2007年12月22日土曜日

青年団 火宅か修羅か

21/12/2007 ソワレ

初日。客入れ中の役者の動きからしっかり見たくて、開場と同時に入場。青年団を見るなら、ここから役者の立ち居振る舞いに注目したい。
案の定、古館寛治、客入れ中でしか出来ないベタなネタを披露。早めの入場がお勧めである。

が、客入れ中、役者よりも実は目を奪ったのが、舞台の美しさで、この舞台は帰国後見たアゴラの舞台の中で1,2を争う出来である。アゴラをこんな に広く見せながら、拡散させず、「空間を埋めに行った」気配をまったく感じさせないのと同時に空間をぴたっと閉じて、かつ客席に開いてみせる。それが、割 と青年団スタンダードの「上手と下手に伸びた通路、そこに挟まれたセミパブリックな空間」という教科書的要件をまさに教科書的にこなした上で達成されてい るのだから、余計に素晴らしい(後付けじみて聞こえるかもしれないけれど、このわがままな舞台をきっちり照らす照明の力も凄い)。この舞台を見るためだけ でもアゴラに足を運ぶ価値あり。

肝心の芝居のほうもしっかり出来ていて、特に、娘と別居で単身生活中の小生には、志賀廣太郎父と荻野友里娘の1対1の会話(まだ前半だというの に)の距離感に、いきなり泣けた。が、実は感心したのは、ボート部同窓会組の、さっぱりした、戯曲の意図をすっきりと伝える演技で、特に、古屋隆太は、 「あぁー、海神ポセイドンはこういう風に伝わるものなのだ」と、本当に感慨深く、かつ、良い役者の演技を見るよろこび、を感じた。

初演時に比べて役者の数を絞ったせいか、全体にもすっきりした味わいで、逆に、初演時のねっとり感を期待する向きには食い足りないかもしれないが、僕にとっては、青年団中堅・若手役者の魅力をとくと満喫する良い機会でした。

2007年の最後を飾り、2008年の幕開けとなるのにふさわしい良品でした。これで気分良く年を越せます。

2007年12月18日火曜日

ふるさとの訛りなつかし停車場の

今日の昼間、京浜東北線に乗っていたら、見た目欧州人の若い女性(20台前後かな?)が5人、品川から乗り込んできた。観光客な風情で車内でぺちゃくちゃ話していたのだが、これが、何と、英語のようで英語でないようで、聞き取りにくい。

で、じっと聞いていると(失礼!)なんと、きっついアイルランド訛りの英語でした。

若い女性がアイルランド訛りでおしゃべりしてるのを聞いたのはむちゃくちゃ久し振りだったが、思わず、
「な、なんてかわいい話し方なんだ!」
と感じてしまった。

むかし、ジム・ジャームシュのミステリー・トレインの中で、ジョー・ストラマーがアメリカ人の女性に「あんたのアクセントって、とってもスイートなのよ」といわれていたのを思い出す。イングリッシュですらスイート。いわんやアイリッシュをや。

でも、イギリスでアイリッシュ訛りの若い女性が集まってしゃべってても、かわいいとは感じないに違いない。100%確かだ。

2007年12月17日月曜日

死ぬまでの短い時間

16/12/2007 ソワレ

岩松さんの暗いミュージカルか、というので観に行ったが、これは面白かった。子供には見せたくない、大人の芝居だ。一人、役者に子供も混じっていたが。

(以下、ネタバレですのでご注意ください)

この芝居に出てくるもの。
・ 上手奥の電話ボックス
・ 下手には狭いアパートの部屋
・ 人を殺してきて身投げしようとして遂げられなかった女
・ 兄貴分を勝手に慕う少年
・ 電話ボックスでおぼれる女
・ 身体の刺されたところに咲く赤い花
・ 踊り子を追いかける男(この騒がしさを観よ!)と助けようとする少年
・ 最後、町を出て行こうとする男。トランクつき。

あ。これ、岩松芝居のモチーフじゃないよ。唐さんの書く芝居だよ。第七病棟だよ。
だから、音楽だって、ここぞというところで何となくくらぁくかかるのさ。唐組だって、台詞ごとに音楽かかるじゃあないか。
北村・秋山は、岩松さんにとって石橋・緑なんだ。古澤氏は、一人で三人組を演じていたのだ(彼は実際、そういっても良い位に良かった)。

