2007年9月23日日曜日

遊園地再生事業団 ニュータウン入口

22/09/2007 マチネ

難しい芝居だ。何が難しいかといって、
①リーディングもプレビュー公演も観ていて、戯曲もカッコいいし方法論的な遊びに満ちていてそれがトンがっているし、宮沢氏の「ノイズ文化論」もとっても良い本だったし、とても楽しみな公演だった。かつ、「その」期待に十二分に応えていた、のに、
②じゃあ、この芝居をみんなに薦めるかといえば、うーん、と思ってしまうかもしれない。
というところが悩ましいのだ。

適当な言葉を見つけるのに苦労するが、強いて言えば、「危ない感じがしなかった」ということになるだろうか?ここでいう「危なさ」とは、端的に は、イオネスコの授業でマリー役の角替さんが登場する時、必要とされるシーンの2分前に上手から出てきてツーッと下手の窓枠の下まで行って、そこで1分以 上じっと佇んで声をかけられるのを待つ、そういう危なさである。

「ニュータウン入口」、みんな良い役者なんだけれど、作・演出の掌の枠から外れていない気がして。作・演出の意図する「排除されるものとしてのノ イズ」を説明するために、自分の身体性のノイズを殺してないか?あるいは、コンテクストの中でノイズととられるであろうノイズを選び取って舞台に載せてい ないか?

その意味で、ビデオカメラの多用は吉。生身の身体と画像の「ヒト」とのズレとリンクの気持ち悪さは、役者の立ちに関係なくノイズを発生させるからである。ハードウェアとして、観客がノイズを知覚する触媒として機能していたと思う。

いや、ひょっとすると、知覚器官としての僕自身が、宮沢さんのイメージする身体性を伴った劇言語と、そこから発せられているノイズの在り方についていっていないだけかもしれない。分からない。

知覚や意識等々を一つのコンテクストに絞り込ませず、むしろ拡散させながらイメージを押し広げて行こうとする。だから遊びを舞台の中に埋め込ん で、舞台のルールをも徐々に侵食しようとする、それら全ての試みが非常に魅力的かつ刺激的なのだけれど、それらのスキゾな(ちょっと恥ずかしい言葉だが) 振る舞いが、最後のガザの画像の問題意識のコアと上手くつなげられない。口の悪い言い方をすると、アリバイ作りに失敗した感じだ。

この芝居について書きたいこと、言いたいことはもっともっと沢山ある。そういう材料が本当にふんだんに惜しげもなく投げ込まれていて、豊かで、きっといくら付き合っても飽きない芝居なのだ。でも、手放しで「素晴らしい」とは言えないのだ。

次も、又次の公演も、きっと行く。そして、一つ一つの試みをめんたま飛び出るくらいに一生懸命見る価値がある。そうしているうちに、何か、本当に とんでもないものが出てくる可能性があるのだ。昨年・一昨年といいところの無かったアーセナルだって、今シーズンは6試合で勝ち点16、Adebayor も花開いたんだから。そういうことなんだ。きっと。

0 件のコメント: