03/11/2007 ソワレ
非常に間抜けなことに、観終わって家に帰る途中で気がついたのだが、これって、芝居では勿論無いし、戯曲のリーディングでもないし、(当たり前だと言うなかれ)小説のテクストのリーディングなのであった。
「本を声に出して読んでもらう」というのは、すごく気持ちのいい状況だ。いや、そうに違いない。「本を声に出して読んでもらう」というのは、一部 の人にとって「耳掃除をしてもらう」くらい、又一部の人にとって「美容室で極太の指でシャンプーしてもらう」くらい、気持ちの良いことであるはずだと思っ ている。
僕自身は両親に本を読んでもらった記憶が全くなく、3歳くらいからの記憶が全部気に入った絵本を「黙読」している自分の姿で、今となって考えてみ ると不幸な子供である。土曜日のお昼前、幼稚園の先生が毎週本を朗読してくれる時間が、ひどく楽しみで仕様が無かったのはとても良く覚えているけれど。
読んであげるほうなら、小学生になるかならないかくらいの子供を呼んで、本を読んであげたら、結構僕は上手だ。小学生の頃から、親戚の子達を集め て本を読んであげるのは得意技だった。でも、本を読んでもらった記憶はない。肩凝り症の人が、やたら人の肩を揉んであげてそっちは上達するのに、自分は揉 んでもらえない、そういう感じである。
前置きが長くなったが、今回のリーディング、気持ちよかった!とても、気持ちが良かった。
導入こそとっつきにくい気がしたけれど、始まって1分経つとすっかり中に入り込んで、じっと耳を澄ます。物語を追うのはとても大変なテクストだと 思っていたので、そこを半分投げ出して、今、そこで読まれている、言葉、に注意を集中する。と、そこから見えてくるイメージがある。落第生がいて、叔父が いて、甥がいて、見えない愛人がいて、そばにいる愛人がいて、妻がいて、あぁ、でも、このテクストは抜粋なんだよな?この裏側にはどんな世界があるのだろ うか?言葉に音階がつき、まるでエルメート・パスコアールのようだ。一体どんな読み方をしているのだろう?
と、すーっと引き込まれていって、つい眠くなりそうなもんだが、それがならない。リーディングから発せられる刺激が、パフォーマーの静かな揺れで あったり、バンドネオンであったり、ペースの緩急であったり、投影された文字であったり、本当に、言葉を追っていくよろこびに浸っているうちに、終わる。
「パフォーマンスを振付ける読み手=語り手としての武藤真弓」「リーディングパフォーマンスの語り手たち」「物語の語り手」「動作の主」「リー ディングを聞く複数の聴き手=読者(候補)」の隙間の中にそれぞれ間があって、そこがそれぞれの妄想・想像で満たされている。その、それぞれに微妙にずれ たものたちの集合の豊かさが感じられて、とても気持ちが良い。できることならば、妻子も一緒に連れて来たかった。そのズレについて語り合うのもまた、すご く幸せな時間なのだろうと思ったことである。
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