2007年10月8日月曜日

円 天使都市

07/10/2007 マチネ

芝居、立ち上がらず。
三谷・平木夫婦の「いかにも老人」な演技が気になって気になって、ひょっとすると壁の向こう側では芝居らしきものが進行していたのかもしれないけれども、僕にはその壁の向こうが見えない。一体どう観ればよいのか?

作者はプログラムの中で、「俳優はある人物を演じる以前に、報告者としての立場を守らねばならない」と書き、「母語を外国語のように聞きたい」と書く。
そこに当てはめて舞台の上で発せられる言葉に耳を傾けると、どうやら、次のように思えてくる。

俳優達は、一つ一つの言葉に対して浮かぶイメージを慈しみ、それが充分に一言一言にこもるように台詞を発することを求められている、のではないか?
そのことで、言葉の持つ「歴史」を示そうとしているのではないか?
従って、作者の要求その一、「報告者の立場」は、当初から逸脱されている。どちらかといえばワイドショーのレポーターである。下世話だとか下品と か言っているのではない。報告者としての立場を忘れ、「自分の歴史・ものの見方」を露骨にある事象に嵌めこんで、そこに疑問を加えぬまま発信する態度のこ とである。

そして第二に、「母語を外国語のように」発信するには2つの通り道があるはずで、一つは、母語としてのコンテクストとなりかねないものを徹底的に 剥ぎ取るパス。もう一つは、個人としてのコンテクストに徹底的に拘ることで、聞き手が母語として認識するものとの差異を浮き立たせるパス。
この演出では、後者を選択し、しかもそこで、「差異」について自覚的でない、つまり、徹底的に個人に拘ったものが「聞き手にも共有しうる」と、かなり楽観的に信じている気配がした。

そういうことばかり考えて観ていた。

一つだけ。実は、「老夫婦」は記憶を辿る存在としての、「若い2人」は現在に目を向けるレンズとしての役割を、アプリオリに期待してしまうのだけ れど、芝居の中ほどで、どうも、老夫婦こそが現在を生き、過去を忘れ、その一方で若い2人が過去に囚われ、前に進まない、というねじれが起きているような 感覚に襲われた。それが、やはり松田氏の書く「都市であると同時に廃墟であることの二重写し」であるならば、その効果は少なくともそこはかとなく、発揮さ れていた、ということは言えるのだろう。他の演出でも見てみたい。もっと剥ぎ取っていく演出で。

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