24/06/2007 マチネ
まさに、1時間半弱の時間を「切り取って」舞台に載せて観客に提示する、その間の時間の流し方も苦しいくらいに丁寧で、切り取られたフレームの外にあるものをこれまた苦しいくらいに表に出すまいと封じ込めながら進行する、いわゆる「静かな芝居」の王道のような芝居。
役者もクサくない、受付は総和服で圧倒的に美しい、舞台美術も(エレベーターで入場なんてアゴラでは始めてだ)気が利いていると思ったら鴉屋だった、途中出場の福士史麻の美しさに文字通り息を呑む、ということで、表立って異を唱える要素はないのだけれど。
でも、この芝居の「透明さ」「洗練」「潔癖さ」が、もう一つ、僕には居心地が悪かったのだ。
言い方を変えると、「視線の逃げ場が無くて困った」のだ。
も一つ言い方を変えると、この透明感、SN比の高い、dbxでノイズリダクションされちゃったような舞台に、本当に、戸惑ってしまったのだ。
青年団だったら古館寛治の足を見るとか、松井周の独り言を聞きつけるとか、10分間台詞がなくて所在無い役者の身体の揺れを見つけるとか、そうい う「ノイズ」の発見の場が満載である。で、青年団はそうした状況にキーになる台詞を紛れ込ませたりして、SN比を意図的に下げている。
唐組の芝居は、装置から音楽から客席から役者の靴に付いた泥から顎を伝って滴り落ちる汗まで、そういう余計なものがやっぱりてんこ盛りである。40年前のカセットテープのようなSN比の低さである。
チェルフィッチュは、身振りや口調の「ノイズ」をデフォルメすることで、SN比を意図的に下げている。
もちろん、それらは計算されていたりされて無かったりするのだけれど、無論、究極のところは、人間の生身の身体がバックグラウンドとして放射せざるを得ないノイズからは逃れようが無い。
で、ポかリン記憶舎の芝居は、そうしたノイズに、ギリギリのところまで抗っているとの印象を与えて、それが居心地が悪かったのだ。
その、こズルさのない、もしかすると100%真っ当な、ギリギリまでの潔癖さに対して、僕はどう申し開きが出来るものなのか、そればかり考えてしまったのだ。
ひょっとすると、今回の芝居はモチーフがモチーフであるだけにこうなったのか?いずれにせよ、また観たい劇団です。
小難しいこと色々書いたが、一番嬉しかったのは桜井昭子さんが舞台で観れたことかな。二番目に嬉しかったのは青年団では決して見れない福士史麻、収穫。
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