2007年10月21日日曜日

燐光群 ワールト・トレード・センター

20/10/2007 ソワレ

初日。
2001年9月11日、世界貿易センターが窓から見えるところにある、とある情報誌の編集室の一日を描く。

この題材を採り上げるに当たっては、「何が起きたか」という、いわば芝居のメイン・イベントは周知で、かつ、そのインパクトは余りにも大きい。そ うすると勝負どころは、「舞台上で何が起きるか」であり、その舞台上のイベントが、僕らがその過去の一点に向けて、自分の記憶と聞きづてを超えて、どのよ うに想像力を膨らませる作用を触媒するかにあると考える。

その意味で、
・ その場に居た人間の、(ちょっと古いが)等身大の振舞いを描こう、という趣向は、ある意味正しい。
・ しかし、結果として、何も起こらなかった。残念だ。

① 海外の日系企業のオフィスで英語が使われる局面に対するリアリティが足りない。これはある意味、「オレは経験者だ」と言い張ってしまえば議論にならない、詮無い文句ではあるけれど、最低限、「余計に英語を使わない」配慮が無いと、臭う。
② 僕の狭い知識の範囲をもって語るにしても、そこに居合わせた人たち、あるいは、少なくとも階段を黙々と何十階も降りた人たちは、この舞台で示されたような雄弁さを持ち合わせては居ない。雄弁に言葉で語れないからこそ、芝居で出来ることがあるはずだったのに。
坂手さんの「プロパガンダ台詞」「坂手流体言止め」が、これほどまでに耳障りに聞こえたことも珍しい。特に若い役者達。声を張るなよ。叫ぶなよ。舞台上の叫びは、本来真剣に膨らんでいったはずのものに、針で穴を開ける効果しか、少なくとも、この芝居ではなかった。

Ed Vassallo、良し。ニューヨークの人間が、実は最も声を張り上げることなく最も説得力を持って舞台に立っていた。
川中健次郎さん、良し。この、何にも構わない感、何でもあり感が、実は、毎回観たいです。

というわけで、この日、「ソウルの雨」「ワールド・トレード・センター」と、日本語+外国語混成芝居を二本立てで観たわけだが、やぱり、これ、難 しいよ。特に、日本人が外国語の台詞を話すのは。「日本語に対する距離感」を日頃の演技で作者・演出者とすり合わせられていても、「外国語に対する距離 感」をすり合わせる機会は滅多にないし、かつ、言葉との距離が遠い分、役者ごとに、あるいは台詞ごとに、誤差が大きすぎる。
おそらく、現代口語演劇の出現を通して日本の芝居が日本語との距離を再確認したのと同じくらいの気合を入れて、「舞台上で外国語を話す日本人 の、その言語への距離感」を再確認する作業が、個々に必要だという気がする。感覚論だけれど。そういえば、「別れの唄」は、そこら辺の感覚のズレが1つの 見所だった部分もあって、きちんと作っている印象があった。あと、Lost in Translation かな。タイトル通りで。

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