2007年11月8日木曜日

五反田団+演劇計画2007 生きてるものはいないのか

07/11/2007 ソワレ

書きたいことはあったが、書くとネタバレになってしまうのでちょっと躊躇してました。
一言で言えば、「前田司郎の骨太な構成力が際立つ作品」、ということでしょうか。

以下、100%ネタバレとなりますので、これからご覧になるという方は読まないほうが良いです。





要は、「生きているということは死んでいないということだ」という単純な理屈である。
「生き様」を描く足し算の芝居ではなくて、バタバタと人が死んでいく末に1人だけ生きている、その結果として「生きている」ことを背負わなければならなくなる、そんな、引き算の生を観客に提示するのに1時間50分かけて見せる前田司郎の手管。さすがである。

さらに、死んでいく人々17人が、それぞれ「太陽にほえろ!」の殉職シーンを持たされている。これは、何も考えないで観て、「おぉ、太陽にほえろ のオンパレードじゃん」と楽しむことも充分可能。が、さらにもう一歩うがって見れば、舞台上で表立って劇的なことが何も起こらない「静かな芝居」への強力 なアンチテーゼともなっている。だって、普通、芝居で人間が死ぬのって、2時間の芝居なら1時間半経過後くらいだよ。人間の生き死にという大事件を、しか も舞台上で殺しちゃって、これでは、舞台上で重大事件起こりまくりである。
この、重大事件を惜しげもなく舞台にバラまいて、その結果として観客に刺さってくるのが「いかにして死んだか」ではなくて、「残った人が生きていること」であるところが、この作品が持つ重大な筋立てであり、逆転であり、全てであった。少なくとも僕にとっては。

しかも、17の死を追っていく観客の視点は、出はけを繰り返す役者達の視点をくるくるとたらいまわしにされて、結局生き残ったマスターの眼に行き 着くのだけれど、でも、それまでのところでマスターの視点に移入している人は一人もいないはずだ。その、「必ずしも移入していない人」が残っているのに、 何故か、「独りで生きていること」を背負う感覚だけは観客もマスターと共有できてしまう。不思議だ。やられた感が否がおうにも増してしまう。

そういうわけで、骨太な方法論が前面に出た、力強い芝居だと思う。

ただ、その代償はやっぱりあって、「前田司郎独り勝ち」の印象はぬぐえない。役者陣、あんなに一生懸命死んでも、それ、ラストシーンに向けた捨て駒なんだもの。まぁ、それをもって前田氏を責めようとも思わないし、芝居がつまんなかった訳でもないから...
でも、普段なら目が行くはずのすっごく下らない細部に、今回は目が行かなかったのだ。それがちょっと不思議でもあり、ある意味残念でもあった。
5人くらい死んだところで、あと15人くらい死ぬなかなぁ、とか、不謹慎な勘定をしながらラストシーンへの残り時間を考えてしまったりしてたが、本当はもっと細部を楽しみたかったのだ。

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