19/09/2010 17:00

身体が良く動く(あるいは身体把握ができている)のはパフォーマーとしての大前提だとしても、それをどう見せるか、言い換えれば、観客の視線がどこをどう動くのだろうか、というところにきちんと気を配って、そこに焦点を当ててみようという意図がきちんとエンターテイニングに提示されているのが嬉しかった。

アフタートークの場で、日本の伝統舞台芸術の「黒子」に大変興味を持ったと言っていたけれども、まさにそこでジル・ジョバンが感じたのであろうと推測される「面白さ」が、鮮度を保ったまま舞台に載っていたと思う。

人形を操作する人形遣いと、操作される人形。文楽であれば人形の動きに注目するのかもしれないけれども(そして実際僕も人形の動きばかり見ているのだけれども)、それを操作する者たちの動きを追いかけ始める(人形遺いの腕や身体の動きをみつめたり、視線を追ったりする)時、パフォーマンスアートとして別の次元が舞台上に見えてくる。

ブラック・スワンでは、ソロのパフォーマンスから始まって、そのうち「1対1、もたれる人と支える人」が提示される。その2人の関係はやがて、「人と長い棒」「人と長い棒とその先のぬいぐるみのウマ」に置き換わっていき、舞台上の前景と後景が混在して終わる。どちらが前景でどちらが後景かについてはもちろん説明がないから、その移り変わりは観客の「見方」に委ねられていて、そのあたりの揺らぎを味わうのが楽しい。

それらの動きの中に「繰り返しが一切ない」というのも好感度アップで、道理で、ほぼ素舞台、照明暗め、音楽も抽象めの、「寝ろ!」といわんばかりの作りであるにもかかわらず飽きが来ない、退屈せずに観ていられる舞台に仕上がっていた。雄弁に走らずにきちんと最後まで見せ切る技量、堪能した。

マドモアゼル・シネマ 赤い花白い花

18/09/2010 17:25

久し振りにこういう「正統派女の子ダンス」観たなー。

一列に並んで電車ごっこしたり、面切ってにこやかな顔見せたり、レビューもどきになったり着替えたり。これにもうちょっと「女の子」物語のテーストが加わったら一発不合格なはずなのだけれど、そうなる手前でこらえる。あるいは、一つのモチーフがあってそれで繰り返し遊んだりする中で、過剰にならずにその手前で抑える。そういうところに、構成のバランス感覚を感じた。

終演後当パン読んだら、案の定出演していない方が振付してらしたので、道理で、と納得。

が、ただし、だ。「一歩手前で抑える」ということは、過剰感やはみ出すものが出てきにくくなるということで、実際、1時間通して観ていて、眠たくはならなかったけれど、突き抜けた感じはなかった。バランスの中でかわゆく収まった感じ。それはそれで文句のつけようはないけれど、せっかく、この人たちが1時間身体を動かしてくれるのを拝見できるのなら、もっと違うものも観られたはず、と思ったりもする。具体的に何を期待しているのかは分からないけれど。でも、もっと、思いもよらなかったようなもの。

2010年9月27日月曜日

shelf 班女

18/09/2010 16:35

A.C.O.A.の人間椅子が長引いたため、20分押しでの開演。客入れ中から役者舞台にのっているので、20分不動の姿勢はつらかったろう。

それはさておき、shelfの班女ということで、かなり生真面目な舞台を予想していたのだけれど、予想通り。テクストの読み手と、その読まれる世界の登場人物達、その二層構造を観る観客という、生真面目でかっつりした構造も、shelfの芝居ならそうだろう、という感じ。テクストもストレートに押し出されて、時として起きる「読み手」の混入がきっかり決められた世界に裂け目をもたらす可能性を感じさせはするものの、結局最後まで(僕から観て)裂け目は生じなかった。

