2007年10月1日月曜日

東京デスロック 演劇LOVE 3本立て

30/09/2007

「社会」「3人いる」「LOVE」の3本立て、初日一挙上演、全解説付き。
雨の原宿に集まった人々はさすがに猛者揃いで、終日原宿リトルモア地下に詰めてた観客が少なく見積もって20人はいたな。

3作を通して観ながら考えたのは、芝居を通してどう虚構(=ウソんこ)を創り上げるか、ということ。演劇の場は、作者・演出・役者・裏方・観客・ 小屋までを含めたところで成立するので、その中で、いかにして、「一観客」の地位を選び取った「僕」が自分なりの虚構を仕立てて遊べるか、それに向けて、 「作り手」がどんな仕掛けをこしらえてくれるか。そういうことです。

舞台の上に載っている役者の身体は、ウソをつけない。役者が「僕は手が5本ある」と言っても、それは、無い。でも、役者が、「僕には、見えないし 触れない手が5本付いている」と言い張ったら、それは本当かもしれない。それか、役者がウソをついている。大事なのは、ウソをついているのは役者の台詞で あって、目に見えたり匂ったりする身体がウソをついていないということです。

作り手の「仕掛け」は虚構を紡ぎだす(ウソんこの世界を作り出す)起点/支点を定めていて、例えば、役者が「なんて晴れた空だ」といってみたり、 みんなでスーツを着て会社っぽくしたり、お皿を落として驚いたり、下ネタや裸を乱発して下賎な雰囲気を醸し出したり。観客はそういう仕掛けを支点にして、 エイヤッと自分の想像力・妄想力にレバレッジをかける。

前置きが長くなったが、要は、今回のデスロック3本立ては、舞台の上からミエミエの虚構構築装置を剥ぎ取っていった時に、演劇の場がどう虚構・妄想を紡ぎだせるのかを生物進化の絵本のように見せてくれる体験だった、ということだ。

<以下、モロ、ネタバレです。結論が待てない人にはこう言おう。まぁまず、観ろ。絶対に、観ろ。どうしても観れない人にはこう言おう。ご愁傷様でした。>






1本目「社会」は、作・演出本人も「スタンダードな現代口語演劇」と言っているし、まぁ、台詞の端々や携帯電話での会話(のふり)が、虚構世界を支える機能を果たしていて、あとは作・演出の話のまとめ方と役者個人個人の面白さを観る芝居、ということになる。
勿論そこでは、新劇等々の「驚いたお皿ガチャン」とか、小劇場の「逼迫雄たけびドン!」という仕掛けは先ずもって剥ぎ取られている。観客の想像力 といっても、所詮は片桐の人格とかカラオケ屋の事件とか、高山がどのパートを担当してたのかとか、まさかステージでは金髪のカツラかぶってたんじゃ、と か、その程度のもんだ。ま、それが楽しいんだけど。

2本目「3人いる!」になると、今度は、舞台の外の社会も剥ぎ取られている。この芝居でも携帯電話は使われるが、その相手「ヤマちゃん」は、実は 舞台の上に居て、話す相手になってしまったりして、要は、世界が3人の中に閉じる。「外の世界で展開する物語」を支点に想像力を発揮する機会は観客から剥 ぎ取られ、観客は、舞台の上の3人について、
・ ロジカルに考えれば誰が本物で誰が偽者か、を、考えながらみないといけない、
・ さらにふと、もっと怖い考えが頭に浮かび、あ、でもそんなことを考えてしまったなんて人に話したらただの異常な四十オヤジといわれること請け合いだ、トホホ、と独り苦しんだり、
てな具合に頭を回転させ続けることを強いられる。役がくるくる入れ替わって付いていけなくなる手前のところで寸止めを掛け、そこに観客の想像力を働かせる余地を残す多田氏の手管に脱帽する。

で、3本目、「LOVE」では、その3人の「世界」「背景」すらも取り去った状態から芝居が始まる。背景の無い剥き出しの身体を舞台に載せたとこ ろで、どうやって虚構を紡ぐことができるのか。虚構の構築に失敗したら暗黒舞踏に行って「わからんなぁ」と呟くオヤジと一緒になってしまう。
上でも書いたが、ウソをつくのには身体だけでは足りない。何か仕掛けが必要だ。役者同士が目と目でコミュニケーションして、立ったり座ったり。 3対2とか4対1で人間の関係性・政治の本質を思い浮かべるほど僕の妄想は陳腐でないし、かといってもっとすごいものが紡げるほど強力でもない。実は、途 中まで、すごく心配したのだ。
が、そこまで引っ張っておいた甲斐があったと確信した、その虚構の梃子の支点は、次の2つ:
①音楽。「これ、誰がかけたんだ?」と考える、つまり、何らかの意図を感じた途端に、世界が広がる。
②夏目登場。この男の、まるっきりコンテクストに囚われない立ちは何なんだ?強烈に色んなことを考えてしまう。

ん、と。言いたいことは。"LOVE"においては、観客は、すごく少ない小さなチャンスに自分の想像力を賭けることを強いられているのではないかと。少なくとも僕はそう感じた訳です。そういうきっかけを探しに行かないと入り込めないように出来ているのではないかと。

ちなみに、僕の感じた世界は、次の通りです:
女性達が"I Love You"と言えるのは、歌詞もそう言っているからです。
女性達は、その意味で、何か(=音楽のスイッチをOn/Offする誰か)に、その在り方を規定されている。音楽のOn/Offはその躾のプロセス。
夏目は登場当初、だれにも規定されていない。
でも、女性達から矢継ぎ早に発せられる質問に答えることで、夏目は規定されていく。一定のコンテクストに絡めとられていく。それを確かめる作業が、「あー、いーですねー」だ。
同時に質問の投げ手たる女性達も益々縛られていく。彼女達は夏目よりも一歩半だけ、余計に縛られた存在になっている。
そう考えると、「どんな○○が好きですか?」という問いかけは、夏目のLoveを規定していく過程である。Loveもまた、一定の枠組の中にて意義付けられ、規定されるべきものとしてある。

あ、これは、そのまんま、オレ自身のLoveに対する自信の無さが生み出した怖い妄想なんだ。あるいは、自分が社会に縛られていることを反映して、自分の想像力がこっちの方向に進んだんだ。

で、最後、女性達は社会に出て行く。めいめい社会に受け入れられるLoveをかかえて。しばし夏目考える。でも、やっぱり社会に出て行く。そして3本立ての1本目に戻る。

以上が、僕が"Love"から紡いだ虚構です。

アフタートークで多田氏の話したイメージと、全然違った。でも、僕にとっては僕の妄想の方が面白い(って当たり前だが)。多田氏は、そうやって勝 手な想像力が膨らむことを観客に許す。いや、勝手に膨らませることを強要する。そのための仕掛けだけはちょっとだけ残しといてくれている。その「ちょっと だけ」が、どんどんデスロックの芝居から剥ぎ取られていく。
非常に厳しい芝居だ。途中で「すごく心配になった」時点で、僕は、この芝居からふるい落とされそうになっていたのだ。

こんなに必死になって観ないといけない芝居なんて、ほんと、Loveがなきゃ観れませんぜ。大満喫。家族にも自慢できる。
芝居の作りのことを延々と書いたが、勿論、役者陣みんな良し。夏目・佐山はもとより、客演岩井氏、その他男優・女優、堪能しました。小屋番の女性 のたたずまいも、夏目の立ちと同じくらい美しかった。お疲れ様でした。そして何より、気持ちの良い客席・客層でした。秋のデスロック祭り。豊作である。

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