2007年12月10日月曜日

二騎の会 五月の桜

09/12/2007 マチネ

「絶対に立ち位置から足を動かすんじゃねーぞ」
という、演出家の半ば脅迫めいた指示を受けて立った5人の役者、見事に要求に応えて見応えがある。もちろん、そんな中にあって
「君達は下半身ふらふらしてて全く構いませんから」
といわれた天明と東谷、その役割を存分に弁えて舞台上を移動する。それも見事である。

その場に「立ち尽くす」といってしまうには勿体無いくらいに、意志を感じさせる役者の立ちは、手塚治虫の火の鳥宇宙篇、動けない動物の惑星の動物達がお互いの意思を交わす有様を想起させる。

その動かない動物達が交わす台詞の距離の感覚が、役者の身振りや表情でなく、台詞の飛ばし方・受け方で感じられる。台詞を飛ばす、それをよける、撥ね返す、受ける、吸い込む、引き受ける、そういったアクションが、ごまかしようもなく伝わる。

すると後半になって、それら登場人物の間の関係を規定する出来事が、「戯曲の中で」物語られ始める。あ、この演出、戯曲を先取りする形で「人の間の壁」「感情の通わなさ」「そこで通ずるもの」等々について、メッセージを観客に送っていたのか?
どうもそう思えないこともない。
だけれども、それは危ない試みのようにも思えて、なぜなら、戯曲が何かしら言葉にしているものは、演出で念押しする必要はないはずだから。
演出は、「どんな形であれ、必ずしも戯曲の援護射撃をする必要はない」のだ。

今回の芝居は、演出が「敢えて」戯曲の援護射撃に入っていて、それがまた、恰も、西部劇かなんかで死ぬ運命の脇役が、主役を引き立てるべく大げさなポーズで敵をひきつける、そういう大仰さを感じさせたのである。

戯曲の出来はけして悪くないのだ。いや、むしろ、良い。その良い本を、さらに援護しようというのだ。戯曲家冥利に尽きるだろう。

で、別に演出家は舞台に立つわけじゃないので、全ての苦労をしょわされるのは役者達だ。それを見事に受けて立って芝居を成立させた役者に拍手を送る。

この芝居を観ていて、登場人物のうち誰に移入するかは、性別・年齢によってまちまちだと思うが、おそらく、若い女性は長野海に、40がらみの男性は永井秀樹に、移入しやすかったと思う。ご他聞に漏れず40男である僕は立派に永井秀樹に移入して、
従って、ラストシーン、

「にま~」

としてしまったことを、今、ここに白状する。
まぁでも、その先どうなるかについては、戯曲の中でも演出によっても、何にも保障されていないんだけれど。そこで勝手ににま~としてしまえるところが、芝居の観客の便利なところである。
開演前に「永井秀樹かっこいい」との話を聞いて一瞬色めき立った小生であるが、この芝居を観終わった後では、(やっぱり面白くはないが)幾分そのコメントを認めざるを得なかった。

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