もっと破綻に近いところで演じられても、僕の趣味としてはまったく構わないのになー、と思ったことである。僕は第七劇場の「破綻気味に」進む舞台の方が好き。ツレはshelfのストレートに来る押し出しのほうが好みなんだそうだ。で、夕方N氏と話してたら、N氏は「花子が吉雄を拒絶するくだりの戯曲の読み込みが、どちらの劇団も足りないんじゃないか」というような感想で、そういわれれば、確かにどちらの舞台もかなり「実子目線」にバイアスがかかって、「花子の自我」への目配りに欠けていた気もする。

いずれにせよ、班女、強度があってカラーに溢れた戯曲だなぁと感じた。戯曲の可能性を堪能できたという意味でも、第七劇場・shelf、それぞれに主張のある演出に感謝。

A.C.O.A. 人間椅子

18/09/2010 15:00

如何に怪人鈴木シローさんであったとしても、独り舞台でデストロイヤーの覆面かぶって、かつ身体の動きを抑えて「人間椅子」の手紙部分を読み続けるのは、さすがに観ていて苦しかったのだ。

パフォーマンスの始まり方はさすが鈴木氏、議場劇場の観客全員が視野に入っていて、それを自分の「パフォーマンス・オーラ圏内」にしっかり取り込む手管が、客入れのときから作用し始めていた。導入の語りから、客席を通り抜けて着替えを済ませるまでの段取り、うなる。

が、やっぱりデストロイヤーの覆面は厳しかったなぁ。表情も半分も読み取れなくなってしまったし、しかもそのシーンは椅子に座りっぱなしだし。鈴木氏には申し訳ないし、自分的にももったいないのだけれど、そのシーンは眠たかった。ラス前、椅子を離れて舞台上を舞うシーンになって、ほっとしたのか、それともそのシーンが素晴しかったからか(実際、素晴しかったと思う)集中力大復活。最後はさすが鈴木さん、で締まったのだけれど、「どんぐりと山猫」の、あの、A.C.O.A.でしか出せない色の洪水を見てしまうと、どうしても不満が残ってしまう。

「霧笛」「どんぐり」「人間椅子」と、レパートリーにもすっごく幅があって、なので、今度鈴木さんのパフォーマンスを観る時には、一体その振れ幅の中でどんな作品が飛び出してくるのだろうか、それとも、どんな風に熟成して趣を変えてくるのだろうか、というのが楽しみではあるのだが。

2010年9月26日日曜日

くらっぷ ゴドーを待ちながら

18/09/2010 12:00

魅力的な役者達がいた。各人魅せどころをしっかりわきまえ、ケレンもあるが押さえる所を押さえる。特に冒頭、「チョコチップクッキーさん」の登場の仕方、靴紐への意識の集中と舞台下手で起きていることへの意識の向け方、ちょっかいの出し方、素晴しい。これが1時間続いたらどんなトンでもない芝居になってしまうのだろうか、と、ポジティブに心配になる。

が、1時間は長かった。30分経ったところで、観ている側として、だれてしまった。35分でコンパクトにまとめて提示されていたら、文句なしにノックアウトされていたかもしれないのに、もったいない。同じモチーフの繰り返しは、特に場慣れした役者でないと危険。せいぜい2回まで。繰り返しを持ち出さずに「ゴドー待ち」をどう提示するかが難しいなら、タイトル・モチーフともに「ゴドー待ち」にこだわる必要なかったと思う。本当にもったいない。

第七劇場 班女

18/09/2010 11:00

鳥の演劇祭ショーケース第2弾は東京からきた第七劇場の班女。小生第七劇場は初見。この後、shelfによる同演目も予定されていて、見比べるのが楽しみ。

「しかの心」は本当にいい匂いのする、間口が広いのにも関わらず観づらさを感じさせない暖かい空間。舞台上、横に真っ直ぐ敷いた白いシートの上に、禅寺の庭のような、盆栽のような、そんな感じで三箇所石が並べられて、なんだかやっぱり垢抜けた感じがする。

実子の声が大変魅力的。花子の動きや「台詞のやりとりに移る前の」吉雄の動きも面白かったはずなのだけれどよく思い出せない。申し訳ないが実子の声の第一印象の方が残っているせいか。

最後まで見通すと「三島戯曲、面白い」と思わせる。空間の作り・役者の動き、結構ケレンがあるようでいて、実はテクストが素直に伝わってくる上演だった。それは僕にとっては2つの意味があって、ヘンな見せ方に走らなくて安心するという意味と、生真面目さが物足らないという(もっと膨らみがあっても良いのではないかという)意味と。

双身機関 ファシズム!

