2007年9月30日日曜日

パレスチナ・キャラバン アザリアのピノッキオ

29/09/2007 ソワレ

人間の想像力なんてものは、実は生来備わっている人類共通のものではなくて、置かれた状況に左右されるものなのだろう。

だから、自分が、バブル期の後半から、何がリアルに見えてそこからどう想像力を働かせうるかについて考え詰めるようになったこと(=現代口語演劇 への傾斜)は、実は、「想像力を働かせうる場」を貪欲に求められるだけの余地が与えられた(つまり、他の色々な面で恵まれている、及び、テレビ等々の普及 で実は想像力を働かせる余地を失っている)上での贅沢だったのではないか、と考えながら観ていた。

すごく失礼な言い方をすると、パレスチナにいたら、そういう贅沢な想像力の働く余地があるのだろうか、むしろ、ちまちましていない想像力がガツン と効く世界なのじゃないか、と考えてしまったのだ。これは、日本で真面目に芝居をしている人にも、パレスチナで真面目に芝居を観る人にも、失礼な言い方な のだけれど。

でも、例えていうなら、「銃声」「砲弾の音」が日本の芝居で与えられるリアルさと、パレスチナ人が作る芝居で与えられるリアルさは、違う。そこに 働く想像力の度合いも違う、ということだ。日本の芝居でコーヒーカップに何も入ってないのに飲む演技をすると、「何だよ」と思うくらいに、銃声の無いパレ スチナは「何だよ」なのかもしれない。

つくづく、文化とは贅沢品である。

で、そういう文化の差、想像力の働き方の差、芝居の文法の差異を乗り越えて、きっと大久保鷹さんは素晴らしい役者だ。他の出演者を貶める積もりは 無いけれど、でも、大久保鷹、必需品であり、贅沢である。こういう役者の立ちを観ている間は、「想像力は云々」なんてぇ屁理屈は吹っ飛んでしまった。

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