13/10/2007 ソワレ
最近のオヤジのマナーの悪さ、特に団塊に年齢の近いスーツ通勤組のマナーが目に余るのは衆目の一致するところで、「最近の若い者は」という割には自分が見えてねぇじゃねぇかぐぉらぁっ、と思うことも毎日なのだが。
アゴラでそういうことがあるとさすがにへこむ。初っ端暗転、しーんとした中で、オヤジの欠伸「くぁーーーっ」だと。何様だよ。前の方では「決まっ て静かなシーンで」独り言いうやつ、靴を脱いだり履いたり。で、ラスト近く、静かなところで又もや「くぁーーっ」だよ。お前、通の歌舞伎通いかよ。だまっ とれこら。
傍若無人なオヤジが「おしゃべりおばさん」より性質が悪いのは、きっと、おばさん連が単に「分かってない」のと比べて、オヤジどもは、「自分は 他よりも分かっているし、何も言われない権利がある」と思っていることだ。始末に終えないよ。あ、いや、こないだのどっかの文藝誌でも、性別問わず、全く 始末に終えない奴が一人なんかいっとったなぁ。他の観客の迷惑になることも自分がやるのは当然の権利、みたいな。そういう、他の観客の気持ちに想像力の働 かない「自分ファシズム」な奴が芝居観て、どこに想像力を働かせ、何を楽しむのかね。一体。
と、長くなったが、この、満塁鳥王一座、「対観客の語り」と「舞台上の登場人物間の会話」をできるだけシームレスに組み合わせることで、新しい時間の流し方を模索している、と観た。
「模索」というのはまだ必ずしも上手くいっていないからである。「舞台上の会話」では、リアルタイムでコミュニケーションとるので、1秒は1秒 だ。基本的に。一方で、対観客語りモードでは、5秒使って「10年経ちました」と言えば、10年経ってしまうのである。恐るべき技だ。
この技を最近一番過激に使ったのは、ハイバイの岩井秀人氏で、開演前のアナウンスで、「志賀君は60歳の外見ですが実は18歳で、一年に3年ずつ歳をとっていますからよろしく」
と、説明台詞を使うと5分、使わないと20分要する設定を、1分で説明しきり、一部オヤジ客の不興を買っていたわけである。
満塁鳥王一座は岩井氏ほど不埒ではなく、あくまでも芝居中でのモード切替に拘っていたが、じゃあ、「語りモード」ですっ飛ばすシーンと、「会話 モード」でリアルタイム進行するシーンを比べてみた時に、まだまだ、「会話シーン」の中で、「折角モードを使い分けるなら、こんなところもとばしてくださ いよー」とお願いしたくなるシーンがいくつもあった。これが、戯曲の「拙い」部分である。クサくて観てられない絶叫シーンとかは、「語り」を使ってバンバ ン飛ばしてよい。その代り、もっとたわいが無いといわれそうな、でも、是非除いてみたい部分をぎゅぎゅっと意地悪にピックアップしてほしいのだ。
あと、下山事件とか、そういう戦後史のことが分かっていてほしいのか、そうでないのか。オイディプスとのリンクはそれはそれでよいけれど、何とな く測りかねるところもあったかな。作・演出がもうちょっと物語や役者・観客に対して意地悪になって、語りと演技の並存で出来る空間を、もう1つうえの階層 にいる作・演出がコントロールしている感じになると、観る楽しさもひとしおなんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか?
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