18/09/2010 10:00

鳥の演劇祭、鳥のショーケースの2日目、トップバッターは議場劇場で愛知のカンパニー双身機関。客入れ中から、顔の白塗り黒スーツ男がホールに出てきて、アングラの臭いプンプン。舞台上のパフォーマーも、黒装束黒マスクの2人含め、アングラっぽい。

いざ始まってみると、テーマといいパフォーマンスといい大変生真面目で、正直なところ「思い先行」な感じがした。動きにしても、「刺す仕草」とか「倒れる仕草」の繰り返しは余計で退屈な感じがして、というのもそういう動作は「刺す」「倒れる」以外の見方(見立てや誤読)を許さないからで、身体の動きの面白さ・豊かさ、その裏付けとしてのいろいろなものが、「思い」によって細らされている気もしたのだ。

後で他の場所での舞台写真を見てみたら、生バンドも入っていたりして、結構格好良さうだったのだが、実際のところどうだったのだろうか?ひょっとしたら、開いて間もない「議場劇場」のあまりの議場っぽさにやられてしまったのだろうか、とも考えたのだが。

2010年9月24日金曜日

鳥の演劇祭に行ってきた

鳥取は鳥の劇場「鳥の演劇祭」を訪れるのは、2008年秋、2009年秋ときて、今年で三度目。今回はツレも-緒なので、やっと「温泉に入りたい!」とか「砂丘に行きたい!」とかいう欲も出てきた。三連休を使って2泊3日。今後も鳥取に来ることを年中行事化すべく、鹿野と鳥の劇場の素晴らしさをツレにアピールしまくらなければならないので、実は、そちらの方が結構なプレッシャーである。

1日目 朝、鳥取着。ショーケースで6本観劇。
2日目 観光(砂丘・浦富海岸)。5時からジル・ジョバンのダンス。
3日目 帰京。十サンプル字幕バージョン。

ショーケースは11団体が参加していて、頑張れば8本見られるのだが、ちょっと余裕見て6本に。このショーケース、何が良いって、参加団体がお互いのパフォーマンスを観られるっていうのが一番の売りで、そういう意味では、ただ「見せる」だけではなくて、参加することにすっごく意義のある企画だと思う。観客の方も2日間滞在すれば、どんな団体がやってきていて、出来不出来、評判がどうで、その後歓迎会、交流会に出てみたら「こんなこと考えてるんだー」ていうことも分かって、それも面白いだろう。ちょっとエディンバラの感覚に似ていた(個別のプロダクションについては別途)。「しかの心」は引き続き雰囲気抜群の小屋、「交流館」のたっぱの高さも魅力。「議場劇場」はまだまだ「町議会の議場」の匂いがしみついていて、ここも、使い込んで「劇場」になるまでの何年かのプロセスが楽しみになる。鹿野の町の中を移動しながら水が流れる音を間く。気持ちよい。ツレは川のほとりのベンチでちょっと昼寝。議場劇場で、いつのまにか北九州に勤めていた三橋さんに出会った。

山紫苑の露天風呂、展望(され)風呂、ともに素直な泉質で長くつかっていられる。初めて訪れた砂丘も、本当に砂丘で美しく、ビジターセンターの手作り解説がまた分かりやすくて素晴らしい。惜しむらくは砂丘に走って行く前に先にビジターセンターに行っていればと。浦富海岸の、絶景を望みながら崖っぷちを進む遊歩道もまた美しく、上り下り激しく、ふいに磯に出ると、だ一れも来ないようなところで小学校に上がる前のような子供が3人遊んでいる。浦富の漁港のシロイカ、賀露の市場の平政、ハマチ、ブリ、太いアジに垂涎、ちくわに目がくらむ(お土産は結局二十世紀梨)。

なんだい。鳥取、すげ-じやね-か!

