17/11/2007 マチネ
退屈と紋切り型に満ちた3時間15分。
芝居にとっての「寄り道」とは、役者の指の爪であり、はきつぶした靴底であり、内股であり、がにまたであり、ごく微妙にかき消せない茨城なまりで あり、本筋と全く関係のない目線(『あの人は日頃どのようなものを食べているのだろうか?』と、その視線を向けた役者が考えているのではないだろうか、と 観客に思わせてしまう目線)である。それを端折った芝居を、おそらく、「ストーリーに縛られた」とか、ひょっとすると「テーマ主義的」と呼ぶのではないだ ろうか?
だから、いくらカフカの原作にでてくる「サブストーリー」的なモチーフを舞台で見せてみたところで、それは、構成・演出が面白がっているだけで、 芝居の観客には面白くないだろう。折角切り口を変えてカフカを舞台に載せているのに、これではサラリーマンマンガの紋切り型大王、「被告人島耕作」となん ら変わらない。
冒頭からいきなり「それっぽい」音楽(そしてそのそれっぽさは芝居の間永遠に続くのだ!)、2人の官吏の身のこなし、監督の足の組み方、ヨーゼ フ・Kの怒り、グルーバッハ夫人の動揺、女達の喘ぎ、被告人のしょげ返り方、貧民の無教養さ、聴衆の興味の示し方、こういった紋切り型が、構成・演出者が 面白いと思う審判のテクストの読み方の説明への奉仕に終始していて、悲しくなってしまった。
だから、ヨーゼフ・Kは、「イヌのように」死ぬのではないのだ。この芝居で、ヨーゼフ・Kは、あたかも「役者が舞台上で『イヌのようだ』と台詞を言って死ぬ演技をするように」死ぬのである。
五反田団の「生きてるものはいないのか」では、役者が、まさにイヌ死にしていったのと対照的である。
ただし。2つ面白かったこと。
① 井出茂太のコリオグラフィは大変面白い。紋切り型を取り出してそれを構成しなおし、デフォルメして示してみせる。何だか、芝居に満ち満ちる紋切り型への強烈な皮肉のようにも見えた。
② ヨーゼフ・Kを訪れる、片足を引き摺った女性。あの長い台詞の台詞回しは、どうにも面白かった。どのように意識を持っていったらあんなふうに台詞がいえるのか?変だ。
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