そう考えると、(過去10年の間に岩松さんが別な試みを既にしていたら申し訳ないが)、実はこの芝居は、唐さんの芝居に対する岩松さんなりの答なのではないか、という気がしてきた。
昔、グローブ座で観た「それからのジョン・シルバー」は、観た瞬間に
「岩松さん、唐さんの芝居を演出したい、とかいっておいて、その愛情が屈折したものだったがために、結果的に唐さんに喧嘩売っとる」
と思ったものだが、
この芝居も実はかなり喧嘩を売っている(しかも屈折せずに)感じだ。しかも面白い。

役者5人、岩松戯曲でこのエンターテイメントぶり、かつアングラの匂いプンプン。かなりお得感のある、かつ、ポジティブな驚きのある舞台だった。

シベリア少女鉄道 俺たちに他意はない

16/12/2007 マチネ

前回と同様、最初の1時間で状況を作っておいて、残りの30分で大ネタを仕掛けてそのまま大団円へ加速しながら芝居を終える構造。
いや、凄いセンスを感じる、が。

最初の1時間がどうにも耐えられないのは、これは分かっていても「どうにかならんか」と思ってしまう。
しかも今回は、後半の大ネタも、「まったく日本のテレビ等々にエクスポージャーのない」僕には「分からない、知識レベルとしてついていけない!」
ために、不発。

きっとこれからも、エンターテイニングな舞台を作っていく劇団なんだろうけれど、正直、疎外されてしまいました。くやしい。でも、涙流して歯を食いしばって付いて行きたいとも思わない。先方も全然ついてこーい、なんて思ってないだろう。

2007年12月16日日曜日

壁の花団 悪霊

15/12/2007 ソワレ

芝居として成功しているとは必ずしも思わないけれども、でも、MONOでやっている人たちが、MONOでしていないことをやろうとしていることは何だかわかる。気がした。
役者は4人とも力のある人なのだろう。金替氏は昔から好きな役者だし。

冒頭のシーン、姉妹のやり取り、何かが起きそうな感じ。それが、きちんと引き継がれて盛り上がる、ということがなく、不発に終わった感あり。
ではどこで道を誤ったのかというと、そこがどうも分からない。

どうも、無理矢理にでも自分の妄想に引っ張ってきて、舞台の外へと考えをめぐらせることが出来なかったのは、自分が疲れていたからか?
どうも分からない。

こんな、何が言いたいのか分からない日記を書くのは心苦しいが、でも、何が気になって何が立ち上がらなかったのか、本当につかめないけれど、でも、立ち上がらなかったのだ。最後まで。ごめん。

2007年12月14日金曜日

チェルフィッチュ 三月の5日間

13/12/2007 ソワレ

やっと、三月の5日間、初見である。
六本木ヒルズのたかぁーい建物を見上げながら急ぐが、案の定道を間違える。やっとのことでたどりつくと、ぽっしゅな美術館のどぽっしゅな職員に迎 えられて、かなりな場違い感だ。美術館の会員以外の人間は、部外者として排除しようという気合が満ち溢れている。当日パンフに岡田氏が「ウィルスみたいな 存在」と書いていたが、言いえて妙で、まさに、都市のビルにおける視線の防犯=免疫機能たるや、大変なものだ。ま、わしも会社帰りのスーツ姿で外見からす りゃ「排除する側」なんだけどね。

と、横道にそれたが、公演会場は美術館の小ホール、パンチカーペット張り、舞台の上下にイントレを組んで、以上。岡田氏、開演前の挨拶で「コンテクスト」ということを言っていたが、まさに、小劇場の芝居を観るコンテクストからはかなり遠い。
開演前の挨拶といえば、開演前に学芸員と作・演出があわせて3~4分挨拶する芝居も珍しい、というか、初めてだ。学芸員の人がネタバレしないかと はらはらしたが、さすがにそれはなかった。とまぁ、全体の雰囲気が、何だか、「チェルフィッチュ」なる金魚を森美術館の金魚鉢に放り込んで、周りからぽっ しゅな観客があーだこーだ言いながら指差して眺める、そういう感じがしたのだ。...まぁ、8割がたは、田舎もんのわしが六本木ヒルズに気後れしているそ の代償を、森美術館に当り散らしている、という構図が正しいと思うが。