な-んて思っていたら、3時に始まる「とりっとダンス」に間に合わず。すごく出来が良かったらしい。失敗した。

繰り返すとやはり、「なんだい、鳥取、すげ-じやね一か!」
鳥の劇場も、すごいです。み-んなに、鳥取に行ってほしい。鳥取で演ってほしい。

サンプル 自慢の息子

16/09/2010 ソワレ

今回のサンブルの公演についてもまた、上演台本の英訳と字幕製作にかかわらせていただき、稽古の過程やテクストの改変の過程も観た上で、本番公演に臨んだ。そうするとやっぱり「初めて観るように観る」ことはできなくて、公演を観た印象もそういうものにならざるを得ない。

と前置きした上で何を思ったかというと、やはり小屋入りしてからぐわっと芝居が変わる様に驚いた、というのが第一印象。芝居そのものが、(松井周の言葉を借りると)「場」に「物語」を貼り付けていくプロセスなので、アトリエ・ヘリコプターの場の輪郭を得た途端に芝居が水を得たように立ちあがっていく感覚。

冒頭、役者がわらわらと出てきて(一部は「アトリエ・ヘリコプターのドアを開けて出てきて」)「位置につく」ところで、芝居そのもののフレームが「ヘリコプターで役者が演じるもの」というように嵌められる。チェルフィッチュのようでもあり、中野成樹+フランケンズのようでもある。「真似してる」というのではなくて、要は、「劇場という場が、観客の前に役者が出てきてうそんこの世界を演じるんですよ」と宣言することが重要だ、そしてできればそれを観客との共犯関係のとっかかりとしておくことが重要だ、ということである。

だから、松井周が「物語を貼り付ける」という時、それは2つの意味を持っていて、
a.役者がヘリコプターの舞台上に物語を貼り付けること
b.劇中の人物が「正の国」(あるいはアパートの一室)に物語を貼り付けること
のどちらか、あるいはどちらでもあり得る。芝居の展開を観ながら、その2つの次元を自由に行き来することが観客に許されているのが心地よい。

で、それら2つの世界の蝶番のように機能していたのが、兵藤公美だったと思うのだ。それは単に「隣人」という「国外の人」であるからというのではなくて、兵藤一人だけが、ヘリコプターの舞台上手観客側の「ヘリコプター備え付けのドア」から舞台に出てきて、舞台前面で寝そべってしまうという荒業を許されているからである。
「一体兵藤公美は(劇中の「隣人」は)どこにいるのか?」
この問いについてもっとも真剣に考えなければならない相手が、この芝居では兵藤公美であり、そこが彼女ならでは、と思わせる見どころだったと思う。
(テクストが編集されていく過程で、前半の彼女のセリフがどんどん削られていき、彼女が劇中の物語のコアから周縁部へ=観客=ヘリコプターの場の方へとポジションを変えていくのが何ともスリリングだったのだが、それが劇場に入ってこのような形で観客と舞台を繋ぐとは!)

物語を一冊に綴じずに、(ぺたぺたと舞台に貼り付けたまま)割とぶっきらぼうに観客に提示して見せる松井周十サンプルのやり方は、彼の創造意欲を駆り立てるものとしてリビドーが前面に出がちなこととも合わせ、時として「訳分かんない」という印象に繋がっていたと思う。それが、今年初めの「ハコブネ」で、観客を取り込んでいくフレームやプロセスの柔らかさを感じさせるや否や、今回の「自慢の息子」では、柔らかく処理する手法としてだけでなく、攻守兼ね備えた手法として芝居を立ち上げていて、松井芝居が「離陸した」印象を受けた。

