2007年6月7日木曜日

本谷有希子 ファイナルファンタジックスーパーノーフラット

06/06/2007 ソワレ

本田透氏が目を剥くだろうところの、本谷版電車男。
(2001年の芝居のリメークということは、「本谷版電車男」という名づけは当たらないかもしれないし、そもそも、俺、電車男読んでないのだけれど)

何で本田氏が眼を剥くかといえば、主人公の男が、自らの「モテの危機」について余りにも無自覚なまま、三次元の女性を受け入れてしまっているからである。
そもそも「三次元の女に用はない」はずの男が、中途半端に生身の世界に未練を残したばっかりに起こる悲劇というか喜劇というか。その中途半端さは 本田氏をして「この男はまがいものだ!!負け犬の陰謀だ!」と叫ばせるに足るであろうし、一方で、この芝居の世界がラストに向かって走っていく駆動力とし て機能している。トシロー役の高橋一生が、そこら辺の中途半端さを冒頭から「吐き気を催さない程度に分かりやすく」演じていて中々良い。

トシローの周囲に集まってくる女性達は、揃いも揃って「生身の私、そのままの私を見て見て愛して、受け入れて」と叫び続けていて、それは思い切っ て単純化すれば、二次元の世界に行ってしまった彼を生身の愛で引き戻せるはずという図式。トシローからすれば、あぁ、二次元の世界から出てこれなくなっ ちゃった僕ちんを、誰かそのままで受け止めて、そして生身の人間として愛して頂戴、という、いつか王子様が、な図式。
その図式がかっこ良いかかっこ悪いか、気持ち悪いか気持ち良いか、という区分を超えて、「あぁ!いいから、あるがままを受け入れて、認めて!」というオーラが劇中に溢れているわけである。

ここにいたって、前回の「遭難、」になんで僕があれほど不快感を覚えたかの50%、そして、今回の芝居もやっぱり気に食わない理由がやっと理解できた。
この、「現実の汚い私を受け入れて」の図式が、昔モーニングに連載していた「宮本から君へ」にそっくりなんである。
当時僕があのマンガを眼にして覚えた不快感が、本谷芝居にはあるのだ。

で、僕は非常にすっきりした気分で劇場を出た。
「宮本から君へ」が当時広く受け入れられていたことに文句をつけ得なかったように、今、本谷芝居が受け入れられる理由も何となく理解できる気がするし、それにケチをつけてはいけない。本谷芝居は、広く、受け入れられるだろう。

この芝居の舞台となっている遊園地も、実は、絶えず、「ここは遊園地なんですよーーー!」と人々の五感に訴え続けなければ遊園地として成立しないという宿命を負っている。そういうフレームをこの芝居に嵌めたところに、どことないセンスも感じたのである。

勿論、大部分において(例えば音楽や照明の使い方、説明台詞や説明シーンの多様など)本谷芝居は、旧来の芝居の文法の上に成り立っていて、これを 「新しい感性」とか「新しい芝居」と呼ぶ人の眼は節穴だろう。そして、生身を見て見てのオーラからたち現れるものについて、表現者としてどうよ、という留 保はつけたい。
でも、「何で本谷芝居をみんなが観たがるのか」について疑問を差し挟むのは、もう、やめます。

1行でいえば:
「流行る理由は良く分かった。でも、僕の趣味じゃない」

(ちなみに、前回の遭難、が気に食わなかった理由の残りの50%は、松永令子さんの演技です。あしからず)

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