と、横道にそれまくりだが、三月の5日間、大変面白い。エンターテイニングである。方法論に驚くのはもう止めようと思っていたのだけれど、そうしても、なおかつ面白い。それは折り紙つきだ。

しかしまぁ、ラブホにいる2人⇔遠くで行われている戦争。あぁ、この間に戦争終わってないかなぁ。という気分は、実は、そんなに特殊な感じではなくて、

① 1週間インフルエンザで寝込む会社員⇔会社では相変わらずビジネスが続く。あぁ、オレが寝込んでる間に、懸案のあの案件、終わっていないかなぁ。(終わらん、つぅの)
② 戯曲が書けずに自宅で煮詰まる座付き戯曲家⇔稽古場では稽古が続く。あぁ、なんだかオレがいない間に、芝居が出来上がっていないかなぁ。(出来上がる訳ない、つぅの)
③ 夏休み、ぼぉーっと高校野球観ている小学生⇔宿題全く手がついていない。あぁ、何だか小人がやってきて宿題終わってないかなぁ。(ちみ、あますぎよ)

という気分である。かなり普遍な感覚である。それでは何故、岡田氏は戦争とラブホを選び取ったのだろうか?

また、その身振りである。足をさすったり、手をいじったり、ひねったり、振ったり。この動きの意識したデフォルメは、これらも実は、鼻糞をほじっ たり、耳を引っ張ったり、お尻を掻いたり、という動きと、等価のはずで、そうすると、何故岡田氏は、鼻糞をほじらせたりしないのだろうか?

要は、長々と何が言いたいかというと、この芝居は、もしかすると、
「11月の5日間、と題されて、風邪を引いた会社員が自分が寝込んでいる間に案件が片付いていたらなあと夢想しながら無為に過ごす、その姿を、言葉に寄りかからず、鼻糞をほじったりお尻を掻いたりしながら当世のサラリーマン言葉で語る」
芝居だったかもしれない、ということだ。で、そんな芝居だったら、岸田戯曲賞を取っていなかっただろうし、森美術館にも呼ばれなかっただろう、ということだ。

いや、別に、岡田氏を貶しているわけではないよ。いいたいのは、この芝居は、過激なばかりでなく、ある程度観客がとっつき易いように意識をして書かれている、ということです。
なぜなら、岡田氏の意識している問題意識を人に伝える際に、「鼻糞をほじる会社員」よりも「ラブホにいる若者」の方が受け入れられ易いだろうから。

で、もっと言うと、何を言いたいかというと、この作品を、「イラク戦争」という狭くて時として安っぽくなりがちなコンテクストで捉えて傑作とか言 うのはやめよう、ということなのです。本当は、そういう個別を超えてスッごく面白く出来ていて、岡田氏をもってすれば鼻糞会社員でもやっぱりものすごく面 白く出来ていたはずなのだけれど、そこは敢えて「戦争とラブホ」で切り取った。そういうことなのじゃないかと思うのです。

だから、結論じみたことを言えば、この「ウィルス」が、もっと過激に、スマートに、観客の日常の襞にまで入り込んで、僕達の暮らしを脅かしてくれることを、僕は願うのです。
桜美林の「ゴーストユース」は、その意味で、「三月の5日間」ほどエンターテイニングではないのかもしれない。でも、彼らによって、僕は確かに脅かされた、気がした。そういうことなんです。

2007年12月10日月曜日

ナイロン100℃ わが闇

09/12/2007 ソワレ

いや、本当に、ケラさんは頭の良い人です。そして、サービス精神も旺盛です。お客さんのかゆいところにとことん手の届くお芝居を作ります。3時間15分掛かっても、それは決して自己満足の長尺芝居とはわけが違います。

でも、これほど殆どのことがきっちり回収されて説明されてしまうと、僕が想像力を働かす余地はなくなってしまうのです。コーヒーのダバダだって、 囲炉裏で何焼いているかだって、わざわざ説明しなくたっていいじゃないですか。分かってる人がイヒヒと声を出さずに笑ってればいいじゃないですか。要は、 「少しはほっといてくれ!」と言いたくなってしまうのだ。