たまたま口口の三浦・板橋両氏が観に来ていたからでは必ずしもないとは思うのだけれど、5月に観た「旅、旅旅」のことを思い出した。「旅」は、冒頭に一つに綴じられたサザエさんという「物語の束」から、貼り付けられた物語が次々に剥がれ落ちつつ名づけ直されていく過程についての芝居だったと思う。「息子」は、ともすれば剥がれ落ちそうになる物語をめいめい勝手に貼り付けていく、そして最後にグロテスクな「物語もどき」が、続<とも続かないともなく提示される、という、ちょうど「旅」逆コースをたどるような展開で、そこが「旅」の「抜け出して発散していく感じ」と、「息子」の「どうやっても危うい感じ」の違いに繋がっているのかな、とも思った次第。

芝居についてはこんな感じ。もう一度、英語字幕の回にもお邪魔するが、その時にはあんまり冷静に観ていられないだろう。

三条会 失われたときを求めて 第3のコース「ゲルマントの方へ」

12/09/2010 マチネ

失われた時を求めて、第三のコース。全部で七つのコースになっている、ということを意識すると、どうしても「完走しなきゃならないのではないか」とか、「一回見逃すと、続きを見ても仕方がないのではないか」とか思ってしまいそうだが、そういうことは全くない。連続するモチーフは、ひょっとすると創り手の側では共有されているのかもしれないが、少なくとも第三のコースまでを拝見して、どこかが抜けたらコンセプトについてロストしてしまうようなことは感じない。かくいう小生も、第四・第五のコースはスケジュール的にきついかも‥・と感じているけれど、そもそも芝居については「完走」を目的にしてもしようがないところはあって、むしろ、目の前にある舞台を目ん玉見開いて観ることが楽しいんだ。

今回は「芝居を観に行く」ことと「引っ越し」が劇中の出来事の軸となっていて、舞台上(アトリエ内)の出来事の組み立てにも、「視点」と「場」のコンセプトが反映されていると感じた。「わたし」が凝視する舞台上の出来事と「わたし」が投げ込まれる舞台(=「場」)で起きる出来事の間の行き来、それを凝視する関氏、それを見つめる(アトリエ内の)観客、そこに向かって発語する「わたし」。「わたし」の「引っ越し」、「居場所」、「居心地の悪い場所」、舞台の内と外。テクストの内と外。それをつなぐ「読む目線」と「観る視線」、「朗読者」と「演技者」。とまあ、こんなことをいちいち考えながら一時間を過ごしていたわけではないのだけれど、小さなアトリエの中で1時間過ごしながら、自分が色々な「場」と「視線」の中を行ったり来たりしていたという感覚だけは確かに残って、それは大変豊かな時間だったと思うのだ。

2010年9月22日水曜日

こふく劇場 水をめぐる

10/09/2010 ソワレ

なんと豊かな芝居。雨風に晒されながら素直に曲がりくねって育った樹のように、変に気取らず、突っ張らず、芝居の輪郭はがっちりと骨太に、無駄がない。時の歩みは速すぎず、遅すぎず、時空のチューブの中をぐいぐいとうねうねと、充実を保ちながら進み、かつ、変な抵抗はない。滑りもしない。この世界に裏はないが、深みはある。後味の悪さを声高に謳わずとも、正と邪、美と醜が世界の滋味として渾然一体と取り込まれ、アゴラのスペースがこんな形で充実しているのを観たことは、おそらく無いのではないかとも思わせる。

役者の立ちもまた「すっく」として美しい。テクストにもほぼ無駄が無く(時として物語の語りが入るのは、客の集中力をつなぎ止めるための最小限の必要悪とみた)、観ている自分の脳内に、舞台に集中できないときに湧き出る「邪念」ではなくて、舞台に観入った結果としての「妄想」が沸き上がるのを感じる。表面上の「エッジ」を立てることにこだわらずとも、ここまでできるのか、と。伸びやかな妄想の広がりに脱帽するほかはない。

