2007年11月5日月曜日

風琴工房 砂漠の音階

04/11/2007 マチネ

先週の日経新聞の広告で、渡辺正行さんが小学生の時の思い出話をしていて、
「ホリに当たる照明が変わると朝になったり夕方になったり夜になったり。すげえ。こんなにリアルに出来るんだ」
と感動した、というような話をしてた。
僕は、小学1年の時に、北区役所のホールに「首なしほていどん」の子供劇を観に行って、「なんだぁ、子供劇だと思って手を抜くんじゃねえ!こんな のありかよ!」と思ったことを克明に覚えている。また、小学校の体育館で「杜子春」の説明台詞攻撃(当時の僕は説明台詞という単語を知る良しもなかったの だが)に、やはりかなり怒ったことも覚えている。

そういう、頑是無い子供の頃からそういう偏った芝居の見方しか出来なかった僕なので、僕の芝居の好みはやはりかなり偏ってしまっても仕方がない。つくづくそう思う。

で、風琴工房。前回、「紅の舞う丘」を観に行った時には、ここの日記にも
「スズナリまで出かけて朝の連続テレビ小説を観てしまった。
しかも、2時間連続である。15分で逃げて帰るわけには行かない。」
と書いた。要は、「ほていどん」を観た時のように怒ったわけである。
でも、山内さんが出演するとなれば観ずばなるまい。加えて小高仁氏が出演するとなれば、ますます観ずばなるまい。

山内さん、スーパー。すごい。登場して2分くらいで全て合点がいく。これはすごい。喜怒哀楽が全部科学語りになって顕れる人間を舞台で観られるとは。それを演じることの出来る役者を目の当たりに出来るとは。
小高さん、声でかい。良し。山内さんのカウンターバランスとしてすごく良く機能している。
笹野鈴々音、良し。山内・小高・笹野の3人のシーンは、観ていて気持ちよい。

で、これほど良いものが書けるのに、そして演出できるのに、何故、他の全てがこれほどまでに薄っぺらいのか?
何故、こんなにも「私達が持つことが難しい熱情を持った」「多くの希望が許されていた」人たちを、恰も熱情と希望とだけで生きていたように、(言い換えれば、桃太郎の鬼達が恰も悪意とお姫様だけで生きていたかのように)、描くことが平気なのか?
主人公以外の人物に対して愛がないのか?それとも、熱情があって希望のある人々には、不安もなければ悪意もなければ自分の心情を説明する以外の台詞や身振りは不要なのか?
そこら辺の薄っぺらさは、やはり、朝の連続テレビ小説だった。

この芝居、同じキャストで再演したら、人に薦めるか? 薦めます。山内=中谷宇吉郎は必見。
この劇団、違うキャストで又観るか? おそらくもう観ない。たとえ、篠塚さんが出演していても、だ。こういう気持ちになるのは、つらいが。観たらもっと辛い思いをしそうな気がする。

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