と、それほどまでに懇切丁寧に説明のカタをつけていってくれる、心優しいケラさんの手管に、観客席からは笑いが絶えない。でも、それは何だか、「ほぅら、面白いだろ、笑えよ、楽しめよ、愚民ども」って言われてるような気に、僕をさせるのです。

もし、そういうじれったい説明が入るために3時間以上掛かるのだったら、余計な説明をしないで上演時間縮めて、2時間で終わってほしい、というのが正直なところ。
どういうところが縮められるかって、
たとえば、平田オリザの「ソウル市民」のラストシーンと思しきシーンの後にアナウンスが入って、
・ さて、この後、手品師は再び現れるのか、
・ 謙一と淑子の逃避行はどのような結果に終わるのか、
・ 叔父の満州行きはどのような顛末を迎えるのか、
・ 大篠崎商店の栄光の歴史、は果たして完成するのか、
・ 表の門は本当に直ったのか、大工の出番は本当に冒頭だけだったのか
は、一切説明がないまま、この芝居は終わる。
って説明したら、やっぱり芝居、長くなるはずだ。その積み重ねが3時間を超える上演時間に繋がっていて、でも、そういうくどい説明をすることで、 お客さんが「あぁ、そういえば、あのひとあれからどうなるんだろうね?」なーんて2人で話しながら帰ってたりして、本当にケラさんの芝居はエンターテイメ ントとしてお客さんの面倒見がよいのである。アフターシアターの話のネタまで提供してあげて。

でも、やっぱり僕はこの手の芝居で3時間は長いと思うし、たとえそれがケラさんの考えていたスマートな落ちとズレていても、「勝手に想像する」余地を残していてもらいたいと思う。

要は、折角スマートで恩着せがましくない説明を受けているのにそれをうざったく感じてしまう僕は、ナイロンにとってはお呼びでない、ということなんだろう。

二騎の会 五月の桜

09/12/2007 マチネ

「絶対に立ち位置から足を動かすんじゃねーぞ」
という、演出家の半ば脅迫めいた指示を受けて立った5人の役者、見事に要求に応えて見応えがある。もちろん、そんな中にあって
「君達は下半身ふらふらしてて全く構いませんから」
といわれた天明と東谷、その役割を存分に弁えて舞台上を移動する。それも見事である。

その場に「立ち尽くす」といってしまうには勿体無いくらいに、意志を感じさせる役者の立ちは、手塚治虫の火の鳥宇宙篇、動けない動物の惑星の動物達がお互いの意思を交わす有様を想起させる。

その動かない動物達が交わす台詞の距離の感覚が、役者の身振りや表情でなく、台詞の飛ばし方・受け方で感じられる。台詞を飛ばす、それをよける、撥ね返す、受ける、吸い込む、引き受ける、そういったアクションが、ごまかしようもなく伝わる。

すると後半になって、それら登場人物の間の関係を規定する出来事が、「戯曲の中で」物語られ始める。あ、この演出、戯曲を先取りする形で「人の間の壁」「感情の通わなさ」「そこで通ずるもの」等々について、メッセージを観客に送っていたのか?
どうもそう思えないこともない。
だけれども、それは危ない試みのようにも思えて、なぜなら、戯曲が何かしら言葉にしているものは、演出で念押しする必要はないはずだから。
演出は、「どんな形であれ、必ずしも戯曲の援護射撃をする必要はない」のだ。

今回の芝居は、演出が「敢えて」戯曲の援護射撃に入っていて、それがまた、恰も、西部劇かなんかで死ぬ運命の脇役が、主役を引き立てるべく大げさなポーズで敵をひきつける、そういう大仰さを感じさせたのである。