あ、そうだ。この感覚は、ブランフォード・マルサリスのバンドを聞いているときに感じるのと一緒だ。ジャンルにこだわるでなく、素直な豊かさを感じること。素直に伸びることは「真っ直ぐ伸びる」こととイコールではないと思い知ること。無垢なまがまがしさに触れること。素晴らしかった。

青☆組 忘却曲線

07/09/2010 ソワレ

印象に残るシーンもあるけれど、観ている間、妙に「無駄なシーンが多いな」と感じることが多かったのだ。

当パンに作・演出が「私情を隠さすにぶつけた」と書いてあって、実際そうなのだろう。「思いを伝える」ことへの真摯さはあった。役者陣もその思いを舞台に載せるべく真摯に頑張っていた。ただし、僕は「一観客」なので、思いを伝えることに対して頑張るよりも、もっと面白いシーンをみせることに対して頑張っていただきたいと思ってしまう。だから、「思いを伝える」ための導線の役割を果たすためのシーンは全て無駄に感じてしまう。

でも、そういう「無駄」が気にかかるのは、それらのシーンと比べてみて、明らかに、
「何も語ろうとしていない、思いを伝えようとしていないのだけれども、決して語りえないもの、伝えようのないものが噴出するシーン」
があったからなのだ。

幹子が台拭きでテーブルを丁寧に拭くシーンは出色。こういうシーンがもっとあったらなぁ、と思わせた。あるいは、末弟とネコのシーン。会話が始まる前。何の伏線にもならないシーン。こういうの、いいなぁ。

1997年ごろにロンドンで観た「水の記憶」っていう芝居があって、すっごくよく出来た戯曲なので未だに忘れられないのだけれど、それも、三姉妹と亡き母の物語だった。その物語では、亡くなったばかりの母が「若いころの姿で」時として姿を現して、そのタイミングとか、バラバラの記憶をふとぐいっと繋いでしまう効果とか、素晴しかったのだ。井上みなみの母親役はそれをちょっと思い出させた。化粧とか、つけ胸とか(だよね?)要らないよ。吉田・井上+達者な役者陣なら、もっと出来るはず。もっとエンターテイニングになって、とんがって、そして、私情はその後からひそやかについてくるはずなんだ。

2010年9月14日火曜日

KUNI0 07 文化祭

04/09/2010ソワレ

アゴラの演劇祭、杉原邦生ディレクターの2年間のラストを飾る公演は、杉原作・演出の「文化祭」。こちらも「その」積りで、ガッツリ楽しませていただきました。

カドヤと共同開発の「くにお肉パン」は、過去25年間カドヤにお世話になっているものとして敢えて言うならば、この25年間カドヤで売り出した新製品の中でも出色の出来栄え。さすがはジャンクを恐れず、ジャンクなまま美味しく舞台に乗せてしまう、くにおマジック。舞台の方も、誤解を恐れずに言えばジャンクフードの「ギルティ・ブレジャー」な味わい。31人の役者を惜しげもなくつぎ込んで、プロット・モチーフは二の次三の次、要は1時間45分面白く構成して見せ切った側の勝ち。その割り切りが相変わらず杉原演出の醍醐味だろう。

その中では、もちろん、「青春60デモ」でも感じた、「役者は、何のかんの言ってコマですから」みたいな、もっと丁寧な言い方をすると「ハードウェアとしての役者を最重要視する」態度がカッツリ見える。「役者としての技量」は、彼の文化祭の構成に際して何らの判断基準にもなっていないこと。贔屓の役者がいる人には、見せ場の長短、盛り上がりの大小、不満がある点もあると思う(実際僕も、松田裕一郎さんの「見せ場」が本当に最後のほうまで来なかったので、ハラハラしていた)。が、そこは全体のバランス優先。バランスがとれているからこそ、短い見せ場も印象に残ったりするのである。

