08/10/2007 マチネ
ストレートに泥臭く伝えようとしていて、まさにストレートに伝わってきて、かつ、細部にも手を抜かずに、細部の一つ一つが芝居の全体に奉仕する。
この気合について斜に構えるつもりはないし、そこにあざとさが無い限りにおいて、それはプラスに働いていると感じた。
でも、そんな芝居を観ながら、僕は次の2つの不謹慎なことをしていたのだ。
① 1時間ちょっと経過したところで、「じゃあ、あと、1シーン10分でシーン6つね。暴力シーンが1つ、対決シーンがラス前に1つ、ラストシーンが1つ、出かける前が1つ、あと何だろう?」と計算を始めたこと。
② カーテンコール、役者が並んだところで、「あ、配役をこう入れ替えて観てみたい」と考えたこと。ちなみにMy 配役は 黒田=木島、野中=小林、児玉=中村、赤堀=青木、多門=久保、日比=星 です。
①は、芝居がだれたからではない。「芝居が明確にどこかに向かっている」のが余りにも最初から目に見えているために、却って、そこまでの道行きを 計算してしまうということです。言い換えると、推理小説とタイトルが付いていたら、犯人が最後に見つかるはずだと結論を先取りして、それにあわせたペース 配分で本を読んでしまうようなものだ。
②は、配役の個性までもが①の「どこかに向かっていくこと」に奉仕するのは、特にこの劇団ではもったいないような気がしたから。もっともストレー トに伝わる配役は、それはそれで効率的かもしれないけれど、僕が芝居小屋に行く理由は、「もっと他愛のないものが観たい」からなのだ。効率的に、強烈に伝 えるメディアは、それは、実は、芝居ではないところにあると思う。
その意味で、全体への奉仕が明確でなかったのは「警備員」だった。無論、良い意味である。この役に関しては、「誰がやっても大丈夫な、つまり置き 換えが自由な」役であるにも拘らず、「滝沢がやっているからこうなっている」という感覚が何ともむず痒くて(このむず痒さも誉め言葉である)、また、劇中 最後まで名を呼ばれないこの女性は、何も叫ばない癖して、その「名前も要らないくらいの立ちで」芝居の臍にいたのだ。そこら辺が、実は女優氏には悪いが 「戯曲の勝利」みたいなところもあって、そこは何だか勉強になった。
と思って、役名も「警備員」とだけあったよな、と当パンを開くと、ちゃんと「関由美子」なる名前が与えてあって、自分の記憶や解釈なんて、ほんと大したことないなぁ、と思ったことである。
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