戯曲の出来はけして悪くないのだ。いや、むしろ、良い。その良い本を、さらに援護しようというのだ。戯曲家冥利に尽きるだろう。

で、別に演出家は舞台に立つわけじゃないので、全ての苦労をしょわされるのは役者達だ。それを見事に受けて立って芝居を成立させた役者に拍手を送る。

この芝居を観ていて、登場人物のうち誰に移入するかは、性別・年齢によってまちまちだと思うが、おそらく、若い女性は長野海に、40がらみの男性は永井秀樹に、移入しやすかったと思う。ご他聞に漏れず40男である僕は立派に永井秀樹に移入して、
従って、ラストシーン、

「にま~」

としてしまったことを、今、ここに白状する。
まぁでも、その先どうなるかについては、戯曲の中でも演出によっても、何にも保障されていないんだけれど。そこで勝手ににま~としてしまえるところが、芝居の観客の便利なところである。
開演前に「永井秀樹かっこいい」との話を聞いて一瞬色めき立った小生であるが、この芝居を観終わった後では、(やっぱり面白くはないが)幾分そのコメントを認めざるを得なかった。

2007年12月9日日曜日

虚構の劇団 監視カメラが忘れたアリア

08/12/2007 ソワレ

一言でかたづけるならば、面白くなかった。
方法論として新しいこと無し。また、折角若い役者が揃っているのに、そこから本来感じるはずの、「こいつらどうなってるんだ」という凄みが来ない。
こないだ観た桜美林の「ゴーストユース」や、静岡の「転校生」と対照的である。そこで観た、「脅かされる感じ」が来なかった。

この劇団の若い役者達は、余程割り切っているのか、それとも余程おとなしいのか?

「おはなし」のことを言うと、大体、「サークル広場」なんていう設定がどれくらい今の大学で生きているのか? 或いは、「監視カメラ」と「盗撮カ メラ」を絡めて、観る側と観られる側を用意して、プライバシーとの安易な遠近法を前面に出して、役者が面切って「監視カメラは気持ち悪いよな」って、それ はないでしょう...

何だか80年代から鴻上さんの芝居を追ってらっしゃるような方々も観に来ていたので、あんまり詰まんないとかいっちゃいけないのかもしれないが...
でも、考えてみたら、自分も80年代に第三舞台観に行ってたりしたが、面白いと思った記憶は実はないのだった。そんな自分であるにもかかわらず観に行った己を、まずは責めるべし。

青☆組 million blue

08/12/2007 マチネ

夏に観た「おやすみ、枇杷の木」はちょっとこれはいかがなものか、という感じだったのだが、このオムニバスは、予期に反して、良く出来ていた。

5つの短いスキットを繋ぎ合わせて1時間半。バランスも悪くない。ただし、ここでの「良く出来ている」は、直訳するとWell Madeで、つまり、ウェルメイドに近い出来映えとなっている気がした。そして、僕はウェルメイドという言葉は誉め言葉としては使わない。

一定時間の中で起承転結をつけて、何だかはっとする出来事があって、で、「それからどうなっちゃうの?」と思わせておいて、そこで終わり。なに も、物語の続きやオチを求めているわけではない。短い時間の中なので寄り道が出来ない、あるいは、寄り道を避けている、というところに不満が残るのだ。そ こで役者が窮屈に見えてしまう。

もちろん、流れ自体は悪くなくって、あくまでもウェルメイドに、役者の演技もお話を邪魔しないように、組み立てられているのだけれど。これではど うにも妄想への取っ掛かり、想像力の引きがね、現実世界に突如生じる裂け目が見つけられない。もちろん、そういうことを求める観客は少数派なんだろうな、 とは自覚しているんだけれど...

2007年12月8日土曜日

岡崎藝術座 雪いよいよ降り重ねる折からなればなり

07/12/2007 ソワレ

何とも乱暴だなぁ、と思ったのである。
異邦人という、民家を改造したような飲み屋さんがあって、そこを40年続けているりつこさん。
浜口寛子という、なんとも顔がよく動く、変な役者。
この2人を、「筆がひとりでに続いたり、異邦人のウィスキーで酔っ払ったりしていたら」できた台本で1つに繋げてキメラに仕立てて、異邦人のカウンターの中で演じて見せるとは、まさにこれ乱暴、酔っ払いの所業である。

15人の観客が詰め込まれたところで、それでも飽きずに浜口寛子の七変化を観ていると、階上に一時避難しているりつこさんの声が聞こえてきたりするのである。それが、実は、楽しい。