敢えてどうしても一つだけ挙げるとすると、スクール水着・ゴーグルで踊りまくったシーン。文化祭一等賞。すげかった。

弘前中央高校演劇部 「あゆみ」

28/08/2010

それが、柴幸男作・演出でtoiがアゴラで上演した「あゆみ」であるならば、畑澤聖吾さんが全治全霊を傾けて脚色した「あゆみ」であるのなら、それは何としてでも観ねばなるまい。それは、優秀賞だろうが佳作だろうが落選であろうが、何が何でも観ねばなるまい。そういうことです。そして、その期待に違わぬ素晴らしい舞台だった。いや、期待を遥かに超えて、素晴らしい舞台だった。

開幕。幕が一切下りておらず、舞台奥まで全て見せる素舞台に役者2人が立っている時点で、もう、泣きそうになる。これを見せるか?いまから、「あゆみ」という「全ての人をぎゅっと一人の人に詰め込んじやったみたいなモノ」を見せようとするその直前に、なにもないもの、そして観客全てに開かれた空間を、まず、見せてしまうか?そこに、畑澤先生と生徒たちの思いっきり力強いマニフェストというか、もう、誰にも何も言わせないくらいのまっすぐな強さ、立ち入ることを許しているのに邪魔できない健やかな結界の存在を感じる。そして国立劇場ならではの花道からの登場。この呼吸の抜き方、はずし方。畑澤演出の醍醐味。

はじめの一歩からは、ほぼアゴラ初演に近い形で進行。「赤ん坊のよろけかた」「会社での会話」等々、そこにはもちろん(初代あゆみーずとの間で)役者としての技量の差は感じたのだけれど、驚いたのは、「実年齢を役の年齢が追い越した」後に舞台上で起きたこと。実は失礼ながら、実年齢を越えた役を演じるにあたってアップアップする高校生を(ちょっとだけ)予想していたのだけれど、あにはからんや、役者の年齢に関係なく、演じられる年齢にも関係なく「彼女たちだけに作ることができるあゆみ」がぐいぐいと立ちあがってしまった。一体これは何なんだ?シビれた。柴戯曲のマジックなのか、畑澤マジックなのか?それとも、彼女たちに備わっている何かなのか?

車いすのシーン(初演にはなかった)には、ヤラれていると分かっていても、泣く。客席中が泣いている。これは畑渾節だと断言してかまわないだろう。泣かせにきやがって、と頭で思っても、やっぱり泣く。そして、役者たちはあくまでもクールだった。

後日、NHKテレビで放送されたのも拝見したが、やっぱり泣いた。まあ、泣く・泣かないはどうでもいいや。一度見始めたら、どうにも途中で止められなかった。ゲストの江本純子さんが、心の底から悔しそう、というか、なんとかしてガチンコでそれより面白い芝居が作りたいという顔丸出しでいたのが印象的。図らずも江本株が上がる結果となった。でも「どっかでこける」のが解法でないことは、江本さんならずとも知っている。どうする、みんな?(他人事みたいに言うなって?)

前橋南高校 黒塚Sept.

28/08/2010

高校生の演技は何度か拝見したことはあるけれど、「高校演劇」を観るのは初めて。花道付きの国立劇場の舞台、なんだか「エラい先生方」が沢山いらっしやる感じの客席も含め、まずは「全国高校総合文化祭」の雰囲気が、素直に面白い。まあ、良いことも悪いこともあるけれど、こんな感じの客層の芝居には、それほど積極的に来ようとは思わないかな。

ま、それはともかく、前橋南高校のSeptember。「なぜ大人の上から目線を気取るのか?」という至極もっともな批判を浴びることを承知で言うと、「高校生ですでにこの技量か」という驚きが真っ先に来た。本当に、自分が高校生のころを考えると、また、自分がイメージしていた「高校演劇」と比べると、今更ながら雲泥の差があって、思わず「失礼しました」と心の中で自己批判。

引きこもりの高校生の現実と妄想が、とある夏のうだうだした夕方の中で交錯する。この「うだうだ感」が、「ああ、これ、妄想シーンだね」とか「ああ、夢オチ芝居ね」といった「あるある」な予定調和から観客を引き離す効果を持つことを、作・演出、演者ともに理解して、上演に臨んでいる。そこが良い。

