2007年6月10日日曜日

青年団国際演劇交流プロジェクト 愛のはじまり

09/06/2007 ソワレ

蛍光灯しか付かない真っ白な舞台。役者二人、常に前を向いて台詞を言うので、台詞が相手に向けられているのか虚空に飛んでいるのかははかりかねる。台詞も独白調とやり取りが交錯して、これも、実は、慣れるのが大変だった。

あと、Transatlanticな恋愛、というのは、いくら作・演出本人の体験といっても、余りにもありがちなパターンで、正直、どうなることかと思った。

が、1時間とはいえ、最後まで観れてしまったのは、独断と偏見で断じるとすれば、役者の力だろう。

ランベール氏のインタビューでは、「俳優それぞれの内面にあるものを上手く引き出して」とあるが、正直、僕はそんなものには関心が無い。だって、 上演中の俳優は「次の台詞は?」とか「なんで今日は相方の役者はこんなふうに台詞を言うんだ?」とか考えているので、そんな内面を引き出されてもしょうが ない。だから、僕の言う役者の力は、どちらかというと、

ハードウェアとしての役者の力。

永井・荻野ともハードウェアとしての立ち居振る舞いが非常に力強く、余計なものが無く、美しい。
もし、余計なものを削ぎとって、そこに滓のように残ったものを「内面」と呼ぶのであれば、確かに内面は引き出されていた。

並びの席に、小学校に上がるか上がらないかくらいの女の子が父親と来ていて、僕としてはかなり心配していたのだけれど、彼女は最後まで集中を切らすことなく役者を見つめ続けていた。
大人の観客の中には居眠りしてる人もいて、それは、芝居中に他の観客のことが気になった身としては、多分に同情できる
(でも、僕は寝てません)。
そういうことである。
役者の手の動き、視線の動き、アクセント、台詞、それら全て、食い入るようにして見るに値する。だから、他の観客が気になってしまう僕は、失格です。
(でも、その子供は、唄の繰り返しの4番目くらいにはちょっと飽きてたかな。)

言い訳として付け加えるなら、投射される英語字幕と日本語の台詞のズレは、かなり面白かった。なので、僕の視線は、
永井→荻野→字幕→永井→字幕→荻野→永井→字幕→荻野→(ときどき客席)
というさまよい方をしていたわけです。

全体としての評判がどうなるかは良く分からないけれど、僕の印象は、役者一人勝ち。

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