前回観たオセローは、「何を考えてるんだろう?」と思わせたが、今回は、「何も考えてないんじゃないか?」と思わせる。妙に知恵のついていないこの乱暴さが、40過ぎたおじさんにはちょっと懐かしかったりする。

とはいえ、乱暴さだけを何度も観に行くわけにはいかないし、今のところは、「次はもうちょっと知恵がついてるんじゃないか、作・演出も浜口寛子も」ということにして次回を楽しみに待つ。
少々知恵がついても大丈夫なくらい乱暴な劇団だと、今のところは信じているので

2007年12月3日月曜日

プリセタ モナコ

02/12/2007 ソワレ

前回に引き続き、戸田・谷川コンビがどうしようもなく救いようのない30男を演じて、そのどうしようもなさはポンと突き放されたまま芝居は終わってしまう。いいのか、2人とも。

2人ともほんとうに惚れ惚れするようなダメ男ぶりで、演技のことを言っても、
「どこまでも普通の顔を保った上で、自分の異常さ・変態ぶりで周囲を侵食していくことが、リアルなこととして許されるのか」
のラインをギリギリまで押し広げることを試みているように見える。そこがまた面白い。

芝居が終わって後ろを振り返ったら、客席が埋まってない。こんなに良く出来た芝居なのに、もったいないなぁ、と思う。
ひょっとすると、それは、この芝居が必ずしも「若い人向け」ではないからかもしれない。30代後半のちょっと疲れたサラリーマンが週末に観るのにはぴったりなんじゃないかと思うが。つまり、ちょっと大人の芝居だ、という感じです。
跳んだり跳ねたり暴力出てきたり、というような若者の芝居はちょっと。でも、モロ現代口語演劇やモロウェルメイドも避けたい、という層に、上手くはまるとおもうんだけどなぁ。

花組芝居 KANADEHON忠臣蔵

02/12/2007 マチネ

世田谷パブリックシアターの3階席で観た。前回のかぶき座の怪人では前方で観たのだけれど、大きな小屋でも充分大丈夫な芝居なら、それでは3階席でどうか、という極端な選択である。が、やっぱり遠かった。

忠臣蔵をその発端から討ち入りまで、そつなくまとめて2時間半、と、それは良いのだけれど、食い足りない気がしたのは、それは遠くから見たせいか、それともまとまりすぎていて破れが見えなかったせいか。

僕はむっかしの花組しか知らないので、原川さん・溝口さん・山下さん・水下さんが出てくるとそりゃ嬉しいさ。もちろん加納さんも。どこで小技を見 せてくるか予想もつかないから食い入るように観るんだけれど。そういうところまでも、何だか要領よく収まっていた気がしてしまった。

次回はあうるすぽっとか...結構のっぺりした小屋だからなぁー...
こんなこと言っちゃあいけないんだけど、アリスに100人以上詰め込まれて、体操座りで観ていたころの猥雑さがちと懐かしくなってしまった。例えば、スズナリでロングラン、なんてぇわけには行かないんでしょうか。トラムでもいいですよ。それが無理なら...あぁあ。

2007年12月2日日曜日

SPAC 転校生

01/12/2007 マチネ

飴屋法水おそるべし。2時間半かけて東静岡まで出かけた甲斐があった、と言わせる以上のものがあった。宮城聰さんが劇場のドアの前で「いらっしゃいませー」と笑顔で言っているのを見られただけでも、「甲斐があった」と言えなくもないが。

平田オリザの戯曲は、実は非常に厳しく出来ていて、タコな演出家が上演するとまるっきり芝居が壊れてしまう仕掛けになっている。その意図がわかっ ていて、かつ、演出家に力が無いと、今度はただの制約の大きい芝居になってしまう。そこを飴屋氏がどう捌くのか。舞台上にバトンが降りている幕前を見なが ら、僕は、
「外していたら、それはそれで大笑いして帰ろう」
と、秘かに非常に消極的なことを考えていた。

(ここから先、若干ネタバレ気味です。注意してください)

が、あにはからんや、素晴らしいできばえ。飴屋氏、平田戯曲を現代口語演劇として、まずは成立させてしまう。その割り切り。かつ、高校生18人をしっかりオーケストレートする眼の確かさ。花道の使い方も含めて、まずはきっちり押さえた。