弟役もとっても美味しい役なのだが、そこをぐっと抑えて演技するのもよい(実は僕は「弟の話を振りながらも実はお父さんが部屋に入ってくるのがシュールでいいな」なんて思ってたのだけれど)。ヨメは「なぜジャックスをかける?誰の趣味だ?」という突っ込みを入れていたが、そこらへんも、実は顧問の先生とのうま-いバランスなのかな、と、好意的にとる。

残念だったこと2つ。1つ目は、ラスト、暗転⇒明転⇒ごあいさつでなくて「緞帳が下がって幕」となるのは、この芝居ならあり得ない。思わず噴き出しそうになった。悪い意味で。2つ目はそれともからんで「もっと小さい小屋で見たかったな」ということ。この芝居を見るのに国立劇場の客席では遠すぎる。せめてキラリふじみ、吉祥寺シアターぐらいの近さなら、もっと楽しめたのに。そして、もっと厳しい芝居を期待できたのに。

2010年9月1日水曜日

森の奥

21/08/2010 ソワレ

実際色々とすごい芝居だったし、平田の言うとおり「歴史に残る」画期的な好演なのかもしれない。が、僕は「歴史を見通す」とかそういうことには関係なく芝居を楽しもうとする一観客としてこの公演を目にするわけなので、そんな風にして劇場の中で、目の前で展開した出来事について、観たように書くしかない。

「森の奥」は、一連の「ネアンデルタール作戦の研究室」ものの最新作として、平田らしい、完成度の高い戯曲であった(もともとはベルギーでの公演を前提に書いたもの)し、今回のロボット版もクオリティは高い。そして、ロボット2体はといえば、役者としてはまだまだというのが第一印象。そしてそして、それらの「まだまだ」な役者と同じ舞台に立つ青年団の役者達に凄みを感じた。

ぐっと自分の個人的なところに引き寄せて言うと、自分が役者としてダメだったところが、ロボット役者でもダメだという風にデフォルメされて見えるような気がしてしまって、ちょっとへこむとともに、「良い役者」が、自分の台詞・段取りだけでなく、自分のおかれた状況に対してどれほどビビッドに反応しているかがくっきりと浮かび上がった、ということだと思う。

アフタートークで平田自身が語っていたように、ロボット役者が人間の役者と少なくとも対等に伍して演技できるためにインプットするべき細かな演出は、あまりに大量である。時間と金さえつけば(そして、起きるべくして起きる技術的ブレークスルーを経たならば)そうした大量の演出をつけることは可能だろうけれど、だとしてもそれが「ロボットが人間を超えた」と言い切る理由となるかどうかは分からない(新たな不足が明らかになるだけかもしれない)。よしんば、「周囲の役者が完全にタイミングを捉えて演技し、ロボットにそれを踏まえて演技をさせれば、『周囲への反応』も同期できるはずだ」ということも考えられなくはないけれども、やはり人間の役者の「反応」ははるかに微妙で豊かなのではないかという気はしている。

後半、wakamaruが客席に向かって真っ直ぐに移動してくる場面、つい、wakamaruと「眼」が合った気がして、そこから視線を離すことが出来なくなってしまったのだけれど、そのときの「ぞぞぞ」とくる感じは忘れられない。そして、そんなロボットと会話を交わす演技をしている時の、青年団の役者達の(特に大竹直の)演技のきめの細かさ、解像度の高さ、柔らかさと豊かさとに、打たれた。

あの「ぞぞぞ」感は、今後のロボット製作技術の、あるいは僕らの認識の仕方の、変化につれて、どのように変わっていくのだろうか?wakamaruの演技は、「不気味の谷」にどれくらい近いのだろうか?

今回wakamaruにインプットされた情報、wakamaruがアウトプットした演技は有限だ。でも、そこから広がる観客の妄想と想像は無限である。少なくとも人間がロボットに取って代わられるまでに、まだまだできることはあるという極めて楽観的な前提を下敷きにしてこそではあるけれども、「未来」を感じた気は確かにしたのだ。