18/08/2007 マチネ
まず、森山さんや松田さんがチラシの裏に書いているこの芝居の紹介が、難しくてよく分からないのである。
なんだかとっても誉めているようなのだが、でも、どこを良いと言っているのかがよく分からないのである。
これは、森山さんや松田さんが訳のわかんない人たちだ、ということでは、決して無い。
むしろ、このテの、なんだかよく分からないけれど誉められている劇団というのは、観てみてもやっぱりよく分からないけれども、面白かったりする、ということが往々にしてある、ということを言いたいのである。
娘と劇場に入って当日パンフを読むと、そこにある八角氏の文章も、これまたよく分からないのである。そして、客層も、森山氏をはじめ、何だか錚々たる観客な感じなのである。
客入れ時から幕の後ろでガヤガヤ無駄話していて、僕の後ろの観客が「あのイカレタ連中は何とかしなきゃなんないんじゃないの。早くやめさせなきゃ。」と言っている。その連れが、「いや、これも芝居の一部ですから」と言っている。
この趣向、この客層、一体どんな芝居になるのだろうか、と思ううちに開演。
芝居後、娘は「面白かった」そうだ。よかった。
僕も「つまらない芝居」とは思わなかった。勘違いした前衛でもないぞ。うむ。
が、何が面白かったかといわれると、これが難しい。
強いて言えば、「ずっと観ていると面白くなるんではないだろうか」という期待感が持てるという意味で、「つまらなくない」ということだったのかもしれない。
歌舞伎・現代風とくれば花組と比べてしまうけれど、ケレンとか、役者のずるさとか、そういうことを考えると、たとえフォーマットが紋切り型であろうとなんであろうと、文句なしに花組のほうが「面白い」だろう。
そうすると、この、役者も20代前半の若い方が多数を占めるこの劇団で出来ることは、きっと、古典の演目の「安心感」を揺らがそうとする試みであ るに違いない。この四谷怪談で紋切り型の古典の安心感がひっくり返ったとはとても思えないけれど(失礼!)、でも、その揺らぎは確かに感じた気がするし、 それは、芝居を観る楽しみの一つでもある。
と、こうやって書くと、イギリスの演出家がシェークスピアに現代性(同時代性?)を与えようと腐心しつつ敗れさっていく種々の事例が思い出される。
そう。シェークスピアであろうが、南北であろうが、「現代性」「同時代性」を備えるべきは観客の側であって、演出がいかに突飛なことをしてみせてもそれは100%上手くいってせいぜい「触媒」「きっかけ」にすぎない。
いかにして観客の視線の揺らぎを喚起し、同時代性を自覚させ、そこから見える古典の姿がどう揺らぎ、どう自らに関わってくるかを試すこと。それがこの四谷怪談の狙いだったのならば、それは、僕と娘には少なくとも伝わっているはずだ。
何だか難しくなってしまった。自分でも何言ってんだか、というかんじだが、でも、要は、そういう芝居だったんです。
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