そして、僕は、転校生、岡本さんの登場を見て、涙が止まらなくなってしまった。ヤラレタ。

その後も、女子高生への手綱を緩めず、おセンチに流れず、かつ飴屋カラーを見事に出していたと思う。

あ、あ、言い忘れたが、「転校生」の戯曲も、もちろん、すっごく素晴らしいんですよ!これも1つ「古典」と呼ぶにふさわしく、ホールの物販でこの本が売られていなかったのは主催者の重大な手落ちとして挙げられよう。

1994年の初演から13年。初演当時、僕はどちらかといえばおじさんよりは女子高生に近い年齢だった(のつもりだった)。今では舞台上に娘と同 い年の高校生が立っている。その間に、平田の戯曲が、こんな風に上演されるようになった。1987年に、「20年後、平田戯曲が飴屋法水によって演出され ている。場所は某県の公共劇場で、キャストは全員高校生である」といったら、誰も信じなかっただろうな。
本当に、感慨深い。そして、そういう舞台の初日を目の当たりにすることが出来たことは、本当に、わがことのように誇らしい。

(ここから先は、今回の「転校生」を観ることができないことが確実な方のためのモロネタバレなコメントです。)




岩井秀人は志賀廣太郎を大学生にした。NeverLoseは、「朝起きたら中学生が30男になっていた」。この転校生では、白髪の女性岡本さん が、朝起きたら女子高に転校することになっていた! 驚いた!その違和感。そもそも転校生が抱く「場」への違和感に加えて、年齢さ、高校生としてのリアル さ、将来や進学について語る時の「相手はどこまで自分が言っていることを共有できているのか?自分はどこまで相手に興味があるのか?」の間合いの気まず さ。
「本当の」女子高生を使っていたら、ひょっとしたら群像劇に埋もれていたかもしれない感情の動きが、「ニセ」女子高生を使うことで却って浮き出 していた。いや、ほんと、こういう乱暴なことを、平田戯曲のフレームを押さえた上で出来るとは。だって、飴屋氏が現代口語演劇の中で育った人ならともか く、東京グランギニョルですよ。そりゃ、びっくりしますよ。

冒頭の台詞のないシーンも美しいし、最後、みんなで「せーの」で跳ぶシーンも美しい。原作には確かなかった飛び降り自殺のシーンも、全体の構成を崩すことなく、機能していたと思う。

1つ難点を挙げるとすると、途中挿入される、アメリカ人の女の子の演説シーン。そこだけは間延びするし、変な意味がつく。耳につく英語だけ繰り返 して流していたけれど、トータルで見ても、あんまり大したこと言ってないし、ちょっとなぁ、という気はしました。が、それを除けば、本当に素晴らしい芝居 で、ホント、月並みだけど、感動しました。

2007年12月1日土曜日

パラドックス定数 東京裁判

30/11/2007 ソワレ

パラドックス定数、今度は東京裁判だ。
男5人、全員ダークスーツ、三つ釦上二つ留め。裁判の現場をなぞっていく。
後は推して知るべしの野木節炸裂。エンターテイニングな1時間30分。

小野ゆたかさん、好きなんだよねぇー。あの、立ちの緩急が。

今回の芝居は、特に、東京裁判だけに、「これは芝居ですよぉー。ごっこなんですよぉー。」感が強い。言い換えると、リアルだと思わせげな仕掛けを たくさん施してあるにも拘らず、これは、ただのお芝居なんですよぉー、と強調する仕掛けも同じくらい用意されていて、それが何ともいえず、観る側の妄想を 刺激する。

ひょっとすると、これは、「あの」東京裁判ではない。ここで語られる「ポツダム宣言」は「あの」ポツダム宣言ではない。でも、それでも構わない。 設定と小道具+演技が、観客をも巻き込んだ「ごっこ」の渦を形作ることが出来れば、芝居というのはそこで100点満点なのだから。

野木萌葱さんのやりたいこと、持ち味がそこらへんにあるのは納得しつつ、いつか、是非、両性が出演する現代劇、観てみたい。観客の欲には限りがない。